カテゴリー:「4.スタッフ便り」


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葉加瀬太郞さんとオーラ

 

171018_001.jpgバイオリニスト葉加瀬太郞さんのコンサートに行って参りました。楽器と身体が一体化したかの演奏に引き込まれた3時間。また葉加瀬さんといえば、サービス精神の塊のようなトークも人気で、毎年これを楽しみに参戦する方もいるとかいないとか。終演後の握手会では気さくに言葉まで交わしてくださって、私はもう感激してしまい……。



いけません、このままでは単なるファンの日記です。ここは「ブログ禅」なのでした。


171018_002.jpgさてこの夜、巷でよくいわれる「オーラ」のような、ハッとさせられる存在感を葉加瀬太郞さんから感じたのですが、すれ違ったお坊様を思わず振り返ってしまうこともよくあるのです。この正体は一体何なのかしらと、常々考えております。

例えば葉加瀬さんでいえば、今回4カ月全48本の公演。週に3日は舞台がある計算です。世界を股にかける方のバイタリティといってしまえばそれまでなのですが、華やかな舞台の裏は、なかなかハードな生活なのではと拝察します。なによりずっと作品を生み出し続けなければならない人生というのは、並大抵ではないはず。ですが、そういうことはいっさい表に出されないのですね。



171018_003.jpgまた、毎日を生き切るというと大袈裟でしょうか。決して日々をルーティンワークとされない生き方(お寺の日常とも共通するのでは)も、大きな要因ではないかと思います。私が伺った日は12公演目でしたが、すでに同じ演目を11回も終えられていることなど微塵も感じさせない新鮮なパフォーマンスでした。

本当に不思議ですが、人生に対する姿勢はやはり良くも悪くも滲み出てしまうもので、それが「オーラ」なのかなと。思わず振り返ってしまうような方には、お立場に関わらずそのような共通点があるような気がしています。

自分が担当する業務には「企画」という作業も含まれるのですが、0から1を作り続けることのなんと難しいことか。なかなか人間365日順調とはいかないのもので、少し行き詰まりを感じていたところ良いタイミングで刺激をいただきました。今日もがんばりましょう!

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エンペドクレスの「隻履」


禅宗の開祖である達磨大師は敵対者に毒を盛られて死去し、熊耳山に葬られた。三年の後、宋雲という人物が西域へ赴いた際、パミール高原で片方のくつ(隻履/せきり)のみを携えて独り歩む達磨と出会った。「どこに行かれる」と驚き問う宋雲に対して、達磨は「天竺に帰るのだ」と答えたという。宋雲から報告を受けた皇帝は達磨の棺を調べさせた。すると中は空っぽで、片方の鞋のみが残されていたという。

よく知られる「隻履達磨」の故事だ。中国に残された履については、達磨が中国にもたらした禅の教えの象徴だと、一応は言えるだろう。立つ鳥跡を濁さずで、足跡を残さないこと(没蹤跡/もっしょうせき)を貴ぶ禅宗であるが、さすがの達磨も東方の人々のために敢えて足跡の一班を置き土産としていった、というところであろうか。

東方の聖者達磨に対して、西方の賢者である古代ギリシアの哲学者エンペドクレスにも、よく知られた「片方の靴」に関する伝説がある。エンペドクレスは四元素説を唱えた人物として著名だが、その死の一説について、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』には、次のように記されている。

「エンペドクレスは起き上がってから、アイトナ(火山)の方へ向かって旅立って行ったのであり、そして噴火口のところまでたどり着くと、その中へ飛び込んで姿を消したが、それは、神になったという自分についての噂を確実なものにしたいと望んでのことであったという。しかし後になって、事の真実は知られることになった。というのも、彼が履いていた靴の片方が焔で吹き上げられたからであるが、それは彼が青銅製の靴を履くのを習慣にしていたからだというのである」(加来彰俊訳、岩波文庫下巻66頁)

古代ギリシアには、英雄は生きながら天に引き上げられて神になる、という考えがあったらしい。その代表がヘラクレスだが、「神になったと信じられたい」というエンペドクレスの願望は、彼自身の「片方の靴」によって打ち砕かれたというのである。

0619_fujita.jpg達磨やエンペドクレスに限らず、その身を隠して後に靴を残すというモチーフは、神話や伝説の中によく見られる。そういえば、かのシンデレラも、真夜中の鐘に慌ててガラスの靴を落として帰り、その靴がカギとなって王子に見出される。こうした「片方の靴」については、精神分析や神話学の方面からも様々な解釈が出来るだろう。

そもそも履き物とは、左右が揃って始めて用をなすものである。あまたの神話伝説が我々に問いかける「隻履」の用とは、いずこにあるのだろうか。白隠禅師の「隻手」ではないが、そんな「隻履」の意味をあれこれ考えるも面白い。

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特別展「雪村-奇想の誕生」

 

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東京芸術大学大学美術館において特別展「雪村-奇想の誕生」が開催されています。 戦国時代の画僧、雪村周継(せっそんしゅうけい)の主要作品約100件と関連作品約30件で構成される大回顧展で、弊所所蔵の「蕪図」(下の写真参照)も出品されています。 雪村の生涯は未だ謎に包まれていますが、その作風は、伊藤若冲、歌川国芳など「奇想の画家」と呼ばれる絵師たちの先駆けと位置づけられ、今まさに注目すべき画家といえます。

会期は5月21日(日)までです。この機会にぜひご来場ください。

なお同展は、8月1日(火)より9月3日(日)までMIHO MUSEUM(滋賀県)でも開催されます。

 

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「蕪図」(雪村筆/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

 

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4月だというのに手帳がない

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新年度が始まりましたが、今年はここに至るまで手帳を買いそびれたままです。

気に入ったものを探しつつ、間に合わせのつもりで某百貨店のノベルティを使っていましたが、「もうこれでいいか」という気になってきました。

「これでいいか」というと語弊がありそうですが、使用に何の支障もない。いや、むしろたっぷりの余白は、書き散らかし型の自分にとってありがたいくらい。どのページもパタンと180度開きますし、硬めの表紙のお陰で台が無い場所でも書きやすく、また裏移りしない紙もノンストレスです!(さらには栞紐つき)

……いいこと尽くめではありませんか。間に合わせのつもりが、後からどんどん良いところが見えてきたというわけです。こんなに素晴らしい製品なのに、「所詮ノベルティ」という先入観にとらわれていたのですね。勿体ない話です。だいたい、何の根拠があって「所詮」なのかと。そんな自分も恥ずかしい。

同時にハタと思いました。「これって、持ち物に限ったことではないかもしれないなあ」。人生は選択と判断の連続とはいいますが、自分の勝手な思い込みで目の前にある素敵な物事を見逃さないようにしたいと、あらためて手帳を眺めています。

 

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謎の兵馬俑

通勤してきて研究所に着く直前、花園大学西門ヨコのフェンス内には、少し暖かくなってくると野草が咲いたり、梅雨頃には紫陽花が咲いたりするので、春になって暖かくなってきたので何か咲いていないかなと目を配るようになった春先のこと、ある日、そこに兵馬俑(へいばよう)が立っていたのです。

一瞬何が立っているんだろうと目を疑いましたが、紛い無く兵馬俑1体なのです。誰が置いたのかなぁと思っていましたが、つい先日、この兵馬俑が、研究所の通用口横に立っているではありませんか。

ちなみに、兵馬俑とは、古代中国で死者の墓に副葬される人形(武士俑)や馬(軍馬俑)で、秦始皇帝陵博物館の兵馬俑坑が有名ですね。中国で出土した武士俑や軍馬俑は等身大ですが、通用口に立っているのはもちろんミニチュアです。

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まさか歩きはしませんが、誰がここに動かしたのかなと思い、こういうことの好きそうな某スタッフに尋ねたところ、自分はやっていないし、不思議に思っていたというのです。

事実はすぐにわかりました。別の若いスタッフが、棚卸しや倉庫整理をし、廃棄品置き場にいったところ、兵馬俑がゴミと一緒に横たわっていたのを見つけたので、拾ってもどり、通用口ヨコに置いたのだと。フェンス横にあった兵馬俑を、おそらく大学の清掃担当の誰かがゴミにしようとしてしまったようなのですね。

中国で出土された兵馬俑はみんな東を向いて立っているそうですが、うちの兵馬俑は西を向いて立っています。というわけで、意味は違いますが、研究所を護ってくれているみたいになりました。ちょっとお地蔵さんみたいですが。

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謹賀新年

 

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「鶏模様袱紗」(江戸時代/東京国立博物館蔵)

新年あけましておめでとうございます。新春は如何お過ごしでしょうか。
今年は酉年。禅文化研究所には以前から酉年の人が多く私のしる限り、退職した方も含めて6人が酉年生まれ。今年還暦を迎える人もおります。酉年生まれはバタバタと慌ただしいとか申しますが、さてどうでしょうね。

さて、研究所は本日より業務開始となります。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 

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2016年最後の締めくくり

 

_MG_0718.jpgいよいよ押し詰まってまいりました。

禅文化研究所は、本日(26日)までお仕事させていただきますが、本日午前10時までにいただきました書籍その他のご注文は年内にお届けできるように手配し、それ以降のご注文は来年6日より順次お送りさせていただきます。
12月27日より、1月5日まで、年末年始の休業とさせていただきますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

さて、今年は私たちにとっては臨済禅師1150年・白隠禅師250年の遠諱で明け暮れたというところです。
来年、全国4ヶ所での白隠シンポジウムを残していますが、スタッフにはそろそろ、いわゆる「遠諱ロスト」な傾向が見え始めています。

皆さんにとっては、どんな一年だったでしょうか。
グローバルになり世界でのいろいろな情報が時事伝わってきますし、また国内においてもいろいろ考えさせられることが頻発しています。
来年こそは、少しでもいい年になればと思います。

皆さんもどうぞよいお年をお迎え下さい。ではまた来年もよろしくお願いします。

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坊さんはなぜ頭をそるのか?

小生が京都に来た時に常宿(じょうやど)にしている、ある宗門経営のホテル(旅館)がある。

ちなみに、ホテルと旅館との区別はなく、経営者が任意に選んでいいらしい。古風さを出したければ旅館、新しさを出したければホテル。そういった具合らしい。

そのホテルにチェックインしようとしてフロントに行った。

「ハイ、○○さまですね」「ハイ、そうです」と、一通りの手続きが終わると、その受付の男性(僧侶ではなかった。僧侶の時もある)が、二つの小さなカゴを少し押し出して言った、「カミソリとヘアブラシは部屋に置いておりませんので、ここでお持ち下さい」と。

小生は坊主なので髪の毛がない。
「カミソリはもらいますが、ヘアブラシは……」と、苦笑いを浮かべた。すると、その男性も、苦笑いを浮かべた。少しコッケイであったが、何だか楽しかった。宗門経営のホテルといっても、小生が見る限り、宿泊者は、ほとんど普通の旅行者である。なにしろ、費用が安い。その男性も、日常の言葉がつい出てしまったのだろう。

気にも止めなかったが、なぜ、坊さんは髪の毛をそるのだろう。神様がせっかく防御具として与えて下さったものなのに。戒律を記した経典には、半月に一度そりなさいとある。その理由は、諸縁を断ち切ることであるらしい。

 

160728.jpg臨済禅師・白隠禅師遠諱記念報恩接心より


修行道場にいる雲水は、四九日(しくにち)、毎月、4と9とがつく日に頭をそることになっており、諸縁を断ち切って、仏道修行に専念する。

しかし、古い中国の坊さんたちの肖像画を見ると、有髪、それも長髪の人が多い。これは、どういうことだ。もはや諸縁を断ち切っているから、剃髪(ていはつ)はいらないということか?

日本の仏教者は、現実社会のなかで活動し、仏法、慈悲、小欲を説いている。当然、妻もおれば、なまぐさも食べる。しかし、小生は、日本の仏教は、究極的な宗教の形態だと思っている。

そこで、なぜ髪の毛をそるのかと改めて考えた。えらそうなことは言えないが、現実社会のなかで活動していても、自分は僧侶なのだという自覚を忘れないため、人々につくすために生きているのだということを忘れないため、言葉は悪いが、髪の毛をそるというのは、一種のタトゥーではないのかと。

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ツバメの子育て

 

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近くのスーパーの監視カメラの上にツバメが巣をかけて子育てをしていた。小さめの巣に、3羽の雛が頭を並べているのが見える。

以前は私の家にも毎年ツバメが飛来していたことを思い出し、買い物に行くたびに彼らの巣を覗くことが習慣となった。そのうち体が巣からはみ出るほど成長し、いつのまにか姿は見えなくなった。無事に巣立ったのならいいが、厳しい世の中なので、どうなったかはわからない。

考えてみれば、こんな街中で、巣の材料の泥はどこから運んで来るのだろうか。そもそも、餌は充分採れるのだろうか。おそらく随分遠くから運んで来るのだろうが、そうした苦労は並大抵ではないだろう。
彼らの営みはごく自然な、本能的なものに過ぎないのかも知れない。しかし、条件の悪い場所で懸命に子育てをする彼らの姿を見ていると、様々な感慨が胸に去来するのを禁じ得ない。

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美しいものにしか......


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富士は私の母なる山であり、富士山によって育てられたと言っても過言ではないと思う。
そのために、美しいものにしか惹かれないという欠点を持っているが、「物の形」と言うものを、はじめて体験させてくれたのも富士山なのだから、今さらそんな贅沢をいってみてもはじまるまい。
「母なる富士」白洲正子

 

幼少時代、樺山家(白洲さんの旧姓です)の御殿場の別荘から、毎日富士山を観て過ごした白洲正子さんの言。
少なからず日本人の美意識は、この類い希なる姿形の美しさを持つ御山によるところが大きいように思えます。

東に赴く新幹線に乗る楽しみといえば、富士山を拝める事と、日本の山々の稜線の美しさを堪能できるところです。


*禅文化研究所・サンガセミナー ご参加お待ち申し上げております。

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「山と仲良しになった」 -鈴木大拙先生のおことば-

 

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登山に成功したら「山と仲良しになった」と何故言わないのか。征服するべき対象を探し求めるのは自然にたいする東洋的態度ではない。われわれは富士にも登るが、その目的は富士を「征服する」のではなくて、富士の美麗、壮大、孤高に打たれるにある。 
(『続 禅と東洋文化』鈴木大拙 より)



本年は、海外に向けて仏教や日本文化、そして何よりも“禅”を伝えられた鈴木大拙先生の没後50年の年にあたります。

個人的にも、秘書であった岡村美穂子先生にお目に掛かる機会が度々あったりと、大拙先生のおことばに触れる機会に恵まれており、時代が変われど褪せる事のないその御教えに、改めて感じ入っております。

昨今日本を揺るがす自然災害ですが、同時に自然とは我々に計り知れない恵みをももたらしてくれることを、日本人はちゃんと知っています。
では、どのように付き合ってゆくのか。

自然とのつき合い方、自身との向き合い方、日本人としての在り方のヒントが多々、大拙先生のお言葉にはちりばめられています。
どれだけ時代が変われど、それらは普遍的な人類の遺産ともいうべき智慧であります。

私自身、今一度それらに触れる機会を持とうと意識しているこの頃です。


*金沢市にあります鈴木大拙館では、「没後50年記念特別展」が開催されます。
ポスターにある「O wonderful」は、「それはそれとして…」と共に、私の最も好きなお軸の一つで、訪れるのが楽しみです。皆さまも是非!


『相貌と風貌-鈴木大拙写真集』

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花まつり

おはようございます。

さて皆さま、大変です。
忙しくしているうちに(これは単に私の事情ですが)花まつりの日がもう明日に迫っておりました。

クリスマスは、その本来の過ごし方はいずこへ……ですが恐らく、この日がイエス様のお誕生日だという事はどなたでもご存知かと思います。
お釈迦様のお誕生日は、その日を知る人すら少ないのではないでしょうか。それもどうかと思ったわけです。

160407.jpgということで、とうとう昨年から、木彫をしている友人に誕生仏を彫ってもらい、一人で花まつり(お釈迦様の誕生祝)をはじめました。

私の誕生仏を見て、同じものが欲しいという友人がいたり、一緒に花まつりをしてくれる友人がいたりと、なかなかに嬉しい事がありました。
昨年のブログでご紹介しましたステンドグラス作家の友人が制作した仏足ステンドグラスは、なんとその後我が家に送られてきて感激したものです。
今年もさらにお釈迦様の誕生を祝ってくれる友人が少しですが増えそうです。

苦しんだり迷ったりした時期に、仏教関連以外の様々な本を読んで過ごした事がありましたが、「あぁ、結局はお釈迦様が全て、ほんとうのところを仰ってくださっているんだな、禅の祖師方もそうだ。私はどこへ行っていたんだろう」と改めて気がつきました。
今となっては、他の世界を見てきて戻ってくると、より一層強くなるのだなという事を知りましたので、良い経験だったと思っております。

160407-2.jpgルンビニの菩提樹(2000年2月)

お釈迦様の時代も今も、人々の悩みはさほど変わっていないとよく言われますし、私もそう思います。

天上天下唯我独尊

本来の自己を生きる尊さをお示しになられたお釈迦様のお誕生日、今年も有難くその日をお祝いしたいと思っています。

皆さまもいかがでしょうか?
4月8日や、その前後の土日には、お寺さんでも花まつりが。
参拝可能な寺院
(リンクは鎌倉円覚寺さん)もありますので、お近くのご寺院をお調べの上、ご参拝なさってみてください。

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おはようございます。


160322-2.jpg皆さまおはようございます。
本日より通常通り、ブログを再開させていただこうと思います。

さて、このお彼岸中、京都では大学の卒業式が多かったのか、まだ着慣れぬスーツ姿の男子学生に、袴や振り袖姿の女子学生を多くお見かけしました。
梅・桃・桜に雪柳と、大地いっぱいに満ち満ちてきた春が、晴れやかなその姿にエールを送っているかのようでした。

当たり前のように毎日眺めていた景色も、「もう今後見る事は無いのだな、ここに通う事はないのだな」と意識した途端に、まったく違って見えたりして、如何に毎日意識をせず暮らしていたのかを知る事となります。

そう思うと、人間は必ず、誰一人間違い無く、死を迎えます。
死を意識すれば、毎日のかけがえの無さに気付かざるを得なくなります。
「必ずや死ぬ」という事を、忘れてはいないかなぁ……と改めて自分に問うたお彼岸でした。

 
160322.jpg禅の世界では、祖師方が口をすっぱくされ、大慈悲をひっさげて、本来の自己とは何であるかをみつめ、究明せよ、この限りある命を精一杯生き、一瞬一瞬に生きよ。と叱咤激励してくださっています。
とんでもない親切な御教えなのだなぁ…と思うわけです。

やはり、かけがえのないこの教えの近くにいる事は、人生で間違いの無い選択の一つだなぁ…と思いながら、今朝の雲一つ無い空を見上げました。

さて、本日より遠諱記念企画・スペシャルリレーの受付が始まっております(こちらよりどうぞ)。
ご来場、心よりお待ち申し上げております。宜しくお願い致します。

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『如々来 止止庵、梶谷宗忍禅師の足跡』

相国僧堂に通う居士であった、大学時代のゼミの教授宅へ。

学生時代には、その当時のお話などはほとんど拝聴する機会も無く(キリスト教系の学校でした)、巡り巡って、不思議な御縁で私が禅文化研究所に勤めるようになってから、梶谷宗忍老師(相国寺派第6代管長)のお話、僧堂での出来事などを話してくださるようになりました。

「老師の前へゆくと、全てを見透かされているようで、もはや何も話せず、ただただお天気の話や雑談くらいしかできませんでした」。

とはいえ、そんな若かりし頃の一時期が、今の先生を先生たらしめているのだな……とも思うのです。
話はできずとも(ほんとうは色々となさっていたのかもしれませんが)、老師から受け取られたものを、確かに私に伝えてくださっています。

160222-1.jpg卒業後も毎月のようにゼミを開催させていただき、何度もお宅にお邪魔しているのに、先日初めて、『如々来 止止庵、梶谷宗忍禅師の足跡』という、老師のご生涯を描いたビデオを見せてくださいました。
縁側でお茶を点てる老師と、それをいただこうとされている若かりし頃の我が師。嬉しくてテレビ画面を写真に写してしまいました…。

160222-2.jpg一般企業に勤めていた私が、「会社をやめて、先生のお若い頃のように、京都でお坊さんのところへ通ったりお話したりするような生活がしたい」と相談したのを、一番に応援してくれたおかげで、今の私があります。
大学卒業後に、まさか禅の話や僧堂の話をしようとは、師も私も、想像だにしなかった事です。

時代を感じさせる映像を拝見しながら、改めて御縁の不思議、妙を感じるのでした。

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しあわせのど真ん中

160202.jpgなかなかにままならぬ、大変な身の上を話す友人にひとこと。

「しあわせのど真ん中です」。

 

なんだか私までハッとし、スッキリ清々しく有難いと思うのでした。
これだから「やはり禅僧が好きだなぁ……」といつも思ってしまいます。

 

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建水とカダイ

皆さまおはようございます。実は、昨年12月の事ですが、ある発見をしてしまいました。

インドが大好きでこの夏に3度目の渡印をしましたが、さらに大好きになってしまい、インド料理を本格的に学び始めました。
何故今まで気付かなかったのか……と思うのですが、インドでカレーを入れる器、“カダイ”。
自宅でインド料理を作り友人をもてなそうとしました時、器をあれこれ用意していてふと…。

160115-1.jpg「こ、これは建水ではないか……」。

*建水 茶道で使う道具。茶碗を温めたり清めたりする為に使った水を捨てる為に使います。
左が私の建水、右がカレーを入れる器、カダイです。

160115-2.jpg江戸時代より、インドから更紗などが渡ってきていましたが、もしやカダイなども一緒にやってきて、当時の茶人が「これは建水に良いではないか」と見立てて使い始めた事をきっかけに、この形が作られるようになったのでしょうか…。

色々調べるも詳しい事はわからないのですが、想像してロマン掻き立てられてしまいました。このあたりご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教授くださいませ。

茶道具には、元をたどると他国で意外な使われ方をしているものがあり、茶の湯の道は、精神的な面のみならず、お道具の世界にも、いくら学んでも発見と驚きと感動があります。

どちらかというと、型があり、決まり事が多いおカタイ世界だと思われがちですが、もちろんそのような面がありつつも、それにがんじがらめになるわけではなく、自由で柔軟な発想と心さえ失わなければ、このような見立ての粋に遊べる世界なのだと思います。

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禅とは

とある和尚様にお目にかかると、何故かいつも私は、以前研究所の先輩がブログにて書いた“我(が)がゆるむ”という状態になるのでしょうか。普段親友にも話さない事をお話し、最後には号泣していたりします。
和尚様はただただ聴いてくださって、一言、二言、ぽつ、ぽつとお言葉を返してくださいます。

151116.jpg先日は畑から採ってきて洗ったばかりの春菊としいたけを、「持って帰りなさい」とだけ言って手渡してくださいました。
春菊を持った時の、葉っぱがきゅっきゅと音をたて、はちきれんばかりの新鮮な感覚。待ちきれずそのまま一枚ちぎって口へと運ぶと、さくっと音がして、塩味が来た後に、甘みが。そしてあの独特の香りが広がり滋味深く。

自宅へ帰り、シンプルに調理して食べ出すと、なぜだか判らぬままにホロホロと涙が。最後にはえんえんと泣きながらいただいていました。
お野菜が、まったくそのまんま和尚様だったのでした。
私が肩肘張って、身を固くして抱え込んでいたものが、一気に崩壊した瞬間でした。

1から10まで懇切丁寧に言葉で説き聞かせるわけではない、その在り方をもって人に気付かせてくださる。
気付くまで待つ。なんと慈悲深く尊い事でしょう。じっと待つ方はさぞかしもどかしい事と思います。

泣き止んで、「はぁ…禅ってこういう事なのか」と思ったのでした。

修行もしていない在家の者が突然「禅とは」などと、壮大なテーマを掲げたわけですが、うちの所長が『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』に書いているように、「禅はどこにでも転がっている」。

「禅とは○○である」と言葉では語れませんが、日々のくらしの中で、ぽつぽつと、こういう機会が訪れます。
皆さまの周りにも転がっているのだと思います。


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地球交響曲 ガイアシンフォニー第8番上映会のおしらせ

これまで幾度かこちらのブログ(下記です)でもご紹介させていただいております地球交響曲-ガイアシンフォニー

ガイアシンフォニー・地球交響曲第7番

呼吸と空

サーフィンと禅

 

150902-1.jpg私の場合、大学生時代のゼミの授業で教授から紹介され、ゼミ生皆で観たのが最初だったと記憶しています。
その後、観る度に、自身にベストなタイミングで必要な情報を与えられているようで、忘れては思い出し、思い出してはまたDVDを観てみたり・・・を繰り返しては、いつも目から鱗。感動が毛穴という毛穴から噴出するような思いを抱いています。

いつも我々人間の傲慢さに警鐘を鳴らし、気づきを与えてくれたガイアシンフォニー。東日本大震災を経て初めての作品に、またどのような気づきを与えてくれるのか、私も楽しみに伺う予定にしています。

さらにこの上映会、京田辺市にあります、シュタイナー学校で開催されます。我が大学のゼミの恩師の後輩が、「理想の学校が無いので創る!」と、創られた学校。お邪魔するのは初めてですので、それも楽しみにしています。

お申込み・詳細はこちら

 

今回は“樹”がテーマ。私も、いつも私が頼りにし、心の拠り所としているイチョウの大木があります。龍村監督のおことばを下記に転載させていただいておきます。

150902-2.jpgこの地球に初めて生命が誕生して38億年。生命は何度も絶滅の危機に瀕しながら、その都度奇跡のように甦り、新たなる進化を遂げ、私達人類は今、こ こにいます。宇宙は、自らが生んだ生命を“可能な限り永く生かせ続けたい”という意志を持っている様にさえ思えます。この“宇宙の意志 (Universal mind)”を地球上で体現しているといえるのが“樹”です。
樹は何億年にも渡って大気中の酸素濃度を21%に保ち続け、絶滅と進化を繰り返してきた多様な生命を生かし続けてくれたのです。
世界の全ての文化の中に、樹令数百年の老大樹には、精霊が秘んでいるという言い伝えがあります。「樹の精霊」とは、「宇宙の意志」の顕われなのかも知れません。

私達日本人の中には遥か縄文の昔から1万年近くに渡って聴き続けて来た樹の精霊の歌声が、かすかな残響波となって今も響き続けています。
東日本大震災から4年、真の復活を遂げる為に私達日本人は今、なにに気付き、何をなさなければならないのか!
「樹の精霊の声、すなわち宇宙の声を聴く力を甦えらせなければならない」と気付いた日本人達がいます。地球交響曲「第八番」では、この人々の想いと活動を世界に向かって発信します。

地球の未来の全ての生命が健やかに、末永く生き続けることを願って。   龍村仁

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岸野承 こころ・かたち


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おはようございます。
友人の展覧会のごあんないをさせてください。
以前こちらでもご紹介させていただきましたが、私の誕生仏を彫ってくれた友人の展覧会が東京で開催されます。

とき :6月5日(金)~14日(日)
場所 :うつわや(代々木上原駅徒歩4分)
作家在廊日:6月5日~8日

 

彼の父上は水墨画家で、無文老師に付き3年雲水修行をなさった方。
彼もまた禅寺に通っていたり、寺社の古材や流木などを用いてそこから感じるものを彫り出したりと、なんだかそこここに禅が転がっているような感じを受ける一家、そして作品なのです。
お時間ありましたら是非お運びください。


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研究所のお玄関


150520.jpgおはようございます。

研究所の玄関です。
二階には禅堂がありまして、学生さんたちがよく坐禅をされています。

大学の禅仏教教育センターによる“今日のことば”は、思想家・唐木順三先生の

「忘却は前進の秘訣である」

です。
岡本太郎先生の

ぼくは忘れるということを、素晴らしいことだと思っている。負け惜しみではなく、忘れるからこそ常に新鮮でいられるんだ」。

を思い出しました。
著作の中でもこの“忘れる”ということについて書かれた部分が度々出てきて、真っ白でいる、真っ白になる事の大切さを思わされます。
積み重ねてばかりいると、どうやらダメらしいのです。
本日は自戒をこめてのブログとなりました・・・・・・。


*実は季刊『禅文化』の39号には、岡本太郎氏より「生きる神秘」と題してご寄稿いただいています。品切れ絶版となっておりますので、再収録か、こちらでご紹介かしたいものだなと考えております。

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死ぬまで・・・


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「死ぬまで間に合います」。


先日ご一緒させていただいた和尚様の一言。

人間、ともすれば弱気になり、「もう○○歳だし・・・」「私にはそんな事はもう・・・」という言葉をよく口にしてしまうのではないでしょうか。
私はあえてそういった事は口に出さないように意識して生きていますが、それでもどこかにそういう気持ちがあったのでしょうか。
和尚様が確信を持って静かに、力強く仰った時に、「あぁ、生きていて良かったなぁ」と腹の底から思い、心がぱぁっと明るくなりました。

目から鱗の一言をいただき、明日への糧とします。

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その場の気が変わる・・・

私ごとですが、大親友が二冊目となる料理本を出版しましたので、お祝いも兼ねて記念会を主催してみました。
彼女のところ(窯元です)で作っている土鍋を使った料理を紹介する本ですので、皆さまを料理でもてなし、さらに彼女が自分の為に築いた新しい穴窯で作った作品などを展示させていただきました。

京都の町家(というよりも数寄屋建築の家ですね)を貸し切り、何も無かったその空間に、彼女の家から持ってきてもらった軸を床に飾り、彼女の作った水指に山から採ってきた枝を生け、敷板には春日大社の古材を用いました。

150507.jpgこの岸野魯直先生(山田無文老師について、3年間祥福僧堂で修行されていました)の水墨画、“笠置渓谷”の軸を掛けていて本紙が現れました時、まさに新緑の笠置渓谷、ご神体とされる笠置山、戦火により今や光背を残すのみの笠置寺の磨崖仏がぶわっと眼前に立ち現れる心地がし、いたく感動してしまいました。
摩訶不思議水墨画の世界。意識したかしないかのほんの一瞬の出来事です。

本来、軸の本紙(絵や字がある部分)に花や枝がかかる事は御法度ですが、新緑の笠置渓谷を思うとそんな事もどこへやら、写真のように生けていました。
私の中では、どこまでがお軸の中の緑、どこからがこちら側で実際に生けている緑なのかわからなくなっているという面白い体験でした。

いつぞや、敬愛する福森雅武先生が、「その場の空気が変わるくらいの花でなくてはいけないんだね。概念や形から入るんじゃないんです」と仰っていましたが、少しは場の気も変わりましたでしょうか。「本紙に掛かってはいけない」などと頭で考えていたら、このようには生けられなかったように思います。

今回このような事をしてみて、軸や花、器などによって、空間が生気を帯びてゆく様を体験し、誠に面白いものだなと感動しました。

家や部屋ですら、置いている物の気によってどんどんと表情を変えて生き生きとしてくるのですから、人間が日々、自身の身を置く場の大切さといえば言うまでもなく。
修行僧の為に夢窓国師が作られた庭、掃き清められた僧堂の清々しさを思い出すのでした。

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春のめぐみ

皆さまおはようございます。
改めまして、いつもご高覧いただき、ありがとうございます。

突然ですが、私には山菜の師匠がいます。山菜を採るところから、料理するに至るまで師匠と呼ぶに相応しい素晴らしい感覚の持ち主です。
彼女は、車を運転していても、タラの芽やわらび、こごみ、コシアブラなどの芽吹きに反応し、そして食べ頃か否かを瞬時に判断します。視力はものすごく悪いはずですのに、その感覚たるや、野生動物としか思えぬほどなのです。

150428-1.jpgその師匠について山菜を採り始めてはや3~4年。
都会育ちの私はこの季節、山菜にうつつを抜かすというような事は全く無いまま生きてきたはずが、自ら食すものを山に入って採る喜びや、その味を覚えた今や、春になると、師匠ほどではありませんが、うきうきと心浮かれ、もはや頭で考えるのみならず、身体が山菜を欲するようになりました。人間の感覚とは面白いものですね。

「山や野に囲まれた所で育った人には、色んな意味でかなわない・・・都会育ちの私には欠落している感覚が多すぎる」とずっと思って来ましたが、今まで経験が無かったからこその有難みをこの年齢になって噛みしめ、無かったからこその大きな発見もあります。

「何かを始めるのに、何歳だから遅いという事は無い」とよく言われますが、なかなか人間そんな言葉だけ聞いても信じられなかったりしますが、山菜採り一つをとっても、ほんとうにそうなのだな・・・と心から思うこの頃です。

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一ヶ月おまつりします -花まつり-


150420.jpg

おはようございます。
今年から花まつりを始めました事はご報告致しましたが(私は在家の職員です)、一ヶ月ほどおまつりしようと思っています。
装い新たに、古い建水を使って……。布はインドネシアの面白い模様の布です。

何よりも、仏様と向き合い、花を生けて綺麗におまつりしようと一心にお飾りしているそのひとときは、結局は自分の為になっているのだなぁ……と、新たな気づきも多い日々です。

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私の花まつり

おはようございます。
先日もブログに書きましたが、今年はとうとう、木彫をしている友人・岸野承氏にお願いし、誕生仏を誕生させてもらい、花祭り(お釈迦様の生誕をお祝いするお祭り)を執り行ないました(我流で)。

この誕生仏、水に沈むと言われている堅い木なんだそうです。私がお願いした時から、この木しかないと思っていたそうな。見た感じも目が詰まっているのがよくわかります。もちろん彼の作品を何度もよく見ていて知っていますし、信頼しているからこそお願いしましたが、想像以上に素晴らしく、とても気に入っています。

150409-1.jpg甘茶はかけられませんが、めいっぱいお花を飾らせていただき、お祝い致しました。
今年の花まつり、4月8日は、まずは友人知人から、このめでたき日を知って貰おうという活動を始めた記念すべき年となりました(一人での活動ですが…)。
さっそく、大分在住のステンドグラス作家の友人は、蓮のうてなに立たれるお釈迦様をイメージした仏足のステンドグラスを制作。仏像好きなご長男に以前プレゼントしていたという誕生仏をお飾りし、子どもさん達と花まつりをしてくれました!嬉しいことです。

150409-2.jpg天上天下 唯我独尊

「他の誰でもない、自己を探求し、本来の在り方、生を謳歌せよ」とお示しになられた約2500年前の御教えは、現代においても最先端だ!と、心から思えますし、仏教徒に限らず、どのような人にも響くものだと思います。
お釈迦様のお生まれになられた日にまた、心に刻み込む朝なのでした。

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そして、何よりも、その尊い仏さまの御教えである仏法を絶やすことなく受け継いでは伝えてくださった僧伽に感謝し、私も「仏法僧」に帰依してゆきたいと思います。


*この誕生仏を作ってくれた友人・岸野承氏が奈良で個展中です。4月12日(日)まで。
近鉄大和西大寺駅下車、南口より徒歩2分・K'sインターナショナル(奈良市西大寺芝町1-2-1)にて。

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もうすぐ花まつり


150406.jpgいよいよ4月8日は、花まつり(お釈迦様生誕のお祝い)です。

長年、「あぁ、私も自分の家でこのめでたき日をお祝いしたいなぁ……」と願ってきました。
昨年も用意ができずに悔やみ、「来年こそは絶対にするぞ」と決め、とうとう、友人で木彫をしている岸野承氏にお願いして、誕生仏を誕生させてもらいました。

と、これを書いていますのは、3日(金)ですのでまだ届いていませんが、明日届くようです。
心のうちでお祝いするのみでも充分なのですが、型や対象があると、気持ちが入りやすくなりますね。


なぜかクリスチャンの人口比率は少ないであろう日本において、クリスマスがあれだけ祝われ(それはそれで良いのですよもちろん)、信仰は別としても、その日がイエス・キリストの生誕の日である事は誰でも知っています。

それにひきかえ、4月8日の花まつり(灌仏会)はさほど広まってはおらず、ましてやお釈迦様生誕の日などとは知らぬ方も多いわけで…。
せめてこの日の事を知ってほしいと、まずは自身で花まつりをし、友人知人など自身の周りから広めるべく小さな行動に出る、そんな記念すべき年となる事をわくわくしている次第です。
木彫ですので甘茶はかけられませんが、そのあたりは説明しようと思います……。

*写真は先日仕事でお邪魔していた麟祥院さん(東京)。様々な椿を生けて、中央に誕生仏を!というのが私の理想ですが、なかなかこのように椿が集められませんので、昼の休憩時に妄想しつつ、落椿を集めていました。

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どこにもない世界


150402-1.jpgバリ
でもお世話になりました、世界的なキルト作家・染織家の秦泉寺由子さん
彼女の比叡平にあるギャラリーにて、ガラス作家・荒川尚也さんの展示会をするとのことで、「お炭をしにきてー」とお声がかかりお邪魔してきました。
彼女のギャラリーには、○○風だとか、○○スタイルという決まり切った形とは全く無縁の、彼女の世界そのものがあります。
「人間、本来の自己を生きれば、みんな一人一人違って当たり前なのだから、誰も同じようなスタイルにはならぬはずだな・・・」と思い起こさせてくれる彼女だけの世界が広がっています。

お茶室も彼女のデザインで作られたものがありますので、「まぁおそらくお茶会でもするのかな?!」と、よくわからないままにお邪魔しましたら、このようなお席が。

150402-2.jpg炭も、「何流もなく適当で良い」とのことでしたが、ご用意いただいていた炭をのこぎりで切り(お茶で使う炭は、綺麗に切って売っている物もありますが、自分で切って洗って使うものもあるのです)、できる限り忠実に組んでおきました(枝炭無しスタイルですが)。

「○○風や、○○スタイル」に凝り固まる事はどうかと思う私ですが、やはり先人たちが長年かかって作り上げた型というものはどうしたって尊いもの。無駄なく美しく、順番に炭に火がついていこってゆき、釜の水がよく煮えるように考え抜かれているからです。
釜を据えれば見えないのですが、そういう問題でもありません。見えない所は掃除しなくて良いわけではないのと同じです。
“気”はごまかせないものです。

150402-3.jpg展覧会は4月5日(日)まで。写真で見ていただいても恐らくこの空間の素晴らしさは充分に伝わりません。
是非お運びいただき、感じてみてください。

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装丁(1)

最近、本の装丁というものに興味津々なのですが、そのきっかけとなった一冊がこちらです。

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『正法眼藏註解全書』(正法眼藏註解全書刊行会/昭和31年)

菩提樹の下にお釈迦様。二匹の象の表情にご注目ください。これだけで、お釈迦様がいかに素晴らしい方なのかがよくよく伝わってくる気がしませんか。

背表紙です。もちろん箔押し。

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見返しも凝っていまして……。これは『ジャータカ』でしょうか?虎の前に横たわるお釈迦様など描かれています。1点1点、絵柄が違うんですよ。

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そして、ずいぶん後から気付いたのですが、なんと四天王がデザインされた「メモ」のページまでありました!(ページ合わせだとしても芸術的です)

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本はもちろん内容が大切ですが、いわば舞台装置のような装丁の力も大きなものですね。弊所書庫に収蔵されている文献資料は、約37,000点。まだまだ素敵な装丁の本と出会えそうです。またご紹介させていただければと思いますので、宜しくお願い致します。

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仏涅槃会



150213.jpg今週末、2月15日の日曜日は、仏涅槃会です。
1月最後のサンガセミナーにて、涅槃図お絵解き講座を開催させていただきましたが、その際におこしいただきました和尚様方は、日曜日に何をお話になられるだろう?! 一般在家の参加者の方達は、どちらかで涅槃図に遭遇するだろうか…などと考えています。

私はまさにアーナンダの気持ちで過ごす事となりそうですが、それでも、お釈迦様が入滅されてこの方、仏法が途絶える事なく続いているという事実を思えば、めでたくも思える日であります。

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節分会

 


150205-1.jpg節分に立春に満月、いろんな事がかさなり、春を迎える準備も一歩ずつ。
より一層「あぁ、今年を迎えたのだな」という気持ちが強まって参りました。

150205-2.jpg私ごとですが近年、節分の日には、通勤道にありますだるま寺さん(妙心寺派法輪寺)にお仕事後、参拝させていただいております。今年も多くの方達で賑わっていました。

毎年の節目節目に決まった行事があるというのは、自身の気持ちや身体にとってもリズムを刻む事になり、良い事だなと思っています。
門前で毎年恵方巻を売っているおばあちゃん、今年もお元気そうで何よりでした。

150205-3.jpg研究所には、どなたが持ってきて下さったのか必ず豆がスタンバイ。
さすがに豆まきはいたしませんが、茶礼の際にいただきました。有難い事でした。

 

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「京の禅寺」が特集されています

 

150204.jpg京阪沿線にお住まいの皆さま、京阪電車の機関誌『K PRESS』をご存じでしょうか?

鉄道会社の機関誌ですから、あくまで「沿線情報」という括りの中で、毎号、趣向を凝らした企画が目白押し。フリーペーパーなのに読み応えがあり、私は毎月発行を楽しみにしています。

最新の2月号では、京都の禅寺が1ページで特集されていました!キーワードを元に、禅についてまとめられています。専門的には「ちょっと違うぞ」という説明もあるのかもしれませんが、

何より一般の人が「へえ、禅についてもっと知りたいなあ」「お寺を訪ねてみようかな」と、興味を持ってくださるきっかけになるんじゃないかなという内容です。

ご遠方の方は、便利な電子版でどうぞ。

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矛盾を編集する力 -西田幾多郎と鈴木大拙-


150127.jpgご案内をいただきましたので、皆さまにもご紹介しておきます。
私も個人的にサイトを楽しみに拝読させていただいている、松岡正剛先生を講師とし、「矛盾を編集する力」という講演会が、学習院大学・目白キャンパスにて開催されるようです。
ご関心ある方は是非おでかけになってみてください。

日時:平成27年2月28日(土)開場12:30/13:00~15:30
場所:学習院大学 目白キャンパス(東京都豊島区目白1―5―1)
講師:松岡正剛(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長
演題:矛盾を編集する力―西田幾多郎と鈴木大拙―
特別展示 12:00~17:00(北2号館1階史料館展示室)
料金: 全て無料
申込:「学習院大学の申し込みフォーム」より

ちなみに、季刊『禅文化』237号では、西田幾多郎没後70年並びに、鈴木大拙50回忌の特集を組む予定としております。お楽しみに!

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あらためまして...

おはようございます。
昨日は所長より新年の御挨拶をさせていただきましたが、あらためまして、本年も宜しくお願い致します。

昨日より通常業務を開始致しておりまして、お休み中にいただきました書籍のご注文なども順に発送させていただいておりますので、いましばらくお待ちくださいませ。

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さて、お正月、京都では例年に無い雪景色となりまして、未だ寒さで雪が残っている屋根やお庭もちらほら。
京都御苑を訪れてみますと、「こ、こんな大きな枝が!!!」というような枝が折れて落ちているのでした。
吹きっさらしの断崖絶壁などに生えている松は強いはずですが、やはり雅な所に生えている松は弱いのだな…などと思ったり。人間も同じですね。

150107-2.jpg大好きな銀杏の大木は全く折れた枝も無く、一安心。友人に話しますと、銀杏はまな板にもよく使われるし、水気に強いんじゃないか?!との由。
確かに、寺社によく植えられるのも、水気を含んでいて火事の時に火消し役となりうるとの事でしたね。

150107-3.jpgちなみに、私の大好きなこのあたりのふかふか落ち葉。雨くらいではびくともしませんが、さすがに雪がつもり下敷きになってしまうと、ぺったんこに……。

人々に様々な思いを残していった、お正月の雪模様でした。

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『仏教では「心」をどうとらえてきたか』


141023-1.jpg過ごしやすい季節になりましたね。秋といえば、芸術、食欲、スポーツに読書といろいろありますが、学びの秋もいかがですか。

来たる11月8日(土)、京都大学人文科学研究所にて実施される公開講座のごあんないです。

夏目漱石の『こころ』発表100年に際して、古典に描かれた心を再考するという企画だそうで、季刊『禅文化』の人気連載「禅宗語録入門読本」でおなじみの小川隆先生(駒澤大学)も登壇されます(14:30頃予定)。

さて、仏教では「心」をどうとらえてきたのでしょうか。

予約不要、聴講無料とのこと。ぜひお運び下さい。

141023-2.jpg

*詳細は画像をクリックするか、こちらからどうぞ*  
京都大学人文科学研究所

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秋の夜長に考えていること


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私は酷い肩こりです。何をしていても、鉛のように重い肩や背中のことが意識から離れないというのが、常態になってしまっていました。

昔の故障や骨格など仕方ないこともあるのでしょうが、運動不足を含めて生活習慣にも心当たりは山ほどありましたので……。

このたび一念発起して完全治癒を目指している次第です。

といっても、いきなり食生活をガラッと変えたりストイックな運動習慣を生活に組み込むような極端なことをしたところで、おそらく続きません。

そこで弊所発行『プチうつ禅セラピー』、ならびに季刊『禅文化』に連載中の「和尚さんの身体講座」を参考に、就寝前を利用して少しずつ骨格改善に取り組んでおります。

……始めてまだ三週間なのですが、最近あることに気がつきました。

多少は肋骨が開き、息が大きく吸えるようになってきたせいでしょうか。心まで晴れ晴れとする実感があります。逆に、緊張する問題に直面した時には身体が一気に固まるという感覚も分かりました。

心が先か身体が先か。自分的にはどちらでも構わないのですが、このつながりを感じることが最近とても面白いです。

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光象展 -於:国際奈良学セミナーハウス(旧世尊院)-


140910-1.jpg三度目になりますでしょうか。昨年も、一昨年もこちらでご案内させていただいております、奈良にて開催されます光象展(こうしょうてん)。

季刊『禅文化』の取材でお世話になった方々が出展なさるご縁もあり、毎年お邪魔させていただいております。
毎年縁ある者が集い、“ものづくり”や、“今の自分はどうであるのか”など、哲学的なことについて激論が交わされたりもする、とんでもなく楽しい場となっています(これは私がものづくりをして作品を発表していない為、的になる事がない為に楽しいと思えるだけかもしれませんが・・・・・・)。

140910-2.jpg茶の湯を稽古していますと、同じ先生に形を習っているはずですのに、皆それぞれに個性というものが良くも悪しくも出てきます。その人の人生の様々が、どうしたって、まぎれもなく点前に出てくるのです。不思議なようで当たり前のことかもしれません。
彼らが作る作品もそうなのだと思います。いつもとても興味深く、私は学ばせていただくばかりです。
作品一つで常に評価され、今の自分を見られてしまう、とても厳しい世界にいるのだなぁ・・・・・・とひしひし感じ、尊敬しています。
是非みなさま、彼らの今をご覧にいらしてくださいませ。
よろしくお願い致します。

140910-3.jpg昨年のようす


*詳細は写真をクリックしていただくと大きくなって見えますので、そちらをご覧ください。

 

 

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世界の「禅グッズ」

禅ブームという言葉を聞いて久しい気がいたしますが、世界では、さまざまな「禅グッズ」が作られているようです。

140905-1.jpg禅の庭をイメージしたスニーカー

140905-2.jpg禅をテーマに選定されたというケアアイテム

140905-3.jpgこれは、某高級チョコレート専門店の限定商品

140905-4.jpg何故かバンカーを石庭に見立てて

突っ込みどころ満載な商品もありますが、とにかくZENは「癒やし」「心身の安定」「多幸感」などを象徴する言葉のような印象を持たれているのかなと思います。

……と、壮大な前振りはここまでにさせて頂きまして。


ただいま弊所でも、所蔵の禅画をモチーフにしたオリジナルグッズをあれこれと企画中です。作品の尊厳は崩さないよう、それでいて日常使いしやすい商品にと、一同工夫を重ねております。

紅葉が色付くまでには、このブログでもご案内させていただく予定ですので、どうぞ宜しくお願い致します!

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おもいやり

自宅近くの中学校。交通量の多いバス通りに面して建つ街の学校ですが、通行人の目を楽しませるために様々な設えが施されています。

たとえばこんなものなど。

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生徒さん達の手作りの庭。据えられた石の数はちがうけれど、垣根の形から、龍安寺のお庭でしょうか?砂紋も引いてあります!

ほかに色々とお楽しみがありまして、グラウンドの植物に解説プレート(通行人へのサービス?なので、学校側からは見えません!)、ベンチ風に整えられた部分には、「どうぞお座りください」のメッセージなどなど……。

特に南側の道などは第二次大戦の空襲対策で拡幅されたもので、やや殺風景ともいえる実用的な通りなのです。でも、「この学校のお陰でとても安らぎのあるエリアになっているなあ」と歩くたびに思う私。ちょっとした心遣いなど、教わることの多い散歩道です。

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お見苦しい写真で失礼致します

 

140716.jpgこれは約2年前、引越しを目前に控えた我が家の写真。

前の家には約7年住まいましたが、それでも荷物は少ないと自負していた私(掃除機も無くて、ご覧の通りシュロ箒です)。なのに、いざ梱包してみると、こんなに積み上がってしまったダンボールに愕然としてしまったことが思い出されます。

9年前に親元を出た時、おおかたの物は処分してダンボール数箱の荷物で新生活を始めたはずなのにと衝撃でした。身軽なつもりでいても、知らず知らずに色々なものをため込んでしまうものなのですね。ものすごく陳腐なことを書いているような気がしますが、それでも「持たずにいることの難しさ」を改めて考えてしまうこの写真、ずっと削除できずにおります。

そして、当分引越しは結構です(笑)

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猩々筆記


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昔むかし、中国に猩々という、人間によく似た動物がおった。
猩々は、それはそれはお酒が好物で、そのうえ、人間がはいている靴にめっぽうあこがれていた。
そんな猩々なのだが、その毛はたいそう立派で、人間は、その毛で筆を作るのが自慢であった。
そこで人間は、猩々があらわれそうな所に酒を置いてつかまえようとする。猩々は何人かで山をおりてきて酒をみつける。かしこい方の猩々は、

「これは人間がしかけたワナだ」

と言って注意するが、あまりかしこくない方の猩々たちは、

「ちょっとなめるぐらいならよかんべ」

と、ひとなめしてしまう。そうすると、ひとなめがふたなめ、ふたなめからはみさかいなく呑んでしまい、もうヘベレケになってしまう。

「おお、ここに靴があるぞ」

と、あこがれの靴をはいたのはいいものの、すぐにスッテンコロンと引っ繰り返ってしまい、そのはてには酔いつぶれて寝てしまう。

しめしめと、人間は猩々の毛を刈り取って、最高級品の筆にしてしまうのであるが、猩々の命まではとらない。それは、猩々がなんともにくめなく、可愛らしいからである。
酔いから覚めた猩々は、まるはだかで山に帰って行く。

そして、筆掛けにつるされた猩々が、となりの猩々に言うのだ、

「もう酒は呑まんとこうな」と。

そんな猩々に、私はなりたい。

〈職員による創作物語です〉

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季節のめぐみ 蓴菜

自然と共にあるようなくらし・・・。野菜やお米も自分たちで作り、秋にはきのこ、春には山菜を採り、冬には近くの猟師さんが鹿や猪の肉を。
都会育ちの私には全く無かった季節のめぐみをいただく感動を、土楽さんからいつもお裾分けいただいているわけであります。

140627-1.jpgそしてなんと梅雨のこの季節には、土楽さんの池で蓴菜が採れるのだとか。そもそも私はあの蓴菜というものの正体が何なのかを知ったのも、お恥ずかしながら最近です。
スイレン科の水生植物の新芽なわけですね。

140627-2.jpg採りたてをお裾分けいただきました。瓶詰めの物などとは鮮度が違う為、コリコリしていてなんともいえぬ食感です。お酢と醤油で、あとは一味をふりかけるだけ。素材が最高であれば、料亭で出されるものにも引けを取りませんでした。
あまり耳にした事はありませんが、境内に池があるお寺さんでも、蓴菜採りをされるのでしょうか・・・・・・。

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和紙切り絵・田中道男「おおきに 独・ケルン!」展

 

140606-1.jpg本日は、個展のお知らせです。

季刊『禅文化』扉の切り絵をご担当いただいている作家・田中道男さんの個展が開催中。お仕事で赴かれたドイツ・ケルンの風景を、素敵な切り絵にして展観されています。

140606-2.jpg田中さんの切り絵は、幾重にも重ねた和紙で織りなす微妙な色と、素材の繊細さを生かして作られる陰影がとても印象的なのです。平面なのに立体的、絵なのに動きがあって、いつも自分が絵の世界に入り込んだような錯覚に陥ります。

『禅文化』にはモノクロで作品を掲載しているのですが、「本当はこの美しい色の世界に浸っていただきないな~」「現物を見て素材感を味わっていただきたいな~」と思っていました。

開期が短いのですが、お近くの方は是非お運びください!

【おおきに 独・ケルン】展
開期◆開催中~6月8日(日)
時間◆11:00~17:00
会場◆ギャラリー アートメモリー


※作品画像は、ご本人の許可を得て掲載させていただきました

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別れと始まりの日


140331.jpg3月最終日。別れの季節。
本日、我々の大切な大切な仲間が一人、長きに亘る職務を全うし、研究所を去ります。

誰からも慕われ、彼女の部屋が人生相談室と化す事もしばしば。常に明るくほがらかで、多くの人がコントロールできない“機嫌”、“本来の自分ではないもの”など、とっくの昔に手放してしまったかのような様子からは、学ぶことばかりの日々でした。

言うまでもなく、禅の世界にも精通し、禅僧や研究者の先生方からも心からの信頼を得ていました。
私自身、まるでアイドルの事を話すかのように老師のお話で一緒に盛り上がったり、人生ままならぬ時など、どれだけ助けていただいたか知れません。

「人は呼吸が深くできてさえいれば、たいがいの事は乗り越えられるものなのよ」。

いつもこの言葉を思い出します。
まるで灯火が消えるかのような寂しさを皆が抱いていますが、これまでのキャリアがこれからまたどう生かされ、花咲くのか、今後の活躍を願ってやみません。
お疲れ様でした!!!!!

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元禅文化研究所所長 山田宗敏和尚七回忌法要

 

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昨日、禅文化研究所の元所長の山田宗敏和尚の七回忌法要が勤修され、一休さんの住まわれていたことで知られる大徳寺塔頭真珠庵へ、現所長以下4名が法要に出頭してきました。
大徳寺派管長嶺雲室高田明浦老大師、永源寺派管長槐安窟道前慈明老大師をはじめ山内塔頭の和尚方や我々のような有縁の和尚方約50名、ご親戚や有縁の在家の方も約50名参列され、現真珠庵和尚を導師に楞厳呪一巻を行道してお唱えし、報恩謝徳のご回向がなされました。
私は臨済宗妙心寺派の僧侶ですので、大徳寺派とは同じ臨済宗でも近い派ではあるのですが、楞厳呪の挙経の節回しや、行道の仕方も少し異なったり、妙心寺派では回向のあとに出頭している和尚全員で三拝をしたりするのですが、それがなかったりで、派によってこうも違うのだなぁと実感しました。

赤膳にのった精進料理をいただく斎座の時も出頭衣そのままで食べるというのも、妙心寺派ではしないので、汁をこぼして法衣を汚さないようにと、意外に気をつかう斎会となりました。

山田宗敏元所長は、大正9年岐阜県に生まれられ、妙心寺僧堂にて修行されました。
花園大学卒、龍谷大学文学部卒の後、学徒動員で出征を経て、昭和26年大徳寺塔頭真珠庵住職となられました。大徳寺派宗務総長を経て、平成6年4月より禅文化研究所所長に就任、平成11年3月までお世話になりました。
平成20年3月25日に遷化されたのがついこの前のことのようです。著書に、「禅at大徳寺」(講談社、共著)、「大徳寺と禅」(淡交社、共著)、「資料 大徳寺の歴史」(毎日新聞社)、「大徳寺と一休」(禅文化研究所)などがあります。

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春のおとずれ

140317-1.jpg古都奈良に春を告げるお水取り。東大寺で行なわれる十一面観音悔過の行も先週終わりましたね。いよいよ春がやってきます。

奈良がお水取りなれば、私の実家があります兵庫県では、春を告げるのはいかなごの釘煮であります。
他府県の方からすれば驚きでしょうが、新鮮さが命、しかも日に日にいかなごは大きくなってしまいますので、時間との勝負です。毎日スーパーに届けられるいかなごを予約し、炊いては買いに走りを繰り返します。釘煮作りに没頭するお母さんが続出するこの時期ならではの風物詩、伝統行事とも言える、“いかなごの釘煮炊き”なのです。

140317-2.jpg特別な寺社で行なわれる大層なものなどでは決してありませんが、各家庭にて季節の恵みを大いに感じ、受け取る、これも一つ、兵庫県民にとっては列記とした春を告げる行事なのです。

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神戸の街を訪れて

140305-1.jpg最近、温暖化による環境の変化で自然災害の話題がメディア等で多く放映されています。
先日、神戸に行く予定があったので時間の合間に神戸港のメリケンパークにある阪神大震災のメモリアルパークに行ってきました。
神戸のお洒落な町並みからは想像もできない爪痕がそのまま残っていて、あらためて震災の恐ろしさと共に復興の喜びを感じました。
そこから眺めた景色と周りの整った景色のギャップには、とても違和感がありました。
ただ、あれだけ賑わいをみせた神戸港も震災直後はその面影もみられませんが、前後際断すればそのままの、震災前に訪れたことのある神戸の港だったというのが率直な感想でした。
過去を振り返ることはもちろん大切なことです。その瞬間に多くの方も亡くなられました。
しかし、そこに立ったときに、思いを巡らせることも大切ですが、生きている限りその瞬間を生き抜くことこそが被災者への慰霊になるのではないかと、景色の懸隔からそんなメッセージを受け取ったような感覚を覚えました。

もうすぐ東日本大震災から3年が経ちますが、今後このような大災害が起こらないことを祈り、日々の生活を大切にしていきたいものです。

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13歳のハローワーク

 

140304.jpg小さい頃に想像した「将来の自分」と「現在の自分」、重なる部分はどれくらいありますか。

少し前の話になりますが、今年の「小学生の人気職業ランキング」が話題となっていました。というのも37位が、なんと「シャーマン」だというのです。

「村上龍 13歳のハローワーク」

残念ながら(?)「僧侶」は圏外です。とはいえ、宗教に興味を持つ小学生が、「アナウンサー」や「パイロット」に憧れる人数より多いとは!?

……なんて。

実際には、アンケートを取ったわけではなくて、アクセス数などを元にしたランキングだそうですね。

それにしても色々なお仕事があるものです。在家出身のお坊さまとお話すると、意外な経歴をお持ちだったりで驚くこともしばしば。法の道を歩まれることになったきっかけなど、機会があればぜひ伺ってみたいです。

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銀世界


140218.jpg銀世界、、、と美しい呼び方で喜んでいられるうちは良いのですが・・・。
テレビを見ないもので、各地の状況をツイッターやFacebookで確認し、驚きの週明けでした。
今なお困難な状況にいらっしゃる方達の為、ご無事で少しでも早く日々の生活に戻られる事を祈ります。

京都は土曜日の朝には雪もとけ、いつもの生活と変わらず・・・が、お隣滋賀県へゆけば、畑や土の地面が多い分、そこは一気に銀世界。感覚の違いを味わい、さらに山奥へとゆけば、普通の靴では歩けないほどに・・・。自然の事を思えば、人間はなんてちっぽけな存在だろうと改めて思う休日でした。

 

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土楽窯・福森雅武 花の会

 

140127.jpg取材では何度もお世話になっております、伊賀は土楽窯の福森雅武先生の花の会が、岐阜県で開催されます。
以前開催された時の事は、季刊『禅文化』でもご紹介させていただきました後、ブログでもご紹介しました。

実際に花を生けられるのを直に拝見する機会はなかなか無いかと思います。とらわれのない、自然と一体となった花をご覧になりたい方は是非どうぞ。

詳しい情報はこちらから。

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トムさんの自家製ブレッド

 

140120.jpg「今日はアラビアータを作ろう、美味しいパンが必要だ・・・」と思っていたある日のこと。

なんと、『禅僧になったアメリカ人』の著者、トムさんことトーマス・カーシュナ師から、自家製パンが届き、お裾分けいただきました!
このパン、なんちゃって自家製ではなく、なんとトムさんが自ら小麦を育てて実りを収穫、自家製粉し、焼いたパンなのです。さすが禅僧、この徹底ぶりは半端無いです。

友人たちの中にも、家で畑をしたり、天然酵母でパンを焼く人たちがいて、いつも尊敬のまなざしでしたが、さすがに小麦から育ててパンを焼く人は・・・・・・。

帰ってさっそくこんがり焼いてパスタのお供に。
小麦がフレッシュだと、香りも全然違います。全粒粉のパンは好んで食べるほど好きではなかったのですが、その美味しさに感激しました。

トムさんは畑の肥料から自分で作る畑名人。最近はレモンの木を畑に植えていました。無農薬レモンが収穫され、それで作られた何かが届く日を楽しみに待っている私です。

さて、そんなトムさんの半生を書いた『禅僧になったアメリカ人』は、苦悩や葛藤多き人生から、禅の修行から、トムさんが得たものを私たちに分かちあってくださるような本です。
静かな感動と、腹の底からふつふつとわき上がってくるような力が与えられる事は、読んだ者にしかわかりません。
是非ともオススメしたい本なのです!

140120-1.jpg『禅僧になったアメリカ人』より
トムさんの挿絵がまた素晴らしいのです!

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お正月の形

 

130107-1.jpg皆さまこんにちは。
本年もブログ禅をどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今年のお正月はどのようにお過ごしになられましたか。
昔ながらに家族で祝われる方、元日よりお仕事の方、お正月だからといって特に普段と変わらぬ方、その過ごし方は一昔前よりも多種多様に変化している事と存じます。

変化といえば、注連縄やお飾りをしない家も昔より確実に増えました。
“形(かた)”が無くなってくるというのは、おおげさかもしれませんが、日本人の精神生活の危機のようにも思えます。
汚れている所に歳神様は来てはくれまい・・・と大掃除をし、神様のよりしろとなるものをお飾りし、一年の自身を顧みつつ、清浄な家屋と心にて、まるで全てが清らかに新しく改まるかのように思える新年を待ち、迎える。
何もせずともそのような清々しい気持ちで新年を迎える事が、はたしてできますでしょうか。豪華にせねばならぬわけではありません、質素とケチとは違います。
神仏も祖先も、形をもって祀り、祈ることによってこそ、より認識できてくるように思えます。私は目に見えぬ事をあらわすという事は大切な事と考えています。

130107-2.jpgそんなこんなで、実家の正月の在り方(おせちやお飾りなど)から、改めて家の事を知り、学び、それによって自分の事を知り、考える・・・という機会を持った元日でした。
“決まった形がある”という事は、非常に有り難い事で、迷いを遠ざけますね。

注連縄を飾る家が少なくなったからこそ、より一層強く意識した出来事でした。
ハレとケの境目の無いぼんやりした日常、ぼんやりした日本にならぬよう祈るばかりです。

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デンマーク・森のようちえん ~Skovbørnehave i Danmark*~

 

131225.jpgこども達が一日の大半を森の中で、自然から様々な学びを得て、一人の人間としての“個”を尊重されて過ごす。
そんな、"森のようちえん"発祥の地・デンマークにて、一年間の学びの時を経て帰国された久木麻亜矢(ひさき・まあや)さんのお話会にお邪魔してきました。

私の通っていた幼稚園といえば、行事が多く、お遊戯会やクリスマス会となれば、大きなコンサートホールを貸し切って催されました。子ども達はというと、その準備の為の練習時間が異様に長く、私は何だかいつも不安で、安心してのびのび遊ぶ・・・といったイメージからはほど遠い幼稚園生活を送り、行事の日には熱を出す事もしばしばでした・・・。
もちろん、それなりに楽しんでいた事もあるのですが、今思えば、あれはほんとうに子ども達の為になる事だったのだろうか、、、親や先生の満足の為のものではなかったか・・・と疑問を抱かざるをえません。

それぞれの個性もありますし、森のようちえんが誰にでも絶対に良いのだというわけではないのですが(私は今でも入園したいくらいですが!)、色んな選択肢が用意され、親が子どもの感覚を尊重し、幼稚園を選べる時代がくる事を願っています。

この日のお話会には、お子さんがいらっしゃる親御さんばかりが参加されていましたが、子どもがいなくとも(いえ、結婚すらしていませんが)、私にとっては、一人一人の人間の生き方の可能性を探る為の学びであったのと同時に、森のようちえんでのルールや、デンマークの人々の価値観など、日本のそれとは異なる文化に触れる貴重な学びの時間となりました。

 

久木さんは現在、様々な地へ赴いて、デンマークの森のようちえんについてのお話会などをなさりつつ、ようちえん開園に向けての準備をなさっています。

世の中には暗いニュースも蔓延していますが、一方では、子ども達の、日本の未来に向けてこのような明るい兆しを感じる活動も盛んになってきているように思える昨今。

パリでの花修行のみならず、京都の伝統文化の中にも身を置いた経験を持つ久木さんが、デンマークの森のようちえんの良い部分をを取り入れつつ、古来より四季の移ろいと共に生き、万物に神が宿ると信じ、自然を大切にしてきた日本人の感性を開花させられるような、そんなようちえんを誕生させてくれるを待ちわびています。
私としてはこのように、皆さんにお伝えしてゆく事、この活動を知っていただく事くらいしかできませんが、応援させていただきたいと思います。

デンマーク・森のようちえん  ~Skovbørnehave i Danmark*~
*写真は上記HPよりお借りしました

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毒湛老師、出雲へ 

 

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今回は、毒湛老師が、出雲の雲龍山城安寺という寺に行かれた時の漢詩です。

八雲立処神龍躍、任手斫開宝刃新。

読み下しますね。

八雲(やぐも)立つ処、神龍(じんりゆう)躍(おど)る、
手に任(まか)せて斫開(しやくかい)すれば、宝刃(ほうじん)新たなり。

これはもうヒントも不要でしょうが、さて、どんな場面を読んでおられるのでしょうか。

コメント欄にお答えいただきました方、先着3名様に弊社の禅語カレンダーをプレゼントさせていただきますす(後に住所をお伺いしますので、メールアドレスを必ずお書きください)。
前回は簡単すぎましたか?応募がいませんでした。職員一同がっかり。
コメントお待ち申し上げております!

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医師・早川一光先生 講義のご案内 -臨床僧の会・サーラ-

 

131218.jpg季刊『禅文化』230号にて特集させていただきました、“臨床僧”。私の友人などからも驚きの声と共に、素晴らしい活動だという声を聞くことができました。

「臨床僧の会・サーラ」は、僧侶が医療や福祉の現場に入って、患者さんやそのご家族、お年寄りや障がいをお持ちの方々のお世話をさせていただきながら、喜びや苦しみを共にし、いのちの安心(あんじん)を分かち合い、生老病死(しょうろうびょうし)の伴走者としての活動を続けています(公式HPより)。

そんな会において開催される勉強会などの最新情報を、ブログ禅でもご紹介させていただきたいと思っています。
今回は、日が近づいていますが、12月21日(土)に開催予定の「早川一光先生 講義 衣笠塾」についてです。

2013年12月21日(土)午後4時~
京都衣笠の先生の研究所にて開かれるとの事です。

テーマは「病・病気」について

参加希望、お問い合わせはこちらからどうぞ。


研究所のサンガセミナーにおいても、僧侶をはじめ、多くの方と接する機会があるお仕事に就いておられる方や、身近な人を癒やしたいという思いをお持ちの方に向けて、コンフォートハンドや色彩心理、ホメオパシーなどの講座ができないかと模索中です。僧侶はもちろん、一般の方にも参加していただけます。
また来年度の開催項目が決まりましたら、ご案内させていただきます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

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百尺の金鱗 正解は?!

 

131216.jpg

 

百尺金鱗躍搏天、騰光照射景陽巓。
百尺の金鱗(きんりん)、躍(おど)って天を搏(う)つ、光を騰(は)せて照射す、景陽の巓(いただ)き。

先週木曜日に出題しました問題の答えです。
簡単すぎましたか?! 名古屋城大天守の金の鯱(しゃちほこ)です。

ただし、鯱だとわかっただけでは、この漢文を理解するまでには到らないのです。もう一つふみこんで考えねばなりません。

「金鱗」は、「網を透るの金鱗」などと言われて、勝れた禅僧の喩えに使われますが、ここは、名古屋城の別名である金鱗城に引っ掛けて言われたものです。
それが分からないと、名古屋の「総見寺」と「金鱗」はまったく結びつかないのです。

禅録を読むには、仏典や祖録の教養が必要ですが、禅のお坊さんたちは、時々こういう引っ掛けをして下さいますから、後の者は困ってしまいます。ヤレヤレです。

次回は、出雲に行かれた時の偈頌から出題しますのでお楽しみに!

*画像はWikipediaよりお借りしました。

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百尺の金鱗

 

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職員自坊の花

小生、ただ今、『毒湛和尚語録(どくたんおしょうごろく)』という文献を読んでいます。
毒湛和尚は、明治期を代表する禅僧の一人です。
そこに、こんな偈頌(げじゅ・漢詩)があります。

 

百尺金鱗躍搏天、騰光照射景陽巓。

漢文のままだと、とても難しいので読み下します。

百尺の金鱗(きんりん)、躍(おど)って天を搏(う)つ、光を騰(は)せて照射す、景陽の巓(いただ)き。

「百尺の金鱗が躍り上がって天を打ち、光を発して景陽山の頂きを照らしている」という意味です。これは毒湛さんが、名古屋市の景陽山総見寺という寺に行かれた時の偈頌です。
そこで問題です。この「百尺の金鱗」は、具体的に何を言っているものでしょうか?
「具体的」という言葉でもうお分かりでしょう。特に名古屋に住んでおられるかたには簡単な問題です。

おわかりになられた方は、コメント欄にご記入ください!(ペンネームで結構です。メールアドレスは必ずご記入ください)。正解者の方(先着3名)には、研究所のカレンダーをプレゼントさせていただきます。

*正解は、来週月曜日に掲載させていただきます。

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いつかは・・・・・

 

131202.jpg風外慧薫「布袋」:奇品堂蔵

 

「私にはまだ男としての未来がある」と強く信じた老人は、何十年も連れ添った妻と離婚する。悲嘆に暮れた妻は自殺を計った挙げ句、占い師に心を預ける。夫婦の一人娘はキュレーターとしてギャラリーで働き、売れない作家の夫を養っている。日中暇な夫は、向かいのアパートの若い女性に心を奪われ昼食に誘う。精彩を欠いた夫に不満なキュレーターはギャラリーのボスに惹かれる。老妻と別れた老人は若いコールガールに恋をして妻に迎える・・・

鬼才ウディ・アレン(監督・脚本)の「恋のロンドン狂想曲」(原題:You will meet a tall dark stranger)を観た。陳腐な筋立てなのに、役者も脚本もピカ一だから、面白さは半端ない。大した事件も起こらないのに、本人たちの日々は七転八倒、だれもかれも心のなかは大変だ。ただ、透けて見えるのは、私自身も含めて、世界はこんな人たちで埋まっているんだなということだ。ありそうもないどころか、微に入り細にわたってどこにでもありそうな話なのだ。私たちはこんな日々を大真面目に「生きる」と称して送っている。映画を観て、「なんて愚かな・・・」と笑えるのは、この登場人物たちとの間にちょっとした距離があるからだ。つまりウディ・アレンの眼差しで人物たちを見ることができるからだ。

登場人物の誰もが、辛く、悲しく、切なく、寂しい。躓(つまず)きがあり、衰えがあり、老いがあり、それでもひたすら「愛のようなもの」を追いかけている。

原題のYou will meet a tall dark strangerは、占い師が夫と別れた老婦人に言う言葉。「いつか背の高い黒髪の男に会えますよ」。いつかいい人にきっと巡り会えますよという決まり文句だ。「いつかは・・・」これが万人の希望に繋がる唯一の道だ。

アレンは今年78歳。ヒットを連発した監督の「いつか・・・」とは何だろう。滑稽さと優しさと諧謔が秀逸の会話で綴られる監督の作品に通底するのは、いつだって人間存在の哀しさだ。「人はいつかは死を免れない」。いつか会えるという「背の高い黒髪の男」はもしかしたら「不可避の事実」の暗喩と言えなくもない。

そう思いをめぐらせると、正月に髑髏(されこうべ)を竹棒の先にさして、家々の門口を「ご用心、ご用心」と言って回ったという一休禅師の面白さと、” You will meet a tall dark stranger”とそっと知らせてくれるアレン監督の親切が、綯(な)い交ぜになって、作品のかなたにボオーッと浮かんでくるのである。

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秋の夜長にいっぷく

131118.jpg秋の夜長を一人楽しんでおります。


【棗】
11年ほど前にミャンマーの工房にて求めました。
タイやミャンマーなどでは、ビンロウの実に石灰をまぶして、キンマという植物の葉に包んで嚙む習慣があります(道ばたでそれをペッと吐いているのを見て、びっくりしたものです!)。その材料を漆器の入れ物に入れて客をもてなしました。
漆器は中国から伝わり、ミャンマーでも独自の文様が生まれ、さらにそれが日本へ伝わると茶人の間で珍重され、その塗りを上記の理由から、「キンマ」と呼びました。
そのキンマの元祖をミャンマーで求めたのがこの棗です。日本のように蓋がぴたっと合うほどに精巧には作られていませんが、何ともいえない味があります。
日本のような木地では無く、竹ひごを作ってからそれをしっかりと編み、それから轆轤で削り形を整えてから漆を塗り重ね、文様を彫っていくという工程なのです。工房では実際に作っている所が拝見でき、また、漆器美術館ではあまりに人がいなかった為館長さんがご案内してくれたのも良き思い出です。仏教遺跡を訪ねられる方は、是非ともミャンマーの漆の文化にも触れてみてください。

【茶碗】
丹波・二代目市野信水作
実家が兵庫の為、よく丹波の窯元には家族ででかけました。25歳の頃に一目惚れし、今は亡き父にねだって求めた茶碗です。堀内宗心宗匠のお箱書をいただいており、ご銘を、“謝茶”といいます。作家さんのお母様がこの茶碗の為に、古い丹波布で作ってくださったお仕覆がこれまた素晴らしいのです。

【茶杓】
禅僧であった祖父が毎日の一服に使っていた何でも無い茶杓です。ですが、何十年も毎日使われていた為、飴色になり、素晴らしい風合いです。お金では買えない価値がそこにはあります。

【茶】
石本川口軒 錦の森
お稽古場でいつもいただいているお茶と同じもの。非常に美味しいお薄です。

【菓子】
同僚からいただいた吹き寄せ。ご製は俵屋吉富。

【菓子器】
川合優作 蓮弁皿 薄くひいた檜で作られている使い捨てのお皿です。でも、まだ使うつもりです。お菓子の風情にとても合っていて一人ご満悦でした。

旅先で求めたもの、家にあるもの、私の元へ集まってきたもので楽しむ食後の一服は、わくわくするものです。日々のくらしに、わくわくをお忘れなく!

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きのこ狩り

131112-1.jpg皆さんおはようございます。

以前のブログで、できる限り自然の中に身を置きたいと宣言しましたが、今回はきのこ名人(採るのも判別も料理も)に付き従い、友人たちと山へ入りました。

目指すは松茸!!!だったのですが、名人に雑誌の撮影が入り、前日に全て採っていた為、我々素人にみつけられるはずも無く・・・。
それでも、アミタケなどたくさんのきのこ(地元の人は雑茸と呼び、食べないそうな)を収穫し、名人が前日に採った松茸のおこぼれにもあずかり、美味しく楽しい夕餉となったのでした。

131112-2.JPG山では、五観を研ぎ澄まし、しばし一人になって山との対話の時間・・・・・・。良いものですねぇ・・・。
北欧発祥の“森のようちえん”では、子供達は思い思いに森の中で時を過ごすようですが、一人になりたい子は、その子を尊重し、先生たちもお友達たちも放っておくそうな。
何かと、「皆と一緒にいなくてはダメ!」「戻りなさい!」「どこ行っているの?」とおしかりを受けてばかりだった記憶の残る幼稚園生活。
漸く大人になって、“森のようちえん”を楽しんでいます。
誰にでも、そんな時間はとても必要な気がしています。

さて、次はいつ自然の中に身をおいてみましょうか・・・・・・。

131112-3.jpgアミタケは茹でると鮮やかな色に!自然の色ですよ!

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季刊『禅文化』230号より 「生飯」と「玍苕帚」

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天龍寺派徳寿院の精進料理名人、山﨑紹耕和尚に、精進料理レシピと仏教にまつわる面白いお話を連載いただいています。

今回は、「生飯(さば)」と「玍苕帚(すいちょうそう)」。へー、ほー、そうなのかぁ~と、知識の幅が広がるようなお話です(すみません、詳しくは是非ともお読みになってみてください)。

家に帰り、上のお話を拝読しましたら、今度はレシピが気になり、無性に作りたくなって今回お教えいただいた、胡瓜のゴマ和えを作ってみました。うん、お寺で食べる精進料理のお味!美味しくできました。
しかし、シンプルなだけに、丁寧に作らないと美しくはできないな・・・という学びもありました。

 

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聞こえない音の話

131021-1.jpg『古事記』を題材にした舞台、『アマテラス』を鑑賞してきました。大音響で打ち鳴らされる和太鼓の迫力とアマテラスの神々しさに、観ているだけでカタルシスを得られたような。

ところでこの作品では、神話とはいえ仏教の法器もいろいろ使われていたことが興味深かったです。

たとえば禅宗でいうところの

131021-2.jpg鐃祓(にょうはち)

 

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引磬(いんきん)


などに近い形状のものや、

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チベットのシンキングボールも用いられていました。

 

法器の音やお経を聞くと何となく心が落ち着きますよね。これにはちゃんと根拠があって、ものすごく大ざっぱに書くと、こういうことのようです。

「音」の中には、人間が聞き取れない、あるいは聞き取りにくい周波数を持つものも存在します。法器は、そういう「聞こえにくいけど人間にとって心地良い音(倍音・ばいおん)」をたくさん発しているのだとか。僧侶の読経にも同じことがいえるそうです。

倍音の定義は長くなるので、ここでは割愛させてください。とにかく、ビィ~ン……と震える余韻などに多く存在する音といえば、何となくイメージしていただけますでしょうか。これらの音を浴びる「倍音浴」というリラクゼーションもあるようで、“観劇後の妙にスッキリした感覚”は、「む!倍音の効果もあったに違いない」と思ったりしています。お仏壇の前で「おりん」を鳴らされる時など、一度“聞こえない音”がもたらす精神的な癒やしも意識していただけると面白いかもしれません!


倍音については、こんな本もおすすめです。
『倍音 音・ことば・身体の文化誌』(中村明一・春秋社)

 

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山の花

131016.jpg自然界には不自然がありません。

お隣までは何キロか先・・・という山の中、大自然に囲まれた地に住まう長野の友人宅にお邪魔し、朝のさんぽで摘んだ草花です。
「あ、かわいいな・・・」と目にとまったものを、何も考えずに少し山から分けていただいただけなのに、それだけで完璧に美しい。
それもそのはず、この季節に、同じ山で育ったものを集めたのだから、不自然になるわけもないのです。
各地からやってくる花屋に並んだ花を、頭で考えてみて、「あの花とこの花を合わせよう」とまとめたのとは、わけが違うのですね。

福森雅武先生のように、山に入り木を切り花を摘み、床に生ける生活、長野の友人のような山の中での生活。憧れもしますが、私には私のくらしがあります。
都会に住み、家に飾る花はたいていお花屋さんでいただくしか無い日常であっても、賢人のくらしぶりに触れさせていただく事は、知らず知らずのうちに私に大きな影響を与えてくれています。
お花屋さんでの花選びも、何らか変化が出るかもしれませんね?!と、またまた頭で考えているうちはダメでしょうか。

いずれにせよ、最近私が気になる方、大好きで尊敬する方達は皆、職業や立場は違えども、“自然から学んでいらっしゃる”という共通点があります。私も都会育ちと雖も今からでも遅くはない!今以上に、意識的に自然の中へ入ってゆき、そこから学ばせていただくという機会を増やしてゆきたいと考え中です。

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神戸女学院岡田山キャンパス移転80周年記念シンポジウム

130930.jpg母校から案内が来ましたのでご紹介を。
「ヴォーリズ建築の魅力とメッセージ」と題して、神戸女学院岡田山キャンパスが移転80周年記念シンポジウムが開催されます。
在学中はもちろんのこと、卒業しても大学に戻る度に(卒業後も2ヶ月に1度、勉強会で訪れています)感動する美しいキャンパス
ヴォーリズがどのような思いでこの建築に携わったのか、多くの方に知っていただきたいです。

詳細は下記。

期日:2013年10月12日(土・創立記念日)
時間:13:00-17:30
場所:神戸女学院講堂

☆申込不要・無料。
☆自家用車でのご来場はご遠慮ください。タクシーでお越しになる場合は西門をご利用ください。
☆キャンパス内は全面禁煙となっております。あらかじめご了解ください。

 
プログラム
12:30 受付開始(講堂ロビー)
13:00 記念礼拝
80年前、ヴォーリズから岡田山キャンパスの献堂式に際して贈られた献堂讃美歌を歌います。
13:40 シンポジウム
「ヴォーリズ建築の魅力とメッセージ」

メインスピーカー   隈 研吾 氏 (建築家・東京大学教授)
パネリスト      山形 政昭 氏 (大阪芸術大学教授)
江戸 雪 氏 (歌人)
司会  飯 謙 神戸女学院大学 学長

16:00 見学会および茶話会
見学会監修  石田 忠範 氏 (石田忠範建築研究所代表)

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愛について

 

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瀬戸内晴美さんが出家して寂聴さんになられたとき、年を重ねるとそんな心境が訪れるものかと思った記憶がある。しかし、上野千鶴子さんが、「50歳になってみて、この年で出家した瀬戸内さんはすごい決断だったと思う」といったふうなことをどこかに書いておられたのを、自分が50歳になったときに思い出して、ひどく納得した。

瀬戸内さんは出家のとき、好きだった着物もさっと手放し、愛欲ともすっぱり手を切られた。至極当然なことにも思われるが、うじうじと詰まらないものに執着する私など、その思い切りの良さには、やはりアッパレという気持ちがわいてくる。

瀬戸内さんは、いっぱい恋をした人だ。恋のために、夫も幼い娘も捨てた。瀬戸内さんに書く才能がなければ、当時には珍しい奔放な女性という記憶が彼女を知るわずかの人たちに残ったに過ぎないだろう。しかし、瀬戸内さんは自らの来し方を、赤裸々に小説に描き、それが文学作品に昇華した。彼女の類まれな文才のなせる技だが、驚くほどの客観のまなざしを彼女が備えていたことも大きい。

「淡々と」という言葉をよく耳にするが、使っている人がほんとうに「淡々と」しているのを見ることは極めて稀だ。瀬戸内さんは「淡々と」なんてひっくりかえっても言わないが、彼女の私小説はきわめて「淡々と」している。つまりどろどろの瀬戸内さんがどこにもいないのだ。作家と呼ばれる人たちは、多かれ少なかれこの特性を備えた人たちなのだろうが、瀬戸内さんの場合、自分の両眼が1メートル前方から自分を見ているような感覚だったのだと思う

だから瀬戸内さんは、40代ですでに、「人の愛は、無償とみえ、無私をよそおうものほど自己愛の満足に過ぎない」と気づいたのだ。「母の愛は無償の愛」などと言われるが、突き詰めれば、「わが」子だからこその無償の愛であろう。このことに気づいた瀬戸内さんにとって、50歳の出家は遅きに失した感があったかもしれない。

お釈迦さまに遅れること21年。弥陀に深い憧れを抱いた瀬戸内さんは、恋人に駆け寄るがごとく、まっしぐらに仏門に入られた。以来、出家の寂聴師が、すぐ手の届くところにおられるような気がするのは、無私を装わない彼女の「慈愛」が、彼女を知らない私にも間違いなく注がれているという不思議な確信がわいてくるからかもしれない。


*写真 法隆寺 観音菩薩立像(百済観音) 
『週刊 古寺をゆく 法隆寺』小学館刊 より

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光象展 -奈良-

 

130902_kohsyo.jpg昨年もこちらで御案内させていただきました、-光象展-。

取材で何度もお世話になっている、伊賀は土楽窯の福森雅武先生道歩さんかみ添さんをはじめ、私の大好きな友人知人も何人か参加されます。

今年は昨年より更にパワーアップして、縁のあった多くの作家さんが集う会になるようです。

グループ展となると、だいたい普通は、似たような雰囲気の物を作る、似たような方達が集い、そのような雰囲気の展覧会をするのがごく一般的なのでしょうが、全くもってそうではないところが、面白いなぁ…と思いながら遠まきに見ています。

それでも御縁あった方達が集うのですから、混沌としているようでまとまったものになるのでしょうか。ベテランから若手まで様々な分野の物づくりの人たちが集うのもまた興味深く。

私なんぞは物づくりをしている者でもなく、出展するわけでもない為、ただただ楽しみにお邪魔しますが、若手の方々は胃が痛くなるかもしれませんね。
どんな叱咤激励が飛ぶのか、今から楽しみにしています(他人事のようですが、私もまたそこから学ばせていただくのです)。

当日は福森先生が花を生けられますし、しつらえなども楽しみにしていただけたらと思います。私も8日は会場におります(お手伝いしてますので遊びにいらしてください)。
どうぞよろしくお願い致します。



場所:国際奈良学セミナーハウス
日時:2013年9月6日(金)~8日(日)
10時~17時(最終日は16時まで)

〈陶磁〉
大杉康伸 岸野寛  清水志郎 辻村唯
福森雅武 福森道歩 細川護光 山中恵介

〈彩色/修復〉
廣戸一幸

〈木工〉
川合優

〈硝子〉
安土忠久 安土草多 安土天平 佐藤聡

〈紙〉
嘉戸浩

〈彫刻〉
岸野承

〈絵画〉
福井一 平川功 松村哲男

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夏の終わり

 

130902.jpg皆さまこんにちは。

あんなに暑すぎた夏でしたが、急に秋の気配ですね。
とはいうものの、いっぺんに秋が訪れるはずもなく、まだまだ残暑厳しい日が続くのでしょうが……。

8月中はお盆のお休みに加えまして、職員の出勤も不定期で、ご迷惑をおかけ致しました。
9月より、通常通りお仕事させていただいておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

本日の写真の一行は、第13回東西霊性交流にて、関空から旅立つ修行者たち。
今頃各修道院でキリスト教のおしえに基づく生活を、修道士・修道女の皆さんと共に体験していることでしょう。
また追ってご報告さえていただきます。
日程詳細はこちらからご確認ください。

 

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持たぬ幸せ

 

130823-1.jpg皆さまこんにちは。

この夏旅にでかけていたモロッコにて、とても印象的だったことばをご紹介します。

「石油がでないから、モロッコはそれが理由で他国から犯される事は無いから幸せです」。


持たぬ事の幸せ。持てば無くなる事を憂い、執着が生まれ、それにふりまわされます。

今回の旅は、エミレーツ航空利用で、トランジットはドバイでした。ドバイの空港の、それはそれは豪華で賑やかで綺麗なこと。17年前にもドバイトランジットを経験していますが、その時とはうって変わっていました。
“便利・綺麗”に慣れている日本人な私。それを喜ぶ自分も明らかにいたりして……。
考えさせられる一言となったのでした。

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お元気ですか、、、

 

130820.jpg世界で五番目の大きさを誇るカサブランカのハッサン2世モスク

皆様こんにちは。
信じ難いような暑い日々が続いておりますが、お変わりございませんか。

ブログ禅、長らくお休みいただいておりました。
まだこの先も8月は不定期更新が続きますが、ひとまず、お盆の職員一斉休暇は終了です。
一斉休暇期間にいただきましたご注文は、順次発送致しますのでいましばらくお待ち下さいませ。

さて、この時期、僧侶である職員は大忙し。暑い中をお参りご苦労様でした。
私はといいますと、私事で申し訳ないのですが(いつもですね)、この時期は海外にでかけさせてもらう事が多いのです。
今年はスペインとモロッコでした。

スペインは概ねどの地域も過ごしやすかったのですが、モロッコはさすがはアフリカ大陸。昼は40℃を余裕で超え、スーク(市場)にも地元モロッコ人はまばら。時間の無い観光客の方が多いくらいです。
夜になるとどこからこんなにも人が?!というほどに人人人!で賑わうのですが……。

そんなモロッコですが、とある青年にとても親切にしていただき、お世話になりました。彼は普段はお土産もの屋さんを営んでいますが、とても敬虔なイスラム教徒。イスラム教の事でわからない事があれば彼に聞け!と皆が言うほどなのだとか。

たいていのモロッコ人が、生まれた時からイスラム世界で育ち、他は知らずに「イスラム教が一番」と言うのに対して、彼は、イスラム教への理解をより深める為に、他の宗教をも勉強しているのだとか。ヨガや瞑想を行ない、特に仏教に関心が深く、色々と知りたいとのことでした。
どこにでも、こういう素晴らしい人がいるのだなぁ……と感動した出来事でした。私も、あまりイスラム教の事は存じませんが、彼のおかげで少し学んでみたくなりました。
自らの理解には、他をも理解する事が必要なのですね。

モロッコへおでかけになられる僧侶の方で、彼に会って仏教の事をお話してみたい、イスラム教の事を知りたいという方がいらっしゃれば、是非ともご一報ください。ちなみに彼はマラケシュ在住です。

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想像という名の翼

研究所に来て初めての夏を迎えました。夏といえば夏休みの自由研究ですが、朝顔の観察と工作は現在も定番なのでしょうか。
さて本日は、最近出会った素敵な制作物のご紹介です。

まずこちら。

unsui.jpg
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竹で作られているそうです。デフォルメ具合が絶妙ですが、制作者を聞いてむしろ納得しました。お作りになったのは、現役の雲水さん(おかしな言い方ですが)だそうです。さすが、日頃の行き届いた観察が作品に表れているのでしょうね。
なんでもこの僧堂では、夏の施餓鬼の際に工作大会が行われるとのことで、作品制作にあたっての唯一の条件は、「僧堂内にあるものだけを使用すること」。竹や廃材、包装紙などいったん本来の役目を終えたモノが、雲水さん達の想像力によって蘇った作品はいずれも素晴らしく、感心するばかりでした。


想像力といえば、この作品もぜひ。

kinkakusoto.jpg

「PIECE of PEACE」という展覧会に出展されている金閣寺。本展は、デンマーク生まれの知育玩具・レゴブロックで制作された世界遺産を集めたものですが、もう10年も続いている人気の催しであるにも拘わらず、私がその存在を知ったのは(大変残念ながら)つい最近のこと。実見の機会にはまだ恵まれませんが、いつか拝見したいとワクワクしています。


金閣寺に関しては内部まで再現されているとか。

kinkakunaka.jpg

他の作品も、こちらで見ることができますよ。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」も既に公開されています。
PIECE of PEACE

 

不器用さがコンプレックスで、大きな工作に挑むこともなく夏休みを重ね大人になってしまった私ですが。さて今なら何をテーマに取り上げるかしら。
生き生きとした作品に接し、少し前向きに夢想しています。

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鳴門の渦潮 -淡路島より-

 

130729-1.jpgかなたに見える渦潮を観に

淡路島を訪れました。
小学生の頃、親に連れられて観た鳴門の渦潮。
その時の記憶はあまり無いのですが、大人になってから観るのもまた良いだろうという事で、淡路島から出ている船で見学する事に。

これが、予想をはるかに超えて素晴らしいもので、ここ最近で一番の感動と興奮を覚えました。
子どもの頃の実体験も貴重ですが、様々な人生経験を経てから感じる大自然の織り成す美、力強さには、子どもの頃とはまた違った感動がありますね。

130729-2.jpgブルース・リーが語った、禅的とも言える「水」に関する名言の数々を思い出してみたり、長く修行を続けてきた雲水が、この渦潮を観た途端に大悟するという事もあるのかもしれないなぁ……、などと妄想してみたり。はたまた、「なるほどこれほどの波にもまれていたら、鯛が美味しいと言われるのも頷ける」と、このあたりの魚介類に思いをはせてみたり。

130729-3.jpgたまたま淡路島の方に教えていただいた、一番小さなこの船で見学したのも良かったのだと思います。鳴門側からのクルーズもありますし、淡路島からも違う船が出ていますが、この船をオススメします。
大型客船とは違い、たった6人で貸切状態。渦潮の中にまで入って行ってくれるのです。
この日この時間の渦は、調べて行った甲斐もあり、最高に素晴らしいと船長さんの太鼓判も。

130729-4.jpg太平洋側から瀬戸内海側に水が流れ込みます

大人が心底感動していれば、子どもにも必ずや伝わるはず。
夏休みを迎えたお子さんを持つお父さん、お母さん、長い夏休み色々と大変かと存じますが、良寛さんのごとく自身が楽しみ、喜び、頑張っていただきますようお願い申し上げます。

130729-5.jpgヘリオス号

 

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-僧侶的 いま・ここ-

 

130725.jpg随分前より、曹洞宗の禅僧・大童法慧師のブログを拝読させていただいています。

-僧侶的 いま・ここ-

気になる情報が掲載されていましたので、皆様にもお知らせさせていただきます。お時間おありの方は是非に。
「自分という塊」は無い?!?!とても気になりますね。

■7月28日の18時半~ NHKラジオ 第2放送 宗教の時間 「自分というもの」

大童さんは人生問題に悩んだ青年時代に、小浜市仏国寺の原田湛玄老師のもとで禅の修行を始めた。「自分という塊」は無いと教えられて悩みが解決したエピソードを紹介する。

曹洞宗大本山總持寺 殿司兼講師…大童法慧
【きき手】金光寿郎

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BLUE & WHITE 藍と白の美 -大阪日本民芸館-

 

130625.jpg大阪は千里の万博公園内にあります、大阪日本民芸館を訪れました。

現在、「BLUE & WHITE 藍と白の美―そばちょこ・藍染めを中心に」と題して、大阪府藤井寺市在住の佐藤禎三氏(1933-)が個人で蒐集し、寄贈された物の中から、約1000点もの蕎麦猪口がお目見えです。

よく見たことのある図案から、「え?!こんなものまで蕎麦猪口の柄になってしまうの?!」というようなものまで、それはまぁ多種多様で、見ていて飽きるという事がありません。

そしてやはり、夏に染付けやガラスというのは、目で感ずる涼にもなりますね。季節に見合った展観で、暑い一日でしたがしばしそれも忘れる事ができました。

私自身はあまり古い物に手を出した事が無いのですが、最近は少しずつ気になる物を手に入れたりしています。寄贈者、佐藤氏は、最初は難物(いわゆる、欠けていたり、ヒビがあるもの)を求め、御自身で金継ぎをされていたのだとか。

私が何ヶ月か前に求めた蕎麦猪口も、江戸中期のとても色の美しい染付け。こぶりで何とも言えない風情。我ながら良い物だと思っていますが、ヒビが入っているということで破格だったのです。時間が無いと言っては後回しにしていた金継ぎですが、そろそろ習う事になりそうですね。

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"信"を問う

 

130617.jpg先日、友人宅で大学時代のゼミ担当教授・松田高志先生による学びの会、分かち合いの会がありました。

この日のテーマは、『私の宗教観~イエスの例え話を手掛かりとして』。
聖書の様々な箇所を知る機会を得ました。そのうちの一つ、マタイ25章「タラントンの譬え」。タラントンは、いわゆるタレント(才能)の語源ですね。

旅に出る主人に、それぞれ力に応じて、5タラントンを預った僕は、それを元手にもう5タラントンを儲け、2タラントンの者は、もう2タラントンを儲け、帰ってきた主人に「よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」とほめられますが、1タラントンを預り、地中に埋め、大事に保管した僕は、「怠け者の悪い僕だ。この男からタラントンを取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、もっていない人は持っているものまでも取り上げられる」と叱られ、追放されるお話。

皆さんは、このお話をどうお考えになられますか?


松田先生は、「神から見れば、力に応じて“少しのもの”を預けられたのだから、力一杯やれば必ずやれるのではないか、それどころか、まだまだやれると気づくのではないか、逆に大き過ぎるよう(神から見て僅か)で尻込みするなら、その“僅か”も失ってしまう」と仰っています。

私は、“信”を問われているように思いました。神を信じ、自身を信じる事への欠如についてを諌めているような……。人間の弱さ、もろさをよく突いていますね。

そこで思い出したのは、今度は禅のおはなし。
5月27日の花園大学学長講座にて、八幡の圓福僧堂の政道徳門老師が講演をされましたが、その内容が、『臨済録』-示衆-より、「信」という事についてでした。


「病は不自信の処に在り。你若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。你(なんじ)若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。汝は祖仏を識らんと欲得(ほっ)するや。祇だ汝、面前聴法底(ちょうぼうてい)是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求(ちぐ)す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終にその活祖意(かつそい)を得ず」。


仏教だ禅だと色々学んではその知識を人にひけらかしたり、さもわかったように説いたりするが、一体全体、自分自身がちゃんとそれを信じて飲み込んでいるのか。「良い薬がありますよ、この効用はこうでああで…」と話しているわりに、自分自身はその薬を服用もせず、病んでいたりしないか?!あれがいい、これがいいのでは?!と、結局定まる所を知らず、ウロウロしてはいないか?! という事をお話され、“信”について、聴衆に問われました。

仏教、キリスト教、つきつめれば世界の宗教は結局のところ、同じ事を言っているのでしょうか。

信じる者は、救われる?!

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明るい未来

 

130611.jpg「新聞」や「テレビ」の魅力は日に日に薄れてゆくように思われる。早朝に朝刊に目を通して、この出来事は初耳だなとか、これは読んでヨカッタよと思うような記事に出会うことが稀になってきた。たいていの「事件」は、半日近くも前にすでにネットを通して見知っているし、それに対する何がしかのコメントも、名も知られていないような人のツイッターでお目にかかるものがまことに新鮮だったり、目からウロコだったりする。

こんなふうだから、これまでかなりの日本国民に、多岐にわたって影響を及ぼしてきた、新聞・テレビといった既存のメディアの行く末はかなり暗そうだ。すでに十代で、テレビとネットの視聴比率がひっくり返っている。彼らが三十、四十になるのはあっと言う間だ。十代からほど遠い私にしても、最近好んで見るのは「ニコニコ動画」だったりする。見たいものがいつだって見られるというのが大きい。

先日、ニコ動で「小沢一郎」さんと「堀江貴文」さんの対談を視聴した。二人の対談についてはかつてニュース記事に小さく「かみ合わず」とあったのを、ああそうだろうなとあまり驚きもせず目にしたのだが、たまたまネットでこの対談にめぐりあった。無料で見たいときに見られる仕組みはいいなあくらいの軽い気持ちで見始めたが、司会の茂木健一郎さんを含めた対話空間に、リアルタイムで視聴者からのコメントが流れるという、まったく無編集の「番組」であった。のっけから、茂木さんが「私はこのお二人が好きなんです」と言ったのが印象的だった。「普通」の箍(たが)が最初からハズレていた。見終わってちょっと驚いたのは、「小沢さん」ってこんな人だったの? 「堀江さん」ってこういうキャラ? という不思議な気持ちがわいたことだった。「小沢」「堀江」は「悪党」といった風評が世間(少なくとも私の周り)を取り巻いているのだが、少なくとも編集側の恣意のあまり働かない空間で、この「お二人」は驚くほどスマートだった。堀江さんが「小沢さんの笑顔かわいいですよね。新聞やテレビもこんな笑顔をもっと写すべきですよ」と言ったのでふと気づいたが、メディアが好んで用いる画像は、「世間受け」をねらっているのじゃないかなあということだ。メディアが世論を形成すると言っても過言ではないと思うが、民衆を巻き込んで形成された世論にメディア自体が追随し迎合してしまうという図式が何となく成り立ってしまっているのも事実ではないか。

かつて朝日新聞に、「明るい悩み相談室」というのがあった。中島らもの答えがすばらしいので、我が家でも朝日の購読をやめない大きな理由になっていた。今は土曜日のBe版に、「悩みのるつぼ」というのがあって、これもまたとても愉快なので、あともう少し購読を続けようかなんて、岡田斗司夫さんなんかの回答を待ちこがれながら思ってしまう。考えてみたら彼らは世論や世間のシステムに迎合しているふうが微塵もない。彼らの軽々とシステムを超えた肯定的な言に耳を傾けると、世間って案外気持ちがいいなと思ってしまえるくらいだ。

「ネット世代の新世紀」の出現を予想する夏野剛さんは、「若者よ、引きこもってググれ!」と言う。わたくしたちを取り巻く世間の「出来事」を、わたくしたち一人ひとりが「正しくまっとうに知る」ことの可能性もネットにあるとすれば、既存のメディアの絶大な影響力をあっさりスルーしてしまえる若い人たちの台頭は、ちょっと明るい未来を予感させる証かもしれないなあとも思うのだ。

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恩師の言葉

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先日、恩師の退任パーティに出席しました。
変わらぬ笑顔の恩師を囲むと、
古希を控えた先輩方から今春卒業したばかりの後輩まで
一様に学生の顔に戻ってしまうのは何とも不思議です。

さて。
そんな風に素直な学生の気持ちで拝聴したせいか、
壇上での恩師の挨拶は大変印象に残りました。
以下、要約させて頂きますと......。


世の中には流れというものがあって、
人間はいくら力を蓄えようが
これに乗れない場合はどうしようもない。
しかも、その流れは何時くるかわからないし、
もしかしたら一生こないのかもしれない。

くるかこないかすらわからないけれども、
わからないからといって何の準備もしない人は
いざ好機が巡ってきた時にも対応できない。
だから人生は、どんな時期であっても
「今の立場でできること」にコツコツ取り組み続けていく
しかないのです。

 

自ら実践してこられたM教授に改めて敬意を表すとともに、
見えない先のことが少し不安になった時に
ぜひ思い出していただきたい言葉として
ご紹介させて頂きました。

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山菜狩り

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山菜採りの名人に付き従い、わらび狩りに。
都会で生まれ育った私には、足元に生えていても見えていない事が多く、しかられながらも、随分と慣れてきたように思います。

人に出会う事も無いような山中で、茶花図鑑でしか見たことの無いような茶花に出くわし、嬉々としながらも、無我夢中で蕨を摘みます。
この集中は、掃除をしている時と同じような感覚。身心を癒しますね。

人間も、やはり自然の一部なのだなぁ……と思わされるのが、春の苦味ある山菜や旬の野菜が、冬のうちに体に貯めこんだ毒の排出に一役買ってくれる事。
なんともうまくできているものですね。自然に沿い、生きていたならば、悪い事にはならなさそうです。
新鮮な美味しいものをいただいてデトックスできるのであれば、それにこした事はありませんね。

山菜名人によるてんぷら。
こごみ、こしあぶら、たらの芽、花筏(茶花としてよく使われますが、食べられるのです!)、そして大きなおまけですが、海老に走りの鱧。
自然からの恵みに感謝です。

*流れに逆らわない。本来全ての人に備わる自然治癒力を信じて。 『禅と東洋医学』

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白い象のタクシー




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HPよりお写真拝借しました

京都にも色々なタクシー会社があります。
有名なのは、ヤサカグループのタクシー・四つ葉のクローバー車両。
"見かけたら幸運が訪れる!"と、ひとたび道路を走れば皆の携帯(カメラ)がその車を追いかけます。

四つ葉のクローバーも良いのですが、私が最近気になっていたのが、よくみかけるようになった、"白い象さんのタクシー"です。
"白い象"ですよ皆さん。こちらのタクシーのマークは全てが白い象なわけです。何千車に数台というわけではなく、もれなくどの車両も白い象。......しつこいですね。


『方広大荘厳経』などの説によると、摩耶夫人が、六本の牙をもつ白象が胎内に入る夢をみてシッダールタ(お釈迦様)を身ごもったとされ、吉祥の兆しでもあり、おめでたいものなのです。個人的には、白い象のタクシーの方が有り難いと思えてなりません。

先日ちょうどこのタクシーに乗る機会がありましたので、運転手さんに「社長さんは熱心な仏教徒ですか?」とお尋ねしてみましたところ、それはわからないとの事でしたが、何せ象がお好きならしく、色々な象の置物を集めておられるのだとか。かなり興味深いですね。

「象の大きな広い背中にのるような安心感をお客様に」。洛東タクシーさんでした(念の為、回し者ではありません・禅文化研究所とも何ら関係ありません)。

コーヒーフレッシュやシロップなどを製造されている、"スジャータ めいらくグループ"さんの"スジャータ"も、お釈迦様の苦行後に、乳粥を施した女性、あのスジャータからきているようです。
仏教に関係する名前の会社や会社のシンボルマーク、まだまだ探せそうですね。


*ブログ禅 サーバーメンテナンスの為、来週の22日月曜日・23日火曜日の記事はおやすみさせていただきます。24日水曜日より再開致しますので、ご高覧のほど、宜しくお願い致します。

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法金剛院 -京都市・花園駅近く-




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昨日の"寄り道"にひきつづき、今度はお昼休みにお邪魔してきた法金剛院さんのご紹介。

そう、花園駅すぐ近くにあるこのお寺、お昼休みに拝観に行って帰って来る事が可能です。
なんと優雅な昼休みでしょうか。昼休みにも、やはり"お寺"です。

京都では珍しく、唐招提寺に属する律宗のお寺。
藤原璋子・待賢門院が復興に尽力した寺で、平安時代ならではの極楽浄土を模した庭と、四季折々の花が美しく、"関西花の寺第十三番霊場"となっています。
花ばかりか、数多く残る仏像もそれは見事で、本尊阿弥陀如来、文殊菩薩など、平安時代の仏を拝み、この庭を眺めれば、しばし平安貴族の世にタイムスリップです。
そして、十一面観音巡礼をしている私としては、こちらにおはします観音様の瓔珞の美しい事にしばし昼休みである事を忘れて拝んでいたのでした。蓮の台座にまで瓔珞が......。荘厳です。

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もちろん、桜も枝垂れはもう満開。待賢門院を深く思慕したと伝わる西行さんも、このお寺へはよくおいでになったとか。その頃の桜はどのようであったか...と、桜を愛した西行さんをも思います。

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ここの所、曇りや雨の日が続いていますが、晴れましたら次はどちらへお邪魔しようかと楽しみにしています。

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自然と人間 ―3.11を迎えて思う―




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東北地方を襲った大震災と大津波によって彼の地の人々は、それまでの平和な生活を一瞬にして破壊され、さらにそれに伴って起こった福島原発のメルトダウンという人災によって、多くの被災者が二年を経過した今もなお救いのない生活を強いられている。これらの人々が、一日も早く満足できる元の生活に復帰されることを心より願っている一人である。
天災と人災という二重の災害によって、この国の人々が共有したあの日の恐怖は、時とともに過去の出来事となって風化し、いまは直接その被害を蒙った人たちだけの、「生活の問題」として矮小化され、処理されつつあるように見える。
私は仏教徒の一人として、この大災害の体験は、この国に住む人間一人ひとりが、実存的課題として反復し続けるべきものであり、偶たま起こった出来事として、記憶の底に沈めるべきものではないと思う。では、私の言う「実存的課題」とは何か。
その第一は、常に自己を取り巻く「自然に対する畏敬の念」を抱き続ける、ということである。言うまでもないことであるが、われわれ地上の生物は、例外なく自然の恩恵によって生存している。そういう自然は子を育む親のように、優しいばかりである筈がない。自然が時として激しい怒りを見せてくるのは当然である。今回の災害も自然の見せた怒りの一端であれば、今後これを防ごうとする最低の努力はあっても、「反自然的」な道を模索するべきではないと思う。
第二には、「人間の弱さの自覚」ということである。今回の大震災によって被災地の人たちばかりでなく、被災地から遠く離れた人たちもボランティア活動を通して、「お互いに助け合う」ことの重要さを痛感した。
そのことが震災直後、「絆」という言葉となってこの国の人々の口にされた。弱い人間はお互いの支えあいがなければ、自分一人で生きることはできないという、きわめて当然のことが、大震災によって今更のようにお互いに自覚されたのである。この貴重な自覚を、平安な時においても持ち続けなければ、弱さの自覚を本質とする人間の忘却につながるということである。
第三は、科学神話に酔いしれた現代人の「傲慢についての反省」ということである。私はこの点において、早くから科学の進歩に対し懐疑的であった。
確かに現代に生きるわれわれは、例外なく科学の恩恵に浴している。しかし長いスパンで見れば、その行く先には間違いなく破綻と絶望が待ち受けているということである。殊に延命を目指して進歩した西洋近代医学のお陰で、今や「死ねない時代がやってきた」のである。 
これほど人間にとって絶望的なことがあるだろうか。死があってこそ生の充実があり、死のない生は弛緩の連続でしかないであろう。いったいそういう間延びのした人生を望む人がいるのだろうか。
止まる処を知らぬ科学の発達が、いかに人間を破綻へと導くかは、今回の原発事故がはっきりと証明した。原発は絶対に廃止すべきである。便利と営利を目的としない限り、原発に依存する理由はどこにもない。自然の恵みを享受し、与えられる自然から与えられるエネルギーに甘んじれば充分ではないか。
被災地に赴いて助けの手を延すこともしなかった自分を恥じながら、二回目の3/11を迎えて、思いの一端を述べる次第である。
所長・西村惠信  

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「われの名はシイラカンス……」




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ご本をいただいた。『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(小泉淳作著、日本経済新聞社、2012年)。日本経済新聞に連載された「私の履歴書」と、氏の画を合せて一冊にしたものだ。

私は寡聞にして「小泉淳作」の名を知らなかった……というより、覚えていなかった。本書をパラパラとめくり、東大寺本坊の襖絵写真を見て記憶が蘇った。東大寺を訪れた際、襖絵にいたく感激したのをはっきり思い出したのだ。そうかあれを描いた人が小泉淳作氏だったのか。

すぐに拝読した。数々の作品画像も見た。そしてわかった。この人は、絵も文章も陶芸もすごい人なのだ。

私はとりわけ「冬瓜」の絵に惹かれた。展覧会でこの絵を見たイサム・ノグチ氏が、「この絵には神様が宿っている」と言われたらしい。世に出るのが遅かった小泉氏はそのことを素直に喜んでおられる。

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冬瓜 小泉淳作


「売れる絵」に背を向け、納得する絵をひたすら追求してきた氏が、絵で生計を立てられるようになったのは六十歳すぎてからだという。
それまでの氏は「画家では食えずに副業の商業デザインや陶芸を手がけて暮らしの糧にしたが、絵筆は手放さなかった。絵のことばかり考えてきた」のだ。しかし、副業で家族を養い、「絵のことばかり」考えて生きる日々は大抵ではない。腹立ちや鬱憤に心乱れることだってある。そんな頃、縁あって知り合った物理学者の武谷三男氏が、「人生は妥協の連続ですよ。人は妥協しなければ生きていけません。でもね、生きる上でひとつだけ妥協しないものを持たなくちゃね」と言われたという。知遇を得たのは1955年、武谷氏の言葉に勇気づけられた小泉氏の強靭な意志は、その後びくともしていない。

それにしても、「私の履歴書」に描かれる出会いのすばらしさはどうだろう。無名の画家であり、人見知りする質(たち)の氏が、こんなにも多くの人たちに支えられたことは驚きだ。彼の芸術家としての魂が終始揺るぎなくホンモノであったことが、人々を惹き付けずにはおかなかったのだろうか。

因みに、建長寺法堂天井画「雲龍図」・建仁寺法堂天井画「双龍図」の両作品も小泉画伯による晩年の大作である。

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自給自足の暮らしから




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1月の事ですが、有り難い事に、とある所で自給自足をなさっている方のお話を拝聴する機会をいただきました。

「自給自足」と聞くと、なんとなく憧れるものの、自身の生活とはあまりにかけ離れている為、実際にしている方は「シビアで偏った方なのだろうか」との先入観がありましたが、そんなつまらない想像とは全くかけはなれた、とても気持ちのよい方で、私はいっぺんにその方に魅了されてしまったのでした。

地に足のついた、自然のサイクルと共にある日々の暮らしから発せられる飾らない言葉は、どんな言葉よりも力強く、私の心に響き、何故自分が泣いているのかもわからないほどに、今までの日本を思い、震災を思い、自身の暮らしや心持ちを思い、こみ上げてくるものを抑える事ができませんでした。


以前、建長寺の管長様にインタビューに伺った折に、「坊さんはただやるべきことをやればいい」と、坐禅や作務、朝のお勤め、お経をよむことの大切さを口をすっぱくして仰っていらした事が脳裡に浮かびました。

どれだけうまく話をしたところで、実践を伴っていなければ、それは人の心に深く残らず留まらず……。建長寺管長様の御言葉は、慈悲深い叱咤激励であると改めて感じ入りました。

そして、何故1月のあの日、嗚咽するほどに泣けて仕方なかったのか、それを未だに時々考えていますが、自分なりの答えをみつける為にも、近々お邪魔してさらにお話を伺い、皆様にも季刊誌『禅文化』にてご紹介できたら……と思っています。

近頃、「出家せずとも、この方はお坊さんのようだな……」と思うような方によく出会っています。
そんな素敵な方々のうちの、お一人なのです。

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初釜




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1月といえば、茶の湯を稽古する者にとっては楽しみにしている大切な行事、初釜があります。
師匠と、師匠に師事するお仲間たちとで、一年で最初の茶事の席を楽しみます。

昨今、茶の湯における懐石料理が豪華になりすぎる事に批判的な方もいらっしゃいます。
私も確かにそれはどうなのか……とも思うのですが、料亭で行なう茶事は、それはそれとして、新年の慶びと、社中が一堂に会する喜びを分かち合い、華やかで楽しくも、新たにこの1年の稽古の精進を誓うに相応しい、気がひきしまる場として受け止めています。

ですが、一度、流派関係なく、茶の湯を稽古する友人達と、一汁一菜のシンプルな料理をいただいた後で、濃茶薄茶をいただくような会をしてみるのも、自分たちの精進の為に良いのかもしれないな……と思ったりもしています。今年の目標ですが、いつ実現しますでしょうか。

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所長より新年の御挨拶

皆さん、明けましてお目出度ございます。
このように年頭のお祝辞を述べましても、果たしてこの一年がどのような年になるか、誰も予測することはできません。ただはっきりしていることは、人生というものが向こうに断崖絶壁の待ち構える坂道を、ブレーキのないトロッコに乗って下るようなものだということですから、これは余程の覚悟がないとできない芸当だということでしょう。
パスカルは『パンセ』の中で、「人間というものは、向こうにある絶望(死)が悍ましく前へ進めないので、しばらく『希望』という目隠しの板を立てて前進するだけだ」、と書いています。言われてみれば、本当にそうですね。
私たちは確率だけを信じて前進する「近代科学的な生き方」を止め、縁に従って毎日毎日を大切に生きていくことを説く「仏教の生き方」によって、自分の人生を一歩一歩進めるべきではないでしょうか。
そう考えるとやっぱり一休和尚の、「元日は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という一句のもつ不変の新鮮さに、今更のように気付かされるばかりです。どれほど時代が進もうと変わらない、真実を言い当てたこの覚醒の一句をもって、改めて年頭のご挨拶に代えさせさせて頂きたいと思います。
どうぞこの一年が皆さん一人ひとりとって、「日々好日」の毎日でありますように。

所長 西村惠信 合掌

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どうしようもない




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盛永宗興老師

「あったかハイム」という住宅のCMがある。寒い夜空の下、愛しい家族の待つ暖かいわが家に向かう--「絵に描いたような幸せ」を可視化したものだ。家路を急ぐおとうさんを待つのは、かわゆい娘であったり、美しい奥さんだったりする。娘は品行方正で成績も良い。奥さんは料理上手で、優しい。おまけに笑顔の素敵な人だ。おとうさんは、仕事もできて部下にも慕われている・・・・・んな家族があるわけないだろ、と思っても、やっぱり憧れるから、ローンを組んでとりあえず家を手に入れようかなあなんて、みんな頑張ってしまうのだ。

元花園大学学長の故盛永宗興老師は、新婚の人たちへのはなむけに、好んで「破鍋(われなべ)に綴じ蓋」という言葉を使われた。「どうしようもない」人が「どうしようもない」人とくっついて、それでもというか、それだからこそ何とかやっていって欲しいという祝辞だったようだ。これは「盛永老師」の言葉でなければ、間違いなく顰蹙ものだっただろう。老師は、「才媛」も、かつて流行った「3K」も、「~代続いたお家柄」も、「どうしようもない」ということにかけては、人後に落ちないと言われたかったのだと思う。

人間の実存の真っ只中に、いかんともしがたい否定性(虚無)があること、人はそれに気づかずにはいられないこと、またその虚無にとどまってもいられないことを、老師は何とか、言葉にして届けたいと思われたのだ。

「あったかハイム」のおうちは、実は断崖絶壁に建っているのだよ、そこを悪夢の館とするか、落ち着きの「場」にするかは、あなたに、あなたたちだけにかかっているのだよ、と。

老師が住持されていた大珠院に、子供のころから通っていた女の子が、中学生になり夢いっぱいの絵葉書を旅先から寄越したとき、老師はその葉書を両手に挟んで、「どうぞ」と祈られたという。その女の子も、どうしようもない人間の否定性(虚無)を免れることはできない、と熟知しておられたからであろう。

故久松真一博士は、その「どうしようもない」ところを「どうするか」と一人ひとりに迫られた。何ぴともその「どうしようもない」ところにとどまっていることができないことを体得しておられたからだ。

まためぐってきた年の瀬に、そんな、老師や博士の「心切」が、「どうしようもない」わたくしには、しきりに思い起こされるのだ。

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ブログをご覧いただいている皆様

今年も一年間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。
本年のブログ更新は今日で最後となります。

来年はまた1月7日より再開させていただく予定です。
また来年もどうぞ禅文化研究所のブログを宜しくお願い致します。

それでは、どうか良いお年をお迎え下さいませ。
ありがとうございました。

禅文化研究所 職員一同

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ただでは終わらぬ忘年会




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12月も終盤。忘年会シーズンですね。
私も友人たちと集まっては、忘年会という名を借りて、美味しいものをいただいたりしているわけですが、我が友人たちとの忘年会は、ただでは終わりません。

お酒もまわってきますと、「己は一体どうなのか」というところをとことん撞いてくる者が現れます。
「じゃあそういうあんたはどうなのか」となり、さぁ大変。
何が大変か?!そうやって真正面からとことん来られると、強固だと思っているものも意外に脆くてボロボロだったりするわけです。もともと何も無いのですね。
あげくの果てには、「だからお前はバカなのだ、どうしようもない」と、バカを連発され、一生分の“バカ”を浴びせられました。
いわんとするところはわかれども、だからとて……。

それにしましても、腹を割ってとことん話せる仲間がいるというのは、本当に嬉しい事ですね。
端から見たら大喧嘩ですが、そうして相互理解を深めている気もしますし、自分の事も顧みる機会になります。そして、何故かこの喧嘩を、よく「羨ましい」と言われたりもします(でも、なかなかに本人たちは大変でもあるんですよ)。


そして月曜日。花園大学の学長講座にて、八幡は圓福寺の老師の講演会。
「はからいだらけの世界。頭で考える所なんぞに、仏法は無いぞ」との由。
土曜日に友人が私に言わんとした事と同じ事を、老師も仰っていました。

有り難い事だな……としみじみ思う、年の暮れなのでした。

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*ちなみに、上のひろうすは友人の奥さんてづくり。京都のどんなに美味しい豆腐屋のひろうすよりも、美味しいのです。ここの家は、マヨネーズやジャム、何でもてづくりで最高に美味しい。やはり、てづくりに限りますね!

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注連縄づくり




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こんなシンプルなものでも、とても難しいのです!!!

なんとなく、「買ったしめ縄じゃあ味気無いものだなぁ......」と思っていたところへ、しめ縄作りにお誘いいただき、お邪魔しました。

時間になると、伊賀の土樂さん近くの村人達が八幡さまに集まり、名人を先生に、皆で作り始めます。


今年収穫した稲藁の香りや、藁を持つ手の感触に、遠い記憶で、自身が農耕民族の国の民である事を思い出し、またこれを神の依り代とし、結界を張る事に、この国ならではの事であるなぁ...と思いを馳せて......いるわけにもゆかず、必死で先生のお話を聴き、隣の方がなさるのを見て真似ようと思うのですが、これがどうして、縄一本作るのも難しいわけです。

福森先生や、村でも慣れていらっしゃる方は、するするとこともなげに作ってゆかれます。まるで錬金術を見ているかのよう。
自身で作ってみて改めて、物を作るという事の尊さや難しさ、作ってくださる方が存在する有り難さを思い知ります。
相変わらず、"手"を使っていないな・・・もっと開発せねばな...とも思いました。

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注連縄作りが終わると、村の名人が、馬の注連縄を作る実演をしてくださいました。
締めるとこはきちんと締め、藁がぴしっと整えられて、形づくられてゆきます。慣れた手付きで丁寧に作られた注連縄には、もう既にそこに神が宿っているようでした。

参加していらっしゃったのは村のお年寄りが多かったのですが、いくらお年寄り達が伝えようと思っても伝わるものではなく、どうか若い人が「知りたい、作りたい」と参加される事を願ってやみませんでした。

不器用なりにもなんとか形となった注連縄を飾らせていただくのが、今から楽しみです。

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注連縄作りに若者がいない!?と思いきや、若い男衆は門松の準備をされていました。

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修練

修練。などとおおげさなタイトルにしてしまいましたが、以前-技を訪う-でも書かせていただきましたが、週に一度、ヨガのお稽古を続けています。始めてからは2年と少しです。

先月、鼻炎なのか風邪なのか、咳が止まらなくなり、お稽古を1ヶ月ほどお休みしました。
お稽古復活の日、「せっかく続けてきたのに、この休んだ1ヶ月でたるんだ身体を元に戻すのにはまた何ヶ月かかかるのだろうな…今日は身体も動かないだろう」と、少し沈んだ気分ででかけました。

ところが、レッスンが始まると、意外にも身体は生き生きと先生の声に合わせて動き、そんな身体に支えられて、沈んだ気分も上昇。明るい気持ちで稽古に打ち込む事ができたのです。

ヨガを始めるまでは、特に身体を動かす事をしていなかったので、いつもどちらかというと、「私はできる」という精神が、身体を支えて頑張っている感じだったのが、初めて身体に支えらるという事を知りました。
新たな気付きを得たという事では、休んだ1ヶ月も無駄ではなかったようです。

また、自分でも気付かぬうちに、少しでも強くしなやかな身体になっていたというのは、先生のとても細かく丁寧なご指導の賜物……と、心より有難く思いました。

ふと、茶の湯の師匠の事も思い出しました。同じく、とても細かく丁寧な指導をしてくださるのです。人によってはそれを、「お茶の点前は細かくてうるさい」などと思うようですが、そこには大きな意味があるのですよね。それを会得するには、長く続ける事しか無いのだな……と思います。

師と弟子の啐啄同時、心通いあうところというのが、ようやくわかってきたこの頃です。

茶の湯やヨガでは、師や仲間と寝食を共にするというのは私の場合、さすがにありませんが、それでもわかってくるものがある。ならば、僧堂ではどうだろう……と、いつも羨望のまなざしを向けている私なのです。
(↑「そんな理想を持っている者ほど、僧堂に入ると続かない」と言われましたが。笑 お坊さん達は面白いですね)

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教えを染み込ませる




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ある日、母に、我が母だという甘えもあり、ついついとある不満をもらしていました。
すると母は、先日彼女に対して、ある人が言ってきた発言について教えてくれました。それは、娘の私が聞いても怒り心頭に発するような発言で、「なんたること!」と怒っている私に対して母は、

「でもね、お母さん何言われても怒らない事にしてるの。違う眼でみれば、そんな風に見える事もあるんだろうなって。お母さんが間違ってるのかもしれないし、わからないからね。それに、ダライ・ラマ法王の本にも、五井昌久先生(宗教家)の本にも、怒りは何も生み出さないとあったから。お母さんバカだしすぐ忘れるから、毎日枕元に置いてこれらの本を少しずつ読むの」。

ガーンと頭を撞かれた思いでした。親というものには、かなわないものですね……。
ことにダライ・ラマ法王の本は、偉そうに私が母に対して「これでも読めば」と渡した本でした。

以前、とあるチベット僧が話してくれた事を思い出しました。
チベット人は、生まれた時からずっと、たゆまず、少しずつ仏教の教えを学び、身心にそれらを染み込ませて育ってゆく。そうしてああいう民になってゆくのだ……と。

確かに人間、感動的な話を読んだり、有難いお話を聞いて、その時だけは「今から悔い改めよう」と思いますが、思った瞬間にすぐその思いはどこかへゆき、実行が伴わない事は日常茶飯事です。
日々、自らに染み込ませてゆき、己の物としてゆく事は大切ですね。

ということで、枕元に置いて毎晩読んでもしんどくない、すっと心に入ってくる、そんな本はうちの研究所ではどの本かな?!と、私のセレクトしたものを下記に紹介致します。
眠れなくなるような、考えてしまう本は選んでいません。是非枕元に!

『和顔』『愛語』 山田無文老師

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』 西村惠信所長

『いろはにほへと』 横田南嶺老師

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クリスマス礼拝



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先日、母校・神戸女学院大学のオープンキャンパスがあり、そこに集う高校生の皆さんに対して、クリスマス礼拝のひとときが持たれました。第二次世界大戦中もチャペルアワーが守られたと伝わる我が母校の精神を知っていただくのには、最良の機会だったと思います。

私は、大学生時代のゼミ担当教授(よく登場、松田高志先生)にお誘いいただき、初々しい高校生に混じりお邪魔させていただきました。

讃美歌を歌い、チャプレンにより、その日の主題・説教に合った聖書の一節が読み上げられます。
その静かで穏やかな声を拝聴していると、大学生時代にタイムスリップするかのようで、もう一度女学院に戻れるならば、毎日喜んで礼拝に参加したいと思いました。


女学院では、クリスマスに向けて様々な準備がなされていますが、クリスマスといえばプレゼント、プレゼントといえば神が我々人間にイエス・キリストという人をお遣わしになったのは最大のプレゼントではありますが、女学院も、アメリカより海を超えて来られた宣教師、ダッドレー女史と、タルカット女史のお
2人が、御自身たちが持っているものを日本に、日本人にプレゼントしたいという思いから、137年前に創立されました。
自身が持っていて、少しでも他に分け与える事ができるものは、プレゼントする、分かち合う。その建学の精神は今なお女学院に、女学院生に引き継がれています......云々。


私も母校では様々なプレゼントを受け取り、今なおその影響を深く受けていると思っています。教育の場に、土台となる教えがあり、筋が通っているという事の大切さについて思いを馳せます。
また、ヴォーリズ建築の校舎で過ごす4年間も、知らぬ間にホンモノを見る眼、感じる力を養ってくれていたと、近頃になってひしひしと感じます。環境はとても大切で、知らぬ間に影響を受けるものです。

チャプレンからのお話の後は、さらに讃美歌を歌い、しばしの時間、皆で黙祷。
坐禅も好きですが、パイプオルガンの荘厳な響きの中で捧げる黙祷も心落ち着くものです。
人間は、わざわざ違いをみつけては比べてみたり、否定してみたり、あーだこうだと言い合いますが、この静寂な時間を尊び、内にある仏性に触れる、神と出会う事に何の違いがあろう......と思いました。
オープンキャンパスにいらした高校生の方たちにも、このひとときは魂に響いた事かと思います。


花園大学の安永祖堂老師が、キリスト教の修道士・修道女との交流や、聖書やキリスト者の書物から気付かされる事は大いにあり、またその逆もあるものだという大変興味深いお話をよくしてくださいますが、他を受け入れる気持ちを持てば、それこそ思いがけぬプレゼントがあるものだな......と思う今日この頃です。

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祖母の七回忌




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願わくはこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みなともに仏道を成ぜんことを、、、南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経………


私事ですが、先日祖母の七回忌の法要を執り行いました。
我が家は、祖父は禅に惹かれて禅宗の僧侶となりましたが、代々は日蓮宗です。
この日も、日蓮宗のお寺さんからいつも来ていただくお坊さんに来ていただき、お経をあげていただきました。

40分以上でしょうか……。
時に祖母の遺影を見つつ、一心にお経を唱えてくださる和尚様の後ろに座り、坐禅をしている時のように呼吸してみたり、また、お経の文句を注意深く拝聴してみたり、さらに「終わればお茶お出ししなきゃ」と考えてみたり、なかなか集中していないわけでありますが、いつの間にかひきこまれてゆき、最後に四弘誓願を唱え、南無妙法蓮華経を何度も唱えられる頃には、なんだかありがたい気持ちでいっぱい満たされ、感動していました。
和尚の読経が、身体と心に染み入ってゆくようでした。
単に祖母の供養をするのみではなく、生きとし生ける者の事を祈り、自身を顧みる時間をいただけました。


いつだったか、臨済僧堂の阿部浩三老師が、「葬式仏教、葬式坊主などといわれるが、葬式坊主なら葬式坊主でいいではないか。しっかりと葬式をしてさしあげる坊主になればいいのだ」というようなことを仰ったことがあります。
しっかりと葬式をする、お経を唱える、供養をするという事は、なまなかな事ではできないのです。

在家の者はちゃんと見ていますし聴いていますので、和尚様方も気は抜けません!
和尚様のお経から、どういう思いでお経を唱えてくださっているのか、今まで和尚がどのような修行をされてきたのか、それが知らずともわかってくるわけであります(なんて言うと、こわすぎますか?)。
なにせこの日は、お経一つで、こちらを教化してくださいました。

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"空想家は科学的に正しい"




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大学時代の恩師・松田高志先生におこしいただく、仲間達との勉強会。

今回は先生のご著書『いのちのシャワー』より、「大空を仰ぐ」を拝読し、先生からお話をいただき、皆で様々な事を語り合いました。
本の中で先生が紹介していらっしゃった、古生物学者 ティヤール・ド・シャルダンのことばが深く印象に残りました。下記に先生のご著書より抜粋させていただきます。

「じつは、科学的に正しいのは、"現実家"ではなくて、"空想家"なのである。彼らの予測が微笑を誘うものであるにしても、彼らは少なくとも、人間という現象の真の大きさに対する感覚を持っているのだ」。  このティヤール・ド・シャルダンという人は、宇宙の壮大な進化とその中での人間の宇宙的意味を科学的に究明しようとした学者ですが、科学者の言葉として、これは大変面白いと思います。現実的な細かな知識より、人間や世界、宇宙の真の大きさに対する感覚の方が、たとえ"空想"のようなものでも、より"科学的"であるということですが、これは、まさに教育においても大切な点だと思います。

実に面白いですね。
ある意味、禅宗の修行とは、この意味での"空想家"になる為の修行のように思えました。
既成概念や囚われから脱却する。ちょうど先日とある老師の無門関提唱を拝聴しましたが、その第四十則、「擢倒浄瓶」にも通ずる話のようにも思え、一人わくわくしていました。
わくわく喜ぶだけではどうにも......。
自分はこの一生でどこまで枠を取っぱらえるでしょうか。

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ある日のおやつ




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研究所では15時に茶礼……というと格好良いのですが、いわゆる“おやつ”の時間があります。
お客様や各地のお坊さんが来られた時に手土産をお持ちいただく事が多く、誠に有難い事に、おやつに事欠く事は無いのであります。
とある日のおやつは、研究所職員の自坊で採れたやまぼうしの実でした。
なんとも形容しがたい味でした。

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魂の行き来する道筋




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一絲文守 倶胝図_禅文化研究所蔵

9月28日の朝日新聞の朝刊を手にして、心躍った。村上春樹氏の東アジアの領土をめぐる問題についての投稿が、一面トップに据えられていた。「魂の行き来する道筋を塞いではならない」。

中国は「尖閣諸島」で、韓国は「竹島」で、大騒ぎになっている。それを受けて、日本側も「中国はなんちゅう国や」「韓国ってどうなってんの」と憤慨している。

村上春樹氏の言に耳を澄ませてみよう:
 「領土問題が実務課題であることを超えて、”国民感情”の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状態を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ」

村上春樹氏の著書の印税収入は、国内より外国が上回るという。世界でこれだけ翻訳され、読まれている日本作家は彼をおいてほかにはいないだろう。韓国でも中国でも氏の作品はほぼ翻訳されていて、多くの読者をもつ。優れた日本の製品を愛用する人はいまだ世界に少なからずいるだろうし、その技術に関わる人たちに対する敬意はいささかも揺るがないが、頭に血が上った人たちが、日本製品を踏みつけたとしても、村上氏の翻訳された著作を投げ捨てるだろうかとふと思う。氏の作品に心通わせ得た人なら、「領土問題」ごときにそう簡単に振り回されたりはしないのではないか。「魂の行き来する道筋」が打ち立てられるとはまさにそういうことだろう。

氏の投稿を、一面に取り上げた「朝日新聞」の鮮やかな決断にも目の覚めるような気がした。「もう新聞の使命は終わったな、ぼつぼつ購読をやめようか、情報はネットで事足りる」と感じ始めていた時だったからである。伝統を背負う紙媒体のもつ力と見識に圧倒された。

私は村上作品が好きで、『風の歌を聴け』からずっと読み続けてきた。「彼の書くものは退屈しない」というのが最初からの一貫した感想だ。漱石を読むのと同じくらい楽しい。彼の作品は、これからも何度も読み返すだろうと思っているが、彼の「コミットメント」の姿勢にも強く心打たれる。

「(中略)そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ」。「”我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない”という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう」

一読したとき、本当にハッとした。私もうっかりと、安酒の酔いに足を取られるところだったような気がする。
もちろん、「領土問題は避けて通れないイシュー」だが、「国民感情の領域」に踏み込むことなく、「実務的に解決可能な案件でなくてはならない」としてペンを執った村上春樹氏に、心から喝采を送りたいと思った。

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元同僚のSさん逝く




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Sさんの記した紙焼きサイズ指定


私が研究所に勤務し始めた頃、季刊『禅文化』の編集をされていたのが、S女史だった。
私は事務職のあと、編集室に配属されたが、編集校正の基本的なことはSさんから教わった。
当時はワープロ専用機初期のころで、まだDTPではなく、レイアウト用紙に文字数や写真サイズを計算して割り付けていく方法で、写真も紙焼きにハトロン紙を合わせて拡大縮小の指示を鉛筆で書いたりしており、こういったことは、教わったというより、Sさんの受け持ったレイアウト用紙や校正紙を見て学んでいったように思う。

数年後、ご縁があってSさんは結婚退職され、天龍寺近くの造園業を営む男性の妻となられたが、編集スキルがあるため、天龍寺の刊行物の編集などを請けておられ、その仕事を禅文化研究所にいる私と協力して印刷会社に渡して発行するというようなワークフローができていた。
したがって、研究所を退職されたあとも、たびたび一つの仕事をする機会があったのだ。

Sさんが末期ガンで余命幾ばくも無いと、先月末(2010/9/25)、季刊『禅文化』のSさんのあとの編集担当である同僚Mさんから、突然聞かされた。驚いた。
Sさんは相変わらず天龍寺の刊行物の編集をし、近年は等持院の受付の仕事まで始めて、元気にされていると思っていたので、信じられなかったのだ。しかし既に見舞いにいったというMさんがいうには、もう見る影も無いほど弱られていると……。ただ、会いに行ったらとても喜んでくれた。多くの人には自分の病気と入院を告げていないようだが、あなたもお見舞いにいって上げて欲しいと言われた。

二日後の夕刻、仕事帰りに京都第2日赤病院の病室を訪ねた。部屋は真っ暗だったので、そっと呼びかけてみると小さな声で返事があった。明るいとつらいらしく、ドアに近いところの薄明かりをつけて面会した。私の知るSさんとは思えないほど痩せておられた。ちょうど訪ねたとき、吐き気がするらしく辛そうだったが、吐き終わると楽になるのよと、私の来訪を手を握って喜んでくださった。

明るさになれてよく見ると薄化粧もしていて、話しかけることにはニコニコと応じ、時々様子を見に来る看護師さんには、いちいち感謝の声をかけておられたのが印象的だ。
うがいをしたいから、病床から身体を起こしたいので手伝ってと言われ、支えたその背中、足の細いこと。もともと太ってはおられなかったが、中肉中背のしっかりした体つきだっただけに、言葉を失った。

私の近況のことも語り、Sさんの息子さんのことなどもお聞きし、小一時間を一緒に過ごした。時折、冗談を言うと、元気なときと寸分変わらぬ力強い明るい声で、彼女の好きな冗談を言い返された。
「疲れるだろうしそろそろ帰るね」というと、また手を出して握手を求められ、「また来るから元気出してね」というと、顔をくちゃくちゃにして笑われた。
また翌週にでもお見舞いにこよう思って病院をあとにした。


一昨日午後2時、Sさんは帰らぬ人となられた。享年65。こんなに早いとは思わなかった。入院して半月である。
生涯頑張って仕事をされ、やっともらい始めたという年金で、定年退職されたご主人とこれからの人生を楽しんで欲しかった。それなのに、まるで病気になった自分を羞じるかのように、ほとんどの人に告げずにそっと逝ってしまわれた。だがしかし、ご自身は、ずっと禅と関わってこられた方らしく、毅然として逝かれたに違いないと思う。
いま思い返すと、病室を出るときに私に向けられた笑顔には、自分の残り短いであろういのちについての覚悟と、私との別れの気持ちも表われていたようだ。

愛別離苦の四苦からの脱却は仏教の基本だが、Sさんと握りあった手の感覚がしばらく抜けないだろう。心よりご冥福をお祈りする。

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Sさんと一緒にした最後の仕事
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“適当に添イ立ツ”




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皆さんこんにちは。

もうこのブログで何度もお話させていただいておりますが、先日はまた、母校にて恩師・松田高志先生を囲んでのお勉強会でした。

この日は、神戸女学院が初めての方もいらっしゃいましたので、ヴォーリズ建築の粋を皆で堪能し感動した後、先生のご著書、『いのちのシャワー』より、-自然の恵み-という文章を読み、先生にお話いただき、集った皆で感想を話し合い、そこから何かそれぞれが持ち帰りました。

先生は、奈良の御所市で畑をなさっていますが、エンドウをご覧になると、いつもある時期になるとにょきにょきと大いに伸び、たくさんの房を付ける為、「育つ」という言葉を思い浮かべられるのだそうです。

「育つ」の語源説は色々ありますが、先生のお気に入りは、小さな苗や苗木が、添木につかまり、支えられながら生長することから来ている、「添イ立ツ」という説。
なぜなら、これが実際的に「育つ」という事の本質と思え、さらに、親子に例えると、子どもはどういう力を持ち、親はどういう助けをすべきかがよく現されているからなのだとか。

エンドウは、茎が柔らかく、必ずや添え木が必要だそうですが、少し触れると折れてしまう。それでも、適当な添木さえあれば、にょきにょきと大いに伸び、収穫しきれぬほどの実りをもたらすわけです。

この、“適当”っというのが、ほんとうに難しいですね。
親子関係のみならず、師弟関係にも、友達づきあいにも言える事ではないでしょうか。

つまるところは、自分が何かの添え木になる場合は、相手をよくみつめ、それ以上に自身をみつめるしか無いというところかな……。己事究明。やはり禅だ!
最終的に全てそこに行き着いてしまう私なのでした。

それにしましても、あの美しい御所の地で、大和三山を眺めつつ畑仕事をする先生。
思い浮かべるだけでなんとも温かい気持ちになります。
そして、エンドウの育つ様を見て、先生は様々な大切な事、芯、真理というものを自然から学んでおられるのだな、やはり、全ての答えは自然にあるのかもしれないな……と思った休日の一日でした。

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子どもお断りの空間?!




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MSNのニュースで、「アジアで増加する“子どもお断り”のリゾート」というトピックが。
アジア好きな私がすかさずのぞいてみると、下記のようなコメントが!

フランスのリゾートチェーン「クラブメッド(Club Med)」も、大がかりなリノベーションを発表したばかりのマレーシアのチェラティンビーチ(Cherating Beach Resort)に、子ども立ち入り禁止の区画「ゼン・スペース(Zen Space)」を作る。


なんと、子ども立ち入り禁止区画は、「Zen Space」なのだとか。
わからないでもない…いや、わかるのだけれど、なんだか違う?!
一人歩きしているZenなのでした。

安永祖堂老師が、「中国から日本、そして欧米へと亘り興隆を極めた禅が、また日本に逆輸入されてくると、どのような姿になっているであろうか…」と、警鐘を鳴らしていらっしゃいました。
本当に、日本から常に発信していなければ、いずれ全く違った姿となって手に取る事になるのやもしれませんが、それもまた無常、自然の流れなのでしょうか。

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“創造的な”




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2012秋「東嶺展 -書画と墨跡-」出展品(滋賀・瓦屋寺蔵)

季刊誌の特集のことで、ある老師と電話でお話しした。老師のお話は結構「飛んで」いて、受話器を置いたあとも愉快で、いつだって余韻が残る。今回はまた一層面白かった。

老師は住職をされている寺についても、ご開山についても、緻密に文献等を読み込まれていて、知識ももの凄いが、その凄さが軽薄とも思われるような語り口で軽々と空を飛ぶので、つい私も浮かれて、一度もちゃんと読んだことのないウロ覚えの書物の名前を知ったかぶりに言ってしまった。一瞬の間があって、「○○と言ってよ」と老師がその書の正しい読みを歌うように口ずさまれたのだ。私はその時、しまったとも、恥ずかしいとも、ワタシはなんてオロカなんだとも思わなかった。ただわけもなく嬉しかった。心に羽が生えたみたいだった。私のツマラナサが、老師の”創造的な”「○○と言ってよ」とともに跡形もなく消えてしまったのだ。

今思えば、老師の言葉には「根」が生えていなかった。「この書名を間違えるようでは、こいつの知識も半端だな」「偉そうに、知ったかぶりをしてもすぐボロがでるよな」といったものを一切含まない「○○と言ってよ」だった。「私がこいつの無知を正してやる」という「○○と言ってよ」だったら、おそらく私の「オロカサ」は老師の「ワタクシが」のオマケとともに悲惨な余韻を残していたことだろう。

人の器量は咄嗟のときに垣間見える。いくらキレイを装っていても、「我(が)」が侵されそうになったら、たいていの人は自衛にまわる。室内で師家が雲水を叩きまくるのは、雲水の「我」を追い詰めて、咄嗟の自衛を木っ端微塵にするためなのだろう。なんと温かい親切か。

私は室内の修行などまったく知らない素人だが、老師の明るいお声を受けて、私の「つまらん我(が)が自衛にまわることすらなく、「つまらん私」から、一瞬スルリと消えたのを感じた。その心地よさは、今なお不思議な余韻として残っている。

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地域猫のクロちゃん




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“ノラム城 日の出” ターナー

五年ほど前だったか、どこかの母親猫が小さな黒猫を農学部の近くの住宅地に置き去りにした。よろよろと歩くおチビのクロちゃんは、だれにでも声をかける愛想の良い子猫で、地域の人たちに大層かわいがられた。どこのネコというふうでもなかったが、まさに口あって喰らわずということなく、だれかが必ずクロちゃんを養った。

クロちゃんは、生来虚弱で歩行もすんなりといかず、ある日心配した有志たちが、獣医に診せた。白血病ということだった。それからは、だれがどう取り決めたわけでもないのに、みなが回り持ちで治療代を負担して、弱いながらも日々機嫌良く過ごし、次第に元気になっていった。子供たちからもよく声をかけられた。夕暮れ時など、道路の端に座って、道行く人を眺めているクロちゃんは、何かをねだるというふうでもなく、不思議な一幅の絵のようだった。

今年に入ってから、クロちゃんの眼のあたりにコブのようなものができた。どこかで怪我をしたのだろうかと、クロを知る各人が心配して、医者に連れていった。顔面腫瘍の一種だという診断だった。そのうち暑さとともに、クロの腫瘍は顔いっぱいを覆った。眼もよく見えなくなったようだった。その頃には医者に連れていかれるのをいやがるようになった。有志たちが、医者から薬を求め、心意気の高い一人が注射の仕方をならって、化膿止めの注射を打った。注射をすればかなり元気を取り戻すのだが、それでもだんだんやせ細っていった。医者は、腫瘍で脳がやられたら、おかしな行動をとるようになるかもしれない、そのときには、安楽死ということも視野に入れてくださいと言った。クロを知る各人が、それぞれに胸を痛めた。

酷暑の一昨日、クロが静かに息を引き取ったと知らされた。
享年六。

仏心の大海に生まれたクロちゃんは、仏心の海を泳ぎ、仏心に還ったのだ。
無垢のものの死は、ただ訳もなく辛いが、見事な一生だったなと、頭がさがる。

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夏期休暇




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暑中お見舞申し上げます
酷暑つづく毎日ですが、どうか皆様くれぐれも御身おいといくださいませ


さて、本日より弊所は夏期一斉休暇にて、職員一同お休みを頂戴しております。
ご質問に対する回答ならびに書籍の発送は、20日以降となりますがご了承下さいませ。

ブログの更新も8月19日まではお休み。その後も8月中は不定期となります。
どうぞ宜しくお願い致します。

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円覚寺のしいちゃん




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鎌倉円覚寺さんのブログ、居士林だよりにたびたび登場し、読者をなごませてくれる円覚寺のしいちゃんです。
会えるかな?!と思っていたら、会えました!

DVD撮影の際に遭遇したのですが、管長様はじめ、撮影スタッフや研究所職員が「しいちゃんだ!」と周りを取り囲み様子を眺めていてもどこふく風。一心に毛繕いをなさっておいででした。

しいちゃんはまだ小さい時に瀕死の状態であったのを、僧堂の雲水によって助けられ、管長様の指示により獣医さんのところへ連れて行ってもらい、一命を取り留めたそうです。
雲水さん「忍さん(にんさん)」が助けた事により、忍(しのぶ)ちゃんと名付けられ、しいちゃんと親しみを込めて呼ばれるようになったそうな。
youtubeでも、「円覚寺 猫 しいちゃん」で検索すると、ごはんを食べているしいちゃん、ゴロゴロ転がっているしいちゃんの動画が見られます。人気者ですね!

かなちゃんにはお会いできませんでした。またの楽しみにとっておきましょう!


と、ここまで書いて円覚寺さんのブログをとくと拝見して気がついたのですが、どうやらこの子はかなちゃんかもしれません……。が今日のブログはこのままでお許し下さいませ。

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『大愚和尚語録・拾遺・行実』 訓注・能仁晃道




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平成24年7月10日、禅文化研究所発行。できたばかりの本書を今日入手することができた。訓注は能仁晃道師である。「愚堂東寔」「雲居希膺」「大愚宗築」の三禅師を能仁さんは、「江戸前期の三大禅匠」と呼ぶ。彼らは「青年のころは行脚修行を共にし、大法なってからは、愚堂禅師は妙心寺に三住して一派の重鎮的存在となり、雲居禅師は松島瑞巌寺を中興し、道歌集『往生要歌』をもって庶民教化に勉め、大愚禅師はいわゆる〈大愚派三十六刹〉を開山中興して臨済禅の挙揚に励んだ」禅匠たちだ。

上記の愚堂禅師の語録は、三百五十年遠諱を記念して、平成22年10月(遠諱事務局刊行)に、雲居禅師の語録は、同じく三百五十年遠諱を記念して、平成20年9月(松島瑞巌寺刊行)に、いずれも能仁さんの訓注で出ている。

大愚禅師の三百五十年遠諱は、6年後である。能仁さんは、尊崇するこの三禅師の語録訓注を、是非自らの手で仕上げたいと念じていた。このたび、三百五十年遠諱を待たずに完成した『大愚語録』訓注の発行を研究所が即断したのは至極当然のことであった。

能仁さんの仕事は実に手堅い。編集作業の折、能仁さんの手がけた本を参考にさせて頂くことがよくあるが、いつも「大船に乗った」心持ちで、テキストの照合ができる。この安心感は仕事をしてゆくうえで絶大である。

本書も、「語録」は底本(無著道忠筆・京都龍華院本)を他の二本(岐阜南泉寺本及び京都法輪寺本)で校勘し、「行実」は底本(岐阜南泉寺本)を他の三本(岐阜多福寺本、京都法輪寺本、京都龍華院本)で校勘、その結果が分かりやすく太字で明記されている(「拾遺」は岐阜正眼寺本だけなので、もちろん校勘はない)。

注も過不足なく、必要な情報が極めて分かりやすく提示されていて、禅師に対する敬愛の気持ちまで伝わってくる。

良書をまた一冊書架に並べることができて、何とも嬉しい午後になった。

『大愚和尚語録・拾遺・行実』 訓注・能仁晃道

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日本印度学仏教学会第63回学術大会




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6月30日・7月1日と、横浜の鶴見大学で行われた、日本印度学仏教学会第63回学術大会に参加してきました。
世界的にも高い水準にある、日本の印度学仏教学の年に1回の学会とあって、外国人研究者も多く参加されていました。

今回は曹洞宗系の大学である、鶴見大学が会場であったこともあり、特別部会「いま、あらためて禅の現代性を問う」が置かれるなど、禅関係の発表も例年よりは多く、いろいろな面から勉強させていただきました。
発表者のなかには弊所の『雲水日記-絵で見る禅の修行生活-』を引用して、発表された方もいらっしゃいました。

今回の学会の最大のハイライトが、花園大学の佐々木閑教授による、大乗仏教の起源をめぐる最近の研究への批判のご発表であったことは、まず異論のないところでしょう(私もそちらを拝聴するために馳せ参じました)。

日本印度学仏教学会第63回学術大会の続きを読む

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我(が)がゆるむ




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森本省念老師

「あの人は我(が)が強いから、苦しいよね」「彼は我(が)の塊だね、シンドそう」なんて、よく言われるが、「我(が)」がなければどうなるのか。

「私には悩みはありません」と久松真一先生は言われたが、その久松先生の「私」を知りたくて、北原隆太郎先生は刻苦された。何十年にもわたる長い長い刻苦であった。その果てに北原先生は突き抜けられたのだと思う。私は初めて北原先生にお会いしたときのことを思う。二十代だった私はお見送りした京都駅のホームで声を上げて泣いてしまった。別れが悲しいなどというものではなかった。抑制の効かない涙がどんどん溢れた。がんじがらめの私の「我(が)」が、ふわりとゆるんだのだと思う。先生はそんな私にピョコンと頭を下げ、手を振って電車に乗られた。

そのころ、わが親友は岐阜の抱石庵を訪ねての帰り際、久松先生に見送られて、シャクリをあげて泣いた。

――久松先生は、私たちに付いて、ゆっくりと戸口まで来られた。混乱して、頭がくらくらするような状態の中で、私は、この美しい老人に触れたいという、抗し難い衝動を覚えた。だが彼の手を握った途端、午後の大部分の間、私の中で荒れ狂っていた苦悩が、一瞬のうちに堰をきって、どっと噴出した。存在の底が抜けたみたいだった。はらわたが千切れ飛んでしまったようで、私は悲痛な声で、しゃくりあげながら、号泣した。私の流す苦悩の涙を縫って、久松先生の声が響いた。「君の手を使わずに私の手を叩いてみよ!」(「無刀両断」『禅文化』145号)


「電力王」「電力の鬼」と言われた松永安左右衛門翁は鈴木大拙先生と親しかった。その縁で、ある日、「西田幾多郎を語る会」が東邦電力会社で催された。集(つど)ったのは、大拙先生や西田門下の人たちであった。そのうちの一人、森本省念老師が西田先生のことを話し始められたが、しばらくすると、突然松永翁が「くそ坊主、だまれ」と怒鳴ったのだという。そのときの様子を、大拙先生の秘書であった岡村美穂子氏はこう記しておられる。

――ところが、老師は聞いたのか聞かなかったのか、ご自分の前をすーっと風が通っていったというような様子で(中略)そのまま停まらないで話を続けておられるんですね。(中略)大拙先生も西田先生のお弟子さんたちも何事もなかったように、老師の話を聞いておられます。「くそ坊主、だまれ」という怒鳴り声は森本老師にも大拙先生やお弟子さんたちにも触れることなく、ただすーっと風が通っていったという程にしかその場の空気を動かさなかったんですね。すーっと通りすぎていって、どこか部屋の隅にぶつかって無能になって消えてしまった感じでした。もしそれが矢だったとしますと、老師の前を飛んでいって、力を失って落ちてしまったというようでした。(中略)突発的なこのような怒鳴り声が、大拙先生と西田先生の間におられる皆さんの集まりの広い深い空気のなかに吸収されてしまって何事も起こらず自然に経過したことに感銘しました。一瞬あんなにうろたえた私でさえその空気の中ですーっとなりました。松永さんは松永さんのありのままなんです。これもすごいことだと思いました。普通だったら、あんなことお客さんに言えるもんじゃあないでしょう。それを、堂々と言うというのは、松永さんのあり方だと思います。そしてご自分の怒鳴り声が無用になって消えるのを見定めたかのように、怒鳴ったことも忘れて松永さんご自身森本老師の話に聞き入っておられるんです」(「時・時の大拙先生」『禅文化」177号)

久松先生も大拙先生も省念老師も北原先生も、すっかり我(が)が解(ほど)けた人だったのだと思う。「我(が)」がなければどうなるか。多分こんな場が、いとも簡単に現成するのだろう。

私たちは、稀有な出会いを得て我(が)がゆるむと、大量の涙を流してホッコリする。しかし、悲しいかな、そう簡単に我(が)はゆるまない。まして、我(が)が消滅するなんてことは、遠い夢だ。「我が身を省みて」などと言うが、いくら反省を重ねても、強固な我(が)には歯が立たない。我(が)をもって、我(が)を征することなど、構造的に不可能だからだ。

だから日々、せめて、我が身をすっくと立て直し、我(が)をゆるめてくれる出会いを、いつだって受け入れられる私であればと、願うのである。

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花見




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久松真一先生

久しぶりに親友たちを誘って御所の花見をした。桜の時期はとっくに終わっていたけれど、それでも花はあちこち咲いていて、おまけに雨が降っていたので、静かでほんとうにすばらしい午後だった。親友の一人は以前にも紹介した坐禅三昧の人だ。もう一人は深い学識を備えた宗教学者だ。私たちはただひたすら御所を歩いた。ものすごい緑だった。三昧氏は、景色をめでるというより、景色のなかに溶けてしまいそうだった。

歩きながら、ふと、以前に柳田静江先生から聞いた話を思い出した。妙心寺山内の春光院の離れに宗教学者の久松真一先生が住んでおられたころのことだ。久松先生は京大の教え子たちにも必ずお茶を点てて、もてなされたという。あるとき、茶室で何人かの生徒たちにお茶を点てられた。当時その一人で、とりわけ禅の修行に純一だった北原隆太郎先生が、お茶を取り込んで、まさに頂かれようとした時、久松先生が、「そのお茶を飲めますか」と言われたのだそうだ。咄嗟に窮した北原先生は、お茶を頭からかぶってしまった。久松先生は驚いたふうもなく、次客の学生にお茶を点てられたという。

真に窮する人は静かだ。三昧氏の傍らを歩きながら、当時の北原先生が一緒におられるような気がした。三昧氏は、別れるときに「以前と同じ、真っ暗です」と笑って、帰っていった。

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僧侶のためのリーガルマインド

多様化し混迷化する現代社会が抱える諸問題は、宗教と無関係ではなく、僧侶自身が広い視野に立って物事を判断する能力が求められている。
臨済宗相国寺派の教化活動委員会では、これまで様々な講師を招き、宗教の立場からあらゆる社会問題を考える研修会を開催してきた。

この4月から始まった研修会は、東京基督教大学特任教授の櫻井圀郎氏を講師に迎えての「僧侶に必要なリーガルマインド、僧侶のための法律知識」で、宗教者に必要な法律知識を学ぶ全16回の講座である。
第1回は総論ということで、東西の法意識の違いや、宗教と法律の関係などについて、かなり駆け足の講義ではあったが、ポイントは押さえられた興味深い内容であった。2回目以降は各論に入って、より身近な問題がテーマになってくる。
日本人の法律嫌いは世界的に有名だそうだが、法人である寺院を管理・運営する僧侶にとって今後、法律知識は必須になってくるだろう。

今回の研修は広く他宗派、他宗教、そして一般の方々も参加でき、テーマごとの受講も可能である(受講料無料)。


詳細はこちら

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季節の大地の恵み




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春、芽生えの季節。
山からの恵み、タラの芽やこしあぶらを天ぷらにしていただきました。
新鮮な香りとその味に、春のエネルギーがぎゅっと詰まっています。

そして、大量の山椒の葉を、土鍋で佃煮に。台所中がなんとも言えない良い香りに包まれました。
美味しさはもちろんの事、作っている時から幸せ。

山椒の花は、御存知、土樂窯・福森雅武先生の『土樂食樂』より、かしわと花山椒(葉も入れてますが…土樂さんでは本当に花だけでなさるようです)の鍋でいただきます。

皆さんも是非とも、季節と共にある食卓を!
有難い春の恵みに感謝するひとときでした。

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人生の四季 -松田高志先生のお話より-




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コブシの大木 4/21 綾部にて


季刊『禅文化』にも何度か寄稿いただいております、私の大学時代のゼミ教授・松田高志先生を友人宅にお迎えしての勉強会でのこと。

今回は、松田先生からご提案のあった、-人生の四季-をテーマとし、様々な名著名言を引用され、先生なりの70歳の境界や、来し方をお話頂きました。

来し方については、シュタイナーの七年周期の図を用いて、先生が人生を振り返っておられました。
七年周期については、ネットで検索すると色々出てきますのでご関心ある方は是非。照らし合わせてみると、「ふむふむ」と納得する部分、まだいまいちわからない部分ありますが、なかなか興味深いものです。

そして、70歳を迎えられた先生が、“老い”について、「恩寵に気づかざるを得ないような苦しみ」・「強いられた恩寵」と仰ってたのがとても深く心に残りました。なんとも先生らしい“老い”の受け止められ方です。

また、老いのみならず、老若男女、誰にでもとてつもない苦しみが強いられる事があります。
それについては、「苦しみに徹することにより、大いなる恵みに気づかされるのであって、それはまた強いられた恩寵である」と先生が仰いました。

誰しも、他人に話せないほどの苦しみを多かれ少なかれ抱えていたりするもの。その真っ只中にいる時はなかなかに気づけませんが、乗り越えてみると、“今”を感謝できるようになるでしょうし、感謝の恩寵の雨が降り注ぎます。
苦しみから様々な事に気づく事ができるという点で、やはりそれは恩寵なのだなと附に落ち、この受け止め方がしっくりくるのでした。

また、神谷美恵子さんの著書、『こころの旅』より、お年を召された方について書かれた部分をご紹介下さいました。
あまり我を見せる事のない神谷さんが、珍しく著書の中で断定して仰っている事なのだとか。

「有用性ではなく、存在の仕方そのものによって周りの人々を喜ばせるという点において、子供と同じである」

このような存在になれるよう、歳を重ねたいものですね。

そして最後に、「やはり歳を重ねる、老いを受け入れるというのは辛いものなんです」と先生が度々仰っていたので、逆に素晴らしい事はと質問しましたら、

「毎日がほんとうに心の底からありがたい事」…と。
チューリップが咲いてもほんとうに有難い、食べ物が毎日とてもおいしくて心底有難い、有難いことづくしなんだそうです。
これは、私達若者でもそういう意識は常日頃持ち得るわけですが、どうやらその深さは、到底我々ではまだ理解し得ない所なのだそうです。深淵の度合いが違うのでしょう。

19歳で出会った我が師、既に15年師事しています。確かに出会った頃より先生はお歳を召されました。
ですが、歳を重ねるごとに、より一層深みが増し、より一層親しみやすく、より一層この方から学べるだけの事を学んでゆきたいという思いが募ります。有難い御縁です。

継続は力なり。
京都でお話会のような勉強会を開催しています。ご関心のある方はご一報を!

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或る生活―O氏のこと




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パウル・クレー Fish magic


O氏は酒好きである。食事は一日一回。夕食は(まあ、朝食といっても昼食といってもいいが)午後4時きっかりに始まる。O氏は料理が上手いから少し時間をかけて、4時には丁寧な食事が並ぶ。ほとんど音楽を聞きながらゆっくりと食事を楽しみ、6時過ぎには食事の片付けも終えて床に入る。たっぷり7時間ほど熟睡し、起床は午前1時過ぎ。それからO氏の楽しい時間が始まる。おおよそ午前7時くらいまで、読んで書き、書いて読む。O氏は集中力の権化だから、夜が明けるのはあっと言う間だ。1時間ほど散歩して人参を搾って飲むと、坐禅タイムだ。昔はしんとした場所で坐っていたが、今は特にモーツァルトを聞きながらが多いという。昼ころまで坐ったら、のそのそ床に入って半時間昼寝する。一人暮らしのO氏はこんな生活を週5日ほど続けて、残りの2日間で、まあ率のいい仕事をして生活費をかせぐ。O氏は研究者で、その道ではかなり質の高い本を何冊か出しているが、ほとんど組織に属したことがないので、お金が十分にあった例しがない。食べられないほど窮乏したこともない。「肩あって著(き)ずということ無く、口あって食らわずということ無し」と思ったことがあるのかないのか。O氏を前にすると、「老後はどうする?」といった問いが、口から出る前に霧散してしまうのが、我ながら可笑しい。彼のことを「負け組」といっても「勝ち組」といっても、なんだかしっくりいくような気がするのも、また可笑しい。

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医療費雑感

先月いただいたお給料。
またもや健康保険料が上がり、わずかばかりではありますが、手取りが減っていました。

最近よく考えるのです。

お年寄りが病院通いをするのが日課のようになっていたりします。それが彼らの健康や精神を支えて、毎日の楽しみとなっているのを否定してはいけないのかもしれません。
ですが、本当に必要で通っている人は何人いるのでしょうか。
病院でいつも来ている人をみかけないと、「あら、○○さんみかけないねぇ。どこか悪いのかねぇ?」。 
おかしくはないでしょうか?

現代人はことに、自身の身体の事についてよくわかっていないと思います。
色々な意味で、“自然”から切り離された生活。身体に何か起きれば、それを静かにみつめ、原因を自分で追求するよりも、とりあえず医者に薬。
何かにつけて、便利なものに頼りすぎている生活。もちろん私も例外ではないでしょう。

医者や薬が全く必要ないと言っているのではないのです。ただ、国民の一人でも多くが、自己管理という事をもう少し自身でできるようになれば、莫大な医療費の負担は軽減され、悪循環は減るのではないかなと思う次第です。

そんなこんなに、仏教や禅は、大いに貢献できると私は思っています。
仏教の考え方、坐禅、呼吸法などは、身心を健やかにする為にあると言っても過言ではないでしょう。


先ほどの、病院通いのお年寄りの話ですが、これが、お寺通いになると良いのになぁ…と思っています。依存させない、でも頼りにしてもらう……というのは難しい事なのでしょうが。

最後に、本日の話題にかこつけて、研究所の本のご紹介。 『禅と東洋医学』。 こんな本も出版させていただいております。
宜しくお願いします。

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羽釜で炊くごはん




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私ごとですが、ヨガを始めた事、また、昨年3月11日の大震災をきっかけに、少しずつ自身の生活が変化しています。食べる物の選択はもちろんの事、それを作る過程にも……。
炊飯器を使うのをやめて、土から作られた陶器の羽釜を使い始めました。

自然界に存在する土を使い、一つ一つ職人の手によって心を込めて作られた美しい物を使うという事は、日々のくらしに本当の意味で潤いを与えるな……としみじみ感じています。
単純に、“気”持ちが良いのです。
台所でごはんを炊く際にも、美しい織部釉の釜や分厚い木の蓋を見て、湯気があがる様を見ていると、温かく柔らかい心持ちになれます。

意識が変わるという事は、自分の周り、世界が変わってくるのだなと思う出来事の一つです。
お釈迦様は、自分を変える事で、世界の見方や周りを変える事ができるという所を説かれましたが、自身で日々色々と試してゆくと、そこのところが実感できるのだなと思った次第です。

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NHK【100分de名著選】  ブッダ-真理のことば-




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ブッダ-真理のことば- NHKサイトよりお借りしました

NHK毎週水曜日夜10時~【100分de名著選】にて、「ブッダ-真理のことば-」がアンコール放送されています。
私も大ファン!の、花園大学国際禅学科教授の、佐々木閑先生がゲスト講師として出演されています。非常にわかりやすく、ブッダの教えについてを皆さんにお伝えしておられます。
まさに今の時代、そしてこの3月という震災から1年を迎える月に相応しい内容だと思えます。

是非ぜひご覧になってみてください。

弊所の季刊『禅文化』での連載記事は、こちらでご覧いただけます。-戒律のはなし-です。
仏教や禅に関心が無い方も一度読んでいただきたい内容となっています。

戒律のはなし(一)より、佐々木先生が御自身の事を書いておられる文章をこちらに抜粋し、掲載しておきます。

 科学は絶対の真理を追究する崇高な学問で、仏教学だの歴史学だのは、過ぎてしまった過去のことをうじうじとつっつきまわすだけの無意味な趣味、というのが、私、幼少のみぎりの思いであったわけですが、その科学にも厳然として歴史的背景があるということを知るに至り、仏教も科学も、数学も哲学も、経済学も文学も、およそ学問と呼ばれるものはすべて、歴史性を基盤とした人間活動の一環として扱うべきものだと思い至ったのです。このように考えると、俄然、仏教を学ぶことに誇りが生まれてきます。科学も仏教も、その時代時代の最高の叡智が、宇宙の真理を解明するために懸命の努力をした、その痕跡であると考えるなら、同じレベルの気高き人間活動と考えることができます。仏教を歴史的に解明し、その意味を理解するということは、物理学の歴史を辿ってその最先端に立ち、宇宙法則を発見していく科学者の作業と、本質的に変わるものではないのです。

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師匠の点前




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茶の湯の稽古を始めてはや12年。
潔癖症で人一倍変にこだわりのある私が、茶の湯の世界を大好きになり続けて来られたのも、ひたすらに学び続け、茶の道に対して真摯にあり続ける師匠のおかげです。

先日のお稽古で、涙が出るほどに感動し、心うち震えた師匠の姿。
稽古中の弟子が、茶杓を清める所作に移ったところ、
「宗心宗匠(表千家・堀内宗心宗匠)はね、このように茶杓を清められるわよ」と手本を見せて下さった、その所作。
もうそれは、宗心宗匠が乗り移ったか、そこにいらっしゃるかのようなのでした。
まさに伝統とは、道とは、このように受け継がれてゆくのだなと改めて思ったわけなのです。

齢八十を超えた師匠。娘時代から続けてきた茶の湯の稽古なわけで、身体にしみついてしまった点前は、そうそうすぐに変える事ができない事は、たった12年しかお稽古していない私でもよくよくわかります。
ですが、いつもいつも宗匠のお稽古で新しい事を学んでこられると、すぐにそれを実践し、今までの点前と違っていても、「この間の会で、宗匠がこのように仰ったから……」と、とても柔軟に対応されます。

稽古を続ければ続けるほど、素直にならなくてはいけないと思います。
長年稽古を続けてゆくうちに、どうしても自身の癖が顔をのぞかせます。長くなればなるほど、師匠に注意されても、自分を律して素直に従う事ができにくくなってゆくように思います。我の強い私はことさらです。
そんな自分を捨て去って、ひたすら素直に、全身で師匠の教えを受け取りたいと願う今日この頃。
『歩々清風』(堀内宗心著・禅文化研究所刊)の大好きな文章を思い出します。茶の湯の稽古をされている方には是非手に取っていただきたい本です。

師匠の点前の続きを読む

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おばあさんのかんざし




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私事ですが、母方の郷里の出雲にて、先祖の墓を守る人がいなくなる為、関西に墓を移してきました。

幼い頃、夏休みに遊びにゆくと、親戚中でお参りをしたものです。
そんな、先祖代々が眠るおっきなおっきなお墓が無くなる事に一抹の寂しさを覚えながらも、「これで墓参りがすぐに行けるようになった」と喜ぶ母や、母方の親戚を見ていると、「やはり、良かったのだな」と嬉しい気持ちになります。

小さい頃の記憶なので定かではありませんが、出雲の墓では、墓の下の扉を開けると、骨壷を納めるのではなく、そのまま骨を埋める(というよりも、土の上に返す・2~3代前までは土葬)ような形になっており、少し前に納められた頑強な骨はまだ土に返っていないのを見た記憶があり、幼いながらに、命のリレーというものを感じていたのだと思います。

閉眼供養の為に出雲に帰っていた母が、「あなたの曾祖母か、その上のおばあさんかわからないけど、鼈甲の櫛とかんざしが出てきたよ」と言ってきた為、写真を撮ってもらってから、またこちらで新しい墓に納めました。

「先祖を大切に。あなた一人で生まれてきたわけではない」と言葉で言われ、当たり前のことであるので意識しようとしても、形が見えないものを意識する事はなかなかに容易ではありませんが、おばあさんが実際に使ったであろう櫛やかんざしを見て、私の心は、何か表現し難いのですが、とてもほっこりと温かく、嬉しくなったのでした。

自分というものを意識して、前に進もう、生きてゆこうとする時、強烈に先祖の存在を感じる事は、命のありがたさ、尊さを思い、自らが歩む道においてパワーになってくれるものだなと改めて思った出来事でした。

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第8回 臨黄教化研究会




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2月23~24日と臨黄合議所の「第8回 臨黄教化研究会」が、花園大学の教堂にて行なわれました。
今回の研究会の基本テーマは、“ 「お寺の危機Ⅱ」― 震災、今私たちにできること―”というもので、全国各地から、若手僧侶が中心に80人弱参加されました。
禅文化研究所は臨黄合議所の事務局を受け持っているため、スタッフとしてお手伝いをしました。

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初日は解剖学者の養老孟司先生の基調講演 「震災から問われているもの」でした。解剖学者としてどういう視点から震災について語られるのかと思って拝聴させていただきました。
いろいろなお話を伺いましたが、私が興味深かく感じたのは次のようなことでした。

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地球交響曲第6番上映会 -西田幾多郎記念哲学館-

今年はじめに訪れました、石川県かほく市にあります、西田幾多郎記念哲学館

そちらで、下記内容にて、私の大好きなガイアシンフォニー第六番の上映会があるようです。

場所も素晴らしく、こちらでの上映会、羨ましい限りです。
第六番ということで、音楽に関心ある方、音に関係するお仕事や』お勉強をなさっている方には特にオススメです。

日時 平成24年3月20日(火・祝)
    10:00~ 13:00~ 16:00~ 19:00~
料金 一般500円(当日券のみ)
    小中高生・哲学館友の会会員無料
出演 ラヴィ・シャンカール(シタール奏者)、ケリー・ヨスト(ピアニスト)、
    ロジャー・ペイン(海洋生物学者)ほか

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禅はいずこに……




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羽釜で炊いた、菜の花とじゃがいものスパイスごはん(バスマティ米)


「京都なんてところにいたら、禅が身近ですよねぇ」。
というセリフをしばしば耳にします。

確かに、多くの禅寺があり、家の前を雲水が托鉢して歩き、坐禅会なども頻繁に行われ、環境としてはとても“禅”に近いように思います。
ですが、我が研究所から刊行しました、所長・西村惠信の著書『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』にもありますように、「禅はどこにでも転がっている」わけです。恵まれた環境があっても、無い人には無い。環境がなくとも、ある人にはあるのかなと思うわけです。

禅ってそれじゃあ何なの?ってことになるのですが……。

私事ですが、友人がお店をオープンします。彼女は子育てをしながらご主人と二人三脚で、古い町家の改装なども自分たちで工夫して行い、開店の準備をすすめています。
まだオープンはしていないのですが、彼女の作る料理が大好きで、お願いしてお昼御飯をいただきに、友人とお邪魔しました。

卵や牛乳、肉・魚を使わないお料理で、いわゆる今流行りのマクロビ、精進料理のようなお料理なのですが、どこにも属さない、ここでしかいただけない、彼女流のお料理なのです。

お料理をいただいていると、私の友人が「いつもよりよく噛んで食べられる」と。
それぞれの素材が、今まで食べたこともないような方法で調理され、彼女の感性によってスパイスが使われたり、とても工夫されているわけなのです。

すべてが新鮮で、香りにも食感にも敏感になり、おのずと五感を研ぎ澄まし、よく噛んで味わっていただくようになり、明らかに、心も身体も喜んでいました。

私が私の主人公となり生きている彼女を見て、また、素材の命を生かし、それを食する者の命(身体も心も)をも生かす料理を作る彼女に、「禅のある人だな」、「ここへ来ると、そこらじゅうに禅が転がってるな」と思い、味わい深い良い休日となったのでした。

みなさんの周りにも転がっている“禅”、探してごらんになってみてください。

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千住真理子さんコンサート -シンフォニーホール-




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彼女が紡ぎ出す音色に、「本当に優しく、慈しみ深くあるということは、とても柔らかく強くあること」と、改めて思いました。
しなやかな強さが無くては、深い慈しみを帯びた音色は奏でられないのでしょう。
彼女の人としての在り方、その人生が音に出ていて、感動することしきりでした。
“気付き”を与えてくれる演奏に、心底酔いしれた休日。

今回は特に、東日本大震災への思いを込めて、“祈り”が込められたもの、崇高な趣きある曲が選ばれ、チェンバロとヴァイオリンが奏でる音が、聴いている者を時空を超えた世界へと誘うかのようでした。
美しいものというのは、尊くありがたいですね。

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真空管のラジオ。電池式。




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たぶん昭和ごく初期の真空管ラジオ。電池を電源とし、ラッパ型のスピーカーで鳴らす。真空管はナス型の201A(直熱型の三極真空管)が5本、バリコンが三つ、かご型のコイルが三つなど、見た目は豪華だが、作りが何となく素人くさい。町のラジオ屋さんの組み立てといったところか。
当方全く知識がないが、昔の本を頼りに配線を調べてみると、高周波増幅2段、再生検波1段、低周波増幅2段で、ニュートロダインという方式に近いようである。しかし肝心のニュートロドン(中和コンデンサ)が見当たらず、取り外した形跡もない。高周波増幅を2段も備えていて、発振など起こさず満足に動作したのだろうか。現在は結合トランスも断線しており、当然鳴ることはない。

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“豊かさ”とは -友人たちとの勉強会にて-




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何度かこのブログでもお伝えしています私事ですが、大学卒業後、ゼミ担当教授とゼミの仲間達と2ヶ月に1度、10年以上に渡って母校にてゼミを続けて来ています。

最近では、ゼミ仲間以外の方達とも共に学びたい……と思い、京都でも勉強会を開催しています(もしも関心おありの方がいらっしゃれば、詳細お伝え致しますのでご一報下さい)。

先日の友人宅での教授を招いての勉強会では、“豊かさ”についてをテーマに話し合いの会を持ちました。
“豊かさ”の尺度は本当に人それぞれです。皆さんにとっての“豊か”とは、どういう状態を言いますか?

私は、禅の、“無一物中無尽蔵”というような考え方といいますか、世界観が大好きで、必要最低限の物しか持たずに生活を送る僧堂の写真集などを見ていても、なんと美しいのか……とうっとりと溜め息をついてしまいますし、究極の憧れの世界だと思えます(といって出家はしませんが……)。
その真髄に少しでも触れ、解する事ができるならば、様々なものへの執着を手放し、限りなく広く豊かな世界があるという事だけは確信していますので、“禅”や仏教、茶道の精神性などに殊の外惹かれています。

先日も、若い女性に禅文化研究所で働いていると言ったところ、「何でそんなところで!?」と驚かれました。彼女にとっては、陰鬱な暗いお寺のイメージ、華やかさなど全くない世界で……というようなことなのでしょう。
ですが、私にとっては、どんな華やかな世界や、世間一般にいうところの“セレブ”な人々がいる世界よりも楽しく、魅力的な“禅”の世界なのです。

お坊さんでもない私が、どのようにその魅力を伝えられるのかな……と、最近考えています。友人たちには、自身が研究所でお坊さん方と働き、思うところや、老師にインタビューをさせていただいて感じた事などを伝えたり……といったことはよくしているのですが、研究所で何かできればと思います。
具体的な事が決まりましたら、またこちらでもお伝えできればなと思っています。

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未知への挑戦~新たなる和紙の可能性を求めて -堀木エリ子さん講演会-




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和紙デザイナー、堀木エリ子さんの講演を聴きにウィングス京都に行ってきました(和紙デザイナー…という一つの肩書きで彼女を表現する事に違和感を感じて仕方ないのですが……)。

前々から、メディアで紹介されて存じ上げてはいましたし、京都のあちらこちらで作品を目にして、素敵だな……と思ってはいましたが、実際に講演会にお邪魔し、モデルさんのような美しい容姿から溢れ出す情熱、親しみやすいお人柄、人の心をひきつけるお話に、すっかりファンになってしまいました。

講演では、どのように和紙の世界に入り現在に至るか……を端的にお話下さり(様々なサイトで紹介されていると思いますので、興味のある方は調べてみてください)、これまでの人生において、様々な新しい挑戦を試み、幾多の困難をも乗り越えてこられた原動力となったのは、“腹の底から湧き上がるパッション、情熱”である……との事を仰っていました。
しかしながら、その“腹の底から湧き上がるパッション”も、壁にぶつかると、踏みにじられ、萎えてしまう。そんな時にもう一度その情熱を奮い立たせるには、ものごとの原点に立ち返る事。そうすると、自分が何をすべきかをいま一度確認、確信でき、再びパッションが湧き上がってくるのだと。
これの繰り返しである彼女の人生は、困難の連続であったにも関わらず、それと同じだけ、喜びと輝きに満ち満ちているようでした。

人生とは、周りの要望に気付き、それが年々変化してゆく事に気付き、生きてゆく事。それに気付かなければ、単なる“なりゆき”にしかならない。そして、周りからの自分への要望にこたえる為には、腹の底からわき上がる情熱、パッションを持って事に臨んでゆく。壁にぶつかったら、原点をみつめなおして、そこからどうすれば良いのかという答えをみつける。そして、いただいた御縁を大切に。 天職とは、みつかるものではなく、生涯かけてこの仕事をやろうという“決心”が天職に繋がる。

珠玉のことばの数々。ぶっとく美しい芯がピシッと通った彼女の話を直接聞き、そのお姿を拝見した事で、自分の立ち位置をいまいちど見つめ直し、今後の人生について考えさせられた講演会でした。

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人生の荷物は少ない方がいい -禅僧になったアメリカ人-より




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震災からはや8ヶ月以上が過ぎましたね。
皆それぞれが、自身の人生や生き方について考えたかと思います。

最近私が気をつけているのは、食べ物でも、その他のものでも、その“選択”についてです。例えば、一つの野菜を買うことが、どう生産者や流通と繋がり、自身の身体や心へと繋がってゆくのか。同様に、一つの生活雑貨、着る物などを選ぶ時もです。

元々、色々なものの“選択”においては、こだわりを持って生きているつもりでしたが、震災後はまた違った視点での物選びをしています。
そして、自身が心底気に入ったものにのみ囲まれてシンプルに暮らせるよう、物の整理などもよくしています。そうすると、自然と部屋もさらにスッキリし、持ち物もスッキリし、心までスッキリしてきます。

そんな折、仕事をしていて久々に『禅僧になったアメリカ人』を手に取り、-人生の荷物は少ない方がいい-という、著者トムさんの言葉が目に入りました。

見える物、手に取れる物のみならず、目に見えない心に関する事においても、執着が少ない(荷物が少ない)方が、人は軽やかに、でもどっしりと大地に足をつけて生きてゆけそうだな……と思った次第です。

持ち物を整理したり、心の整理をする為の様々なハウツー本が出ていて、その中には素晴らしいものももちろんあると思いますし、各々に合った本があるとは思います。

が、直接的な方法(ハウツー)をそのまま読んで実践するのみならず、是非、トムさんのリアルな半生を読んで、そこから自身の生き方を考えたり見つめたり、荷物の減らし方を学び取ったり感じ取り、独自の方法を作っていっていただけたら……と思う次第です。

『禅僧になったアメリカ人』トーマス・カーシュナー

人生の荷物はできるだけ少ない方がいい
自己をも捨てきれたら、他に願うことは何もない
トーマス・カーシュナー
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ダライ・ラマ法王の通訳者 -マリア・リンチェン女史-




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ブータンのチベット僧院にて

どれだけ引っ張るのですか?という感じですが、お付き合い下さいませ。
またまた先日のダライラマ法王の講演についてです。

大阪、高野山の講演で、私が非常に感銘を受けた事の一つに、“同時通訳の方の通訳の素晴らしさ”があります。

私が約十年ほど前に、京都の精華大学にて初めて猊下の講演を拝聴した時には、やさしい英語での、主に学生に向けたお話であった為、仏教の専門用語が出てきたり、哲学的な見解が出てきたり…といったお話はほぼ無かったように記憶していまして、特にその時の通訳者の方が誰であったか……などは気になりませんでした。
また、何冊かダライ・ラマ猊下の書籍を読んではいますが、その際にも、書籍である為に、特に翻訳者の方について気にするという事はありませんでした。

ですが今回、大阪での講演は、龍樹菩薩(ナーガルジュナ)の『中論』から“空”の理論についてまで詳しく解説がなされ、通訳者の方が、非常にわかりやすく即座に的確に日本語に訳されていました。

法王猊下の1つのお話もなかなかに長く専門的で、これは、チベット語や英語を単に日本語に同時通訳できる……というだけでこなせるような内容ではなく、仏教・ことにチベット仏教の深い理解と知識が必要とされる内容でした。

いったいどのような方なのだろう……と思っていましたが、先日家でダライ・ラマ法王の『心の平和』(サンマーク出版)を再読していた際に、もしやと訳者の方のプロフィールを見て、「この方に違いない」と思いました。

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ダライ・ラマ法王猊下 大阪講演でのひとこま




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チベット仏教寺院にて_ブータン


さて、先日も長々と書いてしまいましたが、本日も少し大阪講演での事をお伝えしたいと思います。おつきあい下さい。

般若心経より、“空”についてのお話をされ、「全ての現象は、それぞれの実体を持って存在しているわけではなく、あたかも幻のごとく現れては消えているのであって、現れているようには、究極のレベルにおいては存在していない。五蘊も意識も空である」というような解説があった為、中学生くらいの男の子が、

「僕と友人との友情も幻なのですか?」

という質問をしたのです。とても純粋な良い質問だなと思いました。
それに対する法王猊下のお答えは、中学生だからと真理をあやふやに解説したり、妙に易しく説くのではなく、真理は真理として、また丁寧にくわしく“空”についてを説かれました。

彼にとってはおそらくその様子から、「???」だったのでしょうが、直接法王猊下に質問をし、とても丁寧に詳しくお答えをいただけた事によって、今後自身の人生を生き、様々な事を経験し、勉強してゆく過程において、ふとこの時の事を思い出す事が必ずや幾度も訪れる事と思います。
そして、その都度理解を深めて、「あの時猊下が仰ったのはこういう事なのか」「こういう事なのかもしれない」と、自身に馴染ませてゆけるのではないかと思いました。とても貴重な体験をされたなと思います。

お答えになったのが、ダライラマ法王なのだから、我々とは違う……と思いがちですが、大人が子どもに何かを説明する際、まだわからないだろうからという理由であやふやにしたり、説明をしないというのは良くない事かもしれないな……と思いました。

「注意深くありなさい」と仰っていましたが、注意深く法話を拝聴し、考えてみれば、何時間かのお話の中に、ありとあらゆる教えが含まれている……と、今反芻している所です。また思う所があれば、皆様と分かち合いたいと思いますので、宜しくお願い致します。

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ダライ・ラマ法王14世 大阪特別講演 高野山講演




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10月30日の大阪特別講演、31日の高野山特別法話にでかけてきました(研究所とは関係無く、個人的な希望からです)。

二日間の講演に連続して参加させていただき、法王猊下の御言葉を拝聴し、終始一貫して伝えようとされていたのは、「世界中の一人一人が、他者への相互理解を持ち、それを深めてゆく事によって、より良い世界を創造してゆく事。その為に我々がどうあるべき、どうすべきか」という事であったかと思います。

チベット仏教の最高指導者という立場にありながらも、何らかの信仰ある者のみならず、信仰無き者には、“世俗の倫理観に基づいて、思いやり、慈悲心を高めてゆく方法、そのように生きる為の教育の重要性”を説かれました。法王ご自身が、深い深い他者への理解によって、どのような立場にある人にも届くようにお話をされる事に深い感銘を受けました。菩薩の化身とは、何百人に語っても、その人一人一人の所へ届くよう、近く寄り添ってお話してくださるものなのだな……と感じました。
難しい哲学的な話、宗教学の話も交えての講演でしたので、個々に理解度は違えど、必ずやそれぞれの胸に響くものがあった事と思います。

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今回、大阪講演では、般若心経に説かれる“空(くう)”の教えについて大変明解な解説がなされました。
法王御自身が政治的に困難な局面にありながらも、“空”への理解を深める為の瞑想を既に50年以上も続け、“空”への理解を自分自身に“馴染ませてゆく”事によって慈悲心を養い、他者への愛を持ち、相互理解につとめておられるお姿は、全人類の良き手本であると思いました。法王ご自身が50年以上実践されて、「良い結果が見え始めています」との事。

活仏であり、観音菩薩の生まれ変わりであるから、その事のみで偉いのではない。たゆまぬ努力を今もなお続けておられる事によって裏付けられる尊さがあるのです。
永源寺の亡き篠原大雄老師が、「悟りなんてものはわかりませんね。日々の積み重ねじゃあないですか」と仰っていた事をふと思い出しました。

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Kバレエカンパニー -白鳥の湖-




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熊川哲也さん率いるKバレエカンパニーの公演、-白鳥の湖-を観に行きました。

その指先の先、見えない所にまでゆき届く神経の細やかさ(でもとっても自然)、バレエを始めたその時から今に至るまで日々積み重ねられて来た努力と鍛錬、そしてストイックな現在の生活、その全てを、舞台の上では隠しきれないオーラとして身にまとっていらっしゃいました。美しさに、終始溜め息でした。

ふと、ある老師が、「室内での1分で、その日の残り一日どう過ごしていたかが全てわかる」と仰ったのを思い出しました。


夢のように瞬く間に過ぎた2時間超の公演。
近頃は、“癒し”という言葉がいとも簡単に安売りされている感がどうしても否めませんが、本当の癒しとは、このようなホンモノを観て、ひととき生の苦しみから解放され、感動に満たされる事をのみ言うものだな……と思った夜なのでした。
芸術は、人間の生活に欠かせないものです。

また、今回とても心惹かれたのが、ロットバルト役の方のダイナミックな美しい舞です。悪役も、美しく強くなくてはならないですよね。見事でした。


心からの感謝と感動を、手が痛いほどの拍手と、スタンディングオベーションによって送って来ました。夢のようなあの世界へ、また訪れたいと思っています。

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京都仏教文化フォーラム




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来週木曜日(10/20)に京都大学で開催される、「京都仏教文化フォーラム」という催しに、弊所編集部の西村がシンポジストとして登壇し、「IT社会と伝統教団-禅門の立場から」と題してお話をすることになっています。
入場は無料で、当日参加も可能ですが、混雑が予想されますので、こちらから予約申し込みをすることもできます。
興味のあるかたは是非お越しください。

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京都仏教文化フォーラム
「仏教文化とコンピューティング2011/祈りと安寧の都市・京都~クラウドと情報デザインと仏教文化」

 日時:2011年10月20日(木)10:00~17:15
 会場:京都大学百周年時計台記念館・交流ホールI
 主催:京都仏教文化フォーラム
 共催:国民文化祭京都府実行委員会
 定員:100人
 料金:無料

プログラム:
【第1部/午前の部(10:00~12:00)午後の部(13:30~15:00)】情報社会と仏教文化/現代的変化と今後
[解説]「仏教文化とコンピューティング」という視点/福井文雄(京都仏教文化フォーラム代表、真宗大谷派僧籍)
[報告1]社会情報学と仏教文化の接点・社会情報学の立場から/菱山玲子(早稲田大学理工学術院教授)
[報告2]超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」の取り組みから見えてくるもの/松下弓月(インターネット寺院「彼岸寺」編集長、東寺真言宗宝善院副住職)
[報告3]IT社会と伝統教団-禅門の立場から/西村惠学(財団法人禅文化研究所員、臨済宗妙心寺派興福寺住職)
*各報告後に討論を行ないます。

【ブレイクタイム(13:00~13:30)】宗派ゆるキャラミニシンポ
司会:たわわちゃん(京都タワー)
アシスタント:英月(真宗佛光寺派大行寺副住職)
シンポジスト:
・しょうぐうさん(天台宗務庁・一隅を照らす運動総本部)
・なむちゃん(浄土宗総本山知恩院)
・あかほんくん鸞恩くん蓮ちゃん(真宗大谷派東本願寺)
・おりんちゃん(西本願寺門前町西植柳まちづくりプロジェクトチーム)
・ブットンくん(真宗大谷派大阪教区難波別院・南御堂)
・ゲスト:まゆまろ(第26回国民文化祭・京都2011)

【第2部(15:15~17:15)】現代社会と「祈りと安寧の都市」概念
[解説]「祈りと安寧の都市」という視点/福井文雄(京都仏教文化フォーラム代表、真宗大谷派僧籍)
[報告1]京都大学大学院工学研究科・医学研究科「安寧の都市ユニット」における"安寧の都市"概念/土井勉(京都大学大学院工学研究科特定教授)
[報告2]祈りの都市のまちづくりの可能性/川崎修良(京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程)
[報告3]祈りの形-宗教者災害支援ネットワークの活動から考える/吉田叡禮(花園大学国際禅学科准教授、臨済宗妙心寺派観音寺住職)
*各報告後に討論を行います。

開催趣旨:
京都は多様な宗教施設が集積し、宗教的な習わしや祭事が長い年月をかけて人々の暮らしの中に息づく"宗教文化都市"として多くの人々を魅了してきました。

本イベントでは、この京都が持つ宗教文化都市としての価値を、今日のコンピューティング技術(人と人との交流・心の豊かさを育むコンピューティング技術)がもたらす成果と"情報デザイン"という手法を通して今日的視点で再評価し、"観光"のみならず、「生活とまちづくり」「社会問題の解決」「産業振興」といった各分野の次代を創るデザインとなりうるかの可能性を模索します。

今回、この作業で創られる未来都市を「祈りと安寧の都市・京都」と名付けました。日本の都市は、今後急速に高齢化と単身化が進み、人間関係の変化は「無縁社会」「孤族の国」という言葉を生み、モノと人、人と人との新たな関係構築を求めています。安心と安全だけではない"何か"は、近代が作り上げた「個人主義」の再検討を求めているようにも思われます。「人を思いやる文化」「心の豊かさ・幸福感」など、従来抽象的に語られがちな人の関係性を整理するこれからのコンピューティング技術についても考えます。

*本イベントは「第2回文化とコンピューティング国際会議(2011年10月20日~22日)」の協賛企画として開催されます。
*また、本イベントは「第26回国民文化祭・京都2011/まゆまろチャレンジ」に登録されています。

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サーフィンと禅 ガイアシンフォニー第四番




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いつ頃からか、私は“サーフィン”というものに興味を抱いています。海で波に乗るあのサーフィンです。

サーフィンの事を考えながらヨガのお稽古に行ったある日の事、ヨガの先生がレッスン前に「さまざまなものに抗う事無く、沿って生きてゆく生き方」についてお話されていた際に、サーフィンの話になりました。
波を征服しようと思っても波に乗れるものではなく、波に沿う、一体となる事が大切という意味から、ヨガとサーフィンどちらもをされている方は多いのだとか。

また、サーフィンをする知人が、「波に乗れた時の感覚は、坐禅をして気持ちよくなった時の感覚と同じなのではないかと思って、禅の本を読んでみた事がある」と……。

そして先日、ガイアシンフォニー第四番のDVDを観ました。出演者がどういう方達かを知らぬままに観たのですが、伝説のサーファー、ジェリー・ロペスが登場し、これまた非常に興味深い事を多々お話されていました。

「まさに波に乗っている時は、仏教や禅でいうところの“空”というものに近いのかもしれません」。
「サーフィンは、一種の深い宗教体験です」。
「サーフィンによって、本当の自分、自分自身の中にある静寂に触れ、その事が、絶対的な安心へと自分を導いてくれるのです」。
「波に沿う事ができるようになると、その後は調和(ハーモニー)を学びます。そこから学んだ調和を家庭生活にまで落とし込んで来るのです」。

また、彼はヨガもされていて、「ヨガには、人類の叡智が詰まっています」とも仰っていました。本当に私もそう思います。


さて、何故かイメージ的に“サーファー”というと、遊び人、ちゃらちゃらとしている…などと、勝手な想像を抱きがちですが、知人が言うのには、身心共になかなかに過酷である為、格好だけで始めた人はすぐにやめてゆくのだとか。

ヨガに茶道、華道など、色んなものに手を出しすぎな感ある私ですが、スポーツで、似通った到達点を目指すように思えるサーフィン。私の好奇心をくすぐってやみません。
新しい事を始めるのに年齢など関係無い!今年の夏は過ぎ去ろうとしていますが、来年には必ずやデビューをと思っています。

*研究所のお仕事で御縁のあるお坊さんの中で、サーフィンをやっている方にまだ私は出逢ってはいませんが、これからちょっとアンテナを張っておこうと思っています。その方に、サーフィンと禅(宗教)の共通点など、お聞きしたいものです。お聞きしましたら、どなたも興味無き事かもしれませんが、また皆様にご報告させていただきたいと思います。

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タイのお寺でルーシーダットン




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先日も少し触れましたが、今年の夏休みにベトナムへと旅行してきました。
タイ航空での旅行でしたので、往路にバンコクで一泊して、少しだけタイを楽しんで来ました。
早朝バンコク着の便でしたので、荷物をホテルへ預け、さっそくワット・ポーという寺院にて朝8時から無料で行われているルーシーダットンを体験に行ってきました。

タイ式ヨガ、仙人体操などと言われ、もとはインドから仏教と共に伝わったとされるルーシーダットン。ヨガの稽古をしている事もあり、違いなどを知りたい為、一度体験してみたかったのです。

タイ人の先生がタイ語と英語を交えて行うレッスン。ゆ~ったりとした流れで、おおらかなタイらしく、気持ちが落ち着きます。最初は簡単なストレッチのようなものだな……と高を括っていたのですが、途中から滝のように流れる汗、ゆったりだからこそ身体にかかる負荷。インナーマッスルを鍛えるのにはなかなか良い効果を得られそうで、私が通うヨガの稽古ほどはきつくなく、バテ気味な夏には、心にも身体にもこのゆったり感が良いのかもしれない……といたく気に入りました。
また日本でレッスンに行ってみたいと思います。

*写真はお寺内にあるルーシーダットンのポーズをとる石像です。




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9月ですね。。




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早いものでもう9月。
私事ですが、お休みをいただいて、昨日までベトナムへ旅行していました。禅宗寺院にも訪れましたので、またおいおい皆様に、非常に興味深いベトナムの禅宗寺院事情をご紹介していきたいと思っております。

何日間か研究所に来ない間に変わった事と言えば、窓の外から、秋の虫の声が聞こえる事。暑さは厳しいものの、すっかり秋めいてきましたね。同時に夏の疲れも出てくる頃でしょうか。どうか皆様ご自愛下さいませ。


さて、8月中は大変ご迷惑をおかけ致しました。本日より、研究所は通常通りお仕事をさせていただいております。どうぞ宜しくお願い致します。

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『大鹿村騒動記』




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秀逸の映画だ。こんな作品に出会うと、日本映画の底力が感じられて、なんとなく誇らしく嬉しい。主演の原田芳雄と大楠道代の名を見て、鈴木清順のツィゴイネルワイゼンをボォーッと思い出した。二人のほか、岸部一徳、松たか子、佐藤浩市、瑛太、三國連太郎、石橋蓮司、冨浦智嗣、小林武彦、小倉一郎等が名を連ねている。よくぞ集めたと、見る前から感心してしまっていたが、見たらもっと感心した。

演技力と華の具わった役者のおかげもあって、どのシーンもこの上ないものに仕上がっている。笑いも見事だ。妻の出奔、痴呆症、性同一性障害・・・各々が背負った日常はずっしりと重いのに、陳腐な"常識"や、ステレオタイプの悪意がすっかり抜け落ちていて、なんとも温かい可笑しさが物語を大らかに牽引して、大鹿村歌舞伎という「大事」が粛々と行なわれる。

日本で一番美しい村、大鹿村の人たちが、ほとんど総出で歌舞伎の場面をもりたてているのも、スクリーン越しにしっかり伝わってくる。

たった一つ、まことに残念なのは、この映画の企画立案者だった主演の原田芳雄さんが7月中旬に亡くなったことだ。常軌を軽々と逸することのできた、稀有な俳優さんの一人だった。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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バイロイト音楽祭

7月26日、ワーグナーの作品を演目とするバイロイト音楽祭で(ワーグナーの生前に建てられたバイロイト祝祭劇場で、毎年7月から8月にかけて行なわれている)、イスラエル室内管弦楽団が、「ジークフリート牧歌」を演奏したというニュースを見てびっくりした。

もちろんドイツでイスラエルのオーケストラがワーグナーを演奏するのは初めてのことである。"ワーグナー"は第二次世界大戦の戦前・戦中にナチのプロパガンダとして使われたのだし、ワーグナー自身も反ユダヤ主義者として名を馳せており、家族もナチと親密な間柄だったからだ(ワーグナーの死後、祝祭劇場は息子のジークフリート(1930年死去)を経て、ジークフリート夫人の手に渡ったが、彼女はヒトラーと個人的にも親しく、祝祭劇場はナチス政権の国家的庇護を受けた)。

1948年の建国以来、イスラエルでは、ワーグナーの音楽は非公式に禁止されており、イスラエル人にとってワーグナーの作品は依然としてタブーである。ラジオで放送されることはないし、ましてコンサートの演目に上がることはまったくない。ワーグナーに触れることは国内で今なお激しい論争の種となるのである。バイロイトに於ける今回の演奏によって、イスラエル管弦楽団への補助金が打ちきられないよう、文化相の口添えがあったとも聞く。
欧米でもワーグナーの芸術性はともかく、ワーグナーという人物を賞賛することには、ある種のためらいがある。

そんななかで、楽団を指揮したロベルト・パテルノストロ(彼の母親は、ホロコーストの生存者である)は、「私は音楽をやっているのであり、政治をやっているのでない」と語っている。また、「私はホロコーストの生存者にこの上ない尊敬の念を抱いている。しかしながら、芸術的自由と言っていいような何かがあるのも確かだ」とも。そして演奏は絶賛を博した。

私は文頭で、演奏のニュースを見てびっくりしたと書いた。もちろん、イスラエルの楽団がワーグナーを演奏したことにびっくりしたのだが、同時にヨーロッパのメディアがこのことを大きなニュースとして取り上げたことに感嘆したのだ。

フランス・ルモンド紙電子版は、このニュースの最後に、「ジークフリート牧歌」をアップし、おまけとして、「ぼくはワーグナーをそんなに聞けないんだよ。ポーランドを侵略したくなる」という、ウディ・アレンの映画(Manhattan Murder Mystery)の名場面を紹介している。

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師につくという事




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私事ですが、先日のお茶のお稽古にて、師匠より「立派にお点前してくれるようになって本当に嬉しいわ。けれどももうすこ~しだけ、間を意識するのと、点前の速度をゆっくりやってみなさい」と言われました。

十年以上お稽古を続けて来て、薄茶濃茶の点前を身体が覚え込んで来ると、どうしても“自分”が出てきます。私はどちらかというとせかせかとしており、ものごとをさっさと片付けがち。おそらく私の点前は、席中で見ている客側からすると少し気ぜわしいのだと思うのです。
そんなことを、自分で気づけるべきですが、なかなかに自分の事を俯瞰して観るというのは難しい事で、やはり師匠についてこの先もずっと稽古を続けるというのは大切な事なのだな……と改めて思ったのでした。

私の先生は80歳を超えていますが、未だに90歳を超える宗匠から学んでおられます。この話を周りにするとびっくりされます。もう私の師匠も十二分に茶の湯のさまざまをマスターされていますが、それでも、お点前の事、お茶の考え方等、新しい発見、新しく宗匠より教わった事などは、私達にもまた教えて下さいます。
続けてこそ。終わりなき、道のお稽古です。

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残り半年




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水無月の 夏越の祓する人は

    千歳の命 延というなり


新年明けましてから、半年が過ぎました。
昨日6月30日は、恒例の茅の輪くぐりへとでかけ、水無月をいただきました。
この区切り、毎年経験していますが、今年は本当に感慨深いものですね。

暑さにだれてしまいそうな身体と心を祓い浄め、また新たに残る半月を息災に、足元をみつめ、自分らしく日々暮らしたいものです。

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継続は力なり -御所市の農園にて-




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以前ご紹介したことのある農園へ行って来ました。

我が恩師、松田高志先生は、この農園に通う事26年になるそうです。雨の日も、風の日も、夏の猛暑日にも、冬の雪降る日も、片道2時間半の道のりを月に2度、26年間。計算したら、距離的には既に地球を一周以上はまわっているとの事。

いつも私達の目線まで降りてきて話して下さるような、共に歩んで下さっているような先生に、私達は当たり前のごとく素晴らしい教えをいただいていましたが、この日、大和三山を見渡しつつ、どっかりと坐り、「26年間通っていても、飽きるという事がないんです。毎回感動します」と語る恩師を客観的に見て、その、限りなく広く、深く、あたたかな人間性に改めて…というよりも、初めて自分の深いところから、ハッと気がついた気がしました。
天気などに左右されず、26年間休む事無く通い続けている、その“歩み・継続”こそが先生をつくりあげているのだな…と、継続する事の大切さをも学ばせていただきました。

大学を卒業してから10年以上ゼミを続けていただいている事も、当たり前になってはいなかったかな……と。こんなに有り難い事は無いのに…と、改めて先生にはこれからも多くの事を教えていただき、いずれそれを周りに少しずつでも還元できたら良いなと思うのでした。

肝心の農作業はどこへやら、山を散策し、お昼にはできあがっていたカレー(収穫したての野菜入り!)をもくもくといただき、次こそは農作業をせねば、草刈りをせねば…と思う、「いつか農業をやりたい」とは口ばかりの私でした。
もう少しマメに通ってみようと思う今日この頃です。

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新たなる差別に思う




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昨日、東日本の大震災から2ヶ月が経過しました。

現地の人たちは、それぞれ、色々な思いがあることでしょう。
昨日、ちょうど、福島在住で宮司をしている友人に連絡をとってみて話をしました。
彼の神社は海や原発からも遠く、大きな被害は無かったようで、風評被害に苦しむくらいで、生活は安定しているから大丈夫だということでした。

風評被害というから、野菜などのことかと思い聞いてみたところ、そうではないとのこと。
何よりも彼は、「福島」や「いわき」ナンバーの車に対するバッシングがあまりにもひどいと言うのです。実際に、近県に買い物にいった「福島」ナンバーの車が、ボディをボコボコに凹まされて帰ってきたのを見たそうです。

震災後、主に外国メディアでは、日本人はこの震災の被害にあっても、素晴らしい秩序と人間性をもって支えあって生きていることに感動したと、美談が多く報告されました。実際そういう面も多々有ると思います。
しかし、実はそればかりではないのです。福島県から引っ越してきた子供達が、少なからず差別を受けているという話は新聞で読んだりもし心を痛めましたが、我々が思っているよりはるかに深刻な様子です。

驚きました。いったい、それをやっている人はどういう人間なんだろう。日本人の美徳を称賛されているのに、実際にはこんなことが平然と起きていて恥ずかしいことです。
こんなことはあってはならないと思います。福島原発の事故は、よく言われるように、半分は人災だとも言えるでしょう。そもそも私たち人間が、手におえない原子力に手を出してしまい起してしまったことによる過ちといえます。

その事故の被害だけでも福島の人たちは大変な状態なのに、そこに住まう人たち、あるいはそこに住むことさえかなわなくなってしまっている人たちを、この上、さらに悲しませるようなことを決してやってはいけません。

我が国、あるいは世界の歴史においても、いわれのない差別がずっと問題になってきました。今でもその差別に苦しんでいる人も少なくありません。

どうして私たちは、人を差別してしまうのか、今一度、本来の心に立ち返って考えてみませんか。
人のふり見てわがふり治せ。福島の人に対しての差別をする人にはNO!を。そして、自分に同じような差別心は存在しないかを考えてみようではないですか。

少し仏教的に言えば、おのれの中にある、差別をするような「妄心」と表裏にある汚れなき「真心」=「仏性(ぶっしょう)」を見極めること、それが悟りだと思います。

どうか、被災地の人たちに、一日も早く安穏とした日々がおとずれますように。

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愛別離苦




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これまで血縁者、先輩、友人など非常に親しい人を何人か失ってきたが、その度に慟哭し、転げ回り、なんとか這いずり上がってきた。3月11日、親友の一人から夫人の訃報が届いた。私は夫人とも大層仲良しだったから、動顛してしまった。その知らせと前後して、東北で大きな地震があったらしいというニュースも飛び込んできた。東北の惨事の詳細はまだ明らかになっていなかった。私は近しい人の死に心奪われて、放心していた。仕事の合間を縫って死者を訪ねると、美しい穏やかな顔で横たわっていた。急性肺塞栓症という病を得ての急逝だったという。前日まで自転車を乗り回していたのだそうだ。48歳だった。

以前に、ロバート・レッドフォードが、40歳に届かずに亡くなった母親の人生を、「アンフェア」だと語っていたが、友人の死顔を見ながら、本当に「アンフェア」だと思った。彼女は道教の研究者として、壮大なプロジェクトを実現するために、日夜邁進していたのだ。研究者の常として、いつでもどこでも目を通せるように、論文や書物を持ち歩いていたが、世間話に打ち興じるときには、ケラケラと屈託なく良く笑った。その笑い顔が、繰り返し脳裏に浮かんできて、大きな大きな喪失感が両肩に覆い被さってきた。その度に胸のあたりがギュッと締め付けられる。未だに、それは変わらない。

二日後、火葬場で骨上げを待っているときに、付き添ってくださった和尚さんが、「火葬にこれだけのみなさんが集まられて、ちゃんとお別れができるのは、実にありがたいことです」と言われた。東日本大震災で亡くなられた方々のご家族の悲嘆が身に迫った。

夫人を失った友人は、今、深い深い喪に服している。私には彼に届けるどんな言葉も見つからない。仏教学者の彼は、彼自身の「愛別離苦」を今、身をもって生きている。

「わしなァ、家の中に居る時は母親のことで頭一杯で、外(ほか)に一切ありませんのや。それで下駄履いて外に出たら、心はすっかり外に向かい、たとえ留守中に泥棒が入って、母親がどんな目に遭おうが知らんこってすゼ」
母親孝行を尽くされていた森本省念老師の言葉である。
私がこの語に出会ったのは、母を失って心がふわふわと彷徨っていたときのことだ。深い衝撃と地の底から湧いてくるような安堵に包まれたことを思い出す。私の「愛別離苦」にそよそよと風が吹いた。老師がぴたりと私に寄り添ってくださっているような気がしたのだ。私は生前の老師に一度もお目にかかったことはないが、無上の「大慈大悲」だった。

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四十九日の追悼法要について




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全日本仏教会より、震災から四十九日を迎える四月二十八日に、追悼法要を……とのお願いが、寺院向けに出されました。
寺院のみならず、一般在家の方々にもお知らせ致したく、こちらにて御案内させていただきます。


追悼法要のお願い

 三月十一日、日本列島に未曽有の大災害が発生いたしました。東北地方をはじめとする大地震とそれに続く津波により、多くの尊い命が奪われ、未だ安否不明の方が大勢おられます。さらには原子力発電所の事故により多くの方が困難な生活を強いられております。
 被災地では各ご宗派の寺院も甚大な被害を受けていると聞いております。そのような状況下で、被害の少なかった寺院が避難所となり、火葬場では僧侶が読経奉仕を行っているという報告を聞いて、同じ仏教者として思いを寄せずにはおれません。
 また、被災を目の当たりにした私たちに、何が出来るのか深く考えさせられます。四月二十八日、地震発生日より四十九日が訪れようとしております。ご遺族の方の気持ちを考えると、あまりにも早い四十九日かも知れません。しかしながら四十九日という一つの区切りを乗り越え、共に生きて欲しいと思うのです。
 四月二十八日、地震発生時刻の午後二時四十六分に、鐘楼のあるご寺院では一斉に鐘を撞いていただき、心を一つにしてまいりたいと思います。また、各ご宗派のご本山をはじめ、全国のご寺院では、四十九日法要を行っていただき、お亡くなりになった方々、被災地で頑張っている方々へ、お香のかおりと共に私たちの思いを届けて欲しいのであります。
 震災の復興に向けて私たちは共に協力し、長き支援を志さなければならないと思っております。どうか、皆様の温かいご協力を賜わりますよう衷心よりお願い申し上げます。

財団法人 全日本仏教会
会長 河野太通

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坊さんは何もしない?!




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お坊さん自身が叫ぶわけにもゆきませんので、在家の禅ファンである私が今日は叫んでみたいと思います(いえ、叫ぶというほどでもないのですが冷静に……)。

何故でしょうか、阪神大震災の時もそうだった気がしますが、今回の東日本大震災においても、「宗教者が何もしていない!」的バッシングが飛び交います。喜んでそのような事を言いたがる人たちが、どうやらいるようです。糾弾する相手が“宗教者”となると、「そうだ、あいつらは何のためにいるのだ!!!」と一緒になって批判する同志を得やすいからでしょうか。もちろん何も行動していない宗教者もいるのかもしれません、だからといって今それを責めて、何か良い事があるのだろうか?と私は不思議に思います。

僧堂で修行をしてきている禅宗のお坊さん達は、えてして自分の事はさっさと自分でやってしまわれます。私はいわゆる“偉いお坊さん達”が集まる会議に、議事録を取りに加わりますが、お茶一つお配りする時でも、その後にお昼御飯が出る時でも、御給仕をする人に任せるのではなく、皆さんがそれぞれにさっさとお手伝いをなさいます。僧堂を出ている者にとっては、至極自然で当たり前の事だからです。会社勤めをしていた私にとっては、初めてその姿を見た時にどれほど驚いた事か知れません。
役職や立場が上だからといって、根っこを生やしたように坐っているのではなく、さっさと行動。見ていてとても気持ちがよく、清々しいものです。

その“当たり前”のごとく、現地へ行って読経ボランティアやその他片付けに淡々と加わっている方達は実際数多くいらっしゃるお話をあちらこちらから耳にします。
マスコミからの情報だけで、本当のところを知り得る事もできないのに、一緒になって他者を責めたり(その矛先は政府であったり東電であったり色々ありますが)して、一体何になるのでしょうか。
今、そんな事をしている暇があるのですか?と問いかけたい気持ちです。

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食べ物の来し方

自分の口から直接入り、身体や心を作る食べ物。
食品の安全性などについては度々ニュースにとりあげられて来ましたが、皆様はどのくらい意識されていますでしょうか。神経質に頑なに拘るわけではありませんが、私は常に意識は向けています。

少し話は違うかもしれませんが……。
私の祖父は禅僧で、父は寺を継いでいませんので、私はお寺育ちではありません。

ある日両親が、祖父が書き残したものだという墨書きの古い手紙のようなものを、仏壇の奥から出して見せてくれました。
そこには、寺で育った父やその姉妹達に向けて、檀家さんや近隣の農家の方々からの御恩によって育てられた事への感謝を、常々、一生、忘れてはならないと書かれていました。

有難くも、御縁をいただき今私は研究所で働かせていただいていますが、一人暮らしの和尚さんの寺にあがるお供えのお米のお裾分けをいただいています。
その和尚さんからは、近隣の農家のおじいちゃんやおばあちゃんのお話をよく聞いています。「お寺近くの、あの方達が作って下さったお米なんだなぁ」と、お米を炊く度に、いただく度に想像できて、温かい思いが心に広がります。
そして、私も父同様、お寺にあがったお布施からおすそ分けをいただいて命を養われている事にとても感謝し、御縁を感じ、祖父が伝えたかった事を身に染みてわかるようになりました。

たまたま私は生産者の事が想像しやすいお米をいただいていますが、その他スーパーで買うものにしても何にしても、それらを育んだ自然の恵みや作り手の思いなどを忘れぬよう、感謝していただきたいと思います。

「いただきます」を言わないという事は、言語道断だと思っています。

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能の身体の使い方




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既に一ヶ月前のお話ですが、兵庫県立芸術文化センターの神戸女学院小ホールにて開催された『〝大いなる辺境〟の芸能「能の音楽」』を鑑賞に行ってきました。
能・狂言などは京都でいくらでも観る機会はあるのですが、内田樹氏(神戸女学院大学教授)、成恵郷氏(ソウル女子大学教授)、河内厚郎氏(兵庫県立芸術文化センター特別参与)による鼎談がある事が魅力的で足を運んでみました。

個人的に、能については、人間の持つ、どうしようもない様々な念が最後には昇華されるのが好きで観ているつもりだったのが、内田教授のお話によると、「ぜんぜん成仏してないんですよね。そのしていない間(ま)、余韻を残して舞台から去っていける役者こそ素晴らしい」というような事を言われてしまい、「それならば私は今まで何を観ていたのか?!」と、新たな課題をいただいた気分でした。

また、内田教授は、合気道家としても有名ですが、日本人は現代においては昔とは全く違う身体の使い方をしているわけで、武術の源流を考えた時、その時代の日本人の身体の使い方を学ぶ事が、合気道をやる上においても様々な学びになるのでは…と、お能を始められたのだとか。そのお話にもいたく感心しました。

安心したのは、高名な先生方でもお能観賞中には必ず“寝てしまう”という事。あの雰囲気の中で鼓のリズムが心地よく、実は申し訳ないと思いながらも、私もよく寝てしまうのです……。
皆さんも寝ても良いのです(良くはないでしょうか……)。安心して是非日本の伝統芸能を観る機会を作ってみて下さい。

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自分の感受性くらい




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ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「自分の感受性くらい」茨木のり子

作家の岡田斗司夫さんがツイッターで下記のように発言されていたようです。これを読んでいたらなぜか茨木のり子さんの詩を思い出したので、ご紹介してみました。

まず、ニュースは一日3回しか見ない。新聞の朝刊と夕刊、あとは昼間にテレビのニュースを見るだけ。これ以上の「事情や情況を知ろうとする気持ち」は、自分自身のエゴだと思う。被災の当事者でもなく、東京に住んでる僕はどんなに当事者風に心配してもやっぱり部外者だ。

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ブログの更新につきまして

皆様こんにちは。

ここ数日、ティク・ナット・ハン師から東日本大震災についてのメッセージや、曹洞宗の藤井師のメッセージなどを掲載させていただき、通常のブログの更新をストップしておりました。

22日火曜日より通常通りブログを更新して参りたいと思います。
自身をみつめる機会を与えられている今、できる事は何かを皆が必死で考えて振り絞っていると思います。
“自粛”や“不謹慎”などという言葉もよく聞こえてきますが、誰がその境界を決めるのでしょうか。やはり自分自身だと思います。

皆さんも参拝すると目にされるでしょうが、禅宗寺院では、玄関に“看脚下”の木札を置いています。

テレビに流れる映像に呆然とし、悲しみに打ちひしがれていたところで日本や被災者を元気にはできない。自身の足元を照らし、自身の生を真摯に生きる事こそ、未来の光となるのだと信じ、今まで通り生活できている者は、淡々と日々を暮らす事かと思います。それは何も被災者に心を向けていない事ではありません。
我々も自然界の一部。ゆく川の流れのように、自然界の営みのように、停滞せず、進んで参りましょう。

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藤井隆英師からのメッセージ

東北関東大震災は、なお予断の許さない状況が続いております。阪神大震災の際の支援活動ついて、『禅文化』誌にお書きくださっている藤井隆英師から禅文化研究所宛に以下のメールが参りましたので、全文を掲載させていただきます。藤井師は曹洞宗の僧侶で、阪神大震災の際、曹洞宗国際ボランティア会の一員として支援活動を始められ、今もなお、震災後の神戸の人々を支え続けられているお一人です。

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こちら(八王子)は、それほどの揺れでなく、被害自体は殆どありませんが、長野や昨日静岡でも大きな地震があったように、余震を含め、揺れへの恐怖。さらに原子力発電所への不安が人々の大きなストレスとなっています。さらに物流不安からガソリンや食品の買占めで、戦争が始まったかのようです。
おとといよりお寺でも14:46分に祈りと慰霊の梵鐘を鳴らし始めました(実は阪神大震災は5:46で、同じ46分に発生したことに寒気がしました)。今こそ自分自身が祈りによる安心を作り、提供していく責任を持つ時だと実感しています。
混沌から、原子力発電所の問題など、日常隠れていた問題性もむき出しに露出してきております。不安でもありますが、希望を持ち、見守り、祈り続けなければと心を新たにしております。

私自身の気持ちを平静に戻すために探っていたところ、私が神戸で阪神大震災後に行っていた識字学級の参加者(在日一世。当時78才)の方が、夜間中学校時代に震災について書いた作文を思いだしました。
この方は目が悪く、日本語の文字も不十分な中で、様々なことを想い、そして伝えるために作文を書かれていました。全文ではなく最後の章のみですが、被災された方、被災地や被災者に想いを持つ方全てに伝わればと願います。

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自然は正直です。地がひっくりかえるようにゆれたのに、しっかりと根をはって、つかんで、がんばって、三月に花のつぼみをふくらませ、桜は満開に咲いて、人々の心を喜ばしてくれました。
植木も新しい芽を出し、つやつやして、今は、あざやかな青い葉がとてもうつくしいです。草花も、私たちもがんばっていますよ、といわんばかりに地震でたおれた間から青い葉を出し、かわいい花が咲いて、がんばっているよ、と人々に呼びかけているようです。
大震災から四ヶ月、人々は復旧に一生懸命です。が、まだまだ家がたおれたままあるし、ひなん所では、四万人以上の人がこんな生活でたいへんです。一日も早く、適当な希望に応じて、仮設や、住宅を与えて、助けださな、これから暑くなるし、いろいろえいせいにわるいことが、心配になります。早く住宅がみんなに当たって、落ち着いた生活になりますことを願います。
地震も強いが、人間も強い。神戸を元通りにと、人々はがんばっています。
1995.5.15 金 音田(キム ウンジュン)
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東日本大震災 被災者のみなさんへ

このたびの東日本大震災につきまして、被災された多くの方々、特にまだ行方不明になっている方々のご無事を祈念いたしますとともに、残念ながら命を亡くされた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
昨日、自坊の関係寺院での法要のあと、被災物故者の冥福をお祈りする回向をさせていただきました。

現地には知人や友人のお寺もあって、まだ安否が確認できない方々も多いのでとても心配しておりますが、現地の電話状況、電源の確保などを考えて、あまり外部からのアクセスをしすぎない方がいいのではないかと考え、控えてもおります。
関東では輪番停電によって電力の確保をしようとされています。停電が中止になったりして怒っている方もあるでしょうが、こんな時ですから色々と不手際や混乱があることは必須なのです。被災地の人命第一と考えて、協力して参りましょう。

個人的には地元の団体が募集した支援物資に供出することはさせてもらいましたが、今後は、やはり募金の必要が高まってくると思います。心ある皆さんのご協力をお願いします。

また明日は我が身と考え、阪神淡路大震災の時に用意した被災時避難用品を、改めて整理しなおしました。被災地以外の皆さんも、まずは身の回りを整理することも大事ではないかと思います。
被災しなかった我々は、元気な力を出して、できるだけの協力を惜しまないでいきましょう。

以下、被災情報・交通機関運行状況入手先の情報です。シェアしてください。

【公式ツイッター】
○青森県庁 http://twitter.com/AomoriPref
○青森県八戸市 http://twitter.com/HachinoheCity
○岩手県公聴広報課 http://twitter.com/pref_iwate
○総務省消防庁 http://twitter.com/FDMA_JAPAN

【災害伝言板】
○KDDIの災害用伝言板
 http://www.kddi.com/news/important/important_20110311152109.html
○ドコモ災害伝言板
 http://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/110311_01_m.html?ref=gp_top...
○ソフトバンク災害伝言板 http://mb.softbank.jp/mb/information/dengon/index.html
○ウィルコム災害伝言板 http://www.willcom-inc.com/ja/dengon/index.html
○NTT東日本 災害用ブロードバンド伝言板(web171)
 https://www.web171.jp/top.php
○イー・モバイル http://emobile.jp/service/option1.html#saigai
○グーグル災害伝言板 http://www.google.co.jp/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011.html

【ライフライン】
○東京電力 停電情報 http://teideninfo.tepco.co.jp/flash/index-j.html
○東京ガス http://www.tokyo-gas.co.jp
○東北電力 http://www.tohoku-epco.co.jp/emergency/9/
○仙台市ガス局 http://www.gas.city.sendai.jp/
○北海道電力 http://www.hepco.co.jp/teiden

【交通情報】
○アサヒ・コム 交通情報 http://www.asahi.com/traffic/

【鉄道・バス】
○JR東日本 関東地方の運行情報 http://traininfo.jreast.co.jp/train_info/kanto.aspx
○JR東日本 東北地方の運行情報 http://traininfo.jreast.co.jp/train_info/tohoku.aspx
○東京メトロ 運行情報 http://www.tokyometro.jp/unkou/
○都営地下鉄 運行情報 http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/schedule/
○小田急電鉄 http://www.odakyu.jp/cgi-bin/user/emg/emergency_bbs.pl
○東急電鉄 http://www.tokyu.co.jp/
○JR東日本・新幹線運行情報 http://traininfo.jreast.co.jp/train_info/shinkansen.aspx
○相模鉄道 http://www.sotetsu.co.jp/train/move/
○京急電鉄 http://www.keikyu.co.jp/train/operation_info.shtml
○JR東海 運行情報 http://shinkansen.jr-central.co.jp/sep/pc/index.html
○ゆりかもめ http://www.yurikamome.co.jp/contents/hp0010/list.php
○都バス 運行状況 http://tobus.jp/
○横浜市交通局 http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/

【道路】
○日本道路交通情報センター http://www.jartic.or.jp/
○高速道路情報(NEXCO東日本) http://www.driveplaza.com/dp/RoadInfo
○高速道路情報(NEXCO中日本) http://www.c-nexco.co.jp/

【航空】
○ANA 運行状況 http://fli.ana.co.jp/fs/domjpmenu
○JAL 運行状況
 国内線 https://www.jal.co.jp/cms/other/ja/weather_info_dom.html
 国際線 https://www.jal.co.jp/cms/other/ja/weather_info_int.html
○スカイマーク 運行状況
 http://www.res.skymark.co.jp/mercury/fis/flight_announce_i18n

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心の込め方




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「お見送り」について皆様はどうお考えですか?
と書きますと、うちの研究所の場合、「死者のお見送りについてですか?」と言われそうですが、今回は違います。
でかける人を見送る、「お見送り」についてです。

先日、はっと息を呑むほどに美しいお見送りの姿を目の当たりにしました。
あまりに自然にササッと部屋から廊下へ出て(とある場所で食事をしていた時です)、正座をし、「行ってらっしゃいませ」と、相手が見えなくなるまで見送る姿。

「今どきそんな…」、「男尊女卑!?」、「なぜ女性だけが」と、色々な声が聞こえてきそうですし、夫婦共働きの家庭が増えているので、当てはまらなくなってきているのかもしれませんが、あのように見送られたなら、男性はさぞかし「今日も一日がんばるぞ。よし、行ってくるぞ」と思えるのでしょうし、お互いに気持ちの良い事だろうなと思ったのでした。

心を込めるという事は、所作でもモノでも何でも、こちらをハッとさせるほどの美しさがあり、感動と学びを与えるものだな……と感慨深く。

例え相手と喧嘩をしていても、気分が悪くても、きちんと見送るという事を毎日の決まりにしておけば、身体と心は繋がっているので、その所作がまた心を支え、自分のいたらなさや相手との関係性についてを改めて考えさせてくれるような気もします。
また、お見送りと同様、お出迎えも大切ですね。

更に、「うちでは見送る時は火打ち石を鳴らして、主人でも息子でも見えなくなるまで見送ってる。いつも後悔の無いように、これが最後かもしれないという気持ちは常に持っている」という話も違う女性から聞きました。

今日のお話は2人とも以前、禅文化研究所に勤めていた大先輩の女性達。
研究所にて、少なからず禅に縁と関わりを持って生きた女性らしい2人の在り方に、とても尊い教えをいただき、あのように歳を重ねなくては…と思ったのでした。

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因縁因果の…… 中川宋淵老師




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このブログでも何度か書かせていただいていますが、大学卒業後、松田高志先生(神戸女学院大学名誉教授/神戸常磐大学教授)のご指導のもと、ゼミを続けています。
先日のゼミでのお話をご紹介。

松田先生は参禅経験もあり、禅文化研究所の哲学研究班にも所属されていましたので、よく禅関連の話が出てきます。

人生とはどういうイメージで考えられるか…という話の中で、とても興味深い中川宋淵老師(1907-1984 三島・龍澤僧堂師家)の御言葉を松田先生が引用されていました。


「人生とは、因縁因果の大展開、大活動だ」


皆さんはこの言葉にどのような印象を受けられましたか???
とても面白いですよね(と、私は思います)。

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坐禅アプリ




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超宗派仏教徒によるインターネット寺院、虚空山彼岸寺さんを御存知でしょうか。
今私が楽しみに連載を拝読中なのは、私の大好きなインドに留学中の、ここ彼岸寺の開基、松本師のMBA西遊記です。
旅行者ではわからないようなインド事情なども面白く、更新を楽しみにしています。

それにしましてもMBAといえば、10年前、私が銀行に入った当初の知っている方々などはアメリカへの留学が常で、その他の地域も、ロンドンやオーストラリア、カナダなどが当然と思い込んでいました。世の中変わるものですね。
と申しましても、まだインド留学というのは少数派なのでしょうが、インド経済の目覚ましい発展を見れば、インドでMBAを取得し、生活し、それなりにインド人気質を理解した人間を企業は求めそうで、インド留学選択者は増えそうですね。


さて、本題ですが、この彼岸寺さんが、坐禅アプリを開発された模様です。私も遅ればせながら、iPod touchユーザーとなり、さっそくダウンロードさせてもらいました。

その名も“雲堂(undo)”。 名前も面白い上に、シンプルかわいいデザインで、仏教や坐禅などからイメージする古くささ(いえ、私はそんな事は微塵も感じないのですが一般の、特に若い人はそうなのかと……)など全く無く、かっこいいのです。
使い方もいたってシンプルでわかりやすい。「一日5分でも坐ろう!」と決意すれどなかなかに時計を見て…では続かなかったあなたに朗報です。
是非お使いになってみてください。

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見た目




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1980年は私にとって、結構大変な年だった。精神的に依存していた何人かが亡くなったのだ。もちろんこの人たちの誰にも直接お会いしたことはない。その一人、ジョン・レノン。射殺されたというニュースに心底ひっくりかえってしまった私は、何日間かアルバイトにまったく身が入らなかったことを思い出す。ビートルズ時代のレノンにはほとんど興味がなかったが、オノ・ヨーコと出会ってからのジョンにはとても惹かれた。ジョンにというより、このカップルに惹かれたのである。久しぶりにジョンのドキュメンタリー映像「イマジン」を見て、ヨーコの若いころの映像に少し衝撃を受けた。ジョンと一緒にいるときのヨーコが、不似合いな場所にいるおずおずとした東洋の女にしか見えなかったからだ。私は昔からヨーコの作品が大好きで、群を抜いた発想のすばらしさにいつも感嘆していた。ヨーコは決断力も行動力もハンパではなかった。そのヨーコが、「イマジン」のなかで、ジョンに寄り添いながら、フフと笑うのを見たら、なんともやるせない気持ちになってしまったのだ。一体この落差は何なのか。私の外国の友人たち(とくに男性の友人たち)はヨーコを全く評価しない。私は「イマジン」を見ながら、友人たちの気持ちがなんとなく理解できるよなあと思ってしまったのだ。もちろん彼らはヨーコに直に会ったことは一度もない。私ももちろんないが、すでに彼女の作品や生き方に惹かれ、ビートルズを壊した女としてではなく、創造的に前進する存在として、エールを送っていたから、彼らには常に反論してきたのだ。しかし、もし私が「イマジン」の画像を通してしかオノ・ヨーコを知らなければ、彼女に対して何の興味もわかなかったかもしれない。ジョンも、しょうもない女にひっかかったよねえ、という意見に同調していたかもしれない。

私が「イマジン」を最初に見たのはいつのことだったか。そのときヨーコに対してこんな負の感情をもった記憶はないから、概ねヨーコの画像をシンパシーをもって見ていたのだろう。どうして今回は、ヨーコの画像のいくつかに、がっかりしたのだろう。
かつてイギリス人の友人が、「彼女は自己表現がうまくない。誤解を生むよ」と言ったことがある。そう言われれば、ヨーコは英語はすばらしくうまいけれども、表情や身体表現は、あまりインターナショナルではない。もし、彼女がしっかりと頭をもたげで、堂々と臆せずに振る舞っていれば、もう少し誤解も少なかったのだろうか。

しかし、ここでふと思った。「イマジン」のヨーコにがっかりしたのは、彼女が西洋の枠組みから外れていたからではないか。ヨーコに西洋人の物真似を期待したのでは、もちろんないが、私は我知らず、映像的に、「西洋においても恥ずかしくないほどの自信に満ちた日本女性」であることを期待したのではなかったか。それに、もし彼女が絶世の美女だったらどうだったろう。ジョンの横でフフと笑う彼女に私はがっかりしただろうか。表情や身体表現がそれほど大きな要素を占めただろうか。私は美女ヨーコと同国人であることに小気味よさを覚えたかもしれないのだ。「ステレオタイプ」とはヨーコが唾棄したあり方だ。思えばヨーコは、インターナショナルでもナショナルでもない。ヨーコはヨーコなのだ。そのオノ・ヨーコの凄さを愛していたはずの私が、西洋の画像にぴったりと填まらないヨーコに違和感を覚えたのだ。西欧的なものを良しとするイメージの刷込みに、私も侵食され始めていたのか。

私たちは、どれほどの常識―手枷・足枷―のなかで生きているのだろう。どれほど「見た目」に囚われていることか。「ヨーコは若くなくてもいい、きれいでなくてもいい」と言いきったジョンが、なぜ私にとって大きな存在だったか、今更のように思い知ったのである。

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「やりゃあいい」




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少し前のお話ですが、所用があり母校(大学)を訪れ、ゼミの教授にお会いしていました。そこへお友達の教授がやってこられました。

ゼミの教授曰く、「お話した事ありましたかねぇ。もう二十年くらい、彼とゲーテの講読会をしているんです。今はファウストを原文で読んでるんですよ」と。
私は、ほほぅ…と思い、「ファウストですか。ところで今会員は何人くらいいらっしゃるんですか?」とお聞きすると、あっさり「彼と2人です」とのお返事。

2人で勉強会を続けているというのに正直驚きましたが、同時にとても感動しました。好きな事を自分達のペースで、淡々と、長年に亘り勉強されている先生をさらに深く尊敬しました。

そういえば、私が習っているヨガの先生の先生がスペシャルワークショップで京都にいらした時、私が「ヨガの哲学も習いたいです。でも哲学講座となると、人が集まらないかも知れませんね」というような事を先生に話していたら、先生の先生は「1人でも学びたいという人がいるなら、素晴らしいじゃない。是非やってみなさい」というような事を私の先生にこれまた至極当然のように、淡々と仰っていました。

人が集まろうがそうでなかろうが、学びたいと欲する事を学ぶ。ゼミの教授が多大なる影響を受けた和田重正先生もその著書で「やりゃあいい」と仰っていましたが、まさにその通りだと思った次第。つまらない理由をつけたり、ごちゃごちゃ言ったりしている間に、「やりゃあいい」んですよね。

これを言うとまた「やりゃあいいって言うけれど、それがなかなか行動にうつすのが難しいんだよな」と言ってしまいそうな気がしますが、ぐっとこらえて下さい。
「やりゃあいい」のです。

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北京・李さんからの春節だより




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正月飾りを買う人々

季刊『禅文化』の聖域巡礼でおなじみの、吾が研究所の客員研究員、李建華さんより、北京だよりです。

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中国では春節(旧正月)に里帰りの習慣があり、それに伴って帰省ラッシュがはじまります。出稼ぎや大学生がどんどん膨らむ昨今の都市では、一斉に地方に散らばってゆくため、右往左往滅茶苦茶になります。列車や飛行機の切符をとるのも必死!

今年の春節は2月3日ですので、それを前後に40日に及ぶ「春運」(旧正月前後の輸送ピーク)期間中、各種交通機関を利用して移動する人口は、前年比3億人(11.6%)増の28億5900万人に達する見通しで、移動人口の最高記録を再び更新する模様です。凄いですよ!
私は毎年の春節は里帰りはせず、北京で過ごします。おかげで北京はいま見慣れた車の渋滞は消え、バスや電車はガラガラ。こういう風景は長く続かないものですが、実にいい気持ち。
日常生活で馴染みの自由市場は大晦日から正月五日まで休むため、買い溜めしなければと近所の市場に出かけます。野菜や水産物や豚・鶏肉など活気溢れるだけに膨らみ、そんな屋台に目も眩みそうな旧正月の一日です!

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いつも雑踏を見せる王府井通りも寂しく…

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禅文化研究所HPリニューアル(予定)

今年の夏頃のリニューアルを目指して、研究所所員で「ああでもない、こうでもない」と話し合いをしています。

私のように、在家でありながらも強く禅の世界、哲学に惹かれる者とお坊さんとでは意見の相違もあったりします。
一般の、さほど禅に興味の無い方が、何等かの検索で「禅文化研究所」というHPに辿り着いた時に、どういった印象を持ってもらう事ができれば、新しい世界への扉を開いていただけるのだろう…と考えています。

やはり、寺の伽藍や雲水の修行姿、坐禅姿の写真など、わかりやすいイメージが受け入れられやすいのかもしれませんが、私が思う禅の世界の素晴らしさは、そういったビジュアル的なものであまりにわかりやすく表現してしまうのは惜しすぎる気がするほどにかっこ良い世界です。
ただそれを、「ここに見せてみろ」と言われた時に、「これです!」と言えるものがなかなか…。自分のイメージを言葉やモノに置き換えて相手にわかりやすく伝えるというのは、難しいものですね。自分本位に「これだ!」と言った所で、相手に伝わらなければ意味が無いわけで。
と、毎日色々考えていますが、なかなかに楽しいものです。
皆様もご意見ありましたら、お聞かせ下さいませ。

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内田樹先生最終講義

いまやひっぱりだこの内田樹先生の最終講義の為、母校を訪れました。
内田先生は合気道の師範でもあり、弊所の季刊誌『禅文化』にも寄稿いただいております私のゼミの恩師、松田高志先生の合気道の先生でもあります。

神戸女学院大学に赴任する前、赴任されてからの内田先生の来し方、ヴォーリズ建築の稀有な素晴らしさ、リベラルアーツ、愛神愛隣(神戸女学院大学の標語です)にまでその話は及びました。
久々にノックアウトされた私です。先生の著書は、本屋で少し立ち読みするくらいでしたが、ちゃんと読んでみなくては…と思った次第です。

先生の素晴らしさは、合気道という道を極めんとしていらっしゃる所にも、大いにその根源があると思っています。禅とも繋がる部分があるのではないかと感じています。
また彼の著書を読みましたら、こちらでも「職員おすすめ本」カテゴリーにて、ご紹介させていただきたいと思います。

さて、最後に、内田先生は様々な著書の中で、ヴォーリズ建築の素晴らしさについてをお書きになっておられますが、その先生オススメの場所に行ってから帰りました。

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好奇心を持って、この先に何があるのだろうと思った学生だけが、暗い廊下や階段を通り抜けた先に、他のどこからも見ることのできない美しい風景の広がりを望むことができるんです。これはご褒美のようなものです。様々なしかけを残しながらも「建物が人をつくる」とだけ言って去ったヴォーリズという建築家からの、時間や時代を超えた自分への贈り物だと思います。(内田樹教授・最終講義より)

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雑感とオススメの本




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最近、テレビを見ていません。ニュースくらいは見ておこうとつけていても、昨今の日本の政治の悲しき現実、残酷なニュースが番組のほぼ大半を占め、「時間の無駄だな。私には必要ないな」と手放しました。知りたい情報はいくらでもネットで集められる時代です。

残酷な事件が起きたりすると、似たような事件が連続して起こる事もあります。ああいった事件を過剰に報道しすぎるのはどうかと思います。
「消えた高齢者問題」に関して言えば、世に隠れていたずさんなものが明るみに出るという意味では、ニュースが大きな役割を果たしたのかもしれませんが、重要なのは、本当にその後、政府や自治体が対策に取り組んだのか。どのような制度ができあがり、対策が取られ、続けられているのかという事だと思うのですが、さわぐだけさわいで、いつの間にか本質は忘れ去られ、新たに起きた刺激的なニュースばかりを番組は取り上げ、我々視聴者の方も、新しい刺激にくぎ付けになったりします。
なんだか、空しくはないでしょうか。

大学生時代のドイツ語の教科書に、ドイツのとある研究者の言葉が載っていたのですが、いまだに私の頭から離れません。

子どもがテレビを見ている時、親は集中して静かに見ていると喜んでいるかもしれませんが、考える猶予も無く与え続けられる連続的で一方的な刺激に、半ば放心状態となっているだけなのです。

これが本当かどうかは私にはわかりませんが、禅の修行生活でも、もちろん本を読む事もありますが、実践や実体験などが重要視され、実際にやってみて、感じる事を大切にします。今までの祖師方でも、「本を読んでいて(テレビを見ていて)悟った」などというのは、私の知る限り聞いた事がありません(読書はもちろん大事ですが)。

忙しくて、子どもにテレビやDVDを見させている間に家事を…という方は多いと思いますし、実際問題仕方がない事があるのだと思います。
ですが、少し意識を変えて、最初は時間がかかってイライラしても、掃除でもお料理でも、子どもに手伝ってもらい、一緒に体験する。暖かい部屋でテレビ…ではなく、外へ出て寒さを体感し、この時期の植物がどうなっているのかを見てみる。など、少しテレビの世界から離れて実体験を大切にしてもらえたら…と思う今日この頃です。

朝早くから美しく掃き清められ、季節の花々に溢れる禅寺の雰囲気などから、敏感な子どもは様々な事を吸収するでしょう。是非お近くのお寺へも足を運んでみてください。

子育て中の方、そうでない方にも本日是非オススメしたいのは、盛永宗興老師による『子育てのこころ』です。忘れ去られかけている大切なことが、易しい言葉でたくさん綴られています。

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成長を見守るよろこび -V-SQUARED CONCERTより-




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人生の一つの生きがい・楽しみに、“成長を見守るよろこび”というものがあると思います。それはもう多種多様で、ある人にはお子さんの成長であったり、またある人には、畑で育てている野菜の成長であったり…。

先日、バロックザール-青山音楽記念館-にて開催された、英国王立音楽大学の大学院にて勉強中の若い2人、谷本綾香さん(メゾソプラノ)と、田代裕貴くん(ヴァイオリン・ヴィオラ)のデュオ、V-SQUAREDによる、財団法人青山財団助成公演 V-SQUARED NEW YEAR'S CONCERT(ピアノ伴奏/小川春香さん)にお邪魔してきました。

静寂の中、ヴァイオリンの美しい音色が響いた瞬間に、本物に直に触れる悦びと感動が全身に溢れ、さらに、個人的意見ですが、どの楽器よりも最も尊いと思う“人の声”には、どうしようもないくらいの感情の高ぶりがあり、とめどなく溢れる涙を止める事ができませんでした。

自身が持つ醜く汚いドロドロとした部分。人間なら誰しも持ち合わせているものかと思いますが(いえ、そうでない方もいらっしゃるでしょうが私は持っています……)、芸術とは、そういったものを浄化する為に存在するのか…と思わざるを得ないのでした。涙しながら、色々なモノが綺麗に流されてゆくようでした。

しかしながら、そうして一旦は流されていっても、日々の生活を続けてゆく中で、どうしても心に塵や埃はたまるもので、それ故に、常に美しいものを求め続けるのでしょうか。人間の生活に、如何に芸術が必要か、如何に大切なものかを改めて知る事のできた一日でした。

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年末年始の休業日につきまして

みなさんおはようございます。
どのようなクリスマスをお過ごしになられていますか?
と、禅文化研究所からお尋ねするのは変な事と感じられますか?

日本人って、他国の文化でも宗教でも、本来のそれとは似て非なる物にしてしまい、取り入れて、まるで日本の行事のようにしてしまう事にかけては、なかなかにすごいものがありますね。
敬虔なクリスチャンの方からすると目に痛い光景でしょうか。
私としましては、もう無視はできないような“クリスマスの過ごし方”については、ここ最近よく考えていて、それなりに結論が出ています。

さて、年末年始の休業日について御案内です。

12月28日(火)~1月5日(水)まで年末年始の休業とさせていただきます。
書籍は27日の午前中までにご注文いただきますと、年内にお届け致します。
それ以降のご注文につきましては、1月6日以降の発送となります。ご迷惑をおかけいたしますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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ヨガの実践




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私事ですが、「研究所に勤め、茶道をしているからには、“坐禅”をせねば!」と、大きな志を抱き、やる気だけはみなぎらせ、何ヶ所かのお寺に坐禅を組みに行ってみた事がありました。
ですが、昔バスケットボールをしていた時代に、何度も捻挫をした古傷が耐えられないほどに痛み出し、そうなってしまうと、“痛み”にしか意識は向かなくなり、結局早々に断念してしまいました。

ある方から言われて、呼吸の重要性に気付き、さらに色々と自身の問題が重なった時に、一度手を出しかけてやめていたヨガを、もう一度始めてみようと先生を探しました。そして、素晴らしい先生との出逢いによって、様々な“気付き”や“学び”が私に訪れるようになりました。
いくつもお話したい事はあるのですが、まず初心者でありながらも私が思うのは、普段全く意識もしていない身体の部分というのは意外に多くあるもので、「あぁ、ここも私の身体の一部だったのか…知らなかった。ごめんね」と思いながら、アーサナ(ヨガのポーズ)を実践すると、それは同時に、知らなかった自分に気付いたり、見えていなかった自分の心が見えてきたりする事に繋がっているのだな……という事です。
「“自分を知る”という事においては、禅も茶道もヨガも同じ事だな」と、私の中でしっかりと太く繋がっています。

以前お話を拝聴したリンポチェは、「私はチベット仏教を信仰なさいと言っているのではありません。御自身のdaruma(ダルマ=自然・natureと仰ってました)に合うものを探しなさいと言っているのです」と仰っていました。
またある日の講演会では、鈴木大拙先生の元秘書の岡村美穂子先生が、「自分の足に合った靴をお履きなさい」と仰っていました。

頑なに坐禅にこだわり、「こうしなければならない」と、自分に鎖を巻いたような時もありましたが、これでよかったのだな…と今は思っています。

皆様にも、それぞれ御自身のdarumaに合うものとの良き出逢いがありますように。


*ちなみに少し宣伝ですが、坐禅会に参加してみたいと思われる方は、弊所に事務局を置いております、臨済宗・黄檗宗の公式サイトに、坐禅会情報がございます。ご参考になさって下さい。

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立派な人




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「そんなところ(禅文化研究所)につとめておられたら、立派な人にずいぶんにお会いになるんでしょうねえ」と時々言われる。大抵の場合、揶揄である。発言者の真意は、「私は、そんなにアクセク修行もしてませんし、聖人でもないけれど、そこそこ気持ちよく、みんなともうまくやって生きてますよーー」というあたりにありそうだ。

若いころ、アシュラムで結構がんばって修行したという友人に、「禅の世界で突き抜けた人に会おうと思ったら、何処に行ったらいいの」と聞かれた。ある時期に「修行」を止めた友人の真意は、「どれだけ苦行を重ねても、所詮、人間は神にはなれない。だったら、そんなイビツな日々を送るより、そこそこ人生を楽しんで送ったほうがいいんじゃない」ということのようだ。因に彼女は西洋人である。

なるほど、十代のころに深い虚無と出会った私の親友は、いまなお坐禅三昧の生活のなかで、「真っ暗ですよ」と言う。ふむふむ。

糸井重里さんが書いていた。

人間が、どうしてもやってしまう基本的な悪いことについては、「必ずじぶんもやる」と思っていることが大事。ぼくは、近くの人には、そう言ってきました。 「私(わたし)」を、人間離れした位置において、他の「人間たち」のろくでもないことを指摘するのは、もうやめにできないものだろうか、と思うんです。

糸井さんの言葉を借りると、最初に掲げた2つの例は、「私(わたし)を、人間離れした位置において」、自己の苦しみと悪戦苦闘する他人をとやかく言うということにもなるのだろうか。ここで「人間離れした」とは、ミエやウソから全く解放された人のことのようだ。

私は上記の「真っ暗な」親友と一緒にいると、とても楽で明るい気分になる。なぜかなと考えてみる。多分、私が彼にまったく気を使わないでいられるからではないかな、と思う。「他者」と一緒にいると、大抵の場合、どんなに楽な人でも1ミリくらいは気を使う。なぜか。相手を傷つけないでおこうという、抑制力が働くからだと思う。多分、悟りを得た自由闊達の人には、こんな気遣いは生じないであろう。

では、どうして親友と一緒にいると気を使わないのか。私には、彼を傷つけることさえできない、という確信がどこからともなく涌いてくるからではないか。つまり、彼は私ごとき人間のアレコレに傷つくことなどないのだ。人が傷つくのは、ミエやウソをコケにされた時ではないか。「私の内なる悪が機能しない」。こんなにホッとすることがあるだろうか。だから「真っ暗な」親友は、私にとって「立派な人」なのだろう。その立派さが、彼の坐禅とつながるのかどうか私にはわからない。

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訓注 能仁晃道




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様々な語録の訓注をてがける、我が研究所の能仁晃道。
主な書籍はこちらから。

ある日、檀家さんのおばあちゃんに言われたそうです。
「おっさん(和尚さん)、そんなもんをずーっと座って読んでて、ストレスがたまらんかね」。

「好きなもんをずーっとやっとるのに、ストレスなんて溜まる事があるかいな」と答えたのだとか。

なんて素敵で素晴らしい事だろう……と思った次第。

おばあちゃんには、わけのわからない漢字が連なった書物でも、能仁には楽しくて仕方が無いのです。
このように、訓注作業が行われ、書物となり、研究所から出版されています。
今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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教育とは




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以前こちらのブログでもお話させていただきましたが、大学を卒業してから10年以上、2ヶ月に1度のペースですが、ゼミを続けています。

今回、ゼミ担当教授・松田高志先生からのお話で、マヤ・インディアンの言葉を知りました。


生まれてくる赤ちゃんには、私たちの世界の未来があります。
ですから、お母さんは、赤ちゃんをあなたの胸にしっかりと抱きしめて、人間は信頼できる、世界は平和であることを教えてあげなさい。
お父さんは、赤ちゃんを高い丘の上につれていきなさい。そうして、世界はいかに広いか、そしていかにすばらしいかを教えてあげなさい。

資格取得に躍起になる若者。お金を有効に使って今学べる事を学ぶ事よりも、老後の為と貯金ばかりをする若者。草食系男子……。まるでどこまでも続く不安が取り巻く世界に生きるかのように、メディアでは日々様々な事が言われています。

「自分を生きる」とはどういう事なのか。真の教育とは何か。
このあたりを深く掘り下げた松田高志先生による寄稿文が、次号の『禅文化』(1月25日発刊)では皆さんにお届できる予定です。

子ども達への教育についてを考える事は、自分自身についてをも考える事、未来の日本、ひいては世界を考える事。
学生時代からずっと、松田先生の元で色々と学び、考えて来て、自分がどういう人間であって、自身の目指す方向とはどのようなものなのか、自分の生き方を模索し続けています。何かに感動しない日はありません。なかなかに、楽しい人生です。

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整理




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12月に入りましたね。
ここ最近私は何故か無性に色々な物・モノを整理したい衝動に駆られています。
念の為に申し上げておきますが、平均寿命を参考に言いますと、おそらくまだ人生の終盤を迎えるような年齢でもありません(三十代前半)。まぁそれはわかりませんが…。

ただ、なんとなくスッキリさせたいのです。年の瀬を迎えるから…という事も、自分自身の時期的な事もあるのでしょう。
身の回りの物は、自分が本当に気に入って、長く人生を共に送る好きな物のみ。体の声に耳を傾け、何を食べたら良いのかも選択し、自分で料理する。その時心に響く本を読む。師と慕う人から道を学ぶ。心地良い睡眠を取る。

今、流行り?のようになっている“シンプルな暮らし”“丁寧な暮らし”でしょうか。
自分たちの世界観を持ち、世間の目や評価とは別の次元で生きているような、本当に素敵な暮らしをし、自分を生きている人達が雑誌などでもよくとりあげられています。

でも、憧れて真似をしたところで、行き詰まる所が来るような気がします。それは、自分のスタイルではないからだと思います。
“自分のスタイル”確立に、禅は大いに働きかけてくれる……と私は思っています。

我が研究所の禅の入門書など、オススメします。

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佐藤初女さん講演会




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以前にもこちらのブログでご紹介させていただきましたが、“森のイスキア”主催の、佐藤初女さんご本人が神戸に来られるとの事で、講演会にお邪魔してきました。

受付で、白い紙を手渡され、「先生が、“分かち合い”の時間として皆さまからのご質問におこたえくださいますので、こちらの紙にご質問があればお書きになってください」と。
“分かち合い”。
なんて良い響きなのでしょうか。講演会だからと言って、一方的にお話されるだけでなく、皆が参加してその場を作る……という所に、初女先生らしさを大いに感じました。

お話なさった事は全てが真理のように思えましたが、中でも、「その人と同じ立場、同じ気持ちになって話を聴きます。ただ聞いているんじゃないんです。話したい事を話して空っぽになれば、そこに新しいものが入ってゆけます」と仰った事が印象的でした。


弊所刊行の、『歩々清風』(堀内宗心著)の中で、宗匠が仰っている事を思い出しました。

お茶を含めて、人を指導するということはひとつの菩薩道であります。菩薩の指導法は、つねに相手と同じ高さまで身を落として、すなわち身を低めて、そうして人を引き上げるということであります。荷物の集配所で働いているリフトのように、その人のところへ行って、荷物と同じ高さまで支台を下げて、荷物を持ち上げ、目的地に持っていくのであります。これは済度するということであります。決して高いところから叱咤号令するのではないのであります。
『歩々清風』-お茶をおしえるという事-より

初女さんの生きる道は、菩薩道だな……と思えたのです。これはあくまでも私の捉え方であって、彼女自身はクリスチャンですし、「ボランティアというのとはちょっと違うと思うんです。私は奉仕だと心得ています」と仰っていました。

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溺愛




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朝日新聞に「悩みのるつぼ」という秀逸な身の上相談がある。回答者はいずれも、腑に落ちる意見を愉快にサラリと呈示するので、結構楽しみに読ませていただいている。先般、子育てに失敗したというある母親の「悩み」が載っていた。50代半ばのおかあさんは、息子ふたりを「高いレベルの人生、豊かな暮らしを願って」育てた。おかあさんの考えうる最高の教育を受けさせるために、気の進まない息子たちを東京の大学に進学させ、長男は留学もさせた。「就活も一緒にエントリーシートを記入」し、そのかいあって、「知名度の高い企業に就職」することができた。しかし、上司によるイジメに遭い1年で退職、次の職場も上司に叱責されて登社できなくなったという。二男は二浪して大学に入ったが、学校に行かないでアパートに籠もりPCオタクになっている。

回答者の岡田斗司夫氏は言う:


あなたの好む手法は「徹底的に介入し、指導する」です。この手法を使う限り、自分が知っているジャンルしか扱えません。息子をとにかく一流にしたいとあなたは努力しました。その努力自体はすごく立派だと思います。でもあなたには「どんな一流が息子に向いているか?」というビジョンがない。しかたなく「私の知ってる一流」という方向で努力しちゃいました。あなたがスポーツ選手なら問題ありません。「私のようになれ、私を越えろ!」と教えればいいわけです。同じくあなたの家が老舗だったり歌舞伎みたいな世襲業なら、この教育方針でも決して間違ってはいません。しかし、あなたはスポーツ選手でも歌舞伎役者でもない。「私のようになれ」と息子に教えたら、どうなっちゃうのか? あなたは息子を「一流のお嫁さん」にしちゃったんですよ。(中略)いまや息子は二人とも「家事手伝い」です。

相談者のおかあさんには申し訳ないが、私は声を立てて笑ってしまった。青年たちは、結構高学歴の、強い思い込みを持った、強いおかあさんに育てられて、おかあさんの強さに辟易しながらも、その影響下にじっとうずくまっているのだろう。でも、岡田さんはこうも言う:

あなたは世の中の数多い「教育に失敗した名も無き母」の一人です。いまからできるのは、愚かな溺愛だけ。でも、そこから巣立って幸福になった子供だって数え切れないほどいます。僕もその一人です。僕は、いまは亡きおっかない母が大好きでしたよ。僕を溺愛してくれました。

そう、「溺愛」が不幸を産むとは限らない。「溺愛」には何にも代え難い力があるのではないか。その「溺愛」が一切の見返りを求めないものなら、これほど確かで心強いものもないだろう。もし神に「溺愛」されるなら、私は四の五の言わずに、直ちにそれを受け入れる自信がある。溺愛されると、人は心地の良い安心感にとっぷり浸かることができるだろう。そうなれば誰も不安を抱えてカウンセリングに向かう必要もない。特に昨今はすべての子どもたちが、「溺愛」の恩恵に浴せるとは限らないのだ。だから母親は子どもたちを存分に溺愛していいのではないか。前後の見境なく愛して何が悪かろう。

ただ岡田氏は最後にこう付け加えている:

だからもう大丈夫です。手放してあげてください。

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余命




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幼なじみが甲状腺悪性腫瘍ステージ4の診断を受けたのは2年前の春だった。花の真っ盛りに、仲良し4人組の私たち3人は泥沼に足を取られたような絶望感に陥った。癌の専門家4人が手術の成功は望めないとして担当を拒否し、国立癌センターの医師は、腫瘍のすべてを手術で除去することはできないにしても、手術をしなければ早晩、喉に広がった癌が呼吸器を塞ぐことになるから、今は切るしかないでしょうと、とりあえずの部分的な腫瘍除去をすすめた。

友人が私たちに病気のことを知らせてくれたのは、最初の診断を受けてから半月ほど経ってからだった。その間の苦しみはいかばかりだったかと思う。自分の状況をみんなに報告したのは、彼のなかで病いを受け止めようという気持ちが納得する形で固まったからだろう。彼は回りの者たちの意見に素直に耳を傾けて、自らが納得できるやり方を選んでいった。運良く、帯津三敬病院にかかることのできた友人は、漢方治療をやりながら検査などの西洋医学のやり方も排除しない方法をとった。帯津三敬病院は、先達てメディアがとりあげた「ホメオパシー」を否定していないことでも知られる。

友人は、この二年半、極めて普段通りに暮らした。以前と変わったのは、ほぼ完全な玄米菜食に切り換えたことくらいだ。と言っても、わたしたちと会食するときには、肉以外はすべて食べる。お酒だって飲む。よく笑う。ただ声が少し出にくいことを除けば、彼が病人だと思う人はいないだろう。その声だって1年前よりは確実によくなっている。

彼は、早朝に目覚めると、太陽や山や亡くなった両親にありがとうという。それからゆっくりと近所を散歩する。30分ほど半身浴をしながら読書する。ゆっくりと食事する。仕事もやる。家族や友人・知人との交わりを丁寧にこなす。週一回のテニスは欠かさない・・・・・

そこで、と思った、「〈彼の余命〉と〈私たち3人の余命〉の不確かさに些かの違いもないが、その質において、彼の余命は、健康という思い込みによって〈いのち〉に対する不遜を免れない私たちの余命を遙かに凌駕していることだけは間違いないであろう」と。

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ガイアシンフォニー・地球交響曲第7番




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先日、ガイアシンフォニー・地球交響曲第7番の上映会に参加してきました。

特に内容も詳しくは知らないまま、「今までのガイアシンフォニーも素晴らしいのだから今回も素晴らしいのだろう…」くらいの気持ちででかけました。

8月に、知人からの誘いで、和歌山県神道青年会(いつもはお坊さんに囲まれてばかりですが、この日は神職の方ばかりでした…)の創立40周年基調講演・明治天皇玄孫の竹田恒泰先生による『皇室から見た日本の国づくりと伝統文化』を拝聴し、「やはり日本人や日本文化というものを考える時には、“天皇家”や“神道”抜きには考えられないものだな……」といたく感動したところでした。

そんな中、今回のガイアシンフォニーはまずとても印象的なシーンで幕が開きます。
我々一般人が知らぬところでひそやかに厳かに行われている伊勢神宮の神事。
神秘的であまりに美しく、息を飲んでみつめました。
今回、-霊性の原風景-と題して、様々な日本の神社の神事が採りあげられています。

「第七番では、この日本神道の美とその背後にある自然観に触れることに依って、私達の魂の内奥に眠っている“生かされている”という体感が甦ることを願っています。
“生かされている”という体感こそが、「霊性」の源だと思うからです。」(ガイアシンフォニー公式サイトより)

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呼吸と空




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御所から見る夕焼け

まださほど人生の荒波を超えたとも言い難い若輩者の私。
それでも今までの人生で一番とはっきり自覚できるほどに苦しかった時、あるマダムに「○○ちゃん、人は呼吸が深くできてさえいれば、たいがいの事は乗り越えられるものなのよ」と言われた。

「そういえば今の自分の呼吸は浅いかもなぁ。そもそも苦しすぎてそんなものを意識する余裕すら無い。魚が陸に打ち上げられてあっぷあっぷしているような状態だもの。本当にそんな事(深い呼吸)で乗り越えられるのだろうか」と半信半疑であった。

それでもなんとなく、自分の呼吸が浅いなと思いハッと気づいた時には深呼吸を心がけ、坐禅をしに行ってみたり、大好きな場所、御所や比叡山を眺められる鴨川沿いのベンチなどでゆっくり呼吸をしてみるよう心がけた。

そして何となく峠を超え、「“呼吸”って一体なんだろう?これはやはり何かあるな」とはっきりと気づいた頃から、様々な情報が私の元へ集まり出した。
中でも印象的だったのは、DVDで観たガイアシンフォニー・地球交響曲第2番に登場する、ジャック・マイヨールの言葉。

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トゥルク ジャミヤング リンポチェ来日講演





クリックしてご高覧下さい

皆様こんにちは。暑い日が続きますが、いかがお過ごしですか?
急なお知らせですが、お時間のある方は是非ぜひ!

チベット仏教の高僧、トゥルク ジャミヤング リンポチェ師による来日講演があります。私もお手伝いに伺える事になり、今からわくわくしています。

京都・大阪での日程は下記のとおり。


時 :8月18日(水) 15:00~17:00
場所:Restaurant HIMARAYA
  (京都市中京区河原町三条上ル下丸屋町406 グリントランドビル6F)
電話:075-211-8940
料金:2000円(1ドリンク付)
        


時 :8月19日(木) 18:30~20:30
場所:京都国際交流会館
  (京都市左京区粟田口鳥居町2番地の1)
電話:075-752-3010
料金:1500円


時 :8月20日(金) 15:30~17:00
場所:ネパールレストラン シュレスタ
  (大阪市天王寺区堂ヶ芝1-11-8 ジェム・エックスビル1F)
電話:06-6773-0802
料金:2000円(1ドリンク付)

その他詳しくはこちらからどうぞ。

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ブログ再開




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皆様こんにちは。ご無沙汰しております。

お盆はどのようにお過ごしになられましたでしょうか。
ご先祖様をお迎えになられましたか?
と、このような御挨拶で始まりますのも弊所ブログくらいでしょうか?!

私(在家職員です)の実家あたりでは、茄子と胡瓜におがらで足を付けてお供えしますが、色々ないわれがあるようです。
ご先祖さんが早く帰ってきて下さるよう、馬に見立てた胡瓜、そしてゆっくりと色々なお供え物を載せて帰っていただくよう、牛に見立てた茄子を御供えしておく…。また、日本の祭祀が元となっているので、季節の野菜を供えるところから胡瓜と茄子が選ばれたのだとか、胡瓜も茄子もインド原産だからだとか…。
古くからの習わしと民間信仰などが入り交じり、現在の形になったのでしょう。

ちなみにうちの母は、「胡瓜じゃあ足をつけにくいから、ズッキーニじゃあダメかしら?」と申しておりました…。母よ、ズッキーニはかぼちゃの仲間だし、メキシコ原産らしいし、胡瓜よりカタイと思うし、胡瓜が全く日本では収穫できなくなったというわけでもないのだし、昨今ではスーパーに普通に並ぶとはいえ、仏壇前に御供えするにはやはり違うのではないか?と、その柔軟すぎる発想に絶句した娘でありました。

残暑厳しい折、皆様どうか御身おいといいただいて、弊所ブログにもおつきあいの程、宜しくお願い申し上げます。

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継続は力なり




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私が大学を卒業して10年が経ちます。
周りの友人やその他色々な方に話すとびっくりされますが、卒業後ずっと、2ヶ月に1度のペースで、母校や教授宅を訪れ、途切れる事無くゼミを続けています。
それもこれもひとえに、松田高志先生のお人柄によるものと、感謝せざるを得ません。

ゼミ担当教授の松田高志先生は、京都にいらした頃、御自身に様々な迷いや問題を抱えられた時、上田閑照先生などもいらした相国寺の居士会、智勝会にも参加しておられ、禅文化研究所の哲学研究会にもいらっしゃいました。
どのような御縁か、私がこうやって禅文化研究所にて働かせていただくようになり、松田先生には現在、季刊『禅文化』にご寄稿いただいています。

ゼミでは、“人生科”と題して、「人間とは?」「教育とは?」「宗教とは?」「生きるとは?」など、おおよそ人が生きる上での様々な大問題について、先生や仲間の意見を聞き、自身の考えを発表するという時間を過ごして来ました。
三十代になり、親の事、子供の教育の事、パートナーの事、自身の仕事や生き方の事など、それぞれが違う人生を歩み始め諸問題を抱えるにあたり、学生時代よりも更にゼミの内容も深まっていっている気がします。
方向性がわからなくなった時、迷いそうな時、「ここに戻ってこれば大丈夫」という大きな“安心”がいつも与えられています。

キリスト教系の大学で、日本人に馴染み深い神道や仏教とはまた違う宗教というものに近く触れ、参禅経験もある松田先生の著書やお言葉から多くを学び、その他、先生推薦のシュタイナー教育、神谷美恵子さん、和田重正先生、ネイティブアメリカン、佐藤初女さん、サンテグシュペリ、ミヒャエルエンデなどなど、様々な本を読み過ごした学生時代とその後のゼミは、私の人生におけるぶっとい柱となっています。

就職氷河期で、大学に入った時からもう就職の事を考えなくてはならない時代になっていますが、後々の自分の糧となり、自分を支えるのは、大学生時代に好きで学んだ事だと思います。禅宗でもよく言われますが、“今、ここ”を大切に、立処をしっかりとみつめ、励んで欲しいものだなぁ…と思う今日この頃です。

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ブログ禅 ついに1000エントリー!




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このブログ禅をはじめたのは2006年7月1日でした。それから、あっと言う間に4年が経過し、ついに、このエントリーで、ついに1000を数えることになりました。
最初の2~3週間は、多少の歯抜けとなっていますが、それ以後は、研究所の休みでない限りは、ずっと毎日更新を貫いてきました。

爆発的なアクセス閲覧数にはならないものの、おかげさまで毎日、弊所のホームページと同程度の閲覧数があり、キーワードによっては、検索サイトで上位に表示されるあり、大変うれしく思っています。
本ブログを通じて坐禅をはじめた方、弊所の刊行物を手に取ってみようと思われた方、京都に行きたくなった方、お寺に出向かれた方、禅ってなんだかもっとしってみたいと思われた方、いろいろな方と、ご縁ができたようです。毎日読んでいて下さる方も少なくありません。

なかには拙い文章で、削除してしまいたいようなものもありますが、いろんなスタンスから、少しでも禅のことに近づいてくださる方を見つけられたら、このブログの意味もほぼ達成しているというふうに思っています。

これからも、おつき合いの程、よろしくお願いいたします。
すでに連日の猛暑日ですが、この夏も爽やかにのりきっていただきますよう、皆様のご自愛を祈念申し上げます。

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尺八の音色




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本日(7/12)、海外より研究所にお客様がおみえでした。
関心があるから……との事で、研究所のN先生(尺八歴40年以上)が皆様に尺八を披露する事となり、私もこの機会にと便乗して尺八の音色を間近に堪能する事ができました。
海外で高く評価されている尺八ですが、案外我々日本人は「聞いたことがない」という人の方が多いのではないでしょうか?
私は昔、あの五線譜では表せないなんとも言えない音色に惹かれ、習いたいとまで思った事もあり、その時には調べてみたりもしたのでしょうが、その情熱がどこかへ去るのと同時に知識も失い、本日は海外からのお客様の熱心なご質問により、こちらの方が勉強になるくらいでした。
日本人は、「あまりに質問しすぎると悪いかしら」というような遠慮から、なかなかに相手を質問ぜめにするのを嫌う傾向がありますが、色々な事を学びとろうとするならば、あのような姿勢は見習うべきだなぁ…と感心したのでした。

昔は尺八の音でも低音が好きだったのですが、高音の透き通るような音色が今の自身の心には響くなぁ…と感じたのでした。あのような音色を出す事により、悟りを得るというのもあるのだろうなと思いました。
また、長く使いこまれた尺八の美しさに、先生がどのように尺八を吹いてこられたのかが見えるようで、その事にもいたく感動したのでした。物に心は宿りますね。

さて、尺八にも色々な流派があるようですが、N先生は普化尺八(明暗)をなさいます。中国の普化宗(臨済禅師と交流があった普化を祖とし、臨済宗の一派ともみなされています)が日本に伝わり、禅の修行や托鉢に尺八を使い、また、坐禅をするよりも尺八を吹く事によって悟りの境地を求めたという事実もあるらしく、“吹禅”ということばもあるそうです。
なかなかに複雑な歴史を持ち、ここで皆様に詳しくご説明をさせていただくには、私の知識はあまりに乏しいので控えたいと思いますが、インターネットで調べると、流派の公式HPなども出て参ります。
是非皆様もこの機会に日本の誇るべき文化の一つ、尺八について学んでみられてはいかがでしょうか。

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「出会う」ということ




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ユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル『夜』に出会ったときの衝撃は忘れがたい。
『夜』は、第二次大戦中、自らが移送されたアウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ)の証言記録である。高い文学性を備えた本書はすでにホロコースト文学の古典となっているが、証言の不可能を突き破った語りは、読者を否応なく出来事の「当事者」にする。証言を受け取らないという道が絶たれているからである。

解放後、ヴィーゼルは、このホロコーストという「出来事」についてはけっして語らないと心に誓っていた。そのヴィーゼルに書き記すことを促し、翻意させたのは、敬虔なキリスト教徒でありすでに著名な文学者であったフランソワ・モーリアックである。

ヴィーゼルのエッセイには二人の最初の出会いが極めて美しく記されている。
敬虔なキリスト教徒であったモーリアックは、ヴィーゼルに、彼の信仰上の根本命題である、神の一人子イエスについて、その偉大さ、神性、十字架上の死について語る。しかし、それがヴィーゼルを激しく傷つける。2千年も前の一人のユダヤ人の死が、十年ほど前の六百万人のユダヤ人の死よりもかくも重いものであろうか、と。ホロコーストはキリスト教圏で起きている。ヴィーゼルが、作品を通じてはっきりと言明しているように、大量虐殺はキリスト教の背景を抜きにしては考えられない。しかしヴィーゼルの怒りに対するモーリアックの態度は、 ヴィーゼルを狼狽させるほどに真率なものであった。彼は、「唇に微笑をたたえたまま、 涙をぬぐいもせずに」ヴィーゼルの言うことに耳を傾けたのである。モーリアックは、 戦前から反ファシズムの論陣を張り、 第二次世界大戦中は、 レジスタンスに参加していた。このことをヴィーゼルは十分承知していたが、 何よりもヴィーゼルを突き動かしたのは、この老作家の率直さといさぎよさだった。老作家はエレヴェーターまでヴィーゼルを見送りにきて、彼を抱き締めたあと言う、「このことを話さないのは間違っている。話すべきです、それでも話すべきです」。
 
真の「霊性」の出会いとはこのことか。ヴィーゼルはこれを契機に語り始める。
やがて証言は、時空を経て私のもとに届く。モーリアックとヴィーゼルの出会いが私において成就するのはまさにこの時なのであろう。

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HANA-BI 北野武監督




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私はビートたけしという人に対して、人気が先行した毒舌のお笑い芸人という印象を長いあいだ持ち続けていた。監督としての北野武がヨーロッパでずいぶん高い評価を受けていることは知っていたが、作品を積極的に見ようという気持ちはあまりなかった。
先日テレビで、HANA-BIが放映されたときも、まあ、なんとなく見たのである。正直、魂消た。ビートたけしが複眼の大した役者であること、北野武がそれを俯瞰した希有な監督であることを知ったからである。
HANA-BIのテーマは、どこまでも人間の優しさであり、愛なのだが、執拗に暴力を絡ませる手法は半端なものではない。これでもか、これでもかというほどの銃弾が肉体に打ち込まれる。そうやって、徹底的にしかも易々と地獄を現成させる。そんななかで、きわめて日常的で平和な営為である花火が、哀しいほど立派に物語の主人公になるのだ。
また暴力と病の物語の間に挿入される絵画のすばらしさはどうだろう。動と静の絶妙のコントラストに、私はただ息を飲んだ。絵の作者が北野武と知って、さらに驚愕した。黒澤明が「ああ、タケちゃん」と、監督としての北野武をすっかり受け入れたと聞く。然りと思った。

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花祭り -お釈迦様の誕生日-




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本日は花祭り。お釈迦様の誕生日です。
仏教寺院では、“仏誕生会”といってお釈迦様のご誕生を祝う法要が執り行なわれます。

お釈迦様は、ルンビニ(現在のネパール)にて約2500年前にお生まれになりました。私も大学の卒業旅行でネパールを旅した際にルンビニを訪ずれましたが、いくつかの国の仏教寺院がある以外は何もないような田舎の村でした。それでも村人はお釈迦様生誕の地に住まう事を誇りに思っているようで、「この村はお釈迦様が一番始めに立ち寄られた村なんだ」などと話していました。
私は僧侶ではありませんが、家には仏壇があり、縁あって研究所にて働き、禅の文化などにも非常に興味があり、宗教を問われたら当たり前のごとく「仏教徒です」と言います。ですが、「仏教徒って?」と聞かれた時、どう答えようかと迷う事も正直あります。

ある日、深い悩みを持ちながらも漸く立ち直った知人が言いました。
「お釈迦様が悟って下さった時点で、既に我々はもう救われているんだよね。安心(あんじん)を与えられている。同じく達磨さんが壁に向かって9年坐って下さったのも我々の為だよ。本当にありがたいねぇ。私達は既に救われているよ。だからちょっと私みたいに道に迷って不安定になっても、こうやって今大丈夫でいられるんだ」と。
宗教・精神医学・哲学・古今東西の文学・芸術に関する書などを読みあさり、苦しみ悩んだ末に穏やかな顔で話す知人を見て、「辿り着いたのだなぁ、もう大丈夫だろう」と思いながらも、「なんとなく仏教徒」な自分を恥ずかしく思いました。自分はあそこまで腹の底から「ありがたい」と思えるだろうか……と。
それでもやはり、「あぁ、お釈迦様ご誕生の日なのだな」と思うととても嬉しく有難い気持ちになるのは嘘ではなく、今日をお祝したい気分なのです。

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ガーデニング




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2月とは思えないとても暖かな休日、自宅の門柱の下に花を植えることにしました。
さっそくホームセンターでお気に入りの花を選び、帰宅してすぐにガーデニングに取りかかります。
今回植えた花は左から、桜草、ヘリクリサム コルマ、カーネーション、クモマグサ、花かんざし、スズランエリカです。
花を植え終わったら次は観賞タイムです。綺麗に咲く花に心が和みます。
この日はとても天気が良く、気持ちの良い作業が出来ました。
翌日から毎朝、花の様子はどうかなと確認する楽しみが一つ増えました。

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安産祈願 -京都・わら天神-




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私事ながら、妻の妊娠5ヶ月目の戌の日に、京都の「わら天神」へ行ってきました。
「わら天神」とは通称で、正式名称は「敷地神社」といい、安産のご利益で有名な神社です。
この日もたくさんの参拝者で賑わっていました。

授与所の前には、夫婦や親子で来られている妊婦さんの行列が出来ていました。
私たちも列に加わり、安産祈願の腹帯をいただきました。

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"THIS IS IT" マイケル・ジャクソンとアラン・ワッツ




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今やロードショーは終わり、一部で追加上演となってしまっている映画だが、やっと、マイケル・ジャクソンの "THIS IS IT" を観ることができた。
彼の音楽はラジオなどでよく耳にはしていたが、実のところ、CDを買ったりというほどのファンでもなかった。
しかし、予定されていた久しぶりの大会場での公演の目前に、あまりにも突然で謎めいた死をとげたことがニュースで報道され、そして、公演のリハーサル模様の映像を収めた "THIS IS IT" というドキュメンタリー映画が上映されると聞いて、是非観てみたいと思っていたのだ。

映画には予想以上にいたく感動した。ドキュメンタリーなのでとてもリアリティがあり、彼の音楽性がコンサートに向けてどうやって実現されていくのかが、事細かに記録されていたため、私が今まで感じていたマイケル・ジャクソンに対するイメージが一新したのだ。
彼はセールスのおかげでものすごい資産家となり、湯水のようにお金を使い、ネバーランドという夢の国のような家を持ち、整形を繰り返していたアーティストであったから、どちらかというと、遠い世界の人で共感するようなことがなかったのだ。
しかし、映画でみたマイケルは、自分の意志をとても繊細に丁寧にスタッフに伝え、そしてスタッフに気を配り、いいものを作り上げていくという真摯な姿勢であって、とてもすばらしいと思った。
そして、彼が訴えたかったのは、「今すぐ地球を救わなければ」ということだった。エンディングロールが終わって後に、さらにそのメッセージが繰り返されていた。人類愛に満ちた人だったのだと思った。

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占い

占星術研究家の鏡リュウジさんは「占いは迷信」だと言う、「星の動きが人の人生を決めているわけがない。……星のサイクルで、この辺がこの人の転機だというのはだいたいわかる。でも何がどうくるかはわからないです」。

人生何が起こるかだれにもわからないなら、やはり自分の人生について、占い師さんのアドヴァイスに依存するのはあまり意味がないかもしれない。私など結構「感」の強いほうなので、人よりちょっと何か見えてしまったりすることもあるが、よーく考えれば、それがどうしたということだと思う。AとBの岐路に立ったとき、占いによってAを選んだとか、占い師の勧めで「……座」の人と付き合ったなどと挙げればきりがないほど、若い人も占いに左右されているようだが、占いでよい結果が出たと思ったら、依存度はますます高まるし、うまくゆかないと思ってしまったら恨みだけが残る。あげくの果てに、「生あるものはすべて死ぬ」という現象はいかんともしがたいなら、どう選んだところで、結局は五十歩百歩ではないかと思うのだ。

「占い師さんの言に従ったおかげで、300歳になる今も元気で働いている」というような人に出会えたら、「おっ、占いも結構いいかも」と思えるもしれないが、平均寿命までタラリと生きて、病を得て死んでいくというおそらくは人生最大の幸運は、占いなどとは無関係に、手に入る人には案外手に入るものではないか。

鏡さんは言う、「人は、完全なランダムには耐えられない。人生のすべての凹凸に、一つひとつ対処していたら身がもたないから。だから、ある種のパターンや物語を見いだして、人生を意味あるものとして生きようとする。そこに占いの本質があると思うんです」。

お釈迦さまは、「人は生まれて老いて病いを得て死ぬ」と言った。これは見事なパターンだし、これほど簡潔で嘘のない物語もない。究極の占いと言っていいかもしれない。私たちはみな多少の時間の長短はあっても、この物語を間違いなく展開できるという恵まれた命を生きている。それさえ確実なら、鏡さんの言うように、人生の凹凸を一つひとつ占ってもらっても、得るところは案外少ないかもしれないのだ。

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加藤登紀子さん

昨年末、加藤さんの「ほろ酔いコンサート」に行ってきた。
満席の老若男女が結構ノッていたので驚いた。今回のテーマは「1968」。
この年に格別の思いを持たない若い人もノッていた。新しい曲の披露は極めて少なかったが、なにか新しい感じがした。'68の回顧ではなく、今の「1968」を加藤さんは歌っていたと思う。「新」しさはそこからきていたのかもしれない。

加藤さんを聴いていて、ふと、オノ・ヨーコさんを思いだし、平塚らいてうさんのことを想った。三人はどこか似ている。三人とも、時代よりちょっと早く、「当たり前」のことを当たり前に言い、行動した。三人は信じられないほどスマートだが、鋭利な刃物といった感じはない。その思考は身体全体で生み出されているようだ。極めて自然に母性を受け入れ、子をなした彼女たちは、その点ですでに、私の大好きなシモーヌ・ド・ボーヴォワールを凌駕しているのかもしれない。

出生率が低下の一途をたどる状況に、「……家庭や子育て、親子とかに対してすごく自由な感性が生まれてこなきゃいけないと思うの。おまえ、結婚しなくても子供つくってこいよというぐらいに。それが日本の社会の新しい課題だなと思うんですよ」と加藤登紀子はごく自然にコメントしている。

彼女たちは、あの類まれな知性にも関わらず、大らかで太陽のような「女性性」を揺らぐことなく堅持した。権力にNOと言い続けるときでさえ、彼女たちは非合法の眼差しと無縁であり、何かしらユーモアもあった。「女が男に負けるわけがないじゃない、だってオッパイがあるのですもの」とオノ・ヨーコは言ってのけた。

彼女たちは夫にとって妻であると同時に「グレイト・マザー」だったが、権勢をふるい、支配するもの全てを象徴する元型としての地母神ではない。自他に対する高度な客観性に富むゆえに、「かわいげのない強い女」といったステレオタイプなレッテルを貼る凡庸な者たちもあったが、彼女たちはいつだって遙かな高みにあり、精神の自由を手にしていたように思われる。
海清僧堂の臘八摂心を了え、「もう大丈夫だな」と南天棒に言われた平塚らいてうは、実に淡々と、「(森田草平との心中未遂事件のときから)私はすでに大丈夫だった」と述懐している。

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一年をふり返って




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2009.12.20 群発地震の続く伊豆韮山にて富士山を望む

今年もまもなく終わります。
皆さんにとって、今年はどんな一年だったでしょうか。
また来年はどんな年になるでしょうか。どんな年にしたいでしょうか。

漢字検定協会の恒例の今年の漢字は「新」だったようです。世間を騒がせたせいか、今年はひっそりと発表された感がしましたが……。

さて、今年は大本山妙心寺の開山無相大師の650年遠諱でした。そのテーマは「請う、其の本を務めよ」(こう、そのもとをつとめよ)でした。「新」とは正反対、原点回帰の精神ともいえるでしょう。

350年前にこの無相大師の300年遠諱で妙心寺住持として導師を勤められたのが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師で、遠諱の翌年の秋に遷化されました。
したがって、来年秋には愚堂禅師の350年遠諱の正当ということになります。
禅師の遠諱事務局から依頼をうけた弊所は、その記念事業として、語録『宝鑑録』の訓注と、『愚堂禅師年譜』の訓注、『愚堂国師墨跡集』(仮題)の制作を行なっています。このブログでも何度か、そういった記事を書かせていただきました。

また、来年には、『宗門葛藤集』や『元亨釈書』の訓注版も発売予定です。大部の書籍ですが、禅文化研究所らしい書籍が出せそうです。他にも一般向けの書籍をはじめ、禅の文化財等のデジタルアーカイブ事業の展開や、禅文化研究所のWEBサイトの刷新なども計画しています。

さて、弊所も本日で今年の仕事納め。個人的には、明日から自坊の掃除に忙殺されることでしょう。
皆さんもどうかいい年末、そしていい新年をお迎えください。
また来年お会いしましょう。

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心を癒す音色




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少し前に、ヴァイオリニスト・葉加瀬太郎さんのコンサートを見に行きました。
普段、美しいもの美しいものと、せっせと寺巡りや美術館巡りを繰り返す私ですが、幼い頃から楽器などを習っていたわりに、さほど音楽の世界に興味がありませんでした。
コンサートもお誘いを受けるままにでかけたのですが、生の美しい音色とは、ここまで人をひきつけるものなのか……と久々に心より楽しみ、癒されました。

葉加瀬太郎さんのお人柄の素晴らしさもさることながら、その他のベースやチェロ、ギター、パーカッション、ピアノなどを担当されるメンバーの方達も、見るからに皆個性的で素敵な方々でした。そして、そんな個性が一体となって作り出す音色は、人々の心を打つのも当然で、感動の一夜でした。


……さて後日、色々な事が重なり、小々イライラしていると、テレビから優しい音色が。葉加瀬太郎さんのヴァイオリンでした。すーっと心が穏やかに、優しい気持ちになれるのが自分でも不思議なくらいでした。本当に美しいものとは、どのような分野のものでも、心の栄養になるのですね。

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美しい夕暮れ -和歌山・周参見-




美しい周参見の夕暮れ

先日、三島龍澤寺の心鏡室・鈴木宗忠老師のもとで修行した者の会下会(えかかい)に参加した。平たく言うと、修行道場のOB会といったところ。同じ釜の飯をいただいていた人達が、年に一度こぞって親睦を深めるのだ。
もちろん、自分が在錫(在籍)していたときには既に道場にはおられなかった人達も大勢おられるが、時は違っても、同じ師匠のもとに参じていたわけであるし、また道場の法要などがあると、お手伝いなどに集まるので、顔見知りである。
僧堂という、ある意味閉鎖された特殊な空間の中で、師匠や先輩から叱咤激励されつつ自己研鑚をし、苦労をしたもの同士であるので、私などのように会の中では弱輩もので世代が違っても、まるで仲間のように扱っていただき、とても楽しいひとときを過ごすことができる。

さて、今回の会下会は、和歌山県の白浜より、もうすこし南にある周参見で開かれた。
夕刻に到着すると、お日様が沈む方向が海の方のようなので、宿泊所の前にある海岸へカメラをもって降りてみた。

和歌山県・須佐美港

港にはクルーザーのほかに、長い竿が2本、角のように突き出た漁船がある。これは、ケンケン鰹を捕るためのケンケン船だという。「すさみ」と言えば「ケンケン船」とまでいわれるほど有名になっているとのこと。
道場の先輩が、ケンケン漁の名前の由来を憶測されていたので、帰坊してから由来を探していたら、こちらのページに書いてあった。先輩の憶測はこのなかの一説だから、当たらずとも遠からずだ。

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コスモス

二十年振りに親友に会った。二年前に小学校の教師を退職して、大阪にひとりで暮らしている。京都駅の中央改札口で待ち合わせをした。彼はまるで森のなかに一人でいるように、雑踏の改札口に、しんと佇んでいた。昼食を一緒にした。料理が運ばれてきたとき、彼は、「たった一人で心が餓えていると猛烈な食欲が出てくるものだ」と言った。そう言いながら彼はゆっくりと静かに食べた。貪っているのはむしろ私の方だったので可笑しかった。

どんな生活をしているのか尋ねると、彼はとても簡単に答えた。「朝起きて散歩をして朝食を取り、坐禅をして昼食をとり、坐禅をして夕食を取り、坐禅をして寝る」。一週間に二度ほどスーパーに買い物に行って、レジで「ありがとう」と言う。一週間に二回のありがとう。彼が人に話をするのはそれだけのようだった。会って三十分ほど経ったとき、この二年間でこんなに話をしたのは初めてだ、と彼は言った。

彼は私に、久松真一博士の「基本的公案―どうしてもいけなければどうするか」を、どんなふうに工夫しているかと尋ねた。私は困ってしまった。久しい前から「基本的公案」は棚上げしていた。とりあえず、「定」に入れば、公案はおのずと解けると思っていたのだ。彼はずっと持ち続けているようだった。彼は言った、「貴方に会うことになったとき、困ったなあと思った。ぼくはまったく前に進んでいないから」。私は心のなかで、「前に進んでいないというあなたの〈我(が)〉を私はどうしても捕まえることができない」と思っていた。

彼はとても温かだった。こんな温かさを現成できる人を私はあまり知らない。

以前から、彼が教師としてどれほど卓越していたかを知っていたから、学校のことをいろいろ尋ねてみた。国語の詩の授業。彼は生徒たちに詩を読ませて、「その詩のなかのどんな言葉でもいい、それについて自分が感じたこと、思い出、なんでもいいから書いてごらん」と言うのだそうだ。そうすると、生徒たちはまちがいなく全員、びっくりするほどたくさんのことを書くそうだ。生徒たちは今度はグループに別れて、それぞれが書いたことをみんなでまとめて、グループ毎に報告する。彼はそれからみんなに聞くのだそうだ、「君らにはこの詩から思い浮かぶことがこんなにあった。この詩を書いた人には、どんな思いがあったのだろうね」。子どもたちはみんな「詩」が面白いと言うという。こんな授業を受けて落ちこぼれるのは大層難しいことだろうなと思った。幼いときにこんな先生に出会えた子どもたちの幸運を思う。

正午に出会って、夜の八時に京都駅で別れた。瞬時のような気がした。それから今に至るまで、私の頭のなかを、「億劫相別れて、須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」という言葉が駆け巡っている。私は一体だれと会っていたのだろう。

かつてスティーブン・アンティノフ氏が「内なる深淵に呑まれて」(禅文化148号・150号)という優れたエッセイを書いた。

わが「友」は、そこに登場する「片岡さん」である。

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伊吹山登山 2

伊吹山登山の目的は、以前、夏に登ったときの花畑の美しさに魅了されたからだった。
ところがじつは、この時期の頂上付近の花畑には、もう花など咲いていなかった。残念。
ただ、登っている途中、折々見ることのできた小さな野花や植物を、ファインダーにおさめてきたので、お見せしたい。

リュウノウギク
リュウノウギク


オオハナウド
オオハナウド


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伊吹山登山 1




伊吹山登山

連休の秋晴の一日、ふと思い立って、滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山(滋賀では最高峰の1377m)を登ってみようという気になった。
前にもブログで伊吹山の花畑を紹介したことがあるが、その時には車でドライブウェイを登ったのだが、今回は、麓から我が足で登ろうというのである。

そもそも、その前日にカーラジオを聞いていたら、伊吹山3合目付近に、ススキ野原が広がっているということをDJが言っていて、ちょっと登って写真を撮ってこようと思ったのがきっかけ。
だが、どうせなら頂上まで登山してみようかと思い、やおらリュックを取り出し、寒さ対策のウインドブレーカーや水・食料を詰め込んでの登山となったのである。

ここは実は25年ほど前の真夏に仲間と登ったことがある。が、そもそも登山自体が久しぶり。ところが、意外にも多くの人が登ろうとしているのである。登山道では、すれ違う人、追い越す人と必ず挨拶する。出逢った人の数だけ「こんにちわ」を言うというのも、普段ではできない感覚だ。

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3合目付近では、確かにススキ野原に出迎えてもらった。真っ青な秋の空に、ぼんやりとお月様も浮かんでいる。

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1時間半もかかっただろうか。やっと5合目に到着した。 この伊吹山は5号目までくらいは比較的なだらかだが、そこから頂上にかけて、斜面がきつくなる。この写真では大してきつくみえないが、なかなかどうして、ここからが大変だ。

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打算




秋の朝露

私の鍼灸師さんがかつて言ったことがある。
「配偶者を決めるとき、電車で足を組むような人は絶対やめといたほうがいいでしょう」
私は一瞬とまどった。そんな人は不遜な性格だという意味だろうか?
「足を組む癖のある人は早晩必ず大病します。身体に強い歪みがあるはずですから」
ちょっと目からウロコだった。配偶者を選ぶときに、身体の歪みのことを考える人はあまりいないかもしれないなと思って、ちょっと可笑しかった。

人間の関係を突き詰めると、どんなに密接な間柄でも微かな打算が入り込む。悲しいかな、親子だってそうだ。息子や娘の配偶者を探している親が、「自慢の息子です」とか「非の打ち所のない娘です」という場合、ほぼ例外なく世間のものさしが働いている。学歴、職業、収入、身体的美醜、性格の良し悪し等等。

医者だの弁護士だのという息子をもったおかあさんは、ただそれだけで、失業中で途方にくれている息子をもったおかあさんよりも、嫁選びの際には、ちょっとばかし鼻息が荒いというのが正直なところだろう。

ヘルマン・ヘッセに『デミアン』という小説がある。初めて読んだとき、母親と息子がこれほど美しく描かれた物語が他にあるだろうかと思った。もし息子がこんな母親を持つことができたら、至福以外の何物でもないだろうと思った。もし母親がこんな息子をもつことができたら歓喜以外の何物でもないだろうと思った。
母親は息子デミアンをも真に「正しく見」る「正思惟」の人である。そのことを完全に理解しているデミアンは母親について、「母は大丈夫です、世界でもっとも大丈夫な人です」と言う。不思議なことだが、デミアンは「私の」母だから母親を敬愛しているのではないし、母親は「私の」息子だから、デミアンを愛しているのではないように思われる。
二人の関係には、究極の打算である「私の」が欠落している。配偶者がデミアンであり、義母がデミアンの母であるような女性のことをふと思ってみる。「浮世」が遙か遠くに思われることだろう。

我に返って、このシャバで、浮世のものさしを考えたとき、さきの「身体の歪み」云々は、打算のなかでも比較的かわゆいものかもしれないなと、ふと思ったりした。

【第8回 西村惠信所長と行く“禅と文化”の旅 参加者募集中!】

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大型連休




大型連休

公的機関における休日を基準に見ていくと、19日(土曜日<休日>)、20日(日曜日<休日>)、21日(敬老の日<祝日>)、22日(国民の休日<休日>)、23日(秋分の日<祝日>)の5日間の連休でした。
ブログをご覧になっている皆様は、どのようにお過ごしになられましたでしょうか。きっと有意義な連休だったことでしょう。

さて、今回の連休には、敬老の日と秋分の日という2つの祝日がありました。
ご存じのこととは思いますが、祝日とは「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号、以下「祝日法」と表記)によると、第1条に、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける」とあります。

ということは、祝日には元来意味があって、それらのことを「祝う」・「感謝する」・「記念する」ためにあるということになります。ちなみに「祝日法」によると、敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことが記述されています。

老人を敬愛し、長寿を祝う。祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。

これらの事柄を、国民の祝日として休日にし、日本国民がこぞって行う。私たちの祖先には、このような美しい価値観があったことを、今更ながらとても誇らしく思います。

ただ、確かに連続した休日であったことに間違いはないのですが、「祝日も休日なのだから、休む権利がある」と言わんばかりに、休日であることの方を強調しているような風潮があるように思えたのは筆者だけだったのでしょうか。それとも、これが現代の価値観・常識であり、ひょっとして、上記の価値観自体が、非常識になりつつあるのでしょうか。

このような風潮は、とても残念なことだと思うのですが。

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タブラ奏者 アリフ・カーンのコンサート




コンサート at 福成寺

9/18のブログでお知らせしたように、去る9月27日に、インドから若きタブラ奏者のアリフ・カーン氏が初来日し、京都市西京区の福成寺の竹林で、シタールの田中峰彦氏とのミニコンサートがあった。
コンサートを見に行くことにしたところ、今回の来日に深く関わっている人が、研究所に以前勤務していた方の奥方ということもあって、少々お手伝いを頼まれることになった。

彼と彼のインド側のプロデューサー的存在の女性を京都市内のホテルでピックアップし、車で会場のお寺に連れていき、コンサートの時にはカメラマンになってほしいとのこと。
そんなわけで、しばらくの時間では有ったが、直接、下手な英語で話をしたりして、コミュニケーションもはかれた。もしインドにいく機会があったら、きっとお世話になれそうなことに……

タブラ アリフ・カーン/シタール 田中峰彦

それはさておき、オープンエアで竹林を背景にしたミニコンサートは、約40名ほどの聴衆の中でアットホームな雰囲気のなか始まった。
シタールの田中氏から楽器やインド音楽の説明をしていただき、あのシタールの奏でる独特なインド音楽と、初めて目にする、タブラという打楽器のリズミカルかつメロディアスな音に魅入られて、あっという間の1時間半だった。

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秋の風景 秋桜と彼岸花




秋空

秋を感じさせる夕方の空だ。
今年は、いつのまにか名づけられた、シルバーウィークなる長期連休があり、各地へお出かけになった方も多かったようだ。
私たち僧侶はお彼岸で、連休の恩恵を得て行楽に出かけるというようなこともなかったが、そんな中、愛犬の散歩にカメラを持って出て、実近にある秋を味わって一興としていた。

秋桜(コスモス)

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「畜類償債譚」

延興寺の僧恵勝は、生前に寺の浴室で湯を沸かすための薪一束を無断で他人に与え、そのまま死んだ。その後、寺の雌牛が一頭の仔牛を生んだ。やがて成長した仔牛は、薪を満載した荷車を引いて休むことなく働かされた。

ある日、見かけない僧侶が寺の門の所に立っていた。いつものように荷車を引いて門を入っていく牛を眺めて、「恵勝法師は、涅槃経はうまく読めたが、荷車はうまく引くことができない」と言った。牛はそれを聞いて涙を流して嘆息し、そのまま倒れて死んでしまった 。
牛を連れていた人は「お前は、牛を呪い殺したな」と責めたて、その僧侶を朝廷に訴えた。朝廷はその僧侶を呼び出して取り調べるが、その姿は貴く美しく、ただ者には見えない。そこで朝廷はその僧侶を浄室に控えさせ、三人の絵師に似顔絵を描かせた。すると絵師が書いた似顔絵はみな観音菩薩の姿であった。気づくとその僧侶は忽然と消えていた。(『日本霊異記』上巻)

生前になんらかの形で罪を犯した人物が死後家畜に生まれ変わり労働して償うという形式の説話を「畜類償債譚」などと称し、中国の『太平広記』や『冥報記』に多く見える。南泉普願の「山下に一頭の水牯牛と作り去らん」の語も、ただこれらの説話を前提とするというばかりでなく、この生々しくも恐ろしい罪悪と業報の話によって担保さえされているようにも思われる。

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禅僧たちの国際交流

朝夕に秋の気配が漂う8月25日、中国とフランスに向かい二つのグループが関西空港から旅立った。

日中禅僧交換交流へ

一つは、平成10年から臨黄友好交流協会が中心になって進めている第7回「日中禅僧交換交流」である。今回は、広東省深圳市にある弘法寺で、相国寺(京都)、瑞巌寺(宮城)、永平寺(福井)から派遣された6名の修行僧が中国人僧と寝食を共にし10日間の修行体験を行なう。

東西霊性交流へ

もう一つは、禅文化研究所が事務局になって進めている第11回「東西霊性交流」で、現地での合流を含め6名の禅僧が、フランス国内にある3つのカトリック系修道院に分かれて2週間の僧院生活を体験し、シンポジウムを終えて帰国する。

同じ禅宗でも日本と中国では随処に修行形態の違いがある。ましてキリスト教との差は歴然である。しかし、同じ食事をし、同じように祈りと労働に参加するという実体験によってその宗教を理解することができる。また、他の宗教を知ることによって自分たちの宗教を見つめなおすことにも繋がるのである。
彼らたちが体験を通して何を得て帰ってくるかを期待したい。

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私の鍼灸師さん




マイナスイオン放出の清らかな滝

5年くらい前になるだろうか、片方の耳が少し聴こえにくくなって耳鼻科に通ったりしたが、パッとしない。鍼灸師の友人が、耳のコリからくるものかもしれないから、鍼をしてみたら、と助言してくれた。そして「鍼灸の施療ほど、実力の違いが如実に顕われるものはないから、鍼灸師を選ぶときにはよほど慎重に。私がとても尊敬している鍼灸師さんがいるので紹介してあげよう」と言ってくれた。

四条河原町から阪急電車に乗って、紹介された鍼灸師さんを訪ねた。「耳がちょっと聴こえにくいので」とだけ、予約のときにお伝えしておいた。
私が診察室に入るなり、先生は「左耳ですね」と言われた。ちょっとビックリした。左耳を中心に鍼をしてもらっておいとました。すごくビックリしたのは四条河原町に帰り着いたときだった。ここはこんなに騒がしい場所だったのかとあらためて思ったのだった。耳はとてもよく聴こえるようになっていた。

すっかり先生のファンになってしまった私は、それから毎週予約を入れた。先生はいわゆる「ツボ」には鍼を打たない。その折、その折の患者のコリを目で追って、ピタリとそこに鍼を打つのだ。まるで神業なので、聞いてみた。「どうしてコリが見えるのですか?」。「最初からこんなふうにわかったわけではないですよ。患者さんに鍼を打っているうちに、コリの箇所に私の肘の内側がビンビンと感じ始めたのです。コリが私を呼ぶんですねえ。アハハ」と。それから、だんだん見ただけで人のコリがわかるようになったのだという。

「先生は天才ですね」と感嘆する私に、先生は「いや、最初は本当に何もわかりませんでしたが、ただカムシャラに自分や患者さんに鍼を打ち続けた結果です。だから誰でもわかるようになります、やっていたら」。私の左耳のこりの発見も、先生にとってはごく「普通のこと」だったのだ。
それで、友人の鍼灸師に「コリって見てわかるようになるものなの」と聞いてみたら、「いやそんなことがわかるのはあの先生くらいのものだ」という答えが返ってきた。

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岡山 倉敷 美観地区




倉敷美観地区の風見鶏

倉敷美観地区を、3年ぶりに訪ねた。
前回は携帯でとった写真だけだったが、今回は少々、撮影に気合いをいれてみたので、主に写真で味わっていただけたら幸い。

涼しげな水辺

まだ残暑きびしいさなかではあるが、この美観地区に来ると清涼を感じずにはいられない。
お盆休みも過ぎて、旅行者も少ないからか、少々、ひっそりした感じであった。

それにしても、ホテルでもらった案内地図を片手に歩いているのだが、行こうとしているミュージアムが、あるはずの場所にないのには閉口した。
地図が古いのかもしれないが、観光名所としては、これはいただけない。
今どきの世相を物語っている気がする。有名無実とはこのことなのだろう。おかげでだいぶ散策させていただけたが。
しかし、この風情だけはいつまでたってもこのままであって欲しいと思う。

蔵のある町並み

きっと、この大作を描いているおじさんもそう思っているのじゃないだろうか。

美観地区を描く人
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古墨跡は縁のある人を集めるのか

本ブログで、愚堂東寔書「雲門云関」という記事を書いたのは、今年(2009)4月24日のことだった。
それからちょうど3ヶ月して、研究所の私に一本の電話がかかってきた。
それは、インターネット検索していて、たまたま上記ブログをみつけたというある方からの電話だった。
「その軸はうちにございます」というものだった。私は声がうわずるほど興奮した。
まずは先のブログを読んで頂きたいのだが、その後、できる限りの手を尽くしてツテをたどったが、結局どれも行き詰まってしまい、あとは、いつか、このブログを誰かが見つけてくれたら幸いだと思って、最後の布石として書いたのだった。
そしてこの電話である。
所蔵者は京都市内のとある骨董商、意外にも近くにあったのだ。撮影許可のお願いをしたところ、主旨もご理解いただきご快諾いただけた。
そこで先日、都合をつけていただき、写真撮影に寄せていただいた次第。それが下記の写真である。

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梅雨が明けない

雨にぬれる露草

もう七月も終わるというのに、今年はいつになったら梅雨が明けるのだろう。もう梅雨明けしたと言われているところでも、尋常じゃない豪雨があったりして、被害にあわれ命を落された方もいるという。ご冥福をお祈りしたい。
それにしても、カラッと晴れる日はいつになったら来るのだろう。
近ごろ、Slow Lifeに人気があるから、お天気までスローになってきたのか。
この調子では夏はさぞ短いことだろう。
でもまぁ、これも一興。大きな大きな自然界の中で、我らちっぽけな人間がどうあがこうが仕方のないこと。自然に抗おうとせず、あるがままに、大いなるものに包まれていればいいのかもしれない。

さて、この日の夕方にも雷雨があり、雨があがるのを待って愛犬を連れて散歩に出た。
空はいろいろな形の雲で、不思議な色合いを見せていたので、しばしみとれていた。

梅雨の空1

気圧が乱れているからだろうが、とてもいろいろな雲が一度に見える。

梅雨の空2

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山村御流 いけばな展 -大阪高島屋- 2009夏

山村御流 いけばな展

大阪(なんば)高島屋の7階グランドホールにて7/22(水)~7/27(月)まで開催されていた、-山村御流 いけばな展-にでかけてきました。
今回は親友が出展する事もあり、父と共にお祝いにかけつけました。
初めて御流の花を目にする父が、どのような感想を持つのかも興味深く思っていました。

最初、いくつかの作品を見て「これならお父さんにも生けられるんじゃないか」と、素人にありがちな感想でしたが、1つ1つの作品を丁寧に見てゆくと、次第に「この流派は、色々なものを花器に使って生けられるぶん、花器選びのセンスが重要だ。でも、花器を探す(見立てる)のもまた楽しいものだ」、「花器にあう花を選ぶセンスも必要だ」、「なかなかに難しいな、でも真似して自分で帰ったら花を生けてみよう」と、次第に心が花に寄り添っていったようでした。

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田舎のよさ -ドラゴンカヌー大会で思う-




ドラゴンカヌー大会

関東まで梅雨明けしたというのに、近畿地方は未だにあけず天候も不安定で、豪雨が降ったりして、夏らしくテリッと晴れる日はいつくるのだろう。
そんな中、毎年、自坊のある地元の琵琶湖の内湖で行なわれている「ドラゴンカヌー大会」に、今年も選手として出場した。
写真でもわかるかとは思うけれども、ドラゴンカヌー大会というのは、ペーロンのような船での競技である。8人の漕ぎ手と太鼓士1人、そして舵取り1人で1チーム。
ただこの競技、全国で唯一の特徴がある。それは折り返し地点があってUターンして戻ってくるということである。
このお蔭で、圧倒的な差が一気に縮まったりして、なかなか面白い。Uターンでは舵取りの技量も求められる。……実は私は毎年舵取りの選手として出ていて、別に自慢でもないし何も練習していないのであるが、皆が言うには上手らしく、おかげさまで法事と重ならない限り、必ず選手で使ってもらっている。

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東京国際ブックフェアと……悪夢




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ご案内していた、東京国際ブックフェア(7/9~7/12)が終わった。ご来場いただいた皆様、誠にありがとうございました。

早くから出展が決まっていたのに、なかなか新刊となる本の編集が進行できず、6月にかなり焦り、無理もしつつ2冊の新刊を間に合わせることができた。
それが、『明治の禅匠』『禅の寺』である。
新刊と言っても、実は両方とも復刊本。
『明治の禅匠』は私が研究所に勤務しだしてすぐに絶版になったので、既に20年ほどは品切れだった本である。今回、新版として再発行した。
もう一点の『禅の寺』も、以前はA5判の並製の本で、写真もすべてモノクロだったが、品切れして数年がたったので、今回、内容も加筆訂正していただき、オールカラーのムック本体裁に改め、新発売である。

ところが『禅の寺』は、フェアの1週間前に印刷会社に責了したので、実物は現地で始めてみることになるのである。いやはや、なんとか間に合ってよかったと、いったところ。
内部で使っている写真は、プロの写真家にお願いした写真などもあるが、8割ほどは私自身が撮影したものなので、充実感たっぷりである。

さて、4日間の会期中、禅文化研究所のスタッフ3名は、朝10時から夕方6時までの間、出展ブースに立ちっぱなしである。
交代でお昼休みと、若干の休憩はあるものの、普段、デスクワークばかりの身にとっては、なんとも苦痛。
もちろん、このブログを読んで下さっている方が見えたり、いつも本を買っていただいている顧客の方が見えたりするし、あるいは、「禅」という文字に興味を引かれて、我々に問いかけてこられる方もあって、それはそれで楽しいのであるが、体力勝負の感は否めない。
東京に本社や支社のある出展業者は、4日の間、スタッフを交代で送ってくるので、楽だろうなぁと横目で見つつ、我らは歯を食いしばるのである。
盛況ではあったが、関東が7月盆でなければ、関東圏の臨済寺院の方々ももっと来てもらえるのだろうが、いささか残念。
ブックフェアに来られていない方はご存じないだろうが、通常有り得ない、本の割引販売がここでは行なわれるのである。もしよかったら来年は足を運んでみられてはどうだろう。

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山村御流 いけばな展 -大阪高島屋-




山村御流 花展
山村御流いけばな展 案内状より

奈良の由緒ある門跡寺院、円照寺(現在は臨済宗妙心寺派)を家元とする華道の流派、“山村御流”の華展が下記のとおりございます。

「花は野にあるように」の山村御流。暑い盛りにどのような涼を運んでくれるのかと、今から心待ちにしています。今回は特に親友が出品するので、いつにも増して楽しみです。

ごくシンプルに楚々と生けられた草花に、素人目には「お、簡単?!」とうつるかも知れないこの流派の花ですが、シンプルなほど、生ける者の人格そのものが出てしまう気がしてこわいものですし、また、一旦お花の向きや生け方を迷ってしまうと、ついに、自分の心も花も定まらなくなってしまう…というこわさもあります。
華道の流派にも色々ありまして、あまりに不自然だったり、人間のエゴを見せつけられるようで疑問を抱く事もあります。が、こちらの花は、心から「はぁぁぁ(感嘆)。いいなぁ…」と、見ていて和む事ができ、季節と人の心にそっと優しく寄りそうように生けられるので、私は大好きです。

会期中無料にてご覧になれます。是非お運び下さい。


大阪(なんば)高島屋 7階グランドホールにて
7/22(水)~7/27(月)
入場無料
*7月24日(金)、27日(月)は午後5時閉場

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水が飲みたければ... -『栂尾明恵上人伝記』より-



栂尾の新緑

『栂尾明恵上人伝記』によれば、明恵上人の周囲では、たびたび不思議な出来事が起こったらしい。

ある時、上人が行法をしていた最中、侍者を呼んで言った。「手水鉢の中に虫が落ちたようだ。取り上げて逃がして来なさい」。行ってみると、蜂が落ちて溺れていたので、急いで取り上げて逃がした。またある時、坐禅の最中に侍者を呼んで次のようにおっしゃった。「後ろの竹原で小鳥が何かに襲われているようだ。行って取り離して来なさい」。急いで行ってみると、雀が小鷹に襲われていたので、追い払った。こんなことがしばしばあった。
ある日の夜更け、上人は炉辺に坐していらっしゃったが、突然、「ああ、大変だ。早く見つけないと食べられてしまう。火をともして早く追い払って来なさい」とおっしゃるので、前にいた僧が「何事ですか」と申し上げると、「湯屋の軒下の雀の巣に蛇が入った」と言われる。外は闇夜で妙なことだとは思ったが、とりあえず急ぎロウソクを灯して行ってみると、大蛇が巣にまとわりついて雀の雛を飲みかけていたので、追い払った。
こんな闇夜に、しかも遠く隔たった所の物さえ見ることができるのだから、まして我らが陰で良くない振舞いをするのを、どんなにか怪しからんとご覧になっていることだろうと、弟子衆や同宿の者も、後ろ姿までも恥じ恐れて、真っ暗な部屋の中でさえも、気ままには振舞わなかった。
こんな事があったので、侍者の僧が「上人は仏菩薩の化身だと、陰で人々は申しております」と申し上げたところ、上人ははらはらと涙を落して、次のようにおっしゃった。
「ああ、愚か者どもの言い草だ。だから、わたしのように禅定を好み、仏の教えの通り修行してみなさい。いますぐ、お前たちにもそのような事があるだろうよ。わたしはそのようになろうなどとは全く思ってはいないけれども、教えの通りに修行して長年になるので、知らぬ間に自然と身についたのだ。これは大したことではない。お前たちが水が欲しければ水を汲んで飲み、火に当たりたければ火のそばへ寄るのと同じことだ」

「大神通」を体得した人にとって、「小神通」など造作もないことだということがわかる。

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TVとネット

テレビが故障して4ヶ月近くになる。新しいのを買うつもりだったが、テレビがないことで生活に何の支障もないことに気づいてそのままにしてある。我が家では、TV受像機はDVDやビデオの再生装置でしかなかったようだ。

私の子ども時代は、居間の一台のテレビを家族揃って見るという、今考えれば信じられないような文字通りレトロな日々だった。しかし、そんな日々が懐かしくてよかったなんてちっとも思わない。みんなで揃って見たテレビのコンテンツで感動したなんて記憶がほとんどないからだ。

最近の博報堂DYメディアパートナーズの調査では、二十代男性のPCインターネット利用時間がTVの利用時間を抜いたという。十代・三十代男性においても携帯及びPCインターネットの利用時間がTVの視聴時間とほとんど差がなくなってきているらしい。

これは十分納得できる調査結果だなと思う。というのは、私のような若くない機械オンチでも、帰宅してまずスイッチを入れるのは、テレビではなくパソコンだからだ。大抵のニュースはインターネットで把握しているし、調べ物は圧倒的にこのお蔭を被っている。少し前までは、インターネットの情報はいい加減だとずいぶん言われたものだが、今では信頼できる情報も無尽蔵だ。

動画にしても、最近ちょっと充実してきている。画質はともかく見たい画像が瞬時に取り出せるなんて、かなり嬉しいできごとだ。TVコンテンツの劣化がますます進んで、安直なバラエティ番組や低級なドラマばかりということになれば、大衆もスポンサーも離れてゆくだろう。TVの未来なんてひどく暗いような気がする。

しかしこれはわれわれの未来が暗いということではけっしてないと思う。

受け身なTVの視聴から、もっと能動的なネットの利用に移行するほうが、社会への関わりという意味において個々人の主体性は増すだろう。自らが情報発信者になれば、確実に頭を使わなくてはならないし、情報を読む各人が、さまざまな出来事に対して真実を見極める目を培うことが、好むと好まざるとに拘わらず要求されることになるからだ。
情報のアウト・プットもひっくり返るほど簡便だ。たとえば個人のつぶやき(ブログ)の大衆へのリーチ(到達度)が、こんなに広汎でスピーディなものになるなんてだれが予測できただろう。一個人が直接世界に声を発することができるやりかたとしては圧倒的だ。この流れは間違いなくもっともっと加速するだろう。

テレビが壊れて、ちょっと考えさせられる日々なのである。

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“じゃないですか”症候群

「相手に、否が応でも同意を求めさせる言葉として、非常に下品なもんやけど、あんたは使ってへんやろな?どうや?」と、いつも色々な事を教えて下さる骨董屋主人から言われ、ドキッとした。
自分でも、使っているのか使っていないのか判断もつかないくらいに自然に口から出てしまっていそうなのだ。
「○○って、△じゃないですかぁ」……。

百貨店やホテルで、「ご持参下さいませ」や、「申し訳ございません」、「~円からお預かりします」、「~になります」など、日本語としてそれはおかしいのではないか?と気になる言葉は反乱している。
また、テレビでも、タレントなどが自分の妻を「うちの奥さん、嫁さん」と言っていたり、「~の方が、~の方は」と何にでも“方”をつけており、「なんだかなぁ…」と思っていたが、自分も他人の事を言えたものではなかった。
三十路を過ぎ、もう「若いので仕方ない」ではすまされない年代に入り、気をつけていかなくてはと心底思った次第。皆さんの日本語、大丈夫ですか?

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山口・洞春寺 -愚堂禅師墨蹟撮影行にて-




洞春寺山門

九州での愚堂禅師の墨蹟写真の撮影を終えた帰り、高速道路が日曜祝日1000円であることをいいことに、少々寄り道をして、山口市にある名刹・洞春寺に立ち寄った。

ここは、南禅寺僧堂師家の清光軒・日下元精老師が住持となっている、建仁寺派の寺院である。
ここは毛利元就の菩提寺としても有名で、山門は、洞春寺の前身である国清寺当時からのものであるとか。

以前にこの洞春寺蔵の嘯岳鼎虎禅師手沢本『山谷詩抄』の影印本を、依頼を受けて制作させてもらったことがあり、どんなお寺なんだろうと思っていたから、幸いの機会である。
嘯岳鼎虎禅師(1528~1599)という方は、この洞春寺の開山であり、もともと博多の人であった。明国入ること二度で各地の名師に歴参され、永禄三年(1560)に帰朝されたという。のちに、建仁寺や南禅寺にも住持されている。そして、毛利元就は禅師に参禅し、この寺を創建するに到るのである。
この開山禅師自らの自筆の抄物という点で非常に貴重な資料である。

ちなみに、山谷詩は、禅僧の中で親しく読まれてきた詩集であるが、双璧となる蘇東坡の詩集と比べると、意外に研究書や解説書が少ないため、そういった意味でも、学識ある禅僧の自筆本として重要な書籍である。

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大分・中津城 -愚堂禅師墨蹟撮影行にて-




大分・中津城

愚道禅師の墨跡撮影行で尋ねた大分県。
今まで何度も大分には来ているが、国東半島より福岡側には足を向けたことが無かった。
今回の撮影で大分に入ってから、僧堂時代の先輩のお寺に電話をかけて、愚道禅師のものを御所蔵になっていないかを聞いたら、ご実家であるお寺にはあるかもしれないとのことで尋ねていただいたところ、1本あるという貴重な情報を得たので、国東半島の北に位置する中津へも撮影に立ち寄らせてもらうことになった。

予定時間より少し早くついたので、近くにある中津城という平城を訪ねてみた。
もともとこの城は、戦国時代の武将、黒田如水が築城を始めたものらしいが、戦功により転封となり築城が中断された。のち、細川忠興、小笠原長次の居城となったが、奥平昌成が入城した後は明治維新まで奥平家の居城だった。

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十牛図便箋




十牛図便箋

研究所で働くようになって、「おぉっ、さすが!このようなものを使っているとは!」と感心したのが、この十牛図便箋です。
個人的にもかなり気に入っています。京都の“自休菴”さんのもので、臨黄ネットのお買い物サイトにてご購入が可能です。
ちなみに我が家では、何人かで抹茶とお菓子をいただく際には、同じく自休菴さんの杉板十牛図焼印の銘々皿を使っています。裏返しにし、客人や家族と好きなものを引き、あとで付属の十牛図冊子を皆の前で読み、それぞれに「あぁ、まさに今の私の事だぁ、まだまだ修行が足りない!」、「お、最近頑張っているせいか8番目が来た?!」など、歓声があがり、かなり盛り上がります。
お茶とお菓子をいただく前に、話題に彩りを添えてくれます。

十牛図便箋
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愚堂禅師の鐘銘 -愚堂禅師墨蹟撮影行にて-




浄満寺鐘楼

愚堂禅師の墨蹟の所在のほとんどは、開山されたお寺の多い岐阜や三重、あるいは京都を中心とした近畿圏なのであるが、大分県にも開山されたお寺があり何本もの墨蹟があるので、遠路を九州へと向かった。

今回わざわざ九州まで出向いた理由のもう一つが、福岡県うきは市に残る愚堂禅師の鐘銘の入った梵鐘を撮るためなのである。

太平洋戦争の時には、自坊の梵鐘もそうなのだが、多くの寺院の梵鐘は兵器のために金属供出にあってしまった。
実はこの鐘も、昭和17年秋に供出されんとして鐘楼から下ろされ、お別れの供養法要まで行なわれたという。
ところが下ろした梵鐘を確かめたところ、愚堂東寔禅師の銘が刻されていることが判明し、急遽、保存申請をしたところ、当時の九州大学教授の干潟竜祥教授の調査によって、保存の価値が認められ供出の難を免れたのだという。

愚堂禅師の鐘銘が残る梵鐘

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大分名物 やせうま




yaseuma.jpg

愚堂禅師の墨蹟取材で九州は大分県と福岡県を訪ねた。
旅先で立ち寄った食堂で、大分名物「やせうま」という食べ物に出会った。
ご存じの方もあるだろうか。
平べったく伸ばしたうどんの麺のようなもの(小麦粉をこねて長く伸ばしゆでたもの)に、黄粉(きなこ)をつけて食べる「おやつ」らしい。食べてみると、もっちりとした麺に、黄粉に混ぜられた砂糖の甘みがあって、子供たちなら病みつきになりそうなものだ。

とまれ、この「やせうま」という名前はなんなんだろうと思って、食べながら携帯でネット検索して調べてみたところ次の様なことであった。

平安時代、藤原鶴清麿という貴族の幼児が豊後の国に下向し黒野(現・由布市狭間町古野)というところに隠れ住んだ。
鶴清麿の世話をする乳母は、「八瀬(やせ)」という女、あるいは、京都の八瀬出身の女だったらしい。
ときおり、八瀬は小麦粉をこね長く伸ばして麺状にして茹でて黄粉をまぶしたものを作って、鶴清麿に食べさせた。鶴清麿はこれを食べたくなった時には、「八瀬、うま」(「うま」は食べ物の幼児語)といったといい、これが「やせうま」の語源だという。
こんなところで、京都の八瀬と出会うことになろうとはと思って、興味深かった。

その後、私の修行時代の先輩のお寺にお邪魔して、この「やせうま」の語源の話をしたところ、その先輩はそうじゃなくて、馬の世話をする馬子が、このおやつを食べたら、おいしくておいしくて夢中になるので、馬の世話を忘れてしまうから、馬がやせこけてしまう。だから「やせうま」というのだと聞いていると教えてくれた。
まぁいろいろな説があるのだろうが。

そういえば、八瀬と言えば京都の市街地から外れた山村だが、そのとなりの静原とともに、宮中の行列には重要な役を任される人達が住んでいたところだとか、何かの本で読んだ記憶もあり、八瀬出身の女性が、若君を連れて豊後に逃げてきたという話も、有り得そうな話だ。

しかし、現代の子供がこれを食べて喜ぶのかどうか、残念ながら、それは甚だ疑問。

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映画 グラン・トリノ




grantrino.jpg

今年のGWは、高速道路の割引があったためだろうが、毎年に増しての大渋滞。私の住む滋賀県は、北陸道・名神・新名神・京滋バイパスのそれぞれのジャンクションがボトルネックになるので、ひどいありさまだったようだ。

そういうときは、近場の映画館でゆっくり映画でも……と思い、休み中に2本の映画を見に行った。1本は、「レッドクリフ PartⅡ 未来への最終決戦」、そして、もう1本はクリント・イーストウッド監督・主演の「グラン・トリノ」である。
「レッドクリフ」は文句なしに面白く楽しめたが、より心に残ったのが「グラン・トリノ」だった。ポスター写真だけ見ていると、えらく怖そうなものだが、基本的には、いたって静かな映画だという印象。

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病を得るということ


天龍寺の竹薮

親しい娘さんが「大腸ポリープ」の摘出を受けた際、粘膜下にガンが広がっている可能性が極めて高いという医者の指摘があって、10日後に出るという検査結果を待っている間の親御さんの苦しみは大変なものであった。「若いからガンの進行も早いだろう、私たちより先に逝くなんて・・・」と、最悪の事態を予測したおかあさんは食事も喉を通らないし、ほとんど眠っておられなかったのではないかと思う。

その話を伺って最初に私が考えたのは、医者の診断を受けるまでの10日間をその娘さんはどう過ごしたらいいのだろうということだった。その日々をどんなふうに過ごすかで、検査の結果が出てからのことがほぼ決まるだろうと思った。意見を請われたので私なりに考えた。もし私なら、まずは断食をするだろうと思った。疲れ切った消化器をたっぷり休ませてあげなくてはならない。野菜嫌いで肉やケーキをほぼ毎日食していたという内臓は、多分相当イヤイヤをしていたはずだ。「我が身」とはいうけれど、身体の内部で起こっていることを「我」は何も知らないから、口が欲するものを身体に問わずに取ってしまう。そして身体に変調を感じたら、今度は医療機器や種々の検査を通しての医者の判断を待たずには、我が身のことすらわからない。せめてその10日間は、我が身と親しくつきあって、身体の声を聞いてあげなくては。

結局私はその娘さんに、「一日おきに断食したらどうでしょう。断食をしない日は、玄米クリームなどの穀類と野菜を少々食べたらどうでしょう」と自分の経験を通して知っている範囲のことを言ってみた。娘さんはやはり医者の言葉がショックだったのだろう、肉もケーキもピタリと止めて、なるたけ身体に負担をかけない10日間を過ごしたようだ。その間、漢方医の「断食はきわめて良い選択です。そのときに、胡麻と蜂蜜に根昆布の粉末をたっぷり入れておあがりなさい」という診断に勢いを得て、その娘さんは、自分の身体に結構「親身」になったようだ。生まれて初めてのことだったらしい。娘さんは、ガンの診断を受けたら、漢方医の意見も聞いて、自分でどうするか決めようという決心までしたらしい。10日くらいの間でも人は変わるものだとびっくりした。

診断の結果は、細胞が高度に異形しており、ガンの一歩手前であったという。もちろん油断はできないようだが、もしこの10日間の経験を食生活を含めた生活全体に生かすことができたら、この娘さんはきっと乗り越えられるだろうなあと思った。「我が身」が病を得るということを「我」が責任を持つということについて、若い娘さんがすんなり会得したのを見てちょっと嬉しかった。

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「おくりびと」に危機感?

4/5の日曜日の朝日新聞の朝刊を読んでいたら、"「おくりびと」に危機感"と題して、全日本仏教会長の松長有慶師(高野山真言宗管長)の記事があった。

僧侶の立場から「おくりびと」をどう見ましたかという質問に対し、
――葬儀はこれまで仏教の専売特許のような面が有ったのに、僧侶を含め宗教者は葬式にはいらないという雰囲気を感じた。
と答えられている。

確かに、「おくりびと」では僧侶はほとんど出てこなかったように思う。だが私はだからこそ、危機感というよりも、僧侶である自分自身のためによかったと思ったのだ。この映画を見ることによって、僧侶である自分が知らなかったことがわかってよかったのだ。
だが、松長師は、

――葬儀が形式化し、僧侶はお経を読むだけになってしまったという反省がある。多くの人が病院で亡くなる今、生命は医者の手に委ねられ、かつては僧侶が臨終に立ち会ったが、それが今では葬儀業者の担当である。僧侶が葬儀を通じて死の問題に介在することが難しくなっている。

とも仰っている。確かにそれはその通りである。
だが、ならばこそ我々僧侶は「生きる」ということについて、もっと目を向けなくてはいけないのではないだろうか。我々僧侶が、この現代でしなければいけないことは、そこにあるのではないように思う。
実際には、葬儀の儀式が儀式としてのみ一人歩きし、そんなことに高額な費用を費やすことに意味を感じなくなっている現代人が多いのである。しかしそういう方々は「生きる」ということについてさえも、自分を見つめて考えたことがないのではないだろうか。
「生きる」ということとしっかり向かい合うこと、これがいずれくる「死」と向かい合うことになるのだと思う。
それを伝えていきたいと私は思う。
もちろんそれを伝えるのに、親しい人のお葬式は絶好のチャンスではあるのだが。

――納棺師が、亡くなった人を死体ではなく、死者として扱う姿に人間の尊厳を感じ、多くの人が共感したのでしょう。人間を物として扱うべきではない。今ではいのちまでもが「物」として扱われている。

これはまことにそのとおり。
この映画については、以前にも絶賛したとおり、すばらしい映画だった。
だがしかし、これによって我々僧侶が危機感を覚えるというのは、いかがなものかと思った次第。

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「神が降りてきた」

WBCの決勝戦で、10回の表に2点適時打を放ったイチロー外野手が、試合後のインタヴューで「ぼくは(何かを)持ってますね。神が降りてきましたね。日本中のみんなが注目しているだろうと思って、自分の中で実況して、そういうときには結果が出ないものですが、それで結果が出て壁を越えたと思います」と言ったと報じられた。
「神が降りてきた」という言葉は日本人ジャーナリストたちの心を捉えたのだろう、大きく取り上げられて新聞の見出しなどに使われていた。私もこの言葉に良い意味でハッとした。それで、アメリカのメディアはこの言葉をどんなふうに受け止めているのだろうと思って、メジャー・リーグ公式ホームページのニュースを見たら、ちょっと別のニュアンスで報じられていた。

――バッターボックスに立っている間、心を清浄にして無心のアプローチ(take a Zen approach)ができたかと尋ねられたイチローは、クスッと笑って、「無心で(in a state of Zen)立てたらよかったのですが、さまざまなことを考えていました。考えてはいけないのに、あれこれとずっと考えていました。こうなると普通はヒットが出ないのですが、打つことができたのです。ぼくは自分のなかで何かを越えたのかもしれないなと感じました」。――

「神が降りてきた」という表現は英訳しにくいだろうなと思っていたが、その個所は触れられていなかった。多分、それが正解なのだろう。イチロー選手の言葉として「神が降りてきた」なんて紹介されたら、ヒュブリス(神に対する思い上がり)と受け止められかねないだろう。日本在住40年を越すアメリカ人の友人に聞いてみたが、やはり「神が降りてきた」というニュアンスは分かりにくいと言っていた。
Japan Times に、「天が主役イチローに加勢」という見出しの記事が掲載されているよと教えてくれたが、「神が降りてきた」というイチロー選手の言葉は取り上げられていなかった。こういう「配慮」は自動翻訳機ではできないなと思って可笑しかった。

それにしても、ZENという言葉は、「無心に」「超然として」「平常心で」というような気持ちを伝える言葉として、ある種の賛嘆と諧謔をともなって、しっかり根付いているのだなと改めて思った。

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関西くだかけ農園 まほろばの里

まほろばの里

尊敬する永源寺の篠原老師が、DVD収録でもお話されていた、「お百姓さんが一番偉いんです」と、「Back To The Basic! 」。そして、インド人青年が話していた「畑があるから仕事をしなくても食べていける。日本人は働き過ぎ」。
これらの言葉がずっと心の奥深くに残っている私は、将来自分で野菜を作る事を夢見て、先日久々に母校の恩師でもある松田高志先生(季刊『禅文化』にも寄稿いただいています)が世話役を勤められている「関西くだかけ農園」にでかけてみました。
“くだかけ会”についてはこちらをご覧下さい。

この農園は、自然豊かな奈良県御所市にあり、かの大和三山を前方に見渡せる素晴らしいロケーション。
かつては天皇も住まわれた場所…となれば、大地のパワーも並大抵ではありません。
高層マンションからの景色を贅沢と思うのか、このまほろばの里の景色を贅沢と思うのか、人によって価値観はまちまちですが、私にはこれ以上の贅沢な景色は無いように思えました。
ちなみに、まほろばとは、“真秀ろば”と書きますが、まさに漢字が表わす通りの土地です。

菜の花がキラキラ


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英訳 『納棺夫日記』

おくりびと

昨日、邦画「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞を取った。意外というのが大方の反応だったらしいが、私は至極当然だと思った。極めて完成度の高い、凄い映画だったからだ。もちろんアカデミー賞を取らなくても、間違いなく映画史に残る作品だと思っていたけれど、受賞のニュースを見てやはりとても嬉しかった。

青木新門さんの『納棺夫日記』が出版されたのは1993年だが、2002年には、以下のように英訳も出ている:

Coffinman: the journal of a Buddhist mortician by Shinmon Aoki,
(translated by Wayne S.Yokoyama)

翻訳は、花園大学の英語教授、横山ウェイン先生。日系3世の横山先生は日本語もすこぶる堪能で仏教関係の翻訳も多い。発行はBuddhist Education Centerである。

映画が世界に進出したのだから、映画の元になった『納棺夫日記』も是非世界の人に読んで頂きたいと思う。

○英訳『納棺夫日記』はこちらから入手可能です。


○また中国語訳も出ているようです。
『納棺夫日記』淨覺訳、香港法雷念佛會発行、2003年


その他、研究所職員によるおくりびと関連のブログ記事は↓こちら。

セイタカアワダチソウ -青木新門『納棺夫日記』より-

映画 “おくりびと”

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映画 "おくりびと"

映画 「おくりびと」

このブログでは、今のところ「映画 "禅ZEN"」への記事のアクセス数が多いので……、というわけでもないが、またまた映画のお話。

タイトルにある「映画 "おくりびと"」を、今頃になって観にいった。封切り当初からちょっと気になっていたのであるが、基本的にあまり邦画を観ないという性格のため、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞部門にノミネートされたことを知って、慌てて行った次第である。

お恥ずかしい話、実はかなり泣かされてしまった。だが暗いだけの映画で無く、笑わせるところもあって、期待以上の上出来作品。

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今年もこの日が来た St. Valentine's Day

梅

昨年もバレンタインデーにはこのような記事があがっていたが、また今年もこの“バレンタインデー”について一考察。

この不況にベルギー産の高いチョコなんて買っていられない!  あの人へも買うのならこの人へも…ときりがなく、意外にすごい出費…。えびで鯛を釣るなんて人もいるのだろうがそれも私には望めない。
と、なんとなくぐちぐちと思いながらも、やはりやめられない、絶対にやめない、やめる勇気もなんとなく無い義理チョコ配り。そもそも“義理”という言葉がよろしくない。

結局のところ落ち着くのは、「日頃お世話になっている方へ、その思いを託すのにちょうど良い機会ではないか。何も無い時に突然何かお贈りしてもかえって気を使われるし。やはりこれはすべき事なのだ。感謝の心とおもてなしの心はケチるところではない!」
といったところである。

日本古来の「道」とつくような習い事の世界でも、芸道の世界でも、何かと“ご挨拶ご挨拶”といっては、何かを贈り会ったり、相手を思って日頃の感謝の心を形にあらわす事は少なくない。
St. Valentine's Dayも、そんな日本人の文化や、相手を思いやる精神、気質を受け継いで、もとの発祥なんていざしらず、西欧の風習なんてそっちのけで、日本独自の進化を遂げ続けているようである。
チョコレート会社の戦略として始まったとされる日本のバレンタインデーであるが、戦略だとすればこの日本人気質を大いにくすぐる素晴らしい戦略だと思う。私も無視はできない一人であるからだ。

海外の方達や、その気の無い日本女性からすれば「義理チョコなんて配るのはナンセンスだ」と言われても仕方ないこの風習であるのもわかるが、私としては「茶道やその他、道のつくようなお稽古をしていなくとも、日本人らしい“ご挨拶”の習性はこんなところで発揮されるものなのか……日本人とは愛すべき存在であるなぁ」とやはり日本礼讃なのである。
義理チョコは、単なる媚び売りではない!(や、色々あるでしょうけれども……)

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映画『禅ZEN』を観て -「あるがまま」って?-

映画 禅ZEN

さて、先ごろ掲載しました職員の酷評に続き私めも……。
おりんという女性の立場に立って観てみたい!と、おそろしく期待して楽しみに観にでかけたのですが、感想はというと、ほぼ前回、他の職員が書いたものと同じようなものでした。

一番残念だったのは、道元禅師という日本を代表する宗教者、禅僧が悟った瞬間のイメージが安易に描かれていた事です。
坐禅をしていると、蓮に坐っていてそのまま空高くぴゅーんと飛んでいき、光がぱああぁぁっと……。
悟りのイメージをわかりやすく…というのは難しく、このようになったのかもしれませんが、安易に描いても良いものなのでしょうか。冷や汗が出ました。
おりんの子供が、病気で死の淵をさまよっている時に道元に助けを求めれば、お釈迦様の芥子の実の話(釈迦 芥子の実 などで検索するとどのような話か出てきます)を、ほぼそのまま使っていたりするのにも興醒めしてしまいました。

また、少し禅に興味を持って観に来られた方や、歌舞伎役者が主演ということで観に来られた歌舞伎ファンの方には、禅の専門用語が出てくると、何のことか全くわからない場面も多かったのでは?!と感じました。

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セイタカアワダチソウ -青木新門『納棺夫日記』より-

セイタカアワダチソウ

「ススキが全滅しそうで、セイタカアワダチソウは好きじゃない!」と長い間思っていたのだが、何年か前、こんな文章に出会った。


「こちらへ来る途中見かけたのですが、セイタカアワダチソウ、すごいですね?」
「ああ、あの草ね」
「日本中、まっ黄色になるのじゃないですか?」
「いや、大丈夫ですよ」
「えっ、どうしてですか?」
「繁殖すると自分で出す分泌物で自家中毒を起こして自滅してしまう。一つ所に永く定着できない可哀相な植物なのです」
                          青木新門『納棺夫日記』より

それ以来、ススキに混じってセイタカアワダチソウが群生しているのを見ると、お友達というか、ちょっと知り合いに会ったみたいな気分になる。
上記の会話は、青木新門さんが、『納棺夫日記』で地方の出版文化功労賞を受けたとき、同じく農業に関する著作で受賞したある大学教授とのやり取りである。青木新門さんというのは、死体をお棺に入れる仕事をしていた人で、『納棺夫日記』を読んだときには隣りに座ってじっくり肉声を聞いたような不思議な気分だった。ちょっとした地主の息子さんだったのが、文学に走って(?!)身を持ち崩し、死体処理という凄まじい仕事をして、突き抜けられたのだと思う。「『仏は不可思議光如来なり、如来は光なり』と断言する親鸞は明解であった」とも書いておられる。
                           
「おくりびと」という納棺夫を描いた邦画が、米国アカデミー賞「最優秀外国語映画賞」にノミネートされたので、『納棺夫日記』のことを思い出し、それからセイタカアワダチソウのことを思ったのだった。

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ニトクリス

ヘロドトスは「歴史の父」と言われる古代ギリシアの歴史家であるが、その著書『歴史』の中に、アッシリアの女王ニトクリスについての記述がある。首都バビロンに堤防を築くなど、彼女の行なった様々な功績を記した後、ヘロドトスは次のような逸話を伝えている。

この同じ女王は、次のようないたずらを考え出した人でもあった。彼女は町で最も人通りの多い門の上に自分の墓を作らせたのである。墓は正に門の上に懸っているのであるが、この墓に次のような文句を彫り込ませた。「われより後バビロンに王たる者にして、金子に窮する者あらば、この墓を開き欲するままに金子を取れ。然れども窮することなくしてみだりに開くべからず。凶事あるべし。」

この墓はダレイオスの支配になるまでは手を触れられなかった。ダレイオスはこの門を使用できぬことも、財宝が納まっていて、しかも開けよという文句まであるのに、その財宝を取らぬことも、いまいましいことだと考えた。彼がこの門を使用しなかったのは、この門を通れば、死骸がちょうど頭の上に来ることを嫌ったからである。さて墓を開けてみると、財宝はなく、あったのは死骸と次の文句とだけであった。

「汝にして貪欲飽くことなく、利を追うて恥を知らざる輩ならざりせば、死人の棺を開くことなかりしものを」
この女王はこのような人物であったと伝承は語るのである。
(『歴史』第1巻187節。岩波文庫版の上巻140頁)
 
ところで、同じ『歴史』のなかで、ヘロドトスはもう一人の女王ニトクリスを伝えている。こちらはエジプト女王であるという。

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映画 "禅 ZEN"を見て その2

映画「禅 zen」

1月20日のブログ記事では、映画 "禅 ZEN"を見たというご報告だけをさせていただいた。
今回は、私なりの正直な感想を書きたいと思う。

結論からいうと酷評である。残念ながら全く以て駄作だと思うからだ。御覧になった皆さんはどうであったであろう。WEBで探すと、賛否両論あるようではあるが…。

道元禅師を讃えられている原作なので、もちろん道元禅師の素晴らしい生きざまを描こうとされたのであろう。だがしかし……。

道元禅師は入宋され行脚されるうち、当時の主流であった大慧派の禅を否定し、天堂山如浄に嗣法して帰国し、日本にその禅風を流布したのである。その禅風とは「只管打坐」、ただひたすらに坐る。そして、あるがままを受け入れるということであった。喜びも苦しみも涙も…あるがままに。

そのあるがままを表現するに、我々は誰の中にも仏があるとし、その仏を空に浮かぶ月に擬して説かれているようで、何度も「月」が登場する。
しかし、その月をあまりにも誇大化して映像にしているので、却って気になるのである。
道元が断崖絶壁にたたずむ時に、その向こうにある月はあまりにも大きすぎ、またおりんが俊了を連れてみる「田ごとの月」は、現実にありえない映像である。
あるがままであれば、どうしてもっと自然な美しい月を映像化できないのか。
また、坐禅中に道元が悟っていくイメージを、蓮の花にのってすーっと浮かんでいくように表現しているが、これは絶対やってはいけない演出である。
映画のあちこちで、こういうイメージがCGによって表現され、この映画の品を落しているのである。

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貴重な遺産 -掛軸の太巻-

太巻

今月はお正月ということで、年頭にあたり、大切な掛軸などを出されたところもあったのではないでしょうか。その中には、「出してみたはいいけれど、本紙部分にこれまでなかった横皺や波打ち、または折れがでてきた」ということがあったかも知れません。

人は健康を維持するために色々と工夫をしています。それと同じように、古物にも少しでも健康でいてもらうために、何かできることはないでしょうか。

例えば、今回の掛軸などの軸物の場合でしたら、細く巻かれていた方が格好が良いのですが、細く巻くとどうしても本紙に負荷がかかってしまいます。上記の症状は、このことに起因することが多いようです。ですから、それらを軽減させるためには、保存時に太く巻いておくことが必要かと思われます。特に、この方法は本紙部分が硬くなったものや厚塗りの日本画などに効果があるようです。

太く巻くには、太巻(正式名称があるのでしょうか?)という専用の道具を用います。この道具は、桐で誂えるのが一般的なようです。確かに昔ながらの桐材は保存の面においても優秀で、やはりこれに勝るものはないでしょう。ただし、最近の桐材は品質に問題のあるものも存在するとのことですので、気をつけなければならないようです。また、誂えるとなると、数にもよりますが、とても高額になりますので、やらなければならないと分かってはいても、なかなか手を出しにくいことも確かです。

しかし、これらの古物は、かけがえのない貴重な遺産です。お寺をはじめ、保有されている方は、現在から未来にかけて、それらの古物の持つ色々な情報というものを、必要とする方々に対して提供できることが必要かと思われます。

大切な遺産を少しでも損傷などから守るために、各所蔵者自身が考えていくことが大切だと思われますが、いかがでしょうか。

※ ここでの紹介は、あくまでも筆者の個人的な考えです。実際に適用される際には、専門家等にご相談なさるか、それぞれの環境や条件にあわせて熟考した後、自己責任でお願いします。

東京国立博物館 『妙心寺展』 好評開催中!坐禅会、法話などのイベントもあります!
妙心寺展

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映画 "禅 zen"を見て

映画 

このブログでも既に二度、12/812/24でとり上げていた、映画「禅 zen」を封切り直後に見に行った。

京都でも1つの映画館でしか公開しておらず、それも1日3回。だが、それほど混むこともないだろうと、お昼すぎの時間帯の放映分へ1時間前に行ってみたのだが、なんとチケットは既に売りきれ。
休日にわざわざこの映画を見ようと出かけてきたのに、このまま帰るのも……と思い、夕方6時半からのチケットを買い求め、時間つぶしをして、再度夕方に映画館へ。

10分前になっても、比較的席は空いたままだと思っていたら、直前になって、一気に満席になってしまった。自分も含めてだが、暗い中でも剃髪した頭がちらほら見える。やはり僧侶、特に曹洞宗のお坊さんが多いのであろうな、などと思っていた。

さて、映画の内容についてであるが、まだ公開されたばかりだし、これから御覧になろうとしている方も大勢おられるだろうから、ひとまずここでは感想は差し控えておこうと思う。
キャスト面でいえば、天童山の老典座役の笹野高史の演技がよかったと思う。すばらしい禅僧の姿だ。

タイトルが「禅 zen」であるから、一般的には曹洞禅と臨済禅の違いはご存じない方々も、これを見て、いわゆる禅の宗旨とはこのようなものだと感じたりされるのであろう。
しかし、この映画の曹洞禅と、我々臨済宗とは、同じようで違う。そのあたりのことも後で少し書きたいとは思っている。

東京国立博物館 『妙心寺展』本日より!
妙心寺展

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ブータン 『日立 世界ふしぎ発見!』にて

ブータン

09年1月10日のTBS『日立 世界ふしぎ発見!』は、ブータンでした。
ブータンに魅了された者の一人として懐かしく、民営化はうまく進むだろうかと少し心配しつつ、新国王の凛々しさに魅了され、一時間弱でこの国の素晴らしさをどう伝えるのだろうと思いながら観ていました。
結果……懐かしいブータンの風景にも(ハンサムな国王様にも)見入りましたが、何よりも、一番に印象的だったのは、ミステリーハンター(ふしぎ発見!ではリポーターをこう呼びます)の諸岡なほ子さんの心の底から笑っている、こちらまで幸せな気分にさせてもらえるような“笑顔”でした。この笑顔だけで、かの国がどのような所か、そこに住む人々がどのような人々かを大いに伝えていた感があります。
私も、普段写真であまり笑いませんが、ブータンで撮った写真は、意識せず撮ったはずが、満面の笑みなのです。
小学校以来のこの番組のファンで、毎回興味深い内容で、ほぼ欠かさず観ている私ですが、なんだか今までで一番素晴らしい表情をしていたミステリーハンターなのでした。

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戦国の気風

中国の戦国時代、燕の太子丹は、自分を冷遇した秦王の政(後の始皇帝)に復讐しようと協力者を探した。田光先生という人物の評判を聞いた太子は彼を丁重に迎えて協力を懇願した。田光は言った「私はすでに年老いてご要望には添いかねます。しかし、私の親しくしております荊軻という者がお役に立つかと存じます」。太子は言った。「それではお引き合わせの程、よろしくお願い申し上げます」。
 田光の帰り際、太子は言った。「先生、この事はくれぐれも他言無用に願います」。田光は微笑して言った。「承知つかまつりました」。
かくて田光は事を荊軻に託すると、みずから首を刎ねて命を断った。

『史記』の「刺客列伝」中の有名な一場面である。田光は秘密を漏らさないという約束の証しを立て、かつ荊軻を鼓舞するために自ら命を絶った。その荊軻も田光からの推薦を受諾した時点で死を覚悟していたはずである。荊軻は刺客として秦王政のもとに赴くが、目的を果たされず死ぬ。その後も荊軻の友の高漸離という人物が始皇暗殺をはかって殺される。

この話を読んで圧倒的に迫ってくるものは、彼らにおける人間どうしの結びつきの異様なまでの強さである。国も時代も異なる我々には想像もつかないすさまじいメンタリティーである。戦国時代という乱世がそうさせたのであろうか。同じ「刺客列伝」には、次のような当時のことわざが記されている。

士は己を知る者のために死し、女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたちづく)る

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2009年 元旦

2009年 元旦

あけましておめでとうございます。
本年も、禅文化研究所をどうぞ宜しくお願い申し上げます。

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大晦日

除夜の鐘

画・トーマス・カーシュナー師

大晦日といえば除夜の鐘。
昨年私は旅に出ていて、ヨーロッパでお正月を過ごしました。ものすごい爆竹の音、わいわいとにぎやかな人々の声、翌朝には河原にワインボトルなどが大量に散乱し、それを拾う為に元旦から清掃車がお目見えでした。厳かなクリスマスを過ごす分、新年ではじけるのでしょうか?!
はるかかなたの国で、毎年かわりばえのしない日本でのお正月、ことに大晦日には除夜の鐘の音を恋しく思ったものでした。

寒く暗い中、どこからともなくお寺さんから鐘の音が「ごーん、ごーーーん」と聞こえ始める。
「そろそろやな……」と暖かくして家族ででかけ、鐘を撞かせていただく。
朝はお屠蘇を若い者から…。前日はお寺へ出かけ、今度はお宮さんへ初詣。何日も続くおせち料理。いつも変わらぬお正月のひとこま。
「変」で幕を閉じた2008年。変わるも大事、変わらぬも大事。
皆さんは一年をどのように締めくくり、どのように新たな年を迎えられますか?

画 トーマス・カーシュナー師
『禅僧になったアメリカ人』のトムさんの画です。著書の中にもトムさんの自筆画がありますが、とっても素敵なのです!

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ゆく年くる年 2008年

昨年末、私がお世話になった白隠禅師の古道場、三島市龍澤寺の中川球童老師が遷化された。
明けて新年早々に、禅文化研究所の前理事長で、大本山天龍寺管長の平田精耕老師が遷化。
その後も、相国寺僧堂の田中芳州老師、研究所前所長の真珠庵山田宗敏和尚をはじめ、臨済宗各派の高僧方の遷化が続いた。またつい先般は、自坊の隣寺の住職も鬼籍に入られたりと、お別ればかりの寂しい一年だった。お葬式に始まってお葬式に終わったという感がしないでもない。

そして、清水寺の森清範貫主が書かれた今年の漢字は「変」。色々な意味で変革の一年であったということだが、私の中では「底」という漢字が浮かんでいた。経済不況、政治不信、暗い話ばかりの連日である。
是非、今年が「底」であって、来年からはゆっくりでいいので、なんとか浮上の一途であって欲しい。


さて、今年一年、このブログをお読みくださった皆さん、拙い内容にもかかわらず、ありがとうございました。
まだまだアクセス数は多いとは言えませんが、これからも話題を多岐にし、なおかつ、ちょっぴり我田引水的なブログに育てていくよう、平日は毎日更新を心がけていきます。
来年もどうぞ、禅文化研究所の"ブログ禅 -ZEN-"に、おつき合いのほどをよろしくお願いします。(-m-)合掌

なお、明日12/27~翌年1/6まで、禅文化研究所は年末年始の休業をさせていただきます。1/6に所在地の花園大学内の電気工事で停電となってしまうので、今回はちょっと長めにお休みをいただきます。
ブログも基本的に研究所がお休みの時はお休みさせていただいておりますが、ひょっとすると?ちょこちょこっとアップされるかもしれません。
再拝

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映画 “禅ZEN” ~女性として観る~

曹洞宗瑞龍寺 雪の高岡にて

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり 『本来の面目』道元禅師

2009年1月10日に公開される、道元禅師の生涯を描いた映画『禅 ZEN』について。
08'12/8の記事では、僧侶である私の上司がこの映画についてふれていたが、女性の視線からこの映画を観る時、私が一番に注目し、とても気になっているのは、内田有紀さん演じる遊女“おりん”の生涯についてである。
おりんは、遊女として生活しながら乳飲み子と夫を養っている女性で、後に乳飲み子を失い自暴自棄になるも、道元禅師と出会い、帰依し、最後には出家を遂げるという。

道元禅師が生きた時代の女性の地位、さらに遊女という立場、まだ小さな愛する我が子に死なれたその心……苦しみ、悲しみ、怒りややるせなさというのは、比較的自由に生きている(ように思われる)我々現代の女性には想像すらつかないように思える。お釈迦様の時代に出家した女性の話を読んでいてもまたしかり……。

が、「人の心は昔とそうは変わらない」とよく言われるように、時代や立場やその内容は違えども、私たちにだって、悩みや苦しみはある!と声を大にして言いたいのである。
この叫びにならない叫び(と言いつつ不特定多数がご覧になるブログで、思い切りはっきり言う現代女性な私)を、映画“禅ZEN”を観る事によって、自分とおりんを重ねてみて、彼女の心が救われるように、私も道元禅師に心救われる事をひそかに期待しているのである。
公開が待ち遠しい。

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加藤周一さん

白菊

加藤周一さんが亡くなったことを、昨日の朝日の夕刊(2008年12月6日)で知った。深い衝撃だった。加藤さんは心底先生とお呼びしたい人だった。立命館に来られていたころ、一度でもいいから受講したいと願っていたが、平日で叶わなかった。直接お目にかかっていないので「加藤先生」と書けないのが悲しい。楽しみにしていた朝日掲載の「夕陽(せきよう)妄語」が見られないのがとても気にかかっていた。お具合が悪かったのだと、今になってわかる。
加藤さんは本当に桁外れだった。私など加藤さんのお仕事の片鱗を垣間見させて頂いただけだが、ずいぶん以前に拝読した文体論など、今でも鮮やかに脳裏に蘇る。東大医学部で学ばれた加藤さんだったが、象牙の塔に閉じこもってしまわれなかった。戦争体験が大きく関わったのだろう。しかしこのことは、われわれ民衆にとって幸いだったと思う。医学の分野のみならず、ゆうゆうと世界に飛翔して、途轍もない視野で、さまざまな事象を掘り下げ、私たちにわかる言葉で伝えてくださったことは、やはり掛け替えのないことだった。
矢島翠さんという類まれなパートナーとともに在って、加藤さんのスケールは2倍、3倍の拡がりを得、なお日々の暮らしの隅々にまで眼差しが注がれたことは間違いないだろう。

加藤さんは民を愛する人だった。あのような途方もない「知の巨人」の言葉がわたくしのような一人の民のこころに届くのは、加藤さんが何よりもまずヒューマンな人だったからだと思うのだ。

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映画 "禅 ZEN"

2009年の正月に封切される角川映画、『禅 ZEN』をご存じだろうか。
私もつい最近になって、この映画が作られていることを知ったのだが、ブログ禅 -blog ZEN-としては、やはりとりあげずにはいられない。

ただ、この映画の主人公は、曹洞宗の開祖である道元禅師である。
我々臨済宗とは中国において繋がる禅の一派で、同じ禅宗ではあるが、修行体系など異なることも多々有る。
そういえば、先日の「禅と文化の旅」のバスガイドさんが「臨済禅宗」という言い方をしていたので、あとで、こっそり、そういう言い方はしませんよといって正したのだが、そうでも言わないと、臨済宗や曹洞宗といっても、一般には、これらが禅宗であるということが分からないのかもしれない。

さて、話は少し脱線したが、この『禅 ZEN』という映画は、道元禅師の生涯を映画化したものであるらしい。道元役を演じるのは中村勘太郎である。
曹洞宗を開いた禅僧で、只管打坐を標榜した人であることは知っていても、その生涯は知り得なかったので、楽しみにしている。

専用のホームページもできているので見てみたところ、関連リンクページがあるのでのぞいてみたら、Coming Soon となっていた。いくら道元禅師の生涯の映画であって、永平寺が舞台として出てきても、未だ曹洞禅ネットにはリンクしていないようだ。

禅文化研究所で事務局を兼ねている臨済宗黄檗宗連合各派合議所では、臨黄ネットという臨済宗の公的なホームページを運営している。
このホームページでやりたかったのは、インターネットというある意味バーチャルな世界で終えず、そこから、それを見た人を近くの禅寺や、禅寺の和尚に向かわせようというものだ。

さて、この映画は見る人の目にどのように映り、そしてどんな感情を残すのだろうか。既成仏教というものを見直されたり、実近に感じられるようになるだろうか。

もちろん私も劇場に足を運ぶつもりだが、どんな映画に仕上がっているのか楽しみではある。
余談だが、Googleで"禅 ZEN"で検索してみたら、本ブログもなかなかいいところに位置していた。(笑)
それでもまだ、けったいな商品を販売しているサイトに負けているのは腑に落ちないが。

12/24の記事「“禅ZEN”~女性として観る~」はこちらからどうぞ。


*本日は仏成道会(ぶつじょうどうえ)。お釈迦様がお悟りを得られた日です。

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捨てられない

少し前、ちょっと遅めの衣がえをした。
これまで着ていた夏物から冬物にかえるのであるが、その時に数本を紐で束ねた状態にあった針金ハンガーに目がとまった。

針金ハンガー。クリーニング屋さんに衣類を出すと、返ってくる時に無料でついてくる、"あれ"である。いつの頃からかビニールでコーティングされているが、目にとまったのは、それ以前に出回っていた針金のみのもので、付け加えるならば、少々経年劣化による変色がみられる程度で損傷等はない。

ハンガーというのは、人体の肩の形状を再現してある部分と、それを何かに引っ掛ける部分とで成り立っており、針金ハンガーは、それを"ひとふでがき"のように、針金で描いたものである。逆に考えると、この創造物は、針金という素材でしかつくれない、針金という素材ならではの、針金という素材でしか成りようのない物である。しかも、お仕舞いはクルクルっと捻じるだけ、というのも、この素材ならでは、である。また、極限まで無駄をそぎ落としたかのような加飾のない形状ということもあり、このような素材や形状等の関係に美意識を感じる人もいるようである。

しかし、肩の形状というのは針金1本で形成し得るものではない。だから、かけられている物によっては、クセがつくため、クリーニングから返ってくると、ハンガーをかえてやる必要がある。ということは、それらの針金ハンガーの役割というのは、家についてハンガーを交換した時点で終わり、ということになる。

このような針金ハンガーであるが、形状が変わりやすく、さびやすいため、再利用には不向きということで、大部分が産業廃棄物としての処分となるらしい。プラスチックハンガーは殺菌して再利用できるが、針金はゆがみを直したりビニールをかえたりと、リサイクルにかかるコストが高くなるということである。待てよ。そういえば、このような問題は針金ハンガーだけではない。視点をかえると、いろいろな問題があるようだ。

そんなことを知ってか知らずか、当の本人達は、なんだか達観しているように見える。また、それに加え、前述の針金のみの経年劣化組からは、「ここに来てずいぶん時間がたったけど、かける物があるなら、いつでも肩を貸すよ?」と、あくまでも用に徹した謙虚な面持ちで語りかけてくるのである。

そんなこんなで、捨てられない。

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人類みな家族?

源氏庭
源氏庭 京都廬山寺

今年は源氏物語千年紀ということで、特に京都ではこれに纏(まつ)わる催しが盛んだが、ふと1000年(ざっと40世代)遡ったら私の祖先の数はいったいどのくらいになるのだろうと考えた。ネットにはちゃんとそれを計算してくれた人がいて、なんでも、2×40乗で1兆995億1162万7776人になるという。魂消た。

当時の世界人口は3億人ほどだったようだから、それこそ、今の隣り近所の人も、バスや電車でたまたま乗り合わせる人も、みんな同じ祖先を祀っているのじゃないかと思うと可笑しい。これが2000年前(ほぼ80世代)になると、その数はなんと1予2089垓2581京9614兆6300億人という聞いたこともないような数字になるわけで、このうちの一人欠けても私は存在しなかったと思うとなんだか厳粛な気分になる。

しかし、こうなると世界中の人はほとんど親戚といっても過言ではないわけで、人種だの民族だの、高貴な生まれだの、卑しい身分だのとワアワア言ってる場合ではなさそうだ。

よく街頭で見られる標語に「人類みな兄弟」なんていうのがあって、フフンと思っていたが、これは意外にも真実だったのかあと妙に感心したりしている。

ユダヤ民族のように民族の記憶をことさら大切にする人たちをみて不思議な気持ちがしていたが、本当は民族なんてチマチマしたものじゃなくて、今、地球に住む私たち一人ひとりが、実は共通の祖先の記憶を共有しているわけで、そうなると、あの「集合的無意識」の世界も断然納得しやすくなってくるのだ。

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弥勒仏はお酒を飲んだ? 実は布袋さんだった!

萬福寺 布袋さん
萬福寺の布袋さん -臨黄ネット-
より

日本の語録の訓注の仕事を続けていると、おもしろい説話に出くわすことが多い。これもその一つである。
「渠(かれ)は是れ真の弥勒、酒は元と米汁より成る。人に飲ましめて共に快楽、一酔、無生を悟る」。
これが、現在訓注している、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師の偈。しかも、婦人にあたえた引導の法語である。さて、この偈に注を付すのが、小生の仕事である。余程、中国文学に精通していないと、この偈の意味と典拠は分からないと思う。小生も、一読で分かるわけではない。いろいろな作業を踏んで調べて行くのである。

まず、「弥勒」と「米汁」とをキーワードに、パソコンのデータを駆使して検索する。すると、運敞(うんしょう)の『谷響集(こっこうしゅう)』巻3に、「弥勒仏好飲米汁」という項目があることが分かった。『谷響集』本文のデータはないので、すぐに、和本を見る。あった、あった。

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『崖の上のぽにょ』 そして鞆の浦…

鞆の浦
鞆の浦 鞆の浦支援の会HP 風景ギャラリーより


少し前の話になりますが、宮崎監督アニメ、『崖の上のぽにょ』を観てきました。
子どもが圧倒的に多く、「ぽーにょぽーにょぽにょ魚の子♪」と妙に耳に残るあの歌を唄う子ども達に囲まれつつ…。
いつも宮崎アニメの音楽を担当されている久石さんの曲には参ります。私も声には出さずとも、頭の中を一緒に歌がぐるぐる…。テレビで宣伝をみている時から、「魚の子?ふくらんだ?!」と、あの歌のリズムと歌詞を聴くにつれ、映画が気になって仕方ありませんでした。

宮崎アニメのすごい所は、観る人の年齢によってその時々の感動や“気づき”がある事です。
小さい子どもさんには子どもさんなりの、私のような年齢には私なりの、また年配の方がご覧になられても、その時に応じたそれぞれの感動があるのです。
今回も、胸いっぱいひろがる感動と暖さと、心をほぐしてくれるような安心感を得て映画館を後にしました。

さて、この『崖の上のぽにょ』ですが、舞台になったのは、広島の-鞆の浦-といわれています。
この美しい日本の風景が残る鞆の浦が、危機に瀕しています。
歳を取るにつれ、日本の美しい風景が、これまでのように人間の利便性のみを優先して開発される事が無い事を願っている今日この頃。

意外であったのが、地元の人々の中には、利便性を考え、このプロジェクトに賛成している方たちもたくさんいらっしゃるという事。住んでいない他県の者がとやかく言うのはとても勝手かも知れません…ですが…。皆さんはどう思われますか?
詳しくはこちらをご覧下さい。

余談ですが、先日NHKの世界遺産を特集したテレビを見ていました。
イタリアのチンクエ・テッレに住むご老人が、とても優しい表情で、「この地が世界遺産に登録されたのは、ご先祖様からのプレゼントでしょう。だから我々はとても嬉しいのです」というような事を話しておられました。
断崖絶壁の、とても暮らしやすいとは言い難いような過酷な地に住む人々が、ご先祖様への感謝を忘れずに生きている姿がとても印象的で、今でもあのご老人の表情が私の胸に残っています。

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松平の郷

松平の郷

室町時代、三河国のある山里での話。

土地の領主松平太郎佐衛門尉は、慈悲深い性格で信仰心に厚く、村人から慕われていた。
雨の続いたある日、無聊をなぐさめるために太郎左衛門尉は連歌の会を開いた。ところが、書き手をする者がいない。
その時、どこから現われたか旅人が少し離れたところから見物していた。太郎左衛門尉は声をかけて書き手を頼む。するとなかなかの手で句も見事である。太郎左衛門尉はしばらくの逗留をすすめ、先祖を尋ねる。旅人は答える。
「我々時宗の僧侶と申すは、東西を流れ歩く者で、お恥ずかしいばかりです」
やがて太郎左衛門はこの旅人を婿に取り、松平の家を継がせた。これが松平親氏である。親氏から八代目の子孫が徳川家康である。

徳川家の公式見解では、その先祖は清和源氏新田氏の流れを汲むということになっている。ところが、松平郷に古くから伝わる『松平氏由緒書』には、そのような先祖を飾る記述はない。もっと素朴な、牧歌的ともいえる一族の発祥譚が記されている。

愛知県豊田市の松平郷は足助川の谷筋の国道301号線から、さらに脇に入った沢筋の土地である。その山間部のわずかな平地に、周囲を濠で囲まれた松平東照宮がある。太郎左衛門家の屋敷跡である。谷の奧には松平親氏の墓などがある浄土宗高月院がある。

このようなひなびた山里から全国を制覇した徳川家が出た。それが遽かには信じられないほど、松平の郷は静かであった。

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宝彩有菜さんの新刊書

瞑想で始めるしあわせ浄化生活

宝彩有菜さんから新刊書が届いた。『瞑想で始めるしあわせ浄化生活』(毎日コミュニケーションズ刊)というイラスト満載の本である。いつものようにいい本だ。この書の「瞑想」とは「坐禅」そのもののことだが、「瞑想」の工夫が面白い。初心者向けの瞑想の手順は3つあって、
(1)集中(意識を集中する)
(2)気づき(出てきた思考、雑念に気づく)
(3)棚上げ(それを片づける。つまり浄化する)

このなかで「棚上げ」のやりかたには4つあるが、その1つが「ラベル貼り方式(まとめて別の名前をつけて、考えを止める方法)」というもの。つまりは出てきた妄想にラベルをつけて、棚上げするのである。ポコポコ湧いてくる考えや思いに、「お金持ちになりたい件」とか「美人化推進計画の件」また「商売繁盛の件」「無病息災の件」などと愉快な名前をつけていく。そうすると妄想にずるずる引きずりこまれないで、そこからあっさりと手をひくことができるわけである。坐禅で数息観や随息観が結構大変なことを御存知の方にはこの方法が画期的だというのはすぐにおわかりだと思う。

日々の瞑想を通して細かい工夫を重ねている宝彩さんは、乗り物のなかでも「定(じょう)」に入る。気づくと向かいに腰掛けている人が、どういうわけか眠り始めるという。「場」がゆったりとし始めるのであろう。不思議でも何でもない気がする。

第6回 西村惠信所長といく“禅と文化”の旅 参加者募集中!
詳しくはこちらからどうぞ。

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大和し美し -浄瑠璃寺付近の風景-

美しき国 日本

先日ブログにてご紹介しました、MIHOミュージアムの展観-大和し美し-ですが、浄瑠璃寺近くにはそんな日本の美しい-風景-がそこかしこに残っています。
人工建造物などはいっさい見えない、なだらかな山と田畑。とても美しいです。

花おくら

珍しい花おくらです。おくらの花と同じような色形ですが、数倍大きい!
そのまま食べられます。

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禅堂の改装

禅堂

本研究所のある建物は無文館(名称は花園大学の元学長であり、本研究所の初代所長の山田無文老師に由来する)といい、花園大学との共用で2階が禅堂となっている。
一度に200人以上が坐れる広さを持ち、普段は実践禅学の講義や一般を対象にした早朝坐禅会で使われている。
休会となって20年以上経つが、研究所主催の金曜市民坐禅会がここで行なわれていた。この坐禅会は2しゅ(火+主)の坐禅の後、無文老師の提唱のテープを聞くのが定例で、2階から流れてくるテープの音声を聞きながら仕事をしていたことを懐かしく思い出す。

さて、この禅堂が現学長の肝いりでリニューアルされた。専門道場を模した造りとなり、前後に板戸や火灯窓が設けられている。単の数は少し減ったが、それなりの雰囲気を醸し出している。
大学の総合化が進み、花園大学も宗門以外の学生が殆どを占める。しかし、臨済禅を建学の精神に標榜するからには、全学生に坐禅を基本とした臨済禅の教えをしっかりと学んでもらいたい。新しい禅堂がその中心となることを願うものである。

禅堂
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赤塚不二夫さん

漫画家の赤塚さんが亡くなって、久しぶりに、氏の「茶碗蒸しとスプーン」の会話を思い出した。スプーンと茶碗蒸しが描かれていて、スプーンの吹き出しに「あなたもう寝ましょうよ」とある。それで私は心の芯まで愉快になってしまった。スプーンも茶碗蒸しも、その役割を軽々と逸脱して、信じられないほど無意味に、しかし堂々とそこに描かれている。

別の図柄。頁の上の方におてんとうさまが描かれ「ポカポカ」とある。そのお日様の下のほうで若者たちが殴り合いをやっている。「ポカポカ」は殴り合いの音だったのだ。その絵を見た秀才の友人が、「赤塚は天才だね」と言ったのが何十年も昔のことだ。今思い出しても、その情景は色あせない。

8月5日の朝日の朝刊に、鶴見俊輔先生が、「赤塚不二夫さんを悼む」という追悼文を寄せておられる。
「一代の奇才、赤塚不二夫の逝去を惜しむ。赤塚不二夫を見るようになってから四十年あまり、まだその影響の渦の中にいる」という書き出しで始まるその文には、赤塚さんの造語もいくつか引かれている。「ガバチョ・トテシャン」(薬はまだか)、「タネプップー」(スイカ)。飛び跳ねる馬の情景を「パカラン、パカラン、パカラン」と何十コマも描く。鶴見先生はこの筆力を、「ゼロ歳児にもどった生命力の裏づけによる」もので、「その生命力の無法な羽ばたきが、今も私の耳にある」と書いておられる。

赤塚さんの漫画の数々を思い出してみると、どの楽しさにも、楽しさだけがある。赤塚さんのギャグは、出会ったときと同じ新鮮さを今も保っている。いずれにも「法(しばり)」というものがすっぽりと抜け落ちているからだろうか。

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ブログ再開

福山_明光院

ご無沙汰致しております。
皆さま、お盆はいかがお過ごしになられましたでしょうか。

私事ですが、小さい頃の記憶というのは断片的にとても鮮やかに残っています。
毎年皆でお墓へとご先祖様をお迎えにいき、お供えものには茄子や胡瓜に割り箸が刺され、いつもより豪華に色々な物があり、なんだかこの時期だけに登場する特別な提灯がずっと灯りをつけられ飾られている光景です。
子供ながらに「特別な日、大切な日」というのを感じていました。今になって記憶をたどり、考えてみると、子供というのは、親が思っているよりも色々なものをちゃんと見つめて、考えて、わかっているものだなぁ…と思います。
だからこそ余計に、子供には伝えるべき事はしっかりと! と思う今日この頃です。

お盆が過ぎたというのに、まだまだ暑い日が続きそうですが、どうか皆さま健やかにお過ごしください。
本日よりまた、宜しくお願い致します。

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普通の水

四国 石鎚山

ミネラルウオーターを飲んだ。
いろいろとミネラルが添加された「おいしい水」なのだそうである。
その水を見ながら考えた。この水と同じぐらいのミネラル分を有する天然水というのは、どこに行けば飲めるのだろうか。

そして、いろいろと水の綺麗そうな場所を思い浮かべ、おいしく水を飲みおわり、さて使ったコップを洗おうと蛇口をひねって、また考えた。いま飲んだ水と、このコップを洗おうとしている水と、どこがどのように違っているのか。

また、そういう時にかぎって、たまたまペットボトルの水を買っていた。ちなみに、ラベルによると某外国から輸入されているものらしい。

残り少なくなったペットボトルをながめながら、ミネラルウオーターが出てきた時には、「お金を出して水を買うなんて」とおもっていたことや、「水の臭い」と信じていたものの正体が実は「塩素」だったことなどを思い出した。しかも、このペットボトルに入っている水は外国から輸入されたものである。資源開発につながる地球規模の環境破壊にはじまり、天然資源の切り売りによって獲得される保有国の利益、そもそも水とは本来誰のものなのか、はたまた今日の研究成果の俎上にある人工的につくられた、さまざまな「おいしい水」が飲めることが本当に幸せなのか、などなど、そんな思いが浮かんでは消えていく。

そんなことにさんざん時間を費やしたあげく、ふと思った。
いつでも、どこでも、ただで、普通の水が飲めたらいいのに。

でも、普通の水ってどんな水なのだろうか?

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どですかでん

映画監督の黒澤明氏が亡くなって十年になるという。

黒澤監督の初カラー作品「どですかでん」は評価が二分した。とくに日本での評価は非常に低かった。

私はこの作品が好きで、当時映画館で二度見た記憶がある。
「どてすかでん」というのは、自分を電車の機関士と信じる少年が、作中で発する電車の擬声語である。夢の島で撮影されたというこの作品に登場する町は、想像を絶するような掃き溜めであったが不思議に美しい印象が残っている。
各々に過去を背負って町に流れついた登場人物全員が作品の主人公である。零落してなお過去の栄光のみに生きる子持ち男、智恵遅れの少年と、やたら「南無妙法蓮華経」を唱えるその母親、妻の姦淫が原因で完全に自己に閉じこもったインテリ、正体不明のご隠居、荒くれ人夫たちや破天荒なその妻などなど。日本の極貧の町の縮図である。
ある日、荒くれ男が怒り狂って雨のなか刀を持ち出して振り回す。だれも怖くて近寄れない。住民のひとりである「ご隠居」が近づいて、何やら言う。男は刀を振り回すの止め、うなだれて家に帰る。しばらくあとに、別の住民が刀を引っ込めた理由を尋ねる。荒くれ男が答える、「あんとき、ご隠居がこう言ったんだ、〈お一人ではお疲れになるでしょうから、私が代わりましょう〉。おれは何も道路工事をやってたわけじゃねえんだよ」。
黒澤作品に一貫するのは深いヒューマニズムだが、どの作品にもどこかしらユーモアがある。

日本での酷評による黒澤監督の落胆は大きかったと聞く。綿密かつ大胆な映画作りで定評のあった巨匠はまた繊細な芸術家でもあったのだ。名高い「羅生門」も当初日本での評価は極めて低く、大映で制作に関わった重役たちは全員飛ばされたという。
しかし1951年にこの作品がヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞すると、国中が手のひらを返したように黒澤氏を大監督と呼ぶようになったのは周知のことである。

黒澤作品には、いずれも世界に通じる〈普遍的な映画の言語〉があると看破したのは映画評論家の淀川長治氏だが、大戦後、欧米一辺倒となってゆく風潮のなかで、それまでと変わることなくどっしりと腰を落ち着けて、極めて日本的な風土・人々を描き続けた監督が、世界の圧倒的な共感と賞賛を得たのは愉快で嬉しい。

1970年代の終わり、時にはあからさまな人種差別の眼差しに射られながらフランスで勉強していた私が、当時もっとも誇りとしたのは、黒澤明と同国人であるということだった。

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ユニバーサルデザイン

電卓

私たちの身のまわりには、0から9の数字のボタンが付いた機器がたくさんあります。
電話や電卓をはじめ、パソコンのキーボードやテレビのリモコンにも数字のボタンが付いていますが、それぞれの機器によって数字のボタンの配列に違いがあります。
電話は上から下へ、電卓は下から上へと数字のボタンが並んでいます。この違いに違和感を覚える方もいらっしゃるのではないでしょうか。

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播磨灘物語 -黒田如水邸趾-

黒田如水像(崇福寺蔵)

司馬遼太郎の『播磨灘物語』を読んだ。戦国時代の武将・黒田孝高(官兵衛)が、立身していく物語である。のちに出家して黒田如水と名乗るので、その方が有名かもしれない。官兵衛は「かんべえ」と読むものと思っていたが「かんひょうえ」と読むようだ。

黒田はもと今の滋賀県北部にある木之本町黒田の出身とされる。ただし、この時代の出身地については、信憑性に欠けることも多く定かではない。祖父の代に播州に入り、小大名である小寺家に仕え、官兵衛はのちに姫路城代となり、東には織田信長、西には毛利輝元の二大勢力の狭間に位置することになったが、早くから織田につくべく主君を説得し、また孤立もし、まさしく戦国の世の中を突き進んでいくことになる。
その後、中国地方の平定のために出向く秀吉の軍師として、その力を発揮していく。特に、備中高松城攻略の際の巨大な堤防を築いての水攻め、そして直後の本能寺の変を聞いての秀吉軍の中国大返しを進言したのは、この黒田官兵衛なのである。

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西小路通り

西小路通り

花園大学キャンパスの西側を南北に通る道が西小路通である。南から太子道までは広く快適な道だが、大学付近は依然として狭隘な道だ。もちろん一方通行である。

ずいぶん以前から拡幅計画があるようだが、最近はあらかた用地買収も完了したようで、丸太町通りとの交差点には信号機も設置された。
 
道路が拡幅されると自動車の通行もスムーズになり、歩行者も歩道を安心して通ることができる。しかし、そのぶん自動車の通行量は増える。歩行者の道路横断は難しくなり、両側の町は分断される。
 
そのような状況が各地でしばしば見られる。道路整備は重要だが、人々のつながりを壊さないような配慮が必要であろう。

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改築中

改築中

現在、築28年になる私の実家では、改築作業の真っ最中です。トイレ、風呂、キッチン、リビングと順に作業が進みます。
先日、久しぶりに実家へ帰ってみると、家族団欒の場であった居間が取り壊され、柱がむき出しの状態になっていました。
ふと懐かしい思い出がよみがえりました。居間に家族が集まり、食事をしたり、テレビを見たり、正月にはトランプをしたり、時には逃げ出したハムスターを捕まえようと必死になったことも思い出しました。
小さい頃から慣れ親しんだ部屋が無くなるのは寂しいですが、きっと新しい部屋にもたくさんの思い出ができることでしょう。改築の完成が楽しみです。

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「御大切に」

福寿草

上田閑照先生の新刊書『言葉』(岩波現代文庫・哲学コレクションⅢ)。謹呈の栞に、「言葉の問題」は私の思想の動脈であったことに気がつきました、御大切に、と御書き添えくださった。

「御大切に」という先生の「言葉」が、ほんとうにありがたい。先生のあたたかさが静かに心にひろがって、ご本を頂戴した日は、雪が降りしきっていたけれど、一日中あたたかだった。今もご本を手に取ると、なおあたたかい。おそらく先生は、書を認められるとき、「御大切に」という言葉をお書きになるだろう。しかし先生が私にくださった「御大切に」は、たったひとり私のためにお書きいただいた唯一無二の「御大切に」で、天地一杯の「言葉」だ。そのことが何やかやと心騒がしい日を送る私に底知れぬ勇気を与えてくれる。


本書で、上田先生は、西谷啓治先生の「言葉」を次のように記しておられる。

――西谷啓治先生のもとで私は哲学を学び始め、先生が生涯の師となった。四十代半ば、その二、三年来の経験に打ちひしがれて、先生に「すべてがいやになりました」と訴えたとき、一呼吸、間をおいて先生は言われた、「それはいいことだ」と。これはその弟子の存在を別調に転ずる一転語になった。――

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St. Valentine's Day

梅の蕾もほころびかけて…

研究所のブログにこのタイトルは無いだろう…と思われた方には、先にお詫びを申し上げます。

「そもそも、バレンタインデーってなに?」と、疑問に思い調べたのは何年前だろうか。
いろいろな説があるようだが、ヴァレンタインとはローマ帝国時代のキリスト教司祭で、その死についてはなかなか血なまぐさい歴史があり驚いたものである。

日本では、女性から男性への愛の告白。そして、現在では、お世話になっている方へ感謝の証として義理チョコをせっせと配り、チョコに目がない女子は、この日を狙って輸入されてくる普段は買えない海外のあらゆるブランドチョコを「ご褒美チョコ」として自分に買ったり、友達と交換したりする。
そしてホワイトデーなるものも、日本で生まれた習慣。 本来のバレンタインデーの意味は知らなくとも、海外の行事を自国独自のお祭にしてしまう、日本人の懐の広さには驚くばかりである。

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病気にならない生き方

研究所前の花壇に咲く水仙

幼なじみに強く薦められて、新谷弘美著『病気にならない生き方』(サンマーク出版、2005)を読んだ。
母を膵臓ガンで亡くしたとき、木をみてまったく森をみない現代医療に対して強烈な不信感を抱いてしまった私は、この書の著者が、大腸内視鏡によるポリープ切除を世界で初めて手掛けた権威ということで、読む前からちょっと引いていた。
昏睡状態ですべてを受け付けなくなっていた母の腕には最後まで点滴注射が打ち続けられ、腕は二倍もの太さに腫れ上がっていた。「どうしてこんな無意味な点滴を続けるのか」と詰め寄った私に、ある意味誠実だった主治医が「これが現代の最善の医療なのです」と言ったのであった。

新谷(しんや)先生は9万件以上のポリープ切除を行なってきたが、40年に亘って一度も「死亡診断書」を書いたことがないという。大腸ガンなどのシリアスなケースを多く手掛けながら、「ガンの再発率ゼロ」という結果を出してきたからのようだ。
本書は、「何を食べて、どんなふうに生活するか」を具体的に示すことによって、「病気にならない生き方」「病気を再発させない生き方」を説いたものである。しかし、「健康オタク」系の本ではまったくない。40年を越す臨床医としての経験からくる信念と「だれもがよりよく生きてほしい」という祈りが随処に感じられるのである。

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「鍛える」ということ

警策

日々、黙々と坐禅をする友人の研究者が、「規律やしごきで人が悟れるなら、どうしてアウシュヴィッツの囚人たちは悟らなかったのだろう」と言ったことがある。

相撲部屋のしごき騒動が云々されている。激しいぶつかり合いの稽古が禁止されれば力士たちの教育が根本から揺らぐとの声もある。

かつて梅林僧堂で修行をされた加藤耕山老師(1876~1971)が、臘八摂心(12月1日から釈尊成道の12月8日まで僧堂で行なわれる不眠不休の修行)の様子をこう語られている。


梅林寺という所は、ほかの時は別だが臘八だけは思いきって叩きよりますからね。(中略)堂内のほうでは直日(じきじつ、禅堂内での総取り締まりの役)は「独参をせよ、グズグズ坐っておっても何もならん、独参せよ」と。そうすると行くんですな。行くと大庭の所に助警というのが五、六人警策を持って立っている。「何ウロウロしとるか、そんなドイツイことで老師の前に行って何になるか。しっかり坐って来い、禅堂へ行って坐ってこーい」。それでも禅堂へ行くと叱られて追い出されるから、我慢はって行こうとする。ナニクソと、もう暴力ですな。一人や二人ならいいが、四人も五人もおって、なかには柔道何段なんていうやつがおって、しまいには真剣になってやりだすんじゃ。(中略)坐れというのならいくらでも坐っておるんじゃけれども、両方ではさみ打ちする。一方は「行け」というし、一方は「いかん、行くな」とこういう。無理ですわね。それがもう、実に悲惨ですからね。バタバタバタと、まるで戦場とちょっとも違わん。血相を変えてやりますからね。あまりバタバタ、ガタガタやるから、老師が心配さっしゃるです。「えろうゴタつくが、どうも修行はそんなもんじゃないがねえ。あやまちでもできるといかんから、たいがいにするように」と。わたしが古くなってからですが、「老師、心配しなさるな。存外心配なさることはありませんよ」と、なだめよったがな。そりゃそんなふうで、「あんまりこういう時代のことだから、たいがいにしておかないと」と、これをやめた老師があったですよ。そしたらあんた、もうちいっとも気がのらないですよ。沈んじまって、どうもいかんです、……

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貪(むさぼ)る

いがぐり

米国の食品医薬品局(FDA)は、2006年12月に、「クローン動物およびその子孫の肉や乳は、我々が日々摂食する食品と同様に安全である」という発表をしたという。クローン動物の肉・乳の販売が合法化されれば、アグリビジネス企業は、その製品を販売することはもちろん、製品がクローンであるか否かの表示義務も課せられない。
かつてFDAは、死んだ家畜を生きた家畜に与えてもまったく問題はないとの見解を示した。しかし、牛海綿状脳症(狂牛病)の恐怖が世界を駆け巡ったことは記憶に新しい。
企業レベルでクローン化の採算が取れるようになれば、世界におびただしい数存在している米国発のファーストフードのチェーン店などで、早晩、規制の網をスルリと通り抜けた無表示のクローン動物の肉のハンバーガーなどが店頭に並ぶことになるのだろうか。
 
私たちはいつのころから、心の痛みを伴わずに、生き物を食するようになったのだろう?

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Myお箸でエコの仲間入り

Myお箸

夕べ深夜のニュース番組を見ていたら、東京都では今まで燃えないゴミとして出していたプラスチック容器を、燃えるゴミとして出していいことになるという。 私が住まう町は、ずっと前からプラスチック容器も燃えるゴミで出せていたので、存外意外ではあった。

東京都がこういう方向転換をしたのは、今まで燃えないゴミの廃棄場所として東京湾に埋めていたが、このままであと40年もすると、東京湾内に埋め立てられる場所がなくなることが見えてきたため、ゴミ処理施設の新設や改修して、プラスチックゴミなども高温度で焼けダイオキシンが出にくい処理が可能になったためであるという。
そういう意味では東京都よりうちの田舎町の方がゴミ処理場が先進的だったのであろう。
しかし、女性レポーターが訪れた東京湾のゴミの山は、そのレポーター自身も「絶句し、めげるほどだった」というほどのゴミゴミゴミ・・・。人間の愚かさを露呈しているような光景だった。

そして我が身のことに立ち返る。
常日頃から、できるだけゴミを出さないようにと心がけてはいるものの、なかなか実質的なことができないでいた。そんななか、最近、研究所の我ら編集部員は全員、Myお箸を持つようになった。毎日、昼御飯を購入するコンビニで、「お箸はいりません」と言っている。一度きりしか使わない割り箸を今までどれだけ無駄にしてきたことか……。
ほんの些細なことだが、エコ生活者への仲間入りである。

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女というのは・・・

久しぶりに楽しい言葉に出会った。

ジョージ秋山の『浮浪雲(はぐれぐも)』。連載八百回記念という今号は、なんとか良い妻をめとって子どもに恵まれていい生活をしようと生真面目一本でやってきた男のおはなし。ほのかに思いを寄せる女性はいるが、一歩が踏み出せずに悶々と日々を送る。そんな男に、品川宿「夢屋」の頭(かしら)「浮浪雲」が「指南」する。

「女とはどういう生き物か知ることでんす。女は三つでできてる生き物でんす。虚栄と快楽と打算でんす。この三つを満足させるのが男の仕事でんす」。

あまりに言い得て妙なので、思わず声を立てて笑ってしまった。こんなふうに思い切れる男に女はどれほど出会いたいことか。

そして不思議なことに、そんな浮浪雲と暮らす奥さんのカメさんには、「虚栄」や「快楽」や「打算」に駆り立てられる風が微塵も感じられないのである。

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老舗の心

熱帯地方の睡蓮(未草)

先日、とある老舗に長年使っている大切な物の修理をお願いした。
それが昨日届いたのだが、無駄なゴミを出さずシンプルながらも、大切な物を絶対に濡らさない、傷つけはしない、非常に気配りされた丁寧な梱包で、中味を見るまでもなく嬉しく思った。

そして、修理に出した物がまた職人さんによって新しい命を吹き込んでいただいたような気がして、「心を込めて何かをする」という事は、こちらにまで間違いなくきちんと伝わるのだなぁと改めて思い、大切な事を教えていただいた次第。

老舗、御用達、名店と謳われるほどの店になるまでには、先人の数知れぬご苦労があった事であろうし、今現在ものれんを守っていく困難との闘いであろうと思う。
修理に出した物一つに、老舗であるゆえん、その心を見、非常に爽やかな気持ちが心に拡がった。

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美しい国、日本?! -アレックス・カー氏-

氏は、雨蛙を見てエメラルドと・・・

7月15日、TBS『情熱大陸』というTV番組に、アレックス・カー氏が出ておられた。
どのような方かはこちらで>『情熱大陸 アレックス・カー(東洋文化研究家)』

様々な仕事をこなしていらっしゃるが、その全ての根底にあるのは、-本当に美しいものとは何か-であって、揺るぎない信念と審美眼を持つ彼だからこそ出来うる仕事をしていたら、それがあらゆる分野にまで拡がっているだけなのだと思えた。

「日本は、東洋の文化の終着地点のような所」と、番組内でおっしゃっていたが、まさにその通り。それは、アジア各国に趣き様々なものを自分の目で見て、手で触れて来たからこそ自然と出てくる言葉なのだろうと思えた。
今、政府は「美しい国、日本」というコピーを携えているが、それならば、その日本の源流とも言える国々の文化の知識までをも持ち、その上で、なかば壊れかけた日本の美しい風景や文化をどのように立て直して行くのかを見据えなくては、狭い狭い日本の内だけを見て「美しい国、美しい国」と言っていても、机上の空論に過ぎない気がする。
氏のように、知識と経験、ものを見る心の目を持った方に政策に携わって欲しいような、すがるような気持ちになってしまった。

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国鉄山陰線天神踏切西方20メートル

かつての国鉄山陰線

研究所から少し離れた所にある、何の変哲もない高架下。かつてここには踏切があった。
1969年6月24日午前2時36分ごろ、この地で一人の女子大学生が二十年の短い生涯を終えた。

“「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である”
                  (高野悦子『二十歳の原点』13ページ)


今、この地に立つと、時代の流れと個人の運命が交錯し、惻惻と私の胸に迫ってくる。

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雪の少ない冬でも、なごり雪となるか・・・

先日のニュースで、東京都内では、この冬、一度も降雪を観測していないと言っていた。観測史上初ということだそうだ。
確かにこの冬は暖かい。
つい1週間ほど前には、もう今にも芽が出て桜が開花しそうなほど暖かな日がきたかと思うと、この数日は一転して冬景色である。しかし、例年ではこのくらいの気温が標準なのであり、やはり今年はどうかしているようだ。
先に琵琶湖岸の菜の花畑をご紹介したのだが、その場所とそう遠くない湖畔の朝の模様。

最後の雪になるか・・・

湖西の山は白くなって、鳥たちもいささか寒そうに羽毛を膨らませているようだった。

さて、そこから琵琶湖大橋を渡って、京都へ抜ける途中という町。

途中町の雪景色

堅田からのバスの終点なのに「途中」というバス停のある、この滋賀と京都の県境の峠の町は、昔から若狭から京都へ抜ける重要な物資輸送路で「若狭街道」と呼ばれる街道の中継点だった。
この若狭街道は、若狭で捕れた鯖に塩をまぶして不眠不休で京都まで運ぶとちょうどよい味になっていたため、いわゆる「鯖街道」と呼ばれるようになった。
昔は今よりはるかに雪深く、さぞ難所であったことであろう。

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朝日と夕陽

亥年を迎えてから、はや半月。もう今年の24分の1が終わったことになる。

よく言われることだが、日本は敗戦後60年で、日本人としての大切なものをどんどんなくしてしまっていっているのではないだろうか。
例えば、大晦日から元旦。
ただ日が変わるだけといえばそれだけだが、やはり、ただそれだけのことではないと思う。
私が子供の頃、元旦の朝には必ず、下着から上着にいたるまで新しいものを着させてもらった。
そういう区切り、けじめが、今の時代ではなくなってしまった。

物が溢れているから、いつも関係なく新しいものを手に入れ、好きなときに身につけてしまっている。
そういうことになれてしまって、感謝の心も無くしてしまっていっている。
アメリカナイズされ、個人主義が高じてわがままになり、自分だけの生活のまま社会に出てしまっている人たちが世の中に沢山いる。
通勤途中でもそういう人たちを沢山見かける。電車の中で化粧する女性、禁煙の駅のホームで喫煙するビジネスマン、車内で着メロを鳴り響かせる高校生。
どこかに書いてあったが、現代社会では、部屋で寝ていたときの姿のままで外出できる人が、とても沢山いるらしい。信じ難いことだ。

asahi.jpg

そういえば、明治生まれの今は亡き私の祖母は、生前、朝夕に山門を開け閉めするのが日課だったが、その時にはかならず、朝日に向かって手を合わせ、夕日に向かって手を合わせ、月に向かって手を合わせていたのを思い出す。子供の頃、私もよく付き合わされたものだ。
今思うとと、祖母にとっては毎日毎日が元旦と大晦日のような心構えだったのかもしれない。
見習わなくてはいけないことだ。

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巨木の受難

古木が生い茂る鎮守の森。その姿は日本人の精神の原風景とも言えよう。「千古斧入れぬ」という形容もあるように、祖先たちはその保護に意を注いで来た。最近では巨木に対する関心も高まり、各地で調査保護の活動がなされている。

この鎮守の森に、思わぬ所から危険が迫っているらしいのである。

私の父が氏子総代を勤めている故郷の鎮守の森で、一本の桧(ひのき)が枯死した。直径1メートルもあろうかという巨木で、入札にかけたところ、保証金も含めて数百万という値がついた。大木が枯れたことは誠に残念ではあるが、不足しがちな神社予算に、思わぬ臨時収入が舞い込んだ。

ところが、である。

専門家に調べてもらったところ、地表に出た樹根の目立たないところに巧妙にドリルで穴が開けられ、なんと除草剤が注入されていたのである。こんなことをされたら、どんな巨木でもひとたまりもなく枯れてしまうという。

近頃は大木の伐採もままならず、巨材が品薄で価格が高騰、中には、このようなけしからぬ振る舞いに及ぶ悪質な木材業者も存在するようだ、とのことであった。

似たような事件は各地で起きているという。最近も和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社のご神木が被害に遭った。ふだん人のいない神社が狙われやすいようだが、山林を所有する寺院でも注意が必要だろう。

今まで元気だった樹木の葉が突然黄変したら、一応は疑ってみる必要がある。

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情報をよむ

昨今は大学の履修科目に、メディア・リテラシー(media literacy)というのがあってなかなか面白そうだ。これは種々の媒体(メディア)を通して氾濫する情報を、批判的にどう読み取り、自らの考えをどう伝えるかという能力を培うための学問のようだ。
「新聞・雑誌・ラジオ・テレビといった古い形のメディアの伝える情報の圧倒的な影響力に対する問題意識」に端を発するというメディア・リテラシーは、当然の流れとしてのネット情報の読み取りや、芸術作品の解読といった方向にも切り込んでいる。
 
1920年代、ドイツの国策映画会社、ウーファを中心にしてドイツ映画は黄金期を迎えたが、そこで活躍した映画人の多くは、それ以後、ドイツが辿ってゆく反ユダヤ主義の思想とは相容れなかったのであり、ある者たちはアメリカへ、またある者たちは映画界を去って行き、最後にヒトラーの体制とともに残った才能は、レニ・リーフェンシュタールのみであったと言われる。

かつては舞踏家として活躍したリーフェンシュタール監督の撮影方法には、絶妙のリズム感があり、それまでのドイツ映画の卓抜な技術を継承した、比稀な感性が見事に開化した作品が、「意志の勝利」であり「オリンピア」であった。「意志の勝利」は1934年ナチ党大会の、「オリンピア」は1936年ベルリン・オリンピックの記録映画である。

しかし、いずれの作品も、見るものを圧倒するその映像の美のゆえに、ヒトラーをヒューラー(総統)とする体制を根底から支えるのに貢献をしたことは、歴史的事実として否定できないだろう。
「オランピア」においては、ドイツ選手たちの競技に一喜一憂するヒューラーの姿が、様々な角度から映し出され、選手たちの勝利のたびに、その栄光を讃えるハーケンクロイツ旗が高々と掲げられた。軍服に身を包み、貴賓席から拍手を送るヒトラーの「雄姿」からは、彼の頭の中にすでにできあがっていたはずの、国を挙げての狂気の未来について、何人も思い描けなかったのである。

レイ・ミュラー監督の「レニ」は、「意志の勝利」の制作によって、戦後弾劾され続けた、このレニ・リフェンシュタールの伝記的記録映画である。
「レニ」において、リーフェンシュタールは、「結果を知っていたら、決して『意志の勝利』は撮らなかった」と言っている。映画監督であったリーフェンシュタールの政治的無関心は、決して糾弾されずに済むものではないが、「あの時代」を読むことは、後代の我々が考えるほどに易しくはないだろう。ヒトラーは国民投票により88パーセントの支持を得てヒューラーになったのであり、ナチ党大会の記録映画「意志の勝利」をフランスはじめ、ヨーロッパの数カ国が表彰したのである。

私たちは「同時代」をいかに読み透すことができるのか。これは傑出した一握りの「専門家」にのみ向けられるべき問いではない。一市井人のこの「私」が確かな眼で情報を読まなければ、世界は想像を超えたスピードで歪んでしまうだろう。想像を超えたスピードで情報がゆき交っているからである。
 
メディア・リテラシーについて考えるとき、昨年一年、日本のマスメディアが狂乱して報道した堀江貴文さんの事件などは、私たちがどのようにして「真実」を読み取るべきかを示唆した象徴的な「出来事」にも思える。
(M)

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良いお年を・・・

雪の天龍寺


本年は、禅文化研究所ブログにお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
禅文化研究所は、明日、平成18年12月26日~平成19年、1月4日まで、冬季休業を頂戴致します。
何かと御迷惑をおかけする事となりますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、7月から始めさせていただいたこのブログですが、文章を書いて皆さんにご覧いただくというのは、
なかなか職員一同にとっても、良い刺激となりました。
また来年(1月5日より再会予定)も、日々皆さんに、新鮮な京都のお話・禅のお話・豆知識、その他職員
のつれづれ日記などをお届けして参りますので、どうぞお付き合い下さいませ。

それでは、皆様どうか良いお年をお迎え下さい。        禅文化研究所 職員一同

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功名が辻

12月10日の日曜日、大河ドラマ「功名が辻」が最終回を迎えた。
ご覧になっていた方々も多いだろうが、いかがだっただろうか?

私は毎回毎回、面白く、感動を覚えつつ見させてもらった。
実はこれまで、あまり大河ドラマに興味がなかったのだが、今回の「功名が辻」は興味を持って見てしまった。
まず、原作者が司馬遼太郎であること。それから、筆者は滋賀県に住まうことから、長浜を中心にする話の展開に興味があったのももちろんであるが、仲間由紀恵演じる千代や、一豊役の上川達也をはじめとして、キャスティングがよかったこともあるだろう。

実は私は「石田三成」が好きなのである。司馬遼太郎も三成が好きだったと、何かで読んだことがある。司馬の『関ケ原』は、明らかに三成側に立って書いてあるくらいである。
ドラマ上では数回前に、関ケ原の戦いにおいて、豊臣軍につくそぶりを見せながら徳川についた武将たちの裏切りにあい、結局負けて落人となってしまった正義の人、豊臣に義を尽くした三成である(ドラマでは中村橋之助が演じていたが、これまた素晴らしかった)。
そういう視点からみると、山内家存続のために豊臣を裏切ったといえる一豊は、三成の敵であるが、そのあたりが「功名が辻」のテーマそのものであるから、なんとも言えない。

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故郷 -ふるさと-

仏坂 何の人口建造物も見当たらない美しい風景

皆さんは故郷-ふるさと-ということばに、何を思い浮かべられますか。
都会で育った私ですが、祖父母や先祖がいた土地に行くと、感慨深いものがあります。
幼い頃は、何も無さ過ぎる田舎に、ここが父の故郷か・・・となんとなくかっこわるいような気もしたものです。
それが、大学を卒業した頃から、「不便かもしれないが、自然に恵まれた何て美しい場所だろう」と思うようになりました。場所によっては、何の人口建造物も見当たりません。

今年もお彼岸に墓参りに訪れると、高野山・熊野古道などが世界遺産に登録された際に、同じく祖父が眠る寺から見える山(仏坂)も世界遺産に登録されたのだとか。
このような日本の美しい風景が、世界遺産に登録される事によって守られていく事と、登録するに値すると認められた事に、とても嬉しくほこらしく思いました。

清らかでゆったりとした川の流れ

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百済寺 -ご開帳-

ご開帳でにぎわう百済寺

以前も書いたが、近江の百済寺にて、本尊十一面観世音菩薩のご開帳(9/18~10/27)があり、参拝した。
今まで見たことの無いようなお顔のように思った。
つらつらと感想を書くのも気が引ける。是非この機会に近江まで足をお運びいただきたい。
他に湖東三山の、西明寺・金剛輪寺も同時に秘仏が公開されている。

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ガラスは液体!?

ガラスと水

「ガラスは液体だ」
ある人が、こう主張しているのを聞いて、はじめは「またお得意の詭弁が始まった」程度に聞いていた。
しかし調べてみると、満更嘘でもないらしい。むしろ化学の世界では常識に属することのようだ。

我々の感覚においては、ガラスはどう見ても固体にしか見えない。しかし化学的に見た場合、ガラスは固体に特有の結晶構造をしておらず、液体のまま過冷却された「ガラス状態」という状態にあるとのことである。
たしかに、ガラスを熱すると次第に柔らかくなり、流動化する。中学校で習った、いわゆる融点というものがない。また、常温でもごくわずかではあるが、流動性を示すらしい。つまり、ガラスとは非常に粘性の高い液体、例えば硬い水飴のようなものとイメージすれば良いのだろうか。

ガラスは硬くて脆く、その破片はとげとげしい。繊細で傷つきやすい心をガラスの心と喩えたりもする。それに対して液体の代表格である水は、古来その適応性や柔軟性が賞讃されてきた。老子は「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る」と述べ、白楽天も「水は方円の器に任ず」と吟ずる。
この全くの正反対にみえる二つの物質が、実は同じ「態」に属するのである。
人も、目に見える性質の背後に、いかなる本質が隠されているのか分からない。表面的な性質だけで物事を判断してはならないと、改めて思った次第である。
(T.F Wrote)

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事務室改装

明るくなった事務室

先週末、当研究所の事務室と応接室の内装工事を行なった。壁紙と床を貼り替え、天井を塗装し、カーペットや窓の洗浄を行なうというもので、比較的仕事量の少ないこの時期を選んで行なった次第である。しかし事務室を空っぽにする作業はなかなか大変で、ロッカーや机を移動するために詰め込んだ書類は段ボール箱90個にもなり、また元に戻すことを考えると、少々気が重くなる。

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寂しいポスト君

研究所のポスト君

研究所の玄関横に、デッカイポスト(郵便受)がある。 15年ほど前に新調、ガッシリした郵便受だが今は使われていない。時々請求書が寂しく入っている。
それにしても、最近の郵便局のサービスぶりには目を見張る思いだ。 民営化の波は彼らを本気で働かせているようだ。

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「沖縄病症候群?」

「沖縄病」という病気があるらしい。ちなみに今日(8月8日現在)、「沖縄病」をGoogleで検索した結果、「116,000」件にものぼり、この数値は「ニコチン依存症」を検索した「94,500」件よりも多い。

この「沖縄病」とは、インターネット百科事典の「ウィキペディア日本語版」によると、「この言葉を最初に使用したのは、茅誠司と言われる。1960年に沖縄教育研究中央集会の講演で、『沖縄のことを考え続ける沖縄病』という表現をしたことに端を発」し、「沖縄の魅力に取り付かれ、高い飛行機代をものともせず通う人や、果てには移住してしまう人を指」しており、その代表として宮本亜門等の芸能人があげられている。

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ブラックブラックガムの香り

先日、岡山県の蒜山高原にある蒜山ハーブガーデン・ハービルを訪れた。庭園には様々な種類のハーブが咲いており、その先には紫色に染まったラベンダー畑が広がっていた。さらに丘へと進むと蒜山三座が一望できるとても気持ちの良いところだった。
庭園へと進むと案内係の方が「このハーブの葉の裏を指でこすって香りをかいでください。ブラックブラック(ガム)の香りがしますから」と来園者に説明していた。私もその説明を聞きながら、実際にハーブの葉の裏を指でこすって香りをかいでみた。すると、たしかにブラックブラックガムの香りを感じた。
しかし、よく考えてみるとおかしな話だ。

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お盆雑感

蓮

今年もお盆の季節がめぐってきた。
八月十五日前後の日本が、なんとも言えない不思議な雰囲気に包まれるのを感じるのは、私だけではないであろう。これは、終戦記念日も含めて、日本が、死者とともにその数日間を生きるからに違いない。
田舎出身の私にとって、祖母とともに盆棚の飾りつけをしたり、迎え火を焚いたりしたことは、しみじみとした忘れられない思い出になっている。その祖母も、数年前に死んだ。
早くに死んだ祖父の戒名の横に、真新しく彫られた祖母の戒名を見たとき、ふと思った。 「ああ、祖母が先に通ってくれたのだ。死出の道を。私も将来、誰も通ったことのない道を行くわけではないのだ」

人は死ぬときは一人だ、誰も身代わりになることはできない。そういう実存的な考え方に支配されていた私を、不謹慎だが、妙な安心感へ導いてくれたのを憶えている。
思えば、祖父母も、その父母も、そのまた先祖たちも、同じように死出の旅路を通っていった。そして我々の先祖もこれまた同じように、死んだ先祖が帰って来ると信じて、この行事を愚直に何百年と繰り返してきたのだ。
昔の人は孤独であっただろうか。孤独であったとしても、よるべき共同体のない現代人とは、また違ったものであったのではなかろうか。
(T.F Wrote)

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出家希望者

研究所には一般の方から様々な問い合わせが寄せられる。
その多くは禅語の出典などに関する学術的なもの、
あるいは坐禅ができる寺院を紹介してほしいというものである。

ときおり禅僧になりたいという相談もある。禅僧といってもそう簡単になれるものではなく、臨済宗では先ず派に属する寺院の徒弟となることから始まり、専門道場での一定期間の修行が必要となってくる。

先日もAさんという方から出家を希望する電話がかかってきた。

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倚りかからず



鷺



先日、某所で雑誌をぺらぺらめくっていたら、あまりに有名な茨木のり子さんの「倚りかからず」が出ていました。

触れたのは久しぶりでしたがやっぱりいいなと思いました。
ご存知の方も多いと思いますが、以下に記しておきましょう。

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自分の顔

蓮葉

昨今、高額なお金を支払って美容整形をする人が増えてきているようです。
昨夜も某テレビ番組で、整形を熱望し、そして実現した人達の番組がありました。
その中で、ある若い男性が整形した自分を見てもらう為、先輩(女性)のところへ行くと、その先輩は整形した顔を見て驚き、だいぶ大人びた顔になったねといいつつも、「変な自信を持っちゃだめ。結局、大事なのは心で、あなたがどう生きていくかが問題だ」と、浮かれ気味な後輩を諌めていました。
この番組を見て思い出したのが、山田無文老師の『和顔』に収録されている、“自分の顔に自信を持て”のお話でした。

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by admin  at 16:58  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)