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ブログ禅 ついに1000エントリー!




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このブログ禅をはじめたのは2006年7月1日でした。それから、あっと言う間に4年が経過し、ついに、このエントリーで、ついに1000を数えることになりました。
最初の2~3週間は、多少の歯抜けとなっていますが、それ以後は、研究所の休みでない限りは、ずっと毎日更新を貫いてきました。

爆発的なアクセス閲覧数にはならないものの、おかげさまで毎日、弊所のホームページと同程度の閲覧数があり、キーワードによっては、検索サイトで上位に表示されるあり、大変うれしく思っています。
本ブログを通じて坐禅をはじめた方、弊所の刊行物を手に取ってみようと思われた方、京都に行きたくなった方、お寺に出向かれた方、禅ってなんだかもっとしってみたいと思われた方、いろいろな方と、ご縁ができたようです。毎日読んでいて下さる方も少なくありません。

なかには拙い文章で、削除してしまいたいようなものもありますが、いろんなスタンスから、少しでも禅のことに近づいてくださる方を見つけられたら、このブログの意味もほぼ達成しているというふうに思っています。

これからも、おつき合いの程、よろしくお願いいたします。
すでに連日の猛暑日ですが、この夏も爽やかにのりきっていただきますよう、皆様のご自愛を祈念申し上げます。

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通勤前に蓮見物 -日蓮宗・立本寺-




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この時期になると、毎年通勤前に日蓮宗本山立本寺の蓮を観にでかけます。
今年も本堂前にはたくさんの蓮が。
ホームページを拝見して初めて知ったのですが、かの名将・島左近の墓があるそうな。
有名拝観寺院はほぼ参拝した方、立本寺さんへのお参りはいかがでしょう。
春には桜も美しいですよ!

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Nightstand Buddists -東京禅センターより-




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妙心寺の東京禅センターさんのホームページには、様々な講座の案内があり、私なども「東京近辺に住んでいれば行きたいのになぁ…」と思うものが多々あります。
久々にホームページをチェックしていると、なにやら気になる文字が。
「Nightstand Buddists……なんだろう」と思いクリックすると…。

週に一度、それも一週間の仕事を終えた金曜日に更新というのが良いのです。
今では私も毎週楽しみに拝読しています。 皆さんにも是非オススメしたく、こちらでご紹介させていただきました。携帯の「お気に入り」にご登録下さい!

なお、東京国際ブックフェアにて禅セミナーを開催し、多くの方にご参加いただきましたが、引き続き禅に関心があり、学んでみたいという方は、東京禅センターさんのセミナーに是非足を運んでみて下さい。最近では、ZEN Cafeが好評のようです。

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真夏の緑




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嵐山近くにある研究所の倉庫へ。
年に何回かでかけますが、山々の緑の変化が楽しみです。
今は力強い夏の緑。濃い、濃いですね~。

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パオン寺院 -インドネシア-




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先日ご紹介致しましたムンドゥッ寺院につづき、パオン寺院です。
ムンドゥッ寺院とボロブドゥール寺院を結ぶ直線上のちょうど真ん中に、パオン寺院があります。
“一直線上”である事から、この遺跡群は、現在ではもう朽ち果ててしまった寺院を含め、かなり大規模な寺院群を構成していたのではないかと推測されるようですが、まだはっきりとした事はわかっていないようです。

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8世紀後半~9世紀頃の建造物との事。
こじんまりした寺院です。内部には何も残っていません。

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不響は終わりだ! -ブライトンホテル-




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我が家近くの京都ブライトンホテルでは、「不響は終わりだ!」と題し、7月は毎夜8時より、ロビーにて30分のミニコンサートが開催されている。しかも無料なのだ。
先日は時間があり、オペラ歌手中丸三千繪さんが出演される日に足を運んだ。

オペラには興味を抱きつつも、これまで全く縁の無かった私であるが、彼女の名前はもちろん存じており、「あれだけ有名な方なら……」というミーハーな思いからでかけた。

その姿を拝見した時、まずは「はぁ…世界の舞台で活躍する人のオーラとはこういうものか…」と思い、その後は歌はもちろんの事、身のこなし、ドレスやアクセサリーのセンス、少しユーモアを交えた会話の巧みな事、彼女の全てに魅了され、私の全細胞がうっとりとした幸福感で満ち満ちるような感覚であった。
本当の癒しを求めるのなら、本物の芸術に触れるのが一番だと思う。

お能が好きでたまに観にゆくのだが、お能の世界では、表情動かぬ面をつけ、極力感情を内に秘めた中で、人間の持つ生の苦しみや哀しみなど様々な感情を表現し、最後には昇華させるような感じだが(これはあくまでも私がこう思っているだけの事です)、土地や文化や人が違ってヨーロッパにゆけば、同じものを外に向かって高らかに歌いあげ昇華させるのだな…と、どちらもの素晴らしい芸術文化に改めて畏敬の念を抱くに至った。

ミニコンサートのはずが、終了したのは10時! 心広き世界のディーヴァ、まさに女神の名に相応しい彼女のすべてを2時間堪能し、来年また…というよりも是非それまでに彼女のコンサートへ…と心に誓った真夏の夜。
もしかしてもしかすると、人一人の人生を変えてしまうくらいに素晴らしい企画かも?!と思える、ブライトンホテルさんの試みにもいたく感心した夜であった。

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男らしさ




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「あの人は男らしいね」「あいつは女のくさったようなヤツだ」とかいう言葉は、「ジェンダー(社会的性差)論」や「女性学」がすでに目新しくない昨今でも、立派に横行している。それでと考えてみる。「男らしさって何だ?」「女のくさったのってどんなん?」 すっぱりと答えの出せる人は意外にというか、当然多くはないだろう。「らしさ」というのは「なんとなく」の域を出ない漠然としたものだからだ。しかし、らしさ―「男らしさ」「子どもらしさ」「女らしさ(これには違和感をもつ人も多少はあるかもしれないが)」―という言葉は、考えてみれば「なんとなく」どころではない底力を持っているのかもしれないのだ。

先般、面白い本に出会った。『大日本帝国の「少年」と「男性性」―少年少女雑誌に見る「ウィークネス・フォビア」』(内田雅克著、明石書房、2010年6月発行)である。「ウィークネス・フォビア(weakness phobia)」とは筆者の造語で「「弱」に対する嫌悪と、「弱」と判定されてはならないという強迫観念」だと定義されている。「フォビア」といえばまず頭に浮かぶのが「ゼノフォビア(xenophobia、外国(人)嫌い)」だが、狭量な視野から生じたステレオタイプな偏見という含意が自ずと浮かんでくる。

本書は副題が指し示しているように、戦前の、少年少女雑誌の記述を通して、どのようにウィークネス・フォビアが形成され、変容し、再編されるに至ったかを検証する。取り上げられる雑誌は、『少年世界』(1895年創刊)、『日本少年』(1906年創刊)、『少年倶楽部』(1914年創刊)および『少女世界』『新少女』『少女の友』などである。画像や記述の分析を通して、いかに「男らしさ」という実体のないイメージが構築されていったのか、どのようにしてそこに正義という「根拠のない価値づけ」がなされたのかが次第に浮かびあがる。戦時には「強い日本男子」、軍縮時代には「弱さ」に対する寛容、「軍靴の音が忍び寄る時代」の到来で、再び「強さ」のイメージが復活する。そこに体制側の思惑や世相が反映されてゆくさまが本書においては見事に可視化されている。

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館蔵の名品展-書画と工芸 -承天閣美術館-




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臨済宗大本山相国寺内、承天閣美術館で7月3日から、「館蔵の名品展-書画と工芸-」が開催中です。

展示されるのは、墨蹟・絵画、工芸を中心としたもので、同展の目玉として美術館の方にうかがったのは、『無門関』を編んだ無門慧開の賛(!)による「政黄牛・郁山主図(双幅)」、「即心即仏」(夢窓疎石筆)、「蘭梅図」(惟肖得巌・江西龍派賛)など。個人的には、どこかで見た(学習参考書だったか)「異国通船朱印状」(西笑承兌筆)の実物や、「黄瀬戸大根文鉦鉢」も捨てがたいところです。
ちなみに、「蘭梅図」で賛をしている惟肖得巌と江西龍派は、当時の五山で文名をはせていた禅僧たちです。現代に続く日本の芸術文化を完成させたと言われる室町時代。そして、その文化的精華である金閣・銀閣に代表される、北山・東山文化。それらの文化の基礎とも言われる、「禅」の美術的側面を味わってみてはいかがでしょうか。

8月10日(火)までは、『京の夏の旅』協賛の特別公開として、本山相国寺の方丈・法堂も公開されています。
※ただし、8月1日・2日は、行事のために方丈襖絵が見られないということですので、ご注意ください(拝観は可)。

是非ともこの機会に、一度足をお運びください。

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良寛遺墨展 -何必館-




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祇園にある私も大好きな美術館、何必館(かひつかん)にて、先日(7/19)まで「没後180年 良寛遺墨展」が開催されていました。
早くにご案内できればよかったのですが、ぎりぎりに参りましたので事後報告となってしまいました。
こじんまりした美術館で、心ゆくまで良寛さんを堪能。5階の茶室ではふーっと深い呼吸を。こちらの美術館へは、一人でゆかれる事をオススメします。

研究所の書籍、良寛和尚逸話選もなかなかに面白いですよ。機会がありましたらご覧になってみてください。

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第17回 東京国際ブックフェアを終えて




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去る7月8日~11日、お知らせしていたように、東京ビックサイトにて「第17回 東京国際ブックフェア」が開催され、今年も多くの来場者がみえた。
昨年比で135%の増加だそうで、四日間合計で約87000人もの方が、一年に一度の、いわば「本の祭典」にお越しいただいたようだ。

禅文化研究所は、筑摩書房や河出書房、中央公論など、大手出版社に近い大通りにブースを構えさせてもらい、スタッフ一同、張り切って集客に務めた。
もちろん、一般書のようにはいかないが、毎年お越しいただく愛読者の方々はもちろんのこと、我々が呼びかける「禅文化研究所」の声を聞き止めていただき、ふと立ち寄っていただいた方も数多く、新刊『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』を中心に、たくさんお買い求めいただき、ありがたいことだった。
ブックフェアでは多くの出版社が割引販売をしており、特に高額書籍を求めるのには絶好の機会だと思う。去年までは我々スタッフも、休憩時間に他社の書籍をみたり求めたりしたいのだが、今年は大盛況で、そんな時間さえなかったほどで嬉しい悲鳴だった。

一方、今年はあらたな企画で、妙心寺派東京禅センターのスタッフである若手僧侶のお二方(小林師と富岡師)にお願いして、合計13回に渡る「禅セミナー -椅子坐禅と禅語に学ぶ-」を、ブース内で開催した。
椅子席を10席ほど用意してのミニセミナーではあったが、13回すべてが満席で、土日には立ったまま熱心に聞き入る方、椅子坐禅ならぬ起立坐禅までしておられる方もおられた。
もちろんフェア開催中のことであるから、他のブースからの呼びかけ声や、来場者の話し声はかなりの音量で響いていたのであるが、我が禅文化研究所のブースでは、簡単な坐禅の説明の後、拆(たく)と引磬(いんきん)が鳴って止静(しじょう)に入ると、ブース内だけが静寂になり、参加者からのα波が出ているのか、話ながら通りかかる人達も声をしずめるほど、独特の空気を放っていた。

来年もブックフェアは、同じ東京ビックサイトで行なわれるが、東館という更に大きなエリアで開催されるとのこと。現時点で、禅文化研究所も出展の仮申請を済ませたが、正式に出展するということになれば、またお知らせするので、是非ご来場いただきたい。

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祇園祭




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四条界隈へゆくと、山や鉾の準備が始まっていました(2~3日前の画像です)。
中京区(なかぎょうく)の人々のちょっと浮き足立った感と同時に高揚感がなんともいえません。「あぁ、今年もこの時期が来たのだなぁ」と微笑ましく思いながら写真を一枚。季節の行事と共にある京都での暮らしが大好きです。

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ムンドゥッ寺院 -インドネシア-




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メインのボロブドゥール遺跡の前に、その近くにあるムンドゥッ寺院をご紹介します。

8世紀~9世紀頃の建造と伝わる小さな堂内には、3体の美しい仏像が安置されています。殊に中央に座す如来像(下写真)の美しさは秀逸で、専門家にも高く評価されているそうです。

またこの寺院は、ボロブドゥール寺院から直線上で結んだ3キロ東にあり、その間にさらにパオン寺院という小さな寺院が残っており、宗教的にも意図があったに違いないようですが、まだ詳しくは解明されていないようです。周辺の小寺院を巡礼し、最後にボロブドゥールに辿り着いたのでしょうか。

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尺八の音色




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本日(7/12)、海外より研究所にお客様がおみえでした。
関心があるから……との事で、研究所のN先生(尺八歴40年以上)が皆様に尺八を披露する事となり、私もこの機会にと便乗して尺八の音色を間近に堪能する事ができました。
海外で高く評価されている尺八ですが、案外我々日本人は「聞いたことがない」という人の方が多いのではないでしょうか?
私は昔、あの五線譜では表せないなんとも言えない音色に惹かれ、習いたいとまで思った事もあり、その時には調べてみたりもしたのでしょうが、その情熱がどこかへ去るのと同時に知識も失い、本日は海外からのお客様の熱心なご質問により、こちらの方が勉強になるくらいでした。
日本人は、「あまりに質問しすぎると悪いかしら」というような遠慮から、なかなかに相手を質問ぜめにするのを嫌う傾向がありますが、色々な事を学びとろうとするならば、あのような姿勢は見習うべきだなぁ…と感心したのでした。

昔は尺八の音でも低音が好きだったのですが、高音の透き通るような音色が今の自身の心には響くなぁ…と感じたのでした。あのような音色を出す事により、悟りを得るというのもあるのだろうなと思いました。
また、長く使いこまれた尺八の美しさに、先生がどのように尺八を吹いてこられたのかが見えるようで、その事にもいたく感動したのでした。物に心は宿りますね。

さて、尺八にも色々な流派があるようですが、N先生は普化尺八(明暗)をなさいます。中国の普化宗(臨済禅師と交流があった普化を祖とし、臨済宗の一派ともみなされています)が日本に伝わり、禅の修行や托鉢に尺八を使い、また、坐禅をするよりも尺八を吹く事によって悟りの境地を求めたという事実もあるらしく、“吹禅”ということばもあるそうです。
なかなかに複雑な歴史を持ち、ここで皆様に詳しくご説明をさせていただくには、私の知識はあまりに乏しいので控えたいと思いますが、インターネットで調べると、流派の公式HPなども出て参ります。
是非皆様もこの機会に日本の誇るべき文化の一つ、尺八について学んでみられてはいかがでしょうか。

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-即心即仏- えしん先生の禅語教室 その14




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-即心即仏-
そくしんそくぶつ

前回二月に、馬祖道一の「平常心是道」の話をしてから、この教室をしばらく中断して、別に『禅語に学ぶ、生き方死に方』(禅文化研究所刊)という、美しい写真をいっぱい入れた本を書いていました。
今月の中頃(2010.07)には、店頭に並ぶ筈ですから見てください。さて、元に戻って私たちの禅語教室を再開しましょう。

馬祖の有名な語に、もう一つ「即心即仏」というのがあります。この頃の人は余り書きませんが、昔の禅僧はこの語をよく揮毫しています。この前の「平常心是道」もそうですが、禅は「仏心宗」と言うだけあって、心とは何かがいつも問題になるのですね。禅宗は仏教の一派ですから、他宗とは違って仏様は二の次。先ずはしっかりと我が心をつかみ取らなければならないのです。

我が心と言っても、デカルトが「われ思う、故に我あり」と言ったような、自我の本質というような心ではありません。禅僧の求める心は「仏の心」です。実際「経典」にも仏の心は自分の中にあるのではなく、世界中に充満していると説いてあります。「へー心は自分のうちにあると思っていたのに、自分の外にあるなんて」と、皆さんはきっと驚かれるでしょうね。

しかしよく考えてみると、心などというものは自分の中のどこを探してみても、見当たりそうもありません。ところが心なんかないと言っても、美しい花を見たりすると「なんという美しさだろう」と感動しますし、恋しい人と別れると悲しくて、胸をかきむしられるような思いになります。好きなもの出会うと喜び、嫌いなものと出会うと嫌悪を感じるというように、喜怒哀楽、心とは千変万化ですね。これはいったいどういうことでしょうか。

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Flowers and Plants in Tibet -№20-




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禅文化研究所客員研究員・李建華さんのご子息、叡(えい)さん による、チベットの草花の写真です。
硬そうな土、栄養分や水分などは含まなさそうな大地から力強く生えて、極力水分を必要とせぬよう進化を遂げたのでしょうか、力強い姿です。

専門家さえその品種を特定するのが難しい植物もあるとの事で、植物の詳しい説明は避けたいと思います。どうか、写真をお楽しみ下さい。
尚、チベットの植物について詳しい方がいらっしゃいましたら、どんどんコメント宜しくお願い致します。

追伸:お父さんの李建華さんによるチベット紀行もご覧下さい。
チベットの荒涼とした大地、チベット人の信仰、寺院など、ご覧いただくだけでも価値あり!です。

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東京国際ブックフェア 本日より開催




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昨年の様子

本日より、東京ビッグサイトにて東京国際ブックフェアが開催されています。
弊所は3回目の出展。少ない人数でなんとか頑張っています。
お近くの方、この日は東京近辺にいらっしゃるという方、是非禅文化研究所のブースへ遊びにいらして下さい。そして、お声をかけてください(かけていただきたいのです)!

今回から、東京禅センターさんのお力もお借りして、簡単なセミナーを開催しますので、お時間のある方は是非そちらもご参加下さい。

本日より4日間(日曜日まで)です。どうぞ宜しくお願い致します。

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「出会う」ということ




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ユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル『夜』に出会ったときの衝撃は忘れがたい。
『夜』は、第二次大戦中、自らが移送されたアウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ)の証言記録である。高い文学性を備えた本書はすでにホロコースト文学の古典となっているが、証言の不可能を突き破った語りは、読者を否応なく出来事の「当事者」にする。証言を受け取らないという道が絶たれているからである。

解放後、ヴィーゼルは、このホロコーストという「出来事」についてはけっして語らないと心に誓っていた。そのヴィーゼルに書き記すことを促し、翻意させたのは、敬虔なキリスト教徒でありすでに著名な文学者であったフランソワ・モーリアックである。

ヴィーゼルのエッセイには二人の最初の出会いが極めて美しく記されている。
敬虔なキリスト教徒であったモーリアックは、ヴィーゼルに、彼の信仰上の根本命題である、神の一人子イエスについて、その偉大さ、神性、十字架上の死について語る。しかし、それがヴィーゼルを激しく傷つける。2千年も前の一人のユダヤ人の死が、十年ほど前の六百万人のユダヤ人の死よりもかくも重いものであろうか、と。ホロコーストはキリスト教圏で起きている。ヴィーゼルが、作品を通じてはっきりと言明しているように、大量虐殺はキリスト教の背景を抜きにしては考えられない。しかしヴィーゼルの怒りに対するモーリアックの態度は、 ヴィーゼルを狼狽させるほどに真率なものであった。彼は、「唇に微笑をたたえたまま、 涙をぬぐいもせずに」ヴィーゼルの言うことに耳を傾けたのである。モーリアックは、 戦前から反ファシズムの論陣を張り、 第二次世界大戦中は、 レジスタンスに参加していた。このことをヴィーゼルは十分承知していたが、 何よりもヴィーゼルを突き動かしたのは、この老作家の率直さといさぎよさだった。老作家はエレヴェーターまでヴィーゼルを見送りにきて、彼を抱き締めたあと言う、「このことを話さないのは間違っている。話すべきです、それでも話すべきです」。
 
真の「霊性」の出会いとはこのことか。ヴィーゼルはこれを契機に語り始める。
やがて証言は、時空を経て私のもとに届く。モーリアックとヴィーゼルの出会いが私において成就するのはまさにこの時なのであろう。

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6月30日の京都のデパ地下




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水無月の夏越の祓する人は
    千歳の命延というなり

今年もいよいよ残る半年。折り返し地点を過ぎました。
元旦に誓った今年の目標、ふと頭に浮かびますね…。

各神社では6月30日に半年の罪穢れを祓い清め、残る半年も息災に…と「夏越の祓」の神事が執り行われましたが、この日に京都では皆が食べる「水無月」というお菓子があります。
古来より、宮中では氷室より取り出された氷が献上され、やんごとなき方々はそれを口にされ、夏越の祓の行事をされたとの事ですが、一般庶民の口にそのような物が入るわけもなく…そこで作られた菓子が水無月との事です。

悪魔祓い、邪気祓いのつぶつぶ小豆が上に散らされ、氷の形をしたお菓子。これを食べるともうすぐ祇園祭が…と、様々な季節の行事と共にある京都です。

私も仕事帰りにデパ地下の菓子屋へと急ぎましたが、どの菓子屋にも「水無月」を求めるものすごい行列が…。
「当たり前」と、この日にこの菓子を食べる。この「当たり前」が来る年も来る年も続いているという事は、やはり素晴らしい事だなぁ…と、列に並びながらぼ~っと考えます。

それにしても、これは京都ならではの現象ではないでしょうか?
皆さまが住まう地ではいかがですか?

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インドネシア更紗(バティック) -インドネシア-




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バティック作りの版木

インドネシア旅行記のつづきです。
どの国を旅しても、“布”が気になる私です。
その道に詳しい方に尋ねると、ジョグジャカルタの町には、昔は草木染の工房もいくつかあったようですが、現在の工房は化学染料?を用いているとの事でした。
近代化の波は、インドネシアの伝統的かつ素朴な染め物にも押し寄せているようです。
それでも、観光客向けとはいえ、工房を見学するのは楽しく……。

インドネシアバティックについては、以前細見美術館での展観を興味深く拝見しましたので、この旅行でも工房を訪れるのを楽しみにしていました。

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『禅文化』213号 技を訪う-葛籠-

日々の生活で出会った素晴らしい職人さんを、季刊『禅文化』にてご紹介しています。本ブログでもご紹介させていただきます。
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季刊『禅文化』213号より
“技を訪う―葛籠(つづら)”  川辺紀子(禅文化研究所所員)

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マンションに葛籠

 梅雨のある日、クローゼット奥にカビを見つけた。冬には、水が滴り落ちるほどの結露に恐れおののいた初めてのマンション暮らしだったが、「このままでは着物が危ない」と、着物の収納について真剣に考え始めた。そこでまず思いついたのが桐箪笥だった。箪笥屋のショールームに赴き、美しく象牙色に光るその姿にうっとりしたが、一人暮らしの狭いマンションのフローリングにも真っ白な壁にも似合わない。いやその前に誰がこの大金を出すのだ!と、その選択肢はすぐに消え去った。

 そんなころ、雑誌で“京葛籠”を知った。塗りの上品な光り具合、家紋が入ると引き締まる全体の印象。たちまち心を奪われた。加えて、柿渋や自然素材を使うので、虫や湿気から着物を守り、機能性が抜群らしい。すぐに購入したいと思ったが、やはり写真で確認するだけではなく、実際にこの目で確かめなくてはと、直接訪ねてみた。それが、葛籠作りの全工程を手がける“渡辺商店”だった。

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「来年のことを言うと鬼が笑う」

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将来のことは予測しがたい、ということを表すことわざ。

『日本国語大辞典』は出典として1656年の「世話尽」を挙げるが、江戸時代にはすでに存在した古い言葉のようだ。

この言葉、言わんとしている意味は非常に明瞭なのだが、なぜ「鬼」なのか、子供の頃からその必然性がいまいち分からなかった。

一般には「怖い鬼でも笑ってしまうほどばかばかしいこと」と漠然と考えられているようだが、やはりしっくり来ない人が多いと見えて、インターネットで検索してみても、様々な説が入り乱れている模様である。

しかし、今回調べてみると(実は偶然見つけたのだが)もとは中国の俚諺(ことわざ)から来ているらしいのである。さらにさかのぼれば、唐代のある詩に行き着く。

中国となると、この鬼は日本式の虎皮のパンツをはいた赤鬼青鬼ではない。漢文学習者には常識の「死者の霊魂」である。

こうなれば、冒頭のことわざの意味はもう自明であろう。来年のことをあれこれ取り沙汰する現世の人を見て、死者たちがあざ笑うのである。「人間たちよ、いつまでも命があると思うなよ」と。

出典などもあえて伏せておくので、興味のある方はご自分で調べてみてはいかがだろうか。

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