トップページ » 2.禅の文化 » 禅の逸話

釈宗演の逸話 その3

 

blog_伊藤06_BKL7517.jpg釈宗演自画賛 達磨図(個人像)

 

釈宗演禅師の展覧会に向けて、展示作品の釈文をする際に禅師の著作などをあつめた『釈宗演全集』全十巻(昭和5年・平凡社)を紐解いていたら、第十巻の最後の方に禅師の逸話がまとめてあるのを知りました。弊所の『禅門逸話選』には載っていない逸話をご紹介します。

※原文は旧仮名遣い旧字体ですが、読みやすいように改めました。

飯田の魔の池

明治四十一年四月禅師が信州飯田の直指会に臨まれた時のことである。同地の禅刹百丈山大雄寺に程遠からぬ所に、女夫池(めうといけ)という古池があるが、年々歳々其の古池へ投身する者が多いので、徳志家がなんとかして不祥事のないようにと、種々方策を施した。或る者は其の池畔に法華供養塔を建てようと献策するし、或る者は多くの鯉を放養し、そして営利的に鯉釣りを始め、以て人の出入りを多からしめて投身者を防ごうとしたけれども、魔の池ともいうべきか、やはり投身者が絶えなかった。すると宗演禅師は、此の事を知ってか、知らずにか、大雄寺の沙弥と居士等を連れて、此の古池へ来て一竿の風月を楽しまれたが、其の巧みな釣り方には、営業主をして驚かしめた。禅師は帰られるときに、其の釣り獲た鯉は総て古池へ放たれた、営業主はもとより他の者も、それが禅師だということは、更に知らなかったが、誰れ言うともなく、其の人が宗演禅師であったことが分かり、特に有志者が懇情して、六字の名号の執筆を願い、池畔に建碑した。すると爾来絶えて不祥事が起こらなかったので、今なお同地の人は、一般に其の高徳を称えている。

また字を書きに来た

江州乾徳寺の住職台嶺和尚の主唱斡旋で、湖東禅道会が組織され、年に一回ずつ宗演禅師の來錫を乞うことになった。ところが同会の維持が困難なので、台嶺和尚が事情を打ち明けると、禅師は即座に、
「よろしい、では墨蹟を五十枚書きましょう」
と、労苦も厭わずに揮毫されて、それを湖東禅道会の為に寄附された。そして來錫ごとに、
「また字を書きに来ました」
といつも五十枚ずつ揮毫された。禅師が台嶺和尚の詩に和韻されたのに、左の七絶がある。

  暫伍山猿野鶴群 荷衣松食講禅文
  箇中消息君知否 去就自由一片雲

怪物の出現

横浜の故綱島小太郎氏は、深き仏道の信仰者で、従って宗演禅師の帰依者の一人であった。小太郎氏の末期の遺言にも、
「家事に就いて事起こる時は、老師のご指示を仰げ」
との意味が認められてあった程だから、其の帰依の深かったことが分かる。禅師が嘗て此の綱島家の三階の大広間で大達磨を、揮毫されたが、其の大達磨は眼玉は千両だと、其の当時評判された。綱島家では主人小太郎氏の永眠初七日の夜、供養の為、薄暗い客間へ、此の大達磨の幅を掛けて置いた。すると参拝者たる客人達が、此の大樽間の幅の前を通って、霊前へ往かねばならなかったが、どうしたことか眼光炯々として人を射るが如き大入道の怪物が動き出したので、人々は、
「あら化け物が」
と驚きの叫びを発して、一同顔色を変えた。そして女子供は勝手元の方へ逃げ出す騒ぎであった。ところが其の化け物は、禅師筆の大達磨で、其の眼玉が怖ろしかった為で、後で大笑いをした。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

釈宗演の逸話 その2

 

blog_2018-09-15-10.27.jpg釈宗演の逸話、もう少しご紹介します。

「予言者の訪問」

 みずからをメシア仏陀と称し、釈迦よりもキリストよりも偉大な予言者だと吹聴し、自己礼拝を宗義とし、いたるところに押しかけて寄付を乞うては宣伝に努めていた変わり者がいた。
 ある時、この変人が東慶寺に宗演を訪れて盛んに老師を相手に一席ぶった。
「貴僧は有力な後継者がいるからまことに結構だ。自分は十五年間というもの、日夜に悪戦苦闘して道の宣伝に努力しているが、いまだ世に容れられず、その日の生活にさえ窮するありさまである。願わくば、この予言者のために、有力者に紹介の労を取っていただきたい」
 これを聞いた宗演は、座を正して、
「予言者をもって任ずる者が、人に紹介を頼むようでどうするか。紹介とは俗事のための手段だ。紹介状は書けん。また、おまえさんは十五年間、伝道に従事して来たといわれるが、いやしくも新しい宗教を伝えようとするならば、十五年はおろか、三十年、四十年の短日月ではとても効果を収めることはできん。予言者に似つかわしくないではないか」
と説いたが、この男の目的が多少の喜捨にあることを見抜いた宗演は、
「そこに供えてある布施は、最近もらったものだ。中味は百円か、千円か、それとも二円か三円か分からんが、ともかくそれを全部やろう」
と仏前からお布施を下げて来て、封をしたまま与えた。さすがの予言者も、一言もなくそのまま辞し去った。

 


 

さすがに宗演老師、ですね。

さて、自坊のことで恐縮ですが、自坊の本堂に掛っている寺号額(上の写真)は釈宗演老師のご揮毫によるものです。自坊は妙心寺派ではありますが、おそらく、世代住職の誰かが釈宗演老師のおられる円覚僧堂に掛搭したのであろうと思っていました。

もちろん明治期に参じたことは間違いのないことですから、察するに、私から3代前の住職であろうと思われます。私の師匠が言うには、自坊の土蔵の中に、その3代前の住職の名前が記してある英和辞典やキリスト教の聖書などがあるというのです。明治時代の田舎寺の禅寺住職がなぜこんなものを持っていたのか不思議だと……。

そうすると、ふと線が繋がりました。アメリカを始め海外巡錫をした釈宗演老師に参じていたなら、そういったものを手にすることになる機会があったに違いないと。

円覚僧堂の在錫名簿に自坊の3代前の住職の名前が残っているか調べていただかなくてはと思っているところです。ひょっとすると京都に来られた時にでも、自坊を訪ねてこられたこともあったかもしれません。

ここまで書いた後に、仕事の関係で釈宗演老師の語録『楞伽漫録』を紐解いて走り読みしておりましたら、大正四年と大正七年に、自坊の近くのお寺に巡錫されたときに作られた偈頌を合計4作見つけました。さて、この時でしょうか。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

釈宗演の逸話 その1

 

250_tobira_syaku.jpg来たる2018年10月8日から、花園大学歴史博物館にて「100年遠諱記念 明治の禅僧 釈宗演」展を開催する事を先般のブログで書かせていただきました。

いうまでもなく釈宗演老師は明治期を代表する禅僧ですが、逸話も残っています。ここでは弊所発行の『禅門逸話選』(絶版品切れ)よりいくつかご紹介いたします。

 


 

「菓子を褒美に小僧となる」

 宗演は若狭大飯郡高浜村に生まれた。由来、若狭は名僧知識が多く出るところで、臨済の碩徳である大拙、儀山、越渓などもここの出であった。ことに越渓は宗演の生家一瀬家に縁のある人であった。
 そんな縁から、十二歳の時、妙心寺の越渓和尚のもとで得度したのであった。得度するについては一つの逸話がある。
 あるとき、越渓和尚が宗演を含む子供たちを前にしていった。
「おれの小僧になる者は、ご褒美にこの菓子をやろう」
 子供たちは誰も「ウン」とはいわなかったが、ひとり宗演だけは喜んでその菓子をもらい、ついに越渓の弟子となったのである。

「寝ころんだ小僧に一礼した師匠」

 宗演十六歳の時、建仁寺山内両足院の峻崖和尚について学んでいた。旦夕の托鉢、作務、米踏み、掃除洗濯という小僧生活である。
 ある日、師匠の峻崖和尚が外出していた折、宗演は本堂の縁側に寝ころんでいたが、やがてそのまま眠ってしまった。そのうちに、師匠の峻崖和尚が帰って来た。和尚は、宗演が寝ころんでいるのをまたがずに、足のほうに回ると、おもむろに宗演に向かって一礼して行った。
 夢うつつのうちにこれを知った宗演は、深く師の態度に感じたのだった。のち宗演はこのことを回想し、つねにいった。
「いやしくも法門に身をゆだねる者は、万事にこのような謙譲慈悲の心がなければならん」

「禅は凡夫の修行じゃ」

 宗演は古い型の禅僧を超越していた。米国や欧州にも巡錫しただけあって、提唱にもナポレオン、ワシントンなどがポンポン出てくるほど現代的な禅僧であった。
 そんな和尚であるから鯛でも洋食でも平気で口にしたが、それでいて生臭いところが少しもなかった。そしていうことがまたふるっていた。
「ピチピチした新鮮な鯛を食って、美人の舞を見、三味線を聴いた上に、名香か何か鼻のご馳走にでもなるともっとよい。畢竟、禅は凡夫の修行である」

「並の坊主とは違うわい」

 京都の大津獲堂居士の家に、宗演が宿泊した折、たまたま禅僧嫌いで皮肉屋の某博士が来合わせた。なかなかの好取り組みゆえ、一座の者はどんな場面が出現するかと、固唾の飲んでいた。すると宗演は、
「わしが宗演です」
と初対面の挨拶をして、じっと博士の顔を見た。例の射るような眼光は炯々として実にすごいものであった。結局、老博士が日ごろ得意の皮肉も諧謔も出なかった。宗演が帰ったあと、博士いわく、
「並の坊主とは違うわい」

 

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

仏誕生

 

blog_MG_8579.jpg 昨日は4月8日。お釈迦さまの誕生日でした。

祖師がたの「降誕会」の偈頌を読む機会もあると思います。
その中で、「雲門」や、その異称の「韶陽」が出れば、雲門文偃の以下の拈評を言います。

マーヤーの右脇から誕生したばかりの世尊は、七歩あるいて、「天上天下、唯我独尊」と言われました。この世尊の故事を評して雲門は、「我れ当時(そのかみ)、若し見しかば、一棒に打殺して、狗子(くし)に与えて喫却せしめて、貴ぶらくは、天下太平を図(はか)りしに」と言ったのです。「俺がその場にいたら、その赤子を打ち殺して犬に食わせたものを、そうすれば、天下は太平であったのだ」というような意味です。なんともブッソウな話ですが、禅宗僧侶は、憶えておきましょう。

さて一休さんは、「釈迦という/いたずら者が/世に出でて/多くの者を/迷わするかな」と歌っておられます。

これらは、本有仏性(生きとし生けるものは、生まれながらにして仏性をそなえている)という、高い悟りの境地から言われたものですので、雲門や一休を真に受けて、間違っても花御堂の誕生仏を叩いたり、甘茶を引っ繰り返したりはしないで下さいね。

一休さんの歌に、「おさな子が/しだいしだいに/知恵づきて/仏に遠く/なるぞ悲しき」とあります。
降誕会、寺に参詣し、誕生仏に甘茶をそそぎながら、知恵がついていないおさな子に返って、仏に近づいてみましょう。

降誕会、多くの寺院では、旧暦の5月に行なわれているようです。
一休さんの道歌は、伝承を超えるものではありません。

ところで、赤ちゃんの瞳って、何であんなに澄みきって綺麗なのでしょうか。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

西郷どんの逸話 その3

さて、今日も西郷隆盛の逸話から。

◇炭火も使いよう
西郷が、ある人の壮行会に出席した。冬の寒い時で、座敷の火鉢には炭火が盛んにおこしてある。酒宴もたけなわになったころ、西郷は戯れに芸者に向かって言った。
「おまえさんにいいものをあげ申そう」
芸者は喜んで両手を出したところ、西郷は傍の火鉢から火をはさんで出した。芸者は仕方がないので着物の両袖でこの炭火を受け取った。一座はドッと興をわかした。
しかし、この芸者にしてみたら心中穏やかではない。仕返しをしてやろうとて、同じことを西郷にしたのである。ところが西郷は、
「はい、ありがとう」
と言って、おもむろにを取り出すと、一服、煙草を吹いつけたのである。

 

◇刺客に「ご苦労さんでごわす」
佐久間貞一、人見寧、梅沢孫太郎の三士が西郷を暗殺せんと企てていた。一計をはかって、勝海舟に紹介状を頼みに来た。そこで海舟は、
「佐久間、人見、梅沢の三士は幕臣なり。今般、足下を刺し殺さんとして遠く錦地に行く。幸いに接見の栄を三士に与えられよ」
という意味の紹介状を書いて与えた。三人は紹介状を持って西郷の家を訪ねた。時あたかも炎暑の候であったが、玄関にもろ肌を脱いだひとりの肥大漢がごろりと横になっていたので、すぐに紹介状を渡して、
「なにとぞ、先生にお取り次ぎを願いたい」
と言えば、裸の男は、
「はあ、吉之助は俺どんじゃ」
と言って、三人を奥の間に通したが、紹介状を一読して、
「お前たちは俺どんを刺しに来られたこつじゃが、遠路どうもご苦労さんでごわす」
と言ったので、三人は色を失って早々に逃げ帰り、海舟に告げて言った。
「どうも西郷という人は大人物で歯が立ちませんでした」

※いずれも『禅門逸話選 中』(禅文化研究所刊)より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

西郷どんの逸話 その2

さて、大河ドラマの「西郷どん」にちなんで西郷隆盛(号は南洲・1827~1877)の逸話を前回より続けます。

◇無三和尚に参禅する
青年西郷隆盛は、友人吉井友実とともに、福昌寺の無三和尚について禅を学んでいた。無三は二人が大器であるのを見抜いて、痛棒熱喝、つねに悪辣の手段で接していた。ある時、西郷は吉井と相談して言った。
「老師の室内に入ると、いつもやにわに痛棒を食らって、逃げようにも逃げ場もごわさん。そこで、今日は庭先で参禅し、老師が如意棒を手にとられたら一目散に逃げ出そうじゃごわせんか」
そう示し合わせて、二人は行って庭先に立って参禅をお願いしたところ、無三は立ちどころにその魂胆を見抜き、
「この生意気者めが!」
と大喝一声、雷のような大音声を発した。二人は平身低頭、わびを入れたのであった。
後に西郷は吉井と会って懐旧談をするたびに、必ずこの話をしたという。
*吉井友実=1828~1891。薩摩藩出身の志士・政治家。
『心にとどく禅のはなし』(禅文化研究所刊)より

 

◇西郷の坐禅石
西郷は十七歳から二十八歳までの前後十年間、毎日、無三和尚に参じ、一日も怠ることがなかったという。大山巌は回顧談の中で、
「鹿児島における予の家は西郷の家に近接していたので、予は六、七歳のころから西郷に従い、読書や習字を習った。そのころ西郷は禅学を学んでいた。予が朝早くその家にいたると、西郷はすでに草牟田の誓光寺の住職無三上人のもとに赴き、講習を終わって帰宅しているのをつねとした」
といっている。西郷らが坐禅を組んだ坐禅石は現在も残っているという。
『禅門逸話選 中』(禅文化研究所刊)より

 

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

西郷どんの逸話 その1

 

NHK大河ドラマ『西郷どん(SEGODON)』がスタートしました。大河ドラマファンのわたしは、初回から楽しみに見ています。前作の『おんな城主 直虎』は、一回も欠かさずに見ました。
小林薫さんが演じた南渓和尚が素晴らしかったですね。

実は、西郷どんも禅に参じておられました。その禅僧の名前は「無三」。どんな人だったかは余り知られていませんが、こんな逸話が残っています。

無三和尚は、薩摩国久志良村の農家に生まれた人である。21歳の時、大阪の薩摩藩邸吏に抜擢され、大いに藩事に尽くした。ところが、たまたま藩律にふれて罰せられることになった。しかし、役人たちがみなその才幹を惜しんで助けたのである。これを機に無三は出家し、剃髪することとなった。無三、53歳の時であった。諸方遊行ののち予州宝泉寺の洞泉橘仙和尚に参じ、ついにその衣鉢を嗣いだ。
その後、無三は藩の島津公に招請されて鹿児島の福昌寺に住することになった。それをねたみ、苦々しく思っていたのが南林寺の住職である。何とかして無三をはずかしめてやろうと、ひそかにたくらんで、晋山式の前日に藩侯に謁見し、「明日行なわれる福昌寺の晋山式の時、殿もひとつ、無三と問答商量なされてはいかがでござろうか」とすすめた。そして、問答する言葉まで教えたのである。
翌日、無三が上堂すると、さっそく藩侯は法堂の中央にすすみ出て、「いかなるかこれ久志良の土百姓」と大声で問うた。
当時、鹿児島ではとくに武士を尊び、農民をいやしむ気風が強かった。武士の出でなければ出家することも許されなかったのである。そこで、農家の出であった無三は、士家の姓を借りて出家したのだが、南林寺住職はそれを知っていてこの問いを教え、そして無三をはずかしめようとはかったのであった。満座の中でその出身を明らかにされたが、無三は少しも驚かない。泰然自若として、おもむろに、「泥中の蓮華」と、ただ一語大喝した。この答話を聞いて、藩侯は深く感悟し、以後、篤く無三に帰依したという。

農民を大切にした西郷どん。無三和尚の教えを聞いておられたのかも知れません。でも、なにぶん逸話の世界。史実は、あっちに置いておきましょう。逸話は、禅文化研究所刊『禅門逸話集成 下』から転載しました。これから、他にも少しずつ西郷どんの参禅逸話も紹介していきます。

大河ドラマファンのわたしは、誰かが無三和尚を演じてくれないかなと、ひそかに期待しています。NHKスタッフの皆さま、よろしくお願いします。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

『一休ばなし集成』在庫あります

 

s一休ばなし集成(仮カバー).jpg

今週末、2017年7月28日(金)の13時~18時30分に、花園大学講堂にて、一休シンポジウム「一休と禅のこころ」が開催されることは、先般のブログ禅にて紹介させていただきました。

そんなおり、絶版品切れとなっている『一休ばなし集成』の返品本でカバー汚れのものが、少しまとまって有りました。そこで、簡易的にカバーを作成し、この機会に直販限定特別価格にて販売させていただくことにしました。

定価は税込み2621円ですが、在庫整理につき税込み1944円にて販売いたしております。再版の予定はありませんので、一休さんの伝説がまとまったこの一冊が手に入らずにおられた方、今がチャンスです。

こちらのWEBショップからお求めいただけます。また、上記の一休シンポジウムの会場でも販売させていただきます。

 

『一休ばなし集成』在庫ありますの続きを読む

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(14)白隠門下 その9-大休慧昉

白隠門下で、のちに東福寺派の宝福寺(岡山県井山)に住した大休慧昉禅師(1715~1774)の逸話を2話ご紹介します。


大休慧昉墨蹟.jpg「大休和尚―南泉一株花の公案―」

ある時、大休和尚は、〈南泉一株花〉という公案を究明していた。ちょうど白隠禅師が、金剛寺の雲山和尚を訪問されることになり、大休も随侍した。その途中、大休は、公案に対する見解を示した。その見解を聞いた禅師は、
「そのような悪見解、犬も食わぬぞ」
と、大休を叱りつけ、杖で叩きすえた。
金剛寺に着いた禅師がうしろを振り返ると、大休の姿がなかった。禅師は、
「遅れよったな」
と思い、そのまま金剛寺に入り、雲山と夜どおし話をした。
その頃、大休は、金剛寺門前の農家に入って坐禅をし、一念の妄想もない坐禅三昧に入っていた。どれほどの時間が過ぎただろうか、ふと目を開くと、もう夜の月は沈み、カラスが鳴き、東の空がしらみはじめていた。その景色を見た途端、大休はカラリと〈南泉一株花〉の公案を悟った。大休は走って白隠禅師に相見し、その見解を示した。禅師も、大いに称嘆されたという。

 


 

「快岩・大休―雨の中の托鉢―」

快岩と大休が、松蔭寺に掛搭することになった時、白隠禅師は二人に対し、
「この寺は貧しく、そなたらを養うことができぬ。明日、村へ出て托鉢をせよ」
と命じられ、二人も承知した。
翌朝は、激しい風雨だった。二人は旦過寮まで来て、雨が止むのを待っていた。そこへ、白隠禅師が竹箆をひっさげてやって来られ、
「おまえら、ここで何をしておる」
と、ものすごい剣幕で尋ねられた。快岩が、
「風雨が激しいので、托鉢に出ようかどうか、迷っていたところです」
と答えると、禅師は、
「この意気地なしめが! 風雨を恐れてどうするのだ! 東海道にはいくらでも人が往来しておるではないか。おまえら、はよう托鉢に出ねば、わしが、ぶったたくぞ」
と、二人を叱りつけた。二人は、禅師の剣幕に恐れおののき、旦過寮を出て行った。山門まで来ると、二人は顔を見合わせ、
「なんと厳しい和尚よ」
と言いながらも、笠をかぶり、雨合羽を着け、雨をついて托鉢に出かけて行った。
昼、柏原に着いたころ、雨はようやく上がり、米や麦、七、八斗ばかりを托鉢することができた。
夜になって松蔭寺に帰り着いた二人を見た白隠禅師は、
「そなたら若い者は、こうでなくてはならぬ」
と喜ばれ、二人のために「藕糸孔中の弁」を示された。

※快岩=快巌古徹(生没年不詳/山梨県長光寺/白隠法嗣)

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「一葉舟中載大唐」(大休慧昉書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(13)白隠門下 その8-霊源慧桃

今回は白隠門下で、のちに天龍寺へも出世した霊源慧桃禅師(1721~1785)の逸話をご紹介します。


blog_聴松堂_163b_8A4A5505.jpg「病苦の中で大悟」

霊源慧桃和尚は、松蔭寺の白隠禅師のもとで長く修行し、日夜、おこたらずに参究した。松蔭寺から二十里ばかり離れたところに庵居し、松蔭寺への往来は、黙々と叉手当胸し、よそ見などはせず、同参の者に逢っても、ただ低頭するのみで、一言の言葉も交わさなかった。
ある時、同参の者が集まって、
「桃兄には、何か悟ったようなところも見受けられるが、どうもその程度がわからぬ」
と、霊源のことを話し合った。そこで、一人の僧が、
「まあ待て、わしが慧桃の力量を調べてやろう」
と言い出した。
翌日、道で霊源に逢ったその僧は、
「桃兄、〈疎山寿塔〉の公案、作麼生」
と問うた。しかし、霊源は、いつもと同じように、ただ低頭して去って行くばかりであった。そのため、誰も霊源のギリギリのところを知ることはできなかった。
その後、霊源は臍に腫れ物を患い、百余日の間、苦しみもだえた。そして、その苦しみの中で、〈疎山寿塔〉の公案を悟ったという。
霊源和尚は朴実な性格で、文字や言葉に頼らず、ひたすら艱辛刻苦、修行をした。それゆえ、和尚が身につけた道力は、大いに他の者をしのいでいたという。
その後、丹後の全性寺に住し、さらに天龍寺僧堂に出世し、多くの修行者を集め、その地方の大宗匠となった。
のちに妙心寺の住持となった海門禅恪和尚が、霊源和尚に相見したことがある。
霊源が京都に赴く途中、海門は、その前に進み出て、
「小生は、提洲禅恕和尚が法嗣、海門なり」
と、問答をしかけた。すると霊源は、にわかに手を伸ばして海門に突きつけ、
「わしの手は、仏の手にくらべてどうだ」
と迫った。海門は、言葉に詰まった。そこで霊源は、すぐに海門を踏み倒したという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「蘆葉隻履図」(霊源慧桃書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(12)白隠門下 その7-快岩古徹と大休慧昉

「東の白隠、西の古月」と並び称された古月のもとで共に修行し、後に縁あって白隠のもとで大悟した二人の禅僧の逸話をご紹介します。


聴松堂_087b_8A4A5267.jpg甲斐(山梨県)の快岩古徹和尚は、古月禅師に参じて仏法の一大事を悟った。その時、後に岡山の井山宝福寺の住持となる大休慧昉と同参であった。二人は語りあった。
「我ら二人、既に仏法の大事を成しとげた。ここにおっても得るものはない。また、たとえ天下を一めぐりしても、我ら二人に勝る者は、誰もおるまい。こうなれば、熊野の山中に身を隠し、聖胎長養して、一生を終わるに過ぎたる道はない」
こう計画を決めた二人は、古月のもとを立ち去った。
大阪に着いた二人は、淀川を上り、久世郡淀の養源寺に投宿した。その時、旦過寮の壁に、〈清浄行者、涅槃に入らず〉の偈頌が掛けてあるのを見た。その頌に云く、

閑蟻(かんぎ)争い諡ス(ひ)く蜻陷刀iせいてい)の翼  (閑蟻争諡ス蜻陷痘メj
新燕並び休(いこ)う楊柳の枝  (新燕並休楊柳枝)
蚕婦(さんぷ)、籃(かご)を携えて菜色多く  (蚕婦携籃多菜色)
村童、笋(たかんな)を偸(ぬす)んで疎籬(そり)を過ぐ  (村童偸笋過疎籬)

この頌を読み終わった二人は、何の意味かわからず、なすすべがなかった。まるで外国人がたわごとを言っているようで、まったくその意味を悟ることができなかった。そこで二人は、
「これは誰の作か」
と、寺僧に尋ねた。寺僧は、
「関東から来た雲水が言うには、駿河の白隠和尚の頌ということだ」
と教えた。これを聞いた二人は、
「白隠とはいかなる人であろうか。我らは既に大事を成しとげた。しかし、この老漢の頌を理解することができぬ。必ずこの老漢には、他の者とは違う、別の筋道があるはずだ。もしも、この老漢にまみえなければ、あとになって、必ず後悔することになろう。白隠にまみえてから熊野に入っても、決して遅くはあるまい」
と、駿河に諡эiしゅじょう)を向けた。
松蔭寺に着いた二人は、ただちに白隠禅師に相見し、入室を求めた。禅師がそれを許すと、快岩は、まず大休を入室させた。しかし大休は、禅師とわずかに言葉を交わしただけで、すぐに出て来た。それを見た快岩は、
「そなた、まだ入室しておらぬな」
と聞いた。すると大休は、
「止めておけ。あの老漢は我らがどうかできる相手ではない。そなたも、引き下がれ」
と快岩を止めたが、快岩はその忠告を聞かずに入室し、自己の見解を示した。禅師は、快岩の言うことを容れたかと思うと否定し、否定したかと思うと容れ、数回の問答が交わされた。快岩は、最後には理もつき、言葉もなくなり、白隠禅師に自慢の鼻をへし折られ、恥をかかされて走り出てきた。そして大休に言った、
「我れ及ばず」と。
かくして、二人は松蔭寺に掛搭を申し込み、
「我ら二人、いやしくも大事了畢しなければ、誓ってここを去らず」
と、かたく約束を結んだ。
快岩は、後にこの時の様子をこう語っている。
「大休とわしとでは、その利鈍ははるかに異なっておる。大休は、白隠禅師とわずかに鋒を交じえただけで、すぐに自分の負けを知った。しかしわしは、弓折れ矢つき、そこで始めて禅師に生け捕りにされていたことを知ったのだからな」
その夜、白隠禅師と旧友である駿河金剛寺の雲山祖泰和尚が、松蔭寺を訪ねて来た。雲山和尚も古月下の尊宿である。白隠禅師と茶を飲みながら話しをしていたが、禅師が、
「ここに日向から来た新到が二人おる」
と言って、快岩と大休の二人を席に呼び出した。そして禅師は、
「そなたらは、初めてここに来て、まだここの法門の高さがわかるまい。わしが、雲山和尚と仏法について話すから、しばらくそばにおって、わしらの話しを聞いておれ」
と命じ、雲山和尚と共に仏法の綱要を語り出した。古今の公案を検討しながら、話は夜明けまで続いてようやく終わった。快岩と大休の二人は、まだ一度も聞いたことのない仏法の話を聞くことができ、その感激で、思わず雨のような涙を流した。席を退いた二人は、
「仏法にあのようなことがあろうとは、思いもしなかった」
と、語りあったという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「一葉舟中載大唐」(大休慧昉書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(11)白隠門下 その6-峨山慈棹(2)

前回に続いて、峨山慈棹禅師の逸話を2話ご紹介します。


blog_柏樹子話有賊機.jpg1)峨山和尚―柏樹賊機の公案―

峨山和尚は、松蔭寺で修行中、寺尾という所に庵居し、〈疎山寿塔(そざんじゅとう)〉の公案に参じていた。
ある日、ハタとその公案がわかり、思わず手に香炉を捧げ、松蔭寺の方角に向かって、白隠禅師に感謝の香をたき、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。
白隠禅師が遷化された後、武蔵(神奈川県)永田に帰って、依松に庵居した。そこで自ら考えた、
「わしは松蔭寺にいた時、関山禅師の〈柏樹子(はくじゅし)の話(わ)に賊機(ぞっき)あり〉の公案をとおった。しかし、まだ十分ではない」と。
かくして、余事を交えず、〈柏樹賊機〉の公案に参究した。ある夜、急に冷たいつむじ風が吹き起こり、かまびすしく山が鳴り谷が響いた。この時、忽然として〈柏樹賊機〉の真意にぶち当たり、庵の外に走り出て、四、五十歩も疾走した。そこで初めて峨山和尚は、関山慧玄禅師の肝心かなめのところを徹見したのである。

 

2)峨山の垂示―空しく光陰を過ごすなかれ―

峨山和尚が言われた。
「わしは、天沢山麟祥院に住すること十年。禅牀(ぜんしょう)を天香閣に置き、毎夜、その上で坐禅をする。深夜の十二時から二時まで一睡して起きる。鐘司(しょうす)が、下駄を鳴らしながら鐘楼に上り、鐘を打つ。その時には、すでに洗面も終わり、法衣袈裟を著けて仏前にいたり、朝の勤行をする。毎日、この通りだ。朝はやく起床し、精神をふるいたたせてお経を読み、その後に今参究している公案を専一に工夫することだ。くれぐれも、空しく時を費やしてはならぬ。今、わしは年老いたが、勉めて怠らずにいる。なぜならば、黄龍慧南(おうりょうえなん)禅師も言われておる、『老いたりとて、やすやすと気ままにはせぬ』と」

 

いずれも『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「栢樹子話有賊之機」(東嶺円慈書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(10)白隠門下 その5-峨山慈棹(1)

今回は、白隠門下の高足、峨山慈棹禅師の逸話をご照会します。峨山禅師の逸話と言うより、師匠である白隠禅師や東嶺禅師の顕彰をされているお話ともいえます。


 

blog_絵019_AC_0759.jpg

峨山和尚は修行者に教えられた。
「わしは、二十年の間、全国各地を行脚して歩いた。その間、三十人ほどの善知識に相見した。しかし、わしの機鋒が鋭かったために、誰もわしに手をつけることができなかった。最後に白隠老漢に行き着き、三度もたたき出され、それまでに得た道力は、髪の毛一筋ほども役に立たなかった。それより、老漢に服従すること三、四年。あの時、天下には誰もわしを打ちすえる者はいなかった。ただ、白隠老漢が一人おられただけだ。
わしは、老漢の道徳が尊大であることを尊びはせぬ。老漢の名声が世間に満ちあふれていることを尊びもせぬ。老漢の悟りが古今の祖師がたをはるかにしのいでおられることも尊ばぬ。老漢が古人の難透難解な公案を、ひとつひとつ明らかに徹見して、少しの遺漏もないことも尊ばぬ。老漢が縦横自在に法を説き、その説法が、まるで獅子が吼えるような、何ごとをも畏れない説法であることも尊ばぬ。老漢の周囲には、三百人、五百人、あるいは七百人、八百人の弟子たちが取り囲み、まるで仏がこの世に出現されたかのようであったが、そんなこともわしは尊ばぬ。
ただ、天下の老和尚たちが、誰一人としてわしをどうすることもできなかったにも関わらず、白隠老漢だけが悪辣な接化手段を用い、わしに三度も棒を食らわせ、進むことも、退くことも奪い取り、ついにわしを大事了畢させて下さった。そのことだけを、わしは、尊ぶのだ。この事は容易なことではないぞ」
また、こうも言われた。
「わしが白隠老漢に従ったのは、わずかに四年だ。老漢もお年を召され、ややもすれば入室参禅がままならぬこともあった。そこでわしは、東嶺和尚に参禅したのである」
「わしは、五位の“兼中至”以上は、東嶺和尚に学んだ。その時、もしも東嶺和尚がおられなければ、わしは仕上がることはなかったであろう」
「『対するに堪えたり暮雲の帰って未だ合せざるに、遠山限りなき碧層層』。この句を簡単に見てはならぬぞ。たとえ難透難解の公案を透過し、臨済の三玄、洞山の五位などに参得しても、この境界に到ることはできぬ。いつか必ず、明らかに徹見する時節があろう。憶えておけよ」

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「峨山慈棹禅師像」(隠山惟逅ー賛・高田円乗画/東京麟祥院蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(9)白隠門下 その4-遂翁元盧(2)

前回に続いて、遂翁元盧禅師の逸話をもう一つ。

 


白隠禅師が八十歳の年、門下の高弟たちが協議し、『大応録』を提唱する法会(ほうえ)を開いてもらうことになった。遂翁は、住持を補佐する副司(ふうす)という役職を勤めた。その時、白隠禅師は軽い病にかかっておられたが、無理して講座に登り、七百人の大衆が集まった。その法会も無事円成し、解散が近づいたころ、東嶺和尚が、
「慧牧を松蔭寺の後継ぎにさせてはいかがですか」
と、白隠禅師に進言した。禅師も承諾し、東嶺が遂翁に告げると、遂翁も了承した。
東嶺の祝賀の偈に曰く、

南嶽三生蔵の老僧
黄梅七百衆の盧能
伝衣(でんえ)の事畢(おわ)って芳燭を続(つ)ぐ
且喜(しゃき)すらくは松蔭に慧灯を留むることを

かくして遂翁は京都花園の大本山妙心寺に上り、その法階を妙心寺第一座に進め、自ら酔翁と号した。宿坊養源院の院主がそのわけを問うと、遂翁は、
「わしは酒が好きだ。よって酔翁と号す」
と答えた。その答えを聞いた院主が、
「それはまた無茶な。酔を遂とすればどうだ」
と勧めると、遂翁も、
「遂にするのもよかろう」
と承知し、遂翁と号するようになった。
妙心寺での転版の儀式の後、大阪に遊んだ遂翁は、十二月になってようやく松蔭寺に帰った。その時の偈に云く、

明和元年六月旦
微笑塔前、旧規を攀(よ)づ
臘月帰り来たって破院に住す
業風(ごっぷう)を空却して吹くに一任す

松蔭寺に帰った遂翁は、白隠禅師と同居することを望まず、庵原(いはら)に一人住まいをした。
三年後、白隠禅師の病が重くなると、松蔭寺に帰って看病をした。そして禅師が遷化(せんげ)されると、遂翁はその法席を嗣(つ)いで松蔭寺の住持となった。
しかし、事を事ともせず、勝手きまま。参禅に来る者があると、
「わしは、何も知らぬ。龍沢寺に行って東嶺和尚に参禅せよ」
と言うだけで、一言の指導もなく、口を閉ざすこと七年であった。しかし、遂翁に随う雲水は常に七、八十人もいた。ところが、雲水が教示を求めれば、
「東嶺和尚のところへ行け」
と、相変わらずの一言であった。
遂翁がこんなふうだから、大休和尚や霊源和尚などは、しばしば手紙を送って遂翁に開法させようとした。しかし、遂翁は我れ関せずであった。

 

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(8)白隠門下 その3-遂翁元盧(1)

さて、今回は同じく白隠門下の高足、遂翁元盧禅師の逸話です。遂翁さんといえば、墨画が際立ってうまく、デジタルアーカイブスの調査などでも、いつも目を見張るほどの作品を残しておられます。でも、そうとう風変わりな禅僧だったようですね。あまりお友達にはなれそうにないイメージです。

 


 

 

遂翁元盧筆/月船禅慧賛「出山釋迦像」(禅文化研究所蔵)遂翁元盧和尚は(栃木県)の生まれである。最初の名は慧牧といったが、後に元盧と改めた。性来、酒を好み、才気は人にすぐれ、誰の束縛も受けなかった。
三十歳の時、白隠禅師に相見した。遂翁の非凡なる気質を見ぬいた禅師は、厳しく鉗鎚を下した。遂翁の参禅は、必ず深夜に行なわれたため、誰もその姿を見ることはなかった。白隠禅師のもとに二十年いた遂翁は、高い境界を持っていたが、その才を隠し、大衆の中にまぎれていた。
松蔭寺から三十里ばかり離れた葦原の西青島という所に庵を結び、松蔭寺で講座がないかぎり出ていくことはなかった。そして講座が終わると、またすぐに帰って行った。
ある日、講座が終わってから、白隠禅師が侍者に命じて、遂翁を呼んだことがあった。侍者が捜しに行くと、遂翁の姿はなく、ある人が、
「慧牧さんなら、とうに帰って行ったぞ」
と教えてくれた。侍者はすぐに遂翁の後を追い、
「白隠和尚がお召しです。早く来て下さい」
と告げた。しかし、遂翁は、
「和尚が呼んでも、わしは呼ばぬ」
と、さっさと立ち去って行った。遂翁の人にへりくだらない態度は、おおむねこのようであった。
細かなことには気をとめず、坐禅もしなければ、お経も読まない。定まった住まいもなく、その場その場で脚を伸ばして眠った。酒を飲んで少しいい気分になると、碁を打ったり、絵を描いたり、悠々自適な毎日を送っていた。そのために、遂翁がぼんくらなのか偉いのか、誰にも推し量ることができなかったのである。

 

※写真は遂翁元盧筆/月船禅慧賛「出山釋迦像」(禅文化研究所蔵)。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(7)白隠門下 その2-東嶺円慈(2)

前回に続いて、白隠禅師の高足、東嶺禅師の逸話から。

 


白隠禅師も晩年になるとその気力にもようやく衰えが見え、東嶺は、禅師に代わってよく修行者を激励した。禅師の晩年に参じた者は、おしなべてその道力もいい加減なものだが、峨山慈棹や頑極禅虎などは、しばしば東嶺和尚の指導を受け、そのため、物事を一目見た途端に看破してしまう敏捷な者たちである。

ある時、白隠禅師は京都の等持院の拝請を受けられたが、すでに八十四歳、老病も甚だしく、代わりに東嶺を行かせることにされた。東嶺は等持院に赴き、『人天眼目』を提唱した。四百余の大衆が集まり、大いに白隠禅師の宗風を振るった。その法会の最中、白隠禅師の遷化を知らせる訃報が届いた。東嶺は、解制後、速やかに松蔭寺に帰り、遂翁とともに葬儀を営んだ。

これは、東嶺が等持院に赴く以前の話である。
等持院の子院にいた十七、八歳ぐらいの小僧が、ひそかに北野の遊女と通じ、その情交は日に日にたかまっていった。ある夜、院主の留守をうかがい、百金の大金を盗み出し、それを袋に入れ、遊女と手をたずさえ、宵に紛れて出奔した。伏見から船に乗り、大阪に着いた。さて、懐をさぐると盗んだ金がない。
「昨夜、金の入った袋を柱の釘にかけておいたが、忘れて来てしまったか」
と、ひどくうろたえ、どうしてよいかわからず、進退、ここに窮まった。ついに、樹に縄をつるし、遊女と二人、首をくくって心中してしまった。
その夜、子院のわき部屋から、
「金の入った袋をここらにかけておいたが、どこにある。ああ、悲しい」
と、小僧の恨めしい泣き声が聞こえた。手で柱の釘をなで、壁や梁を探しながら、恨めしく泣くのである。小僧の声にまじって遊女の声も聞こえた。その後、毎夜、このようなことが続いた。その聞くも無惨な声に、子院の者は悩み続け、ついには皆な逃げ出してしまった。

ちょうどその頃、東嶺和尚が等持院に赴くことになったのである。
ある人が、子院の惨状を告げると、東嶺は、
「悩むことはない、わしがその部屋に入ろう」
と言って、その子院へ入った。すると、その夜から、幽霊の姿はパタリと出なくなった。
ある夜、東嶺は別の寺の求めに応じて子院を留守にすることになった。その時、三河の昌禅人という者が侍者であったが、この人も道力のある人で、この夜、留守番をすることになった。昌禅人が一人いると、美しい容貌の娘が現われた。娘は、
「お願いがあって参りました」
と、丁寧にお辞儀をして言った。昌禅人が、
「言ってみなさい」
と言うと、娘はこう語った。
「わたしは、この世のものではありません。実はこの寺の小僧さんと駆け落ちしたのですが、お金を忘れたために大阪で首をくくり、今になっても苦しみの世界からのがれることができずにおります。どうか、大善知識であられる東嶺和尚さまに救っていただきとうございます」
昌禅人が、
「どうして、自分でお願いしないのだ」
と尋ねると、娘は、
「和尚さまのように徳高きお方に、わたしのような卑しいものが近寄れるものではありませぬ。ましてや、わたしはあの世のものです。どうか、お願いいたします」
と頼んだ。昌禅人が、その頼みを承知すると、娘はすぐに消え去った。
昌禅人が、院に帰った東嶺にそのことを話すと、東嶺は、
「そのようなことがあるものよのう」
と憐れみ、読経のおりに浄水を設け、施餓鬼の法要をつとめ、娘のさまよえる魂を供養した。それからは、二度と幽霊が出ることはなかった。
その後、昌禅人は、若くして世を去った。東嶺は、その死を悲しみ惜しんだという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(6)白隠門下 その1-東嶺円慈(1)

昨年は臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱として、数々の行事が行なわれてきましたが、今年平成28年が、白隠禅師250年遠諱の正当年にあたります。

そこで、白隠禅師のもとで修行していた禅僧達の逸話をご紹介することにします。まずは東嶺円慈。

 



聴松堂_113b_8A4A5341.jpg 東嶺円慈和尚は、(滋賀県)神崎に生まれた。最初は古月に参じて悟るところがあった。その後、白隠禅師にまみえて侍者となり、数年の間に、禅師の家風をことごとく会得した。しかし、その辛参苦修によって重い病気にかかり、百薬の効果もなく、死に瀕していた。病の床で、東嶺和尚は考えた、
「わたしは既に禅の宗旨を究めたが、このまま死んでしまえば、宗門に対して何の役にも立つことができぬ」と。
そこで、『宗門無尽灯論』という一書を著わし、白隠禅師に見せて言った。
「もし、この中に有益なものがあれば、後世に残そうと思います。もしまた、杜撰(ずさん)だと思われれば、速やかに火中に投げて、焼いてしまいます」
その一書を読んだ禅師は、
「後世、悟りの眼(まなこ)を開かせる、点眼の薬となすべきものだ」
と、大いに評価された。
東嶺は、かくして禅師のもとを去り、京都白河辺に草庵を結び、養生に専念した。生死の根本を明らめ、死ぬもよし、生きるもよし、運命の自然に任せて時を過ごした。
ある日、無心の胸中から、白隠禅師の日常のはたらきを徹見した。それからは病気も次第に快復していった。喜びに堪えない東嶺は、そのことを禅師に書き送った。東嶺の手紙を見た禅師は大いに喜び、
「早く帰って来るように」
と返事をしたため、東嶺の帰山をうながした。東嶺は旅装を整え、松蔭寺に向かった。
松蔭寺に帰った東嶺に向かい、白隠禅師は自分の法衣を取り出し、
「わしは、この金襴の袈裟を着けて、碧巌録を四たび講じた。今、そなたに伝える。後世、断絶させてはならぬぞ」
と伝授し、東嶺は、その袈裟を押し頂いた。
この時から、師匠の白隠、弟子の東嶺、二人協議をしながら宗旨を立てていった。〈洞上五位〉や〈十重禁戒〉など、複雑な宗旨のこまごまとした解釈は、東嶺がよくそれを成した。白隠禅師の宗旨を大成した者は、東嶺和尚であると言わなければならない。そのため白隠下では、東嶺・遂翁の二大弟子のことを、“微細東嶺、大器遂翁”と呼ぶのである。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は東嶺円慈画賛「払子図」(禅文化研究所蔵)。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(5)越後の良寛さん―その3

 

161201.jpg近頃、囲碁の名人とAIコンピューターが勝負をして、やれコンピューターが勝った、いや、やはり名人が勝ったと、かまびすしいことですが、良寛さんにも、囲碁にまつわるこんなお話が二つ。

【和尚の碁打ち】
良寛和尚は、囲碁が好きで、負ければ機嫌が悪かった。
いつの年か、地蔵堂の庄屋の富取(とみとり)の家へ行き、碁を打ったことがあった。和尚はおおいに勝った。負けた富取は、怒ったふりをして、
「人の家に来た客が、その家の主人に勝つとは、無礼も甚だしい。以後、この家に来ることはならん」
と言った。
和尚は、その剣幕に驚き恐れ、顔色も青ざめ、富取家を出て、わたしの家へやって来られた。思案顔であった。わたしの祖父が、そのわけを聞くと、和尚は、
「地蔵堂の富取に勘当された」
と言われた。祖父は、
「わたしが良寛さまのために取り成ししましょう」
と言って、翌日、和尚と一緒に地蔵堂へ行き、前日の無礼を詫びた。和尚は、家の門口に立ったままで、中へ入ろうとはされなかった。事が終わってから和尚を呼ぶと、そこで初めて入って来られた。そして、またもや碁打ちにとりかかったという。
この話は、わたしがまだ生まれる前のことで、今は亡き清伝寺の観国和尚が話していたことである。

【賭け碁】
良寛和尚は、お金を賭けて碁を打つこともあった。多くの人は、わざと負けていた。そこで、和尚は、
「銭がたまってやり場がない」
とか、
「人は銭がないのを憂えるが、わしは銭が多すぎるのに苦しむ」
などと言っておられた。

『良寛和尚逸話選』(禅文化研究所)より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(4)越後の良寛さん―その2

今回も良寛さんです。有名な2首を紹介します。

【たくほどは風がもてくる】
長岡藩主牧野忠精(ただきよ)が、良寛和尚の人柄を慕い、新潟巡視の折り、わざわざ寄り道して、和尚の草庵を訪ねることになった。
その報せを聞いた村人は、和尚が留守の庵へ来て、庵の掃除や、庭の草引きをした。そこへ帰って来た和尚は、綺麗に掃除された庵を見て、
「こう草を抜かれては、昨夜まで鳴いていた虫も、すっかり逃げてしまって、もう鳴いてはくれまい」
と嘆いた。
しばらくして藩主が来たが、和尚は、一言も物を言わなかった。藩主は、和尚を城下に迎えたいと、ていねいに招いたが、和尚は黙って筆を執り、
たくほどは風がもてくる落葉かな
と書いた。これを見た藩主は、敢えて強制することもせず、厚く和尚をいたわって帰って行った。

【うらを見せ】
また、良寛和尚の句としては、
うらを見せおもてを見せてちるもみじ
が知られていますが、この句が生まれた背景には、深いものがあります。
一言では語れません。
中途半端で恐縮ですが、これで良寛さんを終えます。

私たちの心のコヤシになるのか、ただのザレゴトか。もうしばらく、禅僧の逸話をお届けします。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(3)越後の良寛さん―その1

いよいよ良寛さんです。この人には何の解説もいりません。
まずは、良寛さんの嗜好を紹介する2話です。

【酒は割勘(わりかん)】
良寛和尚は酒を愛された。しかし、度を越して酔いつぶれるということはなかった。だれかれと言わず、お金を出し合い、割勘で飲まれた。そして、
「あんたも一杯、わしも一杯」
と、誰かが得をしたり、損をしたりすることがないように、量も平等にしておられた。

【煙草なら後から来る】
良寛和尚は無頓着な性格で、物に執着するということがなかった。和尚は煙草(たばこ)が大の好物であったが、その煙草入れも、いくら人からもらっても、すぐに失ってしまった。ある人が心配して、六尺もある紐で煙草入れを帯に結んでやった。
そんなある日、一人の老婆が、和尚に煙草を進めると、和尚は、
「煙草なら後から来る」
と言った。
和尚の言葉を解しかねた老婆が、その後ろを見ると、和尚は、煙草入れを地面に引きずりながら歩いていた。

では、子供と遊ぶ無邪気な和尚の逸話を2話。

【かくれんぼうで一夜を明かす】
日も暮れやすい秋の頃、良寛和尚は、例のごとく子供達とかくれんぼうをした。
和尚は、刈り入れが終わって高く積まれた藁ぐまの中に隠れたが、夕暮れになり、子供達は、和尚を一人残して帰ってしまった。
翌朝早く、近隣の農夫が、藁を抜こうとそこへ行くと、奥から和尚が出て来た。驚いた農夫は、
「おや、良寛さま」
と叫んだ。すると和尚、
「黙れ、子供に見つかるではないか」と。

【天上大風の凧(たこ)】
良寛和尚が、ある宿場を托鉢(たくはつ)された時のことである。
一枚の紙を持った子供が、和尚のそばに来て、
「良寛さま、お願いだから、これに字を書いておくれ」
と頼んだ。そこで、和尚が、
「何に使うのだ」
と尋ねると、その子供は、
「凧(たこ)を作って遊ぶんだよ。だから、いい風が吹くように、“天上大風”と書いておくれ」
と言う。和尚は、すぐに“天上大風”の四字を大書して与えた。

この“天上大風”の四字は、良寛さんの代表的な書として、今に残っています。

『良寛和尚逸話選』より

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(2)九州博多の仙厓さん―その2

今回は良寛さんをご紹介しようと思ったのですが、やっぱり仙厓さんは、逸話の別格者。
今回もよりすぐりの2話をどうぞ。

【魚骨問答】
ある日、寺の世話をしている某が、聖福寺の本堂下を掘っていると、生々しい鯛の骨が現われた。某は、さっそくこの骨を持って仙厓和尚の前に行き、
「和尚さん、和尚さん。本堂の下からこんな骨が出ました。この寺に、こんな魚の骨があるようでは、困ったもんですな」
すると仙厓和尚、
「そうか、そうか。どうも今の小僧どもは弱くなったわい。わしの若い時分には骨も残さなかったもんじゃがのう」と。

聞くところによれば、あの厳しい僧堂でも、布施をされたものは、魚であろうが、お肉であろうが、ありがたく頂戴しなければいけないそうです。実は雲水さん、嬉しいのかな? でも布施する人も、摂心中などは駄目で、時と場合を選ばなければいけないようです。それではもう1話。

160826.jpg【忘れぬために礼いわぬ】
仙厓和尚は、人に礼を言わない人であった。そしてその言い草が面白い。
「礼を言うと、折角受けた恩が、それきり消えるような心地がするから、いつまでも、恩を有り難く思っておるために、礼を言わないのだ」と。

仙厓さんは、人から布施を受けても、また何か世話をしてもらっても、ただ黙って低頭するだけで、別にお礼を言われなかったそうです。お礼を言われないことについて、こんな逸話があります。

ある雨の日、仙厓さんが聖福寺に近い町中で、下駄の鼻緒(はなお)が切れて困っておられると、近所の豆腐屋の女房が見付けて気の毒に思い、早速、仙厓さんのところへ行って鼻緒を立て替えてあげた。しかし仙厓さんは、ちっとも礼を言われず、ただ黙って低頭して帰られた。その後、女房が仙厓さんに会っても、やっぱり礼を言われないからムッとした。けしからぬ坊主だと思った。女房、某に向かい、
「仙厓さんは、えらいお方だと皆が言うけれども、ちっともえらくはない。雨の日に仙厓さんが下駄の鼻緒を切って困っておられるから、私が鼻緒を立て替えてしんぜたのに、一言も礼を言われない。あんな礼儀知らずの坊主ったらありはしない」
と、プリプリと怒っている。某はお寺に行ったついでに仙厓さんにこの事を語ると、
「礼を言やあ、それですむのかい。わしはもう一生忘れんつもりじゃったに」と。

仙厓さんの深い心も分かる気はしますが、やっぱり、「ありがとう」と言おうよ。その言葉ひとつで救われたり、希望が持てたりしますから。
次回は、良寛さんの登場です。お楽しみに。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

逸話(1)九州博多の仙厓さん―その1

禅宗のお坊さんは、時として、まったく奇妙な行動をなさいます。
これからしばらく、そんなお話を紹介しますが、笑うもよし、ウウーーンと考え込まれるもよし、どうぞ、ご一読下さい。
まずは、九州博多の聖福寺におられたセンガイ(仙厓)さんの話です。

【父死子死孫死】
黒田藩の重役某が和尚に面会して、
「めでたい語を書いて下され」
と依頼すると、和尚、
「よしよし」
と言ってすぐさま筆を執り、
父死子死孫死
の六文字を書いて与えた。某は眉をひそめて、
「めでたいことをお願いしたのに、死を並べて書いて下さっては、かえって不祥のように思われます」
すると和尚が言った、
「そうでない、孫死して子に先立たず、子死して父に先立たず、家に若死にがないほどめでたい事が世にあるか」と。
某もその意がわかり、おおいに喜んで頂戴して帰ったという。

この逸話は、正月の出来事であったという説もあり、やっぱり少しやりすぎかな? それではもう1話。

160825.jpg【踏み台となった仙厓和尚】
仙厓和尚のもとには多くの雲水が入門していた。聖福寺の近くには花街があったために、中には行ないの悪い雲水もいて、夜間ひそかに屏を乗り越えては花街通いをする者もいた。その屏が高いので、僧たちは、その下に踏み台を置いて登り下りしていたのである。
しかし、こんなうわさが師匠の仙厓和尚に伝わらないはずがなかった。みずからの不徳を恥じた仙厓和尚は、ある夜、彼らの帰る時分を見はからって、屏のところへ行くと、その踏み台を取りのけて、そこに坐禅して帰りを待った。
そんなこととは知らない雲水たちは、夜明け近く、こっそりと帰って来て、外から屏をよじ登って、さて内側に下りようとすると、どうしたことか、あるべきはずの踏み台がない。はて、どうしたことかと怪しみながら足でさぐってみると、ともかく踏み台の代用らしきものがあったので、それに足をかけてようやく下に下りた。
さて、下に下りて星明かりにすかして見ると、あろうことか、踏み台代わりにしたのは、何と師匠の仙厓和尚の頭である。さすがの悪僧どもも色を失い、その場に平伏した。

余りにも有名な逸話ですが、お弟子さんを思うお師匠さんの気持ちが伝わって来て、いつ読んでも好きな話です。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (1)  | Trackbacks (0)