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サンガセミナー 「創作精進料理講座 ―この一皿が今の自分」


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おはようございます。
次回サンガセミナーのごあんないです。
10月18日(火)に、「創作精進料理講座」を開催します。
講師としてお迎えするのは、宮本しばにさんです。

標高1650mの山の上のログハウスに住まわれるしばにさん(上写真はご自宅近くの牧場)。
お邪魔するたびに、美味しい野菜料理をいただき、ぐっすり眠り、リラックスしていると、下界(都会)に暮らしていたのではわからない、様々な気づきがやってくるような場所です。

「この一皿が今の自分」と仰います。どんなに美味しいレストランとも確かに違うその澄んだお料理のお味は、彼女の生活、彼女の今の全てが一皿に投影されているからなのでしょうか。

160729-3.jpgバジル入り卯の花のレシピ

1年365日、日に2~3回、私たちは“食べる”事をほぼ欠かしません。毎食に、その時の自分というものが否応無しに出るのです。
でも、「やらなければならないこと」ではなく、大人のおままごとだと思って創作を自由に楽しみ、大胆にかつ丁寧に、食材の良し悪しや、作る時の気分に左右されず、どんな状況でもそれを「よし」として料理に向かう。


“日々是好日”ということばを引用し、日々の料理への向き合い方を、しばにさんが本の中のエッセイで伝えてくれています。
弊所前所長・西村惠信先生が、ご著書の中で「禅はどこにでもころがっている」と仰っていましたが、自身の生活ではなかなか感じられないのが、それを一番に感じさせてくれた方です。

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彼女が作る料理の味というのは、言葉で表現すればするほど虚しくなるほどですが、いつも、レシピを考える時や仕事をされている時の凜とした緊張感と、大自然に抱かれ暮らす弛緩の時、どちらも自在に楽しんでいらっしゃるように思えます。

世界のベジタリアン料理を実際に自らの舌で味わい、感じて来た彼女から、「お寺の精進料理」とはまた少し趣を変えた創作精進料理、そんな一皿と向き合ってみませんか?

ちなみに、レシピ本も何冊か出されていますが、その通り素直に作ると、自分の料理とは思えないようなびっくりな美味しさのお料理ができあがってしまうのです。
それも皆さまに体験していただきたいなと思います。

ご参加、お申込みはこちらからどうぞ。
皆さまにお目にかかれるのを心待ちにしております。どうぞ宜しくお願い致します。


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【宮本しばに・プロフィール】
*創作野菜料理研究家
studio 482+店主

1999年縲鰀2013年まで、料理教室「ワールドベジタリアン・クッキング」を開催。
東京、神戸、長野などで世界の野菜料理を教える。

2014年10月「studio482+」を立ち上げる。
「キッチンに立つ人のための’おいしい’食の道具」をコンセプトにキッチン雑貨の販売、料理教室、ワークショップ、料理レシピ開発、執筆活動を行っている(只今、すり鉢のレシピ本を執筆中。10月発売予定)。

 
2015年5月縲怎~シマ社の「みんなのミシマガジン」(ウェブマガジン)で「みんなのおむすび」連載中。「みんなのおむすび」はこちら

 
著書
*焼き菓子レシピノート縲恬曹ネし・乳製品ひかえめのレシピ集縲怐@(旭屋出版)
*野菜の365日縲怩オばにさんちの食卓(旭屋出版)
*野菜のごちそう縲怩オばにさんちの食卓II (旭屋出版)
*ベジタリアンの美味しい食卓(自費出版)


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坊さんはなぜ頭をそるのか?

小生が京都に来た時に常宿(じょうやど)にしている、ある宗門経営のホテル(旅館)がある。

ちなみに、ホテルと旅館との区別はなく、経営者が任意に選んでいいらしい。古風さを出したければ旅館、新しさを出したければホテル。そういった具合らしい。

そのホテルにチェックインしようとしてフロントに行った。

「ハイ、○○さまですね」「ハイ、そうです」と、一通りの手続きが終わると、その受付の男性(僧侶ではなかった。僧侶の時もある)が、二つの小さなカゴを少し押し出して言った、「カミソリとヘアブラシは部屋に置いておりませんので、ここでお持ち下さい」と。

小生は坊主なので髪の毛がない。
「カミソリはもらいますが、ヘアブラシは……」と、苦笑いを浮かべた。すると、その男性も、苦笑いを浮かべた。少しコッケイであったが、何だか楽しかった。宗門経営のホテルといっても、小生が見る限り、宿泊者は、ほとんど普通の旅行者である。なにしろ、費用が安い。その男性も、日常の言葉がつい出てしまったのだろう。

気にも止めなかったが、なぜ、坊さんは髪の毛をそるのだろう。神様がせっかく防御具として与えて下さったものなのに。戒律を記した経典には、半月に一度そりなさいとある。その理由は、諸縁を断ち切ることであるらしい。

 

160728.jpg臨済禅師・白隠禅師遠諱記念報恩接心より


修行道場にいる雲水は、四九日(しくにち)、毎月、4と9とがつく日に頭をそることになっており、諸縁を断ち切って、仏道修行に専念する。

しかし、古い中国の坊さんたちの肖像画を見ると、有髪、それも長髪の人が多い。これは、どういうことだ。もはや諸縁を断ち切っているから、剃髪(ていはつ)はいらないということか?

日本の仏教者は、現実社会のなかで活動し、仏法、慈悲、小欲を説いている。当然、妻もおれば、なまぐさも食べる。しかし、小生は、日本の仏教は、究極的な宗教の形態だと思っている。

そこで、なぜ髪の毛をそるのかと改めて考えた。えらそうなことは言えないが、現実社会のなかで活動していても、自分は僧侶なのだという自覚を忘れないため、人々につくすために生きているのだということを忘れないため、言葉は悪いが、髪の毛をそるというのは、一種のタトゥーではないのかと。

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編集部の仕事と新刊『禅に親しむ』

 

2016-07-26-10.30.40.jpgブログ禅で6月に書いた「長岡禅塾訪問」で少しご紹介したが、今、長岡禅塾副塾長の北野大雲老師の著書『禅に親しむ』を最終校正をしているところです。

禅文化研究所編集部は早くからDTP(デスクトップパブリッシング)を導入し、テキストファイル状態から、本の形にレイアウトするところまで内製化していて、筆者と編集者の間で何度かの校正ゲラのやりとりを終えた後、最終的な版下データをPDFファイルに出力して印刷会社に渡し、印刷会社で刷版をつくって刊行にいたっています。

ちなみに、現在はInDesignといった組版ソフトを使い、カバーなどの装丁にはillustratorというソフトを使っています。ほかに写真の処理にPhotoshopも頻繁に使います。

さて、こうして編集部で出力したPDFデータを、印刷会社では刷版データにしますが、概ね、1枚の大きな用紙(全紙)に表裏で16ページ分になるように大貼りした刷版データが作られます(本の判型によって異なります)。
その刷版から出力された大きな紙を3回折り曲げてから切り出してまとめていくと、上の写真のような校正紙になります。写真印刷の頃はデータではなくフィルムで出力されたので、そのフィルムを青焼き機で複写して校正紙が届けられましたが今はもう懐かしいことです。

あんなに何度も校正をしたのに、この時点でまた誤字脱字が見つかったりして、悲しい気分になりますが、修正の入ったページだけをまた出力して印刷会社にわたして、差し替えて貰うというわけです。

こうして今週末には校正を終えて、印刷会社に責了をします。8月には印刷製本となり、9月16日に発刊予定。

すでにご予約を受付中です。
禅僧の濱地創宗さんの愉快な挿絵も入って読みやすく仕上げています。是非、お読み下さい。

禅に親しむs.jpg 『禅に親しむ』 北野大雲(長岡禅塾副塾長) 著
ISBN978-4-88182-299-9 C0015 ¥1300E
B6判並製 244ページ
定価 本体1,300円(税別)

 

 

 

 

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大茶の湯釜展 -MIHO MUSEUM-

 


160726-1.jpg滋賀県のミホミュージアムを訪れました。
恐らく釜のみの展覧会でこれほどの規模のものは初めてなのでは?!と思うのですがいかがでしょうか。

「大茶の湯釜展-茶席の主-」。
副題に「茶席の主」とあります。確かに客の席入り前から見送り後までずっと鎮座まします茶の湯の釜。茶会を催す事を「釜を掛ける」とも申しますし、そうもとれなくはないのかもしれません。
個人的には「主」とまで言ってしまうのはどうなのだろうと思うのですが、まだまだわかっていない証拠でしょうか。

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長年茶の湯の稽古は続けていても、一つ一つの道具となると意外と詳しいところまでは知らない事も多く、改めて学ばせていただきました。

ただいま少し稽古を中断しておりますが、最後に濃茶を点てる映像(釜の音の変化を聴く為のVTRが流れていました)を観て、茶室での様々な音を聴いておりますと、点前をする時のあの心地よさ、精神の落ち着きを感覚的に思い出し、なんともいえない気持ちになりました。
少し離れる事でまた、新たに深まるおもいもあるものだな……と思った次第です。

今週末、7月31日まで。是非おでかけください。

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季刊『禅文化』241号発刊のお知らせ

 

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表紙:重要文化財 翁(白色尉)/弥勒作・観世文庫蔵



今季は、禅と文化の関わり合いをクローズアップ。「禅と能」を特集しています。

禅は能にも影響を与えているといわれますが、では実際どのような繋がりがあるのでしょう。体系的につまびらかにできればと、禅門・能楽界・学界の皆さまにご協力いただき一冊にまとめました。

内容を一部ご紹介いたします。

まずは現場に立つ方のお話から探るべく、有馬賴底老師(相国寺派管長)と観世清和氏(第26世観世宗家)に語らっていただきました。それぞれの道を牽引されてきたお二人には、心身両面に多くの共通点があることがお話の中でどんどん見えてきます。興味深い巻頭対談を、能楽に造詣の深い土屋恵一郎教授(明治大学学長)のナビゲートでお楽しみください。

翻って、論攷では室町時代の「禅と能」に目を向けます。“世阿弥の芸論”と禅の繋がり、一休禅師が金春禅竹の能に見出したという“禅の心”などを、能楽研究の第一人者である天野文雄氏(京都造形芸術大学舞台芸術センター所長・大阪大学名誉教授)と松岡心平氏(東京大学教授)が述べてくださいました。

まだまだ続きますので、詳しくはもくじをご覧いただけましたら幸いです。

深い世界のあくまで一部を見るに過ぎませんが、宗教界・能楽界・学界、いずれかの視点に偏ることなく「禅と能」の関係を考察できたことには、一定の意義があるのではないかと思います。

よろしくお願いいたします。

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梶谷老師の墓参り

 

160722.jpg私の修行僧堂の師家であった梶谷宗忍老師(1914~1995・相国寺派前管長)の墓参に行ってきた。
墓は平成8年1月に一周忌を迎えるにあたり、相国寺から分骨して老師の生誕地である大分県佐伯市西野浦に建立されたものである。
大分には仕事の関係で何度も訪れているが、これまでなかなか足を運ぶことができなかった。今回は、修行時代の先輩にあたる方の新忌斎(49日法要)が佐伯市の寺院であり、法要後、参列した会下(僧堂OB)の方の呼びかけで実現した。

墓は入り江から山麓にかけて建ち並ぶ集落のはずれにあり、生家の墓の隣りに建てられている。
皆で線香を手向け大悲呪一巻を諷経。会下と共にお参りしたからか、僧堂を出て数十年が経つが、当時の自分に戻った思いがした。

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ムクゲの花―1日を懸命に生きる

160721.jpg今年も小生の山寺にムクゲが綺麗に咲いてくれました。いかにも弱々しい、あやうい花です。しかし、こう感じるのは、小生が日本語録や漢詩にドップリと浸かっているからでしょう。

日本の引導法語(僧侶が葬式に唱える法語)でもっとも多く用いられる花は、槿花(きんか)と書かれるムクゲだと思います。なぜか。それは、白居易が「放言五首」詩の第五詩で「松樹千年なるも終(つい)に是(こ)れ朽(く)ち、槿花一日なるも自(みずか)ら栄(えい)を為(な)す」と歌うように、ムクゲの花は、朝開き、夕方には落ちると言われるからです。また、その短い命を、すぐに乾く朝露にたとえて、露槿(ろきん)とも言います。

松は「松樹、千年の翠(みどり)」などと歌われるように永遠を象徴します。一方、ムクゲは「槿花、一日の紅(くれない)」などと歌われて無常を象徴します。禅者は、松を見、ムクゲを見て、永遠即無常、無常即永遠を悟るのだそうです。

小生が好きな「槿花」の詩があります。伊達政宗の教育係だった、仙台の虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚の詩です。

朝槿(ちょうきん)、籬(り)に傍(ぼう)して、涼露(しょうろ)清し、残葩(ざんぱ)、暮鐘(ぼしょう)の声(おと)を待たず。
若(も)し花、語を解(よ)くせば、松に向かって道(い)え、千歳(せんさい)の春秋、一日(いちじつ)の栄(えい)と。

というものです。この詩も、白居易の「放言」詩をモチーフにしたものです。つたない意訳をすると「朝、花を咲かせたムクゲは、まがきに寄り添い、すがすがしい朝露を帯びている。しかし、長くは保たず、その散り残った花でさえ、暮れの梵鐘が鳴るのを待たずに散って行く。ムクゲよ、もしも言葉がしゃべれたなら、松の木に言ってやれ、『あなたの千年の翠(みどり)も、この1日のわたしの栄華と同じことなのよ』と」。

1日を懸命に生きているこの花を見ると、お盆の近づいたことを知り、人生のはかなさを知り、故郷の母の安否が気にかかり、死んでいった多くの知人のことが思われ、短くても、そこには永遠(とわ)の人生があったのだなと、あらためて気づかされます。

最後に無粋な話になりますが、小生が山寺のムクゲを見ているかぎり、1日では落ちません。確かに命は短く、地面には沢山の花が落ちていますが、2、3日はもってくれます。それがまたいとおしくてならず、思わず「ガンバレッ」と声をかけます。しかし、ムクゲはきっと小生に向かって「あなたの命もわたしと同じなのよ」と語っているのでしょう。このムクゲのように、1日1日を懸命に生きようと思うのですが、ついつい千年の松をうらやんでしまう愚か者です。

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水鏡

 

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山鉾巡行(前祭)も終わり、いよいよ本番を迎える京都の夏。
涼しげな主菓子と、大好きなガラス作家さんの器から、涼を得ます。 

何でも無い、シンプルなように見えて洗練された菓子の意匠と、私がいつも好んで水を汲んでいる同じ井戸の水が使われている事からも気に入っている菓子屋のもので、御名は「水鏡」です。

菓子の意匠や名前1つにも、日本の文化と四季の豊かさが感じられ、しみじみ有難く思います。

「暑いならその暑さになりきる事だ……」と僧堂などでは老師の叱咤激励が飛ぶのでしょうが、凡夫はなんとか暑さを凌ごうとあれこれ工夫をしてみるのでした。

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ツバメの子育て

 

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近くのスーパーの監視カメラの上にツバメが巣をかけて子育てをしていた。小さめの巣に、3羽の雛が頭を並べているのが見える。

以前は私の家にも毎年ツバメが飛来していたことを思い出し、買い物に行くたびに彼らの巣を覗くことが習慣となった。そのうち体が巣からはみ出るほど成長し、いつのまにか姿は見えなくなった。無事に巣立ったのならいいが、厳しい世の中なので、どうなったかはわからない。

考えてみれば、こんな街中で、巣の材料の泥はどこから運んで来るのだろうか。そもそも、餌は充分採れるのだろうか。おそらく随分遠くから運んで来るのだろうが、そうした苦労は並大抵ではないだろう。
彼らの営みはごく自然な、本能的なものに過ぎないのかも知れない。しかし、条件の悪い場所で懸命に子育てをする彼らの姿を見ていると、様々な感慨が胸に去来するのを禁じ得ない。

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人の不安の声を聞く

 

20160714.jpg先日こんなことがありました。

暗くなってから自坊に帰ると閑栖和尚がいうに、近所に老夫婦だけで住まわれている檀家のAさんのご主人の方からついさっき電話があって、「嫁さんが見当たらんけど、お寺にお邪魔していないか」と聞いてきたと。
来られた様子がないので、「みえていないですよ、と答えたが、心配だから、お前も探しに行ってやってくれ」といわれました。私はさっそく懐中電灯をもって、ともかくAさんのおうちへ行ってみて尋ねると、さっき出て行ったきり帰ってきてないとのこと。このAさんの奥さんは、認知症ではないけど、物忘れ症候群のようで、ちょっと心配になります。

Aさんにどこか奥さんが行かれそうな心当たりはないかときいて、その心当たりのお宅へ向かいました。
そのお宅の奥さんと話してみると、「みえていたけど、さっき帰られましたよ。おうちの二階ででも眠ってられるんじゃない? じつは明日、○○○なことがあるらしくて、それが嫌でここに来ていろいろ話されて帰られたのよ」とのことです。
それでまたAさん宅にもどって、二階に寝ていないか確認して貰ったところ、「二階で寝てましたわ」って。帰られていたのに気がつかなかっただけだったんですね。ホッとして、「よかったですね、おうちにおられて」、「いやいやご迷惑をかけました」と、声を掛けあって帰った次第です。一応はこれで一件落着。

じつはこの「○○○なこと」というのは、このAさん夫婦の娘さんが、母親の物忘れ症候群を心配するあまり、Aさんと相談してデイケアサービスのお世話になろうとしているらしく、その件で、明日、ケアマネさんが来たりするとかで、Aさんの奥さんはそれが不安で、夜も眠れないと言っていたということなのです。

世の中にはこういう方がたくさんおられることだろうと思います。かくいう私の母も物忘れ症候群の一人。通院はしていますが、もっと社会や人と関わって欲しいと思うのに、寺でじっとしていることがほとんど。Aさんの娘さんのように、ケアマネさんに相談しようと思うのも当然でしょう。

でも、自分は大丈夫と思うお年寄りたちは、プライドもあり、逆に不安もあることでしょうから、嫌がるのもわからないではありません。

家族や親族、あるいは和尚と檀家さんという関係でなくても、こういったことに直面することが、今後どんどん増えてくることは、火を見るより明らかです。では私たちはどう対応していったらいいのでしょうか。

Aさんの奥さんは、ご主人に不安を言えないわけで、近所で親しく話を聞いてくれているおうちで、不安を語っていたわけです。
ターミナルケアまで見据える事も大事ですが、まずは人の声を聞く。これは大切な事だと思います。
今回のことで、改めていろいろと考えさせられました。

さて、禅文化研究所の今年のサンガセミナー、来週(7/20)の講座では「傾聴講座―カウンセリング技法に学ぶ傾聴の本質と実際」と題して、花園大学学長の丹治先生に講義いただきます。午後には村田真彌子さんによる「香りを知る」講座も開かれます。まだお申し込み可能です。

傾聴講座
―カウンセリング技法に学ぶ傾聴の本質と実際

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ホトトギスの鳴き声

さすがに我が山寺も「ホーホケキョ」は消え、「テッペンカケタカ」の大合唱である。ホトトギスは群を作らないから、大独唱と表現すべきか。もちろん「テッペンカケタカ」と鳴くのは、ホトトギスである。

日本では、「子規」の字が当てられることが多い。「子規」は、唐詩にも見える古い言葉だが、明治30年に創刊された俳句雑誌「ホトトギス」を主宰した正岡常規(つねのり)の号「子規」から、一躍有名になったものか。

正岡子規は三十四歳の若さで亡くなるが、長く結核を患っていた。周知のとおり結核は血を吐く。それが、ホトトギスがしきりになくことを形容する「子規啼血(子規、血に啼く)」の詩句とあいまって、「正岡―子規(ホトトギス)―結核―吐血」の構図となるのであろうが、正岡が子規の号を用いたのは結核を患う前だから、声高に鳴くホトトギスを、我が苦吟に重ねたと見るべきであろう。あるいは、正岡が我が将来を察知していたと見ることもできるか。

160714.jpgさて、小生が勉強している日本語録では、ホトトギスは、多く「杜鵑」と表記される。少し堅苦しくなるが、「杜鵑」は、以下の伝説による語である。

「蜀の後主、名は杜宇、望帝と号す。位を鼈霊(べつれい)に譲り、望帝、自ら逃る。後、位に復(かえ)らんと欲(ほつ)するも得ず。死して化して鵑(けん)と為(な)る。春月の間毎に、昼夜、悲しく鳴く。蜀の人、之れを聞いて曰く、『我が望帝の魂か』と」(『太平寰宇記』)。

つまり「杜鵑」は、帝位に戻りたいと願ったが、その願いがかなわないまま死んだ蜀の望帝、名は杜宇の亡魂が、この鳥になったという伝説に基づくのである。

そして古人は、この鳥の鳴き声を「不如帰去(プールーグィチュ)」と聞いたのである。訓読すると「帰り去るに如(し)かず」。意訳すると「さあ帰ろう、さあ帰ろう」「帰ったほうがいいよ」などとなる。ホトトギスの別名を「不如帰」と言うのは、ここから来ている。これは、望帝の魂を慰める、その臣下達の声を表現したものであろう。

「杜鵑」「不如帰去」は、日本の禅録でさんざん用いられ、「迷いの娑婆世界におらずに、本分の故郷(悟りの世界)に早く帰ろうよ」という意に用いられる。

そう考えると、日本語の「テッペンカケタカ」は、「天辺=天上・悟りの世界(テッペン)に高く飛んでいるか(カケタカ)」の意かも知れない。もちろん小生の勝手な深読みである。

都会に住んでおられる多くの読者には、「ホーホケキョ」も「テッペンカケタカ」も聞こえないでしょうが、人の心は奥深いもので、「ホーホケキョ」も「テッペンカケタカ」も聞こえて来ます。それを手助けするのが漢詩や語録だと思います。

ウグイス・ホトトギスと続けましたが、何かご希望のテーマがあれば教えて下さい。なければ、次は、漢詩や日本語録に出てくるお花について無粋な話をします。

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『開甘露門の世界 -お盆と彼岸の供養』野口善敬著

 

160708.jpg故人との距離がぐっと近くなる季節がやって参りました。

餓鬼道に堕ちた者、父母祖父母、祖先のみならず、三界万霊、つまりはよろずのものを供養する盂蘭盆会(施餓鬼)。各寺院において、7月15日(または8月)に法要が営まれます。

「他を供養するとは、つまり自身をも救済する事に繋がる……」と、この本に説かれていますが、一体どういう事でしょう?

自他をわけない。全ての存在が、見えはしなくてもお互いに共鳴し、影響しあっている。「自分さえよければ良い」の世界ではない……という事でしょうか。

160708-2.jpg例えば、「あなたのご先祖様の1人でもいなければ、あなたはここにはいないのだよ」とよく言われます。もちろんその通りです。そしてさらに、そのご先祖様に関係した方が1人いなくても、私達は存在しないかもしれません。自身のわかり得ぬところで、知らない人とのご縁が実は繋がってもいるものです。

あらゆるものを供養する事は、見える物のみならず、見えない物への感謝の心を育む事に繋がり、自身が生かされている事への実感を促します。さらに、開甘露門の中には実際にお釈迦様が弟子(阿難尊者)に向かい、餓鬼道に落ちない方法をも説かれてる場面も出てきます。

我が母などは、“なんとなく大切な事・毎年の行事”としてお盆やお施餓鬼を迎えていたようですが、この本を読み、きちんとした意味を知り、いたく感動していました。

何故葬式が必要なのか、何故法事ごとが必要なのか、彼岸やお盆の供養の意味など、きちんとした意義を知ればまた、それらに対する思いも深まってゆくものかと思います。
この夏は施餓鬼やお盆の供養について、僧侶に尋ねるもよし、自身で読んでみるもよし、是非手に取っていただきたい書籍です。

『開甘露門の世界 -お盆と彼岸の供養』 野口善敬著




*サンガセミナー、「香りをしる」「傾聴講座」来週いっぱいお申込み受け付けております。ご参加お待ち申し上げております。

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「ホーホキョ」から「ホーホケキョ」へ ―ウグイスの学習


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小生の山寺では、7月だというのに、まだウグイスが鳴いている。一方では、ホトトギスも鳴いている。こちらでは「ホーホケキョ」、あちらでは「テッペンカケタカ」と、無風流の小生にとっては、やかましくてしょうがない。

こんなウグイスを、「残鶯」「晩鶯」と言う。また、「老鶯」という言葉もあるが、これは、老練の鶯という意味で、上手に鳴くウグイスのこと。これに対して若々しいウグイスを、「出谷黄鶯(谷を出ずる黄鶯)」と言う。これは、春、低い谷間から出て、高い木に移って鳴くウグイスのこと。
『詩経』小雅・伐木(ばつぼく)にある「木を伐(き)ること丁丁(とうとう)たり、鳥鳴くこと嚶嚶(おうおう)たり、幽谷より出でて、喬木に遷る」という歌によるもの。この時期のウグイスはまだ未熟で、鳴き声も「ホーホケッ」とか「ホーホキョ」とか、まったく下手くそである。

さて、そんな若いウグイスの声を、先人達はどのように表現したのか。五山文学の詩題に「鶯誦蒙求(鶯、蒙求を誦(よ)む)」とあり、繰り返し練習するかのように鳴く若いウグイスを、『蒙求』を繰り返して読む子供になぞらえたのである。『蒙求』は書名で、四字の二題を対として古人の逸話を網羅した、初学者向けの教科書的なもの。たとえば、「孫康映雪・車胤聚蛍」は、唱歌の「蛍の光、窓の雪」の典拠となった。「鶯誦蒙求」の一例を示せば、春屋宗園(一五二九~一六一一)の『一黙稿』に「鶯は蒙求を誦み、燕は論語、少年努力す、読書の声」とある。

昔の人は、若いウグイスの声を聞いても、「下手くそやなあ」などとは聞かずに、「よう勉強しておるなあ」と聞いたのである。来年の春、若いウグイスの声を聞かれた折りには、「よう勉強しておるなあ」と聞いてみて下さい。我が身のはげみにもなりますよ。

次回は、「テッペンカケタカ」と鳴くホトトギス(杜鵑・子規)のことを少し紹介します。

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俺たちの国芳わたしの国貞展

 

2016-07-02-12.53.jpg神戸市立博物館で展観されているボストン美術館所蔵「俺たちの国芳わたしの国貞」展を観て参りました。

歌川国芳と歌川国貞などの浮世絵師によって描かれた浮世絵は、江戸から明治期に、その美しさ、奇抜さに惹かれた医者のウィリアム・ビゲロー(1850-1926)たちによってその多くが海外に持ち出され、今はボストン美術館に多数所蔵されています。100年ほどたって、最近ようやく14000枚もの浮世絵のアーカイブが整理されたとのことで、その中から厳選されたものとはいえ、この二人の浮世絵がこれほど多く一同に公開されるのは初めてとのことでした。

水滸伝の登場人物で、「花和尚」と呼ばれカラクリモンモンで有名な魯智深から始まる、水滸伝の登場人物を日本の歌舞伎役者に当てはめて描かれていたり、当時の花形役者を並べて描いたり、ホラー的な絵があったり、歌舞伎の楽屋裏を描いたりと、広範囲でユニーク。書かれている文字も漫画的であったり、非常に楽しむことができました。

2016-07-02-13.03.jpgそして、驚くことに、7月末までの期間限定ではありますが、場内をこのようにスマホなどで撮影することが許可されていて、それをどんどんSNSにアップして欲しいとのこと。それぞれの絵には丁寧なキャプションがありましたが、その他に、絵の上部には一行のコメントが付されていて、それがまた若者ウケしそうな内容。「花形役者」の横には「アイドル」とルビがあったり、この展覧会に若者達を呼び寄せ、浮世絵に興味を持って貰おうという主旨がはっきり見て取れました。

それから、猫好きだった国芳ならではの猫満載の絵も。可愛い猫や化け猫があちこちで登場します。

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猫だらけでしょう?

会期は8/28まで。夏休みに入ると混み合うかも知れませんが、いまのところは、ゆっくり観ることができました。暑い夏です。お近くにおいでの際は、涼みがてらいかがでしょうか。

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