カテゴリー:「禅のことば」


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新型コロナウイルスにおける社会現象に思う

 

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新型コロナウイルスは、世間、どころか世界を騒がせていますね。世界中が大慌てです。
日本でも、時差通勤だ、テレワークだ、学校は休みだ、行事は中止だ、クラスターの連鎖を防げだとか……。
私も電車通勤しておりますが、あきらかに乗客が減っています。なにもかも中止の一途で寂しく閉塞感があります。

また新聞では、「ぜんそく患者が電車に乗るのが恐い」とまで感じておられる方の記事も見られました。私も「咳ぜんそく」ですし花粉症なので、その影響で咳をしたりしてしまいますが、ホントに嫌な眼で見られたりしてストレスを感じてしまっています。

しかし……
マスクがないからと、それに乗じて転売して一儲けなどしている人もいるようですが、そんな貪るようなことをしてはいけません。足りない人に分けてあげましょうよ。
ライブに行っていたからうつされたとか、たとえ感染しても、他人を恨んではいけません。クラスターにいたからと、それを持ち込んだとされる人に瞋りを感じてはいけません。自分がその人だったらどう感じますか?
トイレットペーパーがなくなるというデマが流れて、薬局やコンビニに走ったり、売ってないじゃないかと店を愚痴るような愚かなことをしてはいけません。慌てない慌てない。

感染してしまった人が悪いわけではありません。売り切れてしまっている店が悪いのでもありません。ウイルスそのものが悪いのでもありません。貪り、瞋り、愚痴る自分の心が煩悩に染まっているのです。

お釈迦様は貪・瞋・癡という人のおちいる三毒を説かれました。三毒に陥るから苦しいのです。お釈迦様はこの三毒から解放されるように教えを説かれました。

お釈迦様が涅槃に入られることとなったのは、チュンダという信者が振舞ったご馳走(トリュフ)に毒が含まれていたからという説があります。お釈迦様が亡くなる原因を作ってしまったとチュンダは嘆き、お釈迦様にお詫びしてもしきれないほどだったでしょうが、当のお釈迦様はそのチュンダを恨むどころか慰め、供養されたご馳走に感謝されるだけでした。

我が身を以て三毒に陥るようなことがないように示されたのだと思います。

我が国民を守るために?、中国や韓国からの入国を禁止したりして、国を挙げて三毒に陥っている現況です。なんとも浅はかとしか言いようがありません。
今こそ、仏智を観じて、皆さん一人一人が落ち着いて我が身を調えませんか。分かち合い、助け合い、思いやりをもって、ともに生きていくのが大乗仏教の智慧ではありませんか。

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本堂の屋根の上に

 

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昨日夕方のこと。境内の梅林もだいぶ花をほころばせているので、カメラを持って出てみました。

ご覧の通り、いい香りをさせてきれいに咲いていたのです。7部咲きといったところでしょうか。まだ蕾の多い木もありました。ただ、今年はあきらかに花が少ないですね。ここにも異常気象の影響がでているのかもしれません。

この花を撮るために境内に出たとき、ふと本堂の屋根を見上げると、ちょうど真ん中になにやらいるではありませんか。

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アップしてみてみましょう。

_MG_3611up.jpgあっちを向いているのですが、どうやら、鷺のようです。近くの川にコロニーがあるので、近くの田んぼなどでもよく見かけます。こっちの気配には気づいていないようですので、カメラを構えて、敷石をトンと踏みつけてみたところ、気づいて飛び上がりました。

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後ろ姿だと小さく見えたのですが、羽を広げるとやはり大きいですね。どうやらアオサギのようです。
屋根の上で休憩していたのか、あるいは夕陽でひなたぼっこをしていたのかもしれませんが、驚かせてごめんなさい。

お詫びに、鷺についての禅語を列記しておきましょう。たくさん有りますね。

「明月藏鷺」「鷺鷀立雪非同色」「烏不染黒、鷺不晒白」「銀盌盛雪、明月藏鷺」「山果青猿摘、池魚白鷺銜」「白鷺沙汀立、蘆花相對開」「白鷺下田千點雪、黄鶯上樹一枝花」などなど。

烏が黒に対して、鷺は白の代名詞のようです。

「鷺股割肉」[鷺股に肉を割(さ)く]なんて禅語もあります。この写真をみれば一目瞭然。鷺の股に肉なんてついてませんもの。しかし、無いけれども、そこをさらに奪い取れという、ギリギリの厳しさを表わした言葉ですね。

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タバコはマナーを守りましょう

 

一日に40本のタバコを吸うヘビースモーカーの小生は、耳の痛い語録にブチ当たってしまいました。煙草(タバコ)は、慶長年間(1596~1615)に、日本に移入されたと言われていますが、江戸中期の坊さんが、こんな誡めを残しておられたのです。

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煙艸(たばこ)は、仏制に無しと雖(いえど)も、……不如法なること知んぬべし。蓋(けだ)し仏世に此の草無し。……或いは説法の座、或いは懺法、施餓鬼、曁(およ)び法事に就(つ)いて誦経する処、三宝の尊前、都来(すべ)て之れを禁ず。大いに礼儀を失して壇場を汚すこと、之れに過ぎたるは罔(な)し。

『大蔵宝鑑録』「見江山大蔵禅院清規」(明石市・大蔵院蔵)より

タバコのマナーは、古くから言われていたのですね。

ヘビースモーカーの小生も、自分の仕事部屋と、喫煙所以外では、絶対に吸いません。何だか、JTの宣伝みたいなブログになりましたが、喫煙者の皆さん、よろしくお願いします。

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夏を乗り越えよう

 

blog_MG_2821.jpg5月も半ばに入り、そろそろ、うだるような真夏がやって来ます。そこで、素晴らしい納涼の漢詩を1首ご紹介します。先のブログにも取り上げた、仙台藩4代藩主、伊達綱村公の詩です。

「夏日遊若林即興」     夏日、若林に遊ぶ、即興
月上破橋前、     月は上る、破橋の前、
螢疎野水邊。     螢は疎(まば)らなり、野水の辺(ほと)り。
清涼隨我買、     清涼、我が買うに随うも、
不貲半文錢。     半文銭(はんもんせん)を貲(あがな)わず。

夏の日に、仙台の若林地区を訪れられた際の即興詩です。

月は壊れた橋の上に昇り、その川にはホタルがまばらに光って飛んでいる。
わたしが求めるままに涼しくしてくれるが、わたしは一文銭も支払ったことはない。

夏になれば、クーラー付けっぱなしの小生には耳の痛い詩です。
クーラーを付ければ、一文銭も支払わないというわけにはいきませんから。

エアコンのなかった人たちは、どのようにして暑さ寒さを乗りきったのでしょうか。
きっと、ほんのわずかな涼風や春風を、現代の私たちの10倍も100倍も敏感に感じ取って、それを大切にして、その中で、暑いは暑いがまま、寒いは寒いがままに楽しんでおられたのでしょう。

いったい、いつになれば、こんな境地になれるのか。文明社会に生きる小生には、永遠に不可能かも知れません。
しかし、「寒時寒殺、熱時熱殺」などという大悟人の言葉は、しばらく置いておきましょう。みなさん、エアコンを上手に利用して、これから来る長い夏を乗りきっていきましょう。特にご老人は気をつけて下さい。

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みずからのみずからの自由を、人からとじこめられるな

 

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「ブログ禅」を御覧になっている人の中には、将来、禅の研究者を目指しておられる人もおられると思います。これは、小生のせつない希望ですが。

小生は、ただいま、ある依頼を受けて、仙台藩四代藩主、伊達綱村公の語録?『如幻三昧集』を読んでいます。

「ブログ禅」の読者ならば、漢字が多出するのは辛抱して下さい。

その「著語」の部分に、以下の文章があります。

瑞巖自喚云、主人公在麼。自諾云、在。意旨如何。答曰、無鬚鎖子兩頭搖。又曰、自領出去。

訓読します。

(1)瑞巌、自{みずか}ら喚{よ}んで云く、『主人公、在りや』。自ら諾{だく}して云く、『在り』」と。「意旨如何{いかん}」。答えて曰く、「(2)無鬚{むしゅ}の鎖子{さし}、両頭に揺らぐ」。又た曰く、「(3)自領出去{じりょうしゅっこ}」。

注記を書きます。

  1. 瑞巌自喚云……=「巌喚主人」と呼ばれる公案であろうが、綱村公が挙した話頭は未見。当時の黄檗下で用いられていた公案か、公の創作かも不詳。今は、『無門関』十二則を引いておく。「瑞巌の彦和尚、毎日自ら『主人公』と喚び、復{ま}た自ら応諾し、乃{すなわ}ち云く、『惺惺著{せいせいじゃく}。諾{だく}。他時異日、人の瞞{まん}を受くること莫{な}かれ。諾諾』」。
  2. 無鬚鎖子両頭揺=内バネのない開かずの錠が両辺に開く。「問う、『如何{いか}なるか是れ和尚が深深の処』。師曰く、『無鬚の鎖子、両頭に揺らぐ』」(『五灯会元』巻五・石霜慶諸章)。この問答は、日本の公案集『宗門葛藤集』に「無鬚鎖子」として採られる。詳しくは、道前宗閑『校訂本 宗門葛藤集』【六九】を参照。
  3. 自領出去=禅録頻出語。中国の古い法廷用語で、自ら罪を白状して自ら出頭せよというのが本意だが、ここでは、『宗門方語』【自領出去】の下注に言う「是れ誰か得ざる、誰か知らざる」の意で言われたものかも知れない。「主人公など誰もが持っておるし、誰もが知っておる」と。しかし、語句の本意にもどせば、「瑞巌は自分しか知らない主人公を自ら白状してしまった」とも読める。

小生の注記は以上までしか書けませんし、小生は、基本知識を忠実に提供するしかありません。ここで、「ブログ禅」読者に申し上げたい。特にこの「自領出去」をどう考えるのかは、読者の勝手なのである、と。もちろん、この「自領出去」の真意は、綱村公しかご存じあるまいが、綱村公に、その真意を問うてみたところで、公も「知らぬ」とお答えであろうと思います。

これは、自己反省を含めて申し上げますが、学者先生は、自己解釈を読者に押し付けないように、自己解釈のために異論の資料を削除しないようにお願いします。

禅録は、読者一人一人の心に即して読めばいいと思います。だって、馬祖が言った、「即心即仏」も「非心非仏」も、その真意など、誰にも分からないでしょう、先生方。

禅は、決して難しいものではありません。
恋愛や就職活動の悩みとかけ離れたものではありません。
生きていることすべてが禅だと思い、悩みや、尋ねたいことがあれば、どんどん、まわりの禅僧に尋ねてみて下さい。

みずからのみずからの自由を、人からとじこめられるな

 

 

※写真は、古川大航・植木憲道墨蹟 「主人公」(禅文化研究所蔵)。

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サルスベリの花


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八月に入り、いよいよ夏も本番である。山寺のムクゲは、数を減らしながらも、咲いては落ち、落ちてはまた別の花が咲き、小生に、人生の無常と、その無常の中で、どう生きていくのかということを考えさせている。

そのそばにはサルスベリの樹が植えられている。もう青葉が茂りに茂っている。ムクゲが終われば、この花樹が、紅(くれない)の花を開いてくれる。

サルスベリは、幹の皮がなめらかでツルツルしており、猿もすべるから、この名前がついたというが、猿も出没する山寺に暮らす小生でも、さすがに猿がすべったところを見たことはない。古人がじょうずに命名したのであろう。何とも可愛らしい名前である。

ところで、サルスベリの中国名は「紫薇(しび)」である。とても綺麗な名前だが、紫色の薔薇(バラ)と読んでしまいそうである。紫微(王宮)に多く植えられたから命名されたそうだが、その別名が日本でも有名な「百日紅(ひゃくじつこう)」である。

たびたび無粋だが漢文を一つ。ある「花譜」に「紫薇、一には百日紅と名づく。四五月、始めて花(はなさ)き、開謝接続(咲いたり散ったりして)、八九月に至る可(べ)し」とあるように、とても長い間、咲いててくれる。もちろん、同じ花が百日咲いているわけではない。その点は、ムクゲと同じである。

実は、日本禅録に用いられる「百日紅」は、直接、サルスベリを言うものではない。その別名に掛けて人生の無常を説くのである。ある禅匠の百箇日忌の法語に「百日紅過春作夢(百日、紅過ぎて、春、夢と作(な)る」とある。これは、中国のことわざに「人に千日の好無く、花に百日の紅無し(凋まない花はない)」(『水滸伝』第四十四回)と言われるところから来ている。

一日のムクゲも、百日のサルスベリも、散っていくのに違いはない。さて、どう散っていくか。六十の小生は、まだその答えがみつからないでいる。

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暑い暑い暑い―ガリガリ君がうまい

小生の仕事部屋のクーラーが故障した。暑くてたまらない。山寺でも、日中は暑い。こういう時は、昼間からビールでも飲みたいところだが、仕事に支障をきたす。ガリガリ君にしておこう。

ところで、ある語録を読んでいて、興味深い言葉に出くわした。

「賜氷節(しひょうせつ)」という言葉である。「賜氷」は、頒氷(はんぴょう)とも言い、盛暑の時、天子が臣下に氷を頒(わか)ち賜(たま)うこと。『周礼』天官・凌人に「夏、氷を頒ちて事を掌(つかさど)る〔暑気盛ん、王、氷を以(もっ)て頒ち賜う〕」とある。中国では決められた日はないようだが、日本では6月1日が当てられたようだ。『翰林五鳳集』巻六十二に載る詩(作者不明)の前文に「六月一日、世伝えて以て賜氷の節と為す。蓋(けだ)し天官を擬すれば、所謂(いわゆ)る中夏頒氷なり」とある。

新暦で生きる現代人には、6月1日が盛夏とはピンとこないが、2ケ月足せばよく実感できる。旧暦(陰暦)では、1・2・3月が春、4・5・6月が夏、7・8・9月が秋、10・11・12月が冬である。有名な禅語「六月、松風を買わば、人間、恐らくは価(あたい)無からん(6月の清風には値段も付けられない)」の「六月」と同じで、6月は真夏なのである。体感を陰暦に合わせることが、漢詩や語録を読む場合の必須である。

160725.jpg話が脱線したが、宗門では、6月1日の半夏節(はんげせつ)を氷節と呼び、衆僧に氷や冷たいものを饗応していた叢林もあったらしい。「熱時熱殺(暑い時には暑さに徹する)」などと言うが、暑い時は暑いのである。

読者の皆さんも、あるいは部下にアイスクリームをおごったり、あるいは上司におねだりしてみてはどうですか。なにしろ、古い古い伝統なのですから。

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ムクゲの花―1日を懸命に生きる

160721.jpg今年も小生の山寺にムクゲが綺麗に咲いてくれました。いかにも弱々しい、あやうい花です。しかし、こう感じるのは、小生が日本語録や漢詩にドップリと浸かっているからでしょう。

日本の引導法語(僧侶が葬式に唱える法語)でもっとも多く用いられる花は、槿花(きんか)と書かれるムクゲだと思います。なぜか。それは、白居易が「放言五首」詩の第五詩で「松樹千年なるも終(つい)に是(こ)れ朽(く)ち、槿花一日なるも自(みずか)ら栄(えい)を為(な)す」と歌うように、ムクゲの花は、朝開き、夕方には落ちると言われるからです。また、その短い命を、すぐに乾く朝露にたとえて、露槿(ろきん)とも言います。

松は「松樹、千年の翠(みどり)」などと歌われるように永遠を象徴します。一方、ムクゲは「槿花、一日の紅(くれない)」などと歌われて無常を象徴します。禅者は、松を見、ムクゲを見て、永遠即無常、無常即永遠を悟るのだそうです。

小生が好きな「槿花」の詩があります。伊達政宗の教育係だった、仙台の虎哉宗乙(こさいそういつ)和尚の詩です。

朝槿(ちょうきん)、籬(り)に傍(ぼう)して、涼露(しょうろ)清し、残葩(ざんぱ)、暮鐘(ぼしょう)の声(おと)を待たず。
若(も)し花、語を解(よ)くせば、松に向かって道(い)え、千歳(せんさい)の春秋、一日(いちじつ)の栄(えい)と。

というものです。この詩も、白居易の「放言」詩をモチーフにしたものです。つたない意訳をすると「朝、花を咲かせたムクゲは、まがきに寄り添い、すがすがしい朝露を帯びている。しかし、長くは保たず、その散り残った花でさえ、暮れの梵鐘が鳴るのを待たずに散って行く。ムクゲよ、もしも言葉がしゃべれたなら、松の木に言ってやれ、『あなたの千年の翠(みどり)も、この1日のわたしの栄華と同じことなのよ』と」。

1日を懸命に生きているこの花を見ると、お盆の近づいたことを知り、人生のはかなさを知り、故郷の母の安否が気にかかり、死んでいった多くの知人のことが思われ、短くても、そこには永遠(とわ)の人生があったのだなと、あらためて気づかされます。

最後に無粋な話になりますが、小生が山寺のムクゲを見ているかぎり、1日では落ちません。確かに命は短く、地面には沢山の花が落ちていますが、2、3日はもってくれます。それがまたいとおしくてならず、思わず「ガンバレッ」と声をかけます。しかし、ムクゲはきっと小生に向かって「あなたの命もわたしと同じなのよ」と語っているのでしょう。このムクゲのように、1日1日を懸命に生きようと思うのですが、ついつい千年の松をうらやんでしまう愚か者です。

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君看双眼色



160621.jpg君看双眼色(きみみよそうがんのいろ)
不語似無憂(かたらざればうれいなきににたり)    『槐安国語』


上にご紹介しましたのは、白隠禅師の『槐安国語』(『大燈国師語録』に白隠が評唱や下語を付したもの)にある、大燈国師の「千峰雨霽露光冷(せんぽうあめはれて ろこうつめたし)」という句の後につけられた白隠禅師の美しい下語(あぎょ)です。
*弊所発刊の『槐安国語』は現在絶版となっておりますが、今年中には一冊にまとめた廉価版を発刊予定です。



私が尊敬する大親友(在家の女性)は、こう訳していました。

「なんにも言わない君の苦しみをしっています。一人じゃない、いつもそばにいます」。

いつも自分の事よりも他の人の事ばかり考えて、私はもちろんの事、色んな人たちの支えになり続けている彼女の在り方そのものではないか・・・と思い、泣けてくるのです。

そして下記は相田みつをさんの詩です。
これを読む度に、「澄んだ瞳を感じられる自分でありたいな……」と願わせていただけます。
皆さまにもご紹介をと思いました。



『憂い』

むかしの人の詩にありました

君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり

憂いがないのではありません
悲しみがないのでもありません
語らないだけなんです

語れないほどふかい憂いだからです
語れないほど重い悲しみだからです

人にいくら説明したって
全くわかってもらえないから
語ることをやめて
じっと こらえているんです

文字にもことばにも
到底 表せない
ふかい 憂いを
おもい かなしみを
こころの底ふかく
ずっしり しずめて

じっと黙っているから
まなこが澄んでくるのです

澄んだ目の底にある
ふかい憂いのわかる人間になろう
重いかなしみの見える眼を持とう

君看よ双眼のいろ
語らざれば憂い無きに似たり
語らざれば憂い
無きに似たり

みつを

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『二度とない人生だから、・・・』 横田南嶺老師新刊


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円覚寺派管長・僧堂師家、横田南嶺老師とは、研究所からDVDを出させていただく際の収録で初めてお目にかかり、直にお話を拝聴する機会を得ました。
そして、その収録で話される老師のお話にたちまち引き込まれてしまい、以来色々とお教えいただく機会をいただいております。

DVDの中でも語っておられた、四弘誓願(しぐせいがん)にある「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」。
___世の人々の悩み苦しみは尽きる事がないけれども、誓ってそれを救ってゆこう。
 
 
「あぁ、老師は常にこの願い、祈りのまっただ中に生きていらしゃるのだなぁ…」というのが、DVD収録時から一貫して変わらぬお姿として目にうつり、それは様々な活動に現われていらっしゃいます。
微塵もぶれる事なく貫き通されている大きな祈り、願いの力というものを実感させられます。

この度その一つの現われとして、『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう 生きるための禅の心(PHP研究所)を上梓なさいました(ご自身でも法話で仰っておられましたが、題名が長いのであります!)。

仏教詩人・坂村真民先生の詩のご紹介とともに、生きるとは、愛するとは、平和とは、家族とは……様々な問いにお答えになられています。読む人それぞれの人生経験によって、一番に響いてくる箇所は異なる事と存じます。
「悲しみを忘れたり、乗り越えようと思ったりせずとも、抱いて共に生きていれば良い…」。私めもどれだけ安心を得たか知れません。

 
 

ふと、今は亡き表千家・堀内宗心宗匠が、弊所発刊の『歩々清風』の中で、下記のように語っておられた事を思い出しました。
書籍という媒体によって、多くの人をいっぺんに済度するという事もありうるのだなと思うのでした。
是非お手に取っていただきますように。

お茶を含めて、人を指導するということはひとつの菩薩道であります。菩薩の指導法は、つねに相手と同じ高さまで身を落として、すなわち身を低めて、そうして人を引き上げるということであります。荷物の集配所で働いているリフトのように、その人のところへ行って、荷物と同じ高さまで支台を下げて、荷物を持ち上げ、目的地に持っていくのであります。これは済度するということであります。決して高いところか ら叱咤号令するのではないのであります。

 

 

◆平成28年度サンガセミナー 受講者募集中

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NHK「こころの時代」放送のごあんない


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『語録のことば』
『禅思想講義』などの著書、季刊『禅文化』の連載でもおなじみの小川隆教授(駒澤大学)が、NHK Eテレ「こころの時代」に出演されます。

いつも親しみやすい文章で導いてくださる小川先生ですが、講義は中国語で読み上げられる公案の響きやリズムが新鮮で、また書籍とは別の魅力があります。語録に登場する人物が、目の前で活き活きと動いているのが見えてくるような……といえば、イメージが伝わりますでしょうか。

今回も「禅の語録を読む」として、唐から宋への禅語録の推移をたどりながら、難解なだけではない禅の世界をご紹介されるとのこと。(放送では中国語が出てくるかどうかはわかりませんが)どうぞお楽しみに。

ところで改めて、この番組のコンセプトですが「どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき… どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。」とあります。今さらですが、きっと色々な境遇におられる方が、様々な場所で、それぞれの思いでご覧になっている番組なのだろうと思います。

一日の初めにどんな言葉を耳にするか(口にするか)というのは、どんな時もとても大切な気がします。それが心地よいものであれば、一日何かしら影響をもたらしてくれるはず。次の日曜日は少し早起きして、素敵な一日をお過ごしください。

聞き手は金光寿郎さん(元NHKディレクター・宗教評論家)です。

◆放送日(予定)/4月10日(日)午前5:00、再放送16日(土)午後1:00

 

 

*本日、4月8日はお釈迦様ご誕生の日です。

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棚からぼた餅

 

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おはようございます。

古都奈良に春を告げるとされるお水取りも、そして寒さも彼岸まで…の、お彼岸も終わりました。
桜も咲き始めております。

これであたたかな春が…と思いきや、本日の空気はなかなかにひんやりしております。
御地はいかがでしょうか?


さてお彼岸といえば、3月はぼた餅をいただきますが(9月はおはぎですね)、ぼた餅と聞くと私が思い出す、気の引き締まる2つのお話があります。

1つは、ある成功者の方が、強運の持ち主だと言われた事に対して、

「棚からぼた餅などという事は無い。私はぼた餅が落ちてくるところへ走りました」。と仰った事。

華やかにご活躍の裏に、やはり人には言えぬような努力と忍耐があるのだなぁ…と、内からにじみ出るような彼女の美しい佇まいを、それ故かと思うのです。


そしてもう一つは、堀内宗心宗匠にお願いし、弊所より刊行しました『歩々清風』のまえがきです。花園大学時代に茶道部に入っていらっしゃった臨済僧堂の阿部宗徹老師にお願いを致しました。
*花園大学の表千家茶道部は、堀内宗匠がご指導なさっておられます。

そらんずる…とまでは参りませんが、大好きで胸に刻んでいる一文です。少し長くなりますが、ご紹介致します。

私にとりましての彼岸のぼた餅は、決して甘くはないのでした。

 

さて、皆さんは千利休さんによって完成されたお茶の世界が全てだと思っておられませんか。しかし本当は、自分の先生方がどのように生きて、どのように活 躍されたかという歴史もふまえながら伝統の継承を行なわなければならないのではないでしょうか。師として崇める方の、あるいは師であると胸に抱く方のお名前と歴史をしっかりいただかなければ、私たちは継承できないだろうと思うのです。お慕い申し上げる方の全てを盗みとるのだ、その方から全てを習うのだとい う思いが必要なのではないでしょうか。
文化の継承というのは、棚からぼたもちのようには受け継ぐことはできません。限りない努力をして、肌から感じ取っていきながら身につけていくものだと思われます。そういう努力が報われて、やがてだんだんと汗を流し歯を食いしばるような努力が失われていって、漸く自分が開放された時に自然に招かれていくのです。
私たちは“受け継ぐ”とか“文化を知る”とかいいながら、その中にいることすら気がつかず、それを行じてもいないことがたくさんあります。そして心の中にはいつも溢れるような情報と虚構の世界がたくさんあります。しかし、その一つ一つ余計なものをかなぐりすてていって、ついには何にもなくなったということもなくなる世界があるのです。それは自分で意識しなくてもわかるのですが、そういう体験に包まれていかない限り、本当の精神世界は自分の手にとれませ ん。
伝統の継承、文化の継承というのは、先人先達の生き様やそのあとを、そして熱意を丸ごと感じとって、実はこちらの方がひたすらに習い、ひたすらにひたすらに求め続けていって、はじめて伝わっていくものではないのでしょうか。

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「磨いただけの光あり~玄峰老師の教えに学ぶ」
円覚寺派管長・横田南嶺老師ご講演録

お正月に、祖父が住職をしておりましたお寺さんにお参りに伺わせていただきましたが、その際に利用しましたJR紀伊田辺駅。

和歌山の偉人を紹介するパネルができており、私の大好きな方々が。素晴らしい!
植芝盛平先生(合気道の創始者)に、南方熊楠そして臨済宗を代表する名僧・山本玄峰老師。
思わず嬉しくて写真を撮らせていただきました。


160205.jpg山本玄峰老師の事につきましては、私がご説明するよりも、是非とも、同じ和歌山(新宮)生まれでいらっしゃる円覚寺管長・横田南嶺老師が、熊野本宮館にてご講演された際の記録を掲載させていただきたいと思います。

玄峰老師の御生涯から出家の因縁、南嶺老師とのふしぎな繋がり・縁の妙。
そして、私からしますと老師がたというのは、厳しい修行に耐えてこられ、死ぬまで修行を続けられつつ雲水を育て、衆生を救ってくださるスーパーマンのような方々ですので、しばし忘れがちとなるのですが、どなたも等しく「母の子」であるという事。
特にこの“母”に対する思いのお話は、涙を禁じ得ませんでした。
是非ご高覧くださいませ。
 
「磨いただけの光あり~玄峰老師の教えに学ぶ」 円覚寺派管長・横田南嶺老師ご講演録 (熊野新聞 2016.01.01)






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仏心の大海 朝比奈宗源老師

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私たちは仏心という広い海に浮かぶ泡の如き存在である。

生まれたからといって仏心の大海は増えず、

死んだからといって、仏心の大海は減らず、私どもは皆仏心の一滴である。

仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、

いつも安らかである。これが私たちの心の大本である。

仏心に生き死にははない。いつも生き通しである。

人は仏心の中に生まれ

仏心の中に生き

仏心の中に息を引き取る。

生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、

仏心とは一秒時も離れていない。

【朝比奈宗源老師(臨済宗円覚寺派第10代管長)のおことばより】

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独坐大雄峰

おはようございます。
私事ですが、お正月休みに、祖父が住職をしておりましたお寺さん(臨済宗妙心寺派・父は継いでおりませんので、私にとってはいつもお墓参りにでかける場所でした)へ久々にお墓参りにでかけて参りました。
和歌山の山奥で、なかなかお盆やお彼岸にでかけられずにおりますので、新年早々お参りができ、とても気持ちの良いものでした。

160107.jpg色々なお考えがおありかとは存じます。「千の風になって」という歌では、「そこ(墓)に私はいません」と歌詞にあります。私自身も、先祖や亡くなった方々は、「千の風にもなっていよう…」、「大海に帰って行ったのだ…」とも思います。

いつでもどこでも祈る事、拝む事はできます。がやはり、お墓やお仏壇の前にわざわざ行って手を合わせる事、故人を偲ぶ場所があるという事が、自身が生きて行く上での支えになっていると確信しています。これはもう理屈ではありません。
よく、ご先祖様に手を合わせる事は、自身を拝む事でもあると言いますが、そういう事でしょうか。

和歌山の海、川、山。大自然に抱かれていますと、心まで広く開放されるようでした。
特に山を見ますと思い出す禅語は「独坐大雄峰」。祖父の道号が“雄峰”であった事もありますし、この箇所の問答が好きという事もあります。
昨日は事務局長より御挨拶させていただきましたが、本年も禅文化研究所を、ブログ禅を宜しくお願い申し上げます。

ちなみに、時に「禅僧のくせにけしからんブログだ!」とおしかりを受けたりしますので、禅僧の名誉の為にお伝えしておきますと、研究所は禅僧のみならず、在家の職員もおりまして、在家の職員がブログを書く事が多いのです。
どうかお許し下さいませ。

「独坐大雄峰」につきましては、こちらや、こちらを是非ご覧になってみてくださいませ。


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臨済録提唱 ―於:南禅院―

来年は臨済宗の宗祖・臨済義玄禅師がお亡くなりになられて1150年という節目の年(1150年遠諱・おんき)です。
遠諱を記念した行事が色々と開催されておりますが(詳しくはこちら)、大本山南禅寺さんでは、南禅寺発祥の地・南禅院にて、毎月一回、臨済録の提唱をなさっています。

151127-1.jpg今回は総長さん(本山において、管長さんが法の上の、思想上のトップであり、総長さんは事務方のトップのお坊さんとでもいいましょうか…)がお話しくださいました。

臨済録の中でも有名な、「途中に在って、家舎を離れず。家舎を離れて、途中に在らず」。“家舎”を般若心経の境地、“途中”を観音経にたとえてお話くださいました。
私の中でまだ整理できていないのですが、非常に興味深い内容、とらえ方で、反芻してみているところです。
*ネットで検索すると、この箇所の色々な解釈が出て参ります。是非お探しになってみてください。


さらに、これも臨済録にあります「随所に主となれば立処皆真なり」より、人生における避けてはゆけない大変な事。それによって得た縁を最大に生かして、生かしきって、自身がその中で主となって生きた時、活貎第ス葬n(かっぱっぱっち)、自在な心で生きる事ができるのだという事をお話しになられました。

151127-2.jpg私自身、「これはもうどうしようもない」と思えるような大変な事が起きた時に、避ける事すらできず、今になるとどうしてあの時を乗り切れたのかわからないような事がありましたが、その時に得た様々な縁というものこそ、今に繋がり、自分自身の糧となっていると確信しています。
「大変な事によって得た縁」という考え方は全くした事が無く、目の覚める思いでした。大変な時に得る縁というのは、人生の宝となるのでしょう。

いつぞや、大学のゼミ教授が教えてくれた、中川宋淵老師(三島・龍澤僧堂師家 1907-1984)のお言葉「人生とは、因縁因果の大展開、大活動である!」を思い出し、教えていただいた当初よりも少しはわかってきた気がしたものでした。

来月は12月13日(日)の9時から、南禅院にて。ご参集ください。

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150826-1.jpg突然冷たい風が吹いたかと思うと、雷がなり、空には「天地創造」を彷彿(といっても知りませんのでイメージですが)させるような雲が。

150826-2.jpg雲と言うと禅語にも良く出て参りますね。いくつかご紹介しましょう。

150826-3.jpg

「青山元不動 白雲自去来」

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「寒雲抱幽石 霜月照清池」

150826-5.jpg「龍吟雲起 虎嘯風生」


自然界の妙とでも言いましょうか。このような美しい色、想像を絶するようなドラマチックな演出は、人の手ではできないものですね。
雲一つみていても、我々人間にはコントロールできない自然界の事がよくよくわかるのでした。

*禅語は全て臨黄ネットより

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内面からの美しさ

私も楽しみに拝読させていただいております、鎌倉は円覚寺さんの“居士林だより”
横田南嶺老師の提唱内容を、在家の方にもわかりやすいようにご紹介くださっています。

150424.jpg4月20日より、入制大攝心と申しまして、一週間集中的に坐禅の行をされる期間に入っておられます。

いつも思いますが、僧堂の老師方がお元気そうでお肌も艶々(こんな言い方申し訳ないのですが、本当なのです)、雲水さんのなんとも気持ち良い清らかに澄んだ雰囲気というのは、日々の修行の上に、さらにこういった攝心によって、自己と向き合い、身体と心を整えていらっしゃる賜物なのでしょうか。
内面からにじみ出る美しさを感じ、いつも感動します。


以前読みましてこちらでもご紹介した本の中にありましたが、チベット僧の老師のようなお立場の方は、「自分の中の仏が小さくなると行に入ります」と仰っていたのだとか。

禅宗でも悟後の修行が大切と言われ、僧堂ではこういった攝心の期間が設けられ、集中的に坐禅をする時間を取るという事に、修行体系は違えども、同じ仏教の修行での共通点を見いだし、やはり動中の工夫は、静中の工夫あってのこそなのかしらん・・・などと、くるくる思いを巡らせています。
考えている閑があったら、坐禅か瞑想でも実践し、自身の日々の生活がどう変わってゆくのか、実体験してみた方が良いですね。

研究所からは、僧堂での生活をつぶさにご紹介した、『雲水日記』という本を出させていただいております。ご関心ある方は是非!

なお、近々ですと関西では、5月4日(月)10:40~花園大学の教堂で開催される、【花園大学学長講座 禅とこころ】に、横田南嶺老師がご登壇されます。是非お運びください。

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花園大学学長講座 -語録の思想史1-

昨日は花園大学にて毎週月曜日に開催されております学長講座にお邪魔しました。
弊所の季刊『禅文化』にも連載いただいている、駒澤大学教授の小川隆先生がご登壇。

150421.jpg
-語録の思想史-と題して、まずは語録を学ぶ上での導入ともいえるお話をしてくださいました。

「禅問答」を辞書で引くと、

①〔仏教〕禅宗で、修行僧と師とが一問一答をし、教義を会得すること。
②〔転じて〕わかったようなわからないような、ことばのやりとり。(学研『国語大辞典』)

とあるそうな。
「わかったようなわからないような、ことばのやりとり」とされてしまう“禅問答”。
ですが、この、一見意味が分らないようなやりとりが、実は、師匠に問いかけをした弟子自らが“気づき”を得るよう、“気づき”を促すような返答であった!

というところを、様々な語録を引用され、痛快に解説してくださいました。
ブラボー!と叫びたくなってしまいました。

私自身は参禅もしておりませんので、禅における師匠と弟子の世界がわかるといってはなりませんが、例えば茶の湯の世界でも同じです。

「畳の目6つのところに置いて…」、「それは右手ではなく左手で…」。事細かい処を身体にしみこませるよう、師匠から点前を指導されます。
こういう風に点前をすることが、精神的にどのような影響を及ぼし、どのような気づきがあるかなどという事は、当たり前ですがいちいち言葉で説明されません。長年稽古を積む中で、ぽつぽつと様々な気づきが訪れます。

表千家の堀内宗心宗匠が、「お茶の点前は、自分の身体の隅々までを意識して制御している間に、ひょっとして、自己解脱につながる契機ともなるのであります」。(弊所発刊『歩々清風』より)
と、仰っているのも、同じ事でしょうか。

禅の世界でも、茶の湯の世界でも、弟子にも辛抱がいりますが、師匠にはもっと忍耐と辛抱が必要かと思います。
一見すると、とんでもなく時間もかかるこのような“伝え方”ですが、実は法を永く伝える、茶の湯の伝統を永く伝えてゆくには、こういった指導こそ効率的に、確実に伝えてゆく最良の方法なのですね。
 

月曜日の午前中にお時間ある方は、是非とも花園大学学長講座へいらしてください。
予約必要無し、聴講無料です。詳細はこちらからどうぞ。

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南禅寺管長 臨済録提唱 於:南禅院


150410.jpgおはようございます。

本日10時より、南禅寺山内・南禅院にて、南禅寺派管長・中村文峰老大師による臨済録提唱があります。
これは、臨済禅師1150年遠諱に因んで開催されるものです。
是非みなさまご参集いただきますよう宜しくお願い申し上げます。

 

 

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臨黄ネット 禅語のご紹介


150212.jpgご存知?臨黄ネット(臨済宗黄檗宗の公式HPです)には、毎月1日に禅語をご紹介させていただいております。
この禅語、弊所から刊行しております、『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』より転載をしております。
以後お見知りおきを!

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聞き分けの...

150113-1.jpg絵はがきセット 「禅のことをもっと…」より 撮影・水野克比古氏


先日とある曹洞宗寺院を参拝した時のこと。ボランティアガイドの方がちょうど魚板(魚の形をした木版〈モクハン〉)の前にいた我々に、

「禅宗の修行生活は全てこの鳴らし物の音で進行するんですよ。だからちゃんと聴いて行動しないといけないんです。聞き分けの良い子悪い子と言いますよね?あの言葉はここから来ているんです」。

と教えてくださいました。
語源の真偽のほどはともかくとして、なるほど面白い事を仰るなぁと思いました。

実際、禅宗の修行道場や寺では、様々な鳴らし物の音によって時を報らせ、また日常の号令として使われます。
そのうちのいくつかご紹介します。専門用語については、このページもまたご参照ください。

 

150113-2.jpg天龍寺にて 職員撮影

◆板・木版(はん・もくはん):禅堂の前門に下げられ、日に数度、時を知らせるために打たれる。

◆振鈴(しんれい):禅の老師が参禅室内で用いる。また、起床の時刻を知らせるなどに用いる鈴。

◆引磬(いんきん):坐禅の進行を務める直日(じきじつ)が柝(たく:下記参照)とともに禅堂内で使用し、参禅者を指示するのに用いる。

◆喚鐘(かんしょう):老師からの独参や総参に呼ぶときに鳴らす鐘。通常は朝晩の二度鳴らされる。禅堂内から駆けつけた参禅者は順番を待ち、自分の番になると喚鐘を二つたたいてから老師の部屋に向かう。

◆雲板(うんばん):雲の形に鋳付けた青銅板で、庫裡にあって、僧に粥飯を報ずる鳴らしもの。薬石(夕食)には、雲版の代わりに柝木をもって報らせる。

◆法鼓(ほっく):大きな太鼓。法要、提唱などの出頭の合図として用いられる。

◆析(たく):拍子木のこと。大小二種あって小柝木は禅堂内あるいは飯台座で用いられ、大柝木は庫裏などで用いられる。例えば、薬石の用意ができた時、開浴の時、守夜の時など。

 

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私の思い出



140918-1.jpg
あれは3歳の頃。弟が生まれるというのでしばらく祖母宅に預けられていた私ですが、朝の記憶といえば、近くの京都御苑からやって来る鳩の鳴き声と、どこからやって来るのかは謎だけど割と頻繁に聞こえてくる「ほ~ぉ」の声でした。


「ほ~~~~~~~~~ぉい」と声が伸びるのが、なんかわからへんけど面白い!

なんかわからへんけど、いっぱい声が聞こえてくるのも楽しい!!


唱和して"~~~~~"の長さを競うのがマイ・ブームでした(すみません、幼児の考えることですのでお許しを......)。人数が少ない日はガッカリです(重ねてすみません......)。

声の正体についてはほどなく祖母から教わることになるわけですが、あれから30数年が経ちました。老師がたの中には、きっとあの時の雲水さんもいらっしゃるのでしょうね。

次号『禅文化』(10/25発売)では久しぶりに「吾が師を語る」を掲載させていただくのですが、今回は東福寺派管長・遠藤楚石老師、円覚寺派管長・横田南嶺老師による
対談形式です。

「どんなお坊さまにも修行時代があったのだな」と改めて感じ、同時に自分の思い出もよみがえった次第です。

*写真・水野克比古 絵はがきセットより

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8月15日のブログアクセス


140828.jpgおはようございます。

8月15日のブログへのアクセスがいつもの3倍ほどありました。
「ん?!お盆に何が起こった?どなたか老師がテレビにでも出演されたかしら?!」などと思いアクセスを解析してみると、「初発心時、便成正覚」という禅語をお調べになり、我らが研究所のブログにおこしになられた方がほとんど。

調べてみますと、どうやらテレビ朝日さんの、「世界の村で発見!こんなところに日本人」という番組で、バングラデシュに布教目的で渡った日本人僧侶が、村の貧困にあえぐ人々を助け、自立を促す活動をなさっており、彼が支えとする言葉がこの「初発心時、便成正覚」だったようです。
それで皆さん検索なさったのですね。

再度ご紹介しておきましょう。弊所・所長のカテゴリ、「えしん先生の禅語教室」にあります、初発心時、便成正覚です。ご一読くださいませ。

*写真は本文とは関係ありませんが・・・。今年の夏に訪れましたラオスで求めた魚籠に、灸草を生けてみました。ラオスのお寺、お坊さんの事など、またご紹介してゆきたいと思います。

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南禅寺三門

 

140513-1.jpg「絶景かな、絶景かな、、、」。五右衛門が眺め、感嘆の声をあげた春の桜は散れども、青もみじの緑もまた格別な、南禅寺三門を参拝してみました。

140513-2.jpgこちらの三門、おそらくは京都市内でも唯一、通年公開されている三門ではないでしょうか。
四方ぐるりと見渡しましても、どこも美しい新緑でいっぱい、三門の上で思い切り深呼吸させていただきました。


140513-3.jpgさて、南禅寺さんでは、南禅会館が装いも新たに、この緑豊かな静かな界隈で京都滞在をなさりたい方をお迎えなさっています。おそらくは、あまり知られていない?!ようですので、ホテルが混み合う季節なども穴場なのでは?!と思います。
宿坊についての感想を書いているHPなどを拝見しますと、なかなかに居心地も良く、快適なようです。
回し者というわけではありませんが、個人的にも良いなと思いました。
是非御見知りおきを。

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『祈りの延命十句観音経』横田南嶺老師

 

140416.jpg東日本大震災より三年目を迎えた節目の日、2014年3月11日に、円覚寺派管長・横田南嶺老師が『祈りの延命十句観音経』(春秋社)を上梓なさいました。

「菩薩行とは、その人のところまで自らが降りていって、クレーンで高い所へひょいっとひっぱりあげるように連れてくる事です」。と、いつでしたか、堀内宗心宗匠が仰ったおことばを、この本を読んでいて思い出しました。

東日本大震災に続き、ご自身の故郷の紀伊半島を襲った大水害を機に、「延命十句観音経」を少しでも多くの方に広めたいという老師の願いと、いのりの持つ力というものを、多くの方にわかるように、易しい言葉で、慈悲深く説く行為とは、まさに菩薩行なのでした。

これは何も、震災の被災地の方々に向けてのみ語られたものではありません。生きていれば、皆それぞれに悩み苦しみは尽きないもので、私自身まさに、苦しみの海から、ひょいっと救い上げていただいたような心地がしたのでした。

宗教関連本というのはそれこそ数多く出版されていますが、宗教宗派は関係なく私が良いなと思う本というのは、著者の厳しい修行により得たお悟りや清々しい心境、今(瞬間)を生きる姿がそのままこちらの身心奥深くへと、瑞々しく流れてくるような感覚を覚える本です。

まさにそのような一冊。宗教というものの、本来のまっとうな御教えをいただき、感謝です。人間は忘れるのがあまりに得意ですから、何度も読み返して、自身にすりこませてゆきたいものだと思いました。


*本日の20時~約1時間、BS日テレ「わが心の聖地」に、横田南嶺老師がご出演なさいます。姜尚中さんが心の聖地、円覚寺を訪れ、管長猊下とお話なさるようです。是非ご覧ください。



最後に、延命十句観音経と、横田南嶺老師による和讃をご紹介させていただきます。

〇延命十句観音経
観世音 南無仏(かんぜおん なむぶつ)
与仏有因 与仏有縁(よぶつういん よぶつうえん)
仏法僧縁 常楽我浄(ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう)
朝念観世音 暮念観世音(ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん)
念念従心起 念念不離心 (ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん) 

〇延命十句観音経 意訳(和讃)
観音さま
どうか人の世の苦しみをお救い下さい
人の苦しみをすくおうとなさる
そのこころこそ仏さまのみこころであり
私たちのよりどころです
この仏さまのこころが
私たちの持って生まれた本心であり
さまざまなご縁にめぐまれて
このこころに気がつくことができます
仏さまと 仏さまの教えと
教えを共に学ぶ仲間とによって
わたしたちはいつの世にあっても
変わることのない思いやりのこころを知り
苦しみ多い中にあって 人の為に尽くす楽しみを知り
この慈悲のこころを持って生きることが本当の自分であり
汚れ多き世の中で 清らかな道であると知りました
朝に観音さまを念じ 夕べに観音さまを念じ
一念一念 何をするにつけても
この思いやりのこころから行い
一念一念 何をするにつけても
観音さまのこころから離れません

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にほひおこせよ梅の花

 

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東風吹かば にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて 春を忘るな   菅公


上司が自坊より持ってきてくれました梅の花。馥郁たる香りが研究所に満ちています。
そうするとやはり思い出すこの菅原道真公の歌。

そして上にご紹介しました軸は、『渡唐天神画賛』(禅文化研究所蔵)。昨年もご紹介しましたが、おさらいです。天神が無準師範(ぶじゅんしばん/1177~1249)に参禅したとの中国の伝説が、日本においては菅原道真公が参禅したとされ、掛物にこのように登場するわけです。

皆さんは梅の花、香りから何を思われますか?

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お軸の詳細はWEB墨蹟展にてどうぞ。

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祖師像のいわれ

「開山堂の開山様の木像は、何年に作られたものなのか」という質問が舞い込んだので、少し調べてみた。

この開山堂というのは、妙心寺の微笑庵のことで、その堂内に関山慧玄禅師の木像が安置されている。結論から言えば、この木像は、大永八年(1528)に彫られたものである。開山の遷化が、延文五年(1360)なので、没後約170年に作られたことになる。
よって、山内の衆僧が、誰も開山の尊顔を知らないのは当然である。困ってしまった衆僧はどうしたか。以下、無著道忠の『正法山誌』第一巻「開山尊像」の一文を訓読する。

今、微笑庵の木像、初め彫造の時、面相の拠(よ)る可(べ)き無し。忽(たちま)ち一(ひとり)の老婆有り。一物を袱(つつ)み来たって云(いわ)く、『仏像を買わんと欲(ほつ)せざるや』。衆、之れを取って袱(つつみ)を開いて之れを覧(み)る。一の祖像の面首なり。一衆、之れを買い、以て神授と為(な)す。即ち用いて開山の祖像の面首と為し、肩趺を造り足す。(中略)大永八年。

つまり、一人の老婆が売りに来た、誰のものかも分からない木像の首を買い、それを神からの授かりものと喜んで、これを開山像の首にしたということなのである。まあ何ともいい加減なことだが、誰も開山を見た者はいないのだから、これが現実であろう。

ついでに、あの臨済義玄禅師の形相は、「熱喝瞋拳」のスタイルで描かれるが(臨済禅師・白隠禅師遠諱のポスターにも使われています)、誰も禅師の姿など見たことがないのに、それはどうしてか。これにもいわれがある。

140303.jpg雪竇の持(象田卿公の法嗣)が、径山の大慧宗杲(1089~1163)を訪ね、大慧と雪竇と相与(あいとも)に画工が臨済の像を図(えが)くを観(み)る次(おり)、持、且つ其の本(モデル)を伝えんと欲す。大慧、為に肘(ひじ)を謠氏iかか)げ拳(こぶし)を蜊」(つ)くの勢(すがた)を作(な)さしむ。(中略)其の後、諸方に頂相を画(えが)くこと有れば、顰(ひそみ)に効(なら)って、肘を露(あら)わし拳を握るの状(すがた)を作(な)す」(『雲臥紀談』巻上)と。

祖師がたは沒蹤跡(もっしょうせき)に徹するが、それを形に現わしたいのが法孫のさがであろう。いつの世でもアイドルを求めるのは、変わりがないようである。

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宗教者マラソン NHKラジオのおしらせ

 

140214.jpg明後日16日の日曜日に、京都マラソンの併設大会として「interFaith駅伝~平和を願い祈る駅伝~」が開催されます。

信仰の違いや国境を超えて各教派聖職者のランナーがタスキをつなぎ、都大路を走られるとの事。
海外からはキリスト教をはじめさまざまな宗教の聖職者20人が来日。国内参加の20人と共に4人10チームに分かれ、京都マラソンのコースを一般ランナーと共に走ります。

我らが臨済宗からは、円覚寺派管長で、研究所の理事でもあらせられる横田南嶺老師がなんと10キロもの道のりを走られます。皆さま応援を宜しくお願い申し上げます。

さらに横田老師ですが、NHKラジオ第2「宗教の時間」という番組でお話なさいます。

放送日は

平成26年2月16日(日)NHKラジオ第2放送 午前8:30~9:00

再放送は

2月23日(日)午後6:30~7:00

となっております。

お聞き下さいますようお願い申し上げます。

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臨済義玄禅師

 

140207.jpg白隠慧鶴禅師 「無」 個人蔵


わが臨済宗の開祖・臨済義玄(りんざいぎげん)禅師は、唐代の禅僧で、867年に亡くなられました。平成28年には、臨済宗を挙げて、1150年の大遠忌法要が営まれます。

臨済禅師の行状はいくつかの書に記されていますが、弟子の慧然禅師が著わした『臨済録』を見てみましょう。
それによりますと、臨済禅師は若き日に黄檗希運禅師のもとで、まことに純粋に修行に打ち込んでおられたようです。その修行態度を見た首座(先輩)が感嘆して、あるとき「あなたはここにきてどのくらいになりますか」と尋ねます。
三年という答えをきいた首座は、それでは、黄檗禅師に参じて、「仏法の根本義は何ですか」と問うてごらんなさいと言います。言われた通りに臨済が質問すると、黄檗禅師はすぐさま臨済を棒で打ちます。
その後、再び首座に励まされて黄檗に参じますが、また打たれ、結局、三度尋ねて、三度打たれることになります。
臨済は「せっかくお心にかけていただいたのに、奥義を悟ることができません。お暇をいただきます」と首座に言って黄檗の元を去ろうとしますが、そのとき首座は、「それなら、必ず黄檗禅師にご挨拶をしてから行きなさい」と言います。首座は臨済より先に黄檗禅師のところに行って、「なかなか見どころのある若者ですから、どうかよろしくお導きください」と頼みます。黄檗は、「ここを去るなら、大愚和尚のところに行け」と言います。
大愚を訪ねた臨済は、「黄檗和尚に三度、仏法の根本義を尋ねて、三度打たれました。何が悪かったのでしょう」と聞きます。大愚は、「黄檗はそんなに親切におまえに対してくれているのに、ここまでやって来て、何が悪かったのでしょうと私に尋ねるのか」と言います。
臨済禅師はそこでたちまち大悟するのです。

難解な禅語録や史書は、入矢義高先生、柳田聖山先生をはじめとする諸研究者方のおかげで、こんなふうに私たちにも親しめるようになりました。

禅師たちの悟りの機縁には黄檗禅師や大愚和尚のようなお師匠さんたちの「親切」がごろごろあふれています。
棒で打ちのめすことのどこが「親切」なのかとも思われるのですが、弟子にとってはもちろんのこと、師の方も棒で打ってやろうなんて微塵も思っていなかったに違いない。この棒は「思いもよらない」ところから湧き出たものでしょう。「何故無し」の棒だからこそ棒が生きる。生きた棒は真の禅者を誕生させます。

こんなふうに、わたくしたちの時代まで、脈々と灯が伝わってきたのです。1150年は大した「時間」です。しかしもし今、わたくしたちが真に臨済禅師に会うことができたら、この1150年は瞬時に消え去ることでしょう。

臨済禅師からおよそ400年後に出られた大燈国師は、「とんでもなく離れていても、かたときも離れていない」と言っておられます。時を経ていても、大燈国師は臨済禅師とピタリとひとつであったに違いありません。それこそが「禅」であり、「伝灯」でありましょう。祖師に見(まみ)える。このことは僧俗も問わないかもしれません。

こんな融通無碍な「系譜」を思うと、凡夫の私のこころも何とはなしに浮き立ってくるのです。

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臨黄ネット 今月の禅語より

 

140205.jpg臨済宗黄檗宗の公式サイト(事務局は禅文化研究所です)、臨黄ネットの今月の法話。

親者不問 問者不親
とうものしたしからず、したしきものはとわず

皆さまはどう思われますか?厳しいでしょうか、それとも、うんうんと頷かれますか?

私は、はっきりと思っていました。
たとえばダライ・ラマ法王や、佐藤初女さんの講演会などへと足を運び、最後に貴重な時間を取って行なわれる質疑応答。なんと愚問の多い事かと・・・・・・。
「講演者の著書を一度でも読んでから来たのだろうか?そこにその答えはあったはずだ」。「まさに今、お話になられた中でその事(質問の答えになること)に触れ、語っておられたではないか・・・」。
講演へと足を運びながら、本気で“聴く”という事ができていないのだと思います。

誰もが直接、あのような方達に話を聴いて欲しいのは共通した願いで思いです。ただ、本当に切羽詰まっている方の為に身を引くという選択もあると思います。自分本位ではなく、万人の為となるような質問であれば、有意義な時間となるでしょう。自分が言っている事を正しいと皆の前で認められたい・・・というような欲が見える質問も目立つのです。
ただし、法王猊下や初女さんともなると、本質を見抜く力をお持ちですので、利己的な質問は軽く流されますし、ご自分でお考えなさいと一掃されます。質問者はがっかりしたような顔になりますが、いつかその意味もわかる時が来るでしょう(来ると思いたいです)。

私の中で色々な名言が印象的な、福森雅武先生(土楽窯7代目)も、「自分の中で8割方答えが出ている事を聴きなさい。そこまで考えて初めて質問しなさい。何も無しにただただ質問するのでないっ!」とある方に言われた事があります。
ハッとさせられました。先生のことばや、この禅語を肝に銘じていたいと思います。

 

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「南木夢」「七生心」とは?! -毒湛和尚語録より-

 

140123.jpg『後醍醐帝笠置山皇居霊夢之圖』(尾形月耕) 
wikipedia“笠置山の戦い”より拝借

毒湛和尚語録からたびたびクイズを出させていただいております。
先日の問題の答えを発表致します!

まさに、南朝の忠臣で、明治になり南朝が正統とされると、「大楠公」と称され、明治十三年には正一位を追贈された【楠木正成】です。

画賛の「南木夢」は、後醍醐天皇が笠置山で、「紫宸殿の庭前と覚えたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂りて、南へ指したる枝、殊に栄え蔓(はびこ)れり云々」という夢をみて、覚めて、「木に南と書きたるは楠と云う字なり」と悟り、正成を召されたという故事(『太平記』巻三)。

「七生心」は、正成の最期の故事。「正成、座上に居つつ、舎弟の正季に向かって、『抑(そも)そも最期の一念に依って、善悪の生を引くといえり。九界の間に何が御辺の願いなる』と問いければ、正季カラカラと打ち笑うて、『七生まで只だ同じ人間に生まれて、朝敵を滅(ほろ)ぼさばやとこそ存じ候え』と申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、『罪業深き悪念なれ共(ども)、我れも加様(かよう)に思うなり。いざさらば同じく生を替(か)えて此の本懐を達せん』と契(ちぎ)って、兄弟共に差し違えて、同じ枕に臥しにけり」(『太平記』巻十六)。
後世、この誓いは、七生報国の誓いと言われるようになります。

時代錯誤のようにも思われますが、現代人が忘れかけている何かがあるような気がします。
また出題したいと思いますので、どうぞお付合いください。

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毒湛老師画賛より出題

 

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皆さまおはようございます。
またまた、『毒湛和尚語録』(明治期を代表する禅僧・ただいま絶賛訓読中)より問題です。


嗚呼南木夢、感慨七生心。勳業雖中敗、忠貞擧世欽。


これは毒湛老師が、さる御方の肖像画に書かれた画賛です。
読み下します。

嗚呼(ああ)、南木(なぎ)の夢、感慨、七生(しちしよう)の心。
勲業(くんぎよう)中ごろ敗ると雖(いえど)も、忠貞、世を挙(こぞ)って欽す。


ハイズバリ、誰の肖像画に書かれた画賛でしょうか。
「南木夢」「七生心」の意味を書いてもらわないと正解にはなりません。

またまた、正解者の方にカレンダーをプレゼントさせていただきます(先着3名様)。
どしどしお答えくださいませ!

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毒湛老師、出雲へ 正解は?!

 

140108.jpg出雲大社

皆さんおはようございます。
本日は、毒湛和尚、出雲へ・・・の問題の解答です。


答えは、スサノオノミコトが、ヤマタノオロチを退治して、オロチの尻尾の中からクサナギノツルギが出たということです。
出雲神話を題材にされた面白い偈頌ですね。なぜ「神蛇」ではなくて「神龍」なのかは、お寺の山号が「雲龍山」だからです。「八雲立」は、出雲に掛かる枕詞です。

今回は、「スサノオノミコト」「ヤマタノオロチ」「クサナギノツルギ」の3つのキーワードを思い起こされた方、正解です!
という事で、コメント欄にご記入いただいた方(ありがとうございます!)のうち、ただすさんと桑村憲治さん、正解という事でカレンダーをお送り致します。
お手数をおかけ致しますが、念のため、こちらまで、メールにてご住所をお知らせくださいませ。

次回の問題をお楽しみに!

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百尺の金鱗 正解は?!

 

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百尺金鱗躍搏天、騰光照射景陽巓。
百尺の金鱗(きんりん)、躍(おど)って天を搏(う)つ、光を騰(は)せて照射す、景陽の巓(いただ)き。

先週木曜日に出題しました問題の答えです。
簡単すぎましたか?! 名古屋城大天守の金の鯱(しゃちほこ)です。

ただし、鯱だとわかっただけでは、この漢文を理解するまでには到らないのです。もう一つふみこんで考えねばなりません。

「金鱗」は、「網を透るの金鱗」などと言われて、勝れた禅僧の喩えに使われますが、ここは、名古屋城の別名である金鱗城に引っ掛けて言われたものです。
それが分からないと、名古屋の「総見寺」と「金鱗」はまったく結びつかないのです。

禅録を読むには、仏典や祖録の教養が必要ですが、禅のお坊さんたちは、時々こういう引っ掛けをして下さいますから、後の者は困ってしまいます。ヤレヤレです。

次回は、出雲に行かれた時の偈頌から出題しますのでお楽しみに!

*画像はWikipediaよりお借りしました。

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円覚寺管長・横田南嶺老師テレビ出演

 

130809.jpg円覚寺 妙香池にて

皆様こんにちは。
明日から18日まで、禅文化研究所は夏期休業とさせていただきます。
本日午前10時までにいただきました書籍のご注文は、本日中の発送とさせていただきますが、それ以降のご注文につきましては、18日以降に順次発送となります。
ご迷惑をおかけ致しますが、どうかご了承くださいませ。

 

さて、そんな夏休み前に大事なご連絡を。

BS朝日「いのちを語る」に、円覚寺管長・横田南嶺老師がご出演なさいます。
前編が8月13日(火)、後編が8月20日(火)で、時間は19:24~19:54の予定です。
変更もあるかもしれません、こちらでご確認くださいませ。

為末大さんが円覚寺をお訪ねになられ、横田管長と“いのち”についてお話になられます。楽しみですね。

横田管長DVDはこちら。書籍はこちらからどうぞ。

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庭先にころがる禅

 

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花無心招蝶 蝶無心尋花

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花園大学学長講座 -円覚寺管長-

 

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昨日お伝えしました通り、この時期、本山での暁天講座、坐禅会などが盛んに開催されますが、毎週月曜日、花園大学教堂において、学長講座(予定表PDF)と題して、管長様や老師方や、禅の研究者の先生などがお話されたりしています。

7月15日(月)は、研究所はお休みをいただいておりますが、学長講座にて、鎌倉は円覚寺の管長・横田南嶺老師がお見えになられますので、もちろん私もお邪魔する予定でおります。

「管長様の法話をまとめてみました」。でおなじみの、居士林ブログや、そのブログをまとめた本をいつも拝読していますが、直にお話が拝聴できるまたとない機会です。

いつも老師方のお話を拝聴していると思うのですが、本になったものを拝読するのももちろん素晴らしい事ではあるのですが、何よりもライブ感が良いのです。実際にお会いして、生のお声を拝聴し、お姿を拝見してこそ、色々を感じ得るわけであります。
どの老師様も味わいというのでしょうか、それぞれの生き様を見せて下さいます。
是非とも、足を運んでいただきたいわけです。

何よりも、私が一番楽しみにしているのですが……。

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"信"を問う

 

130617.jpg先日、友人宅で大学時代のゼミ担当教授・松田高志先生による学びの会、分かち合いの会がありました。

この日のテーマは、『私の宗教観~イエスの例え話を手掛かりとして』。
聖書の様々な箇所を知る機会を得ました。そのうちの一つ、マタイ25章「タラントンの譬え」。タラントンは、いわゆるタレント(才能)の語源ですね。

旅に出る主人に、それぞれ力に応じて、5タラントンを預った僕は、それを元手にもう5タラントンを儲け、2タラントンの者は、もう2タラントンを儲け、帰ってきた主人に「よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」とほめられますが、1タラントンを預り、地中に埋め、大事に保管した僕は、「怠け者の悪い僕だ。この男からタラントンを取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、もっていない人は持っているものまでも取り上げられる」と叱られ、追放されるお話。

皆さんは、このお話をどうお考えになられますか?


松田先生は、「神から見れば、力に応じて“少しのもの”を預けられたのだから、力一杯やれば必ずやれるのではないか、それどころか、まだまだやれると気づくのではないか、逆に大き過ぎるよう(神から見て僅か)で尻込みするなら、その“僅か”も失ってしまう」と仰っています。

私は、“信”を問われているように思いました。神を信じ、自身を信じる事への欠如についてを諌めているような……。人間の弱さ、もろさをよく突いていますね。

そこで思い出したのは、今度は禅のおはなし。
5月27日の花園大学学長講座にて、八幡の圓福僧堂の政道徳門老師が講演をされましたが、その内容が、『臨済録』-示衆-より、「信」という事についてでした。


「病は不自信の処に在り。菴黴€若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。菴黴€(なんじ)若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。汝は祖仏を識らんと欲得(ほっ)するや。祇だ汝、面前聴法底(ちょうぼうてい)是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求(ちぐ)す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終にその活祖意(かつそい)を得ず」。


仏教だ禅だと色々学んではその知識を人にひけらかしたり、さもわかったように説いたりするが、一体全体、自分自身がちゃんとそれを信じて飲み込んでいるのか。「良い薬がありますよ、この効用はこうでああで…」と話しているわりに、自分自身はその薬を服用もせず、病んでいたりしないか?!あれがいい、これがいいのでは?!と、結局定まる所を知らず、ウロウロしてはいないか?! という事をお話され、“信”について、聴衆に問われました。

仏教、キリスト教、つきつめれば世界の宗教は結局のところ、同じ事を言っているのでしょうか。

信じる者は、救われる?!

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愚堂禅師の禅 講演会

 

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何度かご紹介させていただいておりますが、花園大学歴史博物館と禅文化研究所が共催で、2013年春期企画展「大圓寶鑑國師350年遠諱記念 大仙寺展」を開催中です(6/8まで)。

本日はそれにちなんだ講演会の日です。
おでかけの予定がまだ決まっていない方は、是非ともおこしください。

展示も今週土曜日までですので、本日展示をご覧いただき、講演をお聴きいただくのが、愚道禅師の息吹に触れるには一番かと思います。

◆6月5日(水)本日! 13:00~14:30
「愚道禅師の禅」 河野太通老大師(妙心寺派管長)
*無料

場所は花園大学内、教堂にて。
花園大学への行き方は、こちらからどうぞ。

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人生ママナラヌコト




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宍道湖から望む夕景

先日、友人宅での松田高志先生によるお勉強会にて、鈴木大拙先生のおことばが登場しました。

「人生 ママナラヌコトニ出遇ハナケレバ 道ニ 契(カナ)フコトハ出来ナイ」

ママナラヌ事の真っ只中にいる時はそんな事を言われても何がなんだかわからないでしょうが、喉もと過ぎて振り返れば、そうなのだなと心底思えます。
ママナラヌ事に遭遇しても、「ありのまま」を受け入れる事で道がパッと開ける。

この日は、「ありのまま」・「事実唯真」についてのお話の会でした。

人間はなかなかに、自分の事に関しても、周りで起こっている事に関しても、ありのままにとらえる、ありのままに見るという事ができない、素直になれない、何か勝手に自分自身でヴェールをかぶせてみたり、歪んで見てみたりするようです。

ただただ、"見る"。
このあたりの"ものごとの見方"に関して、禅宗の祖師方や老師からヒントを多々いただいている気がします。

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“創造的な”




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2012秋「東嶺展 -書画と墨跡-」出展品(滋賀・瓦屋寺蔵)

季刊誌の特集のことで、ある老師と電話でお話しした。老師のお話は結構「飛んで」いて、受話器を置いたあとも愉快で、いつだって余韻が残る。今回はまた一層面白かった。

老師は住職をされている寺についても、ご開山についても、緻密に文献等を読み込まれていて、知識ももの凄いが、その凄さが軽薄とも思われるような語り口で軽々と空を飛ぶので、つい私も浮かれて、一度もちゃんと読んだことのないウロ覚えの書物の名前を知ったかぶりに言ってしまった。一瞬の間があって、「○○と言ってよ」と老師がその書の正しい読みを歌うように口ずさまれたのだ。私はその時、しまったとも、恥ずかしいとも、ワタシはなんてオロカなんだとも思わなかった。ただわけもなく嬉しかった。心に羽が生えたみたいだった。私のツマラナサが、老師の”創造的な”「○○と言ってよ」とともに跡形もなく消えてしまったのだ。

今思えば、老師の言葉には「根」が生えていなかった。「この書名を間違えるようでは、こいつの知識も半端だな」「偉そうに、知ったかぶりをしてもすぐボロがでるよな」といったものを一切含まない「○○と言ってよ」だった。「私がこいつの無知を正してやる」という「○○と言ってよ」だったら、おそらく私の「オロカサ」は老師の「ワタクシが」のオマケとともに悲惨な余韻を残していたことだろう。

人の器量は咄嗟のときに垣間見える。いくらキレイを装っていても、「我(が)」が侵されそうになったら、たいていの人は自衛にまわる。室内で師家が雲水を叩きまくるのは、雲水の「我」を追い詰めて、咄嗟の自衛を木っ端微塵にするためなのだろう。なんと温かい親切か。

私は室内の修行などまったく知らない素人だが、老師の明るいお声を受けて、私の「つまらん我(が)が自衛にまわることすらなく、「つまらん私」から、一瞬スルリと消えたのを感じた。その心地よさは、今なお不思議な余韻として残っている。

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温泉と禅僧




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狩野一信画「五百羅漢図 浴室」(増上寺蔵)『日本の美術534』より

ヒット中の映画「テルマエ・ロマエ」をレイトショーで見てきました。
ネタばれはよくありませんので、「面白かった~! オススメです!」とだけ、申しあげたいと思います。

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映画のストーリーとはまったく関係ないのですが、今日は“温泉と禅僧”のかかわりについて。

温泉が病気や怪我に効くというのは、日本人なら誰でも知っていることだと思いますが、実は、それを利用したり、ひろめたりしていたのは禅僧でした。
なかでも有名なのは室町時代の曹洞宗の禅僧の源翁心昭で、いろいろな場所で在地の神様(山神や竜神)に引導(授戒)をおこない、その返礼で、寺を守護してもらったり、泉や温泉を出してもらったりしたと伝えられています。
源翁さんが開いた温泉として有名なのは、熱塩温泉(福島県耶麻郡)です。

禅僧の温泉好きは、重要な文学作品を生み出したことでもまた知られます。
明応9年(1500)5月5日~23日に有馬温泉で湯治していた夢窓派の禅僧の寿春妙永と景徐周麟との間で交わした聯句の集成が「湯山聯句」です。またそれに一韓智■(コウ)が注をつけたのが「湯山聯句抄」という作品(抄物)になります。

室町時代の京都にいた五山僧にとって、もっとも親しみがあった温泉は、有馬温泉だったようです。

「湯山聯句抄」には「垢を洗い、病を治さうとてかと云に、いや、元来法身は清浄なれば、洗ふべきの垢もないぞ。治すべき病もないぞ。さるほどに、今湯に入るは、この無垢を随分至極と思ひ、無病を至極と思ふ、この心を洗ひ去けんとてあるぞ」とあります。

当時の禅僧の一般的な考えかはわかりませんが、「元来、法身は清浄なのだから、洗いおとすべき垢や治すべき病はない。無垢や無病を当たり前だと思う心こそ垢がついて病んでいるのだ」と一韓は述べています。

「無垢や無病を当たり前だと思う心こそ垢がついて病んでいる」とはなかなかおもしろい発想だと思います。現代人のわれわれにも何かしら参考になるかもしれませんね。

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問答




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相国寺の有馬賴底管長インタヴューを読んだ。聞き手は日文研の末木文美士(ふみひこ)先生である。末木先生の核心的な直球に、管長が間髪を入れず即答される。

脳死と臓器移植
末木 脳死の問題ですが、それに伴う「臓器移植」ということについてお伺いしたいのですが。
有馬 脳死は「人の死」ではありません。……臓器は「もの」じゃない。売り買いする「もの」じゃない。……人間の死という問題をもっと深く考えないとこの問題は解決しません。……「寿命」ということを受け入れんといかんのです。三歳の寿命もある、百五歳の寿命もある。

死刑制度
末木 死刑の問題はどうお考えになりますか。 有馬 死刑も絶対にダメ。死刑は廃止しなければいけない。殺したから殺すんだというのはダメなんです。仏教には「復讐」という二字はありません。

天皇制
末木 天皇制をどうお考えになっていますか。
有馬 天皇制は守るべきだと思っています。つまり日本文化を守ろうと。……少し前に女帝の問題が取り沙汰されました。……男女じゃない。皇室の伝統、つまり日本文化をいかに守るかということなんです。女帝でも全然かまわない。

末木先生は、「脳死・臓器移植の問題にせよ、死刑制度にせよ、老師の力強いお言葉を聞いていると、その迫力に圧倒されます。何事も曖昧にしないで、きっぱりと主張し、断固として戦う姿勢を持っている。老師は”憲法九条京都の会”の代表世話人でもあり、熱心な平和活動はよく知られています。こういう方がいる限り、日本の仏教も捨てたものではない」と軽快に端的に述べられている。

またこの対談の後に起こった東日本大震災について、有馬管長は以下のように付記されている。「私は七月二十五日、福島県庁に佐藤雄平知事を訪ねました。理由は二つ。一つは、京都府内の各ご寺院からの心からの義援金が二千万円を超え、これを直接知事に手渡したかったため。二つ目は原発NOを伝えるためだ。あれだけの安全神話が広報されてきた原子力という生態圏外のエネルギーが大地震によって、いともたやすく瓦解する現実を見て、原発が火山帯に位置し活断層の多い我が国にとってどういう存在なのかを今一度真正面から考えたいと強く思った(以下略)」

この「禅のこころ 禅の文化」と題されたインタヴューでは、禅修行にまつわるお話が多く、何度もはっとしたが、今回はそのことには触れなかった。

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山田無文老師




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山田無文老師は、禅文化研究所の初代所長でしたが、花園大学の学長も長く勤められました。
当時花園大学では、春と秋に各々5日間の摂心があったようです。
全学を挙げての摂心で、教員、職員、学生は全て参加することになっていました。
ところがある摂心の前日、学生が摂心反対のストライキを起こし、学長もまじえて大学当局と話し合いが行なわれました。

学生の言い分は

「学生は勉強を優先すべきで、坐禅は僧堂に入ってやればよい」

というものでした。ワアワアと騒ぎ立てる学生に対して、最後に無文学長が、

「学長の教育方針が通らんような大学なら、わしは学長を辞める」

と言われたのだそうです。
学生たちは途端に静かになり、翌日からの摂心は予定通り行なわれたのでした。
宗門立花園大学の面目躍如、嬉しくなるお話ですね。


『自己をみつめる』山田無文

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-円覚寺・居士林だより-




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【円覚寺・居士林だより】

このブログをたまたまみつけてからというもの、遡って記事を拝読してみたり、毎日の更新を楽しみにしています。

臨済宗大本山円覚寺(鎌倉)の僧堂攝心や、皆様方も参加可能な坐禅会、法話の会における老師のお話や、美しい円覚寺の四季などが紹介されているのです。

鎌倉と京都、物理的に遠く離れていても、我々凡夫にも非常に明解に、わかりやすく語りかけて下さる老師のお話を、このようにブログで拝読させていただける有難さにおいては、個人的に少し否定しがちな“発達しすぎ?な科学技術”も、やはり素晴らしい面があるものだ……と思うわけです。


禅に関する事を少しでも掴みたい、学びたいという方は、どうぞ禅文化研究所のブログよりも、こちらのブログを是非毎日ご高覧下さい。と、熱い気持ちでお伝えしたいのです。
理解の及ばないような難しいことばよりも、賢者が伝える、万人に伝わる易しいことばの中にこそ、真理があるのだなと思います。

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「茶道箴」・「茶道小箴」・「人類の誓い」 -久松真一先生-




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茶の湯の稽古を始めた頃(約10年前)、兄から一冊の本を見せられました。
そこには、言葉では表現しにくいのですが、柄杓を持つそのお姿があまりに美しい紳士の写真がありました。単に“点前の型が美しい”のではない。その方の生き様、心の持ちよう、在りよう、そのものが全身から滲み出ているような感じを得たのでした。

“目指す”と言ってしまうとおこがましいのですが、それ以来、柄杓を持つ自分の姿、今の自分の在りようがどうであるのかと、度々あのお姿を意識しながらお稽古を続けて来ました。

そして先日、ふとした御縁から、まさにその“柄杓を持つ御方”久松先生ゆかりの会にお邪魔する機会を得て、「茶道箴」・「茶道小箴」「人類の誓い」にいたく感動しましたので、皆さまにお伝えしたいと思いました。
久松真一記念館のサイトに掲載されていますので、是非ご一読下さい。

禅文化研究所発刊
『久松真一の宗教と思想』

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花園大学 無料公開講座 -禅とこころ-




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弊所は花園大学内にあります(花園大学の研究機関ではないのですが……)。
そんな研究所のお隣にあります花園大学教堂にて、毎週月曜日の10:40~12:10、無料公開講座-禅とこころ-が開催されています。

次回は4月18日。

花園大学の学長で、弊所の理事長でもある、細川景一師による禅語の講座です。
毎週、禅語であったり、禅の文化であったり、提唱であったり、様々な禅に関する講座が開催される予定です。
弊所のブログでも御案内して参ります。

講座の前には、いす坐禅と読経も。お近くの方、ご関心ある方は是非ご参加下さい。

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天上天下唯我独尊




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今日は仏教の三仏会の一つ、降誕会(お釈迦様のお誕生日:花祭り)です。

ネパールに近いカピラヴァストゥという国の城主であったシュッドーダナを父とし、隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘のマーヤーを母として、現在のネパールのルンビニにて生まれました。ゴータマ・シッダールタと名づけられた、後のお釈迦様は、生まれるとすぐに七歩歩き、右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊(天上にも天下にも、唯だ我れ独り尊し」と言ったと伝えられます。

これをよく「世界中で私が一番偉いのだ」と捉えて、お釈迦さんともあろう人が、なぜそんな横柄で偉そうなことを?と思う方もおられるようです。また、もちろん生まれてすぐに歩くことなど尋常ではできるはずもなく、赤ん坊がそんな言葉を言うことももちろんできそうにもありませんが、それは偉人によくある、弟子たちによって後に作られた伝説として捉えればいいでしょう。
しかし、そうまでしてお釈迦様が生まれてすぐに言われたとするほどの、この言葉の意味は取り違えないようにしたいものです。

世の中で、この自己こそが、かけがえのない存在であり、かけがえのない命(いのち)である、ということです。そしてここで言う「我」は釈尊自身であり、あなたや私自身でもあります。生きとし生けるものすべての「それぞれの命」です。

今、東北地方はこの度の地震と津波による震災で相当な被害をうけ、そこに暮らしてきた人びとの生活はままならないことになっています。原発の放射能漏れにさらされている福島の人たちも同じです。
またその中で、自分の命をも顧みず、放射能漏れを止めようと前線で懸命に働いてくれている人たちがおられます。私たちは彼らに託すより仕方がありません。

しかし、自らのかけがえのない命と引き換えに、私たちの命、植物の命、魚の命が守られるように働いてくださっているのです。「有り難う」の言葉しかありません。

大本山妙心寺の生活信条の二番目に、「人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう」とあります。「天上天下唯我独尊」を言い改めたものと言えるでしょう。

本来は、まず自分の生活を大切にしてはじめて、他人の生活も大切にできるのだと思いますが、今まさに福島原発で放射能にさらされながら作業をしている人たちは、そうではないのです。
まるで第二次世界大戦において、お国のためにと散っていった人びとと同じではないかとさえ思います。

こういうことになってしまうような原子力発電に頼る生活環境を作ってきてしまったことを、我々一人ひとりの責任と感じて、一日も早く正常に「自他の生活を大切に」できる日が来ることを願ってやみません。

「天上天下唯我独尊」とみんなが言える日が来ることを祈って、甘茶を小さなお釈迦様の像に潅いだのでした。

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“禅”ってなんでしょう。 -職員オススメ本-

このブログの読者の方には、「禅に興味を持って、色々検索したら辿り着きました」と、有難い事にそういった理由から毎日楽しみにしてくださっている方々がいらっしゃいます。

では、一体禅って何?どこから勉強すればいいの?などと思う方も多いのではないでしょうか。易しく解説された『無門関』や、『臨済録』などを読むのももちろん素晴らしい! まず行動をと、坐禅会にゆかれるのも素晴らしい!

でも、もしかすると、この、“言葉では言い表せない世界観”を一番よくわかってもらえるのは、この方の生き様について書かれたこの本かも知れないなぁ……と、ふと思った次第です。
『森本省念老師〈下〉回想篇(燈影撰書)』

永源寺派管長の篠原老師は、この方の生き様を見て、腹の底から良いなぁ…と思われて出家を決意されたのだとか。私もインタビューに行かせていただく前にこの本を読み、またたく間に森本省念老師に惹かれてゆきました。
是非ぜひ、皆様にオススメしたい一冊です。

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因縁因果の…… 中川宋淵老師




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このブログでも何度か書かせていただいていますが、大学卒業後、松田高志先生(神戸女学院大学名誉教授/神戸常磐大学教授)のご指導のもと、ゼミを続けています。
先日のゼミでのお話をご紹介。

松田先生は参禅経験もあり、禅文化研究所の哲学研究班にも所属されていましたので、よく禅関連の話が出てきます。

人生とはどういうイメージで考えられるか…という話の中で、とても興味深い中川宋淵老師(1907-1984 三島・龍澤僧堂師家)の御言葉を松田先生が引用されていました。


「人生とは、因縁因果の大展開、大活動だ」


皆さんはこの言葉にどのような印象を受けられましたか???
とても面白いですよね(と、私は思います)。

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年の瀬に想う

禅文化研究所長 西村惠信より皆様へ


今年もまた年の瀬を迎えました。過ぎ越し方を眺めれば、今年の出来ごとがすべてが夢のように遠く霞んでしまっています。歴史に再び繰り返すことのない「平成22年」というこの年の、365枚の日めくりを、それほどの感慨もなく破っていって、あと数枚。

忘年会と称し、みんなでわいわい騒いで忘れてしまおうというこの国の習慣。そして1年のしっかりした締めもそこそこに、もう書かなければならない来年の年賀状。

私たちが歳末から新年に掛けて繰り返す、このようなマンネリズム。「例年の如く」という社会的慣例のなかで、「今年」という年の二度とのない出来事の記憶が、簡単に薄らいでいくのは、なんとも「人生の上滑り」としか言いようがありません。

こうして、正月に始まって大晦日に終わる365日の繰返しは、そこに生きる人間存在の、2度と繰り返さない時間性を忘却させてしまうのです。

人生にも大自然と同様、春夏秋冬があります。しかし大自然のように繰り返すことのない、ただ一回きりの春夏秋冬です。人生には、また来年ということがないのです。

「年々歳々花相い似たり、歳々年々人同じからず」ということは、誰でも知っているでしょう。しかしこれが実感として身に染みる人は、少ないのではないでしょうか。

77歳の私じしん、もう人生の深い秋の中を歩いています。とても来世のための「年賀状」を書くような暇はありません。むしろ残り少ない時間の生き方だけが関心事になった、そう思って毎日を生きています。

歳の終わりに、私の好きな村野四郎の「鹿」を写して、研究所からのお歳暮とさせていただくことを、どうかお許しください。

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

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ティク・ナット・ハン 来日と京都講演開催について

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以前にここでも御案内したとおり、ベトナム出身の臨済僧、ティク・ナット・ハン師が、来たる2011年春の下記の日程でご自身二度目の来日をされることになりました。
今回16年ぶりの、2011年日本リトリートでは、京都と横浜で講演会が開催されます。また横浜では3日間の宿泊リトリート(接心)を2回開催して、随伴のプラムビレッジの僧・尼僧ら約30名のサポートにより、ティク・ナット・ハンの中心的教えである気づき(マインドフルネス)を深める修練が行なわれます。

禅文化研究所は大本山妙心寺派とともに、その前半の京都での講演会を企画し主催いたすことになりました。日本語への逐次通訳がつきますので、英語がわからない方でもお聴きいただけます。

京都講演会の参加申し込みは、ティク・ナット・ハン 2011日本ツアー 京都訪問のページより行なっていただくことができます。
日本ツアーのパンフレットはこちらからご覧いただけます。
オンライン以外の申し込みは、氏名・〒・住所・電話・同行人数を明記の上、参加費用(2000円×人数)を添えて必ず現金書留にて下記宛に郵送でお申込み下さい。追って、参加チケットとなるハガキを送付いたします(但し、発送は2011年1月10日以降になります)。

  禅文化研究所 ティクナットハン京都講演係
    〒604-8456 京都市中京区西ノ京壷ノ内町8-1 花園大学内
    TEL 075-811-5189

なお、横浜での講演とリトリートについては、ティク・ナット・ハン2011来日事務局のページをご覧ください。妙心寺派宗務本所や禅文化研究所では受け付けしておりません。

また、講演に先駆けて、季刊『禅文化』219号(2011年1月25日発行)では、ティク・ナット・ハン師の著作邦訳を多数手がけてこられた、池田久代さんによる、「ティク・ナット・ハン(釈一行)と地球仏教のゆくえ」を掲載します。

ご来場のお申込みお待ちしております。

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『笑う禅僧―「公案」と悟り』 安永祖堂著




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『笑う禅僧―「公案」と悟り』安永祖堂著


「最近、気が晴れないし、坐禅でもしてみようか」
「うちの息子、ぐうたらで根性なしやさかい、坐禅でもさせてみよか」

そんなとんでもないこと "やめておきなさい" とは司馬遼太郎さんの言である。司馬さんは、禅は危険な思想だと言う。


昔、マルクス主義が危険だと言われた時代がありましたが、(禅は)もっと根源的な意味で、人間として最も危険な、劇薬の部分を持っています。いいかげんな者が禅をやってはいけないと私は思っています。(本書98頁)

司馬遼太郎のこの言葉を、著者は、抑下の托上、つまり、この上ない褒め言葉だと言われる。


劇薬とは効き目の強い薬物であり、もっと効き目が強くなると毒薬になる。要するに、用いかたによっては薬にもなれば毒にもなる。司馬は「禅は効き目のある劇薬」という言い回しで、そのことを言いたかったのではないだろうか。

禅はどのように効き目のある劇薬か。
本書に取り上げられているのはそのことである。
世間で「禅問答のよう」と言われるチンプンカンプンな話、禅家でいう「公案」とはどんなものなのだろう。たとえば「趙州柏樹子」の章。

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所長記事掲載雑誌のご紹介 -小学館『サライ』11月号-




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先般の『セオリー』誌に続いて、今度は書店でもっと目にする小学館『サライ』11月号に、禅文化研究所所長・西村惠信の記事が掲載されています。
この号は「初めて出会う 京都」という大特集が組まれている号ですが、毎回組まれている「サライ・インタビュー」で、所長は自身が学生時代から60年も通ってきた京都のことを語っています。
その中で、京都独特の文化を育んできた気質と禅の修行とは通じるものがあると捉え、その「市中の隠」こそが京都をささえてきたというのです。

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またこの取材は、禅文化研究所、滋賀の自坊、南禅寺、と場所をかえつつ、所長の話は人生をトレースしていて、なかでも少年期になって存在を知った実の両親との、わずかな出会いの思い出なども語られています。

ナイスミドルと呼ばれる世代以上の方々に特に人気のこの『サライ』。もちろん、今号は京都特集ですから、京都のことが大好きな方々にもお薦めの一冊。今年の秋の京都訪問のガイドブックになりそうです。

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所長記事掲載雑誌のご紹介 -講談社『セオリー』-




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所長・西村惠信の記事が掲載されている雑誌のご紹介です。

講談社『セオリー』 -特集・幸福な死に方-
錚々たるメンバーによる「幸福な死に方」とは「死とは」……が語られており、所長も実に素晴らしい内容であると仰っています。
表紙を少し確認したところ、案外具体的に死を迎える方策などが書いてあるのでしょうか?!
是非本屋さんで手に取ってみてください!

さて、皆さんは「死」についてはどう考えていらっしゃいますか?
私は、生きているものがあーだこーだといくら望んだところで、こう死にたいという願望は叶わぬもので、“今”の連続を真摯に正直に生きていく事のみが、最期を決めるのだろうと思っています。
……なんて格好の良い事を言ってみつつ、なかなかに“今”を大切にできていない事が多いですし、実際、いつ死ぬかはわかりませんが、そういう事を考える年齢に達したのなら具体的な事を考えるべきでしょうか。

まだ私も読んでいませんが、本屋さんに行ってみようと思います。

ちなみに、この雑誌の編集者は、弊所の新刊『生き方。死に方』(西村惠信著)をみつけて、執筆依頼をしてきたと聞いています。

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研究所HP -読む-コーナーのご紹介




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季刊『禅文化』217号 川蔵北路を歩く(8)より 

禅文化研究所のHPにて、季刊『禅文化』より抜粋しましたいくつかの記事をご覧いただけます。
客員研究員で、北京在住の李建華氏による-聖域巡礼-では、厳しくも美しいチベットの写真が満載。
是非ご覧になってみて下さい。そして、『禅文化』のご購読もお願い申し上げます。

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季刊『禅文化』217号 川蔵北路を歩く(8)より
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Nightstand Buddists -東京禅センターより-




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妙心寺の東京禅センターさんのホームページには、様々な講座の案内があり、私なども「東京近辺に住んでいれば行きたいのになぁ…」と思うものが多々あります。
久々にホームページをチェックしていると、なにやら気になる文字が。
「Nightstand Buddists……なんだろう」と思いクリックすると…。

週に一度、それも一週間の仕事を終えた金曜日に更新というのが良いのです。
今では私も毎週楽しみに拝読しています。 皆さんにも是非オススメしたく、こちらでご紹介させていただきました。携帯の「お気に入り」にご登録下さい!

なお、東京国際ブックフェアにて禅セミナーを開催し、多くの方にご参加いただきましたが、引き続き禅に関心があり、学んでみたいという方は、東京禅センターさんのセミナーに是非足を運んでみて下さい。最近では、ZEN Cafeが好評のようです。

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散歩途中に坂村真民のことば




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京都市上京区にある、聖ドミニコ女子修道学院の門前に、仏教詩人・坂村真民氏のことばが…。
「ほぅ……キリスト教の修道学院の掲示板に…」としばし立ち止まって眺めた。
それにしても、美しい字で書かれ、美しい額に丁寧にはめられて、その事がさらにハッと目を惹くことばとなっている気がする。
どのような人がこの言葉を決め、ここに掲示したのだろう。こちらの前を通る人の事を思い、“思い”を込めてこの額が掲げられたのがなんとなくわかる。

次回またここを通るのが楽しみだな……と、清々しい心持ちでその場を去った。

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歴史秘話ヒストリア "みんな好き好き一休さん"




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NHK総合テレビの歴史秘話ヒストリア(毎週水曜22:00~22:43)に、弊所所長・西村惠信先生が登場します。
平成22年4月21日放送分の、
「第37回放送予定 みんな好き好き一休さん ~禅の心で自由に生きろ~」
において、一休禅師の奇行の真意について究明します。

「とんちの一休さん」と、一般にはあの可愛らしいアニメの一休さんのイメージですが、実はそのイメージとは全く違う、風狂の禅僧。後小松天皇の御落胤という説もあり、大悟しても師の華叟宗曇からの印可状を受け取らなかったり、お正月に杖に骸骨をつけて「ご用心ご用心」といって歩いたり、破戒としかとれないような行動をしたり・・・。

有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け(一休)


この歌は、一休の道号のもとにもなる有名な歌ですが、我々人が生きていく上でもっとも大切な生死(しょうじ)にまつわる真実の歌です。

何かにつけて理解を超えた行動をとった、一休禅師の境界に少しはせまることができるかもしれません。
どうぞお楽しみに。


※ 一休禅師関係の書籍(禅文化研究所発行 現在ご購入可能なもの)

 『一休道歌 三十一文字の法の歌』(禅文化研究所編)
 『大徳寺と一休』(大徳寺塔頭 真珠庵前住職 山田宗敏著)
 『一休和尚抄 般若心経圖會』(禅文化研究所編)


5月18日、西村惠信所長といく禅と文化の旅 参加者募集中!

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木瓜の花




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我が家では、大好きな花屋さんで買ってきた木瓜が花盛りを迎えています。
なんともいえない色。見ていると癒されながらも、よくもまぁこのように咲くものだ……と、不思議な気持ちになります。
まさに-不審花開今日春-。
「不審庵」というと、表千家の茶室、代々のお家元の号でもあり、また、屋敷全体を指して使われますが、この禅語から来ています。
これは、利休さんが参禅の師である古溪宗陳に求めてつけられたとの由。
今でも家元の茶室、不審庵には、古溪和尚による扁額が掲げられています。

と、話がずれましたが、木瓜の花、花が咲いている時はうっとりと眺めていますが、その後をあまり知りません…。
実は、実がなり、その実は果実酒に使われたり、ジャムにもできる上に、疲労回復などの効能もあるそうな。美しいのみならず、きちんと仕事します!
花言葉は、色々調べてみると、「先駆者」「指導者」「平凡」などなど様々。先駆者と平凡の花言葉を同時に持つとは如何に?!?!「先駆者」・「指導者」は、梅よりも早く春一番に咲くから…といったところでしょうか。
季節の花も、見るのみならず色々と調べてみると面白いものですね。

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線香の煙




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『白隠禅師年譜』12歳の時(元禄九年:1696)に次のようにある。

一日、香を菅神の画真の前に点して、再拝稽首して謂(おも)えり、「我が願い虚しからずんば、香煙端直にして天に沖(あが)る象(かたち)を示したまえ」と。黙祷すること良(やや)久し。眼を開けば即ち一道の香煙、直(まっすぐ)に天を衝(つ)くを視るも、已(すで)にして風来たって飄乱(みだ)る。尚お魔障の免る可からざることを恐る。

12歳の岩次郎(白隠の幼名)は、地獄の恐ろしさに怯えたため、菅神(天神さま)を信じ、日々拝んでいたが、ある日、その画像の前に線香を立てて、我が願い(地獄から救われる)を叶えていただけるならば、線香の煙を真っ直ぐにあげてみせて欲しいと願った。おもむろに眼を開くと、最初にまっすぐに上がったかのように見えたが、風が吹いてたちまち乱れ、まだ地獄の恐怖から逃れられないことに気付いたのである。

つまり、線香の煙は、幼少の白隠にして、その立ち上り具合で何かの御利益を得られるのではないかと思わせるほどのものであったのだ。

ところが、最近は、この煙の立ち上らない線香があるのだが、ご存じだろうか。概ねラベンダーの香りなどで、普通の線香には無いような香りだけがして、煙はまったく立ち上らない。
ひょっとしてご自宅のお仏壇に立てているお線香は、まさしくそれだと仰る方もおられるかもしれない。
できれば、そのお線香は使わないで、いい香りのする天然のお線香を使うようにしていただけないだろうか。

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恭賀新禧  -2010年 元旦-




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画 西村惠信


明けましておめでとうございます。
今年も当研究所の発展に、倍旧のご協力とご支援を頂きますよう、スタッフ一同に代わってお願い申し上げます。

さて、禅語に「虎は是れ山獣の君」というのがあります。虎こそは獣の中の筆頭だ、ということでしょう。中国で禅宗の盛んであった唐の時代、禅僧たちは深山幽谷に入って修行生活を送っていました。そこでは彼らの周りに、いつも虎たちが集まってきて寝そべっていたと伝えられています。

禅僧たちはやがて、自分たちの間で禅機(悟りから出るはたらき)の優れた人を「大蟲」(だいちゅう)と呼んで畏れるようになりましたが、大蟲とは他ならぬ「虎」のことであったのです。このように虎と禅僧たちは、お互いに親しく共生していたのでした。

その頃、仰山慧寂(きょうざん・えじゃく)という人が、南泉普願(なんせん・ふがん)の弟子である長沙景岑(ちょうさ・けいしん)に向かって、「あなたは禅僧としてどんなはたらきを示されるか」と言いますと、長沙は何も言わずに飛びかかってきました。仰山が驚いて、「あなたはまるで大蟲のようだ」と言ったことから、時の人は長沙景岑のことを「岑大蟲」(しんだいちゅう)と呼ぶようになった、と『伝灯録』などに記されています。

今年はその寅の年ですから、まさに禅宗の当たり年。現代のような混迷の時代にこそ、猛虎のようなはたらきを持つ指導者が一日も早く現われて欲しいものですね。禅語に、「虎は嘯く五更の前」というのがあります。虎は決まって夜明け前に吼えるらしいのです。今年の元朝にはひとつお互いに、この濁世を震撼させるような猛虎の一声に、耳を傾けようではありませんか。

禅文化研究所 所長 西村惠信

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お釈迦様お悟りの日 -成道会-




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本日12月8日には、仏成道会が各寺院で行なわれる。
お釈迦様が菩提樹の下で7日間の坐禅の後、12月8日の暁の明星をご覧になって、お悟りを得て仏になられた、仏教徒にとってはとても重要な日である。

上の写真は、自坊にある「出山釈迦像」の軸である。坐禅をされる前にお釈迦様は、雪山(ヒマラヤ)で6年にもわたる苦行をされたが、苦行だけでは悟りは得られないと判断し山から出てこられた。その時の様子を描かれたのが、この像である。目は光り輝き、髪は乱れて、痩せ果てた苦行の様子が見て取れる。
雪山から出てこられたお釈迦様は、尼連禅河で沐浴をされ、スジャータという女性に乳がゆを供養された。そして心身を回復された後、菩提樹の下で坐禅をされ、ついにお悟りを得られた。
そのお悟りの言葉が、「奇なるかな、奇なるかな。一切衆生、悉く皆な如来の智慧徳相を具有す」である。生まれた時から仏と同じ智慧と慈悲を誰もが持っているのに、それを自覚しないから迷っているのだ。また別には、「一仏成道して法界を観見すれば、草木国土、悉皆成仏」というお言葉でもあったという。山も川も草も木も、何もかも光明に輝く仏だと言われたのだ。

禅道場では、このお釈迦様の故事にのっとり、その恩徳に報い、追体験をするために、12月1日から8日の朝まで、臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)が行なわれ、昼夜をわかたず横になって眠ることなく坐禅する。
そして、12月8日、この像を本堂正面に掲げて、成道会の法要を行なうのである。

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コスモス

二十年振りに親友に会った。二年前に小学校の教師を退職して、大阪にひとりで暮らしている。京都駅の中央改札口で待ち合わせをした。彼はまるで森のなかに一人でいるように、雑踏の改札口に、しんと佇んでいた。昼食を一緒にした。料理が運ばれてきたとき、彼は、「たった一人で心が餓えていると猛烈な食欲が出てくるものだ」と言った。そう言いながら彼はゆっくりと静かに食べた。貪っているのはむしろ私の方だったので可笑しかった。

どんな生活をしているのか尋ねると、彼はとても簡単に答えた。「朝起きて散歩をして朝食を取り、坐禅をして昼食をとり、坐禅をして夕食を取り、坐禅をして寝る」。一週間に二度ほどスーパーに買い物に行って、レジで「ありがとう」と言う。一週間に二回のありがとう。彼が人に話をするのはそれだけのようだった。会って三十分ほど経ったとき、この二年間でこんなに話をしたのは初めてだ、と彼は言った。

彼は私に、久松真一博士の「基本的公案―どうしてもいけなければどうするか」を、どんなふうに工夫しているかと尋ねた。私は困ってしまった。久しい前から「基本的公案」は棚上げしていた。とりあえず、「定」に入れば、公案はおのずと解けると思っていたのだ。彼はずっと持ち続けているようだった。彼は言った、「貴方に会うことになったとき、困ったなあと思った。ぼくはまったく前に進んでいないから」。私は心のなかで、「前に進んでいないというあなたの〈我(が)〉を私はどうしても捕まえることができない」と思っていた。

彼はとても温かだった。こんな温かさを現成できる人を私はあまり知らない。

以前から、彼が教師としてどれほど卓越していたかを知っていたから、学校のことをいろいろ尋ねてみた。国語の詩の授業。彼は生徒たちに詩を読ませて、「その詩のなかのどんな言葉でもいい、それについて自分が感じたこと、思い出、なんでもいいから書いてごらん」と言うのだそうだ。そうすると、生徒たちはまちがいなく全員、びっくりするほどたくさんのことを書くそうだ。生徒たちは今度はグループに別れて、それぞれが書いたことをみんなでまとめて、グループ毎に報告する。彼はそれからみんなに聞くのだそうだ、「君らにはこの詩から思い浮かぶことがこんなにあった。この詩を書いた人には、どんな思いがあったのだろうね」。子どもたちはみんな「詩」が面白いと言うという。こんな授業を受けて落ちこぼれるのは大層難しいことだろうなと思った。幼いときにこんな先生に出会えた子どもたちの幸運を思う。

正午に出会って、夜の八時に京都駅で別れた。瞬時のような気がした。それから今に至るまで、私の頭のなかを、「億劫相別れて、須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」という言葉が駆け巡っている。私は一体だれと会っていたのだろう。

かつてスティーブン・アンティノフ氏が「内なる深淵に呑まれて」(禅文化148号・150号)という優れたエッセイを書いた。

わが「友」は、そこに登場する「片岡さん」である。

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宇治茶まつり




宇治茶祭 献茶式

10月4日、晴れ渡る空のもと、名水汲み上げの儀に始まった毎年恒例の宇治茶まつり。
今年は最も尊敬する茶人、堀内宗心宗匠がお献茶をされるとの事ででかけてきました。

この宇治茶まつり、中国から茶の種を持ち帰った栄西禅師(ようさいぜんじ)と、栂尾でその茶の種を栽培した明恵上人(みょうえしょうにん)、そして千利休の3人の茶祖・茶道の先覚者の霊を祀り、茶を献じます。また併せて、茶の史跡保存と宇治茶の振興を図るために、毎年10月上旬に宇治橋周辺で行なわれるお祭です。

名水が到着 建仁寺管長による香語

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妙興僧堂 稲垣宗久老師を訪ねて




妙興僧堂


秋晴れの気持ちよいとある日、季刊誌『禅文化』の記事、-吾が師を語る-の取材で、愛知県一宮市にある妙興僧堂を訪れました。
稲垣宗久老師の師である、河野宗寛老師や挟間宗義老師について、お話を伺ってきました。

稲垣老師の飾らないお人柄、お話に魅了され、じんわり感動がひろがり、「あぁ……、師匠と弟子とは本当に本当に良いものだなぁ」などと、しみじみ思いながらお話を拝聴していると、目頭も熱くなりました。

私にも師と慕う心から尊敬する人がいますが、師と仰ぐ人を失った時の事について、御自らも師匠2人をお見送りされた経験から伺ったところ、「師匠を失ったらどうしたらいいか?じゃあこうしなさい、ああしたらいいですよとアドバイスをしてもそんなものは何の役にもたちませんよ。その時あなたが受け止める感情とか思いを、他の何かが引き受けるというような事はないですよ」と、強い大きな声で言われ、ハッとしました。
こうなったらどうしよう、ああなったらどうしようと先の事に対する不安を思いめぐらしていても致し方ない。今を精一杯生きる、自己をみつめ真摯に生きていく事を教わった有難い一日でした。

前回の山川宗玄老師につづき、大変興味深い素晴らしい記事になる事間違いなしです。

愛知一宮・妙興僧堂、稲垣宗久老師による、『吾が師を語る――河野宗寛老師と挟間宗義老師』は、来年1月発売の季刊誌『禅文化』215号に掲載予定です。

妙興僧堂
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第94回 大蔵会 於:花園大学

第94回 大蔵会


【第94回 大蔵会】
*どなたでも無料でご参加いただけます。ご来場お待ち申し上げております。

平成21年9月24日(木)
於:花園大学

法供養/午後1時より  
記念講演/午後1時30分より
       演題:『超仏越祖』ということ
       講師:西村惠信(花園大学前学長・禅文化研究所所長)
展観/「臨済の学僧・無著道忠の世界」(この日1日のみ/於:花園大学歴史博物館)

問い合わせ先/花園大学総務課 TEL075-811-5181

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古墨跡は縁のある人を集めるのか

本ブログで、愚堂東寔書「雲門云関」という記事を書いたのは、今年(2009)4月24日のことだった。
それからちょうど3ヶ月して、研究所の私に一本の電話がかかってきた。
それは、インターネット検索していて、たまたま上記ブログをみつけたというある方からの電話だった。
「その軸はうちにございます」というものだった。私は声がうわずるほど興奮した。
まずは先のブログを読んで頂きたいのだが、その後、できる限りの手を尽くしてツテをたどったが、結局どれも行き詰まってしまい、あとは、いつか、このブログを誰かが見つけてくれたら幸いだと思って、最後の布石として書いたのだった。
そしてこの電話である。
所蔵者は京都市内のとある骨董商、意外にも近くにあったのだ。撮影許可のお願いをしたところ、主旨もご理解いただきご快諾いただけた。
そこで先日、都合をつけていただき、写真撮影に寄せていただいた次第。それが下記の写真である。

古墨跡は縁のある人を集めるのかの続きを読む

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外に求むること莫かれ -愚堂禅師墨蹟撮影行にて-

愚堂禅師の墨蹟撮影に東京へ出張した。

東京は関東大震災と太平洋戦争での大空襲におそわれて消失した寺院が多く、古くからの資料が残るところは少ないようだ。
今回撮影にいった墨蹟も、おそらく戦後に買い求められて所蔵されているものだと思われる。

愚堂東寔書・莫外求(禁転載)

「莫外求」(外に求むること莫かれ)、横物三文字である。愚堂禅師の墨蹟の中では他に見た事が無い。そもそも愚堂禅師の書で、このように3文字の禅語が書かれているものは稀少である。
書き方も面白い。「外」の縦棒はうねうねと書かれ、「求」の右側の払いの二画は×のように交差して書かれている。
出典は、臨済禅師の言葉で、「菴黴€要與祖佛不別、但莫外求」であろう。臨済録の示衆に出る。
この部分、山田無文老師の『臨済録』から引用してみよう。

  菴黴€、祖仏と別ならざんと要せば、但だ外に求むること莫かれ
 釈迦、達磨と少しも変わらない真の世界、法身の世界、永遠の仏になろうと思うならば、永遠の命が欲しいと思うのならば、神仏とともに永遠に生きようと思うのならば、自分の外に仏や涅槃という結構なものがあるなぞと思うな。自分の外に永遠のものがあるとするならば、自分とその世界とが対立であるから、それは永遠のものではない。人間の外に神さまがあるというのならば、神も人間と対立だ。絶対ではない。外に神仏を求めてはいかん。(山田無文著『臨済録』)

 いつも、無い物ねだりして、よそに求めている我が身には、きつい大きな一言である。

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大いなる哉 心や -栄西禅師-



京都 建仁寺


来たる平成26年の“建仁寺開山栄西禅師800年大遠忌”にむけて、研究所でも遠忌事業の一環として、書籍の発刊など、建仁寺さんからの依頼にてお仕事をさせていただいております。

栄西(ようさい)禅師といえば、中国より茶の種を持ち帰り、広く一般に喫茶の習慣が広められるきっかけを作られた方として茶祖と崇められますが、禅師による『興禅護国論』の序文の内容の格調の高さはもちろんいうまでもなく、日本語の美しさをも気付かせてくれます。私の中では、紀貫之の『古今和歌集』の

やまとうたは、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思うこと見るもの聞くものにつけて言い出だせるなり。花に鳴くうぐいす、水にすむかはづの声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
-『古今和歌集』仮名序 より-

と並んで大好きな一文です。


大いなる哉、心(しん)や天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ。
地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。
日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚(たいこ)か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。
大なる哉、心や。
-『興禅護国論』序 より-

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『新版 明治の禅匠』 新刊のご案内




新版 明治の禅匠

幕末から明治維新、そして廃仏毀釈の激動の時代に、命がけで禅の法灯を紡いでこられた宗匠方の記録が新版で復活(7月17日発売予定)です。一昔前の禅僧、居士の気概とはこういったものであったのか…と、現代日本人が教えられる事が多々あります。
ご予約はこちらからどうぞ。


【もくじ】
明治時代の禅宗/荻須純道
越渓守謙 妙心寺僧堂開単の記/木村静雄
潭海玄昌 虎渓僧堂の開単者/古田紹欽
洪川宗温 近世禅界の一大学者/古田紹欽
独園承珠 廃仏毀釈に抗した護法者/荻須純道
滴水宜牧 滴水禅師と龍淵禅師/平田精耕
南隠全愚 白山道場の開単者/小池心叟
山岡鉄舟 禅者であると同時に類い稀な外護者/大森曹玄
禾山玄皷 禾山玄皷禅師衲覩/秋月龍珉
鄧州全忠 南天棒老師をたたえる/春見文勝
毒湛匝三 知行合一の第一人者/桜井景雄
龍淵元碩 陰徳の禅者/大森曹玄
黙雷宗淵 建仁寺の黙雷禅師/伊藤東慎
洞宗令聡 愚鈍の系譜―洞宗令聡とその周辺/加藤正俊
洪嶽宗演 楞伽窟老師の思い出/朝比奈宗源
宗演禅師の生涯 井上禅定
独山玄義 独山和尚の足あと/吹田独秀
法 系 図
あとがき

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十牛図便箋




十牛図便箋

研究所で働くようになって、「おぉっ、さすが!このようなものを使っているとは!」と感心したのが、この十牛図便箋です。
個人的にもかなり気に入っています。京都の“自休菴”さんのもので、臨黄ネットのお買い物サイトにてご購入が可能です。
ちなみに我が家では、何人かで抹茶とお菓子をいただく際には、同じく自休菴さんの杉板十牛図焼印の銘々皿を使っています。裏返しにし、客人や家族と好きなものを引き、あとで付属の十牛図冊子を皆の前で読み、それぞれに「あぁ、まさに今の私の事だぁ、まだまだ修行が足りない!」、「お、最近頑張っているせいか8番目が来た?!」など、歓声があがり、かなり盛り上がります。
お茶とお菓子をいただく前に、話題に彩りを添えてくれます。

十牛図便箋
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愚堂東寔書「雲門云関」




愚堂書 雲門云「関」

十年ほど前にとある篤信家の方から、自坊の前庭に寄進いただいた石である。表面には、"雲門云「関(かん)」 愚堂"と書かれている。とても力強い書である。
雲門というのは、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師(864~949)という中国唐代の禅僧で雲門宗の祖、有名な「日々是好日」という言葉も雲門の語である。
ここに書かれている語は、『碧巌録』第8則の本則にも出る難解な公案で、翠巌和尚が解制の日の説法で発した問いに対して、保福と長慶と雲門の三人の傑僧が答えた。その時の雲門禅師の答えが「関」であった。
内容については、碧巌録の解説書を紐解いていただくこととして、この公案はあの大灯国師も関山国師も3年間も取り組まれたといわれる難解なものだとか。

これを書かれた愚堂というのは、愚堂東寔禅師(1577~1661・大円宝鑑国師)である。来年、妙心寺塔頭の聖澤院(しょうたくいん)にて350年遠諱が勤められる。

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不審花開今日春 -京都・霊鑑寺の椿-


月光椿

今年もありがたい事に、3月28日~4月5日まで、別称“鹿ケ谷比丘尼御所”・“谷御所”とも呼ばれる門跡寺院・霊鑑寺(臨済宗南禅寺派)が公開されていました。
ブログでも何度かご紹介しておりますが、春と秋・椿と紅葉の美しい時期に限り1週間ほど特別公開されるのです。公開日程がわかった時点で、ブログや禅文化研究所のメールマガジンでもお知らせしておりますので、是非お心に留めておいていただき、春や秋に京都を訪れる際は、ご参拝なさってみて下さい。

さて、私が毎年こちらを訪れていて思うのは、「不審花開今日春」という禅語です。
表千家不審庵の号もこの語から来ているのですが、幾重にも美しく重なった衣笠(椿の種類)の花びらや、言葉では表現しきれぬ美しい白い色、京都市の天然記念物にもなっている日光・月光椿、黒椿のドラマティックな真紅の蕾、どれをとっても人智を超えたものとしか思えず、じっと見入るにつれ「あぁ、不思議だなぁ。どうしてこのように咲くのか…」と心から思い、人間のわかる事なんて微々たるものだ、おごってはいけないな…と思い知るのです。
道端に咲くたんぽぽを見てもそう思うべきですがなかなかそうもいかず、いつもこちらの椿を見に行くと心新たに気づかされるのです。

08年の霊鑑寺
07年の霊鑑寺

哲学の道の桜
哲学の道 満開です!
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京都 臨済宗本山の桜



南禅寺_法堂
南禅寺 法堂と桜

禅文化研究所は、臨済宗黄檗宗連合各派合議所(臨黄合議所)の事務局も兼ねています。
ですから、禅文化研究所のお仕事と、臨済宗黄檗宗関連のお仕事、どちらもさせていただいております。
本日(3/30)、臨黄ネットの広報活動として拝観寺院や美術館博物館でお配りしている“栞いろは歌”を納品する為、京都のいくつかの本山にでかけていました。
平日とはいえ春休み、そしてこの陽気のおかげで桜も種類によっては満開!という事で、京都中観光客でにぎわっていました。
おでかけの際のご参考までに、本山で撮った写真等をご紹介。

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禅語かるた"だるま"

禅語かるた「だるま」

これは禅語かるた「だるま」というものである。
花園大学の旧・禅的教育研究所(H14~H19)の事業として、同研究所の編集委員によって100の禅語を選定され、かるたにされたものである。
昨年(2008)の10月15日(達磨忌の日)、芸臺幡(うんだいばん)から発売された。
私も少し出遅れたのだが、お正月に欲しいと思って、昨年末に注文をした。ところが、届いたのは2月の上旬。
というのも、この禅語かるた、上記の業者が、一枚一枚を手作りしているもので、受注から納品まで2ヶ月ほどを要するとのこと。だから、できあがりは御覧の通りで、すばらしい。

darumakaruta2.jpg

絵札は、仏教漫画家の臂美恵さんが描いたものである。
実はこの芸臺幡という業者は、禅文化研究所ともご縁が深く、特別事業・白隠禅師自筆刻本集成の製本を行なったのも、この会社である。

かるたとして遊ぶより、ちょっとした飾り物にもなりそうなぐらいの代物である。

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禅語かるた「だるま」通常セット 1セット 6,300円(税込み、送料別)
禅語かるた「だるま」桐箱入り 1セット12,000円(税込み、送料別)
ご注文は、(株)芸臺幡(うんだいばん) 電話:075-873-2750 FAX:075-873-2751まで

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「丑歳」の願い

丑

昔、中国の禅僧たちは真実の自分を求めて修行することを、「一頭の水迚ッ牛(すいこぎゅう)を飼う」と言ったのです。
自分のなかに具わっている尊い仏性(ぶっしょう)を「牛」としてよく飼い慣らし、立派な人間になろうとしたのです。
これを「牧牛」とか「養牛」とかいうわけですが、誰でも「自分」という牛は、我欲が強くてなかなか仏さまのようにならないのは困ったものです。
しかしこれをうまくセルフ・コントロールできれば、この迷いだらけの自分でも、けっこう人に愛される仏さんのような「白牛」(びゃくご・熟した人間)になれるのですね。

皆さん、今年こそひとつ骨折って自分の牛飼いに励んでみようではありませんか。

禅文化研究所所長 西村惠信


『十牛図-もうひとつの読み方-』西村惠信著
『十牛図-禅の悟りにいたる十のプロセス』山田無文著
『How To Practice ZAZEN』(十牛図の英訳あり)

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萬福寺文華殿 秋期展の講演会

萬福寺

秋期展のテーマ『伝道布教最後の旅・・新黄檗の開立・・』にちなんだ講演会にて、弊所職員の能仁晃道が講演をさせていただきます。
秋の宇治を訪れる方は、是非黄檗宗本山、萬福寺に是非お立ち寄り下さい。

演題:『明僧渡来と本朝臨済禅の覚醒』
講師:兵庫松谷寺住職、禅文化研究所所員 能仁晃道禅師
日時:11月9日(日)午後2時より
場所: 黄龍閣別館 真空の間 受講料無料。参加自由ですが、電話予約が必要です。
    ※ただし、入山料と文華殿入館料(200円)が必要。

●萬福寺文華殿 TEL:0774-33-1199(専用)

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行雲流水 1

高岡の晩夏の雲と海
高岡の晩夏の雲と海


禅宗の修行僧のことを「雲水(うんすい)」という。
もとは「行雲流水(こううんりゅうすい)」ということで、ひとところに留まらず、自由なさまをいう。つまり雲水は、一所不住で、諸方におられる禅匠をたずねて行脚するものなのである。
実際、唐代や宋代の禅僧の伝記をみても、修行中にはそれはそれは途方もなく遠い距離を行き来して行脚されているし、日本でも白隠禅師でさえ、北は新潟から南は愛媛まで、諸方の禅匠に参じている。
ところが現在というと、多くの雲水は、ある一僧堂で一人の老師について修行するというのが、あたりまえのようになってしまっている。
よく、「禅の修行は厳しいですね」と言われる。もちろん厳しいが、師を求め諸国を行脚する本来の雲水としての修行はもっと厳しかったであろう。

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盂蘭盆に思う

蓮華

関東の盂蘭盆は7月だそうですが、ここ関西は8月盆ですから、愈々これからが本番です。炎天下、境内の墓地に出てお経を読まされるときなど、いったい誰がこんな暑いときをお盆に決めたんだと、秘かに恨めしくなります。しかし、お寺にやってくる人たちの顔ぶれが、いつもと違ってなんとなく華やいでいるのを見ると、こちらも汗を拭き拭き頑張らなければ、という気になります。
ここ滋賀の田舎では、昔からお盆になると、都会で暮らしている人たちが、家族を引き連れて故郷へ帰ってきます。するとお寺が一変して、昔馴染みの社交場と化すのは不思議な夏の風景です。それを見ると寺の和尚や寺庭の者も、今更のように日本仏教の健在を実感し、得も言われぬ充実感に満たされたりするのです。

誰かの句に、-墓拝む 人の後ろを 通りけり-というのがあります。今年もお盆を迎え、普段はすっかりご無沙汰していた亡き人たちへのお詫びにと、花や線香を持ってお墓へやってくると、もう既にみんなが墓を洗ってお供えを済ませ、一心にお経を唱えています。その邪魔にならないように、そっと後ろを通らせて頂く、という状景ですね。
私はそこに、日本人としての、言葉に表せない共感が詠われているように思います。仏教が難しい教理や厳かな儀式によってではなく、このような深く素朴な民俗信仰に支えられて伝えられてきたものだということを、今年もまたこうして私は実感させていただくのです。そういうお盆に会うのももうあと何回か、などとわが命を惜しみながら。


禅文化研究所所長 西村惠信


*研究所は、明日8月9日より17日までお休みをいただきます(ブログもお休みさせていただきます)。
お問い合わせや、書籍などをご注文いただきました方には御迷惑をおかけいたしますが、どうか宜しくお願い申し上げます。

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「女」の幸せ

ひつじ草


平安時代、女性は罪深いものとされ、救済への道を閉ざされていた。女身は「垢穢」であり、一たび男性になってから成仏できるという『法華経』の「変成男子」は有名である。

自身の仏道修行への道を閉ざされた平安貴族の女性たちにとっての代替措置の一つに、息子を僧侶にするというのがあった。立派な高僧となった息子を媒介として自身も救済に預かろうとしたのである。

だから、彼女たちは、大変な教育ママであった。その典型、恵心僧都源信の母は「賢母」として有名だ。『今昔物語集』などによると、次のような人物であった。

幼くしてやんごとなき学生となった源信は、大后の御八講に召されて賜り物を受けた。その一部を故郷大和の母のもとに送ったところ、母は

「…名僧にて花やかにあるきたまはむは、本意に違うことなり。」

と戒めた。母の誡励をありがたく受け取った源信は、比叡山を下ることなく修行に励んだ。

そして年月が過ぎ、源信のもとへ、母危篤との知らせが舞い込んだ。何とか親の死に目に間に合った源信の導きによって母は念仏を唱え、息子に見守られながら安らかに浄土へと旅立った。

このような「女」の願いは、自らが達成できなかった宗教的願望を、息子に投影し補償させているにすぎないとも言えよう。フェミニズムの立場からも、このような母親像は当然批判の対象とされている。

しかし、立派な高僧に成長した息子に臨終の引導を渡してもらい、その腕の中でやすらかに息を引き取る、そんな理想には、子を持つ「母」としての偽りのない喜びが隠されていることも否定できない事実ではなかろうか。

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生きることは 一筋がよし 寒椿

生きることは 一筋がよし 寒椿
各派管長老師のインタビュービデオの制作が進んでいる。 妙心寺管長の東海大光老師のDVDビデオのタイトルは、「一筋がよし 寒椿」というタイトルに決まった。 これは、初代の「伊豆の踊り子」を撮った映画監督・五所平之助(1902~1981)の

  生きることは 一筋がよし 寒椿

という句を、東海大光管長が好んでいると言われているためだ。

一旦、自分がこれと決めたら、とにもかくにも一心不乱で突き進んでいくことが尊い。見事な俳句である。
東海大光老師のお話からは、この句を好んでおられるのがよくわかる力強い気迫が伝わってくる。在家から小僧になり、迷うことなく真っ直ぐに突き進んできた結果が今の自分になっているとおっしゃっている。

現在、大本山妙心寺は、平成21年の開山無相大師650年の遠諱に向けて全国からの参拝法要も多く、また各地へ赴いてのご親化もあり、管長として多忙な毎日であろうと思うが、その中のわずかな閑を見つけては、陶芸や山登りといった本格的な趣味も楽しまれている。


DVDのジャケット(未確定)

現在編集中のDVD「禅僧が語る」シリーズ、「一筋がよし 寒椿」(妙心寺第677世 東海大光老師)予価1575円(税込)をお楽しみに。

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白隠墨跡展とフォーラムのご案内 於:松島 瑞巌寺


松島の瑞巌寺での白隠墨跡展とフォーラムのご案内です。
詳しくは画像をクリックして下さい。

ちなみに、講演をされる芳澤勝弘氏は、現在、花園大学国際禅学研究所教授ですが、以前は、禅文化研究所の編集主幹で、私たちの上司でした。
したがって、「白隠禅師法語全集」は、編集主幹時代の成果です。

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「御大切に」

福寿草

上田閑照先生の新刊書『言葉』(岩波現代文庫・哲学コレクションⅢ)。謹呈の栞に、「言葉の問題」は私の思想の動脈であったことに気がつきました、御大切に、と御書き添えくださった。

「御大切に」という先生の「言葉」が、ほんとうにありがたい。先生のあたたかさが静かに心にひろがって、ご本を頂戴した日は、雪が降りしきっていたけれど、一日中あたたかだった。今もご本を手に取ると、なおあたたかい。おそらく先生は、書を認められるとき、「御大切に」という言葉をお書きになるだろう。しかし先生が私にくださった「御大切に」は、たったひとり私のためにお書きいただいた唯一無二の「御大切に」で、天地一杯の「言葉」だ。そのことが何やかやと心騒がしい日を送る私に底知れぬ勇気を与えてくれる。


本書で、上田先生は、西谷啓治先生の「言葉」を次のように記しておられる。

――西谷啓治先生のもとで私は哲学を学び始め、先生が生涯の師となった。四十代半ば、その二、三年来の経験に打ちひしがれて、先生に「すべてがいやになりました」と訴えたとき、一呼吸、間をおいて先生は言われた、「それはいいことだ」と。これはその弟子の存在を別調に転ずる一転語になった。――

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雪の相国寺

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一連の管長老師の収録(禅文化研究所より、この春にDVD発売予定!)で、相国寺を訪れました(1/27)。
この日は朝から雪。家を出る時から、「雪降る寺の美しさはいかばかりか…」と、寒いながらも心は暖かく楽しみにでかけました。
静かな境内で、音もなく空から舞い降りる雪。高くそびえ立つ法堂。
桜や紅葉の気候の良い時ばかりではなく、多くの人にこの寒い凛とした空気の京都も味わって欲しい気持ちでいっぱいになりました。
観光客誘致の為、冬の京都では非公開寺院の特別拝観を行なっていますが、これは観光客にとっても本当に良い機会だと思えます。
どちらかというと、寒い冬には人の気持ちは内にこもりがちかもしれません。ですが、そんな時にこそ、さらに自分を見つめるべく、静かな所を訪れてみるのはいかがでしょうか。

080129-2.jpg

撮影のあった、大光明寺の門前。撮影風景などのレポートは、明日明後日とアップさせていただく予定です。

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2008年 禅語カレンダー

以前にもご案内申し上げましたが、年も暮れてきたところで再度ご紹介を。
2008年の研究所発行禅語カレンダーです。
お値段も手ごろですので、年末年始のご挨拶・贈り物と一緒にいかがでしょうか。

禅語カレンダー08

今年は、天龍寺第7代管長、また天龍寺僧堂師家として多くの雲水の指導にあたられた関精拙老師(1877-1945)の画より選りすぐりの12枚。
毎月、精拙老師の画や賛と、それにあわせた禅のことばを楽しんでいただけます。

50部以上、100部以上のお申し込みにつきましては、1部あたりの価格も割引き価格となり、50部以上からは、カレンダー下部に寺名や社名などの刷込み印刷も承ります(100部以上なら刷込み無料)。

詳しくはこちらから

【表紙・ねずみに乗った大黒天】
手に持てる 打ち出の小槌 振り回し
何を出すやら 大黒の天
布袋頭、解開し了わり
十方世界、蕩蕩として辺無し

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第4回 西村惠信所長といく“禅と文化”の旅 その1

奈良の紅葉

11/3(金)、第4回西村惠信所長といく“禅と文化”の旅のご報告です。
行程はこちら

奈良の町は思った以上に木々の紅葉も美しく、時にバスの中から歓声があがりました。
まず目指すのは大和三門跡寺院の一つ、妙心寺派の円照寺です。普段公開されていませんので、初めて訪れる方がほとんどだったのではないでしょうか。
バスを下りてから皆で参道を歩きます。山に分け入っていく感じで、空気は徐々にひんやりと透明感を増していくようでした。江戸時代、この寺の開山であられる梅宮さまがいらっしゃった頃、門跡寺院であることから御殿と呼ばれはするものの、いかばかりの侘びしさであっただろうと思いをはせます。

参道

第4回 西村惠信所長といく“禅と文化”の旅 その1の続きを読む

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西村惠信所長出演、TV番組再放送のお知らせ

禅文化研究所・西村惠信所長が出演しました番組が、再放送されます。
早朝の放映となりますが、早起きは三文の徳! 是非ご高覧下さい。

9月23日(日) AM5:00~6:00
NHK教育テレビ
こころの時代~宗教・人生「自己を究める~一休の生涯から~」

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居士 -こじ-

居士とは

戒名に使用される「居士」という尊称。
本来は在家でありながら仏道に精進する男性を称する語でした。

仏教で使う居士の語は、サンスクリットの「グリハパティ」、すなわち「家の主人・家長」の訳語ですが、特にインドの四姓の中のヴァイシャ階級の資産家を呼ぶときに使用されたようです。ヴァイシャは商工業に従事し、仏教を信奉する富豪も多くいました。
『祖庭事苑』という禅籍には、居士と呼ばれるための四つの条件が挙げられています。

  およそ四徳を具するものを、すなわち居士と称す。
  一には仕宦(官)を求めず。……役人ではない
  二には寡欲にして徳を蘊(つ)む。……欲をもとめず功徳にはげむ
  三には財に居して大いに富む。……大金持ちである
  四には道を守ってみずから悟る。……仏道に精進する

居士になるのも並大抵のことではなかったようです。今となっては単なる理想像かもしれません。

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季刊『禅文化』

禅文化205号

研究所では、春夏秋冬と、年に4回(1,4,7,10月の25日)季刊誌を発行している。
僧侶をはじめ、研究者、禅に興味ある在家の方など、読者は様々だ。
その内容も多岐に亘り、語録の解説もあれば、禅の美術について、また読みやすいエッセイや掛軸拝見、日本達磨伝説、チベット紀行文、和尚さんの身体講座なども。
表紙はいつも編集者が吟味に吟味を重ね、良い画を探して決めている。むろん、その解説付。
次号では、教育に関しての記事も掲載する予定だ。

禅に関心をお持ちの方は、バックナンバーのもくじを一度ご覧下さい。

季刊『禅文化』

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百日紅

木登りの上手な猿も滑りそうな木だから「さるすべり」と呼ばれる百日紅。
また百日間ほど花を紅の花を咲かせることから、この「百日紅」と書かれるのであろう。
猿が上るほど大きな木ではないが、自坊にも5本ほどの紅白とりまぜた百日紅があり、今年もお盆が近づいた今頃から、きれいに花をさかせはじめた。


百日紅

百日紅について、弊所の季刊誌『禅文化』85号(昭和52年夏発行)に、歌人の松本仁さんが書かれた「わが花物語 百日紅」という文章があるので、以下に全文を転載しておこう。

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無文老師のことば

無文老師

仏教、禅のことを勉強したい。
禅ってなに? 仏教って?  信仰って?
本を読んでみたいけど何から読めば・・・。

なんとなぁく、仏教、あるいは禅のことに触れてみたいな・・・と思われた時、その時の行動が後々自分の行く末や考え方、人生を変えるきっかけになるかもしれません。
ですが、自分が何から手をつけたらいいかわからない・・・。
そんな時はまず、無文老師のことばを読んでみて下さい。
“良いもの”に出会って下さい。

「第一歩」として、研究所HPの「読む」の欄には、無文老師のお話を掲載しています。
非常にわかりやすく物事の真理をお話し下さるため、力強いことばながらもとても優しく暖かく、読み進めやすく、心にじーんと響きます。是非。

こちらからどうぞ
無文老師のことば

「わたくしは坐禅をするようになってから、坐禅こそ真のいのりであると思うようになった。絶対者の前に正しく自己をすわらせること・・・」
「甘いものを食べすぎると虫歯になるように、甘い教育を受けて育った人間は、精神的に虫ばまれてしまいます・・・」
「われわれの人生も永遠に途中であって、もうこれでいいという終点はないと思います。お互いの人格も、いかに修行をしてみても、もうこれでいいという終点はないでしょう」
「何もすることがないという人間などございません。人間は死ぬまで何かができる、何かを作っていかねばならん」

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栞いろは歌「禅のことをもっと…」

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禅文化研究所は、「臨済宗・黄檗宗連合各派合議所(臨黄合議所)」の事務局も兼ねています。 例えば、浄土宗であれば、総本山知恩院といって、浄土宗をとりまとめる頂点ともいえる本山があるのをご存じですよね?

じつは、よくお尋ねになる方もおられますが、我が臨済宗・黄檗宗には総本山というものはありません。
臨済宗には大本山が14、黄檗宗には1つあり、あわせて15の本山があります。
しかしどこも同じ臨済禅の本山であり、修行僧(雲水)は別の本山の下にある道場においても修行することが認められていますし、各地方では、本山の異なるお寺同士でも密接におつき合いがあるということも少なくありません。
そこで、これらの本山の横の連携、つながりを持つ為に構成されているのがこの臨黄合議所なのです。

各本山についてはこちらから
臨済宗・黄檗宗本山
この、臨黄合議所の公式HPを、-臨黄ネット-といいます。いわば、臨済禅の公式サイトです。
禅宗寺院を訪れる皆様に、より広くこのサイトをお知りいただきたい、また、拝観した寺院にて、建物や庭の他に、より禅というものに触れていただきたいという思いから、各派本山と一部拝観寺院において、拝観された皆様に小さな栞をお配りしております。
この栞、一昨年の秋には「いろはにほへと ちりぬるを」の12種類であったものが、さらに「わかよたれそ つねならむ う」の12種類が加わり、全24種類となりました。
栞の裏には、それぞれの頭文字から始まる禅語とその説明が書かれています。
特に外国の方には珍しい写真が多いようで、わざわざこれが配られている事を目当てにお寺に訪れる方もいらっしゃるほどだそうです。
全て集めると、24種類の写真つきの禅語集のようになりますよ!
*この栞の写真は、写真家、水野克比古さん・水野歌夕さん・田口節さんらによるものです。

詳細についてはこちら。
栞いろは歌「禅のことをもっと…」

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浄頭 -ちんじゅう・じんじゅう-

紫陽花の季節ですね

6月。食中毒対策からも、清潔が一層要求される季節となりました。

さて、玄関とトイレを見れば、その家庭のすべてが分かると言われます。玄関ももちろんそうですが、トイレ掃除の行き届いていない家は、内面生活も荒廃しているのではないかと疑ってしまいます。

古い清規(禅寺の規則)によると、禅院でトイレ掃除をする役職を浄頭と言います。東司(トイレ)を掃除し、水や洗剤、布などを用意し、修行者たちに気持ちよく使ってもらうための大切な役目です。

『禅苑清規』は、

浄頭は、行人の甚だ難(かた)しとする所、当人の甚だ悪(にく)むところなり。謂(い)っつべし、罪として滅せざるは無く、罪として愈(い)えざるは無く、福として生ぜざるは無し。同袍、手を拱(こまね)いて厠に上る。寧んぞ慚愧の心無からんや。

と、皆の嫌がる仕事だからこそ、功徳も多いのだと力説しています。

この文を読んで、浜口国雄さんの「便所掃除」という詩を思い出しました。

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「死んだらどうなる」-『無文全集』飛ばし読み(2)-

蓮の葉

 「人間が死んだら霊がどうなる」とか、「魂がどうなる」とか、そういうことが問題にされるのですが、仏法では問題にしないのだ。死んでからの霊というものを問題にしないと同時に、生きておるうちから霊というものは問題にしない。我というものは問題にしないのだ。何を問題にするかというと、全宇宙をことごとく我と直観のできないうちは迷いだという。客観の世界がそのまま我だ。主観と客観のない世界が分からないうちは、ことごとくが迷いである。自我というものも迷いである。死んでからの霊どころではない、生きておるうちから自我にとらわれたものの見方、ものの考え方は全部迷いだ。自我が取れて、主観と客観とが一枚だという世界が分からんことには仏は分からん。真実の自己は分からん。

(『無文全集』第九巻p617より)

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「ご利益」-『無文全集』飛ばし読み(1)-

すずらん

 多くの宗教というものがご利益というものを教えるのであるが、禅宗はそういうことを言わんのが建前である。自分の外にある神さまを拝んで、そのご利益をいただく、人間はそういう力のない奴隷的なもののごとくに、多くの宗教は教えるのであるが、そうではない。めいめいの中に神さまがあり、仏のあることが分かるならば、「能く千災を滅する」のだ。災難などは自然になくなってしまう。滅しようと思わんでも自然になくなるのである。心空王が分かるならば、心が空になるならば、災難は自然になくなる。

 親鸞聖人も『歎異抄』の中で「念仏者は無碍の一道なり」と言うておられる。念仏を唱えておったら災難は自然になくなるのだ。頼んでなくなるのではない。念仏を唱えておったら、悪事や災難は自然に退散していくのだ。何も思わん者には敵はない。何も思わなければ、災難が向こうから避けていく。赤子のように無心であれば、千災はおのずから避けられるのである。
 
 臨済禅師も言うておられる。「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」と。人間、生きておる間は、どうしてもいろいろないいことを求める。やっぱり生活も楽な方がよろしい。家庭も円満な方がよろしい。病気もせん方がよろしい。学問をする方は学問を成就したい。字や絵を書く方は早く立派なものが書きたい。商売をする方は成功したい。そのように、皆な願うことを持っておるが、その殊勝、何かいいことを頼んで求めては駄目だ、と。何かをあてにしたら、越中褌と何やらは向こうからはずれてくるのだ。正念相続し、真っ直ぐな心で生きていくならば、無心であるならば、「万徳を成就す」だ。おのずから体も健康になり、食べる物にも不自由せん。商売も繁盛し、学問も芸術も成就してくるのである、と。
 
 「衣を思えば羅綺千重、食を思えば百味具足し、更に横病無し」と臨済禅師は言われた。本当に禅が分かり、本当に心が空になるならば、着物を着たいと思ったら、薄物でも羽二重でも、欲しいものはいつでも手に入る。「食を思えば百味具足す」、食べたいと思えば、どんなご馳走でも食べられる。「更に横病無し」、交通事故で死んだり、野垂れ死にするようなことは決してないと、臨済禅師も保証しておられる。

(『無文全集』第九巻p386~387より)

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