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特別展樂吉左衞門還暦記念Ⅰ -樂美術館-




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こちらのブログではもうおなじみ、京都市上京区にあります樂美術館
12月12日まで、【特別展樂吉左衞門還暦記念Ⅰ】が開催されています。

樂家は、当代で15代を数え、代々樂焼を一子相伝にてつくり続ける家ですが、そのような家に生まれ、仕事をするようになってから、還暦を迎えるまでの折々の思い出深い茶碗が、ご本人の解説付きで楽しめ、当代の来し方を走馬灯のように拝見し、それでいながら深く味わえる素晴らしい展観でした。

先祖代々、同じものをつくり続けながらも、やはり同じではいけない。それが精神的にどのような重圧感を抱くものか、私どものような者にはわかるはずもありませんが、人生において、どんな人でも皆それぞれに今世でなすべき事、悩み、苦しみ、課題はあるわけで、それを受け入れ、葛藤しながらも乗り越えて歩んで来たからこそ、樂さんはあんなにも人々を魅了する方なのだと改めて思いました。

父親からは一切何も言われた事も、教わった事も無く、見て盗めの世界。若かりし頃の樂さんは、盛永宗興老師のもとへ、自身が作った茶碗を持ってよくでかけられたのだとか。
「坐禅せんでも、仕事机の前に坐っておればいい」、「禅坊主も茶碗屋も同じやわなぁ」。とは、老師が樂さんにかけられた御言葉。

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光明禅寺 -太宰府-




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太宰府を訪れるなら、太宰府天満宮はもちろんかと存じますが、すぐ近くに東福寺派の禅寺があります。光明禅寺です。

天満宮は日本人のみならず、韓国や中国からの団体で溢れかえっていますが、こちらは私が訪れた際には1人きりでした。
どこまでも続くかのような緑の世界を堪能。雨の後で、空気も洗われ、しっとりとした苔の色も鮮やかで、その趣きはえも言われぬ程。
紅葉の時期の美しさはいかばかりか…と後ろ髪惹かれながらこのお寺を後にしました。
初めての太宰府でしたが、天満宮よりも、九州国立博物館よりも(すみません)、一番深く心に残ったのは、ひっそりと佇むこの小さな禅寺なのでした。

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退蔵院ピースフルコンサート




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以前こちらでもご紹介させていただきました、妙心寺の塔頭、退蔵院でのピースフルコンサートにお邪魔してきました。
パーフェクトポーションの代表、サルバトーレの平和に対する思いと、それに繋がる支援、そして退蔵院の皆様のご理解でこのコンサートは実現したようです。

写真の真ん中に写るTenzinさんは、チベットからインドへ亡命した過去を持ちます。
親と離れ、ヒマラヤを越えてインドを目指す子供たちが現在も数多くいるとの事。
私もネパールで4100メートルくらいまでのトレッキングをしましたが、雪の残る山をゆくのがどれだけ恐怖感抱くものであるか……山登りの装備など全く無しに、命を懸けてヒマラヤを越えるというのは想像を絶するものがあります。

そんなヒマラヤを越えた、親のいない子供たちが、亡命政府のダラムサラの“チベット子ども村”で共同生活をしているそうで、Tenzinさんはそちらへの支援活動などもされているそうです。
「どうかヒマラヤよ、チベットの子供達に道をあけておくれ…」という願いを込めた曲は、涙無くして聴く事はできませんでした。
随処に“祈り”を感じたコンサートでした。Tenzinさんの作る曲には“鳥のうた”が多いそうです。様々な思いが込められている事は想像に難くありません。

便利な事に慣れすぎた我々、物質主義に偏ってしまっている現代においては、目には見えぬ“祈り”など、捧げて何になるのか、結果が見えぬ、物理的変化が認められぬ……という人が多いのかもしれません。
しかし、例えば日本においても、神社や寺院において様々な祈りの儀式や法要などが現在も行われている事、それが遥か昔から守り続けられて来ている事には、大きな意味があるのだと私は思います。


雨の降る少し寒い夜でしたが、“祈り”を感じる声・音、また、Tenzinさんと共に皆で唄い、心温かくなるひとときでした。

チベットはずっと前、いつからかは忘れましたが私の強い憧れの地です。
荒涼たる大地、ぬけるような青い空に神秘的な色をたたえた湖、人々の深い信仰心、東洋の叡智といわれる精神的支柱ダライ・ラマ、世界中で出会うチベット人の優しさと笑顔。京都にいらしたリンポチェの教え。

個人的に浅からぬご縁を感じるチベットとまた“繋がり”を持てた夜でした。
ちなみに、チベット人の名前に多く見られるTenzin(テンジン)とは、“仏の教えを守る者”という意味があると聞いた事があります。
最後には皆で、チベット仏教徒が大切にしている御言葉、「オンマニぺメフム」を唄いました。

本日は大阪でコンサートとの事。また皆の心を温かくしてくれる事でしょう。

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季刊『禅文化』218号発刊




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10月25日、季刊『禅文化』(年に4回の発刊)の最新号が発刊されました。
今回も個性豊かに様々な興味深い記事が揃っております。

毎号、編集者が、「これでもないあれでもない……」と悩んだ上で漸く決まります表紙は、美術や歴史に疎くとも、とてもわかりやすく、それでいて詳しく理解できる解説がついています。毎号、楽しみにして下さる読者の方も多い事と存じます。
今回は、長野県木曽郡にある古刹、定勝寺蔵の白衣観音図です。
気品があり、妙にひきこまれる美しさで、私もひと目見た瞬間にため息をつきました。


長年連載しておりました所長による「三余居窓話」は、『七十を過ぎてわかった事』にまとめさせていただいたのを機に幕を閉じ、新たに、-ゼミナアル・禅思想の道を歩く 講読 『信心銘夜塘水』-が始まりました。入門してみませんか?


「寺庭さんのリレー・エッセイ」は、普段はなかなかお話を伺う事のない、寺庭夫人(ご住職の奥様)の“繋がり”で続けられている連載です。
お寺に嫁いで大変だった事を受け入れてこられた来し方。次世代への思い。ご住職とはまた違う立場でみつめる禅の事、宗教の事などなど。


さて、個人的には、私の大学生時代の恩師、松田高志先生の『日常的生と宗教的生 ハシディズムの言行録に学ぶ』にて、ハシディズム(ユダヤ教の一派)に残る言行録が、禅の語録などと少なからず似通った部分、後世に生きる我々に指し示してくれる部分がある事を初めて知り、大変興味深く拝読しました。ハシディズムの言行録の存在じたい、私は知りませんでした。

そして更に今回は、恩師(松田高志先生)のそのまた恩師である、上田閑照先生による智勝会(居士の参禅会)のお話が、私には殊更嬉しく。>『吾が師を語る――大津櫪堂老師と梶谷宗忍老師』

松田先生も学生時代に様々な問題を抱えられた際に智勝会に参加されており、度々梶谷宗忍老師についてはお話を伺う事もありましたが、その上の大津櫪堂老師の事、さらに『隻手の音なき声―ドイツ人女性の参禅記』(筑摩書房)の著者であるリース・グレーニングさんの参禅に関しても触れられており、櫪堂老師とグレーニングさんとのやりとりの中にある厳しさ、真剣さには、まるで自身も参禅しているかのような錯覚に陥り(厚かましくてすみません)、涙し、心打たれるものが大いにありました。

また、さらにさらに、『隻手の音なき声』の訳者でいらっしゃる、上田真而子先生による「リース・グレーニングさんのこと」と題した、上田先生とグレーニングさんとの交流についても今回は掲載させていただいております。

『禅文化』をご購読いただいております皆様には、是非記事のご感想や、今後どのような記事をご希望になるかなど、ご意見も頂戴いたしたく、宜しくお願い申し上げます。

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-栄西と中世博多展- 福岡市博物館




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博多を訪れた際に、福岡市博物館にて開催中の、-栄西と中世博多展-を訪れました。

御存知栄西(ようさい)禅師。関西に住んでいますとやはり京都の建仁寺(栄西禅師が開山)のイメージが強く、教科書で習ったくらいでは、博多との濃い繋がりは書いてあったかどうか…忘れがちです。
実は栄西さんは2度中国へ渡られており、その背景には博多で行われていた国際貿易があります。事実、博多にあります聖福寺(しょうふくじ)建立においては、貿易を生業とし、博多に住んでいた中国人達からの資金援助もあったとの事。
当時の中国-博多-禅-茶。そして栄西禅師の日本においての布教についてなど、様々な資料から詳しく知る事の展示はこれが最初で最後?ではないでしょうか。
禅や歴史に関心ある方のみならず、お茶をなさる方にも是非足を運んでいただきたい展観です。
残念ながら巡回も無いようですので、博多まで見に行く価値あり!です。
10/31まで。お近くの方、お仕事や観光でゆかれる方はお見逃し無く!

禅文化研究所より刊行の『栄西』-千光祖師の生涯-も宜しくお願い致します。

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新刊のご案内 『太極の心―楊名時の志を継いで』




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妙心寺管長・河野太通老師は、長年太極拳をされており、古くから楊名時師家(太極拳の道においても、尊称として“師家”を使うようです)と交流を持たれていました。
今回、太通老師と、楊名時師家の後継者である、楊慧さんによる共著が二玄社さんより出版され、禅文化研究所でも取り扱いをさせていただいておりますのでご紹介させていただきます。

『太極の心―楊名時の志を継いで』
太極拳。朝の京都御苑にて、ゆ~ったりとした動きで“気持ちのよい朝の気”を存分に味わうかのような、エネルギーを自身の内に集めては解き放つ、気の流れと同化する、見ている方も気持ちよくなるような動きをされているグループをおみかけします。

「おぉ…良いものだなぁ…」と思いながら道すがら見ています。
私はヨガをしていますので、求めるところは同じかな!?などと思いつつ…。
ヨガでは、呼吸を意識し、身体の隅々にまで意識を届けてゆくと、普段は自分の身体でありながら全く意識の及んでいない部分がある事に気づかされます。
「そこも私の身体の一部だったのね!?知らなくてごめんね」と驚きながら語りかけています。
同時にそれは、自身の心の見えない部分にまで光を当ててゆく事となり、まるで欠けていた月が光を受け、明るくその姿を現すかのようです。
呼吸を意識しながらアーサナ(ポーズ)を続ける事で、様々な“気づき”が自身に訪れます。
茶道やヨガや禅の教えから、「東洋の叡智とはなんて素晴らしいものなのだろう」と、日々実感し、感動しつつ生きています。
「太極拳もきっとそうなのだろう…」と、習っていなくてもわかるのです。

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秋佗ぶ -北村美術館-




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いつもその展観の名に、どんなお道具が並ぶのかと楽しみな北村美術館にて、秋の展観が始まっています。

-秋佗ぶ-
洋の東西をとわず人間の感性には、秋が深まるほどに佗びしさが募るところがあります。そのような思いを取り合わせの展示のなかに含め、秋季展の企画をいたしました。

との事。なんとなくものがなしい秋。春から夏にかけて生き生きと生命力を湛えたものが、だんだんと朽ちてゆく様を見るこの季。
それでも、四季ある国に生まれた私達は、それも循環の一つで、秋に朽ちゆくものたちに、わびしさや儚さのみを見るのではなく、朽ちゆくものたちの“美”を知っています。そこからまた新たに始まる再生をも知っているからでしょうか。
朽ちゆくものも、消えてなくなって終わりではない、そこからまた新たに何かが…という循環の感覚。
祖先から受け継いで来た感覚というものは、時代を経ても変わらぬものなのでしょうか。大切にしたいものです。

今回の展示は、この“秋”の気持ちを存分に味わえるようなものとなっています。
その季節を存分に味わい、季節の移り変わりと共に自分自身をみつめる。そのサイクルを繰り返し、人生を味わい深いものにしてゆく。
いつもいつも、茶の湯の道とはどえらいもんだなぁ…と思わざるを得ないのでした。

12/5まで

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所長記事掲載雑誌のご紹介 -小学館『サライ』11月号-




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先般の『セオリー』誌に続いて、今度は書店でもっと目にする小学館『サライ』11月号に、禅文化研究所所長・西村惠信の記事が掲載されています。
この号は「初めて出会う 京都」という大特集が組まれている号ですが、毎回組まれている「サライ・インタビュー」で、所長は自身が学生時代から60年も通ってきた京都のことを語っています。
その中で、京都独特の文化を育んできた気質と禅の修行とは通じるものがあると捉え、その「市中の隠」こそが京都をささえてきたというのです。

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またこの取材は、禅文化研究所、滋賀の自坊、南禅寺、と場所をかえつつ、所長の話は人生をトレースしていて、なかでも少年期になって存在を知った実の両親との、わずかな出会いの思い出なども語られています。

ナイスミドルと呼ばれる世代以上の方々に特に人気のこの『サライ』。もちろん、今号は京都特集ですから、京都のことが大好きな方々にもお薦めの一冊。今年の秋の京都訪問のガイドブックになりそうです。

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Japanese Decorative Gigs 2010 窶骭€ 京 都 南 蛮 事 変 -妙心寺・春光院-




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「南蛮寺の鐘」が残る妙心寺の塔頭、春光院さんにて、10月24日、面白い会が催されます。
唐紙・襖紙の制作で、昨日ご紹介しました-かみ添-さんも参加されています。
私もお邪魔する予定です。
美しいモノ、新しい価値観との出会いに、自身が何を思うのか、今から楽しみにしています。

Japanese Decorative Gigs 2010 窶骭€ 京 都 南 蛮 事 変

*今回はご案内が遅れ、チケット予約期間を過ぎてしまいました…。昨年もこの催しは行われていたようですので、もしかすると来年も?! 関心を持たれた方は、アンテナを張り巡らせておいて下さい。

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『禅文化』216号 技を訪う -かみ添  嘉戸浩-




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かみ添。様々な文様のカードが並ぶ


日々の生活で出会った素晴らしい職人さんを、季刊『禅文化』にてご紹介しています。
本ブログでもご紹介させていただきます。
その他の記事はこちらから。
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季刊『禅文化』216号より
“技を訪う―かみ添 嘉戸浩(かど・こう)”  川辺紀子(禅文化研究所所員)



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無音(むね)と名付けられた光陰彩紙。
この紙に「しんしんと降る雪」を思うか、はたまた「カワイイ水玉!」と見るか




 ペンを取り、好みの紙に便りを認める。
 昨今は、年賀状でも、大切なことがらでも、メール一つですぐに相手に伝えたいことが届くようになった。便利なものは便利なものとして活用したいが、やはり“心をこめる”には、自筆の便りをと思い、人よりはまめに手紙を送る。家には、便箋やハガキや切手が、季節や相手に応じてすぐに送れるようたくさんストックしてある。
 せっかく京都に住んでいるのだからと、利用する便箋等に和を意識しすぎてしまうと、かえって本来の和の美しさから遠ざかり、ただ古さを気取っただけのものになりかねない。
 手紙を受け取る相手がどこまで感じ取ってくれるかはさておき、一人でああでもない、こうでもないとこだわっているわけだが、“和”と“洗練された新しさ”を兼ね備える便箋やハガキを選択するのはなかなかに至難の業である。だからと言って西洋風のレターセットはいまひとつ面白みに欠けるのと、自分には不似合いな気がしてあまり使いたくない。この勝手なこだわりの隙間を埋めてくれる、しっくりくるものとは、一体どんなものなのだろう。


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紙に添うものたち

 ある日ネット情報で、「京都の唐紙を作る老舗で修業をした人が、新しくお店を開く」ことを知り、その老舗の唐紙の便箋やハガキを十年ほど前から度々使っていた私は、これは是非ともお弟子さんの店とやらを拝見せねばと、開店して間もない「かみ添」にでかけてみた。
 「なるほど……、そういうことか」。私がもどかしく思っていた隙間部分を埋めてくれるような、興味惹かれる美しい紙が並んでいたのである。元来、唐紙にある文様といえば、さほど日本文化に詳しくなくとも、すぐに「あア、日本古来の文様だな」とわかる類のものが多いのだが、「かみ添」の展示品の中でまず一番に目に飛び込んできたのは、トルコの文様が摺られた紙であった。木版を使って紙に文様をつけるわけだが、「職人に使われることもなく、捨てられるか、骨董品としてオブジェとなってしまうような木版を世界中から集め、使いたい」とは、店主の嘉戸浩さんの言だ。なるほど、私が以前旅した東南アジアのどこかの国で見たような懐かしい文様などが施された紙もある。インドの更紗やインドネシアの臈纈染めなどの布作りの型押しに使われる木型を使うのもとても素敵だろう。さまざまな国を旅して見てきた文様が私の頭の中に溢れ、わくわくしてきた。私の大好きな日本文化と、日本文化をこよなく愛するからこそ芽生える他国の文化への関心や尊敬の念、どちらも満足させてくれるような作品であった。

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トルコの文様の襖紙を段貼りにした襖

 このような紙で作られた便箋は、抽象的な文様が、便りを送る相手の年齢を選ばないし、私が理想として求めていた“和”であって、しかも凡庸ではない。不思議な美しさを持ち、色や文様によっては送る側の若々しさや清々しさまでも連想させてくれる紙なのだ。また、その文様が、あからさまに特定の季節を連想させるようなものではないので、季節のあいさつという押しつけがましさもない。
 そんな美しい紙を作り出しているのが、先の、「かみ添」主人嘉戸浩さんである。まだお若いのにどういった道を歩んで自らの店を出すまでに至ったのだろう。興味はつきなかったが、その日は時間もなかったため、後ろ髪を引かれる思いで店をあとにし、後日、改めてお話を伺いにお邪魔した。

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久留米城跡




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引き続き、取材の為訪れました久留米の町のご紹介です。

-久留米城跡-
1621年より、丹波福知山より有馬豊氏が入城し、以来明治維新まで、250年間・11代に亘ってこの地を統治しました。
梅林寺は、豊氏が丹波福知山の瑞巌寺をこの地に移し、父の菩提を弔ったのが始まりで、その父の法号梅林院から名付けられたのです。
梅林寺とは切っても切れない関係の有馬家。梅林僧堂を訪れるなら久留米城跡も!という事で訪れました。

豊氏を祀る篠山神社や有馬記念館(休館中でした…)、立派な城壁が残ります。
久留米の町を一望できて気持ちよく。

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久留米駅




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梅林僧堂の東海大光老師へのインタビューで訪れました久留米。
最近駅舎が美しくなったようです。
内部にあるステンドグラスを一枚一枚みていると…。
おぉっ、梅林僧堂ではないですか!!! 筑後川、梅、梅林寺。その横には水天宮。
一人、妙に嬉しくなった私でした。

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梅林僧堂 東海大光老師を訪ねて




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先日、季刊『禅文化』の連載記事、-吾が師を語る-の取材で、福岡県久留米市にある梅林僧堂分院までお邪魔して参りました。
閑栖老師(前妙心寺管長)・東海大光老師に、御自身の得度のお師匠さんや、僧堂での師匠である東海玄照老師について様々なお話をお伺いしました。

当日、久留米の地に降り立ち、久留米城址や筑後川、ブリジストンの大工場などを目にしてから梅林寺を訪れ、この地に僧堂があり、そこでは今でも昔ながらの厳しい修行が続けられ、精神的支柱ともいえる老師がいらっしゃるという事の意味は、とてもとても大きな事のように思い、感慨深いものがありました。
むろん、存在すら知らない、気にしないでその地に住まう方々もいるでしょう。
ですが、坐禅会などもされているようですし、精神面・文化面をリードするに価する僧堂が存在するという事を、この地の人々は、大切にしてゆかなければならないなと思いました。

インタビュー中は、鋭い眼光を放ちながらも、赤子のように美しく澄んだ老師の瞳に引き込まれつつ、物心つく前から「お坊さんになる」と仰り、一筋に生きて来られたお姿、お話に、胸が熱くなりました。
まさに、御自身が好きだと仰る、映画監督・五所平之助さんの句「生きることは 一筋がよし 寒椿」のままに歩まれていらっしゃるのでした。

在家の私が、研究所でのお仕事によって、普通ではありえないであろう、一対一で老師にお話を伺うという事に、悦びと感謝の気持ちが湧き起こらないはずもありません。
僧堂の老師方は、メディアなどに登場される事はほぼありませんし、皆さんがお知りになる機会も少ないかと思います。
ですが、季刊『禅文化』の記事を通じて、少しでも多くの方に、老師の生き様、来し方、師匠との交わりを知っていただき、何か自身の生き方・人生の糧としていただければと願っています。

季刊『禅文化』2011年1月号に掲載予定です。
お楽しみに!

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愚堂禅師の語録と年譜

去る10月1日に大本山妙心寺法堂にて、妙心寺管長河野太通老師の導師のもと、愚堂東寔禅師350年遠諱が厳修された。
この法堂は、愚堂禅師がご存命の頃に建立されたもので、そう思うと、参列している私も感慨深いであった。

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何度かブログ禅でも紹介してきたが、この遠諱に向けて禅文化研究所では、愚堂禅師の「語録」と「年譜」の訓注本である『訓注 大圓寶鑑國師語録並年譜』、そして墨跡をあつめた図録『大圓寶鑑國師墨跡集』の編集制作を行なってきた。
愚堂禅師の「語録」は、伊勢中山寺様に残されている、法嗣・雪潭豊玉和尚の筆による収集草稿本が基礎となっており、この草稿本を八百津大仙寺十四世の康林祖寧が考訂して刊行したものが流布されている。
他に大仙寺に、『宝鑑録拾遺』と題される草稿本が遺る。筆者は不明で、年月日も記されていないが、『宝鑑録』にもれた書簡や聯句などを集めた、全二十二丁の薄いものである。

また、かたや「年譜」は雪潭和尚が編輯し、美濃真正寺の安山玄永が考証の任に当たったが、結果的に開板されたことがなく、中山寺に雪潭和尚自筆の稿本が遺り、東京大学図書館(「東大本」と略す)、花園大学図書館(「花大本」と略す)、そして、八百津大仙寺(「大仙寺本」と略す)の三箇所に、それぞれ別の写本が所蔵されている。

さらに、今回の『図録』の制作のために全国各地で撮影した際に見つかった真筆資料がある。

これらの諸資料をすべて網羅したのが、今回の遠諱記念出版である『訓注 大圓寶鑑國師語録並年譜』(訓注・能仁晃道)である。『大圓寶鑑國師墨跡集』の図版番号も注記に含まれ併せ見ることができる、平成新修『宝鑑録』ともいえるものとなった。

紐解いてみると、例えば、「年譜」慶安元年(72歳)の項に、禅師は『老子経』を閲覧し、また行録の慶安二年(73歳)の記載も併せ見ると、寝食を忘れるほど読まれていたようである。後水尾天皇は勅して、禅師に老子経の中から二編を書いてもらったとある。『墨跡集』には、そこのころに書かれたのではないかと思われる「老子経」の一編を書かれた墨跡(写真)が残る。

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こうして関連付けてみると、難しい漢文語録を読むことが、なかなかに楽しいものになるのではないだろうか。

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溺愛




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朝日新聞に「悩みのるつぼ」という秀逸な身の上相談がある。回答者はいずれも、腑に落ちる意見を愉快にサラリと呈示するので、結構楽しみに読ませていただいている。先般、子育てに失敗したというある母親の「悩み」が載っていた。50代半ばのおかあさんは、息子ふたりを「高いレベルの人生、豊かな暮らしを願って」育てた。おかあさんの考えうる最高の教育を受けさせるために、気の進まない息子たちを東京の大学に進学させ、長男は留学もさせた。「就活も一緒にエントリーシートを記入」し、そのかいあって、「知名度の高い企業に就職」することができた。しかし、上司によるイジメに遭い1年で退職、次の職場も上司に叱責されて登社できなくなったという。二男は二浪して大学に入ったが、学校に行かないでアパートに籠もりPCオタクになっている。

回答者の岡田斗司夫氏は言う:


あなたの好む手法は「徹底的に介入し、指導する」です。この手法を使う限り、自分が知っているジャンルしか扱えません。息子をとにかく一流にしたいとあなたは努力しました。その努力自体はすごく立派だと思います。でもあなたには「どんな一流が息子に向いているか?」というビジョンがない。しかたなく「私の知ってる一流」という方向で努力しちゃいました。あなたがスポーツ選手なら問題ありません。「私のようになれ、私を越えろ!」と教えればいいわけです。同じくあなたの家が老舗だったり歌舞伎みたいな世襲業なら、この教育方針でも決して間違ってはいません。しかし、あなたはスポーツ選手でも歌舞伎役者でもない。「私のようになれ」と息子に教えたら、どうなっちゃうのか? あなたは息子を「一流のお嫁さん」にしちゃったんですよ。(中略)いまや息子は二人とも「家事手伝い」です。

相談者のおかあさんには申し訳ないが、私は声を立てて笑ってしまった。青年たちは、結構高学歴の、強い思い込みを持った、強いおかあさんに育てられて、おかあさんの強さに辟易しながらも、その影響下にじっとうずくまっているのだろう。でも、岡田さんはこうも言う:

あなたは世の中の数多い「教育に失敗した名も無き母」の一人です。いまからできるのは、愚かな溺愛だけ。でも、そこから巣立って幸福になった子供だって数え切れないほどいます。僕もその一人です。僕は、いまは亡きおっかない母が大好きでしたよ。僕を溺愛してくれました。

そう、「溺愛」が不幸を産むとは限らない。「溺愛」には何にも代え難い力があるのではないか。その「溺愛」が一切の見返りを求めないものなら、これほど確かで心強いものもないだろう。もし神に「溺愛」されるなら、私は四の五の言わずに、直ちにそれを受け入れる自信がある。溺愛されると、人は心地の良い安心感にとっぷり浸かることができるだろう。そうなれば誰も不安を抱えてカウンセリングに向かう必要もない。特に昨今はすべての子どもたちが、「溺愛」の恩恵に浴せるとは限らないのだ。だから母親は子どもたちを存分に溺愛していいのではないか。前後の見境なく愛して何が悪かろう。

ただ岡田氏は最後にこう付け加えている:

だからもう大丈夫です。手放してあげてください。

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所長記事掲載雑誌のご紹介 -講談社『セオリー』-




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所長・西村惠信の記事が掲載されている雑誌のご紹介です。

講談社『セオリー』 -特集・幸福な死に方-
錚々たるメンバーによる「幸福な死に方」とは「死とは」……が語られており、所長も実に素晴らしい内容であると仰っています。
表紙を少し確認したところ、案外具体的に死を迎える方策などが書いてあるのでしょうか?!
是非本屋さんで手に取ってみてください!

さて、皆さんは「死」についてはどう考えていらっしゃいますか?
私は、生きているものがあーだこーだといくら望んだところで、こう死にたいという願望は叶わぬもので、“今”の連続を真摯に正直に生きていく事のみが、最期を決めるのだろうと思っています。
……なんて格好の良い事を言ってみつつ、なかなかに“今”を大切にできていない事が多いですし、実際、いつ死ぬかはわかりませんが、そういう事を考える年齢に達したのなら具体的な事を考えるべきでしょうか。

まだ私も読んでいませんが、本屋さんに行ってみようと思います。

ちなみに、この雑誌の編集者は、弊所の新刊『生き方。死に方』(西村惠信著)をみつけて、執筆依頼をしてきたと聞いています。

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朝顔の種の収穫




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きれいな花を咲かせ、家族を楽しませてくれた朝顔も一通り咲き終え、今度はぷっくりと膨らんだ種房がたくさんできました。
その中から茶色く乾燥して今にもはじけそうなものを摘みとり、種房から種を取り出します。

ひとつの種房に入っている種の数は様々で、これはいくつ種が入っているかな?次のは大きいからたくさん入っているだろうと予想しながら楽しく収穫しました。

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ボロブドゥール遺跡 「悪い顔」 -インドネシア-




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インドネシア旅行記のつづきです。
ボロブドゥール遺跡の中でも有名な、「悪い顔」のパネル。

当時の彫刻師達が、何の場面を刻み込むかの備忘として、パネル上部に古代ジャワのカウイ語にて刻みこんだ文字が残っている箇所があります。
このパネルには「Virupa(ヴィルパ)-悪い顔-」。
憂い・怒り・虚栄…様々な人間の醜い心は、顔に現れるとの事。
どの表情がどの感情でしょうか?!
心の持ちようが顔に出る。耳が痛いですね。
逆に、「無理にでも笑顔を作れば、自然と心も明るくなる」とも言われたりします。
いずれにせよ、和顔でまいりましょう!

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中国僧との交流




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日中の禅僧が坐禅や作務など、修行体験を通して相互理解を深める、日中禅僧交換交流のために5名の中国僧たちが来日した(9/27)。

中国仏教協会から派遣された一行は、福建省の仏学院の指導者を中心としたメンバーで、国内の2つの専門道場で雲水たちと共に5日間の修行生活を送り、関係寺院を表敬訪問したのち、京都で報告会を行なう予定である。

中国漁船衝突事件で日中関係が緊迫した状況の中で、本当に来日できるのかと少し不安もあったが、空港に現れた元気な姿を見て先ずは一安心。

翌日、滞在する専門道場の一つである一宮市の妙興寺に案内した。国により文化・習慣は違っても、修行という共通項があればお互いを理解するのにそう手間はかからない。僧堂生活の説明を受ける彼らの真剣な表情からもそれは感じ取れた。

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余命




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幼なじみが甲状腺悪性腫瘍ステージ4の診断を受けたのは2年前の春だった。花の真っ盛りに、仲良し4人組の私たち3人は泥沼に足を取られたような絶望感に陥った。癌の専門家4人が手術の成功は望めないとして担当を拒否し、国立癌センターの医師は、腫瘍のすべてを手術で除去することはできないにしても、手術をしなければ早晩、喉に広がった癌が呼吸器を塞ぐことになるから、今は切るしかないでしょうと、とりあえずの部分的な腫瘍除去をすすめた。

友人が私たちに病気のことを知らせてくれたのは、最初の診断を受けてから半月ほど経ってからだった。その間の苦しみはいかばかりだったかと思う。自分の状況をみんなに報告したのは、彼のなかで病いを受け止めようという気持ちが納得する形で固まったからだろう。彼は回りの者たちの意見に素直に耳を傾けて、自らが納得できるやり方を選んでいった。運良く、帯津三敬病院にかかることのできた友人は、漢方治療をやりながら検査などの西洋医学のやり方も排除しない方法をとった。帯津三敬病院は、先達てメディアがとりあげた「ホメオパシー」を否定していないことでも知られる。

友人は、この二年半、極めて普段通りに暮らした。以前と変わったのは、ほぼ完全な玄米菜食に切り換えたことくらいだ。と言っても、わたしたちと会食するときには、肉以外はすべて食べる。お酒だって飲む。よく笑う。ただ声が少し出にくいことを除けば、彼が病人だと思う人はいないだろう。その声だって1年前よりは確実によくなっている。

彼は、早朝に目覚めると、太陽や山や亡くなった両親にありがとうという。それからゆっくりと近所を散歩する。30分ほど半身浴をしながら読書する。ゆっくりと食事する。仕事もやる。家族や友人・知人との交わりを丁寧にこなす。週一回のテニスは欠かさない・・・・・

そこで、と思った、「〈彼の余命〉と〈私たち3人の余命〉の不確かさに些かの違いもないが、その質において、彼の余命は、健康という思い込みによって〈いのち〉に対する不遜を免れない私たちの余命を遙かに凌駕していることだけは間違いないであろう」と。

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