トップページ » 2010年10月18日

『禅文化』216号 技を訪う -かみ添  嘉戸浩-




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かみ添。様々な文様のカードが並ぶ


日々の生活で出会った素晴らしい職人さんを、季刊『禅文化』にてご紹介しています。
本ブログでもご紹介させていただきます。
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季刊『禅文化』216号より
“技を訪う―かみ添 嘉戸浩(かど・こう)”  川辺紀子(禅文化研究所所員)



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無音(むね)と名付けられた光陰彩紙。
この紙に「しんしんと降る雪」を思うか、はたまた「カワイイ水玉!」と見るか




 ペンを取り、好みの紙に便りを認める。
 昨今は、年賀状でも、大切なことがらでも、メール一つですぐに相手に伝えたいことが届くようになった。便利なものは便利なものとして活用したいが、やはり“心をこめる”には、自筆の便りをと思い、人よりはまめに手紙を送る。家には、便箋やハガキや切手が、季節や相手に応じてすぐに送れるようたくさんストックしてある。
 せっかく京都に住んでいるのだからと、利用する便箋等に和を意識しすぎてしまうと、かえって本来の和の美しさから遠ざかり、ただ古さを気取っただけのものになりかねない。
 手紙を受け取る相手がどこまで感じ取ってくれるかはさておき、一人でああでもない、こうでもないとこだわっているわけだが、“和”と“洗練された新しさ”を兼ね備える便箋やハガキを選択するのはなかなかに至難の業である。だからと言って西洋風のレターセットはいまひとつ面白みに欠けるのと、自分には不似合いな気がしてあまり使いたくない。この勝手なこだわりの隙間を埋めてくれる、しっくりくるものとは、一体どんなものなのだろう。


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紙に添うものたち

 ある日ネット情報で、「京都の唐紙を作る老舗で修業をした人が、新しくお店を開く」ことを知り、その老舗の唐紙の便箋やハガキを十年ほど前から度々使っていた私は、これは是非ともお弟子さんの店とやらを拝見せねばと、開店して間もない「かみ添」にでかけてみた。
 「なるほど……、そういうことか」。私がもどかしく思っていた隙間部分を埋めてくれるような、興味惹かれる美しい紙が並んでいたのである。元来、唐紙にある文様といえば、さほど日本文化に詳しくなくとも、すぐに「あア、日本古来の文様だな」とわかる類のものが多いのだが、「かみ添」の展示品の中でまず一番に目に飛び込んできたのは、トルコの文様が摺られた紙であった。木版を使って紙に文様をつけるわけだが、「職人に使われることもなく、捨てられるか、骨董品としてオブジェとなってしまうような木版を世界中から集め、使いたい」とは、店主の嘉戸浩さんの言だ。なるほど、私が以前旅した東南アジアのどこかの国で見たような懐かしい文様などが施された紙もある。インドの更紗やインドネシアの臈纈染めなどの布作りの型押しに使われる木型を使うのもとても素敵だろう。さまざまな国を旅して見てきた文様が私の頭の中に溢れ、わくわくしてきた。私の大好きな日本文化と、日本文化をこよなく愛するからこそ芽生える他国の文化への関心や尊敬の念、どちらも満足させてくれるような作品であった。

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トルコの文様の襖紙を段貼りにした襖

 このような紙で作られた便箋は、抽象的な文様が、便りを送る相手の年齢を選ばないし、私が理想として求めていた“和”であって、しかも凡庸ではない。不思議な美しさを持ち、色や文様によっては送る側の若々しさや清々しさまでも連想させてくれる紙なのだ。また、その文様が、あからさまに特定の季節を連想させるようなものではないので、季節のあいさつという押しつけがましさもない。
 そんな美しい紙を作り出しているのが、先の、「かみ添」主人嘉戸浩さんである。まだお若いのにどういった道を歩んで自らの店を出すまでに至ったのだろう。興味はつきなかったが、その日は時間もなかったため、後ろ髪を引かれる思いで店をあとにし、後日、改めてお話を伺いにお邪魔した。

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by admin  at 07:30  | Permalink  | Comments (2)  | Trackbacks (0)