「鍛える」ということ
日々、黙々と坐禅をする友人の研究者が、「規律やしごきで人が悟れるなら、どうしてアウシュヴィッツの囚人たちは悟らなかったのだろう」と言ったことがある。
相撲部屋のしごき騒動が云々されている。激しいぶつかり合いの稽古が禁止されれば力士たちの教育が根本から揺らぐとの声もある。
かつて梅林僧堂で修行をされた加藤耕山老師(1876~1971)が、臘八摂心(12月1日から釈尊成道の12月8日まで僧堂で行なわれる不眠不休の修行)の様子をこう語られている。
梅林寺という所は、ほかの時は別だが臘八だけは思いきって叩きよりますからね。(中略)堂内のほうでは直日(じきじつ、禅堂内での総取り締まりの役)は「独参をせよ、グズグズ坐っておっても何もならん、独参せよ」と。そうすると行くんですな。行くと大庭の所に助警というのが五、六人警策を持って立っている。「何ウロウロしとるか、そんなドイツイことで老師の前に行って何になるか。しっかり坐って来い、禅堂へ行って坐ってこーい」。それでも禅堂へ行くと叱られて追い出されるから、我慢はって行こうとする。ナニクソと、もう暴力ですな。一人や二人ならいいが、四人も五人もおって、なかには柔道何段なんていうやつがおって、しまいには真剣になってやりだすんじゃ。(中略)坐れというのならいくらでも坐っておるんじゃけれども、両方ではさみ打ちする。一方は「行け」というし、一方は「いかん、行くな」とこういう。無理ですわね。それがもう、実に悲惨ですからね。バタバタバタと、まるで戦場とちょっとも違わん。血相を変えてやりますからね。あまりバタバタ、ガタガタやるから、老師が心配さっしゃるです。「えろうゴタつくが、どうも修行はそんなもんじゃないがねえ。あやまちでもできるといかんから、たいがいにするように」と。わたしが古くなってからですが、「老師、心配しなさるな。存外心配なさることはありませんよ」と、なだめよったがな。そりゃそんなふうで、「あんまりこういう時代のことだから、たいがいにしておかないと」と、これをやめた老師があったですよ。そしたらあんた、もうちいっとも気がのらないですよ。沈んじまって、どうもいかんです、……
私たち在家の者には分かりようもない非日常の世界だが、命懸けの修行を誓って道場に入った人々にもさまざまな心の揺らぎが起こってくることだろう。そんななかで、この耕山老師の言われる臘八の「バタバタ、ガタガタ」が人を真に育て得たとするならば、それはひとえに、その道場を形作っていた指導者たち、とりわけ三生軒や香夢室、また加藤耕山といった徹底無私の人たちが、常に弟子たちの一歩先を悠然と歩みながら、なお弟子の一人ひとりに、地平を同じくしてぴたりと寄り添っておられたからではないか。
規律という構造のみが先行した場に立てば、「力」を手にしたごく普通の人間が、あっという間に「残忍な指導者」に変身しうることは、歴史が示している通りである。
おそらくは夢と決意を抱いて相撲部屋に入門したであろう「かの若い力士」が、自ら選んだ「鍛錬」の世界において、心から信頼し尊敬することができるような「真っ当な先達」に出会うことなく短い生を終えたことに、ただ痛ましい思いがつのるのである。
『円頓章』という仏教のエッセンスがある。
『摩訶止観』の要約であり、文章も素晴らしい。
白隠禅師の入滅の前年の成道会での墨蹟が残っている。 慧能の「本来無一物」も頓教であろう。
釈迦の言う「サンカーラ」行、本源的ないのちを
納得することが、本質的に重要であろう。
白隠の『夜船閑話』も内観の重要性を説いている。加藤耕山老師の晩年にお会いした。柳瀬有禅老師の境涯の素晴らしさを会得できた。
また、大森曹玄老師に妻は可愛がられた。
睦子さんが妻に重なったのであろう。
高知出身から、前野先生、山本玄峰老師、南天棒老師が重なったのでもあろう。
華厳経を鎌田茂雄先生に習った。
今、懐かしく思うところである。
コメントありがとうございます。
今はなき優れた先達、祖師方に直接お会いになられ謦咳に接しられた由、有り難く拝読いたしました。
老師方のことなど、またコメント戴ければ幸いに存じます。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。
鎌田茂雄先生の弟子である駒沢大学の池田先生
先生は白隠禅師の『夜船閑話』を、禅文化研究所の註釈つきのテキストで講義されました。
先生は、この研究を高く評価されておりました。
いずれにしても、白隠禅師の古典に対する素養の深さには驚かされます。
白隠禅師は『おらで釜』、法華宗の尼さんに、妙法の本質について、そのエキスを説いておられます。セクト主義にならず、良きものは良いと、道元、天台大師・智顗の言辞などもとりあげています。
思い出話
*柳瀬老師の法燈禅林「皎円寺」の有ります。都幾川村は自然が豊かで、柳瀬老師の波動がこの山野に浸透している、陽春のころの春霞たなびく風景や、紅葉した柿の葉と熟した柿の実は誠に素晴らしく輝いていました。
*大森曹玄老師
いつでしたか、老師が京都に始めて天龍寺を訪ねたとき、関精拙老師の温かさについて話された。
京都ホテルの屋上から、京都一望を眺め、大森一声氏に予告なしに親切に説明されたというお話をされました。
大森老師を見る人は、武人と思う人が多いと思いますが、実は情の人と思うところです。
睦子さんを助けたい一心で家財道具一式を売り払おうとする。しかし、赤子一人の命と子供たちの命と返るのかとの奥様の迫力に、我を取り戻したという。
どちらかといえば、奥様は知の人のようで、宮本武蔵の絵のように、触れば刺さるほどの鋭さを感じたものです。
弥勒と普賢と言うところでしょうか。
老師は妻のお産を心配して下さり、幼児には高タンパクを与えよとか、子育てを公案として励みなさいとか。妻は老師から沢山のお手紙を戴いています。
次男の名前もつけて下さいました。
今ではこの子も33歳となっております。
本当に情の厚いお方でいた。
いつか、朝比奈老師の護国の心をお話したら、大森老師は朝比奈老師は本気ですよ、と言われました。
大森一声氏は国士であったことを、後で知りました。
関精拙老師との国民啓蒙の約束、これが老師の心から離れなかったと思うところです。
老師方のいろいろな思い出話をお書きいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
ことに奥様宛ての大森老師の書簡は貴重なものだと存知ます。
もしお差し支えなければ、いつかまたコピーでも拝見させていただければと存知ます。
今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。
数年前、妻の高校時代の同窓会を在京者で集い実行しました。
若き頃の或る日、高歩院で妻の高校のクラス友達の式部氏に会いました。
当時、式部氏は大森老師に剣道の指南を受けていたようです。
老師さまの話では、式部氏は大学卒業後に警察官になられたようです。
さて、同窓会で当時のことが懐かしく、妻が老師から戴いた手紙のこも話題に登ったようです。
式部氏は「手紙」は大切に保管しておくようにと言われたようです。
妻も、ご老師との思い出もあり、大切に心にしまっておきたいようです。
了解いたしました。
またいろいろお教えくださいますようお願い申し上げます。
小生の文章を見直しますと、誤字や脱字があり
大変申し訳ありませんでした、お詫び申し上げます。
先の、「弥勒」と書きましたが「文殊」と書くところでした。
追伸
柳瀬老師は戦後まだ教育委員を選挙で選ぶ時代に
埼玉県教育委員をなされていたということでした。
柳瀬老師は「人の世話に専念したい」ということから、耕山老師を訪ね弟子として許されたようです。
早朝、敷居をまたぎ「サッ サッ」と歩く姿に小生は、迷いを吸い取られました。
気分は爽快というところでしょうか。
大森老師が頭山立助先生に会われた後の気分を書かれていました。
優れた人が世の中にはいるようです。
耕山老師の徳雲院の禅堂ですか?
柳瀬老師が寄進されたと、耕山老師は話されました!
皎円寺の開山堂を作ることに努力され、小生もそこで何回か坐禅した記憶があります。
耕山老師が遷化され、その語録を集め本にすることに努力されました。小生も一冊持っていましたが紛失してしまいました。
今、秋月氏と共著となっているようですが、当初は柳瀬老師が発刊されました。
柳瀬老師も長男の安産を願い、地元の雷電神社にお参りして下さいました。
小生の故郷の井上長英氏が柳瀬博心氏と平井玄恭氏を紹介して下さいました。
本当に良き先達に恵まれ感謝するところです。
老師方のお話ありがとうございました。
日本の僧堂で長く修行されたアメリカ人禅僧のトム・カーシュナー師が、『禅僧になったアメリカ人』(禅文化研究所刊)のなかで、加藤耕山老師、塚田耕雲老師との出会いに触れておられたのを、改めて思い起しました。
兼好法師ではありませんが、すみません。
加藤耕山老師を訪ねたのは、確か遷化の前年の秋でしたか、奥多摩の紅葉を記憶しています。
公道から坂を下り、梅林を左に見て進む。
"誰か来た! と 老人が珍しそうに小生達を見る"
何か、「徳山托鉢」で台所にひょいとのぞき込んだ老人の顔を連想させられる。
小生と妻は挨拶し、客として案内される。
老師「この老人、人の来てくれるのが楽しみ、誰も
来ないときは、坐禅が仕事とこうやって坐っている」と。
そのお姿は、お地蔵様そっくり
初めて見る、生きたお地蔵様でした。
以来、あのようなお姿は拝見したことがありません。
老師の話、この山奥にも外国人が尋ねてくると!
トム・カーシュナーさんもその一人では、と思うところです。
ワシは人間を「悟る」動物と定義すると!
梅林寺での修行時代
小倉の軍隊の訓練施設があって、若い兵隊が入隊前後で訓練の成果で素晴らしく変わること、スペイン風邪で沢山の人が死んだこと、葬式は大変だつたこと、梅林寺の僧は一人も感染しなかつたこと等
様々な話をされました。
お暇するとき、土産代わりと、老師は無造作に一枚の印刷物を渡されました。
それには、坐禅姿の徳雲院住職加藤耕山という写真、「正身端座名利に迷うな」と書いてあった。
坂の上には交番があり、そこに加藤老師の「達磨図」の額がかかっていました。
柳瀬老師について
いつか、人間にとって大切なことは何ですか?
と質問したことがあります。
楠正成を例に、「誠」と言われた記憶があります。小生は、機械工学を学び、会社でも機械製作や建設の仕事をして来ました。
不思議なご縁です。
最後になりますが、当時は禅や仏教に引かれる人も多かったと思います。
全生庵「清風仏教文化講座」における紀野講師の
講演は超満員でした。
加藤耕山老師の所には、龍沢寺の鈴木老師が中川
老師の許しを得て、半年程おいでになられていたとのことです。
小生は宇都宮在住のとき、雲巌寺の鈴木老師の
『無門関提唱』を、平塚在住のときは、円覚寺の
足立老師の提唱を聞きました。
最近は、文化講座を聴く人も少なくなつている、また若者も少ないようです。
健康対する配慮や老齢化から、帯津先生の指導する丹田呼吸法の実習生は増えているようです。
日本人の活力低下が進んでいるのでしょうか。
自然と共に暮していた日本人、都市化が進み心の構造に変化が表れたのでしょうか。
やはり、東京オリンピック以降ではないかと思います。
どうか、日本人の伝統文化を継承発展させて欲しいと願っています。
大変失礼しました。
以上
高橋秀夫さま
はや、龍澤寺の中川宋淵老師は23回忌を迎え、鈴木宗忠老師も遷化されて20年ほどになりますね。
私も宗忠老師のご接化を受けた端くれです。とはいえ、東京オリンピックごろに生まれた弱輩ではありますが。
東京オリンピックというより、敗戦してアメリカナイズドされた日本は、経済成長とともに、和の心を忘れた感があります。今や、かえって西洋の方の方が日本の和の心に興味を持たれたりしているようですね。
それはともかく、私たちの仕事は、伝統文化の継承発展だけではならないと思って、精進いたします。
「伝統文化の継承発展だけではならない」との件
山本玄峰老師の遺書を思いだしました。
「龍沢寺、松蔭寺の住職たるものは、東嶺、遂翁の侍者たるべし。世の常の和尚ぶりとなること勿れ。正法興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ。
よろしく正法を守り仏法を興すべし。自分の葬儀は絶対に行わざること」と。
老師の友達であった前野先生は、「七十一年わが世の春や屁一つ」と言って亡くなられたそうです。
山本老師の因縁の場所、土佐「雪渓時寺」、小生も一度行きました。
私は、このような風土の中で子供時代を過ごしたのです。
朝比奈老師は確か静岡の生まれ、幼少の頃、母親を失ったとか?
寂しくなり泣いていると。それを見た縁者は、「お母さんが草場の蔭で見ている。安心しなさい」と。
それで、お母さんに会いたくて、会いたくて、草の葉を一枚、一枚ぺっぱがして探したという話を、紀野一義氏にしたという。
あの、護国の情熱に溢れ、人前では微塵もそのような母に対する思いを見せない。
どうも悲しみが深くなればなるほど、慈愛の心も深くなると思うところであります。
常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんすいしょうご)
(常に悲感をいだいて、心遂に醒悟す) 『法華経』 (如来寿量品)
かなしみはいつも
かなしみはみんな書いてはならない
かなしみはみんな話してはならない
かなしみはわたしたちを強くする根
かなしみはわたしたちを支えている幹
かなしみはわたしたちを美しくする花
かなしみはいつも枯らしてはならない
かなしみはいつも湛(たた)えていなくてはならない
かなしみはいつも噛みしめていなくてはならない
坂村 真民 「六魚庵哀歌」
【圓頓章】
完全で素早い方法
初めに「法界の心」につながれば、心の鏡に写し出された世界は真実そのものとなる
「法界の心」につながり、ひとつになれば、すべては真実となる
ちっぽけな、目に見える物、ちょっとした香りも、中道である
己界、佛界、衆生界、合わせれば法界全ての存在を説明できます
法界の側から見れば、全ての鏡の中の現実は、如であり、空です
ですから、苦として捨てるべきものが、どこにもありません
法界には苦しむべき我がありませんから、その原因もない、という境地
片寄ったこと、邪悪なことも、みな、中庸で正しいことであるので、仏教の修行として歩むべき道は無い
法界から見れば、鏡の世界の生死は涅槃と同じことで、苦しみを終焉させるため達成することなど、どこにも無い、という境地
苦集道滅が無い境地になると、世間(俗世間)も出世間(仏教の修行)も無い
純粋に一つの実相があるだけで、実相のほか、さらに別の法は無い
法界が鏡から切り離されて静寂に包まれるのを止と名づけ、静寂でありながら、常に燦々と光明を放って輝くのを観と名づける
どちらが先ということではなく、二つ別々のことでもない
これを、完全で速やかな止観と名づける
「神」と「人間」そしてそれを結びつける「契約」 二元論的世界は、「ウインドウズ」と「リナックス」のように、妥協は絶対に出来ない世界です。
仏教はもっと基本の「ウインドウズ」や「リナックス」等のペースとなる「ソフト」のようなものでしょう。
世界が近くなり、思想の混乱もあります。
玄峰老師の時代よりも複雑になつた世界、「伝統文化の継承発展だけではならない」とは如何なることか、生命をかけて探求する問題と思うところですが?
これで全て終了します。
大変有難うございました。
御機嫌よう!
ご活躍をお祈り申しあげます。
追記;世の変化に対し自分の為すべきことについて思い出したことがあります。
九段会館で「清風仏教文化講座」の記念式典があったとき、大森老師も参加され挨拶されました。
確か、花園大学学長の頃だと記憶しています。
式典も終了し、2人の女性と合流し「餡蜜」を食べて、老師さまを中野の高歩院にお供したとき、上記のような質問をしました。
大森老師は「脚下照顧」のようなことを言われたと記憶しております。
以上、ちょっと以外に思いましたが、数ある修羅場を潜り抜けてこわれた老師の言葉。
蛇足ですが、申し添えておきます。