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弥勒仏はお酒を飲んだ? 実は布袋さんだった!

萬福寺 布袋さん
萬福寺の布袋さん -臨黄ネット-
より

日本の語録の訓注の仕事を続けていると、おもしろい説話に出くわすことが多い。これもその一つである。
「渠(かれ)は是れ真の弥勒、酒は元と米汁より成る。人に飲ましめて共に快楽、一酔、無生を悟る」。
これが、現在訓注している、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師の偈。しかも、婦人にあたえた引導の法語である。さて、この偈に注を付すのが、小生の仕事である。余程、中国文学に精通していないと、この偈の意味と典拠は分からないと思う。小生も、一読で分かるわけではない。いろいろな作業を踏んで調べて行くのである。

まず、「弥勒」と「米汁」とをキーワードに、パソコンのデータを駆使して検索する。すると、運敞(うんしょう)の『谷響集(こっこうしゅう)』巻3に、「弥勒仏好飲米汁」という項目があることが分かった。『谷響集』本文のデータはないので、すぐに、和本を見る。あった、あった。

【弥勒仏、好んで米汁を飲む】
客問う、飲中八仙歌の註に云く、「蘇晋、浮屠の術(仏教)を学ぶ。嘗(かつ)て胡僧慧澂が繍せる弥勒仏一本を得て、晋、之れを宝とす。嘗て曰く、『是の仏、好んで米汁を飲む。正(まさ)に吾が性と合(かな)えり。吾れ願わくは、之れに事(つか)えん。他仏は愛せず』と。弥勒米汁、何の因縁ぞや」。答う、「米汁は酒を謂う。経典の中には是(かく)の如きの事無し。是れ明州の布袋和尚を指す(以下、『景徳伝灯録』巻27の布袋の伝を引く)」。

これで、「弥勒」と「米汁」とはつながった。しかし、下2句の「人に飲ましめて共に快楽、一酔、無生を悟る」の典拠は不明である。そこで、『谷響集』にある「飲中八仙歌」を調べる。これは、言うまでもなく杜甫の作である。『古文真宝』巻8に収められている。明治書院の「新釈漢文体系」本の注を見ると、『谷響集』にある客の問が載っていて、この客が言う「註」とは、杜甫の詩にいろんな人が注している中の、師氏という人の注であることが分かった。それも、「飲中八仙歌」の「蘇晋は長斎す、繍仏の前、酔中往往、逃禅を愛す」の句に付された注である。

これで、この愚堂の偈は、酒を飲む弥勒仏を愛した飲中八仙人の一人蘇晋(そしん)が、弥勒仏の前で精進潔斎はするものの、よく酒を飲んでは、俗世を逃れて坐禅をした故事をもとに作られたものであることが分かった。

しかし、はたと気付いた。『谷響集』のこの一文は、この偈の注には引用できないことを。なぜならば、愚堂の在世、まだ、『谷響集』は成立していないからである。さて、困った。もはや、おおもとの師氏の註を引くしかない。幸い、『分門集註杜工部詩』を見ることができた。すると、その註は、なんと、「……他仏は愛せず」からまだ続き、「蓋(けだ)し弥勒仏は、即今、世に謂う所の布袋和尚、是れならん。常に市中に於いて酒を飲み豬(いのこ)を食らう。首(はじめ)、時の人、之れを識る者無し。故に甫(はじめ)に〈長斎繍仏前愛逃禅〉の句有り」とあって、既に、布袋和尚の名を示しているのである。『谷響集』の客は、この註を最後まで読んでいなかったのか。運敞も運敞である。師氏の註にあるものを、自分の答えのように書くとは、盗作ではないか。だが、問答形式を使った、おもしろい教示ではある。

こうやって、念には念を入れて、小生の訓注の仕事は進んでいく。
『訓注 雲居和尚語録』、既に刊行されています。是非、一読してみて下さい。

by admin  at 07:30
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