永源寺僧堂での悲しい事件

3月6日に臨済宗の大本山の一つ、永源寺の道場で起きた事件(私は事故だと思う)について、ご存じの方も多かろう。
これについて、私はここで、あくまで個人的な思いを綴っておきたいと思う。
各メディアでは、「修行中の僧侶(雲水)が、酒に酔った上で口論となり、後輩の修行僧を縁側から突き落として死なせた」というゴシップ記事的な趣旨で、修行道場での傷害致死事件としてとりあげられた。
事件の後、ブログなどで本件をとりあげておられるものも散見した。
そこで多くは、臨済宗の修行道場の管理体制がどうとか、そういう疑問視を投げかけられている。
また、僧侶が不飮酒戒を犯していること自体を、猛烈に批判しているお方もおられる。よほどご自身は戒律を守ってご立派な方なんであろう。
しかし私はそんなところに問題の根底があるのだとは思わない。
じつは、私は個人的に以前からこの両者の修行僧を存じ上げていた。だからといって肩をもって弁明するわけではない。
だが、どちらも真面目に長年の修行をされ、己事究明に徹底してこられた方なのである。そして、二人とも粗暴ではなく、優しさのある人だ。
ゆえに、これはそれぞれの修行への思いが熱かったから起きてしまった、たまたま起きてしまった事故としかいえないと思うのだ。明日はこの我が身に起きることかもしれない事故なのだ。
制中(集中して修行する期間)と制中の間(制間という)であったこともあり、道場での役位であった二人が、後進の指導についてなど、ざっくばらんに話をしていたのではないかということが想像できる。そしてなにかのきっかけで口論となったのかもしれないし、どちらが悪いとかそういう問題ではないと思うのである。
もちろん断じて殺意などあったはずはない。
私の知る限り、お二人とも仲良く力を合わせて後進の指導にあたられていたのを知っている。
外界とは閉鎖され、修行に専念できるはずの僧堂生活の中でのことなので、世間やマスコミは、ここぞとばかりに「飲酒の戒をやぶって」「暴力をふるった」というような点をついてくるのだが、私はそこに迎合したくはないと思った。
私は永源寺僧堂の出身者でもないけれど、臨済宗の僧堂として、永源寺僧堂はとても素晴らしい僧堂の一つだと感じており、知人からお弟子さんを入門させる僧堂はどこがいいかと聞かれると、迷わず永源寺がいいと紹介していた程である。
雲水達はみんなきれいな眼をして、いきいきとしていた。もちろん、これはご指導いただいている篠原大雄老師がすばらしい老師であるからであろうし、古参の雲水(今回の当事者)が、うまく先導しているからだと聞いていた。
禅文化研究所で企画発売している「禅僧が語る」DVDの撮影でも、篠原老師から沢山のお話をお聞かせいただき、この師匠の元で修行できるのは幸せなことだと思ったほどである。
だから今回のことで、もし永源寺僧堂が閉単(道場を閉じてしまうこと)になったり、老師が引責辞任されたりというようなことは決してあって欲しくないと思っていた。
それとともに、在錫している若き雲水たちの心持ちはどういった状態だろうかと思った。現在在錫中の、自坊の近隣のお寺の徒弟さんや、私が永源寺を紹介して入門することになった、道場で私と同参だった和尚の徒弟さんは大丈夫だろうか、と心配でならなかった。

事件が起きて10日もたって、私の知人で永源寺に関係する人たちから、いろいろな情報が入ってくるようになった。
すると、老師は泰然自若とされており、雲水達は黙々と日常をこなしているという。ほっとした。
そして老師は事件のあと、このようなことを言われたとも聞いた。
「私がここに来たとき、僧堂の規矩(規律)は成り立っていないような状況だった。それを今日までの状態にしてきたのは当事者である。しかし30年の苦労も一夜の過ちで無になった。だが、またゼロからやり直すだけだ」と。
素晴らしいではないか。私はこれこそが、臨済禅だと思った。そしてさすが永源寺僧堂だと思った。
起きて欲しくなかった残念な悲しい事故だし、それでも加害者と判断されれば社会的責任(刑事責任)は負わなくてはならないと思うが、道心・信念だけはくじけないでいただきたいと思う。
できることならば寛容な措置がとられ、またもどって修行をゼロからやりなおせるようになればと思うのだ。
たしかに、昨今のいくつかの僧堂で色々と問題が起きていることも知らないわけではない。見直さなければならないことは多くあると思う。
ただ今回の件は、それと一緒にされるべきことではないと確信している。
末筆ながら、志半ばにして亡くなられた雲水に、心から哀悼の意を表します。
>だが、どちらも真面目に長年の修行をされ、己事究明に徹底してこられた方なのである。そして、二人とも粗暴ではなく、優しさのある人だ。
>ゆえに、これはそれぞれの修行への思いが熱かったから起きてしまった、たまたま起きてしまった事故としかいえないと思うのだ。明日はこの我が身に起きることかもしれない事故なのだ。
私も臨済僧ですが、得度式で受戒したその日のお祝いの席で、酒が出てきたことにはびっくらたまげました。(在家からの出家です)
せっかく決意してこれからは俗から離れて修行していこうとしているのにいきなりの破戒でした(もともとお酒が好きだったからです)。
飲みすぎで体の具合がおかしくなったのがきっかけで酒を辞めましたが、持戒堅固で智慧のある立派な老師に出会えたのも一因で法事のときの献杯すら今は酒は飲みません。
このひとたちも、悪い人では無かったんなら、尚更酒飲まなかったらこんなことにならなかったのにと思いますよ。
なんで、お釈迦さまが不飲酒戒を定められたのかよく考えてください。戒を守るものは戒に守られるんですよ。酒に頼る人なんか禅定には入れないでしょ、だってそれに心が引っ張られてるんだから。
飲まれなければいいなんて言う言い回しはやめて、はっきり酒はよくないんだと言った方がいいと思いますよ。
無記名さま>
ここで戒律について書きあっても、どうせ水掛け論になって意味がないのでやめておきます。
しかし、戒律を全て守ってご自身が非常に正しい行ないをされているという確固たる自身がおありになるなら、ペンネームでもお名前くらいお寄せになってもいいようにも思います。
あなたがお付きになった持戒堅固で智慧のある立派な老師がどなたか存じませんが、私が随侍した老師は般若湯もお飲みになったけれどもすばらしい老師でしたし、人間的にもとてもおもしろい方でした。
いろいろな高僧の評伝を読んでも、お酒にまつわる逸話がたくさん出てきます。
私はそういう僧侶を破戒僧だとか、つまらない老師だと思うよりも、直接、その老師の謦咳に接したかったと思うばかりです。
たとえば一休禅師はどうしてあのような破戒僧だったのでしょうか。
懴悔懴悔六根罪障、私たちにはどうやっても罪が付きまとってくるから、懴悔するのではないでしょうか。
泥の中から美しい蓮の華が咲くように、迷っても迷っても、破顔微笑して生きたいと思います。
私自身は、法事で歓待してくれる檀家さんと一献交えて、お互いに人生を語ったりすることは、楽しくて仕方ありません。
そんなときこそ、お酒は般若湯ではないかと思います。
ともかく、こんな風なお話は、理屈抜きで出会ってお顔を見て話したいものです。
(by E.N.)
お返事ありがとうございます。無記名で失礼いたしました。
まあ、一休禅師についてはなぜ悟ったと言いながらあのような破戒僧だったのかと、私は以前から疑問を持っていました。先程法話のネタ探しで禅文化さんの一休道歌をつらつら見ておりましたところ、有名な句だと思いますが、「有漏路より無漏路へ帰る一休み、雨ふらばふれ、風吹かば吹け」の句が目に留まりました。一休禅師は無漏を知っているのだろうけれど、時おり有漏に入って一休みというか遊んでたのかなとも思いました。しかしながら、無為の世界を知っている人は有為の世界に入ったり出たりそういうことができるとしても、無明の中にいる凡夫にはそんなことはわからないのではないのでしょうか。ですから、わたしは一休禅師の破戒行為は、一休禅師と境涯の違う凡夫にとっては悪影響を及ぼしたのではないかと思っています。真似しますから。
先般、臨黄合議所の会報に戒律についての研修内容が載っていましたが、結論として戒律を現代に合ったものに変える方向に進めたい旨が記されていたと記憶しています。先師の定められた戒律を、今の私たちにはなかなか守れない内容かもしれませんがそれをするしないは私たちの問題でもあるのですし、戒律は戒律として保持していくべきだと思います。変えてしまえば、なんでもなし崩しに変わってしまう危険性があると思います。
未熟者でございまして、配慮至らぬところもあると思いますが、末永く一切衆生の幸福を思いまして一筆啓上申し上げました。
禅文化の皆様方もお大事になさってください。
頓首敬白
隆僧さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
私は禅文化研究所の職員でもありますが、臨黄合議所の事務局の仕事もさせていただいておる者です。
先般開催されました臨黄教化研究会のご報告を会報でご覧いただき、誠に有難うございます(詳しい報告書は7月に発送予定です)。
参加者全体で最後に行うディスカッションでは、様々な意見が出て、非常に意義深い研究会となりました。できましたら、隆僧さんにもご参加いただき、戒に関するご意見もその場でご発言いただきたかったなと少し残念に思いつつ拝読致しました。
是非、まだテーマは未定ですが、次回の教化研究会にはご参加いただければ幸甚に存じます(研究所の職員も手伝いで会場におります)。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
痛ましい事件に接し、つらい限りです
本件は傷害致死容疑でありますが
傷害致死の構成というのは
傷害意思(内心的意思)をもって行為に及び
その結果死に至らしめたという極めて重い
結果加重罪なのです
事故=不可抗力なのか過失致死なのか傷害致死かは
今後の司法の合理的・客観的判断によるものでしょうからその点は差し控えさせていただきますが、
しかし、一部報道によると僧堂の車両で病院に搬送した。頭部を強打した場合には救急車を直ちに要請し患者を動かさないことが救命の為の原則です。
この点については管理体制の不備という指摘になるかと思われます。
また自己究明はあくまで「内心育成」ということと
思っていますから、本当に傷害致死ならば本件当事者の内心が育成されていなかったという
残念な結果になってしまいます。
また、昨今インターネット・携帯・資産運用等々の異常なスピードの発達という社会的趨勢により
以前よりも心により多くの垢が溜まるようになってきています。
そういった趨勢に対し、
僧堂の家風や信教の自由を守る事と
諸所団体の運営上における現代社会の膨大な垢に対処することは仕分けなくては成らないでしょう。
個としては本来坐禅や作務でその垢を取るのでしょうが修行を通じて個々は垢を拭えたとしても
団体として趨勢の中に巻き込まれていく事は避けがたい事実です。
したがいまして、一休禅師のお話や破戒僧の話とは
別次元のものを一般人は禅に求めている。
すなわち禅がどのように団体の垢をも拭えるかの
指針を示すことができるのだろうという期待から、
本件を通じて多大な関心を払っているのであろう
と推察しています。
団体も個であり、個も団体です。
個と団体という区別を無くせること。
指導者の皆様にはこの難問に対する本旨を示していただければ改めて
禅の素晴らしさを理解いただけ
残念な事故の再発を防ぐための社会的一如に
なるのではと思う次第です。
こじさん>
すでに、本件について検察は、処分保留で釈放という措置をとりました。
つまり、事故であり事件性はないという一応の判断ということになります。
> 指導者の皆様にはこの難問に対する本旨を示していただければ改めて
> 禅の素晴らしさを理解いただけ
> 残念な事故の再発を防ぐための社会的一如に
> なるのではと思う次第です。
そういう意味で、私は永源寺僧堂の指導者である篠原大雄老師は素晴らしいと思います。
修行中である他の雲水達が影響を受けないように、最善の措置をとられた、というより、まったく日常底の生活をさせ、坐禅をし、托鉢にまわらせ、作務をさせておられたと聞いています。
ネガティブでもポジティブでもないということのように思います。
個々の修行がそのまま団体の修行となっているということではないでしょうか。
積み上げてきたものが崩れてしまっても、また1から積み直していこうという姿勢の表われではないでしょうか。
ただ、それを世間一般に知らしめることは、禅道場という立場上、難しいことだとは思いますが。
篠原大雄老師様の静謐なお心が
司法にさえも伝わったご様子が伺えます
魑魅魍魎が跳梁跋扈する世の中に、
ありがたいことです。
唯、このブログをお読みになった方を世間とすれば
津津浦々といかないまでも禅道場の指導者に
触れる機会があったものと感謝申し上げます。