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逸話(11)白隠門下 その5-峨山慈棹(2)

前回に続いて、峨山慈棹禅師の逸話を2話ご紹介します。


blog_柏樹子話有賊機.jpg1)峨山和尚―柏樹賊機の公案―

峨山和尚は、松蔭寺で修行中、寺尾という所に庵居し、〈疎山寿塔(そざんじゅとう)〉の公案に参じていた。
ある日、ハタとその公案がわかり、思わず手に香炉を捧げ、松蔭寺の方角に向かって、白隠禅師に感謝の香をたき、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。
白隠禅師が遷化された後、武蔵(神奈川県)永田に帰って、依松に庵居した。そこで自ら考えた、
「わしは松蔭寺にいた時、関山禅師の〈柏樹子(はくじゅし)の話(わ)に賊機(ぞっき)あり〉の公案をとおった。しかし、まだ十分ではない」と。
かくして、余事を交えず、〈柏樹賊機〉の公案に参究した。ある夜、急に冷たいつむじ風が吹き起こり、かまびすしく山が鳴り谷が響いた。この時、忽然として〈柏樹賊機〉の真意にぶち当たり、庵の外に走り出て、四、五十歩も疾走した。そこで初めて峨山和尚は、関山慧玄禅師の肝心かなめのところを徹見したのである。

 

2)峨山の垂示―空しく光陰を過ごすなかれ―

峨山和尚が言われた。
「わしは、天沢山麟祥院に住すること十年。禅牀(ぜんしょう)を天香閣に置き、毎夜、その上で坐禅をする。深夜の十二時から二時まで一睡して起きる。鐘司(しょうす)が、下駄を鳴らしながら鐘楼に上り、鐘を打つ。その時には、すでに洗面も終わり、法衣袈裟を著けて仏前にいたり、朝の勤行をする。毎日、この通りだ。朝はやく起床し、精神をふるいたたせてお経を読み、その後に今参究している公案を専一に工夫することだ。くれぐれも、空しく時を費やしてはならぬ。今、わしは年老いたが、勉めて怠らずにいる。なぜならば、黄龍慧南(おうりょうえなん)禅師も言われておる、『老いたりとて、やすやすと気ままにはせぬ』と」

 

いずれも『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「栢樹子話有賊之機」(東嶺円慈書/禅文化研究所蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

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逸話(10)白隠門下 その5-峨山慈棹(1)

今回は、白隠門下の高足、峨山慈棹禅師の逸話をご照会します。峨山禅師の逸話と言うより、師匠である白隠禅師や東嶺禅師の顕彰をされているお話ともいえます。


 

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峨山和尚は修行者に教えられた。
「わしは、二十年の間、全国各地を行脚して歩いた。その間、三十人ほどの善知識に相見した。しかし、わしの機鋒が鋭かったために、誰もわしに手をつけることができなかった。最後に白隠老漢に行き着き、三度もたたき出され、それまでに得た道力は、髪の毛一筋ほども役に立たなかった。それより、老漢に服従すること三、四年。あの時、天下には誰もわしを打ちすえる者はいなかった。ただ、白隠老漢が一人おられただけだ。
わしは、老漢の道徳が尊大であることを尊びはせぬ。老漢の名声が世間に満ちあふれていることを尊びもせぬ。老漢の悟りが古今の祖師がたをはるかにしのいでおられることも尊ばぬ。老漢が古人の難透難解な公案を、ひとつひとつ明らかに徹見して、少しの遺漏もないことも尊ばぬ。老漢が縦横自在に法を説き、その説法が、まるで獅子が吼えるような、何ごとをも畏れない説法であることも尊ばぬ。老漢の周囲には、三百人、五百人、あるいは七百人、八百人の弟子たちが取り囲み、まるで仏がこの世に出現されたかのようであったが、そんなこともわしは尊ばぬ。
ただ、天下の老和尚たちが、誰一人としてわしをどうすることもできなかったにも関わらず、白隠老漢だけが悪辣な接化手段を用い、わしに三度も棒を食らわせ、進むことも、退くことも奪い取り、ついにわしを大事了畢させて下さった。そのことだけを、わしは、尊ぶのだ。この事は容易なことではないぞ」
また、こうも言われた。
「わしが白隠老漢に従ったのは、わずかに四年だ。老漢もお年を召され、ややもすれば入室参禅がままならぬこともあった。そこでわしは、東嶺和尚に参禅したのである」
「わしは、五位の“兼中至”以上は、東嶺和尚に学んだ。その時、もしも東嶺和尚がおられなければ、わしは仕上がることはなかったであろう」
「『対するに堪えたり暮雲の帰って未だ合せざるに、遠山限りなき碧層層』。この句を簡単に見てはならぬぞ。たとえ難透難解の公案を透過し、臨済の三玄、洞山の五位などに参得しても、この境界に到ることはできぬ。いつか必ず、明らかに徹見する時節があろう。憶えておけよ」

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は「峨山慈棹禅師像」(隠山惟琰賛・高田円乗画/東京麟祥院蔵) 禅文化研究所デジタルアーカイブズ「禅の至宝」より

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逸話(9)白隠門下 その4-遂翁元盧(2)

前回に続いて、遂翁元盧禅師の逸話をもう一つ。

 


白隠禅師が八十歳の年、門下の高弟たちが協議し、『大応録』を提唱する法会(ほうえ)を開いてもらうことになった。遂翁は、住持を補佐する副司(ふうす)という役職を勤めた。その時、白隠禅師は軽い病にかかっておられたが、無理して講座に登り、七百人の大衆が集まった。その法会も無事円成し、解散が近づいたころ、東嶺和尚が、
「慧牧を松蔭寺の後継ぎにさせてはいかがですか」
と、白隠禅師に進言した。禅師も承諾し、東嶺が遂翁に告げると、遂翁も了承した。
東嶺の祝賀の偈に曰く、

南嶽三生蔵の老僧
黄梅七百衆の盧能
伝衣(でんえ)の事畢(おわ)って芳燭を続(つ)ぐ
且喜(しゃき)すらくは松蔭に慧灯を留むることを

かくして遂翁は京都花園の大本山妙心寺に上り、その法階を妙心寺第一座に進め、自ら酔翁と号した。宿坊養源院の院主がそのわけを問うと、遂翁は、
「わしは酒が好きだ。よって酔翁と号す」
と答えた。その答えを聞いた院主が、
「それはまた無茶な。酔を遂とすればどうだ」
と勧めると、遂翁も、
「遂にするのもよかろう」
と承知し、遂翁と号するようになった。
妙心寺での転版の儀式の後、大阪に遊んだ遂翁は、十二月になってようやく松蔭寺に帰った。その時の偈に云く、

明和元年六月旦
微笑塔前、旧規を攀(よ)づ
臘月帰り来たって破院に住す
業風(ごっぷう)を空却して吹くに一任す

松蔭寺に帰った遂翁は、白隠禅師と同居することを望まず、庵原(いはら)に一人住まいをした。
三年後、白隠禅師の病が重くなると、松蔭寺に帰って看病をした。そして禅師が遷化(せんげ)されると、遂翁はその法席を嗣(つ)いで松蔭寺の住持となった。
しかし、事を事ともせず、勝手きまま。参禅に来る者があると、
「わしは、何も知らぬ。龍沢寺に行って東嶺和尚に参禅せよ」
と言うだけで、一言の指導もなく、口を閉ざすこと七年であった。しかし、遂翁に随う雲水は常に七、八十人もいた。ところが、雲水が教示を求めれば、
「東嶺和尚のところへ行け」
と、相変わらずの一言であった。
遂翁がこんなふうだから、大休和尚や霊源和尚などは、しばしば手紙を送って遂翁に開法させようとした。しかし、遂翁は我れ関せずであった。

 

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逸話(8)白隠門下 その3-遂翁元盧(1)

さて、今回は同じく白隠門下の高足、遂翁元盧禅師の逸話です。遂翁さんといえば、墨画が際立ってうまく、デジタルアーカイブスの調査などでも、いつも目を見張るほどの作品を残しておられます。でも、そうとう風変わりな禅僧だったようですね。あまりお友達にはなれそうにないイメージです。

 


 

 

遂翁元盧筆/月船禅慧賛「出山釋迦像」(禅文化研究所蔵)遂翁元盧和尚は(栃木県)の生まれである。最初の名は慧牧といったが、後に元盧と改めた。性来、酒を好み、才気は人にすぐれ、誰の束縛も受けなかった。
三十歳の時、白隠禅師に相見した。遂翁の非凡なる気質を見ぬいた禅師は、厳しく鉗鎚を下した。遂翁の参禅は、必ず深夜に行なわれたため、誰もその姿を見ることはなかった。白隠禅師のもとに二十年いた遂翁は、高い境界を持っていたが、その才を隠し、大衆の中にまぎれていた。
松蔭寺から三十里ばかり離れた葦原の西青島という所に庵を結び、松蔭寺で講座がないかぎり出ていくことはなかった。そして講座が終わると、またすぐに帰って行った。
ある日、講座が終わってから、白隠禅師が侍者に命じて、遂翁を呼んだことがあった。侍者が捜しに行くと、遂翁の姿はなく、ある人が、
「慧牧さんなら、とうに帰って行ったぞ」
と教えてくれた。侍者はすぐに遂翁の後を追い、
「白隠和尚がお召しです。早く来て下さい」
と告げた。しかし、遂翁は、
「和尚が呼んでも、わしは呼ばぬ」
と、さっさと立ち去って行った。遂翁の人にへりくだらない態度は、おおむねこのようであった。
細かなことには気をとめず、坐禅もしなければ、お経も読まない。定まった住まいもなく、その場その場で脚を伸ばして眠った。酒を飲んで少しいい気分になると、碁を打ったり、絵を描いたり、悠々自適な毎日を送っていた。そのために、遂翁がぼんくらなのか偉いのか、誰にも推し量ることができなかったのである。

 

※写真は遂翁元盧筆/月船禅慧賛「出山釋迦像」(禅文化研究所蔵)。

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逸話(7)白隠門下 その2-東嶺円慈(2)

前回に続いて、白隠禅師の高足、東嶺禅師の逸話から。

 


白隠禅師も晩年になるとその気力にもようやく衰えが見え、東嶺は、禅師に代わってよく修行者を激励した。禅師の晩年に参じた者は、おしなべてその道力もいい加減なものだが、峨山慈棹や頑極禅虎などは、しばしば東嶺和尚の指導を受け、そのため、物事を一目見た途端に看破してしまう敏捷な者たちである。

ある時、白隠禅師は京都の等持院の拝請を受けられたが、すでに八十四歳、老病も甚だしく、代わりに東嶺を行かせることにされた。東嶺は等持院に赴き、『人天眼目』を提唱した。四百余の大衆が集まり、大いに白隠禅師の宗風を振るった。その法会の最中、白隠禅師の遷化を知らせる訃報が届いた。東嶺は、解制後、速やかに松蔭寺に帰り、遂翁とともに葬儀を営んだ。

これは、東嶺が等持院に赴く以前の話である。
等持院の子院にいた十七、八歳ぐらいの小僧が、ひそかに北野の遊女と通じ、その情交は日に日にたかまっていった。ある夜、院主の留守をうかがい、百金の大金を盗み出し、それを袋に入れ、遊女と手をたずさえ、宵に紛れて出奔した。伏見から船に乗り、大阪に着いた。さて、懐をさぐると盗んだ金がない。
「昨夜、金の入った袋を柱の釘にかけておいたが、忘れて来てしまったか」
と、ひどくうろたえ、どうしてよいかわからず、進退、ここに窮まった。ついに、樹に縄をつるし、遊女と二人、首をくくって心中してしまった。
その夜、子院のわき部屋から、
「金の入った袋をここらにかけておいたが、どこにある。ああ、悲しい」
と、小僧の恨めしい泣き声が聞こえた。手で柱の釘をなで、壁や梁を探しながら、恨めしく泣くのである。小僧の声にまじって遊女の声も聞こえた。その後、毎夜、このようなことが続いた。その聞くも無惨な声に、子院の者は悩み続け、ついには皆な逃げ出してしまった。

ちょうどその頃、東嶺和尚が等持院に赴くことになったのである。
ある人が、子院の惨状を告げると、東嶺は、
「悩むことはない、わしがその部屋に入ろう」
と言って、その子院へ入った。すると、その夜から、幽霊の姿はパタリと出なくなった。
ある夜、東嶺は別の寺の求めに応じて子院を留守にすることになった。その時、三河の昌禅人という者が侍者であったが、この人も道力のある人で、この夜、留守番をすることになった。昌禅人が一人いると、美しい容貌の娘が現われた。娘は、
「お願いがあって参りました」
と、丁寧にお辞儀をして言った。昌禅人が、
「言ってみなさい」
と言うと、娘はこう語った。
「わたしは、この世のものではありません。実はこの寺の小僧さんと駆け落ちしたのですが、お金を忘れたために大阪で首をくくり、今になっても苦しみの世界からのがれることができずにおります。どうか、大善知識であられる東嶺和尚さまに救っていただきとうございます」
昌禅人が、
「どうして、自分でお願いしないのだ」
と尋ねると、娘は、
「和尚さまのように徳高きお方に、わたしのような卑しいものが近寄れるものではありませぬ。ましてや、わたしはあの世のものです。どうか、お願いいたします」
と頼んだ。昌禅人が、その頼みを承知すると、娘はすぐに消え去った。
昌禅人が、院に帰った東嶺にそのことを話すと、東嶺は、
「そのようなことがあるものよのう」
と憐れみ、読経のおりに浄水を設け、施餓鬼の法要をつとめ、娘のさまよえる魂を供養した。それからは、二度と幽霊が出ることはなかった。
その後、昌禅人は、若くして世を去った。東嶺は、その死を悲しみ惜しんだという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

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逸話(6)白隠門下 その1-東嶺円慈(1)

昨年は臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱として、数々の行事が行なわれてきましたが、今年平成28年が、白隠禅師250年遠諱の正当年にあたります。

そこで、白隠禅師のもとで修行していた禅僧達の逸話をご紹介することにします。まずは東嶺円慈。

 



聴松堂_113b_8A4A5341.jpg 東嶺円慈和尚は、(滋賀県)神崎に生まれた。最初は古月に参じて悟るところがあった。その後、白隠禅師にまみえて侍者となり、数年の間に、禅師の家風をことごとく会得した。しかし、その辛参苦修によって重い病気にかかり、百薬の効果もなく、死に瀕していた。病の床で、東嶺和尚は考えた、
「わたしは既に禅の宗旨を究めたが、このまま死んでしまえば、宗門に対して何の役にも立つことができぬ」と。
そこで、『宗門無尽灯論』という一書を著わし、白隠禅師に見せて言った。
「もし、この中に有益なものがあれば、後世に残そうと思います。もしまた、杜撰(ずさん)だと思われれば、速やかに火中に投げて、焼いてしまいます」
その一書を読んだ禅師は、
「後世、悟りの眼(まなこ)を開かせる、点眼の薬となすべきものだ」
と、大いに評価された。
東嶺は、かくして禅師のもとを去り、京都白河辺に草庵を結び、養生に専念した。生死の根本を明らめ、死ぬもよし、生きるもよし、運命の自然に任せて時を過ごした。
ある日、無心の胸中から、白隠禅師の日常のはたらきを徹見した。それからは病気も次第に快復していった。喜びに堪えない東嶺は、そのことを禅師に書き送った。東嶺の手紙を見た禅師は大いに喜び、
「早く帰って来るように」
と返事をしたため、東嶺の帰山をうながした。東嶺は旅装を整え、松蔭寺に向かった。
松蔭寺に帰った東嶺に向かい、白隠禅師は自分の法衣を取り出し、
「わしは、この金襴の袈裟を着けて、碧巌録を四たび講じた。今、そなたに伝える。後世、断絶させてはならぬぞ」
と伝授し、東嶺は、その袈裟を押し頂いた。
この時から、師匠の白隠、弟子の東嶺、二人協議をしながら宗旨を立てていった。〈洞上五位〉や〈十重禁戒〉など、複雑な宗旨のこまごまとした解釈は、東嶺がよくそれを成した。白隠禅師の宗旨を大成した者は、東嶺和尚であると言わなければならない。そのため白隠下では、東嶺・遂翁の二大弟子のことを、“微細東嶺、大器遂翁”と呼ぶのである。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は東嶺円慈画賛「払子図」(禅文化研究所蔵)。

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逸話(5)越後の良寛さん―その3

 

161201.jpg近頃、囲碁の名人とAIコンピューターが勝負をして、やれコンピューターが勝った、いや、やはり名人が勝ったと、かまびすしいことですが、良寛さんにも、囲碁にまつわるこんなお話が二つ。

【和尚の碁打ち】
良寛和尚は、囲碁が好きで、負ければ機嫌が悪かった。
いつの年か、地蔵堂の庄屋の富取(とみとり)の家へ行き、碁を打ったことがあった。和尚はおおいに勝った。負けた富取は、怒ったふりをして、
「人の家に来た客が、その家の主人に勝つとは、無礼も甚だしい。以後、この家に来ることはならん」
と言った。
和尚は、その剣幕に驚き恐れ、顔色も青ざめ、富取家を出て、わたしの家へやって来られた。思案顔であった。わたしの祖父が、そのわけを聞くと、和尚は、
「地蔵堂の富取に勘当された」
と言われた。祖父は、
「わたしが良寛さまのために取り成ししましょう」
と言って、翌日、和尚と一緒に地蔵堂へ行き、前日の無礼を詫びた。和尚は、家の門口に立ったままで、中へ入ろうとはされなかった。事が終わってから和尚を呼ぶと、そこで初めて入って来られた。そして、またもや碁打ちにとりかかったという。
この話は、わたしがまだ生まれる前のことで、今は亡き清伝寺の観国和尚が話していたことである。

【賭け碁】
良寛和尚は、お金を賭けて碁を打つこともあった。多くの人は、わざと負けていた。そこで、和尚は、
「銭がたまってやり場がない」
とか、
「人は銭がないのを憂えるが、わしは銭が多すぎるのに苦しむ」
などと言っておられた。

『良寛和尚逸話選』(禅文化研究所)より

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逸話(4)越後の良寛さん―その2

今回も良寛さんです。有名な2首を紹介します。

【たくほどは風がもてくる】
長岡藩主牧野忠精(ただきよ)が、良寛和尚の人柄を慕い、新潟巡視の折り、わざわざ寄り道して、和尚の草庵を訪ねることになった。
その報せを聞いた村人は、和尚が留守の庵へ来て、庵の掃除や、庭の草引きをした。そこへ帰って来た和尚は、綺麗に掃除された庵を見て、
「こう草を抜かれては、昨夜まで鳴いていた虫も、すっかり逃げてしまって、もう鳴いてはくれまい」
と嘆いた。
しばらくして藩主が来たが、和尚は、一言も物を言わなかった。藩主は、和尚を城下に迎えたいと、ていねいに招いたが、和尚は黙って筆を執り、
たくほどは風がもてくる落葉かな
と書いた。これを見た藩主は、敢えて強制することもせず、厚く和尚をいたわって帰って行った。

【うらを見せ】
また、良寛和尚の句としては、
うらを見せおもてを見せてちるもみじ
が知られていますが、この句が生まれた背景には、深いものがあります。
一言では語れません。
中途半端で恐縮ですが、これで良寛さんを終えます。

私たちの心のコヤシになるのか、ただのザレゴトか。もうしばらく、禅僧の逸話をお届けします。

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逸話(3)越後の良寛さん―その1

いよいよ良寛さんです。この人には何の解説もいりません。
まずは、良寛さんの嗜好を紹介する2話です。

【酒は割勘(わりかん)】
良寛和尚は酒を愛された。しかし、度を越して酔いつぶれるということはなかった。だれかれと言わず、お金を出し合い、割勘で飲まれた。そして、
「あんたも一杯、わしも一杯」
と、誰かが得をしたり、損をしたりすることがないように、量も平等にしておられた。

【煙草なら後から来る】
良寛和尚は無頓着な性格で、物に執着するということがなかった。和尚は煙草(たばこ)が大の好物であったが、その煙草入れも、いくら人からもらっても、すぐに失ってしまった。ある人が心配して、六尺もある紐で煙草入れを帯に結んでやった。
そんなある日、一人の老婆が、和尚に煙草を進めると、和尚は、
「煙草なら後から来る」
と言った。
和尚の言葉を解しかねた老婆が、その後ろを見ると、和尚は、煙草入れを地面に引きずりながら歩いていた。

では、子供と遊ぶ無邪気な和尚の逸話を2話。

【かくれんぼうで一夜を明かす】
日も暮れやすい秋の頃、良寛和尚は、例のごとく子供達とかくれんぼうをした。
和尚は、刈り入れが終わって高く積まれた藁ぐまの中に隠れたが、夕暮れになり、子供達は、和尚を一人残して帰ってしまった。
翌朝早く、近隣の農夫が、藁を抜こうとそこへ行くと、奥から和尚が出て来た。驚いた農夫は、
「おや、良寛さま」
と叫んだ。すると和尚、
「黙れ、子供に見つかるではないか」と。

【天上大風の凧(たこ)】
良寛和尚が、ある宿場を托鉢(たくはつ)された時のことである。
一枚の紙を持った子供が、和尚のそばに来て、
「良寛さま、お願いだから、これに字を書いておくれ」
と頼んだ。そこで、和尚が、
「何に使うのだ」
と尋ねると、その子供は、
「凧(たこ)を作って遊ぶんだよ。だから、いい風が吹くように、“天上大風”と書いておくれ」
と言う。和尚は、すぐに“天上大風”の四字を大書して与えた。

この“天上大風”の四字は、良寛さんの代表的な書として、今に残っています。

『良寛和尚逸話選』より

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逸話(2)九州博多の仙厓さん―その2

今回は良寛さんをご紹介しようと思ったのですが、やっぱり仙厓さんは、逸話の別格者。
今回もよりすぐりの2話をどうぞ。

【魚骨問答】
ある日、寺の世話をしている某が、聖福寺の本堂下を掘っていると、生々しい鯛の骨が現われた。某は、さっそくこの骨を持って仙厓和尚の前に行き、
「和尚さん、和尚さん。本堂の下からこんな骨が出ました。この寺に、こんな魚の骨があるようでは、困ったもんですな」
すると仙厓和尚、
「そうか、そうか。どうも今の小僧どもは弱くなったわい。わしの若い時分には骨も残さなかったもんじゃがのう」と。

聞くところによれば、あの厳しい僧堂でも、布施をされたものは、魚であろうが、お肉であろうが、ありがたく頂戴しなければいけないそうです。実は雲水さん、嬉しいのかな? でも布施する人も、摂心中などは駄目で、時と場合を選ばなければいけないようです。それではもう1話。

160826.jpg【忘れぬために礼いわぬ】
仙厓和尚は、人に礼を言わない人であった。そしてその言い草が面白い。
「礼を言うと、折角受けた恩が、それきり消えるような心地がするから、いつまでも、恩を有り難く思っておるために、礼を言わないのだ」と。

仙厓さんは、人から布施を受けても、また何か世話をしてもらっても、ただ黙って低頭するだけで、別にお礼を言われなかったそうです。お礼を言われないことについて、こんな逸話があります。

ある雨の日、仙厓さんが聖福寺に近い町中で、下駄の鼻緒(はなお)が切れて困っておられると、近所の豆腐屋の女房が見付けて気の毒に思い、早速、仙厓さんのところへ行って鼻緒を立て替えてあげた。しかし仙厓さんは、ちっとも礼を言われず、ただ黙って低頭して帰られた。その後、女房が仙厓さんに会っても、やっぱり礼を言われないからムッとした。けしからぬ坊主だと思った。女房、某に向かい、
「仙厓さんは、えらいお方だと皆が言うけれども、ちっともえらくはない。雨の日に仙厓さんが下駄の鼻緒を切って困っておられるから、私が鼻緒を立て替えてしんぜたのに、一言も礼を言われない。あんな礼儀知らずの坊主ったらありはしない」
と、プリプリと怒っている。某はお寺に行ったついでに仙厓さんにこの事を語ると、
「礼を言やあ、それですむのかい。わしはもう一生忘れんつもりじゃったに」と。

仙厓さんの深い心も分かる気はしますが、やっぱり、「ありがとう」と言おうよ。その言葉ひとつで救われたり、希望が持てたりしますから。
次回は、良寛さんの登場です。お楽しみに。

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逸話(1)九州博多の仙厓さん―その1

禅宗のお坊さんは、時として、まったく奇妙な行動をなさいます。
これからしばらく、そんなお話を紹介しますが、笑うもよし、ウウーーンと考え込まれるもよし、どうぞ、ご一読下さい。
まずは、九州博多の聖福寺におられたセンガイ(仙厓)さんの話です。

【父死子死孫死】
黒田藩の重役某が和尚に面会して、
「めでたい語を書いて下され」
と依頼すると、和尚、
「よしよし」
と言ってすぐさま筆を執り、
父死子死孫死
の六文字を書いて与えた。某は眉をひそめて、
「めでたいことをお願いしたのに、死を並べて書いて下さっては、かえって不祥のように思われます」
すると和尚が言った、
「そうでない、孫死して子に先立たず、子死して父に先立たず、家に若死にがないほどめでたい事が世にあるか」と。
某もその意がわかり、おおいに喜んで頂戴して帰ったという。

この逸話は、正月の出来事であったという説もあり、やっぱり少しやりすぎかな? それではもう1話。

160825.jpg【踏み台となった仙厓和尚】
仙厓和尚のもとには多くの雲水が入門していた。聖福寺の近くには花街があったために、中には行ないの悪い雲水もいて、夜間ひそかに屏を乗り越えては花街通いをする者もいた。その屏が高いので、僧たちは、その下に踏み台を置いて登り下りしていたのである。
しかし、こんなうわさが師匠の仙厓和尚に伝わらないはずがなかった。みずからの不徳を恥じた仙厓和尚は、ある夜、彼らの帰る時分を見はからって、屏のところへ行くと、その踏み台を取りのけて、そこに坐禅して帰りを待った。
そんなこととは知らない雲水たちは、夜明け近く、こっそりと帰って来て、外から屏をよじ登って、さて内側に下りようとすると、どうしたことか、あるべきはずの踏み台がない。はて、どうしたことかと怪しみながら足でさぐってみると、ともかく踏み台の代用らしきものがあったので、それに足をかけてようやく下に下りた。
さて、下に下りて星明かりにすかして見ると、あろうことか、踏み台代わりにしたのは、何と師匠の仙厓和尚の頭である。さすがの悪僧どもも色を失い、その場に平伏した。

余りにも有名な逸話ですが、お弟子さんを思うお師匠さんの気持ちが伝わって来て、いつ読んでも好きな話です。

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