トップページ » 2008年5月16日

「不生不滅・不増不減」ということ -山寺のある一日-

なにか?

わたしの山寺は、とても小さく、お葬式といえば、1年に2、3回しかない。
これは、わたしの個人的な習癖なのか、お葬式は、とても疲れてしまう。

まず、枕経(まくらぎょう)に出向き、お顔をおおっている布を取る。今さらながら、わが手が震えていることを感じる。そして、『涅槃略経』をお読みする。それが終わると、故人の髪に、カミソリを当てる。何年、坊主家業を続けても、その手は震えるのか、わたしには、わからない。そこに横たわっているのが、死人(しびと)とか、そんな感覚ではない。なにか、荘厳なものに触れるような感覚がある。

その枕経から帰ると、戒名を考え、引導法語を作る。故人と立ち向かわねばならない。
この戒名で、故人の全生涯をあらわすことができたのか?
この法語で、故人が、畢竟(ひっきょう)の悟りを得るのか?
無学無修のわたしは、最後に、その髪にカミソリを当てた者として、たたかわねばならない。

今度の死者は、八十九歳のお婆さんだった。無責任な第三者は、よく、大往生という言葉を使う。
「大往生で、おめでたいぐらいだ」などと言っている。
しかし、八十九年も生きれば、孫たちはとっくに大人で、曾孫も物心がつき初め、祖母と遊んだ思い出に、涙を流している。決して、おめでたいことではない。弔問には、この言葉は使ってはならない。

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by admin  at 07:30  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)