白隠仮名法語余談

 

もくじへ

芳澤 勝弘〔花園大学教授〕

遊女大橋こと慧林尼のこと

白隠禅師仮名法語・余談(6)


oohashi1.jpg (18861 バイト) 寛延3年(1750)、白隠禅師は前年の冬から播州明石の竜谷寺にあって虚堂録を講じていた。年明けて、長途、備前岡山そして井山に出かけた。各地での法筵をすませ、京都まで戻ったのは4月ころであった。禅師は昨年来の長旅の疲れを、京の豪商、岐阜屋こと世継八郎兵衛政幸の館でいやした。世継政幸はもともと江州神崎郡長勝寺村の清水氏の出で、岐阜屋世継氏に入り婿した人であり、出身地を同じくする東嶺との縁で白隠に参じた。世継政幸はすでに昨年の明石竜谷寺の虚堂録会にも参じ、その時に隻手の公案を透過していた(『荊叢毒蘂』「世継氏窮民を賑わす圖」)が、そのまま白隠禅師の備前行きに随従し、ともに京都まで戻り、禅師を自邸に招いたのである。
 『年譜』には「帰路平安城を過ぎ世継氏に館す。池大雅来参す。及び大橋女を度す」とある。池大雅はあの著名な画家のことだが、いま取り上げるのは「大橋女」という人のことである。その大橋に触れる前に、このたびの京都滞在中の禅師の活動を概観しておこう。4月には本山妙心寺の養源院で碧巌録を講じた。その法席には、宝鏡寺尼門跡、光照院尼門跡をはじめ葉室頼胤、冷泉宗家といった貴顕が連なった(『年譜』)。その後、宝鏡寺、光照院からはいくたびかお召しがあり、禅門寶訓を講じており、駿河に帰ったのは7月3日のことであった(『於仁安佐美』巻之下の冒頭)。つまり、白隠禅師はこのとき京都におよそ三ヶ月ほど滞在したわけである。その間、さまざまな人と出合い接化しているが、そのうちの一人が大橋女だった。
 白隠『年譜』には大橋女についての長い割り注がついている。『年譜』草稿の内容もほぼ同じだが、双方をあわせて、これを訳してみよう。

 大橋女はもとは江戸に住まいする旗本某甲の娘だった。父は千石余を食んでいたが、何らかの事情あって浪々の身となり、京都にやって来た。収入がないものだから、娘は弟とともに乞食までして家計を助けたが、それでも衣食ともに足らぬ赤貧のありさま。娘は一家を救うため、自分を遊女屋に身売りするよう父母に申し出たが、父母は、わが子を売って活きるなど畜生の業、と許すはずもない。娘はさらに、「これというのも方便、もしお許しにならなければ、一家ともに死ぬだけです。方便は真智には及びませんが、死の難を免れるは道にかなうのですから、これも真智ではありませんか」と説得するので、父母も泣く泣くこれに同意し、遊廓に送ったのである。
 女は、もとより教養があり、書も和歌もよくしたので、やがて島原の名妓大橋となった。しかし折りに触れて思うはわが身の上。もとはといえば侍の家に生まれ、深窓に養われ、女中にかしづかれる身であったのに、今はかかるうき川竹の身、何と情けないことか、と。やがてこの煩悶が積り重なって病となり、医者も手をこまねくほどになった。
 そんなある日、貴客があり、その様子や顔色をみて、何か悩みでもあるのではと尋ねるので、大橋もその来由をくわしく話したのだった。すると客がいう、「病になるのも無理はない。それをいやすには千金もの銭がなければならない。(そんな金はとても無理だが)別に、その病悩から脱け出す方法がある。けれども、こんなことを言っても信じはしないだろう」と。大橋、「信じます。どうか教えて下さい」というので、客は話して聞かせた、「そなたが、我が身と思っておるものは、すべて見聞覚知の四つに他ならない。けれども、この四つのものを司る主人というものがあるのだ。これから先、行住坐臥、見るもの何ものぞ、聴くもの何ものぞと、切々に返観して怠らないならば、いずれ本具の仏性が忽然として現前するであろう。そういう境地になれば、苦界を脱することができよう」と。
 それより、大橋は教えられたように、単々に潜修工夫する日々を重ねていた。そして、延享のころ(1744〜1747)のある日、狂雷が京の都を襲い、28ケ所に落雷した。大橋は生まれつき雷が嫌いだったので、蚊帳に入りふとんをかぶって、左右を小婢従女に護らせて避難していたが、ハタと思うところあって、起き上がると端然と静坐した。やがて狂雷がにわかに庭に落ちた。たちまち大橋は仰顛気絶した。しばらくして蘇ったのだが、何と、見聞するところ、以前とはまったく異なるのである。この不思議な体験を、どなたか明師にお話しして、自分が味わった境地が何なのか証明してもらおうと思っていたが、廓暮しの身ゆえ、それもかなわずに過ぎていた。
 そのうちに、ある人に身請けされ、その妻となったが、やがてその夫も歿故した。その後、一素居士という者に再嫁した。居士は大橋に誘われて、いつも白隠禅師に参じたという。大橋は、後に一素居士に乞うて尼となり、慧林と名のったが、居士に先きだって死んだ。一素居士は白隠禅師の弟子である東嶺に焼香を頼んだ。東嶺が一素居士の家に行ったところ、位牌の代わりに、ただ観音像の軸が掛かっているだけである。東嶺が「位牌はどうしました」と尋ねると、居士は「普門品には応以婦女身得度者、即現婦女身而為説法とあるが、慧林尼こそは観音の応現だ。だから観音像を掛けてあるのだ、何もおかしなことではない」と答えた。東嶺もこれを聞いて黙って香を拈じたのである。

 以上が、白隠『年譜』および草稿に出る大橋女に関する記述であるが、『年譜』と『年譜』草稿とでは決定的な違いが一箇所ある。『年譜』草稿では、大橋女と一素居士を、それぞれ高橋女、一相居士としていることである。草稿は東嶺の執筆である。その東嶺は、夫に頼まれて自ら女のために焼香もしているのに、他本でいう大橋、一素居士とは別の名を記したのはなぜか。一相は一素の音通だとしても、高橋という名の遊女は島原に三人もいたというから(後出、明田氏著)、高橋の名はいささか気になるところだが、本稿で以下に引くように、大橋の名で記録するものが多いので、いまは大橋を正としておく。
 さて、『年譜』によれば、大橋女とは、かつて島原の遊女をしていた女のことで、大橋はその源氏名であることが分かる。白隠が京都で出合ったときは既に現役を退き、二度目の夫のもとに嫁していたのだから、禅師は「遊女」を接化したというわけではない。大橋は延享のころ(1744〜1747)落雷で悟るところがあったというが、これは禅師が相見した寛延4年(1751)から4〜7年前だから、既にそれなりの境界の女性であったわけである。
 大橋のことは、当時の京洛ではかなり有名であった。京の伴蒿蹊(ばんこうけい)(1733〜1806)が寛政2年(1790)57歳の時に刊行した『近世畸人伝』(正篇)には、大橋のことがつまびらかに載る。いま原文を引く。

都島原(みやこしまばら)の遊女大橋(おほはし)、実の名は律(りつ)[もと彼所に大橋といへる名妓あり。うたよみ手書ぬるが、その手ことによければ、大橋やうといひていまに伝はるよし。此妓もその名を嗣るとなん]よろづみやびを好めり。

本名は律だという。また島原にはかつて別の大橋という太夫がおり、歌と書にすぐれ、特にその書跡は今も「大橋様(よう)」として伝わっているというのである。律女の大橋もその名妓の名を襲名したものである。

さばかりの女なれば、中々につひのよるべもなかりけらし、尼にならんとおもへるを、老たる母のためいかにとためらふほどに、栗原一素といへるは、世のすねものにて独あるを、よき戯(たはぶれ)がたきなるべしと人あはせけり。

一素居士は栗原一素だという。この男、世情に随わぬ情強者(じょうごわもの)で独り身を通していたが、この二人を妻合(めあ)わせれば、いい遊び相手(よき戯れがたき)になるだろうと、誰かの勧めで夫婦になったという。『年譜』の記述によれば、大橋はこれ以前に既にある男に身請けされたが、その夫とは死別して寡婦暮しだったのである。「老いたる母」がいたことは『年譜』には記さない。

其家いとまどしければ、手づから雑事ども取まかなふに、猶うた物がたりを見ながらぞ飯をも炊きける。老の後彼(かの)(しま)ばらわたりを過て、
   よそにみて おもふもつらし 身の昔
         うき河竹の さとの夕べは
此うた、下句などのつゞけがらはまほならねど、こゝろはいとあはれなり。

「うき河竹のさと」は遊里のこと。歌人でもあった伴蒿蹊は、下の句のつづけ方などが秀逸(まほ)というわけではないが、その思いはいとあわれであると評する。

  またある人のもてる自画賛のうたはをかし。
   わするなと 契りし春は 夢なれや
         寝覚とひくる 初雁の声
画もよくすとにはあらざるべけれど、其さま風流に見ゆ。またある所にてみしは、海辺雪(かいへんのゆき)を、
   和田の原 波(なみ)もひとつに 苫(とま)しろき
        雪をのせたる あまの釣舟
花もみじの時、男はもちいひ(餅飯)を腰につけてあそべば、己はさゝえ(提げ重箱)を首にかけて西山におもむく。かたみに(互いに)才をたゝかはしけるが、後に夫婦つれて有馬の湯に浴し、妻はそこにて髪をおろしたり。

白隠禅師に出合うまでの消息である。奇にして風流、恰好の「戯れがたき」どうしの夫婦の暮しぶりである。『畸人伝』の書き順を真とすれば、禅師に相見した時には既に落飾して尼になっていたということになる。

さて禅にも参じて、白隠和尚京師逗留(とうりう)の日はつねにまうでしに、折々冷泉(れいぜい)寂静(じやくじやう)入道殿に出あひまゐらせしかば、和尚、此尼はもと島原の名妓なり、と語られしほどに、入道殿、さらばむかしのなげぶし(投節)といへるものを覚えたらん。うたひてきかせてんや、とのぞみ給ひしに、それはふしはかせ(節博士、古曲の音譜のこと)いとむつかしくて、今は久しくなりてわすれたるがうへに、老ごゑにてはこはぶり(声ぶり)もまねびがたし。そのころの小うたといふものも今のふりにはあらず。きこしめさんや、とて諷(うたひ)たりしも興ありしとなん。

冷泉寂静入道殿は、権中納言冷泉宗家卿のこと。右の一場の逸話は、白隠が妙心寺養源院で碧巌録を講じた時のできごとであろう。白隠が京に逗留していた時は「常に詣で」たというから、大橋は(あるいは夫の栗原一素とともに)、禅師の京都滞在のうちでもっとも重要な行事であった妙心寺の法席には、当然のこと参じたはずである。
 ここで冷泉中納言が所望した投節(なげぶし)というのは大津投節ともいい、「明暦・万治(1655〜1661)の頃から京都の島原の遊廓で歌い始められたもので、貞享・元禄(1684〜1704)の頃もっとも流行し、京都・大坂・江戸ばかりでなく、地方の遊里などで広く行われたが、寶永・正徳(1704〜1716)頃を限度として次第に衰えた」(『日本国語大辞典』)というはやり歌である。三味線にあわせて歌い、歌の終わりを「やん」と投げてうたったが、後には言い捨てるように歌ったもので、島原の「なげ節」、吉原の「つぎ節」、新町の「まがき節」は三名物とされていた。
 往時の「投節」を所望された大橋は、音譜もすっかり忘れ、年老いて声も悪いのでとお断わりしたが、それでは座が白けようと、代わりに今では聞けぬ古い時代の小唄を披露したのであろう。場所はおそらく妙心寺養源院。所望する者、これに応ずる者、二者ともに脱洒、まことに風流の一こまであった。そして、傍らに在った白隠禅師もさだめしこれを賞翫されたことであろうと推察するのである。
 右に記すところによれば「老ごゑにて」とあるから、大橋はすでに若くはなかった。『畸人伝』の筆者、伴蒿蹊は若い時分に、この夫婦のことをよく識っていたという。

おのれまだわかき時、夫婦ともにしれり。夫はもと類ひなき遊蕩にて、美少年に淫し、家産をも破しときけるに、後はあらくれし老法師にて、大ごゑにてよくものいひ、万(よろづ)のことみなしれるおもゝちして自負せるを、にくむ人もあり、興ずる人もありき。京のうちにては人のしれるをのこなりしも、今は四十年のむかしなり。

oohashi2.jpg (34673 バイト)栗原一素なる人物もかつてはかなりの大尽であったが、放蕩で家産をつぶしたという。伴蒿蹊の家は三条高倉西入る、京の中心地で畳表・傘などを商う富商であった。今から見れば、そう人口も多くない京のこと、一風変った人物のことは少年にも深い印象を与えたのであろう。大橋が白隠に相見したのは世継氏の邸だったが、世継の店、岐阜屋も三条高倉だった。栗原は京では「人の知れる男」である、世継氏も当然見知っていたはずで、夫婦とはかねてから何らかの縁があったから、自邸で白隠禅師に相見せしめたのであろう。『近世畸人伝』は最後を次のように結ぶ。

此妻、人に語りしは、都の四方にて景物のよき所々、月をみるには聖護院(しやうごゐん)殿の東北に松の三本ある丘、ちどりを聞には五条のはしより下、夜深くなりては花頂山のふもとよし、水鶏(くひな)はおむろの前、ひばりは朱雀野(すざかの)とぞ。其すざか野と五条のながれの下は、己もよくしりて、其言をたがはぬをおぼゆ。聖護院のめぐりもうちはれて、すべて月にはよき所也。松のある所はさぞなん。なほこゝろむべし。

 『畸人伝』とは少し異なった伝記もある。明田鉄男『日本花街史』(雄山閣、平成二年)に『波娜婀耶女(はなあやめ)』という本が引用されており、そこにも大橋の記事が出る。

「本名をりつと言へり。生れて画に巧みにして、花鳥風月濃淡さまざまに、暫しも筆のあゆみを止めず。洛西喬木女と落款せるもの多し。後栗原一素の妻となり、冷泉家の門に入りて和歌を学べり。中略。やがて感ずるところあり、惜しむ良人に暇を乞ふて禅尼となり、白隠和尚に参禅して大乗の門に入る。其後の消息詳かならず。忘るなと契りし春は夢なれや、寝覚とひくる初雁の声、の詠あり」。

もうひとつ、『白隠禅師年譜補註』の「大橋女」の註には、次のようにある。

 誰レヤタレ 誰カハ今日ノ 妻ナラン
       定メナキ世ニ 定メナキ身ハ
此レハ大橋ガ歌也。島原廓外柳樹ニ単箋アリ。一素始見之、慕之コト年久シ。先婦死ス。娉一素居士。

「先婦死ス」は「先夫死ス」か、あるいは「先ニ婦死ス」と読むならば、「娉一素居士」の後に入るべきか。右の歌を書いた短冊が島原遊廓の大門の柳に結ばれていたのを、風流一世の栗原一素が見て、大橋を思うようになった、というのである。
 ところで『年譜』草稿の最後に、東嶺が大橋女のために焼香した話を載せ、それは「実に壬申八月某日なり」と記す。壬申は宝暦2年に当たる。この記述が正しければ、大橋女こと慧林尼は、寛延4年の4月ころ(この年10月に宝暦に改元)白隠禅師に相見し、禅師が京で3ケ月ほど滞在する間、そのすべての法席に随従し、それから1年4ヶ月後には歿故したことになる。
 曲亭馬琴の『蓑笠雨談』(一名、著作堂一夕話)巻中には、寛政12年(1800)9月25日に東山双林寺で展覧された「烟花城書画展覧の目録」というのが載る。馬琴が京阪に旅をしたおりに写したものである。烟花は娼妓のこと、つまり島原の名妓の書画展の目録である。この時には全部で77点が展示されたが、その中には「別人大橋」というのもある。これは今いうところの律女大橋とは別人ということであり、それをのけて大橋のものが8点ある(前出、明田鉄男の説)。その8点は次のとおり。

書軸の部に

大橋出廓時贈某生香包ノ和歌 

柳巷角屋所蔵

大橋之文(ふみ)

同井筒屋所蔵

大橋之筆

柳巷桔梗屋所蔵

同文(ふみ)

同酸漿屋所蔵

画軸の部に

大橋ノ自画賛

柳巷菱屋所蔵

大橋ノ自画賛

森川氏所蔵

大橋ノ自画賛

柳巷菱屋所蔵

額の部に

大橋夕佳楼額(せきかろうのがく)

丸山正阿弥所蔵

この展覧が催されたのは、大橋が白隠に相見してから五十年後のこと。大橋こと慧林尼はすでに歿故していたが、たいそうな人気があったのである。
 加藤正俊先生が大橋の書蹟をご架蔵と聞いて、お願いして拝見することができた。次のようなものである。

はとのつえといふ事を 句のかしらのつぎの字にをきて 松年久といふ事をよみて奉る 恵琳
 とに懸て ちせかそふる こ宿の
       まのさかへの すそ久しき

oohashi3.jpg (17949 バイト)五七五七七の各句の二番目に「はとのつえ」の5字がおり込まれている。鳩の杖は、頭部に鳩の形を刻んだ杖で、中国で老臣をいたわるために下賜されたもので、わが国でも80を越えた者に下賜されたという。添書に「恵琳尼、俗名大橋、畸人伝中に載する所の嶋原の遊女、剃髪の后、詠める所なり。我が家の祖先、尓然斎、有栖川家より鳩杖を拝領せるに付いて、祝いの為め詠める所の和歌」とある。有栖川宮家から某家に杖が下賜されたのを祝って歌ったものである。

 森大狂『近古禅林叢談』の大橋の項には、「遊女の図」に題した文というのを載せる。

字下げ西にながれ東にながるる、同じ川たけの身にしある中にも、八重垣つくると詠じたまいし神垣のほとりは、いともやさしく、絵にかけるを見てさえ、まことなつかしうおぼゆ。しかはあれど、このふたりのすがた、ここにかきあらわさざるさきは、ありやなしや。

「川たけの身」は「川竹の流れの身」というに同じで、遊女など定めのない身の上のこと、「浮き川竹」などともいう。「八重垣」は『古事記』の「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」である。「まことなつかしうおぼゆ」とあるから、苦界を引いてから書いたものであろう。また最後に「このふたりのすがた、ここにかきあらわさざるさきは、ありやなしや」というあたりは、まことに大橋の面目躍如たるところであるが、参禅の経験がなければ出ない言葉であろう。
 最後に、白隠禅師の和歌集である『藻塩集』に次のような歌がある。

慧林いかにや歌よみかけたりけむ 岩つゝじの返して予がかごにあつらへおこしければ
  春に逢ふ うき世の花と みやま木と
        いざさしよりて あだくらべせん
  岩つゝじ 慧林
  人しらぬ みやまのおくの 岩つゝじ
        あだにやさきて あだに散らむ

 「いわつつじ」は和歌では「云はねば」を導く序詞。『古今集』恋一、495に「思ひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしき物を」、また『和泉式部集』下に「いはつつじいはねばうとし、かけていへば、もの思ひまさる物をこそ思へ」とあるように、言うに言われぬ恋の思いを詠うことが多い言葉である。慧林が「岩つつじ」の題で詠いかけて寄越して(おこしければ)返歌を求めて来たので、白隠が「いざさしよりて、あだくらべせん」と歌って返したということだろう。
 右の歌、いつの頃のものかは分らないが、白隠と慧林尼との交流は、尼の晩年一年餘りのこと、白隠も67、8歳である。山中にひっそりと咲き、人にも知られずあだに散って行く山つつじに我が身をなぞらえた尼の歌には、まだそこはかとなくただよう色香がある。それに対して、白隠禅師は、お互いに老境の出家の身、またともに寄り合って「あだくらべ」をしようではないか、とこたえたのである。「あだくらべ」は徒競。ともに出家の身、いつかまた会うて、世外無用のお話しでも致しましょう、というところか。けれども一方で「あだくらべ」はまた恋人どうしが相手の不実を言い合うことにも、また「婀娜くらべ」の意にも用いられる。禅師の言うこころ、「枯木寒巌に倚って三冬暖気無き」底のものとは、一味異なるもののようでもある。

ekyu25.jpg (17842 バイト)ekyu24.jpg (18764 バイト)補:脱稿後、『墨美』七七号で、最後に引いた「岩つつじ」の歌の、禅師自筆短冊の写真を偶見した。それには「惠林」ではなく、明らかに「惠休」と書かれている。白隠の弟子に惠休という人がいるが、弟子と右のような歌を交わすことはあり得ない。「惠林」は版本『和歌藻塩集』によったもの(京、柳枝軒、刊年不未詳)。惠休という別人(尼)がいたのか。惠休は惠林なのか。よく分からない。待考。


 もくじへ