仏教伝道協会「仏教伝道文化賞」授賞式

 

blog_MG_1770.jpg

7月30日の本ブログでもご報告しましたが、禅文化研究所の前所長の西村惠信先生が、公益財団法人仏教伝道協会の毎年表彰されている「仏教伝道文化賞」本賞を受賞され、去る平成30年10月4日に、東京の三田にある仏教伝道協会において授賞式がありました。

blog_MG_1771.jpg

沼田奨励賞には、みうらじゅん氏が選定され、介添人で主賓のいとうせいこう氏とともに来られていました。

あちこちのホテルの部屋においてある『仏教聖典』を刊行されている仏教伝道協会ですので、冒頭に、献灯献華がありつづいて『仏教聖典』より一節が奉読されました。「すべては縁によって生まれ縁によって滅びる」というものでした。

blog_MG_1791.jpg

正式に受賞者お二方の発表があり、壇上にて、仏教伝道協会の木村清孝会長からそれぞれに賞の授与があり、つづいて一言ずつご挨拶をという流れでした。

blog_MG_1806.jpg先生は冒頭の『仏教聖典』の一節を採り上げられ、今この壇上に立っている私は、本当に縁があってのものだということを述べられました。田舎の農家の10人兄弟の末っ子に生まれ、お寺に養子にこないかと云われたときにはまだ2歳。4つ上の兄が「ぼくはいやや」と云い、自分は金太郎飴に手を出したがために寺に貰われることになり僧籍に入った。そうでなければそもそもここにいるはずのない私であると。大学で指導を受けた久松真一先生、道場で接化を受け花園大学の職を進められた柴山全慶老師。産んでくれた顔も覚えていない母、育ててくれた養母、そして60年近く文句も言わないで連れ添ってくれた妻など、言い尽くせないほど多くの人の縁をいただいて今の私がある。まさか自分がこんな栄誉ある賞をいただくとは思っていなかったが、縁のおかげであると心から感謝するとのご挨拶でした。

blog_MG_1812.jpgつづいてみうらじゅん氏もご挨拶され、小学4年の時から仏像が好きになり、誕生日には密教の法具を買って貰っていたとのこと。そして今や、仏教アンバサダーのようになってしまったということを話され、「マイブーム」で流行語大賞をいただいて以来の賞なので、とてもうれしいと述べられました。

blog_MG_1815.jpg

先生への祝辞として大本山方広寺の安永祖堂管長猊下が祝辞を、みうらじゅん氏への祝辞はいとうせいこう氏が述べられました。

blog_MG_1825-2.jpg

その後の祝宴では、大本山円覚寺派の横田南嶺管長猊下が乾杯の音頭をとられ、約100人の参列者がお祝いをいたしたのでした。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

ジャポニスム2018 ZEN WEEK(禅文化週間)in パリ

 

blog_S__224772125.jpgパリ市を中心に実施されているジャポニスム2018。日本とフランス両国の協力により、日本の文化をフランスで紹介するイベントが長期に亘り行なわれています。

blog_S__224772101.jpg

日本文化会館

禅文化研究所が企画する「禅文化週間」(2018年10月2日~6日)がありました。会場となっているエッフェル塔のすぐ近くにある日本文化会館では、臨済禅の教えを紹介するビデオ上映や、禅の修行や儀式、禅の文化などの写真パネルを展示しました。

blog_S__224821257.jpg

blog_S__224772117.jpg

 

映像や写真を熱心に、繰り返し観ておられるような方もあり、どの企画も大盛況のようで、フランス人の禅への関心の高さが窺えます。

また10月4日からは、坐禅会や、禅語をなぞって筆で書く写禅語といった体験型イベントも始まりました。現地に飛んでいるスタッフからの情報では、体験にも積極的に参加される方がおおく、写禅語は1回15名定員のところ、児童20名以上の申し込みがあったらしく、急遽、別会場で対応したりしたとのこと。

blog_S__224886787.jpg

blog_S__224894995.jpg

坐禅会もすべて予約で定員に達したようです。

blog_S__224895014.jpg

 

blog_S__224895019.jpg

最終日の10月7日には、横田南嶺円覚寺派管長による記念講演が、エスパス・カルダンにて行なわれました。

パリっ子には、日本の臨済禅がどんな風に捉えられたでしょうか。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

東山魁夷展(京都国立近代美術館)

 

blog_東山魁夷展.jpg

先日、台風来襲前だからきっと人も少ないはず!と思い、京都国立近代美術館の「東山魁夷展」に出かけてまいりました。
今回は虫眼鏡鑑賞の方もおいでにならず、比較的大きなキャンバスに描かれているせいもあり、絵に近づかず遠目での鑑賞の方が多いようでした。
最初に絵の前に立った時、居住まいを正して正面から、まず深呼吸を…。
そんな行動が自然にできてしまう始まりでした。

青・緑・白・橙などとても豊かな色彩で、こんな色がどこから、どうやってと思う素晴らしい絵ばかり。
北欧、ドイツ、京都、そして有名な奈良唐招提寺御影堂障壁画、京都の絵などは、あっここ知ってる! ここは何処? という、連想ゲームをしているような気持ちで観ておりました。
会期は平成30年10月8日(月・祝)までですが、機会のある方はぜひ足を運んでみてくださいませ。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

釈宗演の逸話 その3

 

blog_伊藤06_BKL7517.jpg釈宗演自画賛 達磨図(個人像)

 

釈宗演禅師の展覧会に向けて、展示作品の釈文をする際に禅師の著作などをあつめた『釈宗演全集』全十巻(昭和5年・平凡社)を紐解いていたら、第十巻の最後の方に禅師の逸話がまとめてあるのを知りました。弊所の『禅門逸話選』には載っていない逸話をご紹介します。

※原文は旧仮名遣い旧字体ですが、読みやすいように改めました。

飯田の魔の池

明治四十一年四月禅師が信州飯田の直指会に臨まれた時のことである。同地の禅刹百丈山大雄寺に程遠からぬ所に、女夫池(めうといけ)という古池があるが、年々歳々其の古池へ投身する者が多いので、徳志家がなんとかして不祥事のないようにと、種々方策を施した。或る者は其の池畔に法華供養塔を建てようと献策するし、或る者は多くの鯉を放養し、そして営利的に鯉釣りを始め、以て人の出入りを多からしめて投身者を防ごうとしたけれども、魔の池ともいうべきか、やはり投身者が絶えなかった。すると宗演禅師は、此の事を知ってか、知らずにか、大雄寺の沙弥と居士等を連れて、此の古池へ来て一竿の風月を楽しまれたが、其の巧みな釣り方には、営業主をして驚かしめた。禅師は帰られるときに、其の釣り獲た鯉は総て古池へ放たれた、営業主はもとより他の者も、それが禅師だということは、更に知らなかったが、誰れ言うともなく、其の人が宗演禅師であったことが分かり、特に有志者が懇情して、六字の名号の執筆を願い、池畔に建碑した。すると爾来絶えて不祥事が起こらなかったので、今なお同地の人は、一般に其の高徳を称えている。

また字を書きに来た

江州乾徳寺の住職台嶺和尚の主唱斡旋で、湖東禅道会が組織され、年に一回ずつ宗演禅師の來錫を乞うことになった。ところが同会の維持が困難なので、台嶺和尚が事情を打ち明けると、禅師は即座に、
「よろしい、では墨蹟を五十枚書きましょう」
と、労苦も厭わずに揮毫されて、それを湖東禅道会の為に寄附された。そして來錫ごとに、
「また字を書きに来ました」
といつも五十枚ずつ揮毫された。禅師が台嶺和尚の詩に和韻されたのに、左の七絶がある。

  暫伍山猿野鶴群 荷衣松食講禅文
  箇中消息君知否 去就自由一片雲

怪物の出現

横浜の故綱島小太郎氏は、深き仏道の信仰者で、従って宗演禅師の帰依者の一人であった。小太郎氏の末期の遺言にも、
「家事に就いて事起こる時は、老師のご指示を仰げ」
との意味が認められてあった程だから、其の帰依の深かったことが分かる。禅師が嘗て此の綱島家の三階の大広間で大達磨を、揮毫されたが、其の大達磨は眼玉は千両だと、其の当時評判された。綱島家では主人小太郎氏の永眠初七日の夜、供養の為、薄暗い客間へ、此の大達磨の幅を掛けて置いた。すると参拝者たる客人達が、此の大樽間の幅の前を通って、霊前へ往かねばならなかったが、どうしたことか眼光炯々として人を射るが如き大入道の怪物が動き出したので、人々は、
「あら化け物が」
と驚きの叫びを発して、一同顔色を変えた。そして女子供は勝手元の方へ逃げ出す騒ぎであった。ところが其の化け物は、禅師筆の大達磨で、其の眼玉が怖ろしかった為で、後で大笑いをした。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)

半分、青い。

 

blog_MG_8614.jpgNHKの朝の連ドラ「半分、青い。」が終わりましたね(実はこれを書いているのは最終週のクライマックスをむかえるあたりで最終話を観ていませんが)。
どの連ドラも観てきたわけではないのですが、なんとなく今回はビデオに撮って夜観ることにしていました。登場人物のりつ君ファンや、すずめファンも多いでしょう。マー君が……という方もおられるかもしれませんね。
私はどちらかというと、タイトルにひかれてという感じです。

半分青い。ドラマ全体を通してのテーマなんでしょうね。誰もが成功したり失敗したりを繰り返しの人生。自分の生涯と当てはめながら観ていた方も少なくないのではないでしょうか。

禅語に出てきそうだなと思ったので、データベースで「半青」を検索してみたところ、出てきました、出てきました。

『虚堂録』なんかにも出てきます「半青半黄」をはじめ、「半青半白」「半青半赤」という風に……。いずれも半分は青く、半分は黄色だったり、白かったり、赤かったり、いろんな色の対照として使われていますね。「半青半黄」は『禅学大辞典』(大修館)にもでていまして、「十分に熟しないこと。未熟」とあります。出典は『碧巌録』をひいてあります。『無文全集』第三巻(碧巌録Ⅲ)から引用してみましょう。

第七十二則「百丈問雲巌―百丈、雲巌に問う―」
本則は、

挙す。百丈、又た雲巌に問う、咽喉脣吻を併却して、作麼生か道わん〔蝦䗫窟裏より出で来たる。什麼とか道わん〕。巌云く、和尚有りや也た未だしや〔皮に粘じ骨に著く。拖泥帯水。前に村に搆らず、後に店に迭らず〕。丈云く、我が児孫を喪せん〔灼然として此の答え得て半前落後なる有り〕。

というものですが、そのあとの評唱に、

雲巌、百丈に在って、二十年侍者と作る。後、道吾と同じく薬山に至る。山問うて云く、子、百丈の会下に在って、箇の什麼の事をか為す。巌云く、生死を透脱す。山云く、還って透脱するや也た未だしや。巌云く、渠れに生死無し。山云く、二十年百丈に在って、習気も未だ除かず。巌、辞し去って南泉に見ゆ。後、復た薬山に帰って、方に契悟す。看よ他の古人、二十年参究するに、猶お自ら半青半黄、皮に粘じ骨に著きて、穎脱すること能わず。是は則ち也た是。只だ是れ前に村に搆らず、後に店に迭らず。

とあり、ここに「半青半黄」の言葉が見えますね。無文老師の提唱によると、

「二十年百丈に在って、習気も未だ除かず――何だ、百丈のところに二十年もおってからに、まだ悟り臭いものが取れんのじゃナ。そんなザマで何になるか」
と叱られた。雲巌、また迷いに迷って、南泉和尚のところに出掛け、その後に再び薬山に戻って来て、今度は本当の悟りを開いたということである。なかなか、苦労をしておられるのである。大器晩成である。百丈のところに二十年もおっても、半青半黄、柿の熟さんのと同じだ。皮からも離れられなければ、骨からも離れられず、頭から離れられず、カラーッとした境界にはなれなかったのである。まんざら修行ができていなかったとは言わんが、前に村に搆らず、後に店に迭らず、中途半端な修行であったと言うべきであろう。

まさしく、20年も百丈禅師のところにいるのに、おまえは未熟であると喝破されていますね。禅僧たるもの、しっかり修行して、青いも黄色いも、そんな色などどうでもいいほどの熟した境界にならねばいけないのでしょうが、私のような凡夫には「半分青い」が丁度いいのでしょう。

by admin  at 09:00  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)
2019年1月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31