妙心寺にて白隠禅師250年慶讃法要!

 

blog_AC_1435.jpg昨日、5月11日、臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺にて、白隠禅師250年慶讃法要が勤められました。
これは臨黄合議所の遠諱法要とは別に、大本山妙心寺が勤修されたものです。
ブログタイトルになぜ「!」を敢えて打ったか。
じつはこれが歴史的なできごとだからです。かの白隠禅師の遠諱法要が、未だかつて本山である妙心寺で行なわれたことがなかったからなのです。
なぜか。それは、白隠禅師は妙心寺において開堂されたことがない、つまり妙心寺住持として世代に入られていないからなのです。しかし、現在の臨済禅は、大應-大燈-関山と続く法脈下にある、白隠の法系を遺すのみなのです。
そういうことがあって、このたび、白隠禅師の示寂250年を記念した慶讃法要が、はじめて妙心寺にて勤められたことは、まことに異例なことなのです。

blog_AC_1416.jpg妙心寺の法堂上に、かの白隠禅師の木像(三島・龍澤寺蔵)が安置されているのをみたとき、龍澤僧堂にほんの少し在錫しただけの私でさえ、感動をかくせません。とても、とても感慨深いものがあります。
もちろん、参列されている各派管長、僧堂師家の老師方も、そういった思いをお持ちではないかと思いました。

blog_AC_1410.jpg法要導師はもちろん、妙心寺派現管長である江松軒嶺興嶽老師。十八拝式という最も丁寧な仏事を行なわれた後の、慶讃法要の偈頌は、次の通りでした。

遺風二百五旬年
的々分明鵠林禅
今日幸逢真面目
洪恩親報一爐烟

blog_AC_1460.jpg香語の後は、楞厳咒の読経で、居並ぶ江湖の老師方がともに行道されました。

blog_AC_1487.jpgさて、今日はこれから、花園大学教堂にて、「白隠禅を現代にどう生かすか」をテーマに、「白隠シンポジウム【京都会場】」が開催されます。

 

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デジタルアーカイブス寺宝調査 徳源寺(名古屋)

 

4月22日(土)・23日(日)、デジタルアーカイブス事業の寺宝調査で名古屋・徳源寺様に伺いました。

01.JPG庫裏前の桐の大樹が満開です。建物だけで1000坪あるそうですが、市街地に建つせいか、さらに大きな規模に感じられました。

02.JPG大相撲名古屋場所開催時は、九重部屋の宿所になることでも有名です。この「修古館」に宿泊されるようですね。

03.JPG今回は、創建開山である蘇山玄喬禅師150年遠諱に向けての調査。禅師の書画約60点を集中的に調べていきます。初めて同行した私は、撮影をスムーズに進めるための補助作業をさせていただくことに。調査の流れは書籍や先輩のブログなどで予習していったつもりでしたが、大切なものを扱う現場、見ると聞くとは大違いで、久しく味わっていなかった極度の緊張感に支配されっ放しです。

04.JPG作品の身上書ともいえる「調書」には、情報がどんどん書き込まれていきます。完了した調書には膨大な情報が記されていました。

05.JPG花園大学歴史博物館の福島教授と研究員の皆さま、弊所レギュラー調査スタッフに対し尊敬の念を新たにしつつ、作業に従事する中で思うことや発見?がたくさんありましたが、幸いこの数日後、別の調査にも参加させていただきましたので、次回の投稿でそれらをまとめたいと思います。

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甘茶(あまちゃ)

 

blog_MG_2062.jpg自坊では旧暦で今日、花祭りを行ないます。花祭りに誕生仏に「甘茶」をそそぐのは、釈尊がお生まれになった時、天上の神々が甘露をそそがれたことに由来するそうです。でも今回は、小難しい典拠などはやめておきましょう。

実はいまどき、「甘茶」は、薬局で買います。袋に書かれていることを読めば、れっきとした漢方薬です。値段もかなり高額です。

高額は仕方ないとしても、困るのは、「甘茶」を買うのを、ついうっかり忘れてしまうことです。花祭りの前日に買いにいっても、「甘茶」は、もうありません。この時期、地域の寺院が、同時一斉的に、「甘茶」を買いに来ますので、薬局は売りきれなのです。

ですから、花祭りの1カ月前ごろから、「甘茶」の予約をします。薬局も小分けしては売りません。でも一回買えば、3、4年は、冷蔵庫で保存が可能です。

これは、我が山寺の馬鹿な話です。
寺の世話役さんの奥さんたちが、「甘茶」を薬缶で煎じておられます。「よし、出来た」と、盆にそそぎ入れ、誕生仏を立たせ、「やってみよう」ということで、沸騰した「甘茶」を誕生仏に降り潅ごうとされるのです。そこで、住職のわたしが一言、「お釈迦さん、ヤケドされますよ」と。奥さんたちは、いそいでボールに水を張り、「甘茶」を薬缶にもどして、その水につけて冷却。やれやれ、大笑いのうちに一件落着です。

花祭りの法要が終われば、参詣の人たちと、「甘茶」で、カシワモチを食べながら、話に花が咲きます。
でもやっぱり、普通の煎茶や、ほうじ茶のほうがおいしいです。祖父母に連れて来られた子供たちも、コーラやジュースのほうがおいしいと思います。だからちゃんと、煎茶もコーラも用意されています。

この「ブログ禅」を御覧になっている人には、寺の若奥さんたちもおられると思います。そこで、山寺の和尚から一言。
(今どきの)「甘茶」は、煎じたらだめです。甘みより苦みが出ます。お湯の中に入れれば、それで結構です。そして昔は、「甘茶」をビンなどに入れて持って帰ってもらっていましたが、わたしは、「甘茶」の葉っぱを小さい袋に入れて、「家に帰って作ってみて下さい」と言って渡します。
「作ってみます」と言われて、持って帰られますが、どうせ、冷蔵庫の奧に放りこまれる運命でしょう。でも翌年の花祭りの日、「オッ、これはナニッ」となることを、ひそかに期待しているのです。

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南極老人星はカノープス?

 

星空.jpgわたしが現在読んでいる書物は、仙台藩4代藩主、伊達綱村公の『如幻三昧集』という語録です。その中に、元禄2年(1689)、江戸で作られた「老人星見(あら)わる」という題の七言絶句があります。
「老人星」は、詳しくは「南極老人星」と言い、この星が現われれば天下が治まると言われていますが、元禄2年にこの星が出現したのか、別の史料で調べなければいけません。本当に日本語録の訓注はやっかいな仕事です。ところが、あまり時間もかからずに見つけることが出来ました。江戸の地誌『武江年表』巻3・元禄2年の条に「正月十六日、頃日(このごろ)、老人星現ず」とありました。

ところで、この「南極老人星」は、現代の天文学では、龍骨座のカノープス星であると言われています。カノープス星は、大犬座のシリウス星に次いで2番目に明るい1等星で、天文ファンには人気のある星だそうです。もちろん1番明るいのは太陽です。これは、自ら光を発している恒星(こうせい)の中でのことです。月は明るいですが、あれは太陽に照らされての明るさです(ああ何と無味乾燥だなあ)。

こう調べて来て疑問が起こったのです。この「南極老人星」は、本当にカノープス星と同じものなのかと。確かにカノープス星は、東京の地表では南の地平線近く2度程度、京都でも3度程度の高さにしか昇りませんので、肉眼で見ることは困難です。しかし、1等星ですので、見えないことはありません。しかも、綱村公の江戸時代には、現在のような光害も少なかったでしょう。

ところが、「老人星現ず」の観測記録は、専門外のわたしの管見では、この綱村公の詩と、『武江年表』の記録のみです。常に南の地平近くに輝いているカノープス星が「南極老人星」ならば、もっと記録が残っていてもよいはずですし、そもそも、記録を残すほどの出来事でもありません。

さらに、語録読みのわたしが気になるのは、「あらわる」という表現です。「あらわる」とは、それまでにはなかったものや、隠れていたものが出現するという意味です。

と、ここまで書いて来て、いきなり龍頭蛇尾になりますが、「南極老人星」が、カノープス星であることは確かなことなのでしょう。しかし、宇宙のロマンは限りないものだと聞きます。わたしのイメージ、あるいは理想としては、この「南極老人星」は、数年に1度現われるか現われないかの流星であって欲しいのです。「南極老人星」が、常に南の地平近くに輝いているなんて、ロマンがないではありませんか。

しかし、『虚堂録』巻2・宝林録にあるような、「四海隆平にして煙浪静かに、斗南長く見る老人星」、天下太平、めでたし、めでたしという世界も見たいものです。カノープス星は常に輝いているのだから、世界はもっと平和でなければならないのです。

ちなみに、この「南極老人星」が神格化されたものが、あの福禄寿です。
更にちなみに、1番明るい大犬座のシリウス星の漢字は「狼星」です。

「(狼星の近くに)大星有り、南極老人と曰う。老人見(あら)わるるときは治安なり」(『史記』天官書)。カノープスよ、もっともっと輝いて、世界を平和に導いてくれ!

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還暦

 

blog_十干十二支.jpg

小生、めでたく、還暦を迎えました。60歳です。

還暦とは、干支(えと)を一周することです。

「生まれは、酉(とり)です」と簡単に言って来ましたが、干支は、十干と十二支との組み合わせですので、「酉」だけでは、本当は、不十分なのです。還暦を迎えて初めて気つきました。私が生きて来た60年の間には、5回の酉年があります。そこでさっそく私が生まれた昭和32年を調べてみました。干支は、丁酉(てい・ゆう/ひのと・とり)でした。別に昭和32年を調べなくても、今年を調べればよいことですが。

甲子から干支を数え始めれば34番目。なんとも中途半端な数です。

干支で最も有名なのは、やはり1番目の甲子(こう・し/きのえ・ね)でしょうか? 大正13年、甲子園球場が起工された年で、その年の干支に因んで命名されました。球場は1番なのに、タイガーズは、なかなか1番になってくれません。個人的には、とても残念です。

次は、丙午(へい・ご/ひのえ・うま)かな? 恋人に会いたい一心で放火事件を起こした八百屋お七が、丙午の生まれであったと言われて、世の女性が、いろいろといわれない中傷を受けてしまう干支です。

戊辰(ぼ・しん/つちのえ・たつ)も有名かな? 明治元年に起きた戊辰戦争で知られています。

さて、当研究所には、もう一人、丁酉に生まれた人がいます。わたしたちは、生まれ歳が同じということだけで、何だか親近感をおぼえてしまいますよね。これは、日本人だけの感情かな? でも、触れ合うきっかけにはなります。

十二支は、動物の名前ですので意味は分かりやすいですが、十干にも、それぞれ意味があります。因みに私が生まれた「丁(ひのと)」は、五行では火に属し、方位は南に当てられます。「火の用心に心掛けて、南の方向に気を配れば吉」と。そんな占いみたいなことも出来ます。

因みに来年は、戊戌(ぼ・じゅつ/つちのえ・いぬ)です。「戊(つちのえ)」は、五行では土に属し、方位は中央です。

十二支は、毎年新年、神社仏閣に、大きな文字で掲げられますが、十干は、なかなか教えてもらえません。私と同じように、自分の生まれ歳の十干を知らない人もおられるかも知れないと思い、ながながと書いてしまいました。一度、調べてみられるとおもしろいですよ。

しかし、「丁」は、どうにも気に入りません。昔の通信簿の「甲乙丙丁(こう・おつ・へい・てい)」の「丁」ですよ。調べなければよかった。誰が、こんな評価法を考えたのだ、けしからん。まあ、これは、あくまでも私の個人的感想ですから、どうぞ、丁歳生まれの方は、気になさらないようにして下さい。

最後に、丁酉生まれの方、無礼のかずかず、ご容赦下さい。還暦、お互い、もう一花さかせましょう。

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