坊さんはなぜ頭をそるのか?

小生が京都に来た時に常宿(じょうやど)にしている、ある宗門経営のホテル(旅館)がある。

ちなみに、ホテルと旅館との区別はなく、経営者が任意に選んでいいらしい。古風さを出したければ旅館、新しさを出したければホテル。そういった具合らしい。

そのホテルにチェックインしようとしてフロントに行った。

「ハイ、○○さまですね」「ハイ、そうです」と、一通りの手続きが終わると、その受付の男性(僧侶ではなかった。僧侶の時もある)が、二つの小さなカゴを少し押し出して言った、「カミソリとヘアブラシは部屋に置いておりませんので、ここでお持ち下さい」と。

小生は坊主なので髪の毛がない。
「カミソリはもらいますが、ヘアブラシは……」と、苦笑いを浮かべた。すると、その男性も、苦笑いを浮かべた。少しコッケイであったが、何だか楽しかった。宗門経営のホテルといっても、小生が見る限り、宿泊者は、ほとんど普通の旅行者である。なにしろ、費用が安い。その男性も、日常の言葉がつい出てしまったのだろう。

気にも止めなかったが、なぜ、坊さんは髪の毛をそるのだろう。神様がせっかく防御具として与えて下さったものなのに。戒律を記した経典には、半月に一度そりなさいとある。その理由は、諸縁を断ち切ることであるらしい。

 

160728.jpg臨済禅師・白隠禅師遠諱記念報恩接心より


修行道場にいる雲水は、四九日(しくにち)、毎月、4と9とがつく日に頭をそることになっており、諸縁を断ち切って、仏道修行に専念する。

しかし、古い中国の坊さんたちの肖像画を見ると、有髪、それも長髪の人が多い。これは、どういうことだ。もはや諸縁を断ち切っているから、剃髪(ていはつ)はいらないということか?

日本の仏教者は、現実社会のなかで活動し、仏法、慈悲、小欲を説いている。当然、妻もおれば、なまぐさも食べる。しかし、小生は、日本の仏教は、究極的な宗教の形態だと思っている。

そこで、なぜ髪の毛をそるのかと改めて考えた。えらそうなことは言えないが、現実社会のなかで活動していても、自分は僧侶なのだという自覚を忘れないため、人々につくすために生きているのだということを忘れないため、言葉は悪いが、髪の毛をそるというのは、一種のタトゥーではないのかと。

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編集部の仕事と新刊『禅に親しむ』

 

2016-07-26-10.30.40.jpgブログ禅で6月に書いた「長岡禅塾訪問」で少しご紹介したが、今、長岡禅塾副塾長の北野大雲老師の著書『禅に親しむ』を最終校正をしているところです。

禅文化研究所編集部は早くからDTP(デスクトップパブリッシング)を導入し、テキストファイル状態から、本の形にレイアウトするところまで内製化していて、筆者と編集者の間で何度かの校正ゲラのやりとりを終えた後、最終的な版下データをPDFファイルに出力して印刷会社に渡し、印刷会社で刷版をつくって刊行にいたっています。

ちなみに、現在はInDesignといった組版ソフトを使い、カバーなどの装丁にはillustratorというソフトを使っています。ほかに写真の処理にPhotoshopも頻繁に使います。

さて、こうして編集部で出力したPDFデータを、印刷会社では刷版データにしますが、概ね、1枚の大きな用紙(全紙)に表裏で16ページ分になるように大貼りした刷版データが作られます(本の判型によって異なります)。
その刷版から出力された大きな紙を3回折り曲げてから切り出してまとめていくと、上の写真のような校正紙になります。写真印刷の頃はデータではなくフィルムで出力されたので、そのフィルムを青焼き機で複写して校正紙が届けられましたが今はもう懐かしいことです。

あんなに何度も校正をしたのに、この時点でまた誤字脱字が見つかったりして、悲しい気分になりますが、修正の入ったページだけをまた出力して印刷会社にわたして、差し替えて貰うというわけです。

こうして今週末には校正を終えて、印刷会社に責了をします。8月には印刷製本となり、9月16日に発刊予定。

すでにご予約を受付中です。
禅僧の濱地創宗さんの愉快な挿絵も入って読みやすく仕上げています。是非、お読み下さい。

禅に親しむs.jpg 『禅に親しむ』 北野大雲(長岡禅塾副塾長) 著
ISBN978-4-88182-299-9 C0015 ¥1300E
B6判並製 244ページ
定価 本体1,300円(税別)

 

 

 

 

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大茶の湯釜展 -MIHO MUSEUM-

 


160726-1.jpg滋賀県のミホミュージアムを訪れました。
恐らく釜のみの展覧会でこれほどの規模のものは初めてなのでは?!と思うのですがいかがでしょうか。

「大茶の湯釜展-茶席の主-」。
副題に「茶席の主」とあります。確かに客の席入り前から見送り後までずっと鎮座まします茶の湯の釜。茶会を催す事を「釜を掛ける」とも申しますし、そうもとれなくはないのかもしれません。
個人的には「主」とまで言ってしまうのはどうなのだろうと思うのですが、まだまだわかっていない証拠でしょうか。

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長年茶の湯の稽古は続けていても、一つ一つの道具となると意外と詳しいところまでは知らない事も多く、改めて学ばせていただきました。

ただいま少し稽古を中断しておりますが、最後に濃茶を点てる映像(釜の音の変化を聴く為のVTRが流れていました)を観て、茶室での様々な音を聴いておりますと、点前をする時のあの心地よさ、精神の落ち着きを感覚的に思い出し、なんともいえない気持ちになりました。
少し離れる事でまた、新たに深まるおもいもあるものだな……と思った次第です。

今週末、7月31日まで。是非おでかけください。

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季刊『禅文化』241号発刊のお知らせ

 

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表紙:重要文化財 翁(白色尉)/弥勒作・観世文庫蔵



今季は、禅と文化の関わり合いをクローズアップ。「禅と能」を特集しています。

禅は能にも影響を与えているといわれますが、では実際どのような繋がりがあるのでしょう。体系的につまびらかにできればと、禅門・能楽界・学界の皆さまにご協力いただき一冊にまとめました。

内容を一部ご紹介いたします。

まずは現場に立つ方のお話から探るべく、有馬賴底老師(相国寺派管長)と観世清和氏(第26世観世宗家)に語らっていただきました。それぞれの道を牽引されてきたお二人には、心身両面に多くの共通点があることがお話の中でどんどん見えてきます。興味深い巻頭対談を、能楽に造詣の深い土屋恵一郎教授(明治大学学長)のナビゲートでお楽しみください。

翻って、論攷では室町時代の「禅と能」に目を向けます。“世阿弥の芸論”と禅の繋がり、一休禅師が金春禅竹の能に見出したという“禅の心”などを、能楽研究の第一人者である天野文雄氏(京都造形芸術大学舞台芸術センター所長・大阪大学名誉教授)と松岡心平氏(東京大学教授)が述べてくださいました。

まだまだ続きますので、詳しくはもくじをご覧いただけましたら幸いです。

深い世界のあくまで一部を見るに過ぎませんが、宗教界・能楽界・学界、いずれかの視点に偏ることなく「禅と能」の関係を考察できたことには、一定の意義があるのではないかと思います。

よろしくお願いいたします。

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梶谷老師の墓参り

 

160722.jpg私の修行僧堂の師家であった梶谷宗忍老師(1914~1995・相国寺派前管長)の墓参に行ってきた。
墓は平成8年1月に一周忌を迎えるにあたり、相国寺から分骨して老師の生誕地である大分県佐伯市西野浦に建立されたものである。
大分には仕事の関係で何度も訪れているが、これまでなかなか足を運ぶことができなかった。今回は、修行時代の先輩にあたる方の新忌斎(49日法要)が佐伯市の寺院であり、法要後、参列した会下(僧堂OB)の方の呼びかけで実現した。

墓は入り江から山麓にかけて建ち並ぶ集落のはずれにあり、生家の墓の隣りに建てられている。
皆で線香を手向け大悲呪一巻を諷経。会下と共にお参りしたからか、僧堂を出て数十年が経つが、当時の自分に戻った思いがした。

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