大坐禅会(仮称) -臨済禅師・白隠禅師大遠諱事業-

 

120619-1.jpg何度かご説明させていただいているかも知れませんが、禅文化研究所は、臨済宗黄檗宗連合各派合議所の事務局をつとめさせていただいております。
そんな、臨黄合議所主催で、平成28年の秋から始まる、臨済禅師・白隠禅師の大遠諱事業。その一環として開催する、大坐禅会(仮称)の実行委員会を、6月10日に開催しました。

大坐禅会。
およそ3000人~10000人の参加者を募り、法要、提唱、坐禅、を一般の方々に体験してもらうという大企画です。

120619-2.jpg委員会の出席者は18名。
各派本山の管長貎下や老大師にもお出ましいただき、会場の検討、参加者の募集方法など事務的な事から、一般の方々に何を伝えるのか、10000人で坐禅することで何を得ることができるのか、現代に禅というものがどう活かされて我々の生活にどう影響していくのかなど、その指針に至るまで、活発な討議がなされました。

参加者の方々に、応分の所得を抱いていただく為に、目的を明確にしてからこの事業をすすめて行く方針です。
今後、ブログ禅においても、遠諱に関してのご報告、御案内をさせていただきたいと考えております。

一般参加可能なプログラムも多々予定。参加型の遠諱を実現するべく、是非とも皆様のご関心をお寄せいただけたらと思う所存です。

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『いろはにほへと -ある日の法話より-2』横田南嶺老師法話集

 

130618.jpg弊所の理事としてもお世話になっております、円覚寺派管長・僧堂老師 横田南嶺老師の御著書(円覚寺派 黄梅院発行)、『いろはにほへと -ある日の法話より-』の、第2冊目が発刊となりました。

弊所でも、好評の第1冊目にひきつづき、ネットショップにて取り扱いさせていただいております。

 

「仏教の一番の核心は気づくことにあるのです。そして、気づけば理性の反応が自然と働いてきます。堪えるというよりも自分の感情に気づけば自然と自制することができるのです」。(本文より)


自分の感情を押し殺して、何かに堪えている。それでは辛いばかり。
あるがまま、自然である事、自分の素直に湧き起こる感情にふと気づく事。そこからはじめる事が肝心なようです。
いまだ日々修行に、坐禅に生きていらっしゃる南嶺老師から、どうすれば苦しみから解き放たれるのか、仏教が教える根本的な“本当に大切な事”が易しく語られています。

一冊目に続き、是非とも二冊目も座右の書に。
禅や仏教、その他の宗教に興味が無い、でも何かを求めているような方にも、是非プレゼントしてあげて欲しい一冊です。

こちらからどうぞ。

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"信"を問う

 

130617.jpg先日、友人宅で大学時代のゼミ担当教授・松田高志先生による学びの会、分かち合いの会がありました。

この日のテーマは、『私の宗教観~イエスの例え話を手掛かりとして』。
聖書の様々な箇所を知る機会を得ました。そのうちの一つ、マタイ25章「タラントンの譬え」。タラントンは、いわゆるタレント(才能)の語源ですね。

旅に出る主人に、それぞれ力に応じて、5タラントンを預った僕は、それを元手にもう5タラントンを儲け、2タラントンの者は、もう2タラントンを儲け、帰ってきた主人に「よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」とほめられますが、1タラントンを預り、地中に埋め、大事に保管した僕は、「怠け者の悪い僕だ。この男からタラントンを取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、もっていない人は持っているものまでも取り上げられる」と叱られ、追放されるお話。

皆さんは、このお話をどうお考えになられますか?


松田先生は、「神から見れば、力に応じて“少しのもの”を預けられたのだから、力一杯やれば必ずやれるのではないか、それどころか、まだまだやれると気づくのではないか、逆に大き過ぎるよう(神から見て僅か)で尻込みするなら、その“僅か”も失ってしまう」と仰っています。

私は、“信”を問われているように思いました。神を信じ、自身を信じる事への欠如についてを諌めているような……。人間の弱さ、もろさをよく突いていますね。

そこで思い出したのは、今度は禅のおはなし。
5月27日の花園大学学長講座にて、八幡の圓福僧堂の政道徳門老師が講演をされましたが、その内容が、『臨済録』-示衆-より、「信」という事についてでした。


「病は不自信の処に在り。你若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。你(なんじ)若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。汝は祖仏を識らんと欲得(ほっ)するや。祇だ汝、面前聴法底(ちょうぼうてい)是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求(ちぐ)す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終にその活祖意(かつそい)を得ず」。


仏教だ禅だと色々学んではその知識を人にひけらかしたり、さもわかったように説いたりするが、一体全体、自分自身がちゃんとそれを信じて飲み込んでいるのか。「良い薬がありますよ、この効用はこうでああで…」と話しているわりに、自分自身はその薬を服用もせず、病んでいたりしないか?!あれがいい、これがいいのでは?!と、結局定まる所を知らず、ウロウロしてはいないか?! という事をお話され、“信”について、聴衆に問われました。

仏教、キリスト教、つきつめれば世界の宗教は結局のところ、同じ事を言っているのでしょうか。

信じる者は、救われる?!

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バリヒンドゥー総本山 ブサキ寺院 -Bali-

 

130614-2.jpg何も予定を決めずに向かったバリ(詳しくはこちら)。

「あなた、お寺が好きよね。それなら、ちょっと強行軍になるけど、ブサキ寺院へお参りしましょう。興味無さそうな人ならわざわざ連れてゆかないけれど、ちょうど良かったわ。私も最後に御礼参りができる」。

お世話になるのだから、全てをお任せしよう……と思いつつも、実は秘かにどうしても訪れたいと願っていたブサキ寺院に、秦泉寺さんから真っ先にこのご提案。とても有難い事でした。

130614-1.jpg家の前にも日々お供えを。裕福な家では庭に小さな寺もある。

 

バリ島の“バリ”とは、サンスクリット語の“ワリ”(wali=神様への捧げ物)が語源だとされる事もあるからか、島全体が神への捧げ物、神々の島と呼ばれ、島民の約90%以上の人々が、土着の信仰とヒンドゥー教とが混淆して独自の形態を成した、“バリ・ヒンドゥー”を厚く信仰しています。

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そんなバリ・ヒンドゥーの総本山でもあり、バリの人々の誇り、精神的な拠り所とも言えるのが、バリ島最高峰・アグン山のふもとにある、ブサキ寺院なのです。パワーみなぎる熱帯の大地を見下ろし、悠々と聳える山と共にバリ島と民を守るかのよう。

130614-4.jpgそこはまさに天空の寺院。シャングリラともいうべき場所で、後ろに御神体のごとくそびえ立つアグン山目指して歩けば、もしかすると天国に繋がっているのではないか……と本気で想像してしまうような聖地。
巻スカートを穿き、正装しての思い出深いお参り。どの国に足を運んでも、宗教の聖地というものはその国と人々をより知る為の大きな手掛かりなのでした。

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現在、阪急うめだ本店にて、〈永遠の布展Ⅰ〉-時間をつむぐ10人の女性作家たち-開催中。秦泉寺さんの布、キルトをご覧になりたい方は是非お運び下さい。

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永源寺派管長 晋山式

 

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去る6月2日、滋賀県東近江市の臨済宗永源寺派大本山永源寺にて、槐安窟道前慈明老大師の晋山式が厳修された。
老大師は4月1日をもって永源寺第144世、永源寺派第13代管長に就任されていたが、2か月後のこの日に晋山の運びとなった。

老大師は禅文化研究所で開催されている勉強会にもずいぶん以前から参加されており、私たちは親しみを込めて「閑さん」とお呼びしていた。
勉強会やその後の食事の際の会話は参加メンバーにとって楽しいひとときであり、閑さんの周囲はつねに朗笑に包まれていた。閑さんの飾らない気さくな人柄の然らしむところである。
そのような場に身を置くことを許されていた私にとっても、感慨一入の晋山式であった。

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