サンガセミナー精進料理講座

 

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去る1月12日に、妙心寺山内の東林院様にて、本年度のサンガセミナー最終回を開催いたしました。

午前中は、東林院住職の西川玄房師による精進料理講座。当初、募集定員16名の満員だったのですが、急に寒くなったからか、前日キャンセル連絡が相次ぎ、結果的には、12名での開催となりました。

今回は、精進料理では定番ともいってよい、「ごま豆腐」を中心に3品の料理を教えて頂きました。ただ、ごま豆腐はごまをすり鉢で摺るところから始めるわけで、少し手間が掛ります。暑い夏にはしたくないと先生の言葉。さぁ、無事にできるのでしょうか。

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すり鉢でものを摺ったことがないという方もおられる中、この煎りごまがどう変身していきますか。これを摺って摺って、また摺って、味噌のようなペースト状になるまで摺っていただきます。

約30分もしますと、下記のようなペースト状にあいなります。ごまのいい匂いがしております。

 

_AC_0174.jpgペースト状になったあとは、水を少しずつ加えながら混ぜ合わせていきます。そのあと、巾着袋にいれて漉しながら鍋に入れていきます。

_AC_0177.jpg鍋に入れたあと、葛と合わせながら、ゆっくりとかき混ぜていくと、だんだんと固まってくるのです。鍋の火加減が難しそうでしたが、なんとか、ごま豆腐らしくなってきました。

_AC_0183.jpgある程度の堅さになってきたところで、タッパーウェアに流し込み、手早く形を整えます。その後、普通は3時間ほど風にさらして固めるのですが、今回は時間がないために、水につけていっきに冷ましました。

_AC_0184.jpgほかのレシピ2品は、ぎんなんを生でむいて、たたきつぶし、フライパンでタレを付けて焼いてのりをつけて巻き上げた「ぎんなんの磯香り焼き」。これもぎんなんを生でむくのが一手間掛りますが、あとは割と簡単。ビールのアテに美味しそうです。

_AC_0190.jpgもう一つは、「なめこの大根おろし和え」。こちらは大根をおろすのと、ニンジンや水菜を短冊に切てなめことともに和えるだけなので、超簡単レシピです。

_AC_0191.jpgできあがったものを配膳して、庭の見える書院に運び、皆さんで召し上がっていただきます。

_AC_0198.jpg食事の前には、西川玄房和尚先導で、みんなで「食事五観文」をお唱えし、ご用意いただいた御飯とお味噌汁をそれぞれ器につけて、いただきます。

_AC_0201.jpgご住職が作っていただいた品とあわせて、立派な精進料理膳となりました。参加者の皆さんも、自身で作られたものもふくめ、美味しいと大喜びでゆっくり召し上がっていただきました。

来年度のサンガセミナーでも、本精進料理講座を開催させていただく予定です。ご参加をお待ちしております。

 

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いのちをみつめる
-高台寺 礼拝聴聞室「利生堂」落慶記念事業ご案内-


昨年12月に京都市東山区の高台寺に礼拝聴聞室「利生堂(りしょうどう)」が完成しました。これは、あらゆる世代、国を超えた人々に「いのち」を見つめる場を創出することを願い建立されたもので、内部の天井および壁面には、高台寺の宝物である南北朝時代の涅槃図が最新のデジタル技術により再構築されています。
この落慶記念事業として、1月22日(日)より10回の予定で対談形式による「生命を語る」パネルディスカッションが開催されます。
毎回さまざまな分野の方々にいのちをテーマに語っていただく内容です。
入場は無料(要事前申込)です。
詳細及び申し込みはこちらまで。

 

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昨年末の除夜の鐘

 

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昨年末の師走の「中外日報」(仏教界の新聞)によりますと、除夜の鐘を迷惑と言われ、時間を深夜ではなく昼間に代えたり、防音壁を作って対処されたというようなお寺があり、また、一般のニュースでも同様の報道を見ておりました。いまや、除夜の鐘は一年を振り返る風物詩でさえもなくなってしまったのでしょうか。

反対に大きなお寺では、普段はお寺参りもしないでも、喜んで除夜の鐘を撞きに来られる方もおられるようで、108では終わらないとうれしい悲鳴をあげておられるご寺院もあるようですが、迷惑といわれる場合もあったりで、そういうお寺にとっては頭の痛いところでしょう。
幸い自坊には未だ苦情を寄せてくる方はおられませんが、うちのような田舎寺では、近年、だんだんと深夜の除夜の鐘にお参りされる方は減ってきてしまっており、寂しい限りでおりました。

そうしたところ、山口県のある臨済宗寺院のご住職が、「除夜の鐘撞き放題」として、大晦日には一日中、いつ鐘を撞いてもいいようにされていることをSNSで知りました。これは思い切った闊達なやり方だなと共感し、ではうちでもやってしまいましょうと、さっそくSNSで宣伝し、かつまた、寺の表と裏にある2ヶ所の掲示板に、上のような「大晦日終日鐘撞き放題」と貼りだしたのです。

2016-12-31-08.49.jpg檀家さんの多くは、大晦日にご先祖のお墓掃除に見える方が多いので、掃除の後に、一年の垢を落とすつもりで鐘を撞いて帰ってくださいねということなのです。時々、掲示に気がついて鐘を撞いて帰られる方もおられ、内外の掃除や正月の設えをしている私の耳にも、「ゴーン」という鐘の音が聞こえてきて、ニヤリとほくそ笑んでいた次第です。

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午後、見かけない青年男性二人がやってこられ、鐘楼を写真に撮っておられるので、「どうぞお気軽に撞いて帰って下さい」と声を掛けると、うれしそうに「では遠慮なく」とかなりの数を撞いて、お互いに写真を撮ったり楽しまれているご様子。

聞いてみるとSNSでの投稿を見て、おもしろそうなことをされているので訪ねてきましたと、県内ではあるものの、結構な距離を車で来て頂いていることがわかりました。去年はポケモンGO大流行で、見知らぬ方が来て、ポケモンをゲットしては、本堂に拝みもしないで出て行かれる光景をみましたので、それとこれでは大きな違い。とても愉快な気分にさせて頂きました。

ところで、このせいで撞きすぎたからではないですが、夕方、撞木のロープが1本切れてしまうという事態が発生。幸いにして、誰も怪我をしなくてよかったのですが、大急ぎで応急処置をして事なきを得ました。新年あけてから、4本とも新しいロープに交換したのは言うまでもありません。

うちの寺でこんなことをしたのを知って、また近隣のお寺でも同じように終日撞き放題にされていたお寺もあったようです。まだまだ宗門は捨てたもんではないですね。今年の年末もまた撞き放題やりたいと思います。

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逸話(7)白隠門下 その2-東嶺円慈(2)

前回に続いて、白隠禅師の高足、東嶺禅師の逸話から。

 


白隠禅師も晩年になるとその気力にもようやく衰えが見え、東嶺は、禅師に代わってよく修行者を激励した。禅師の晩年に参じた者は、おしなべてその道力もいい加減なものだが、峨山慈棹や頑極禅虎などは、しばしば東嶺和尚の指導を受け、そのため、物事を一目見た途端に看破してしまう敏捷な者たちである。

ある時、白隠禅師は京都の等持院の拝請を受けられたが、すでに八十四歳、老病も甚だしく、代わりに東嶺を行かせることにされた。東嶺は等持院に赴き、『人天眼目』を提唱した。四百余の大衆が集まり、大いに白隠禅師の宗風を振るった。その法会の最中、白隠禅師の遷化を知らせる訃報が届いた。東嶺は、解制後、速やかに松蔭寺に帰り、遂翁とともに葬儀を営んだ。

これは、東嶺が等持院に赴く以前の話である。
等持院の子院にいた十七、八歳ぐらいの小僧が、ひそかに北野の遊女と通じ、その情交は日に日にたかまっていった。ある夜、院主の留守をうかがい、百金の大金を盗み出し、それを袋に入れ、遊女と手をたずさえ、宵に紛れて出奔した。伏見から船に乗り、大阪に着いた。さて、懐をさぐると盗んだ金がない。
「昨夜、金の入った袋を柱の釘にかけておいたが、忘れて来てしまったか」
と、ひどくうろたえ、どうしてよいかわからず、進退、ここに窮まった。ついに、樹に縄をつるし、遊女と二人、首をくくって心中してしまった。
その夜、子院のわき部屋から、
「金の入った袋をここらにかけておいたが、どこにある。ああ、悲しい」
と、小僧の恨めしい泣き声が聞こえた。手で柱の釘をなで、壁や梁を探しながら、恨めしく泣くのである。小僧の声にまじって遊女の声も聞こえた。その後、毎夜、このようなことが続いた。その聞くも無惨な声に、子院の者は悩み続け、ついには皆な逃げ出してしまった。

ちょうどその頃、東嶺和尚が等持院に赴くことになったのである。
ある人が、子院の惨状を告げると、東嶺は、
「悩むことはない、わしがその部屋に入ろう」
と言って、その子院へ入った。すると、その夜から、幽霊の姿はパタリと出なくなった。
ある夜、東嶺は別の寺の求めに応じて子院を留守にすることになった。その時、三河の昌禅人という者が侍者であったが、この人も道力のある人で、この夜、留守番をすることになった。昌禅人が一人いると、美しい容貌の娘が現われた。娘は、
「お願いがあって参りました」
と、丁寧にお辞儀をして言った。昌禅人が、
「言ってみなさい」
と言うと、娘はこう語った。
「わたしは、この世のものではありません。実はこの寺の小僧さんと駆け落ちしたのですが、お金を忘れたために大阪で首をくくり、今になっても苦しみの世界からのがれることができずにおります。どうか、大善知識であられる東嶺和尚さまに救っていただきとうございます」
昌禅人が、
「どうして、自分でお願いしないのだ」
と尋ねると、娘は、
「和尚さまのように徳高きお方に、わたしのような卑しいものが近寄れるものではありませぬ。ましてや、わたしはあの世のものです。どうか、お願いいたします」
と頼んだ。昌禅人が、その頼みを承知すると、娘はすぐに消え去った。
昌禅人が、院に帰った東嶺にそのことを話すと、東嶺は、
「そのようなことがあるものよのう」
と憐れみ、読経のおりに浄水を設け、施餓鬼の法要をつとめ、娘のさまよえる魂を供養した。それからは、二度と幽霊が出ることはなかった。
その後、昌禅人は、若くして世を去った。東嶺は、その死を悲しみ惜しんだという。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

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逸話(6)白隠門下 その1-東嶺円慈(1)

昨年は臨済禅師1150年・白隠禅師250年遠諱として、数々の行事が行なわれてきましたが、今年平成28年が、白隠禅師250年遠諱の正当年にあたります。

そこで、白隠禅師のもとで修行していた禅僧達の逸話をご紹介することにします。まずは東嶺円慈。

 



聴松堂_113b_8A4A5341.jpg 東嶺円慈和尚は、(滋賀県)神崎に生まれた。最初は古月に参じて悟るところがあった。その後、白隠禅師にまみえて侍者となり、数年の間に、禅師の家風をことごとく会得した。しかし、その辛参苦修によって重い病気にかかり、百薬の効果もなく、死に瀕していた。病の床で、東嶺和尚は考えた、
「わたしは既に禅の宗旨を究めたが、このまま死んでしまえば、宗門に対して何の役にも立つことができぬ」と。
そこで、『宗門無尽灯論』という一書を著わし、白隠禅師に見せて言った。
「もし、この中に有益なものがあれば、後世に残そうと思います。もしまた、杜撰(ずさん)だと思われれば、速やかに火中に投げて、焼いてしまいます」
その一書を読んだ禅師は、
「後世、悟りの眼(まなこ)を開かせる、点眼の薬となすべきものだ」
と、大いに評価された。
東嶺は、かくして禅師のもとを去り、京都白河辺に草庵を結び、養生に専念した。生死の根本を明らめ、死ぬもよし、生きるもよし、運命の自然に任せて時を過ごした。
ある日、無心の胸中から、白隠禅師の日常のはたらきを徹見した。それからは病気も次第に快復していった。喜びに堪えない東嶺は、そのことを禅師に書き送った。東嶺の手紙を見た禅師は大いに喜び、
「早く帰って来るように」
と返事をしたため、東嶺の帰山をうながした。東嶺は旅装を整え、松蔭寺に向かった。
松蔭寺に帰った東嶺に向かい、白隠禅師は自分の法衣を取り出し、
「わしは、この金襴の袈裟を着けて、碧巌録を四たび講じた。今、そなたに伝える。後世、断絶させてはならぬぞ」
と伝授し、東嶺は、その袈裟を押し頂いた。
この時から、師匠の白隠、弟子の東嶺、二人協議をしながら宗旨を立てていった。〈洞上五位〉や〈十重禁戒〉など、複雑な宗旨のこまごまとした解釈は、東嶺がよくそれを成した。白隠禅師の宗旨を大成した者は、東嶺和尚であると言わなければならない。そのため白隠下では、東嶺・遂翁の二大弟子のことを、“微細東嶺、大器遂翁”と呼ぶのである。

 

『白隠門下逸話選』(能仁晃道編著)より

※写真は東嶺円慈画賛「払子図」(禅文化研究所蔵)。

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