トップページ » 2009年6月19日

-本来無一物- えしん先生の禅語教室 その8



雨に濡れる金糸梅


-本来無一物-

今回は床の間によく掛かっている、「本来無一物」という禅語についての勉強です。これは達磨大師から六番目に当たる祖師、六祖慧能(えのう)大師が述べられた言葉です。慧能の語録である『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、禅僧の語録でありながら、「経」と名づけられたほど、その取り扱われ方は破格だったことが分かります。

『壇経』はお授戒の時に慧能大師が戒壇の上から説かれた説法の記録だという形をとっています。しかし、この語録は実際には慧能の弟子の荷沢神会(かたくじんね)という人が、先生の慧能こそは禅宗の正系第六祖であると主張するために、意図的に編集した書物だとされています。

ですから慧能の人柄や思想を、なるべく北宗の代表的禅者である神秀(じんしゅう)のそれと際だって対立するように書いてあるのです。特に慧能の思想的特色は、「頓修頓悟(とんしゅうとんご)」にあるのだと強く主張しています。

五祖弘忍大師の一番弟子であった神秀は、実際に洛陽や長安といった中央で、「両京の帝師」として仰がれた立派な禅僧でした。しかし慧能の法をついだ神会などの勢いが強くて、その法が平安時代には日本にまで伝わりながら、後が続かなかったのです。

他方、中国大陸の南の方で盛んになった慧能の「南宗禅」は、神秀の「北宗漸悟」に対して「南宗頓悟」の禅と呼ばれて、唐宋の時代に中国全土に広がって発展し、宋時代に中国から受け継いだ日本の禅宗は、すべてその法を受け継いでいるわけです。

さてそういう意図で編集された『六祖壇経』のなかに、五祖門下の高足で、学問にも秀でていた神秀上座(じんしゅうじょうざ)の偈(うた)と、米搗き所で米を撞いていた、まだ行者(あんじゃ・剃髪得度しないお寺の小間使い)であった廬行者(ろあんじゃ)の頌とが並べてあります。

-本来無一物- えしん先生の禅語教室 その8の続きを読む

by admin  at 07:30  | Permalink  | Comments (8)  | Trackbacks (0)