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オウム真理教問題研究報告 2.「オウム教団」とは何か

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II.研究討議を経ての見解

2.「オウム教団」とは何か

「オウム事件」は現代人に宗教というものの恐ろしさを改めて印象づけた事件であった。しかし、このような事件をおこした「オウム真理教」なる教団が、はたして、宗教教団と言えるのか否か、この事もまた種々さまざまに論議されてきたし、現にされている。この論議は、結局、それぞれの論者が何をもって宗教と見るかというそれぞれの論者の宗教観に帰着せざるをえない。研究会構成員の各々がこれを顧みるにあたって、上松氏の話は非常に示唆的であった。氏の話で印象深くうけとったことは、先述したように、オウム教団が密教の教えを比較的忠実に実践していること、指導者の麻原自身に、マハームドラー(大死)の実践体験が決定的に欠落していること、の二点であった。オウム教団のもつこのような性格と麻原がおこした「オウム事件」とを考察するとき、「オウム教団」のある特質が浮かびあがってくる。それは、近代の性格を非常に強くもった狂信的カルト集団という特質である。この教団が、上記のように、近代ヒュウマニズムに対する挑戦というものを本質要因とし、近代社会体制に風穴をあけてそこから脱出しようとする試みであるかぎり、挑戦の対象として近代というものを含んでいるのは当然と言える。しかし、この教団は、ただ挑戦の対象として近代というものを含んでいるだけでなしに、教団そのものが、すなわち、麻原の言行および実際の修行形態とその目的それ自身が 近代的な性格を非常に強く、本質的な要素としてもっている。つまり、近代ヒュウマニズムに挑戦しながら、自らが根本的に近代ヒュウマニズムの業病にとりつかれている。そして、まさにそこに、この教団が“狂信的カルト集団”となった根本原因があると思える。

近代ヒュウマニズムへの挑戦ということは、そういう戦にむかわざるをえなくなる者の苦悩(息苦しさ)の性格からして、本来は、すべてを人間の目の高さにおいて見る人間中心主義の立場を破り超え、改めてすべてを、そして何よりも人間自身を、人間をこえた処から見なおし受け取りなおそうとする試みであるはずのものである。換言すれば、人間が、人間的な自縄自縛の業縛を脱っして、人間以前の人間という存在の元(存在の故郷)に帰り、そこから改めて“人間である”ことを、「自由、平等、博愛」という基本的人権の真の意味を、捉えなおそうとする試みであるはずのものである。これまでに現れたそういう諸種の試みは、このような超越的性格を本質としている故に、それらはすべて宗教的な様相をおびてくる。しかし、近代自然科学の示す世界観を真理として受け入れ、それを基準として、「彼の世」と「此の世」というかつての二重構造の世界観をお伽話としてしか受け取れなくなった近代人には、既成宗教のかかげる旧態のままの“神の国”や“仏国土”ないし“浄土”などというものの存在は、もはや、字義どおりには信じられない。人間的な立場を超えようとして、しかも、かつての「彼の世」はもはや信じられない近代の苦悩者がむかう方向は、自然に、深層心理学的な自己の内面ないしその背後へという方向であり、非常にオカルト的な性格の強い神秘的体験重視の方向である。日常的な“かなしばり体験”から特殊な“臨死体験”また“無意識世界”や“トランス・ パーソナル”、さらには“人間潜在性開発運動”や“チベット密教”などに対する現代人の強い興味も、このような近代人の基本的傾向をしめす現象であろう。

これらに共通する性格は、通常の意識されている自己の内奥ないし背後に、その自己を一部とする未知の広大な潜在能力ないし霊の世界が存在し、人はその能力を特定の修行ないし訓練によって開発しその世界を体験することによって、ただ意識的自己を中心に構築されている表面的な科学的合理の世界を超えた宇宙の真の運行に参入し、その神秘的無限能力を獲得することができる、といったオカルト的神秘志向の性格であり、自己と超越的世界とがつながっているという連続的思考の性格である。「オウム真理教」は、現代のこのような神秘志向の風潮を背景にした、オカルト的傾向の非常に強い狂信的カルト集団だと言える。
「解脱」を説く「オウム教団」の実際の修行形態およびその目標とするもの(尊師麻原の位置)を見ると、上記のごとき現代の新しい神秘志向の性格、すなわち、意識的自己を通してその背後にという性格、換言すれば、従来の科学的合理性ではとらえられない、そういう意味で、科学的合理性を超えてその背後に隠され秘められてある神秘的で超越的なものを知り捉えようとする(すなわちオカルト的な)性格が色濃く出ている。

彼らの言う「解脱」とは、自己を超えてその背後に何か客観的な存在として広がっている神秘的世界を体験してその神秘的能力を獲得することを意味している。かかる「解脱」観に根本的に欠落しているのは、そのような神秘的世界をあこがれ求める自己への反省の眼差しである。平田老師がオカルトを評して、科学的合理的な因果律では解決のつかない問題を別の因果関係で捉えようとすると言われていたように、彼らの眼差しはつねに自己の先へ先へと注がれ、その事によって、その眼差し自身が自己の業縛そのものであることに気づかず、自己の描きだす妄想と幻想の中へ迷いこむ。人間という存在はこれほどまでに業縛の深い我執の存在である。彼らはこの事実に気づいていない。彼らは、近代ヒュウマニズムという人間の業縛を破り超えようとして、別の人間的業縛の世界に深く囚われて行ったと言える。彼らが、自己の背後に諸種の神秘的超越世界を描きだし、それを体験しつくして絶大な神秘的能力をえようと努めれば努めるだけ、彼らは自己をひきずり人間的業縛をひきずっている。かつて人類はこのようなオカルト的な呪術宗教の段階を経験してきた。そして、この人間的な業縛の深さに自身が気づいたとき、その時に、人類は真に宗教と言いうる世界に入ったのである。それは、人間として生きるかぎり我執の世界にさまよわざるをえない己れの在りように悲しみ、その悲しみの中に開かれてきた“祈り”の世界であった。“祈り”は、己れの我執を捨てさって、一切をつつみ生かす“永遠の生命”の許に諸共に生かされたいという人間の切実な願いの表明である。この時に始めて人類は、人間的な業縛をつつみ超える真に超越的なるものに出会ったのである。宗教の世界とは、こういう“祈り”によって開かれてきた世界のことである。

しかし、「オウム真理教」には、この“祈り”がなく、人間の人間としての悲しみをつつみ抱く世界がない。彼らは「四弘誓願」の世界のあることを知らないのである。この事は、麻原には自らが説くマハームドラーの実践体験が根本的に欠落しているということによって象徴的に示されている。「オウム教団」は、現代社会において何らかの意味で“人間であること”の息ぐるしさを感じた者の集団でありながら、自己のその苦悩を“人間であること”の苦悩として受けとめ、その事によって始めて人間を人間としてつつみ抱く世界が開かれてくることを知らない集団である。彼らは超能力をえて“息苦しさ”を脱し“人間であること”を否定しようとする。そこに彼らの“選民意識”の幻想と“ポアの思想”が生まれてくる基がある。この彼らの姿を目のあたりにしつつ自らの立場を顧みるとき、「われわれ」は、「自信とは言っても、われわれに特殊なものがあるわけではない。不安の中で誠実に禅僧としての日常生活を尽くして行く以外にない」という平田老師の発言の意義を尊く受け取り、改めて「仏法に不思議なし」という祖師の言葉を噛みしめる。

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