公益財団法人 禅文化研究所

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調査研究

オウム真理教問題研究会 第6回研究会

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禅文化研究所前所長・平田精耕天龍寺派管長の話

宗門の代表者の意見を聴いてこれまでの研究討議の参考とするため、禅文化研究所前所長の平田精耕天龍寺派管長を招いて率直なご意見を披瀝してもらい、それを軸に研究討議をなすという形で研究会をもった。平田管長が披瀝されたご意見は概ね以下の二点に集約される。すなわち、
今回の「オウム事件」は単に突発的な一過性のものではなく、その背景には歴史的必然性があるものと考えねばならない。それは、すでにシュペングラーがその著『西洋の没落』で指摘しているように、科学技術の極端な発達の裏面としてオウム真理教のごときオカルト宗教が台頭してくるということである。ヨーロッパでは自分が留学していた30年ほど前から、例えばニュウレリジオンと呼ばれていたマリヤ信仰を中心とするものなど、すでにオカルト宗教の台頭してくる兆しがあった。
フランスの人類学者ストロースが言っているように、「科学とオカルトとは同根」だと言える。すなわち、科学的合理性をもった因果律では解決のつかない問題を、例えば何かの霊のたたりであるとかと言うように、別の因果関係で捉えようとする。また逆に、科学が明らかした宇宙現象の謎を、立場を飛躍してチベットの曼陀羅に比類させて理解しようとするニュウサイエンスと称するものも出てきている。このような歴史の傾斜を洞察することを通して「オウム問題」の真相も明らかになるのではないか。
 
「オウム事件」に対する「われわれ」の立場がこの研究会で論議されていると聞いているが、禅僧としての自信が対応の基にならなければならぬ。自信とは言っても、「われわれ」に何か特殊なものがあるわけではない。不安の中で誠実に禅僧としての日常生活を尽くして行くこと以外にはない。確かに現今の禅宗教団の体質は変化してきており、他の分野と同じように寺院育ちの二世、三世の時代になって、かつてのような鍛えぬかれた禅僧の気質を喪失しかけている。これを如何にするかは「われわれ」の課題であるが、その場合に基礎となるのは、やはり、僧堂の日常生活であると思う。禅僧の生活の原型は何といっても僧堂にある。しかし、檀家寺の住職が僧堂そのままの生活を送れないこともまた当たり前の事である。原則をどのように応用して禅僧たりうるか、ここの処をこの研究会などでよく考慮していただきたい。
 
概ね以上のご意見をうかがった後に、ご意見の基調ともなっていた“時代から宗教を問い直すだけでなしに、宗教から時代を問い正す”という、この双方の視線の交わりということが討議の中心となり、改めて禅僧としての社会参加の欠如(例えば阪神大震災に遭遇した時、禅僧として何をなしえたのかという反省など)が問題にされる一方、日本では戦後の公教育において宗教的情操教育があまりにも等閑にふされてきたことが問題となった。