公益財団法人 禅文化研究所

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文献の調査に関してのお問い合わせと、その回答を掲載します。

更新日[2012/2/3]文献調査

備後福山の正寿寺について
  • 白隠禅師 22歳のとき備後福山の正寿寺で正宗賛会に参加した とあります。この備後正寿寺が どこにあったのかを探しております。
    備後地域のいくつかのお寺、教育委員会など、たずねましたがわかりません。
    情報がありましたらお教えいただきたいのですが。
    22歳ではなく、23歳かと思われます。
    たしかに、『白隠年譜』および『白隠年譜』草稿によれば、白隠は、宝永四年(1707)二十三歳、福山正寿寺に行ったとありますが、正寿寺は未詳です。
    しかし、『八重葎』巻之三では「備の福山天祥」としています。天祥寺(山号:海東山)であれば、元禄13年、出羽山形より備後福山に移封された松平家(奥平松平氏)の菩提寺で、宝永7年には松平家が桑名に転封されたので、天祥寺も同地に移されました。
    その後、文政年中には、松平忠堯の武州忍城に移封後、天祥寺もまた、天保8年、忍(埼玉県)に移転再建されました。
    現在の天祥寺の所在地は、
    〒361-0025 埼玉県行田市埼玉5209-1
    です。
    参考になればと存じます。
「丹竈をひっくりかえすという時節が到来」の意味について
  • 数年前に白隠禅師法語集第三冊『壁生草』を購入しました。その中の107頁において、「丹竈をひっくりかえすという時節が到来」とあります。どのような意味でしょうか?数年前から引っかかっております。お教えいただけるとありがたいと存じます。
    296ページにあります注(3)も参照していただければと思いますが、自己の内側の丹を練り養うことができるようになれば、外側の丹(仙人が作る丹薬)など必要がないから、これまで大切にしてきた外丹を作るための竈など無用の長物だと気が付き、それをひっくり返し(ぶち壊し)て使えなくしてしまうことになった、ということです。
    もっと言い換えれば、内観の法を知ることによって、すべては一変することを言い表していると言えるのではないでしょうか。
竹圃和尚について
  • 20110623.jpg
    讃は賢江祥啓 (啓書記)の絵にあります。読みは大体分かりますが竹圃叟と落款が不明です。
    建長寺の竹圃和尚(室町時代 c1500年)の経歴と資料は有りましたら教えて頂ければ幸いです。
    また、この二人は同時代の人でしょうか。
    添付いただきました写真を見せていただきましたところ、署名の部分、「前福山竹圃叟聖珪賛」と判読しました。
    竹圃聖珪という僧侶であれば、京都の東福寺の『慧日山東福禅寺宗派図』に発見できました。
    ……虎関師錬-竹翁師泊-月川師濟-東岳師昇-竹圃聖珪
    という法系です。ただ竹圃の後は法系が途絶えているようです。
    残念ながら、彼らの生没年が不明なので、同時に生存していたかどうか、確たることは申し上げられません。
    賢江祥啓は、室町時代の画家であることは分かっており、1478年に上京したことや、1480年に「観爆図」(重要文化財)を描いたことがわかっていますが、竹圃聖珪が記載されている『慧日山東福禅寺宗派図』でも、名前が列記されているだけで、生没年など詳しいことは一切記載されていませんし、他に伝記の類を見つけ出すこともできていません。
    法系で最寄りの禅僧は、虎関師錬(1278-1346)で、そのあとの竹翁師泊、月川師濟、東岳師昇、竹圃聖珪については、現時点で伝記を探すことができていません。ただ、推測として、虎関師錬から下ること5代であるので、およそ同時期になる可能性はあると思います。
『詩文切玉 對類正宗』について
  • 「詩文切玉 對類正宗」という製本されたものが一巻から八巻まで一束になってあるのですがどういうものか教えてください。形状は右とじの水色の表紙縦約14cm横約8cmの中身は漢字だけの小さな本です。
    お申し越しの「對類正宗」ですが、類書(内容を事項によって分類・編集した書物)の一種で、詩文に見える言葉の平仄(ひょうそく)等を提示した本のようです。訓点は、豊島洞斎(毅)(幕末・明治の漢学者。明治36年、83歳で沒)によります。
夢窓国師のいう「関山国師の宗風は、将来、我が宗風よりも大いに盛んになるであろう」の出典は?
  • 夢窓疎石が、ある時、ある土産をもって大燈国師のもとを訪ねた時に、問答があり、その後、夢窓疎石は、
    「大燈国師の宗風は、将来、我が宗風よりも大いに盛んになるであろう」
    といった趣旨のことを言ったそうです。この内容が書かれた書物を探しているのですが、見つかりません。

    大燈の語録にあるのでしょうか、他の語録にあるのでしょうか。
    お手数ですが、問答のやりとりの内容と、出典を、お教えいただけないでしょうか。
    お申し越しの件ですが、夢窓と大燈のやりとりではなく、夢窓と関山(妙心寺開山)の件ではないかと存じます。

    『妙心寺史』(川上孤山著、1975年刊)に「夢窓一日輿駕して妙心の門を過ぎ、偶、大師(関山)自ら帚を手にせるを覗い後、日日東に冠絶するものは関山の児孫かと嗟嘆したのも、全く至言と謂うべきものであろう」(p.64)とあります。

    これの出典は、文言は多少異なりますが、『甲子夜話続編』巻16(東洋文庫)所収のものだと思われます。
『槐安国語』にある「龍聚鳳翔」は誰の言葉?
  • 禅語の言葉「龍聚鳳翔」の出典は『槐安国語』ですが、誰の言葉か分かりません。白隠の言葉なのか、大燈国師なのか?それともまた違うのか調べて頂きたいのです。
    大燈国師の言葉です。正しくは「龍驟鳳翔」です。
    『大燈国師語録』「三月半遊山囘、謝首座維那并龍翔塔主上堂」の中で出て参ります。
夢窓国師の禅を「未だ教綱の域を出でず」と批判したことの出典は?
  • 大燈国師が、夢窓国師の禅を、「未だ教綱の域を出でず」と批判したことがありました。
    この語の典拠を調べておりますが、見つかりません。
    大燈国師の語録かなとも思うのですが、見つけられておりません。
    どこに載っているものなのか、お教えいただけないでしょうか。
    お申し越しの件は、大燈国師が夢窓国師を批判しているのではなく、花園法皇が夢窓国師のことを批判していることであろうかと思われます。

    柳田聖山著「日本の禅語録」七、『夢窓』、講談社、34頁によると、「花園天皇宸記」正中二年十月二日の裏書に、花園天皇が夢窓を宗峰妙超と比較して言及している部分があり、当該書に引用されています。
仙厓和尚の「わしは川端菓子が好き」の出典は?
  • 貴財団出版の「仙厓和尚逸話選」中にある項目の典拠を知りたくメールを致しております。
    同書169ページに「ワシは川端菓子が好き」との章段が見られます。この逸話の出典を知りたいのですが、わかりますでしょうか。
    『仙厓和尚逸話選』の「衲は川端菓子が好き」の出典は、倉光大愚著『仙厓和尚臍ッ骨』(昭和五年、柏林社発行)です。