荒けずり -『いのちのシャワー』松田高志著-
おはようございます。
“私事”な記事が多いのですが、お付き合い下さいますと幸甚に存じます。
日曜日は、個人的に開催している勉強会の日でした。
私の大学時代の恩師、松田高志先生におこしいただき、著書『いのちのシャワー 人生・教育・平和を語る』を読んで、皆で感想を話し合っています。
大学時代にもこの本はゼミで一度学び、卒業後も何度かページをめくってはいるはずですが、その時心に響いて残っているもの、忘れているもの、様々です。
今回は“荒けずり”というタイトルのお話を読みました(以下に要約を)。
歴史上の偉人や英雄の生き様から、我々は多くの事を学び、感動を与えられますが、そういった人々にも、がっかりする一面があったりします。
これを、例えばその人の偉大な行為まで偽善的なものであると全否定したり、あたかも大人物であるかのように「清濁合わせ飲む」式に肯定するのは、どちらも釈然としません。
しかしある時、次のような文章に出会い、なるほどと思いました。その著者によれば、ベートーヴェンの音楽は人類の最高の音楽であり、そのひびきは宗教的に極めて深いものであるのに、人間としてはどうしても首をかしげたくなるようなところがあって、その事が気になっていたが、いつからか、ベートーヴェンには彼の役割というものがあり、その他の面では人間として荒けずりであったと思えるようになり、納得することができた、と。
これは、偉人とか大人物に限ったことではないように思います。我々誰もが、この世において何らかの役割やテーマのようなものをもっているといえるかもしれません。もしもそうであれば、どうしてもそちらの方に力が入るというのはやむをえません。しかしだからといって、その他の面でどうでもいいということにはならないでしょう。他の面も一生懸命にやったけれども、結果として荒けずりになったというまででしょう。
ともかく誰の場合であれ、一所懸命生きていても荒けずりなところは出てくるでしょうし、又それでその人の値打ちが下がるというものでもないように思います。
人間が成長し、人格が高まっていくということは、単に直線的でなく、もっと立体的なものではないかとこの頃思っています。
私達は……というよりも、正直私がそうだと思うのですが、自分のものさしで図ってみて、何かができていない人を批判してみたり腹を立ててみたり、自分の枠にあてはまらない人を扱いにくい人と認識してみたり、とかく人とは(というか、やはり私なのですが)自分勝手なものです。
家族、友人、職場の人、あらゆる人と関わり合って生きてゆく中で、良い面悪い面、色々見えてくるかとは思いますが、“荒けずり”と見る事ができたならなんだか素敵ではないか!と心軽く嬉しく思った次第です。
日本人は特に、荒けずりに寛容であると思います。それどころかそこに“美”や“何ものにも代え難い魅力”まで見いだします。円空さんや木喰さんの荒けずりの仏像を思い出したのです。洗練され、完璧に研ぎ澄まされたものよりも、どこかあったかく感じる……。きっと、荒けずりな面があるからこその魅力というものが、人にもあるのでしょう。
もちろん、自分にも大いに荒けずりな面がありますので、そのあたりは周りの皆様にもそう思っていただき寛容に受け止めていただけたら……とお願いをして、今日はお別れの御挨拶とさせていただきます。