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『禅文化』215号 技を訪う―仏具木地師 加計穣一-

日々の生活で出会った素晴らしい職人さんを、季刊『禅文化』にてご紹介しています。本ブログでもご紹介させていただきます。
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季刊『禅文化』215号より
“技を訪う―仏具木地師 加計穣一(かけ・じょういち)”  川辺紀子(禅文化研究所所員)

 ある日、三重県名張市の知人から、「近所に知恩院の立体曼荼羅の製作に携わった素晴らしい木地師さんがいるから、是非会いにいらっしゃい」とお声がかかった。比較的新しい名張の住宅地に、知恩院に関係する仕事をされる職人さんがいらっしゃるとはどういうことなのだろう、と少し怪訝な気持ちだった。“京都の寺社関係の職人仕事”は、当然ながら京都の職人が携わるという思い込みがあったからだ。ともかくお伺いして、お仕事を拝見させていただくことにした。
 “木地師”と聞いて、まず思い浮かんだのは、漆を塗る前のお椀やお盆などの原形を作る職人さんだった。今回ご紹介いただいた加計穣一さんは、“仏具木地師”といって、寺社にまつわる“木”のもの――さまざまな仏具をはじめ、格天井、華頭窓、厨子、賽銭箱などの下木地部分を何でも手がけられている。扁額などは最後の仕上げ(彩色)までやることもあるそうだ。もちろん家庭用の仏壇仏具、神棚なども作られるし、古い曲彖や仏像の修復まで手がけられる。仏師ではないため仏像本体を作ることはないが、仏像の修復時には、台座や光背まで作り上げる。“木にまつわる寺社の仕事”と一口に言っても、その幅の広さには目を見張るものがあった。

 そんな加計さんが取り組まれた大仕事が、知恩院所蔵の「観経曼荼羅絵図」(重文)を木彫で立体的に再現するというプロジェクトであった。三重県伊賀市にお住まいの、現代を代表する仏師、服部俊慶師が知恩院から依頼を受け、須弥壇や厨子等の木地部分を、信頼する加計さんに任されたらしい。この実現には、仏像を彫る仏師、須弥壇や八角厨子を設計・製作する木地師の他に、彫刻師、塗師、蝋色師、彩色師、箔師、錺金具師など、総勢三十五人の職人の一流の技が駆使され、二年半がかりで完成。二〇〇一年四月十六日に知恩院の月光殿で開眼法要が営まれた。極楽浄土の荘厳が我々の眼前に再現されたわけである。夫人のヤトさんや、木地師の仕事を継承するご子息の善映さんもこの仕事を支えられたという。
 「平面に描かれている曼荼羅を、立体遠近法によって再現する」。言葉で聞いただけでは想像できないので、実際に写真を見ながら、加計さんに説明してもらった。「立体遠近法ですから、奥へいくにつれ小さく、また四十五度の傾斜をつけ、仏像を配置できるように設計し、微妙な調整を加えつつ作るわけです」。しかし、計算ではじき出された数値どおりに作れば良いというものではないようだ。微妙な調整には職人の研ぎ澄まされた感覚と高度な技が要求されることは、容易に想像できる。

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 加計さんは、昭和二十三年、戦後の困難な時代に、手に職をつける方が良いというおとうさんの考えで、京都の木地師の所へ十五歳で奉公に出された。お話を伺っていて、ふと、「いったい、今おいくつなのだろう」と疑問が湧いてきた。背筋はいつもピンと張って、肌も艶やかだから、六十代半ばと思い込んでいたのだが計算が合わない。実際は七十五歳と聞いて仰天した。「難しい依頼がくるほどワクワクして、よし、挑戦してやろうと思うんですよ」と、楽しそうにお話される。「この仕事が好きでたまらない」というお気持ちがこちらにも直に伝わってくる。常に頭と手を使って仕事に取り組まれる探求心と柔軟性、加計さんがお若いのは当然だなと思った。
 十二年ほど修行して、京都で独立。腕を買われて仏具店の依頼でさまざまな仕事をしておられたが、良くも悪くも古い慣習が残り、何代も続く職人が多い京都では、やりにくいことも多かったという。そんなころ、京都から離れて自分の旗を掲げてみようかと一念発起し、たまたまドライブで通りかかったのが、名張市内の当時の新興住宅地だった。一目で気に入り、「よし、ここに住もう!」とすぐに心が決まったという。

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by admin  at 07:30  | Permalink  | Comments (0)  | Trackbacks (0)