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-拈花微笑- えしん先生の禅語教室 その1

白梅
禅寺に咲く白梅

ブログを覗きにくる何人かの人から、禅のことをもっと分かりやすく教えて欲しい、と書いてこられていますので、所長みずから初歩的な禅語を選んで、なるべく易しく説明させて貰おうと、本日より教壇に立ちました。
生徒さんが増えて、教室が一杯になってもそれは構いません。どうぞ遠慮なくどんどんお入りください。そして聞きたいことがあれば、手を挙げて質問してください。

まず今回は、禅宗の根本から始めることにましよう。仏教にはたくさんの宗派があります。その中で禅宗の特色は何ですか、と聞かれるならば、「法の灯」つまり「仏陀の慧命」(悟りの中味)を、心から心へと大事に伝えてきた唯だ一つの宗派です、と答えたいですね。
とにかく禅宗は、お釈迦さまのお悟り(これを特に正覚とか大覚とかいう)を、二千五百年のあいだ、一器の水を一器に移すように丁寧に伝えてきたのです。だから他の諸宗派を「教宗」(何らかの経典を拠り所にして立宗開教されたもの)というのに対して、禅宗では自分のことを「仏心宗」などと呼んでいるのです。

そういう「禅宗特有の伝達方式」の先蹤(せんしょう・先人の事跡)が、今回の「拈花微笑」(ねんげ・みしょう)という話です。

あるときお釈迦さまが、いつものように説法の壇に登られると、今日は何もお説きにならず、信者さんの誰かが供えた金波羅華(こんぱらげ)という花を一本取って、それを黙ってスッと高く持ち上げられたのです。これが拈花(花を拈じる)ということですが、集まってきた聴衆には、それが何のことかさっぱり分かりません。

ただ摩訶迦葉(まか・かしょう)というお弟子さんだけが、何が分かったのかにっこりと微笑まれたのです。これを「破顔微笑」(はがん・みしょう)と言うのですね。するとお釈迦さまが、「私の体得している真実(正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門)を、いま摩訶迦葉に伝える」と、大衆の前で宣言されたのです。これが「以心伝心」の始まりです。禅宗はこの拈華微笑という伝達の仕方によって伝えられてきたのです。

伝えると言っても、自分の心というものはどんなにしても他人に伝えることはできません。もし伝えられたとしたら、それはもう心ではなくて、心が何らかの形として表されたものです。それはもう心そのものではありません。そうです、心はもともと伝えることは出来ないのです。しかもそれを伝えるのが禅宗です。だから禅宗では、「仏祖不伝の妙道を自分の胸に引っ掛けよ」(仏や祖師たちが伝えなかった素晴らしい真実を自分のものとして生きよ)と教えているのです。これがつまり「不伝の伝」という伝え方ですね。

最初から難しい話になりましたが、だんだん分かってきますから、辛抱して下さい。

禅文化研究所 所長 西村惠信

紅梅
禅寺に咲く紅梅


*「えしん先生の禅語教室」は、1~2週間に1度のペースで更新予定です。お楽しみに!!!

by admin  at 08:30
コメント
  1. こんにちは、禅語のレクチャーをしてくださるそうで、今後の訪問が楽しみになりました。

    禅宗はお釈迦様の悟りを「一器の水を一器に移すように伝えてきた」とのこと。伝えようのない心を一滴も漏らさず伝えるものが「公案」なのでしょうか? 厳しい修行をしないと自分の器に移すことが出来ないのであれば、せめて禅僧の方の器からスプーンで一すくいできるよう学びたいと思います。

    by ドイル  2009年2月20日 11:22
  2. 悟りの心は直接に伝達できません。ただ坐禅によって自己の脚下を掘って、自己の外へ出たところで、釈迦や達磨に出会うのです。それが禅の伝達です。
    だから公案に参究するのではなく、公案によって自己を究明するのです。

    西村惠信

    by 西村惠信  2009年2月23日 11:04
  3. 御質問いたします。
    「悟り」とは一度きりなのでしょうか
    それとも新たに新たにと求め続けるものなので
    しょうか

    by こじ  2009年3月10日 14:56
  4. こじさん、コメントをありがとうございます。
    禅に於ける悟りの重要性を強調した宋代の大慧禅師は、自分の体験について『大悟十八返、小悟その数を知らず』と書いています。
    たとえ悟りを開いてもそれに満足してしまっては、独りよがりの鬼窟に墜ちてしまうでしょう。
    禅では悟りの後の修行(悟後の修行)こそが大事なのです。死ぬまで修行です。どんな悟りが待っているか楽しみですね。

    by 西村惠信  2009年3月12日 13:46
  5. ご回答ありがとうございます。
    もう一題お伺いしたく、メールさせて戴きました
    隻手音声について
    私は妙心展で白隠禅師の「達磨」の画を拝見し
    思うところがありました
    隻手音声はこれを出す師にとってこそ、最も重い公案なのではないかと思ったのです
    師の仏心が受け手に伝わらない限り、受け手は永遠に師からの音を聞くことができないのではと思った次第です。
    ならば受け手の出す隻手音声が先に師に伝われば
    それはそれということなのでしょうが。
    師弟共に同時に音を得ることができるところまで
    せめぎ合い切磋琢磨するというそら恐ろしいもの
    の様に感じたのです。
    いかがなものでしょうか。

    by こじ  2009年3月17日 15:57
  6. ご質問の主旨がよく分かりませんが、ともあれ公案に関する限り、内容についての詮索は室内の密事でありますので、悪しからず差し控えさせていただきます。


    西村惠信

    by 西村惠信  2009年3月18日 11:19
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