公益財団法人 禅文化研究所

English Site

  • 調査研究
  • 刊行普及
  • 資料収集
  • ソフトウェア

調査研究

オウム真理教問題研究会 第4回研究会

このエントリーをはてなブックマークに追加

アンケート I の結果報告と問題点の検討

前回の討議結果に基づき、各構成員に以下のごとき事項について、一禅僧としての率直な意見をよせてもらい、それらを検討集約するという仕方で研究討議をすすめた。その事項の主たるものは、
 
現在の臨黄教団において最も欠如しているのは何であると考えるか
1) 布教に関して
2) 寺院の在り方に関して
3) 教団組織(本山と派内寺院関係)に関して
 
オウムの一般信者に対して今如何に対応しうると考えるか
1) 禅僧として
2) 教団として
 
等であった。これらの事項についてよせられた諸意見を大きく、
 
  1. オウム信者への緊急対応
  2. 「われわれ」のなすべき・なしうる「何」
 
の二つにわけて以下のごとくに集約した。

1.「オウムの一般信者」への緊急対応について 
「オウムの一般信者」(社会的犯罪行為をなしておらず刑事事件に加担していない信者)の中に、何ごとかを求めて禅宗寺院の門を叩く者があれば、各寺院住職は事情に応じて受け入れ、禅僧としての対応をなすべく努めるのを基本とする。
 
その対応は、現在彼らが精神的社会的に抱えている特殊事情をよく配慮して彼らのためにも慎重になすべきであるが、基本的には、檀信徒および一般人に対してなすべき布教活動と本質的に同一のものであるべきである。すなわち、一方では、「オウム信者」だからと特別視する自らの姿勢を払拭するとともに、他方では、檀信徒および一般人に対して禅僧として持すべき姿勢およびなすべき布教のありようを顧みて、両方の間に齟齬なき平常底において対応すべきである。
 
各寺院においては、上記のごとき「日常底」において受け入れるのを基本とするが、「オウム信者」の個々の事情によってその受け入れにも種々の程度があると推測される。そこで、各教団の教学部を窓口として、ある寺院の受け入れ可能な程度を越える事情のある者には、適当な別の寺院ないし機関を斡旋できるよう各教団が協力しあって体制を整えるとともに、例えば寝食の世話など全面的な受け入れを可能とする寺院ないし機関が、その所属教団などに精神的・社会的・経済的など種々の支援を求めざるをえなくなった場合には、当該教団および臨黄の各教団は、それぞれの事情に応じて出来るだけの支援をなすべく努めることとする。
 
2.「オウム問題」が突き付けた「われわれ」のなすべき・なしうる「何」 (1)一住職・一禅僧としての「何」
寺院の大半は、軽重の差はあれ基本的に、現在もなおいわゆる檀家制度、言い換えれば、祖霊をまつる“家の宗教”に依存する仕方で存続がはかられ、住職の布教活動も檀家の葬式と法事とを執り行なうのを主たる事としている。“家の宗教”それ自身には、例えば家族・家庭の一体感を助長し、家族・家庭を歴史的(祖先)社会的(親族)に安定させるなど、現代においては再評価されるべき働きもあるが、「われわれ」の問題点は、これをただ江戸時代の“寺受け制度”以来の社会習俗そのままに受容し、そこに安住して、何ら基本的な見直しをなさずに今日まで来たという点である。換言すれば、「われわれ」の意識には近代という時代が明確には入っていないということである。すなわち、明治以降、例えば真宗教団などが取り組んできたような“家の宗教”から“個人の信仰”に焦点をあわせた新たな布教活動、いわゆる教義・教団の近代化運動をこれまで「われわれ」は一度として真剣に展開してこなかったということである。この故に、上記のごとき現代における“家の宗教”の再評価も真にはなしえない状態にある。
 
「われわれ」は自らの基本的立場を、「直指人心・見性成仏」という個々人の最も主体的な宗教的自覚の事実に見出だし、「一箇半箇」という峻厳きわまりない「見性」のための主体的教育課程を伝統的に堅持し実践してきながら、この自らの立場と実践経験を近代的な“個人の信仰”の確立に生かし展開する教義ならびに布教方法を構築せぬまま今日まで無為にすごし、ただ檀家制度と“家の宗教”の旧習に安んじてきたのではないか。しかし単に旧態のままなる“家の宗教”は、情報化の急速な発達とグローバルな経済活動の展開など生活環境の変化によって「われわれ」の足下でその崩壊の度をはやめてきている。

このような歴史的社会的情況下にあってなお禅宗寺院ならびに宗門の存在意義を発揚せんとするならば、「われわれ」一人ひとりが自らの意識を革新して檀家制度と布教活動を根本的に見直し、檀家との新たな関係を構築して行く必要がある。
 
禅僧もいまや、その大半の現状において、妻帯し、しかも檀家制度に立脚している寺院の現状において寺庭婦人の持つ役割には種々の面において大きなものがある。しかし、この現状に多くの問題が含まれていることも事実である。基本的な問題としては、禅僧の妻帯そのものが教義上いまだに明確にされておらず、寺庭婦人の地位もただ現状の追認という仕方でのみ各教団が是認しているにすぎないという問題がある。にもかかわらずと言うべきか、むしろその故にと言うべきか、他面では、寺院がいわゆる寺族にとって快適な家庭と化す傾向が強まっており、檀信徒にとってすら気やすく出入りできない私的な空間になりつつある。寺院は檀信徒に対してのみならず万人に対して常に開かれたものであるべきである。私的に閉じ行く現在の傾向を打破して寺院の解放をはかるには、住職をはじめ寺族各人の寺族としての自覚と強い使命感とが不可欠である。しかしまた、この自覚と使命感の確立には、その根拠となる禅僧の妻帯の教義的な明確化がはかられねばならない。
 
住職(禅僧)の日常生活、寺院のたたずまいは、禅宗の何たるかを示す布教そのものであり、その最前線の活動である。この意味においても、朝夕の看経・坐禅・作務という禅僧としての日常生活が再確認されるべきであり、掃除のゆきとどいた寺院のすがすがしさの意義が再認識される必要がある。西洋において朝夕町にひびく教会の鐘の音が、今日もなお市民生活に深い安定をもたらしているように、何処からともなく聞こえる朝夕の梵鐘の響き、木魚の音は、今日もなお地域住民に言い知れぬ安心感をあたえ、黙々として弛まぬ禅僧の日常が尊き思いを喚起することには変わりがない。この事を「われわれ」自身が衿をただして自覚しなおす必要がある。
 
(2)教団としての「何」
「出家」と「悟り」を建前とする禅宗も、寺院を構え教団を組織している以上その現実的足場を歴史的現実社会に有している。しかし従来は、禅僧個人の意識においても、また教団活動においても、この歴史社会における自らの位置と責任とを、無視はしないまでも、単に付随的なものとして軽視してきた経緯がある。その端的な例は、各教団に僧と寺院の位階制度・管理規定はあっても、寺院が地域社会において担い果たすべき宗門上の任務と役割を明確にした寺院論、および、それらが教団という一つの社会的組織を結成しているその意味と教団の宗教的・社会的任務等とを明らかにした教団論がなく、またこれらの事が正式に論議された経緯もこれまでにないということである。

「われわれ」は開山祖師の恩によって寺院の住職となり、開山祖師の縁故によって教団を組織してきたが故に、開山祖師の御徳の顕彰には熱心であった。しかし、開山祖師がそこに寺院を建立してなそうとされた真意、すなわち、歴史的現実社会(衆生)の安寧と救済というその誓願を、「われわれ」の時代において受けとめ直し生かすという真の顕彰の努力を欠いてきたのではないか。臨黄の各寺院・各教団が、今日ではもはや、社会の一風景にすぎなくなったと言われる原因は、「われわれ」宗門人のかかる努力と自覚の欠如にあることを深く反省する必要がある。
 
現代社会における信仰基盤の根本的な変化(科学的自然観・世界観を基礎とする近代の文化、技術の発達による便利で豊な社会生活、高学歴社会など)を認識してそれに的確に対応しうる布教活動の指導教育がなされていない。

そもそも臨黄教団には、上(“家の宗教”から“個人の信仰”へ)でも少し触れたように、このような問題についての本格的な研究機関が設けられていない。従来、各教団はこの変化に気づきつつも、この事への対応は各寺院住職および布教師各人の見識にいわば委ねるという仕方で、この問題の本格的な検討を回避してきた。しかし、事態はすでにかかる教団の姿勢を許さないところに至っており、布教の最前線にいる各住職の教団中枢(本山)の宗務行政に対する信頼の喪失は今や絶望にかわりつつある。特にこの傾向は、ある面では当然の事ながら、各教団の若く覇気ある住職たちに強く、彼らは、もはや教団を頼りにせず、教団とは無関係に独自の組織を形成して、いま自分たちに何が出来、何をなさねばならぬかを真剣に模索し始めている。

各教団の内外の事態は各教団にとって危機的である。各教団、特にその中枢を形成している機関(本山)は、改めて自らの存在意義を根本的に問いただすべき状況下にある。そういう作業としてなすべき基本的な事には、先ず、各教団の組織体制(本山と派内寺院関係など)を、例えば布教活動など具体的な事項にそって見直し、相互の支援体制を新たに構築するなど、各教団が新たな力を生み出しうる新たな体制を構築すること、また、臨黄各教団が協力しあって、信仰基盤の根本的な変化に対応しうる教義と実践方法ならびに上記のごとき寺院論・教団論など、宗門の基本問題に関する本格的な研究機関を設けるとともに、各教団内ではその研究成果を宗務行政に的確に反映せしめる体制を構築すること、等がある。
 
専門道場における参禅修行という伝統的修行形態は今後も禅宗の根本となるべきものである。しかし臨黄各教団が上記のごとき自らの革新と所属僧侶および寺族の意識の向上を継続的にはかるためには、各教団あるいは臨黄教団の連合において、例えば以下のごとき対策を講じる必要がある。すなわち、
  1. 宗門の基本問題をグローバルな視点から研究しうる禅僧の育成機関の設置とかかる研究者への援助体制の構築
  2. 住職および寺族の資質向上を目的とする研修体制の確立
  3. 現在の布教活動を根本的に見直し、なされるべき布教活動と布教師の研修教育をはかる機関の設置とその機関への援助体制の構築。
  4. 教団内の組織改革の程度を点検評価する機関の設置とその権限の明確化
 
(3)対社会活動(布教)としての「何」
これは上記(1)および(2)の事項と不可分である故に、この「何」についても既に基本的な問題は上に示されている。ただ布教という面から問題を摘出すれば、早急に着手すべきものとして、以下のごとき事項がある。

布教の基本となるのは上記のごとく禅僧の日常生活、寺のたたずまいであり、これが布教活動の最前線である。これは現在も変わらず、また教義に関する新たな研究が進んでも不変である。住職および寺院の在りようをかかる面からも見直し、各教団と所属寺院住職の双方が日常的布教活動の全般にわたる相互の協調支援関係を確立する必要がある。
 
寺院を万人に解放することが布教の第一歩である。しかし、そこには種々の問題がある。例えば、解放と管理(住職の位置)の問題、寺族の位置の問題、各寺院の檀家を基盤とした地域社会における位置(寺檀関係)の問題等々がすぐに浮上してくる。従って「寺の解放」といっても、「如何になすのが解放か」ということは一概には言えない。しかし、現状においてただ一つはっきりしておかねばならない事は、寺院が寺族にとってのみ心地よき家庭の場であってはならないという事である。寺院の解放の第一歩は各住職および寺族のこの自覚から始まると言える。禅僧が社会に何を発信するとしても、それは万人に解放された寺院が発信基地になることによって初めて可能となるであろう。
 
「寺院の解放」は、寺院を単なる“儀式場”として解放する方向に計られるべきではなく、寺院が“心の道場”という意味をもつ方向に計られるべきであろう。このためには、例えば上記のごとき新たな教義・実践の研究や寺院論など理論的な基礎づけと各教団内部における組織上の支援体制(上の住職研修なども含めた)の確立などが計られる必要があるが、これらの事がどれ程の成果をもつかは、最前線に位置する各住職の自覚にかかっている。
 
布教活動に関して教団レベルでなさねばならぬ事には、すでに上で述べたように、

(a) 教団内での意志疎通が促進されて相互支援体制が組めるように組織改革をなすこと
(b) 各教団が協力して、宗門の基本問題を本格的に研究する機関を設置し、その研究成果を布教に生かすべく教団の体制を整えること
(c) 布教師制度を継承するならば、上記の研究成果を習得しうる布教師育成機関を各教団が協力して設置し、布教師の資質向上に力をそそぐべきこと
(d) 各教団が協力して、例えば、禅宗とか坐禅とかについて平明に説明した邦文・英文のパンフレットなどを策定して布教を支援すること、などがある。
 
現在でも、坐禅をし禅宗の教えを学びたいが、いつどこへ行けばよいのか分からない、という一般社会人からの訴えがある。この現状を解消して将来の布教活動を積極的に展開するには、臨黄各教団が協力して以下のごとき二つの対策をとることが必要である。すなわち、
(a) 各寺院で上記のごとき指導がなされることが望ましいが、参禅者の中には寺院各々の指導の範囲を越えてやろうとする者も出てくるであろう。そのような場合に、各教団の教学部が窓口となって、個々の参禅者の事情に適った指導ができる処を各教団の枠を越えて斡旋する、また最終的には、各教団の専門道場に受け入れることも考慮するなどの対策を講じる。
(b) 各教団の専門道場は将来ともに禅僧育成の根本道場である。それ故に、一般の参禅者(居士・大姉)を受け入れるにも自ずから限界がある。これを守り将来にわたっての社会的要求に応ずるためには、例えば国際禅堂のように人種・国籍・期間を問わず受け入れて本格的な修行を指導する施設を、日本であれば東京・大阪などに設けて、各教団が指導の面でも運営の面でも協力して支援する体制をとること、以上の二つである。
 
三つの「何」について以上のごとき意見の集約をみたが、「オウム信者」の受け入れにも関わる各教団の布教活動の実体については、現在どのような活動が展開されているのか不明な点も多々あり、次回の研究会までに、各教団から、現在把握している限りの本山の布教活動および派内寺院の布教活動の実体を報告してもらい、再度検討することにした。