公益財団法人 禅文化研究所

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調査研究

オウム真理教問題研究会 第3回研究会

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前回までの討議内容の整理と研究討議の方向づけ

前回の上松氏の話および質疑応答を踏まえて、改めて第1回研究会の討議内容と研究討議の方向とが問題とされ、また、「オウム事件」に関連して一般社会から各教団に対して何らかの問い合わせや詰問および批判など具体的な反応があったか否かが問題とされた。
前半の問題に関しては以下の確認がなされた。すなわち、「オウム問題」に関して検討すべき基礎的必要事項としては、例えば、(1)オウム真理教のようないわゆるカルト教団が世界各地で発生している現代という時代の文化的社会的な特質と具体的状況をグローバルな視点から分析する必要、それに関連して、(2)現代日本における新・新興宗教発生の社会的文化的背景と既成宗教の歴史的社会的な機能の推移、および現在の社会的文化的な位置を禅宗教団の立場から分析し理解する必要などである。

しかし、これらの事項は中・長期的な計画と適切な人材を得て始めて研究解明されうる事項であり、かかる研究会を何らかの仕方で早急に設置すべく計ることは当研究会の一つの課題としつつも、当研究会の主たる課題は、いま眼前に展開している「オウム事件」に対して「われわれ」がいま「何をなさねばならぬか」そして「何をなしうるか」を明確にして、その実現のための着手点を明示することにある、という確認がなされた。
その上で、「われわれ」の「なさねばならぬ」その「何」とは、例えば、すでに各方面から様々な仕方でなされているような、オウム真理教の説く教義や実践修行の実体を暴いてこの教団の似非宗教性を指摘し、以て「われわれ」の立場の真実性と正当性とを主張するという対策的な「何」ではない。オウム真理教と「われわれ」の立場との相違を明らかにすることも勿論それなりの意味をもつが、一般には「ああそうか」で終わる一過性のものとなりがちであり、さらに恐るべきは、「われわれ」が立場としての真実性正当性を主張することによって、「われわれ」の現状に潜む問題の一切を「われわれ」自身の手で隠蔽し、「われわれ」に問題がなきかのごとくに「われわれ」の現状の一切を是認正当化してしまうことである。いま真に問われている事は、主張されるその真実性正当性が現実のものであるか否かである、という意見の一致をみた。

そして、「われわれ」がいま「なさねばならぬ」その「何」とは、上記のごとき対策的な事柄ではなく、むしろ「われわれ」自身の責任に関する「何」、すなわち、何らかの意味の救いを求めてオウム真理教に惹かれて行った若人をはじめ、自己の真の在所を求めて彷徨している多くの現代人のその迷える心に本当の意味で応じ、その心を深く捉え抱く努力を久しく怠ってきた「われわれ」の実状を率直に認め、そこから出てくる「われわれ」のいま「なさねばなぬ」事としての「何」、そしていま「なしうる」事としての「何」でなければならない、という見解に達した。

また、この「何」は以下の三つの角度から明確にされる必要があるという点でも意見の一致をみた。すなわち、1.禅寺の一住職・一禅僧としての「何」、2.教団としての「何」、3.対社会的活動(布教)としての「何」、である。
また、「オウム事件」に関して一般社会から各教団ないし諸機関(花園大学、禅文化研究所、布教師会、各青年僧の会など)に何らかの反応があったか否かについては、この事件についての各教団・機関内部での関心の高さにもかかわらず、外部からの具体的な反応は仏通寺派以外何処にもなかったことが判明した。ただし、各種の坐禅会および仏事法要の席などではこの事件が話題とされ、禅宗の立場との違いなどが問われる機会が多々あることも報告された。かかる状況の分析にあたっては、宗教教団についての従来の一般観念を破るようなオウム教団の特異性、および「オウム事件」の刑事事件としての展開などによって、一般社会が「オウム問題」の中心を宗教の問題としてよりも社会的犯罪事件として見た故とも受けとれるが、他方、ジャーナリズムをはじめ一般社会の全体がこの問題に対する既成教団の無力を見抜き、既成教団をこの問題解決のための決定的な要因とはもはや見ていない故とも理解される、とくに禅宗教団の場合には、従来の傾向からして、そのように判断された様子が濃厚であり、かかる雰囲気は禅僧と檀信徒とが集う場においても支配的で、多くの場合、興味ある時事的な話題の一つとして取り扱われるにとどまっている、等の意見が表明された。かかる意見をとおして、禅宗教団は、その内部情況からしても外部情況からしても、まさしく社会の単なる一風景に退いてしまっているという「われわれ」の危機的現状を研究会は改めて認識した。

かかる状況分析と上記の「われわれ」の「何」の確認とを踏まえて、各構成員はもはや教団の代表という衣を脱いで、裸の一禅僧として、いま「何」をなさねばならず、「何」をなしうると考えるかを各々が明確にするために、共通の項目に従って意見を表明し、それらを集約するという仕方で「オウム問題」に関する研究会の見解を打ち出すことにした。