公益財団法人 禅文化研究所

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調査研究

脳死問題研究会 研究討議を通しての一つの見解

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脳死と臓器移植の問題は、経験的・感覚的に解ったつもりでいた「人の生き死に」に関するこれまでの通念をその根底から覆し、人類に自らの生死について再考することを迫る問題である。脳死を人の死と認めるか否かの問題は、単に人の死を判定する医学的根拠の変更というものではない。それは、我々に、人が生きているというのはどういう事であるのか、人が死ぬとはどういう事であるのかを問い迫る問題である。臓器移植を推進するか否かの問題は、単なる医療技術と設備の問題ではない。それは、我々に、人身を受けるとはどういう事なのか、私が生きるとはどういう事なのかを問い迫る問題である。脳死と臓器移植の問題は、ただ生体の生死についての問題ではなく、人にその人生観、価値観、世界観の総括を問い迫る問題である。

近代科学の発達は、人間が人間としての幸せを実現し、真に人間らしく生きたいと願って、営々と努力してきたその成果である。科学・技術を発達させてきたものは、人間の人間らしいこの願いであり、科学・技術の基礎には近代ヒューマニズムがある。しかし、それによって人間が手にしたものは幸せばかりではなかった。科学・技術が明暗の両面をもっていることは、今日、誰の目にも明らかである。そして今、我々は、我々自身が獲得した知識と技によって、我々自身の生死の意味を我々の手で決定すべく問い迫られ、懊悩している。おろかと言えばおろかな、人間のかかる営みを人間の業と捉え、業識の域を脱却して、それを超えた真実の世界を目指せと説示することは出来るでもあろう。しかし、「業識を超えた世界を目指すとはどういうことか、救い得る生命も救わずに放っておけということか、これまで救い得なかった者を救い得るまでになったこの知識、この技術を捨てよというのか」という問いかけが即座に返ってくるであろう。今、我々が直面している「脳死と臓器移植」の問題は、人類の歴史の最先端にあらわれた科学・技術の問題、その最も先鋭化された、人の生死を直撃する問題であり、それ故にまた、宗教者の足元をもうがつ問題である。

形あるものは滅し、生あるものは死す。人身もまた、一生体という一面を持つかぎりにおいては、医学的に生体としてのその死を判定することは可能であり、その判定は、医療にたずさわり得る者に社会が付与した医者の権限と責任に属する事柄である。しかし、「人の生死」はかかる医学的判断に尽きるものではない。人は、ただ土から芽を出した自然の産物ではなく、人々のさまざまな思いを負うて、人々の思いの発生する「大地」から生まれ出でるのである。個人の生死は、己れの生死であると共に人々にとっての生死でもある。生あるものは死す。しかし、人はただ土に還るのではない。己れと共に人々の思いが成就される地、「大地」に還るのである。「人の生死」には、人としての思いの成就ということがある。「脳死と臓器移植」の問題も、それが「人の生死」の問題であるならば、その本人における、また、少なくともその親族の間における「思いの成就」という性格を有する。その「思いの成就」として、本人によって、また親族によって、脳死がその人の死と認められた時、そしてまた、臓器の提供が告げられた時、その時にはじめて、脳死は人の死となり、臓器の摘出は可能である。勿論、この場合には、その意志決定が本人ならびに親族の真の意志決定であるか否かを客観的にチェックしうる機関ならびに規定が設けられてあること、及び、その意志決定を受け入れる医療機関に、その「人としての思いの成就」を間違いなく且つ誠実に遂行しうるだけの医療能力と設備があること、が前提となる。かかる観点から、これらの前提を公に保証する法の制定が必要であることを認める。

しかしまた、「思いの成就」として、脳死を自らの死と認め得ない人に対しても、その思いは厳正に守られ、その「思いの成就」は間違いなく且つ誠実に遂行されなければならない。「脳死臨調」の答申でも明らかにされているように、脳死を人の死と認めるか否かに関して、人々の意見は二分されている。上記の如く、脳死に関する法制定の必要性は認めるが、法制定にあたっては、脳死を人の死と認め得ない人々の権利が厳正にまもられるよう充分配慮されなければならない。この件に関して世論を誘導し或いは人々を扇動する者があってはならないし、また、かかる者を絶対に許さぬような法的配慮がほどこされるべきであろう。

一方において「脳死を人の死と認める」ことを可とし、他方において「脳死を人の死と認めない」ことを可とする基準は、「人としての思いの成就」という事にある。かかる事を基準とする立場は、一見、主体性の欠落した無責任きわまりない立場にも思えるであろう。しかし、脳死を人の死と認めることに人の尊厳を見いだす者にとっては、それを認めぬ者は人の死を愚弄する者と映ずるであろう。また、脳死を人の死と認めないことこそ人を慈しむ道であると信ずる者にとっては、それを認める者は西洋近代の機械文明に毒された者と映ずるであろう。はたして、人の生死への思いは、それほどに単純な、それほどに黒白ハッキリとけじめのつくものであろうか。そして、かかる面で黒白のけじめをつけることが仏の道であろうか。

人はそれぞれに、さまざまの思いの内に生死する。それぞれの思いを抱き、さまざまに悩む者の声が、共に等しく聞き届けられる場所があるとすれば、それは仏の前であろう。それぞれの思いと悩みに生死する者が、その思いその悩みを通して、しかも等しく摂取されうる立場がどこかにあるとすれば、それは仏教の立場であろう。それぞれの人がそれぞれの悩みを打ち明けながら、その悩みを超え包む世界がそこに開かれてあることを実感出来るような人がいるとしたら、それは僧侶であろう。この立場、この世界、この人があって初めて、人の「人としての思いの成就」は、根本的に成就され得る。黒は黒において是とし、白は白において是とするは無為無策のようであり、黒白ともに等しく耳を傾けるは愚者の如きである。しかし、共に等しく是とし得る場を自覚して開き放っておくことは至難の行である。余人にあらず僧侶の僧侶たる主体性はここにある。

僧侶も人であり社会人である。僧侶にも「人としての思いの成就」があり、社会人として黒・白いずれかを選ばねばならぬことがある。その時、自らの思いにおいて、脳死を是とするも、不是とするも可能である。ただその場合、自らの主張、自らの行為が、黒・白、是・不是の半面であり、黒あれば白あり、是あれば不是あってはじめて、仏の道が整うことが忘れられてはならないであろう。この事が忘却される時、僧侶は世論の扇動者となり、仏教はイデオロギ-に堕す。かかる意味においても、「脳死および臓器移植」の問題は、僧侶の足元をうがつ問題であるといえよう。