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お多福は白隠の仮名法語、絵画などに出る重要なキャラクターである。
お多福は、おかめ、お福ともいう。丸顔で鼻が低くおでこで、両頬が高い醜女であるが、愛敬のある顔だちをしている。『宮比神御伝記』一九には「或説に、足利の末頃とか、ある神社の巫子に亀女とて、その見目ハかの面のごとくなるが、宇受売命(うずめのみこと)を信仰し、愛敬こぼるゝ計にて、……見目よりも心の実ありて、何なる渋つら悪玉も、この亀女が貌をみしほどハ、其の悪心のやみし故に、其のかほを面につくり、お多福と名づけて弘めしが始めなりと云ひ、また一説にハ、直に宇受売命の御かほに擬へたる物なりとも云ふは、何れかまことの説ならむ……」という。
天鈿女命(あまのうずめのみこと)は、天の岩戸で踊りを踊った女神であるが、古代では必ずしも醜女ではなく、むしろ美女のイメージである。近世芸能の中では、「ひょっとこ」とともに道化役をしたりするが、その愛敬ぶりが強調され、福相として尊ばれる一方、逆に醜女の蔑称として使われることも多い。元禄期の狂言『毘沙門長者』に出るお福は醜女の典型である。また文楽浄瑠璃でのお福も醜女の道化役である。白隠より少し後になるが、朋成堂喜三二作、恋川春町画の『桃太郎後日噺』という黄表紙では、醜女でいていささか好色なわき役として描かれている。
お多福のイメージの特徴は、このように両義性があることである。
ところで、白隠禅師の「おたふく女郎粉引歌」の冒頭には次のようにある。
あの下もの町の新べさんのゝおふくは 鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて よひおなごじやの なんのかのてゝ、いつかひおせわでござんす
天じや〜〜と皆様おしやる
*〜〜は"く"の字繰り返し てんのとがめもいやでそろ 文(フ)みの数〜〜恋(コ)ひ焦(コガ)れても *〜〜は"く"の字繰り返し わしは当座の花はいや 数ずの男の思ひもこわひ みめの好(ヨ)ひのも気(キ)の毒(ドク)じや 器量(キリヤフ)好しめと誉(ホ)めそやされて 男ぎらひの独(ヒト)りねを 命(イノチ)取りめと皆様おしやる わしは命はとらぬもの 那須(ナス)の与市(イチ)は箭(ヤ)さきで殺(コロ)す おふが目本で人殺ろす 数ずの殿子(トノご)は限りもないが わしがいとしは只独(ヒト)り 婆々(バば)が粉歌(コウタ)は面白かろが ふくがしらべは知りやるまい 知音(チイン)どしなら歌ふもよいが やぼな御客(ヲキヤク)にや遠慮しや
「おふくは鼻はひしやげたれど、ほうさきが高ふて、よひおなごじやの」とは、醜女の条件を備えた美人だ、という意である。白隠は『さし藻草』巻一の十五丁で、大名が美しい側室などを多くかかえることを批判するくだりでも「随分長(たけ)低くて色黒く、鼻ひしげ、ほう先き高く、見苦るしきお多福と云へる美人」と言っている。「醜女の美人」「見苦るしき美人」というのである。一見すると醜いが、よくよく見れば個性的で、なかなかの美人ではないか、などという具体的な審美観を表明しているのではない。醜即美だというのである。対立した矛盾概念を一挙同時に言うのを、禅的修辞では「抑揚」というが、ここもその伝であろう。いかなる審美観もすべて俗に堕すのである。
俗世の大方の男にとって、女性の美醜はあるいは重大関心事であり、このぬぐい去りがたい執着のために、一生を区々として終えることもある。また、女性にしても、美しく見えるように、その装いの工夫にただならぬ情熱を傾けるものである。
右に引いた『粉引歌』の冒頭の歌を見ると、おふくは、恋い焦れる多くの男から恋文を寄せられる「みめの好ひ」女で、「器量好しめ」「命取りめ」といわれ、「目もとで人を殺す」ほどの美人である。すなわち、世間の美醜の判断からすれば、とびきりの美人である。
ところが、その飛びきりの美人を白隠は醜女の「お多福」に描き表現するのだ。かつて美人の皮を剥ぎししむらを破って見せたのは九想詩の絵(美女が死に、体が膨れ腐り、鳥獣につつかれ白骨になり、最後に土に帰っていくさまを、九段階の絵で示したもの)であり、美をひんむいて醜を曝して見せたのは一休の『骸骨』であった。けれども、いま白隠禅師には美もなければ醜もない、美醜一如、美は醜であり、醜は美である。そんな世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、それが白隠の描くおふくさんである。
「粉引歌」のおふくは、また女郎でもある。伊勢・尾張辺では、宿場女郎や飯盛女のことを「おかめ」と称したという。『殿々奴節根元集』に「宮の宿のはたご屋なる飯盛女をおかめと呼事は、寛政十二申のとしの秋、熱田の…町はづれに大なる茶屋有て、蜆汁をうりたり。…此うちの下女をおかめといふ。此女かの茶屋の庭に、床台を出して茶菓子抔売しが、いつとなくおかめが店とて流行出せり。…是より呼初て、当所の飯盛女の惣名とはなれり」という。寛政は白隠没後のことであるが、同じようなイメージが白隠の時代にもあったかも知れない。
以上を念頭に、「おたふく女郎粉引歌」の図を観察してみる。おふくが何やらを石臼で挽いているが、その前には、茶碗と茶筅が置かれているから、茶を挽いていると分る。「お茶を挽く」という語があり、女郎などが客がつかず暇なことをいう。その語源説はいくつかあり、『日本国語大辞典』では七項目をあげている。「お茶挽き」「お茶挽き女郎」の言葉もあり、客がつかず売れないので暇な女郎のことをいう。おふくが、下積みの不遇な境遇に置かれていることが暗示されていよう。
また、おふくの着物には梅鉢の模様がついている。梅鉢は北野天神の象徴である。天神信仰は古くからあるが、禅林での天神は「渡唐(宋)天神」である。これは詩禅一致を目指す五山僧によって創作された話で、日本の詩神である菅原道真が、夢で径山の無準禅師に参じて、一夜にして印可を得、梅一枝をもって帰った、というものである(『国史大辞典』の「渡唐天神」項に、その概要、研究文献などが要領よくまとめられている)。かかる話が創作された背景には、日本を代表する学問(文学)神である菅公が、中国伝来の思想である禅に参じたという形をとることによって、外来の禅を日本に普及させ根づかせようという意図もあったと思われる。五山以降、「渡唐天神」図は多くの禅僧によって描かれて来たが、白隠禅師もまたいくつかの「渡唐天神」図を残している。
一方、白隠禅師は、貞享二年乙丑の十二月二十五日夜丑の刻(丑年丑月丑日丑刻)に生まれたという(『年譜草稿』)。自伝である『壁生草(いつまでぐさ)』には「熟(つ)らつら指を屈して
処ンが誕日を考うるに、貞享第二丁丑の歳の臘月廿五鶏鳴丑(ケイメイチウ)なり。年月日時共に是れ丑。往往に言う、二十五日は忝くも丑天神の御縁日なりと。然れば北野に因由有るに非らずや」とある。白隠の天神信仰の原点でもある。
これによって見れば、梅鉢の紋所は単に北野天神の象徴というだけではなく、日本に伝承された禅の正統を受け継いだ白隠自身である。さらに言うならば、外国の文字である漢文を至上とした五山とは異なって、日本語である仮名法語や和賛を附した禅画などによって禅の立場を宣揚し、定着させようとした白隠禅師は、江戸の時代にふさわしく、装いあらたに生まれかわった「渡唐天神」でもあった。梅鉢の紋所は、これらを象徴したものであろう。
さらに観察すれば、おふくの前には、煙草道具(煙管と煙袋)が配置されており、煙袋にも梅鉢の紋がついている。これは、おふくが白隠禅師の化身であることの隠喩である。白隠禅師が愛煙家であったことは『荊叢毒蕊』などで判明している。梅鉢紋の煙草セットは白隠のものである。筑摩書房の図録『白隠』一四〇に「布袋吹於福図(布袋、於福を吹く図)」がある。賛語は次のとおりである。
善導吐三尊弥陀(善導は三尊の弥陀を吐く)
布袋吹二八於福(布袋は二八の於福を吹く)
吐弥陀依称名功(弥陀を吐くは称名の功に依る)
吹於福将其何力(於福を吹くは将た其れ何の力ぞ)
随分とおもへどお福ばかりは
吹にくひものでござる
布袋が煙管を右手にし、深く吸い込んだ紫煙とともに十六歳(二八)のお福を吹き出しているところである。布袋はすなわち白隠である。おふくの着物には天神の紋所である梅鉢が印されている。
いま、お茶を挽くおふくの前に、梅鉢の紋がついた煙管・煙袋が置かれているのは、おふくを我が(白隠禅師)化身として、この煙管から吹き出し了ったものであるぞよ、との暗示である。
■つけたり・鰻屋の娘お清のこと
『白隠広録』第二輯(明治三十五年発行)の口絵に、白隠禅師自刻の「清女像」の写真がある(沼津、和田伝太郎氏旧蔵、焼失して今はない)。像の底部には「明和元年八月、為親孝行清女、白隠作之」とあったという。さらに「鈴木清女木像之記」という、次のような一文がある。
茲(ここ)に此の木像の由来を討(たず)ぬるに、駿州浮島ケ原字柏原は東海道筋に当り、鰻蒲焼の名物を鬻(ひさ)ぐ数戸の茶屋あり。就中有名なるを田子屋とす。家の西隣に本陣浮島氏の邸(やしき)を控へて、頗る全盛を極めたり。享保の頃、田子屋の主人鈴木佐右衛門、平素仏法に帰依し、原の松蔭寺なる白隠禅師の教化を受けて家庭の間に和気洋々たりき。二女あり、其の妹なるをお清と呼ぶ。幼より孝心深くして、毎(つね)に禅師の愛撫を蒙れりき。長ずるに及びて天の成せる麗質自ら万人の目を引き、其の評近郷に隠れなく、隣里の壮輩心を嘱する者多しと雖も、清女資性高潔にして操守貞しかりき。時の関白近衛侯(大解脱院殿)此地を通輿の際、白隠の禅関を叩くとて田子屋に小憩せられ、其夜は柏原なる本陣に宿せらる。禅師亦侯の旅館たる浮島氏に過りて、杯盤の間、相唱和して其の旅情を慰めらる。禅師時に謳うて曰く、
東柏原田子屋の娘、姉は二十一妹は二十
妹ほしさに御立願とつて
と。侯黙聴沈思久しうして領得せらるゝ所ありしか、礼謝して寝内に入り、安坐して睡られず。従者及浮島氏等は殿下の不興を惹起せしにやと危懼して措かず。之を禅師に謀る。師曰く、憂ふる勿れ、関白今夕大歓喜を得玉へり、侯の不眠は卿等の知る所に非ず、強て其の端由を知らむとならば、隣家の清女に就いて之を質せと。之を清女に問へば、笑つて答へず。終に其の意を解する者なし。明日爽昧、侯は浮島氏に遺嘱して清女を京都に致さしむ。聞く者皆其の栄達を羨まざる者なし。清女命に接し襟を正しくして辞して曰く、恩命泰山よりも高しと雖も、天涯地角相隔たり、朝夕の奉養を欠かば父母滄海の深恩を如何んせむと涕泣して止まず。浮島氏措く所を知らず、之を禅師に諮る。師情を具して親しく書を裁し以つて調停の労を取る。越て翌春、禅師自ら一躯の木像を彫(きざ)みて使者に托して京師に贈り、之を関白に奉らしめ以つて清女奉侍に代らしむるの雅意を致す。超えて数年、清女夭折す。後侯再び此地を過ぎりて、清女の夭折をきゝ、
所c惜措かず、深く鈴木氏親族愛別の悲痛に同情して、彼の木像を田子屋に賜ふ。是より相伝へて和田氏の蔵する所となるたりといふ。
お清の像を造ったのは「越て翌春」とあり「明和元年八月」であるというから、近衛公が旅先の柏原で、鰻屋田子屋の次女お清を見初めたという右の出来事は、その前年、つまり宝暦十三年(1763)のことになる。白隠禅師はこの年、七十九歳。そして、このエピソードの一方の主人公である近衛関白とは、近衛内前(うちさき)(1728〜1785)のことである。宝暦七年三月、関白に補せられ、十二年七月、大政大臣。大解脱院関白と称す。内前公が清女を見初めたのは、宝暦十三年(1763)、三十六歳の時のことになる。
東柏原田子屋の娘、姉は二十一妹は二十
妹ほしさに御立願とつて
「立願(りゅうがん)」は、神仏に願をかけること。
「妹ほしさに御立願とつて」の「とつて」は「とて」か、あるいは「御立願したって」の意か。
ところで、興味あるのは「お清像」である。どう見てもお多福の顔である。いまをときめく都の関白大政大臣がお目をとめられた女性である。右の「清女木像之記」でも「天の成せる麗質自ら万人の目を引き、其の評近郷に隠れなく、隣里の壮輩心を嘱する者多し」というほどの器量よしである。浮島ケ原ばかりでではない、近郷にまで評判の美女である。その美人を、禅師は当時「醜女」の典型とされていた「お多福」に似せて造ったのである。
これとは別に、白隠禅師が「おさつ婆さん」にあたえたという自刻の「おさつ像」というのがある(松蔭寺像)。おさつは、白隠とは二従兄(ふたいとこ)にあたる、原の庄司六郎兵衛憲英(白隠と同年にして竹馬の友)の娘で、十六の年から禅師に参じた、女性門下の代表でもある。白隠禅師よりは十九歳年少である。この像がいつ頃造られたものかは分らないが、やはり晩年のものと思われる。
このおさつ像、これも私には「お多福」に見えるのである。お清像は二十歳の女性像、おさつ像はおそらく六十歳を越えた女性像、年齢の違いはあるが、ともに「鼻のひくひ代りにほうさきが高くて、好ひおなご」に造られているように見えるのである。
白隠禅師には美もなければ醜もない、美醜一如、美は醜であり、醜は美である。どうやら、禅師の描き造る女性は、すべて「お多福」になるらしい。世俗の美醜の判断を超越し、人々に福をもたらすお多福美人、それが白隠禅師の描く女性像である。鰻屋の評判美人のお清をモデルにして、精魂こめて如実に美女像などを造っていたなら、白隠はもはや禅者ではなかったことになろう。
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