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白隠禅師の仕事をするようになって、禅師の墨蹟も見ることが多くなった。一日、偶々変わった絵柄のものが目に入った。筑摩書房の図録『白隠』の一六三に出る「大文字屋かぼちゃ」(永青文庫蔵)というものである。その賛の読みにいわく
大文字屋のかぼちやとて、其名は高兵衛と申満す
せいはひきくて、ほんに猿まなこ、よひワひなふ。
竹内尚次氏の解説に「京の遊里の寸景を写したものであろう。宝暦元年白隠六七歳、島原の花魁大橋女を度しているので、大文字屋は島原に関聯するかもしれない。七〇歳頃のもの。鼻緒のない草履が注意される」とある。
何とも一風変わった絵であり、賛の意も分るには分るが、何のために書いたものか、その意図はさっぱり見えない。不思議な絵だと思いつつ眺めていたのだが、ふと「大文字屋かぼちゃ」のことは、どうもどこかで見たか読んだような気がした。けれども、思い出せないまま、打ち過ぎてしまった。このほどようやく眠りつつあった記憶が覚めかけたので、少し調べてみた。
この大文字屋、実は京都ではなく、江戸の新吉原京町一丁目にあった妓楼のことである。その初代の主人を村田市兵衛という。したがって図録の読み「高兵衛」は「市兵衛」の誤読。大正十一年に出た、細川侯爵家版『白隠墨蹟』の読みも「高兵衛」となっているが、その誤りを踏襲したものか。
さて、この市兵衛という男、頭でっかちで背が低く、その風貌から「かぼちゃ」とあだ名されていた。これをからかって、妙な囃し唄を歌う者がおったという。
ここに京町大文字屋のかぼちゃとて その名は市兵衛と申します せいが低くて、ほんに猿まなこ かわいいな、かわいいな
この唄は都雀のあいだに大いに流行ったのだが、市兵衛はそれを逆手にとって、自らこれを歌って人を笑わせ、それによって商売が大いに繁昌したという。一種のPRソングである。宝暦年間には、花魁の名前を織り込んだ多くの替え歌も出来たという。白隠禅師が描いたのはこの遊廓大文字屋のあるじ市兵衛であり、賛にあるのは、当時はやったという「かぼちゃ節」そのものである。市兵衛が扇子を手に、例の唄を歌いかつ躍っているところである。
狂歌作者の手柄岡持(てがらのおかもち)(1735〜1813。戯作の時の名を朋誠堂喜三次(ほうせいどうきさんじ)という)の『後は昔物語』に「大文字屋かぼちやといふ唄は、流行甚しかりし。宝暦二申年と覚ゆ。云々」とあり、この一文の後に随筆家の山崎美成(よししげ)(1796〜1856)が次のような補説している。
美成云、京町大文字屋の市兵衛、其形ち見ぐるしく、頭の形かぼちやに似たりとて、爰に京町大文字屋のかぼちやとて、ひよつと曲輪(くるわ)の地廻りの男どものわる口に云しが、曲輪中の流行となりきたる。家ごとに是を聞てうたひ、段々江戸中の口にかゝりて流行謡となれりと、馬文耕の武野俗談といふものにみへたり。
馬文耕とは講釈師の馬場文耕(1718?〜1758)のことで、この人は白隠の時代により近い。ここにいう馬場文耕の『当世武野俗談』には宝暦六年の自序があるから、白隠禅師七十二歳のころの消息である。「地廻り」(遊廓辺にたむろするならず者、用心棒稼業)から、こんな囃し歌をうたわれ、一種の営業妨害をされたというのである。この大文字屋かぼちゃのことは江戸ではかなり有名だったと見え、その他、いくつもの随筆類に記録されている。
蜀山人こと太田南畝(1749〜1823)の『奴凧』には次のような記事がある。
新吉原京町大文字や市兵衛が狂名をかぼ茶元成といふ。妻を秋風女房といひ、隠居の姥を相応内所と称す。一とせ此内所にて狂歌会ありし時、持仏堂をみるに、先の市兵衛が位牌あり。釈仏妙加保信士(かぼしんじ)とありしもをかしかりき。此市兵衛河岸にありし時、かぼちやといふ瓜を多く買ひおきて妓の惣菜に用ひ、産業をつとめて此京町へ出しとぞ。皆人かぼちや〜〜と異名せし也。顔色も童の謡ふうたの如く、背ひきくて猿まなこなりしとぞ。自ら此歌をうたひ人を笑はせしとなん。宝暦の初の頃歟。
(*〜〜は"く"の字繰り返し)
つまり、有名な狂歌師の加保茶元成(かぼちやのもとなり)は大文字屋二世であり、初代すなわち本編の主人公である「元祖かぼちゃ」の実子であるという。加保茶元成は別号は文楼(すなわち大文字楼のこと)、通称村田市兵衛。宝暦四年(1754)、新吉原京町の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の息として生まれる。文政十一年(1828)没、七十五歳。浅草本行寺に葬る。妻も秋風女房の名で狂歌をした。その吉原連には蔦唐丸(つたのからまる)(蔦屋重三郎)、筆綾丸(ふんでのあやまる)(喜多川歌麿)、棟上高見(むねあげのたかみ)(新吉原扇屋主人)、俵小槌(たわらのこづち)(新吉原大黒屋主人)などという連中が参加していた。
また十返舎一九の『花柳古鑑』という本がある。十返舎一九といえば『東海道中膝栗毛』で名高いが、この十返舎は実は初代ではなく、弟子の九返舎一八という者が襲名して二世(あるいは三世)となったという。別に三亭春馬ともいうが、本名は磯部源兵衛(岩波『日本古典文学大辞典』、ただし、この辞典で「初代かぼちゃ」=「元成」とするのは非)。大文字屋市兵衛は代々狂歌をよくしたが、この人は三世加保茶元成を名のったが、別に狂名を加保茶浦成(かぼちやのうらなり)ともいった。つまり、大文字屋の世系は次のとおり。
初代大文字屋市兵衛(姓村田、釈仏妙加保信士)…二代市兵衛(加保茶元成)……三代市兵衛(二世加保茶元成)……四代市兵衛(三世加保茶元成。加保茶浦成、十返舎一九)
すなわち加保茶浦成こと四代目大文字屋市兵衛の書いた『花柳古鑑』上之巻には、初代かぼちゃについて記されるが、末裔が家伝を書いただけに、事のいわれも詳しい。
今も世上(せじやう)にもてはやす、こゝに京町大文字屋の大南瓜(おほかぼちや)といふ唄のはやりしは、宝暦二年の事也、後者昔物語[享和三年記]に、大文字屋かぼちやといふ唄ハ、流行甚しかりし。(中略)。 偖(さて)大文字屋市兵衛ハ、其始め村田市兵衛といひて、寛延三午、揚屋町河岸(かし)へ見世出(いだ)し、それより中二年(なかにねん)同河岸(おなじかし)に住居(すまゐ)、宝暦二申年大もんじやと改名して、京町一丁目へ出(いで)たり、大かぼちやの唄はこの時うたひだしたるなり、そのゆゑよしハ、北女閭起原などに説もあれど信じがたし、大文字屋二世(にせ)の主人(あるじ)言残(いひのこ)せるには、御先祖つね〜〜語られしには、世の中に人間万事塞翁馬(にんげんばんじさいおうのうま)といふ事思ひあたりしは、我事をかぼちや〜〜といはるゝ事也、我家(わがいへ)はもと村田屋と家名を呼ならせしが、或日、いさゝかの事よりして親分と不和になり、親分法外(はふぐわい)なる事をいひのゝしるが腹立しさに、さまで詫もせでありけるを、親分いたく立腹して、しからバ我家名を譲(ゆづり)し村田の布簾(のうれん)を取かへすべしとて、俄(にわか)にその布簾を外して行たるが、あまりなる事に思ひ、我ハ何屋にても一家をたてんと、直(すぐ)さま紺屋を呼寄、思ひよるべき縁家(えんか)もあらざれバ、何にても布簾(のうれん)いつぱいに大文字に書きたしと思ひしより、その大文字こそしかるべけれとて、直に大文字屋とかな書に布簾(のうれん)を染させ、一夜(ひとよ)のうちに露のたるゝ侭かけたるを、親分こゝろ悪くや思ひけん、我を恥かしめんとて、地廻(ぢまわり)などにいひふくめて、
こゝに大文字屋の大南瓜(おほかぼちや)、其名は市兵衛を申します、身(せい)がひくうて、ほんに猿まなこ、ヨイハイナ〜〜、
と角口(かどぐち)などへ立せて、毎夜(まいばん)うたハせし也、我家村田屋の布簾をかへし、大もんじやと改名して京町壱丁目へ出たれば、こゝに京町とハうたひし也、それより此唄をちこちにうたひ流行(りうかう)なすに随ひて、家内も繁昌也、我身の見悪(みにく)きをそのまゝ、南瓜といはれたるが目出たければ、我死して後ハ法名をかぼ信士(しんじ)といふべしと物語しとなん、此話代々に言伝ハりたるを、おのれ聞けり、実に此の話の如くなるべし、村田屋を改めて大文字屋となりたる証をこゝに載す、(以下略)。
(*〜〜は"く"の字繰り返し)
右の大文字屋の家伝によって「大文字屋かぼちゃ」の由来が判然した。地回りの親分とイザコザがあって、親分から「かぼちゃ」の囃し歌で嫌がらせを受け、営業妨害をされたのだが、市兵衛はこの苦境を「人間万事塞翁が馬」という心意気でのりこえ、かえって、新規開店した大文字屋の逆宣伝にして、稼業に成功したというのである。
江戸時代に描かれた大文字屋かぼちゃの絵が二種ある。『近世商売尽狂歌合』に「かぼちゃ市兵衛図」がある。
賛は「こゝに京町大文字屋のかぼちやとて、その名を市兵衛と申ます。せいがひくゝて、ほんに猿まなこ。よいわいな〜〜」とあり、白隠の賛と同じである。解説にいう、
狂歌に「京町に二人とはなき市兵衛や今に南瓜の種を残して」。
伝記に、『東都名家歌集』に云、大文字屋、初は西河岸え見世をひらきしが、次第に繁昌繁昌し、終京町壱丁目に転宅せり。此市兵衛、至て軽く、家内惣菜にもかぼちや、唐茄子多く買置て喰せしより、近辺のもの、悪ル口に、爰に京町大もんじやの大かぼちやと唄ひし所、此うたにて大評判になり、猶々繁昌せりと云々」……。
もう一つは、太田南畝の『仮名世説』軽詆に載る。
新吉原京町大文字屋市兵衛は、其かたち見ぐるしく、かしらもカボチヤといふ瓜に似たりとて、みなひとかぼちやかぼちやと異名せしなり。顔かたちも、童の謡ふうたのごとくなれば、みづから此歌をうたひて、人をわらはせしとぞ、其比(そのころ)都下にてひさぎたる壱枚絵をこゝに模写す。其後の市兵衛、狂名を加保茶元成といへり。一とせ此内所にて狂歌の会ありし時、持仏堂をみれば、先の市兵衛が位牌あり。法名釈仏妙加保信士とありしもおかしかりき。
図の賛に「こゝに京町大文字屋のかぼちやとて そのなは市兵衛と申ます」とある。この絵は宝暦年中に江戸で売られた印刷物であるという。誰が売り出したものか。遊女の名を折り込んだ替え歌が一緒に(別紙、ここには省略)摺ってあるのを見れば、吉原関係者であろう。あるいは市兵衛が自ら印刷して売り出したものかも知れぬ。
ところで、白隠禅師の宝暦中の江戸行きは、白隠禅師『年譜』で見る限り、宝暦九年のみである。しかし、禅師の仮名法語を見ていると、特定はできないが、これ以外にも江戸を訪れていたらしいことが分る。いずれの時か分らないが、宝暦年中に白隠禅師が江戸に出た折、この「かぼちゃ節」を直接聞いたか、あるいはその噂を耳にしたのであろう。あるいは右にいったような「大文字屋かぼちゃ」の売り絵を実見していたかも知れない。
ところで、白隠禅師は何のためにこの絵を描かれたのであろう。もともと誰に宛てて描かれたものか、その消息は杳として不明であるから、この絵の真意も何とも伺い知れない。その裏にはきっと何らかの物語か教訓が秘められていたはずであろうが、いまでは推測するより仕方がない。
大文字屋の実子である、加保茶元成が子孫に言い残した話では、初代は「かぼちゃ」呼ばわりされたのだが、この逆境を「人間万事塞翁が馬」ととらえ、カボチャ頭の短躯に生まれついた禍を福に転じ、大いに事業に成功し、死んだのちは法名まで「かぼ信士」と、自ら決めていたというのである。このあたりに禅機を見た禅師が、「産業をつとめ」ていた江戸の商家か誰かの需めに応じて与えたものであろうか。
初代かぼちゃの生没年は不明であるが、二世かぼちゃの元成が生まれたのが宝暦四年(1754)、京町の新しい大文字楼を始めて二年目であるから、この頃はすでに壮年であったと見てよい。宝暦二年は白隠禅師六十八歳である。いずれにしても、初代かぼちゃは禅師と同時代人である。直接、初代かぼちゃに贈られた可能性もないわけではない。
永青文庫所蔵の真蹟の箱書などに「いわく」が書いてありはしないか、あるいはこの墨蹟の入手経路が分れば、何かの手がかりになるかも知れないと思って、永青文庫に調査方をお願いしていたが、先頃、白隠禅師仮名法語の資料調査で永青文庫を訪問することがあって、親しく実物を拝見することができた。しかし、箱には何も記録はなく、添書もない。お話を伺ったが、どうも手がかりは何もないのだった。資料調査を終わって、文庫の展示室を拝見していたとき、たまたま遂翁(白隠の法嗣)描くところの「雪巌欽(定)」の図が懸っていた。
「巌頭為無位真人不少漏逗、何人得意」とあるのは遂翁の自賛であるが、何と!その脇には次のような賛があるではないか。
茲に京橋(ママ)大文字やのかぼちやとて、其名を市兵衛と申します。せいがひくうても(ママ)、ほんに猿眼。
暑L。集境翁謹書
集境翁とは、竜沢寺の星定元志(1816〜1881)で、山岡鉄舟の師として知られた人である。「白隠…峨山…隠山…顧鑑(…通翁)…星定」という法系になる。
「雪巌欽(定)」図というのは、雪峰、巌頭、欽山の三僧の次のような物語を絵にしたものである(『五灯会元』『林間録』また『碧巌録』三二則に出る話)。
定上座は臨済門下の竜象といわれた人である。巌頭、雪峰、欽山の三人が臨済にあおうと河北にでかけたところ、途中で定上座に出会った。「臨済禅師はお元気か」ときくと「もう遷化された」という。三人は大いに残念がって、「禅師は生前、どんな言葉でもって指導されたか」と尋ねたところ、定上座は「汝等諸人、赤肉団上に一無位の真人有り、常に面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と、臨済禅師の上堂の語を示した。この語を聞いて巌頭は思わず口をあけて驚いた。ところが、そこで欽山が「どうして非無位の真人と言わなかったのか」とチョッカイを入れた。すると、定上座はやにわに欽山の襟首をねじ上げて「無位の真人と、非無位の真人と、どう違うのか。さあ道え、さあ道え」と恐ろしい剣幕でせまった。さすがに欽山も目を白黒してしまったが、定上座は欽山を捻り殺さんばかりの勢いである。脇にいた厳頭と雪峰がなだめに入って、ようやくおさまった。定上座がいうのに「この二人がおらなかったら、おまえみたな小便小僧は捻りつぶしてやるところだったわい」と。
臨済の生っ粋のところを受け継いだとされた定上座の、手荒い手段を行じたところを描いたもので、禅林でしばしば描かれるところである。
その臨済の家風を評した偈は数多くあるが、代表的なものの一つが、白雲守端の臨済三頓棒の頌である。
一拳拳倒黄鶴楼、一鐘桴燼翻鸚鵡洲 (一拳に拳倒す黄鶴楼、一鐘桙ノ鐘椁|す鸚鵡洲)。 有意気時添意気、不風流処也風流
(意気有る時は意気を添え、風流ならざる処、也た風流)。
星定禅師が「大文字やのかぼちや」の唄を「雪巌欽定」図の賛に用いたのも、その意図は、臨済一流の家風が、臨済下の「竜象」と称された定上座の荒々しい作略に現われているところ、すなわち「風流ならざる処、也た風流」なるところを評したものであろう。大文字屋市兵衛は、その醜い容貌のため、子供にいたるまで江戸雀から「かぼちゃ」とあだ名されたのだが、その「不風流」をみごとに我が物として受け止め、サラリと逆宣伝に用い、家業を成功させ、自らの戒名も「加保信士」とつけた、当代きっての風流人であったわけである。
いまは、白隠下の星定禅師が、白隠禅師と同じく「かぼちゃの唄」を賛語に用いているところに注目しておきたい。あるいは、白隠下に何らかの口伝でもあったものであろうか。
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