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『荊叢毒蕊』巻九(最終巻)に次のような偈がある。
題富士山図。手写。
写得老胡真面目、杳寄自性堂上人。
不信旧臘端午作、鞭起芻羊問木人。
老胡の真面目を写し得て、杳に自性堂上の人に寄す。
旧臘端午の作を信ぜずんば、芻羊を鞭起して木人に問え。
筑摩書房の図録『白隠』[一八三]に中津自性寺蔵、淡彩の「富士大名行列図」が掲載されるが、その賛偈である。ただし、「富士大名行列図」の賛では三句目の「作」を「時」に作る。竹内尚次氏は「推定八十歳」の作とし、白隠四天王の一人で、後に豊前中津の自性寺十二世となった提州禅恕に与えられたものとする。
『荊叢毒蕊』は白隠禅師の語録であり、その跋文や『年譜』によれば、刊行は宝暦六年となっているが、実際には諸般の事情で大幅に遅延し、上梓されたのは宝暦八年のことである。このことは、菅原為成の序文に「宝暦戊寅秋八月」(宝暦八年)とあることからも明らかである。いずれにしても『荊叢毒蕊』の中にこの偈がおさめられるのだから、少なくとも『荊叢毒蕊』の刊行された宝暦八年以前に作られたものということになる。そして偈に「写得…」とあり、さらに「手写」(禅師がみずから描いた)とあるから、図と偈とは同じ時に作られたものと分かる。さらにまた提州が自性寺に入院住職となったのは宝暦十四(明和改元)年十月である。以上からすれば、ここにいう「自性堂上人」とは禅恕ではないことになる。とすれば自性寺の先代のことであろう。したがって製作年代も八十歳ではなく、少なくとも七十四歳(宝暦八年)より若い時のものと言える。禅文化研究所資料室所蔵、FAS文庫の一本書き入れには「依豊前中津自性寺祖山和尚需画」とあり、このことを裏づける。
FAS文庫本の書き入れにはまた「曽有請老胡之図之唐紙。乃画其紙。故云爾。視者莫疑著則好」ともある。かねてから達磨を画くよう頼まれていたが、そのために送って来てあった紙に書いた、というのである。だから一二句に「写得老胡真面目、杳寄自性堂上人」と言った、ということであろう。「視る者、疑著すること莫くんば則ち好し」とあるのはいささか気になるが、これについては後でふれる。
いま、偈の意訳を試みるに、次のようになろうか。
かねて達磨の絵を頼まれていたが、ここに達磨の真骨頂を描いて、はるばる豊前の自性寺和尚にお届けする。十二月の端午の節句に作ったこの画が分からぬならば、稾の羊に鞭うって木人形に尋ねられよ。
旧臘端午、芻羊、木人はいずれも無可有の消息をいう語。先にいう書き入れには、「旧臘端午の作」のところに「皆ナ隻手ノウワサ也」とある。「打たぬ片手の声を聞け」というところを、かく表現したものであろう。蒭羊、蒭は芻に同じ。芻狗の語があり、稾で作った狗をいうが、これと同じ意味である。
ところで、白隠はなぜ富士山に大名行列を配して描いたのか。竹内氏の解説にいう、
白隠は禅恕初参時の姿を回想しながら心をこめて富士山図を描き、のち禅恕入院の祝物として贈つたのであろう。富士を図絵して与えたのも、遠い九州で駿河時代を偲ぶための心尽しか。いずれにしても本図は、その大幅である点でも白隠山水図を代表する傑作といつてよい。大名行列が富士山麓を経て富士川に懸つたところ。先鋒隊は岩淵の宿に入りかかつている。渡頭の風情、山容など実景とそつくりで、富士宿の茶店で休んでいる寸景も微笑ましい。冬の真景図である。富士は淡墨の外隈で冬山を浮き立たせ、どんよりした曇り空の冷たさを表わしている。付彩は、人物や著衣に点々と控えめに淡朱をさし、墨色を生かしている。
筆者は実のところ、これまで特に深く考えることもなく「何となくお目出たい太平の御代」を描いたものであろう、行列の人物像の動きはなかなか面白いなどと、漠然と眺めて来たに過ぎなかったのである。このほど白隠禅師の著作を整理する仕事にかかわって、この偈に出会ったのだが、その内容からすれば、どうやら単なる風景画ではなさそうである。「駿河時代を偲ぶための心尽し」としても、なぜ大名行列をかくも細密に書かねばならぬのか、その理由は少しも明確にはならぬ。画師の描いた画ではない。白隠禅師の何らかの真意が必ずそこに秘められているはずだ。いったい大名行列を細かにを描き込んだのには、どのような訳があったのか?。こんな疑問が湧いて来たのである。
こんなことを考えている折りに、白隠禅師の仮名法語『辺鄙以知吾』を読んだ。岡山藩第四代藩主の池田継政(1702〜1776)に与えた手紙の形をとるもので、その内容は簡単に言えば、奢侈に傲る大名の生活が、結局は民百姓の収奪することになることを厳しく戒め、善政を施すことを勧め、それがためには「死字」に参ぜよ、という趣旨のものである。諸大名が多くの妾をかかえ、その上、時には京から数百両の大金で「舞子」「白人」といわれる戯女を買って国許に呼び寄せ、「二三年も玩びては、又は取かへ引かへ、扇子か煙管など取かゆる様に心易く覚へ玉ふ諸侯も是有るよし」と、大名の放逸で奢侈な生活を指弾し、「畢竟、憐むべく悲しむべきは領内の万民」であると、激しく批判している。そうした結果、当時頻繁に起きていた一揆や強訴のことにもふれ、「窮鼠却て猫を咬むと云んか」と、百姓に同情を示し、一揆の「兆本(真犯人)は民にあらず、却て吏と長となる事を」と、はなはだ激烈な政治批判を展開しているのである。そして更に、いわゆる大名行列について、白隠は次のような手厳しい批判をくわえているのである(現代訳、大意)。列国諸侯の参覲交代の行列を見るに、先供え、後供え、長柄、槍、武具、馬具、籏竿、幕串などを連ねた夥しい人数の行列であります。時に、大井川や阿倍川でちょっとした川留めになると、川明けまで宿駅に滞留せねばならず、家柄によってはその費用は千両二千両にもなるということです。そもそも、大名行列は戦国時代の、生きるか死ぬかの一大事があった時代のしきたりでありましょう。家康公以来、いまや天下太平の御代であります。諸侯の道中往来について金銭の費やすことが家康公の御心ではないはずでありましょう。仁者は敵なしとも申します。どうかせいぜい仁政を施され、民を憐れむ政治をなされますよう。道中の用心のためならば、これはと思う者達を前後に十騎ずつ召しつれられる方がよろしい。いいかげんなオベンチャラ者どもを千万人つれ歩くよりはるかにましというものです。とはいっても、大福力があって少しも民百姓を苦しめないというのでしたら、何万騎つれ歩こうと御随意ですが、どの国のことを聞いても、結局は百姓に皺よせがいくことは、まことに悲しい限りであります。
参覲交代の制は江戸以前からあったものだが、江戸時代になると、諸藩の大名を統制し、幕藩体制を維持する根本政策となり、諸大名は在府・在国一年交代となり、大名妻子をはじめ多くの家臣団が江戸に常住することになった。八代将軍吉宗は、幕府財政再建のために、享保七(1722)年、上米(一万石に対して米百石)をさせる代償として参覲交代を緩和し、在府半年・在国一年半としたが、やがて1730年にはまた旧制に復した。すなわち白隠禅師の時代はこれに当たる。
例えば、『辺鄙以知吾』が宛てられた先である岡山藩の場合、元禄十一年の「総人数御供方在江戸共」によれば、同年の参勤共人数は1628人、江戸在住者は1394人。合わせるとおよそ3000人となる。参勤供人の内訳は、侍一一五、徒(かち)八一、坊主二八、御手廻り二七、御六尺(駕篭を担ぐ人足)一四、御触番二二、御中間五二、御足軽一七六、御小人(こびと)二九一、又者(またもの)(臣下の臣のこと)七五六。道中費用は、寛政十年から文政九年まで二十八年間の平均は約3000両という(以上『藩史大事典』)。現代の貨幣でいえば、およそ3、4億円という経費である。宝永四年現在の御家中男女人数が約一万人とある(『藩史大事典』)が、この数字から右の参勤供人数および在府人数を見れば、およそ三割を占めることになる。参勤の道中費と江戸と国元での二重生活の経費が、いかに藩財政に影響を与えたかが推測できる。
このように、諸大名の参覲交代に要する費用は莫大なものであったから、幕府もしばしば制度を改めることもあったが、根本的に改善されるわけではなかった。むしろ、諸大名は互いに威勢を張り見栄を飾る傾向にあり、結果的にこれが諸藩の財政を圧迫する主因ともなった。殊に、九州大名の場合は遠方であったために出費がかさみ、財政に深刻な影響をもたらした。白隠とも関わりの深かった肥前の蓮池(はすのいけ)藩鍋島侯(『遠羅天釜』は鍋島侯に宛てて書かれた)の場合など、元文三年(1738)には参勤中止の旨を佐賀本藩に願い出たが許されなかったという。延享一年(1744)には、蓮池藩をはじめとする佐賀の三支藩が病を理由にして参勤を遅延したが、幕府からきびしく糾弾されることもあった。
行列は東海道を通るものが全体の六割を占めたといわれるが、原宿の「駅亭の長」の家に生まれた岩次郎は、幼少時から大名行列を間近に見ていたであろうし、松蔭寺に住職してからも、寺前を多くの大名行列が通ったことであろう。白隠禅師はこの制度の皺よせが結局は民百姓に帰するのを、実に苦々しい思いでみていたのである。
このような内容の『辺鄙以知吾』であるから、当然起こり得ることではあったが、果たして「発禁」となっているのである(この事情については、また別に触れてみたい)。参覲交代の大名行列は、幕藩体制の根幹であり、それが各藩の財政を逼迫し、百姓を苦しめる苛政の一因ともなっていた。白隠は唾棄せんばかりの調子で、それを厳しく批判しているのである。かかる考えの禅師が、単なる風景画の画題として大名行列を取り上げるはずはない。必ずや、批判の対象として画題にしたものであろう。
以上のことから、この偈と絵の意味をさぐってみたい。
かねて達磨の画を頼まれていたが、ここに達磨の真骨頂を画にして、はるばる豊前の自性寺和尚にお届け申し上げる、というのである。しからば、中央に描かれた巨大な霊峰白富士は、達磨の真面目そのもの、仏性であり自性そのものの象徴であろう。筑摩書房の図録『白隠』[一九〇]の「富士三保松原図」の賛に、
恋ひ人は雲の上なるおふじさん
はれて逢ふ日は雪のはだ見る
また[四一〇]「おふじさん」の賛に、
おふじさん 霞の小袖ぬがしやんせ
雪のはだへを 見度うござんす
とある。かつて一休は「本来の面目坊が立ち姿、一目見しより恋とこそなれ」と詠ったが、白隠の「おふじさん」は、すなわち一休の「本来の面目坊」である。巨大な白富士は仏性、自性の象徴である。いいかえれば、白隠禅の当体、また白隠禅師そのものと言ってもいいであろう。「それ、この白富士のごとき美しい〈自性〉をば識得せよ。それがためには、ぜひとも隻手の声を聞きとめられよ」と白隠が語りかけているのである。自性寺和尚に、自性が歴歴と顕現した富士図を贈った所以であろう。

いま「大名行列図」を概観するに、大きく二つの部分に分けられるように思う。AとBである。Aでは巨大な白富士が中心になり、脇街道の茶店には、三人の巡礼者と思しき人物が見える。厨子を背負っているから六部であろう。床机には僧体の人物が腰をおろし、富士を眺めているようにも見える。往還には二人連れの乞食(一人はゴザを背負う)と飛脚など姿が見える。この部分だけを見るならば、実に平穏無事な風景である。
それに対して、L形のB部分には、行列を中心に夥しい数の人物が描かれている。行列の配置と人数は、左から順に次のようである。騎馬一、鉄砲六、騎馬二、弓六、騎馬一、長柄六、先箱二、騎馬一、徒士八、陸尺(駕篭)四、長刀二、徒士三、騎馬二、毛槍二と、毛槍のところで画面は切れているが、行列は以下に陸続とつづくはずである。傍らに伴うものは、合羽駕篭三、何やら箱を背負った人物などが配されている。川辺には人足を中心に二十人ばかりの人物が描かれる、この川は、『東海道分間絵図』と照合して見れば、富士川であることが分かる。対岸は岩淵の宿である。川には十三艘ばかりの舟が描かれる。富士川は、大井川、阿倍川のような「歩(かち)渡り」ではなく、渡船であったから、いま舟による川越の準備をしているところであろう。対岸には、街道沿いに十五六人ほどの人物がいる。侍もおれば、僧体の者、厨子を負うた巡礼らしき人物も描かれているから、ここはまだ大名行列とは関わりないようである。
このL形のB部分に細やかに描きとめられた大名行列を中心とした光景は、いわば世俗諦そのもの、すなわち世法、俗世界の論理(幕藩体制の根幹制度)を、Aとは対照的に描いたものではないか。本来底にデンと「独坐大雄峰」した白隠が、さながら蟻の行列のごとき参覲交代行列を睥睨しているところであろう。
実のところ、少し離れて見るならば、行列の侍たち、またその他の人物は、まるで蟻のうごめくように見えて仕方がないのである。殊に、岸に近い部分には、大胆にデフォルメされた岩山が描かれているが、Aの富士を中心とした雰囲気とはおよそ対照的である。この険所と思しき山道を、八人と人物と二頭の馬が登っているところが見える。ちょうど「蟻の門渡{とわた}り」のようである。以下は、蟻に結びつけての勝手な想像である。
筑摩書房の図録『白隠』の[二一六]には「蟻に臼」図があり、賛に「麿をめぐる蟻や世上の耳こすり」とある。「耳こすり」は「一、耳もとでささやくこと、耳語。二、あてこすり」の義。渡世のあくせくも所詮は「磨を遶る蟻」みたいなものだぞ、というのである。
また『荊叢毒蕊』に「題蟻遶磨図」賛があり、次のようにいう。
cD蟻、鉄磨を遶る、遶り遶って休歇無し。
六趣の衆生に似て、輪転して出期無し。
此に生まれ、彼に死し、鬼と成り、蓄と成る。
此の患難を免れんと欲せば、須く隻手の声を聞くべし。
石うすを遶る蟻を、六道輪廻から脱却できぬ衆生に譬え、その苦難から逃れるためには、何としても隻手の声を聞かねばならぬ、というのである。
白隠はまた『寒山詩闡提記聞』巻第二で、
畏る可し輪回の苦、往復、飜塵に似たり。
蟻の環を巡って未だ息まず、六道乱れて紛紛たり。
頭を改め面孔を換うるも、旧時の人を離れず。
速かに黒暗獄を了じ、心性をして昏からしむる無かれ。
という寒山詩の注に「蟻磨」の故事を引いて説明し、さらにこの詩を釈して「此の詩は、三界流転の苦を述べ、以て自性を識得せんことを勧む」ものであると解説している。
この「大名行列図」もやはり一種の「蟻磨図」のように見えて来るのである。白隠は、身分が高く福貴自在の身に生まれたのは、過去の宿善の結果であるとし、それを忘れ果てて「福貴を恃み、威権にほこりて生民を苦るしめ、賦税を貪り、際限もなき悪業をつみかさね」るならば、「死後には必ず悪処に堕す」(『辺鄙以知吾』)という趣旨を、他の仮名法語でも繰り返している。画面の蟻のごとき行列は、一途に悪処にむかって行進してはいないか。中央にデンと坐す富士山(白隠)が、そんな俗界にあくせくする蟻(衆生)に向かって「須らく隻手の声を聞くべし」「自性を識得せよ」と説いているのであろう。
ところで、先に引いた『荊叢毒蕊』の書き入れには「視る者、疑著すること莫くんば則ち好し」とあった。いま詮索しているように、この絵には何か深意があるであろうと考えることは「疑著」することに他ならないわけである。この書き入れは誰の手によるものかは不明だが、他の記事から見て、白隠から直接聞いたと思われるものもあるので、恐らくは弟子に近い人のものであろうと思われる。この「大名行列図」が描かれた年次は特定できないが、『辺鄙以知吾』の発禁事件(恐らくは宝暦六年)に近い頃であったことが推察される。自性寺には、白隠が描いた、自性寺開山定円正覚禅師像がある。その賛には「宝暦第七丁丑歳中春佳辰」とあり、さらに「祖山帚公、書を裁して諄く老夫が賛字を請う。武臣、梅田伝二、真をDCげて鵠林の草盧に蹈入す……」とある。つまり、宝暦七年二月に、祖山和尚の意をうけて、中津藩の梅田伝二が松蔭寺までやって来て描いて貰ったのである。この賛偈は『荊叢毒蕊』拾遺に収められている。それに対して「大名行列図」賛は、拾遺ではなく『荊叢毒蕊』本篇に収められているから、これ(宝暦七年)より以前に書かれたものである。
さて『辺鄙以知吾』の発禁は、白隠および門下にとっては一大事件であったはずで、弟子たちにも周知の事実であったろうことは想像に難くない。まさに筆禍事件ではあるが、白隠老師が『辺鄙以知吾』『さし藻草』『壁訴訟』などで吐露する現実政治への批判は、この程度のことで已まるはずもない。林羅山の仏教批判に対する猛然たる反駁である『神社考辯を読む』という一文が『荊叢毒蕊』拾遺に収められているが、この一文を収めるのは止めた方がいいと提言した漢学者の梁田蛻巌に対して、白隠は激しく反発し、蛻巌に依頼していた序文も取りやめ(自性寺蔵の提洲宛書簡)、ついにはこれを収録して出版したという白隠である。信念は貫き通すのである。けれども、無用の摩擦は起こさぬに越したことはない。あれこれ説明せずとも一見便見、分かる者には分かる。「疑著すること莫くんば好し」という書き入れは、そんな事情から発せられた、白隠あるいは白隠周辺からの予防線だったのではないか、と思うのである。 |