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白隠禅師の仮名法語『於仁安佐美(おにあざみ)』巻之上は、「浄蔵浄眼二大士両宮」に宛てられた手紙の形をとる、漢字カタカナまじり、八十五丁の法語である。巻尾には「寛延第四辛未之暦、仲秋三五之佳辰」とあるから、一七五一年、白隠六十七歳の時のものである。宛名にある「浄蔵浄眼二大士両宮」というのは実は架空の名であり、実際には中御門天皇のふたりの皇女に出されたものである。浄蔵、浄眼という名は『法華経』妙荘厳王品に出る、妙荘厳王の二王子の名で、白隠は『へびいちご』でも、妙荘厳王とその二王子のことを言っているが、いま『おにあざみ』を本にするにあたって、その実名を出すことを憚って仮名を用いたのであろう。
中御門天皇の二皇女とは、宝鏡寺門跡である皇女浄照明院宮と、光照院門跡である浄明心院宮であるが、二人の略歴を『本朝皇胤紹運録』で伺っておくと次のとおり。
宝鏡寺門跡皇女浄照明院宮は、享保十年(一七二五)十一月五日誕生。母は民部卿典侍。嘉久宮と称す。同十六年八月四日入寺(七歳)。同日喝食。同十八年九月二十三日得度(九歳)。明和元年十一月三十日薨る(四十歳)。
光照院門跡浄明心院宮は、享保十五年(一七三〇)二月十七日誕生。母は民部卿典侍。亀宮と称す。同十六年十月二十三日、光照院を相続す。元文五年九月二十二日入寺得度(十一歳)。宝暦六年三月二十七日、色衣を聴(ゆる)さる。天明元年十月二日、二品に叙せらる。寛政元年三日薨る(六十歳)。
生母を同じくする五歳ちがいの姉妹で、幼時に出家している、この二人の姫宮と白隠禅師との出会いは次のようなことであった。白隠禅師の『年譜』によれば、禅師はこの寛延四年(の春の終わりか)岡山からの帰りに、京都妙心寺養源院に立ち寄り、そこで『碧巌録』を講じたが、その時に「宝鏡、光照の両公主、および皇女清浄光院、儀を潜めて会に臨む」だという。これが両宮とのご縁になったらしい。この時、両宮はそれぞれ二十七歳と二十二歳ということになる。
ところで『おにあざみ』の冒頭は次のような言葉で始まる(いま、大意を現代文にあらためる)。
○先頃は、思いがけず簾下に趨謁したてまつり、民間のいやしい言葉で弁説を弄し、……幾度かの評唱を致し、笑止に思(おぼ)されたのではと恐れ入りたてまつります。……駿河に帰る時も、御暇乞いと称して、それとなく推参致すべきかと、幾度も思いましたが、年老いて涙もろくなり、見苦しきさまを皆さまの御目にかけますのも愧ずかしいので、わざとひそかに帰って参りました。路すがらも帰った今も、何とぞ御不例ますます御快気ましまして、お元気にて菩薩の威儀を学ばせたまい、仏国土の因縁を成就せさせたまえと、ひたすらお祈り申しております。(一丁)
八月十五日(仲秋三五)の日付になっているが、京都から駿河に帰ってしばらくして、この『おにあざみ』を書き上げて、両公主に献じたものである。つづいて、次のように記す。
○貴ぶ可きことに、御二方とも生まれながら霊骨が厚く、御智徳もゆたかで、求法の御志も厚くおわし、近習や常随の尼僧、上藹たちも、万事しめやかに殊勝にお見請けましたからこそ、とるに足らない繰り言をくどくど申し上げ、尊聴を汚したてまつったのです。もしそうではなくて、世間並みの尼法師などのように無智昏愚のありさまでしたら、七十にちかい、世間には何の望みも持たない一介の老僧が、いったい何のお追従を申して、召されます度ごとに参上いたしましょうや。(二丁)
冒頭にも「簾下に趨謁したてまつり」とあり、ここにも「召されます度ごとに参上いたしましょうや」とあるから、白隠は妙心寺養源院で両門跡に会ったのみではなく、京都にいる間に複数回、宝鏡寺かあるいは光照院に招かれて行ったらしいことが分かる。この時の京都滞在は何日であったか『年譜』を見るかぎりでは不明だが、京の豪商である世継氏の家に滞在したり、画家の池大雅に会ったり、さらには遊女の大橋を接化したりしていることが記されている。
ところで『於仁安佐美』卷之下という別の本がある。内容は、伊予大洲城の武臣である加藤内藏之輔成章に宛てられたもので、主として「隻手」に参ずべきことを述べたものである(宝暦二年正月二十五日、すなわち、両宮宛ての手紙が書かれた翌年に書かれたもの)。したがって同じ題ではあるが、内容的にはこの「卷之上」とは連続しない、まったくの別本である。その冒頭に、いまここでいう京都滞在のことが、やや詳しく述べられている。
四月、本山華苑に於いて碧岩録一會、同く東福常樂閣上に於いて碧岩録一座。次に寶鏡、光照兩宮簾下の召しに應じて、禪門寶訓提唱數次。歸程、遠州見性禪苑。漸く當七月三日歸着。
すなわち、白隠禅師はおよそ三カ月間、京都に滞在したが、その間に宝鏡寺かあるいは光照院で『禪門寶訓』の提唱を数回にわたって行なったのである。妙心寺の養源院での『碧岩録』提唱ではじめて両宮と知り合い、その後にさらに宝鏡寺か光照院に招かれて行ったのである。
さて、両宮宛ての手紙の冒頭では、門跡方の日常が「万事しめやかに殊勝」であると褒め讃えているのだが、手紙の中盤になると、ずいぶんはっきりと、その日常生活のあり方に注文をつけるのである。言葉は敬語を用いてはいるが、ズバリと直截に提言する禅僧の苦言は、さながら鋭いトゲのある「おにあざみ」のようである。
○いずれにしても世捨人として死んでいく出家遁世の御身ですから、夏冬の御装束も、朝夕の御食事についても、すべて簡単になさるべきです。たとい八珍の御前が出されても、その中から御気に入った一品だけを召し上がり、御衣も麻衣に綿の御小袖というように、よろず質素になさって、宿世の善果を失わず、来生菩提の資糧を残し貯えられますように、とひたすらお祈り申し上げます。(二十九丁)
衣装のことについては、後段でも次のようにいう。
○世の中を思い絶った出家遁世の人などが、いかにも権勢がましく、似あわぬ綾羅絹布をもったいぶって着かざっているのは、戒律にもそむくことでもあり、罪深くあさましいことですが、お互いに名利の風には吹かれ易いもので、何とも残念で愧ずかしいことに思います。(三十八丁)
○御食事の時も、御給仕の人々が五人も六人もつかれるのは、はなはだ大層なことです。下々の者の目にはいかにも豪勢で、はなはだ結構なことに映るかも知れませんが、恐れ入りながら、そのようなことは仏の御教えには少しも叶うことではありません。願わくは給仕人は毎日一人に定められ、残りの四人には誦経書写、礼拝恭敬などを勤めさせられますならば、菩薩の威儀にも叶い、下化衆生の御営みともなりましょう。(二十九丁ウラ)
宝鏡寺や光照寺に幾たびか招かれて行き、そのたびに仰々しい供応にあずかり、その一部始終を見ることがあったのである。以下にも種々の苦言を呈するのだが、門跡寺院の生活の大概をつぶさに観察した上で、苦い意見を申し上げたのであろう。
手紙の冒頭に「何とぞ御不例ますます御快気ましまして」とあったように、宮門跡は病弱であられたようであるが、その病についても白隠はかなり手きびしい意見を申し述べる。
○物静かにして心の底まで澄みわたるような境界こそ楽しみであり望ましい、というようなお考えが起こりますならば、これこそ禅味に耽着するというもので、はなはだ障碍となる魔境ですから、そのようなお考えは早くお捨てになることです。そして、毎日一定時間じわじわと汗が出るほど、お働きになることです。それが何よりの養生でありますし、はなはだ定力をつけ、身心竪固を得る方法でもあります。下々の者たちは毎日、渡世のために手足を痛め苦しめておりますが、そのような者たちには、頭痛や疝気、労咳やつかえなどという病気のある者はいっこうにおりません。(三十二丁)
毎日の生活のために肉体を労している下々の者には、その程度の病いをかこつ余裕はない。いっそのこと、禅寺のしきたりにしたがって、おんみずから竹箒をとって作務掃除をなさることです、と勧める。
○掃地勤行はもとより叢林の旧規です。このように立派な門跡寺院に歴々の尼僧衆が大勢おられながら、掃地などはすっかり下郎奴僕にやらせておかれるのは、清規にも背き、徳行にも違うことになりましょう。昔のように宮中におすまいになられているのでしたら、このような事を申し上げる道理もなく、またはなはだ恐れ多いことですが、今は出家遁世の御身として寺におられるのですから、叢林の古風をたっとび、動容作務の中で定力を培われることです。……できれば、あなた様から率先され菷を持たれ、そして尼僧衆にも竹菷を一本ずつお持たせになり、つねづねお掃除をなさることです。世間はともかく、毎日動き働き、仏法の大義に忙しいのが貴院の家風であり、これが不断坐禅であると規矩を御定めになり、精彩を付けられますならば、作務労働そのものがそのまま七
助v八助vの坐禅と少しも違いがないということが、自然にお分かりになりましょう。(三十三丁)
当時の寺院には、大ていは寺男という使用人がいたのである。貧寺であった白隠の松蔭寺でさえいた。白隠が入寺した際には、実家の沢潟屋から、白隠すなわち岩次郎が幼少の頃から仕えていた七兵衛というのが手伝いに来ていたし、これ以外にも「角」という下僕もいた(『荊叢毒蘂』黒光辨)。宝鏡寺は都の門跡寺院である。多くの奉公人がいたに違いない。
元文三四年の頃(一七三八〜九年)に起こったひとつの事件がある。ここでの話から十年余り前のことである。浄照明院宮は、享保十六年、七歳で入寺したから、そのころは既にに十五、六歳であったはずだ。当時の尼門跡(つまり先代ということになるか、これ確認)は後西院の皇女であったが、書をよくする人で「都鄙他邦の寺社より額字」を頼むものが多かったということである。そのころ宝鏡寺に川崎兵庫と川崎斎宮という兄弟が寺侍となっていた。兵庫は同じく宝鏡寺の家司である池田監物、それに御家来分医師の津田亨庵としめしあわせて、「神号位階は容易ならず、宮御方にては難整事なることを」と、希望者に対して「別敕」だといって、多額の金品を賺し取ったというのである。この事はやがて露見し、池田は吟味中に牢死、川崎兄弟は死罪となった。京都町奉行の与力であった神沢杜口が記している話である(『翁草』卷六十六)。
ところで、白隠禅師よりのちの津村淙菴の随筆『譚海』(寛政七年[一七九五]の跋)には白隠禅師についてのいくつかの聞き書きが載せられている。このことは夙に陸川堆雲居士の『考証白隠禅師詳傳』でも指摘されているとおりだが、『譚海』巻十一に次のように言う。
白隠和尚上京の時、女院御所にて院参あり。其時女院の御装束、紫縮緬の御衣に緋縮緬の袈裟にてましましけるを、和尚拝し奉りて、出離を求むる者は、箇様成御装束にてはあるまじき由、申上られしにより、後々は如法衣にかへて入らせ給ふ。殊勝なる御事成とぞ。和尚一度院参ありて、度々召れん事をうるさく思はれ、心宗のむねを一巻にしなし、鬼あざみと號して奉られける。又一説には此法語あまりかどめきたるさまの書なりしゆゑ、鬼あざみとは院中にて名付させ給ふともいへり。和尚遷化の後、此のゆゑによりて、独妙禅師と諡號を賜りけるとぞ。
津村淙菴、名は教定、通称三郎兵衛。京都に生まれたが、江戸に移り、伝馬町に居住した。『譚海』は安永ころから寛政七年ころまでに、著者が見聞した諸国の各階層にわたるできごとを収録したものである。中でも「巻十一、十二は物識りの叔父の聴書と亡母の回想」を集めたものである(『日本庶民史料集成』巻八所収の解題)という。津村淙菴の叔父や母ならば、白隠とはほぼ同時代になる。京都にこのような噂が広まっていたと推測してもいいだろう。『譚海』の文中に「又一説には……鬼あざみとは院中にて名付させ給ふともいへり」とあるが、「おにあざみ」の題は白隠自身がつけているのだから、『譚海』にいう風聞の第一発信者は『おにあざみ』の本は見ていなかったのであろう。
『おにあざみ』の中であまりに「かどめきたる」苦言を呈した白隠禅師であるが、そののちも両宮様との交渉は続いたようである。『白隠和尚全集』(龍吟社版)巻六の四八〇頁には「銀首座に与ふ」という一通の書翰が収められているが、この中に「両宮様」とのその後の関係を伺わせる事柄が記されている。
……しからば御約束の荷物、疾(とっく)に遣り申す筈にそうらえども、此の方へ日頃出入り参学の居士、菴原村山梨平四郎と申す者の娘ども両人、つねづね信心なる者にて、坐禅も出精勤め申しそうろうところに、当春、比奈村より金剛塔を書き立て、両宮様へ指し上げ、高覧に入れそうろうをを、姉娘承わり及び、うらやましく存じ、恐れながら、延命十句観音の尊像(を)、針細工に致し立て、両宮様へ指し上げ申し度き願望、密かに存じ立ち、随分精進潔齊いたし、清浄に仕立て申しそうろうを見及び、妹もまた同じく密かに存じ立ち、随分清浄にあらまし出来寄せ申せしを、平四郎も一見いたし驚き入り、二人の娘共に寸志捨て置き難くそうろう間、近頃もって恐れ入りそうろう御事にそうらえども、延命十句観音にてそうらえば、作者は賎しき者にそうらえども、御取り次ぎ申し、指し上げ呉れそうろうように申しそうろう。親実に願い申しそうろう故、親子の者どもの微志、黙止し難く指し上げ申しそうろう。近頃労煩なる箱にそうらえども遣り申しそうろう。……。
宛先の「銀首座」は、龍吟社判『白隠和尚全集』の該尺牘の題には、白隠会下の葦津としているが、そうではなくて白隠下の指津宗珢(そうぎん)のことである。宝暦十年に妙心寺蟠桃院住持となった人だが、この時も京都にいた。書簡の年代は不明であるが、内容から推測するに、恐らくは妙心寺での碧巌録提唱のあった翌年であろう。右の手紙から次のことが分かる。
一、春、比奈村の無量寺(白隠が住していた)から、金剛塔を書いたものを両宮様へ指し上げた。二、菴原(えばら)村の山梨平四郎の二人の娘たちが、このことを聞いてうらやましく思い、延命十句観音の尊像を刺繍したもの献上したいと願望し、一生けんめい精進潔齊して完成した。箱に入れて送るので、まことに恐れ多いことだが、取り次いで宮様に献上してほしい。
山梨平四郎は菴原村の代々酒造業を営む素封家であるが、のち白隠下に参じて大悟したという了徹居士のことである。
以上、『おにあざみ』の中から、女院に対する禅師の苦言の部分のみを取り出して見たのだが、この書の大部分は禅の大要を懇切に述べ、動中の工夫を親切に説いたものであり、禅師の意図がそこにあることはいうまでもない。 |