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戒律のはなし(8)(199号所収)

仏教の未来

佐々木 閑(ささき しずか)

花園大学教授


 二年間にわたってコラムを連載してきましたが、あんまりだらだら続けても意味がないし、読者の皆さんも律の話にはうんざりしてきた頃でしょうから、このへんで締めにしたいと思います。最後ですから私自身の仏教に対する思いを少しだけご披露します。私は仏教が大好きで、特にお釈迦様がおつくりになった最初期の仏教僧団のかたちに惚れ込んでいます。そこにあるのは世界にも類のない、とても合理的で、しかも気配りの行き届いた宗教システムです。このコラムで何度も言ってきたように、仏教の究極の目的は、坐禅を中心とした仏道修行を徹底的に行うことにあります。とにかくできるだけ多くの時間とエネルギーを修行に使うという、その一事が重要なのです。托鉢するのも、粗末な袈裟で暮らすのも、男女がそれぞれ別れて集団生活を送るのも、およそ、仏教の生活スタイルというものはすべて、ひたすら修行を完遂するために設計され、構築されているのです。そういった仏教生活の細部を知るためには、お経や哲学書は全く役に立ちません。お経とか哲学書というものは、仏教の「精神」を語るものですから、頭で仏教を理解しようとする人には役に立ちますが、仏教の世界で実際に生きていくための方法については何も教えてくれません。それはお坊さんたちの生活マニュアルである、律にしか書いてないのです。ですから、仏教という宗教の運営システムを知り、「我々は仏教者としてどう生活すべきか」を理解するためには、律を学ぶしか方法がないのです。
 日本の仏教は、様々な歴史的制約のせいで律を正しく取り入れることができなかったため、「僧団のない仏教」という、きわめて特殊な形態になってしまいました。皆さんが「僧団だ」と思っているものは実は「教団」、つまり信者の集団であって、律にしたがって生活する純粋な出家者の集団というものは日本にはないのです(ただ禅宗の僧堂だけが、それに一番近い形を残しています)。ですから私たち日本の仏教者が律に触れる機会はほとんどないのですが、一方、スリランカや東南アジア、あるいは韓国や台湾のお坊さんたちは皆、律にしたがった本来の僧団生活を送っています。ここに、日本の仏教と、それ以外の国々の仏教との間の決定的な壁ができてしまいます。この壁を乗り越えて、すべての仏教者がひとつの宗教のメンバーであるという自覚を持つためには、我々自身がよく律を学び、自分たちに欠けている点や、あるいは逆に自分たちの方がすぐれている点をしっかり認識したうえで、対話していかねばならないのです(これについては『戒律文化』創刊号、三ー一七ページで詳しく述べましたのでご参照ください)。
 以前、私自身が直接聞いた話ですが、ある仏教の親睦団体が募金でお金を集めて、それでスリランカに保育園を造ったそうです。貧しいスリランカの村に立派な保育園の建物が建ち、地元の人たちはたいそう喜んだということです。いい話ですよね。ところがその団体の人たちは、日本から阿弥陀様の仏像を持っていって、その保育園の真ん中に安置し、通ってくるスリランカの幼子たちに教えて、毎日その阿弥陀様に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えさせているのです。これはいい話ですか? 私は恐ろしい話だと思いました。その団体の人たちは、この話を嬉しそうに語っておられましたが、私が「スリランカの上座仏教と、日本の浄土系仏教は本質的に異なる宗教だから、金にものを言わせて、自分たちの教義を、しかも理屈の分からない幼い子供達に押しつけるのはよくない」と言うと、大変驚いた様子で、「でも大乗も小乗も、仏の慈悲の眼から見れば結局は同じ世界だと聞きました。ですから小乗の人たちだって、お念仏を唱えれば極楽に行けるんじゃありませんか」とおっしゃっておられました。「大乗も小乗も元は同じだ」という主張が、小乗仏教を取り込んでいこうという大乗側の勝手な戦略だという、一番大事な点を学んでいないからこうなるのです。「哀れな異教徒よ、本来ならば地獄行きが決まっているお前達を、神の愛によって救ってやろうというのだ。感謝せよ」と言いながら、アジアやアフリカに布教し、植民地政策の土台をつくっていったキリスト教宣教師たちの姿とダブります。
 親睦団体の人たちが、なにか悪い心を持っているとか、下心があるなんて思いません。皆さん、優しくて、人のためになにかしてあげたという気持ちで一杯の、尊敬すべき人たちばかりです。では一体どこに間違いがあるのでしょう。答えはひとつ。仏教を日本という狭い世界の中だけで理解して、それで世界中のすべての仏教が分かったと早合点しているところに問題があるのです。責任の一端は、そういった考えを信者さんたちに広めている、日本の仏教各派にもあります。狭い日本でしか通用しない特殊な考えを、まるでそれが世界中どこへだしても理解してもらえる最高の教えであるかのように思い上がって無理強いし、結局それがまわりの国の人たちに大きな害を与えることになる、というこの構図は、戦前の大東亜共栄圏構想と同じものです。今は、昔のように、他の宗教を押しのけて、ひたすら信者数を拡大すればそれでよい、という時代ではありません。ひとりひとりの人間に人権があるように、ひとつひとつの文化には文化の権利というものがあります。それを皆が自覚する時代になっているのです。相手の文化に敬意を払い、それを尊重しつつ、「日本にはこういう考えもあるのですがどう思われますか」と穏やかに自分たちの考えを提示し、それでそれが受け入れられていくのであるなら結構なことだと思います。ともかく大切なのは学ぶことです。自分が修行して、自分が悟りをひらくのなら学問はさほど必要ではありませんが、それを人に教えていこうというのなら、少なくとも、世界にはいろいろな考えの仏教が存在することや、それらの教義が根本的にはどういうものであるかといった事柄を正しく教えられるくらいの勉強は必要でしょう。仏教のことを知らないお坊さんというのは、魚の捕り方を知らない漁師さんというのと同じで、笑い話にもなりません。これを読んでおられる皆さんにお願いします。どうぞ、仏教のことを一杯勉強して、そのクールでスマートな本当の姿を、世の大勢の人たちに紹介してあげてください。仏教の未来が開けるとすれば、それは儀式の収入で生き延びる葬式仏教ばかりでなく(もちろんそれはそれで意味があるのですが)、お釈迦様の時代のように、若い人たちが我先に参入してくる、格好いい集団としての仏教が復活した時でしょう。そして、その格好良さを考えるための、絶対欠かせない虎の巻が、律なのです。ですから、日本仏教とは直接の縁がなくても、それを学ぶことはとても大切なことなのです。
 二年間、律のことばかり書いてきて「花大の佐々木というのは完全な律オタクだ」と思われていることでしょう。まあ、半分は当たりです。でも私は律の他にも、アビダルマと呼ばれる仏教の一大哲学体系も研究していますし、仏教と自然科学の関係についてもいろいろ考えています(ただし、この分野には怪しいインチキ学者も沢山いるので困っているのですが)。そういう別の分野についても機会があったらご紹介していきましょう。ただ、律とアビダルマと自然科学と、三つのうちのどれを優先するか、と問われたなら、今の日本仏教が直面しているいろんな問題を考えた時、どうしても律から語らねばならないと思ったのです。おふざけ半分のコラムでしたが、実は私はとても真面目なんです(こういうこと言うのが不真面目だっちゅーの)。連載中、いろんな人から激励やお誉めの言葉をいただきました。お叱りの言葉もあったかもしれませんが、健忘症なもので、そういうのはすべて忘れました。ともかく多くの人が私の愚見を読んでくださっているということを知り、本当にうれしく思いました。また、機会があったらご縁を結びましょう。ありがとうございました。

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