このコラムでは、仏教の律を中心にしていろいろな珍しい話を紹介しています。あんまり役には立たないでしょうが、仏教というものが聖も俗も含み込んだ、おそろしく広大な世界だということは分かってもらえるのではないかと思っています。しかしなにしろこんなに限られたスペースで、しかも一話完結で連載を続けようとすると、つい狭い領域の一テーマだけをとりあげることになってしまって、律という資料全体の姿を皆さんにお伝えすることができません。皆さんはきっと「律にいろんな面白い話が入っていることは分かるけれど、その律というものは全体としてどんなものなんだろう」と疑問に思っておられるのではないでしょうか。そこで今回は、そういった疑問に少しだけ答えられるようにしたいと思っています。
律という資料は大きく分けて二つの部分からできています。前半は、「お坊さんはなになにしてはならない。この規則を破った者にはこれこれの罰を与える」といった具合に、出家者の禁止事項を並べたもの。それは全体で約二百五十条あります(女性の場合は三百以上)。後半は、日々の僧団生活で行われる活動や行事のやり方を決める部分。つまり僧団生活のマニュアルです。たとえば、お坊さんどうしがけんかになったら、どうやって和解させるか、といったことが決められています。でも律の内容がこれだけだったら、たいした量にはならないと思われるかもしれませんね。禁止事項二百五十条といったところで、ならべてみればわずか数ページにしかなりませんし、活動マニュアルだって、基本的な部分だけならわずかなものです。しかし実際の量は、その何十倍もあります。その理由は、ひとつひとつのきまりに対して、それが制定されることになった因縁や、それを破った悪い坊さんの具体例など、いろいろな付加説明がくっついてくることにあります。譬えていうなら、法律の条文を集めた六法全書だけならたいした量ではありませんが、それに基づく今までの犯罪例をすべて集めたら山のような量になるのと同じです。そして、律の面白い話は、そういった犯罪の具体例の中に一杯入っているのです。
律は仏教世界の法律ですから、とても杓子定規で厳密なものです。本当に、一見したところではバカバカしく思えるほど杓子定規なのです。しかし、法律というものは本来そういうものでしょう。あいまいな定義や、いいかげんな基準だったら世の中無茶苦茶になってしまいます。ですから、仏教の律がバカバカしいくらいに杓子定規であるということは、仏教という宗教がとても見事な法律体系を持っていたということを意味しますし、それは、それほど厳密な法律を必要とするほど、仏教は出家世界の円滑な運営を重要視していたということなのです。抽象的な話ばかりでは何も伝わりませんから、具体的な例をだして、律の見事な杓子定規さをご披露しましょう。今回は泥棒の話です。
律では、重大犯罪のひとつに窃盗をあげています。比丘や比丘尼が人の物を盗んだら、波羅夷と呼ばれる、とても重い罪となり、僧団から永久追放になるのです。条文だけでいえば「盗むな。盗んだら波羅夷である」と、まことに単純なかたちになるのですが、これだけでは法律とはいえません。「盗むとは、どういう行為を指すのか」がはっきり決まっていなければ、規則を適用することができないからです。では、律にでてくる、盗むという行為の数々をご紹介します。
「地中物」:金目の物が入った壺などが地中に埋められているのを知って、それを盗む場合。鋤など、掘るための道具を用意した時点では軽犯罪です。軽犯罪とは反省しただけで許される最も軽い罪のこと。地面を掘っても軽犯罪。ですから、鋤を用意して地面を掘ったら、軽犯罪を二回犯したことになります。地面の中の壺に触ったり揺らしたりしたら未遂罪。未遂罪だと、僧団追放にはならないけれど、それより一ランク軽い罰が与えられます。そして、その壺をもとの場所から移動させた時点で、本当の窃盗罪になります。では、壺そのものは動かさず、どんぶりを壺の中にいれて、それで中のお金をすくいとるのはどうでしょうか。どんぶりがお金に触ったら軽犯罪、そのあとどんぶりを動かしたら未遂罪、完全にすくい取った時点で窃盗罪です。中にあるのがお金ではなく、ネックレスのような紐状のもので、それを手で壺から引っ張り上げて取ろうとした場合はどうなりますか。手でネックレスに触れば軽犯罪、動かしたら未遂罪、そしてそのネックレスの下の端が、壺の口からほんの少しでも外に出たら、その時点で窃盗です。では壺の中に、カルピスみたいな美味しい飲み物が入っていて、それをストローで吸いあげて飲む場合はどうですか(カルピスというのは、インドの高級乳製品サルピスにちなんでつけられた名前です。ご存じでした?)。ストローで飲む場合、カルピスが、ストローの中を上に上に昇っている間はまだオーケー。未遂罪ですみます。なぜなら、吸うのをやめればカルピスは再び壺に戻っていくからです。ストローを通ったカルピスが口の中まで入ってきた段階でもまだ大丈夫。逆にストローを吹けば、口の中のカルピスを壺に戻すことができるからです(汚いなー)。でも、口の中のカルピスをゴックンと飲み下したら、もう戻すことはできませんから、その時点で窃盗となるのです。どうです、疲れましたか。地中の壺の中の物を盗むだけでも、これだけの場合分けが必要なのです。そして、このような分類が「地中物」以外にまだ三十以上あります。私などは、そういう細かさが大好きで、読みながら思わず笑ってしまうのです。全部紹介できないのが残念なのですが、面白い例をもう少しご紹介しましょう。
「税物」:脱税も立派な泥棒です。お坊さんが脱税するなどといってもぴんときませんが、これは関所を通る時の通行税の話です。世界中、どこでもそうですが、交通の要所には関所(今なら税関)というものがあって、そこを通るためには通行税を払わねばなりません。インドにももちろんそういう関所が各地にあって、通行人は単なる通行料だけでなく、持ち込む物品がある程度以上の価値の場合、相応の物品税を払わねばならなかったのです。空港で、私のような貧乏人ならば税関もフリーパスですが、高いおみやげや多量の商品を持ち込む人はそれに応じた税金を払わねばならない、それと同じです。お坊さんは原則として個人財産を持っていませんから、まず間違いなくフリーパスです。しかし場合によっては、価値のある物を人から布施してもらって、それを持ったまま関所を通るというようなこともあり得ます。その場合は、出家だからといって免除されることはなく、物品には税がかけられます。お坊さんはお金を所持できませんから、おそらくその場合は物納になるんでしょう。ところが、これを嫌がって、衣の下や鉢の中などに品物を隠して関所を通ろうとするお坊さんがいたらしいのです。払うべき税を払わないのですから、これは国家からお金を盗んだことになります。そこで律では、そのような脱税行為も窃盗であるといいます。もちろん波羅夷です。もう少し詳しくいうと、課税品を隠そうと思って、それに触ったら軽犯罪、動かしたら未遂罪、隠したまま税関の門を通りすぎて一歩踏み出したら未遂罪、そして二歩進んだら窃盗罪が成立します。また、関所の中から品物だけを先に門の向こうへ放り投げておいて、関所を通過してからそれを拾うというかたちの脱税も考えられますが、その場合は、品物を関所の向こうへ放り投げた段階で窃盗となります。悪賢い人がいて、一緒に旅をしているお坊さんに「あのー、実は私、かなり金目の物を持っておりまして、持ったまま関所を通ると随分と税金をとられてしまいます。そこでご相談ですが、関所を通る間だけ、その品物を持っていてもらえないでしょうか。お坊さまなら、関所の役人もフリーパスで通してくれますでしょう。無事関所を通ることができましたら、相応のお布施はさせていただく所存でございます。いかがでこざいましょうか」などともちかけます。それを承諾して、他人の脱税に協力した場合も、その坊さんは窃盗罪になります。脱税で利益を得たのですから当然ですね。
三十種類全部ご紹介できたらいいのですが、そんなページ数も根気もありません。このあたりにしておきましょう。今ご紹介したのは律の中の、窃盗に関するきまりですが、長い仏教の歴史の中で、その律に対して後の時代の人が次々に注釈をつけていきます。その注釈には、律の中では言い尽くせなかった、もっともっと細かい事例が一杯でてきます。こうやって仏教の法律体系は、ますますみがき抜かれ、細分化されていったのです。神は細部に宿るといいます。誰でもが一瞬で分かる大雑把な謳い文句だけが仏教の真髄ではありません。まさに重箱の隅をつつきながら、少しずつ少しずつ前進を続けた律の世界もまた、正真正銘の仏教世界なのです。
(窃盗に関する規則の出典については、佐々木閑「Samantap s dik
と律蔵」『仏教研究』第二十九号、二〇〇〇年、六九〜八九頁を見てください)
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