「国家の歴史」などというと随分深遠な趣があって、凡人には理解しがたい専門家の領域のように思えるのですが、国家だって所詮は一人一人の人間によって作られているのですから、人間と同じように個性というものがあります。その個性をうまく把握してやれば、一国の歴史をあたかも一人の人間の人生遍歴のように分かりやすく表現することもできそうです。明治以来の日本を、一人の男性にたとえてみましょう。江戸期の日本は、外の世界には全く気を配ることなく、晴耕雨読でのんびりひとり暮らしをしている男の子でした。勤勉で勉強好きで、しかも悪気のない純朴な人柄でしたが、なにしろ外の世界をなにも知らないという点では、家から一歩も出たことのない、世間知らずのぼんぼんでもありました。それが明治になって、ずるい人や愚かな人など、いろんな種類の人たちが暮らす世間の荒海に突然放りだされることになり、「これからは自分の力で世間を渡っていけ」と言われたのです。
そこでその男の子(以下、日出男と呼びましょう)は、まず世間の様子を知るために、一所懸命勉強します。そしてその結果、怖い世間で生きていくには、誰とけんかしても負けないように力一杯に努力して体力をつけ、どんなずるい人と商売しても損をしないように、智慧を磨かなければならないということに気付きます(富国強兵)。その地道な努力のお陰で、日出男はやがて世間でも知られるようになり、自信もついてきました。しかし自信がつくと同時に、それまでの謙虚さも薄れがちになり、時にはまわりの人たちに対して傲慢な気持ちを持つようにもなります。そうなると、自分より先に社会人になって立派な暮らしをしている先輩たちが羨ましく、時には妬ましくさえ思えてきて、なんとかその先輩たちに並びたい、追い越したいと思うようになります。そんな気持ちが相手にも伝わって、先輩の中には、日出男を生意気だと嫌う人もでてきます。そしてとうとう、先輩の中でも特に気が短くて乱暴者の熊夫とけんかになります(日露戦争)。まわりの先輩たちは興味津々、どっちが勝ってもいいんだけれど、普段から乱暴で評判の悪い熊夫が負けると面白いなーと思っていました。でも新参者で、しかも田舎出の日出男が勝つのは無理だろうなーとも思っていたのです。ところが実際に殴り合いをしてみると、なんと日出男が勝ってしまったのです。実はこのけんかには裏があって、熊夫は前の日に食べたご飯が腐っていて食中毒になり、この日ははじめから体力がなかったのです(ロシア革命前夜)。
しかし勝った日出男はすっかり有頂天になってしまって、そんな裏事情など気にもかけず、「オレはケンカの天才だ。どんな体のでかい奴と殴り合ったって、不思議パワーで最後には勝てるんだ」と思いこむようになります。そうなると、昔の純真さや真摯さは失われ、力を頼りに好き放題する乱暴な与太者にかわってしまったのです。がまんすることを忘れた日出男は、自分の気にくわないこと、思い通りにならないことがあると、すぐに暴力をふるうようになり、まわりの人たちから嫌われるようになっていきます。まわりの人たちは、説教したり嫌がらせしたりして(彼らだって善人ではありませんから)、日出男の乱暴を止めようとしますが、それががまんできない日出男はとうとう刃物を持って暴れ出します。みんなはそれを力ずくで押さえつけ、刃物を奪い、ぼこぼこに殴りつけ、足腰立たないようにして放り出します(敗戦)。
これにこりた日出男は心を入れ替え(ここが日出男の偉いところですね)、それからは暴力に頼らず、智慧の力だけで世間を渡っていくことにします。もともと勤勉で誠実な人柄だったのですから、もとに戻って真面目に勉強するうちに、たちまち優等生になり、「乱暴者の日出男ちゃんもすっかり更生して立派になったね」などと言われるようになります。こうしてつましい手仕事から再出発した日出男は、頭を使って次第に商売の手を広げ、家電、IT、箱物に娯楽となんでも来いの一大チェーンを展開し、皆も羨む大富豪になることができました(高度経済成長)。
ところが、あんまり儲かるものですから、またまた日出男の悪い癖、傲慢の虫が出てきて、「オレは商売の天才だ。他の奴らにはない不思議パワーがあって、放っておいても金が降ってくるんだ」と思うようになります。こうして遊び心が湧いてきた日出男は、地道に稼ぐよりも遊んで儲ける方法を選ぶようになり、人に稼がせて、そのうわまえで生きていこうと考えるようになるのですが、最後には金を預けた相手に根こそぎ持ち逃げされ、あっという間に借金暮らしに転落してしまいます(バブル崩壊)。本来ならここで心を入れ替えて、昔のような実直な商売人に戻るところなのですが、なまじ貯金が残っていたため、実際には貯金と借金で差し引き大赤字なのに、まだ余裕があると思いこみ、いまだに遊び癖が抜けません(国債と郵便貯金)。一所懸命勉強して、そのおかげでやっとここまで来れたというのに、その苦労もすっかり忘れ、「勉強なんかしなくったってなんとでもなるさ。なにしろオレは天才なんだから、のんびり空でも眺めていれば、パパッと閃いて世間をあっと言わせることなんぞ朝飯前。また昔の富豪生活にだって戻れるさ」などといってごろごろするばかり。他の人たちが机に向かって勉強に精を出している間も、一向、勉強する気配はありません。とまあ、こういうわけで突然話は終わりますが、それは、このぐうたら日出男が今の日本の現状だから、ここで終わらざるを得ないのです。この話の中、日出男、つまり日本は、大きな失敗を二回犯しました。腕力に自信をもって与太者になったことと、頭のよさに自信をもってぐうたらになったことの二回です。一回目の失敗は、敗戦による日本滅亡という結果で終わりましたが、二回目の失敗の結果はまだでていません。おそらく将来、なんらかのかたちで日本に不幸をもたらすでしょう。そして、この二回目の失敗の原因こそが「ゆとり教育」という名の世紀の愚行です。
お釈迦様以来、修行こそが仏教僧侶の唯一の目的でした。修行のためにはあらゆる日常生活を放棄し、すべての時間を注ぎ込まねばなりません。そうやって精一杯の努力をした結果として、僧侶は人として最高の安らぎを手に入れることができるのです。ここに手抜きや近道はありません。努力した人が、その努力に応じた結果を手に入れるという、まことにシンプルな流れがあるだけです。
ではもしそこに、「ゆとり修行」というものがあるとしたら、それはどういったものになるでしょうか。今まで一日十二時間坐っていたのを、八時間でやめるとか、一日二十ページ読んでいたお経を十五ページにするといったことはどうですか。確かに時間が余って楽ですね。でももちろん、それはその人が仏教者として堕落したことを意味します。どうしてもやらねばならないことを先延ばしにしているのですから、そのつけは必ず後でまわってきます。こんなのは「ゆとり」じゃありませんね。ただの手抜きです。もし本当に「ゆとり修行」というのならそれは、厳しい修行生活が続けられるよう、まわりの環境を整え、万全のサポート体制を敷くこと、修行者が余計なストレスを感じることなく存分に厳しい修行に専念できる場を用意することでしょう。こうすれば修行者は、他のくだらないことに気をつかわず、「ゆとりをもって」修行に励むことができるはずです。これが本当のゆとりというものでしょう。
実はお釈迦様は、そのことを十分ご存じでした。そして、修行者ができるだけ快適に、無駄に時間を浪費することなく修行できるよう考案してくださったのが、他ならぬ僧団(サンガ)という共同体組織なのです。サンガの中では、病気になった時の相互扶助体制や、雑役の当番制、儀礼の簡便化、托鉢の省エネ化など、修行をサポートするための様々な合理的システムが完備されており、僧侶は可能な限り最大の時間を修行に使うことができるようになっています(これらは皆、律の中で明記されています)。お釈迦さまは「ゆとり」ということの本当の意味をちゃんと分かっておられたのです。やらねばならないことは絶対にやる。そのためにはあらゆる無駄を省いて全力投球の体制をつくる、それが「ゆとり修行」です。
週に六日間、机に向かっていた子供に、「五日でいいよ。あとは自分の好きなことおやり」と言い、誰もが知っていてあたりまえのことを「そんなこと覚えなくてもいいよ。その分、自分の好きなことおやり」と言って放り出す、それを「ゆとり教育」と言うのなら、ゆとり国家日本の行く末も思いやられます。仏教はなにを置いても努力の宗教、「人の価値は努力で決まる」と宣言した宗教です。中でも禅宗は努力の価値を重視します。そういう意味では、禅宗の人たちこそ、「ゆとり教育」の愚かさが一番理解できるのかもしれませんね。
ぐうたら日出男君も、そろそろ目を覚まして、勤勉で実直な清々しい好男子に戻る時期でしょう。モラルの低下した日本で、なにを手本にして更生したらいいのか皆が迷っている時、「ほら、こんな近くに、何百年も前から立派な生活を守ってきた人たちがいるじゃないの」なんて言われたら、どうですか、うれしいことじゃありませんか。今の仏教には、そんな重大な役目があるのです。心して暮らしていかなければなりませんね。(私は生まれつきのぐうたらで、もう更生は無理なので、毎日やけ酒を飲んで暮らすことにします。悪しからず)
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