最近マカオがとてつもないカジノ地帯に変身しつつあるようで、経済界でも大きな話題になっています。もともと博打で有名な場所でしたが、経済成長を続ける中国のバブルマネーが一挙に集中し、かつてない多量のお金が行き場所もなくうんうんうなっているということです。お金というのは、使ってこそ意味のあるもので、ただ置いておくだけなら、なんの意味もありません。同じ置き物にするなら招き猫の方がかわいいだけましです。そういう、使い道のないお金がどっさり余ってしまったらどうしましょう。どうやったら、そのお金に有効な仕事をさせることができるでしょうか。答えは、先年の日本のバブル経済が教えてくれます。余っていて使いみちのないお金は、どんどん人に貸して、その人の事業資金として利用してもらいます。そしてその事業でもうかった分のいくらかを利子や配当として受け取ります。つまり資本家になるわけですね。バブルの時は、お金の余りかたが異常だったため、一個人に何千億円も貸し付けるようなとんでもない事態になり、借りた方の事業が行き詰まった時点で、経済が大崩壊しました。今、中国では、その余ったお金がマカオに集まっているわけです。
ともかく、余った金を人に貸して利息で儲けるというやり方は、いつの時代だって普通に行なわれていた経済行為です。闇金融、高利貸しなどというと悪辣なイメージですが、銀行だって郵便局だって、利息が幾分安いというだけで、業務内容は同じです。ですから、利息で儲けるという行為をなにか品のない商売法だと考えるのは全くの偏見です。というわけで、もうおわかりですね。今回は、金貸しをするお坊さんの話です。
熱心な信者さんが、お坊さんたちのために寺院を建ててあげたのですが、やがてその立派なお寺にもガタがきて、修理が必要となりました。そこで信者さんたちはお金をだしあって建設基金をつくり、「これで修理してください」といってお坊さんたちに渡しました。ところがお坊さんたちは、その基金をどうやって運営したらよいかわからず、寺の倉庫に入れっぱなしにしておいたため、いつまでたっても修理は進みませんでした。これを知って呆れた信者さんたちがお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、その基金を人に貸して利息で利益を出し、それで寺を修理するよう定められたのです。お釈迦様は、貸し出しの手続きまで決めてくださいました。「お金を貸す時には、その金額の二倍の担保を入れさせ、契約書をつくって保管せよ。保証書には年月日、寺院側の貸し出し責任者の名前、借り手の名前を明記せよ。たとえ相手が熱心な仏教信者(優婆塞)であっても、担保は必ず取れ」というものです。この話は、ある特定の律にだけ現われるものなので、ほんとうにお釈迦様がおっしゃったわけではないでしょうが、ともかく当時のお坊さんたちが、このような規律に基づいて金融で利益を得ていたことは確かです(『根本説一切有部毘奈耶』巻二十二、大正大蔵経二十三巻、七四一c
〜 七四三c)。
さてここで考えてみましょう。お坊さんが、貸した金の利息で生活することは許されることなのでしょうか。今、アメリカに大変有名な律の専門家がいるのですが、その先生は、この話を取り上げて「このことからも分かるように、仏教のお坊さんというものは、表向きの建前とはうらはらに、世俗にどっぷりつかった生活をしていたのだ」と言っています。私はこの先生と大の仲良しで、お酒を飲みながら一緒に律の話をするのが楽しみなのですが、こういう点ではいつも反対します。問題はそんな単純なことではないのです。私は、お坊さんが金貸しをしても全く問題ないと考えています。仏教の基本は修行です。できるだけ多くの時間を修行に使いたい。それが仏道修行者の基本姿勢です。全エネルギーを修行に注ぎ込むためには、日常の仕事などしている余裕はありません。だから俗世を捨てて出家するのです。でも、仕事をやめてしまったらご飯を食べることができない。そこで、人々の家をまわって余り物を分けてもらうのです。つまり乞食(托鉢)ですね。仕事にエネルギーを奪われることなく、修行に専念できる環境をつくることができれば、それこそお坊さんにとっては理想の生活なのです。ただし、そこにはある条件がつきます。一般社会からの布施で命をつないでいる以上、社会の人たちから顰蹙をかうような行為は決して許されないのです。社会常識を逸脱しない範囲で、最も効率よく生きていく、これこそがお坊さんにとっての最良の生活方法なのです。
ですから、信者さんたちからもらったお金を基金として人に貸し付け、その利息をもらうという、大変効率のよい生き方は、「まわりの社会がそれを嫌悪しない限りにおいては」正当です。先のお話では、利息分は寺の修理費として使うことになっていました。これも大事な点です。儲けたお金を、坊さんが自分の贅沢に使ったとしたら、おそらく信者さんたちは怒ってしまうでしょう。寺院修理という、公共の目的に使うからこそ、このような金融活動も許されたのです。「今の日本の寺院が金融業で利益を得ることは許されるか」と問われたなら、私は「うーん」と唸ってしまいます。その儲けがすべて、お坊さんの修行という、最も重要な活動のために使われるのならもちろんオーケーです(だから妙心僧堂が金融で生計をたてたとしても構わないのです)。しかし日本の場合、ほとんどの寺院は家族経営になっているので、修行以外にも奥さんの着物や子供の学費にもまわります。「金融で儲けて、それで家族を養うのなら、普通の金融業者ではないか」という批判が起こりそうです。寺の在り方は、その時代の社会の通念に連動するのです。
昔は寺で博打をすることが当たり前でした。あがりの一部は「テラ銭」といって、寺院の収入になりました。それでなにも批判が起こらなかったのですから、当時の社会通念では、「博打に場所を提供した利益で寺院経営を行なうことは、おかしなことではない」と皆が考えていたことになります。やはりそれも、儲けたお金が、寺の維持という公共の目的に使われていたからなのでしょう。今は、その「テラ銭」が「拝観料」になっています。考えてみれば、本来誰にでも門を開いていた仏教寺院が、お金を取って人を入れるなど、仏教の本義に背く行為です。しかし文化保存の意識が高まった現代では「貴重な文化を保存するという公共の目的のためなら、入る人からお金をとることも結構なことである」と社会が認めているので、このような制度が成り立つわけです。
今回は表題に「寺院カジノ」という、ちょっと奇妙な言葉を入れました。しかし、もともと「テラ銭」をとっていた時代、寺院はカジノだったのです。今我々が寺院カジノと聞いて、怪しげな、聞いてはならぬ言葉を聞いたような気になるのは、現代の通念として、寺と博打がどうしても結びつかないからなのです。きっと今の時代は、博打というものに対する人々の許容性が昔より厳しくなっているんでしょうね。ですからもちろん、現代において寺院カジノなど生まれるはずはありません。ただ今回言いたかったのは、寺院の有り様は時代によって様々に変化していくが、その是非を考える場合、必ず「修行する」という基本原則に立ち返って判断しなければならないということです。「あなたが変われば世界が変わる」は花園大学のキャッチフレーズですが、こちらは「社会が変わればお寺も変わる」というところでしょう。お金の話になったらいつの間にか予定の枚数を超過してしまいました。お金の魔力は恐ろしい。皆さんもお気をつけください。
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