禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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戒律のはなし(3)(193号所収)

比丘たちのひそかな悩み

佐々木 閑(ささき しずか)

花園大学教授


 お経と律、どちらもお釈迦様の言葉を伝え残す聖典として、古来、仏教徒たちによって尊重されてきました。しかし、この二種類の聖典は、性格が本質的に違っています。お経は、我々人間が悟りを得るためにはどうしたらよいのか、という問題に対するお釈迦様の答えを集めたもの、一方の律は、お坊さんが僧団で正しく生活するために守らねばならない規則を集めたものです。ですからお経は、どちらかといえば高尚で哲学的で、美しくてかっこ良く書かれています。それを読んだ人が、「ああ、仏教って素晴らしい。私も仏教の修行者となって、悟りを追求してみたい」と思わせるような口調で書かれているのです。
 それに対して律は、お坊さんが実際の日常生活で使う法律なのですから、きれいごとでは済みません。出家修行者とはいえ生身の人間。そんな坊さんたちが、何十人、何百人と集まって集団生活をするのですから、汚いところや生臭いところが、いたるところに顔を出してきます。そういった現実のどろどろした問題を解決し、僧団生活をできるだけスムーズに運営していこうというのが律の目的です。ですから律は、初めから、坊さん達の隠れた陰の面に焦点を合わせて書かれています。坊さんたちの衣食住、いやもっとはっきり言うなら、性欲、食欲、名誉欲、金銭欲に権力欲と、およそ坊さんには似つかわしくない様々な欲望が赤裸々に描かれているのです。
 もちろん、律の目的は、そういった欲望を抑えて清浄な修行者として生きるにはどうしたらよいか、という問いに答えることですから、本来非常に真面目なものなのですが、知らずに読むと、まるで仏教には欲望に目のくらんだ人ばかりいるかのように思われて、誤解されてしまいます。古来、律が秘密の書とされて、一般人の目に触れぬよう秘匿されてきた理由も、そこにあります。
 今でこそ、こうやって『禅文化』のコラムで呑気に紹介できるほど気安く扱えるようになりましたが、世が世なら私など、「律蔵秘密漏洩罪」で僧団から処罰されるほど、その取り扱いは厳しく制限されていたのです。そういった姿勢で書かれているものですから、律蔵には、一般人が思いもしないような、坊さんたちの悩みや苦労が描かれています。今回はそういった問題の中、当時の坊さんたちを苦しめていた、ある病気についてご紹介しましょう。それは痔です。

 お釈迦様時代、すでにインドでは医術というものが生まれていました。それはインド語でアーユルヴェーダと呼ばれています。最近では漢方と並ぶ東洋医学の代表として有名になってきましたね。その起源はお釈迦様がおられた、紀元前の時代にまで遡るのです。古い文献を見ると、当時のインド医術のレベルはかなりのものだったようです。治療のメインは漢方と同じく薬物療法ですが、その他に外科手術もさかんに行われていたようで、脳の切開手術の記録さえ残っています。
 さて、そんな時代、人々を悩ませたいろいろな病気の中でも、特にたちの悪いもののひとつが痔でした。今も昔も、痔という病気は、本人のつらさが周りに伝わらないという点で、一種独特の悲惨さを含んでいます。ある資料によると、有名なマガダ国のビンビサーラ王が痔になって悩んでいたところ、出血を見た后たちが「まあ、王様、月のものでございますか。王様も女におなりあそばして。もうすぐご懐妊あそばすのではございませんか」とはやし立てたということです。
 出家生活を送る坊さんたちにとっても痔は大敵でした。とにかく座る機会の多い修行者が痔になるというのは、ほんとうにつらいことなのでしょう、律の中でもいたるところに、そのつらさが記されています。当時の痔の治療としては、ナイフで患部を切り取る手術もあったようですが、お釈迦様はそれを禁じています。理由ははっきりしないのですが、陰部に刃をあてるという、過激な方法をお避けになったのではないかと思います。ではどうやって痔を治すのでしょうか。それについては次のような記録があります。

 ある比丘が痔を病んでいましたが、外に出てきた患部を爪でねじ切ったところ、あまりの痛みにがまんできず、呻き苦しんでいました。その時お釈迦様が、大悲の力に引かれてその比丘のところへおいでになって尋ねられました。「比丘よ、お前は何を苦しんでいるのか」。そこで比丘は合掌してお釈迦様を仰ぎ見て、苦しさに涙を流し、泣きながら病状を詳しく申し上げました。お釈迦様はおっしゃいました。「私は先に、お前たち痔を患った者が患部を切り取ってはならないと言わなかったか」。「はい、おっしゃいました」。「ならばなぜお前はこのようなことをしたのか」。「世尊よ、あんまり苦しかったからです」。「苦しさの余りやったことであるからお前に罪はない。今、お前たちに命じる。病気が苦しいからといって、爪などでその痔を切り取ってはならない。痔を治す方法は二つある。薬を使うか、呪文によるものである。今後、痔を自分で切ったり、他人に切らせたりしてはならない。これに違反する者は罪となる」。
 つまり痔は薬か呪文で治せ、とおっしゃっているのです。そしてお釈迦様は弟子たちに、その痔を治すために呪文を教えてくださいました。しかもその呪文を唱えると、痔が治るだけでなく、宿命智という神通力も得られるそうです。その呪文の最後は、次のような言葉で終わります。
 「北方大雪山王の場所に薜地多樹という大樹がある。それには三つの花が咲いている。一は相続、二は柔軟、三には乾枯という。その枯花が乾燥すると墜ちるように、私の痔病もまた、それが風痔、熱痔、 痔、血痔、糞痔、あるいはその他の諸痔のどれであっても、皆墜ちて干からびよ。出血も膿も苦痛も消え失せよ。すぐに干からびよ」。
 これを聞いて仏弟子たちは歓喜して承ったということです。

 大袈裟だと思いますか。しかし、悟りの道を聞いて歓喜するのが仏弟子ならば、痔の治療法を聞いて小躍りするのもまた、仏弟子です。痔の苦しみはよほどのことだったんですね。ここには、日々、日常を生身の人間として生きながら、悟りという絶対的な非日常を目指す、仏道修行者たちのありのままの様子が映し出されているように思います。文字通り、上から下まで、人間一人、まるごと包み込む仏教の修行生活というものを再度確認してみるのも重要かもしれません。

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