禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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戒律のはなし(1)(192号所収)

時代と学問

佐々木 閑(ささき しずか)

花園大学教授


 子供のころは、科学者になるのが夢でした。これは男の子としては普通のこと。女の子なら美容師さんかスチュワーデス、男の子はパイロットか科学者というのが、普通の子の理想でした。ニュートンやアインシュタインの伝記を読んでは、「天才ってすごいなー。誰も考えつかないようなことを一人の力でやってしまう、なにか超人的な力があるんだろうなー」と思い焦がれていたのです。その後まあ、いろいろ、いろいろとまがり道、くねり道があって、気がつけば畑違いの仏教学者になっているわけですが、それでも科学に対する憧れは今も変わることがありません。アインシュタインという名前を聞くだけで、今も背筋がぞくぞくしますし、ガウスなんて、思い浮かべただけで、ははーっとひれ伏してしまいそうになります。ただ、しかし、こういった学問に対する思いが、子供のころとは幾分違ってきてもいます。小さいころに、偉人伝や教科書で知った天才たちの姿というものは、時代を超越して一人屹立する孤高の人、といったイメージだったのですが、その後、歴史というものを本格的に勉強して、それぞれの天才が生まれ育った時代の社会環境や世界観といったものを知るようになると、そういった人たちが決して個人の独力だけで偉業を成し遂げたわけではなく、時代の必然的な流れとしてそれぞれの仕事に向かっていったということが分かってきました。大勢の人たちが時代の流れに沿って同じ方向へと進んでいる中で、先頭に立って皆をリードする、ひときわすぐれた能力を持つ者が、天才と呼ばれるのです。もしニュートンの時代にニュートンが生まれていなくても、必ずそれに代わる人が同様の仕事を成し遂げたでしょうし、アインシュタインがいなければ別の人が相対性理論を考えていたはずです。このように科学の発見が時代に依存するものだとすれば、その科学が定める法則というものも、決して絶対の真理ではなく、その時代特有の特殊な世界観の現われということになります。こんなことは学校の教科書では教えてくれません。私たちは教科書に載っている法則や定理を、絶対正しいものとして丸暗記したものですが、それは一時の方便。本当に学ぶべき事は、「歴史性を根底とした科学」、つまり、「真理は相対的なものだ」という事実であったと、大人になってから気がつきました。
 科学さえもが、時代に影響されるひとつの人間活動だということが分かってくると、仏教を学ぶことがいかに面白いことか、再認識できるようになりました。私がまだ小さいころ、私の大叔父で長井眞琴という学者さんが家においでになりました。そのころは東大の教授でした。父親に「あのおじさんは何をしている人か」と尋ねると、父は大仰に「あの長井先生は、パーリ語という古い言葉の専門家で、仏教の戒律を勉強している偉い学者さんである」と教えてくれたのですが、それを聞いた私は「なんてつまらない仕事だろう。どうせ学者になるのなら科学者になって新発見でもすればいいのに。もうなくなってしまった昔のことをほじくって何が面白いんだろうか」と思ったものです。私は現在、パーリ語の専門家で、仏教の戒律を研究する学者になっているのですが、今になって、自分の思い違いの訳がよく分かります。科学は絶対の真理を追究する崇高な学問で、仏教学だの歴史学だのは、過ぎてしまった過去のことをうじうじとつっつきまわすだけの無意味な趣味、というのが、私、幼少のみぎりの思いであったわけですが、その科学にも厳然として歴史的背景があるということを知るに至り、仏教も科学も、数学も哲学も、経済学も文学も、およそ学問と呼ばれるものはすべて、歴史性を基盤とした人間活動の一環として扱うべきものだと思い至ったのです。このように考えると、俄然、仏教を学ぶことに誇りが生まれてきます。科学も仏教も、その時代時代の最高の叡智が、宇宙の真理を解明するために懸命の努力をした、その痕跡であると考えるなら、同じレベルの気高き人間活動と考えることができます。仏教を歴史的に解明し、その意味を理解するということは、物理学の歴史を辿ってその最先端に立ち、宇宙法則を発見していく科学者の作業と、本質的に変わるものではないのです。
 小さいときの夢はかなわず、数学者でも物理学者でもなく、一見なんの面白みもない戒律学者になりましたが、仏教という智慧深き世界に触れることで、自分の身の上のありがたさを深く感じることができます。「長井先生、その節は、ご無礼なことを考えました。仏教の戒律って、ほんとに面白い世界ですね」。そして、この面白さを独り占めにしておくのはあんまりもったいないと思うものですから、つい他の人にも教えてあげたくなる。それが教育というものの意味なんでしょうね。ですから私は、毎日自分の好きな面白いことをやって、しかもそれをまわりの人たちに教えてあげて、そのうえ「先生」なんて呼んでもらえる、恵まれた人間なのです。
 『禅文化』にエッセイを連載しろといわれて、第一回目なので、自分自身のことを書きました。文才のない作家は、自分の身の回りのことをちょこちょこ小説にして場つなぎするそうで、まあ、そんなところです。次回からは、もうすこし硬派でいきます。

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