三余居窓話

 

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西村 惠信〔前花園大学学長・禅文化研究所所長〕

メドレー帽子のうた

三余居窓話29(2001/1)


     一
 この頃街を歩いていると、お年寄りも若者も、男も女も、さまざまな帽子をお洒落にかぶって楽しんでいるのが眼につく。若者のあいだに、一昨年は赤い野球帽なんかを前うしろ反対にかむるのが流行ったかと思うと、去年の夏はまた猫も杓子も眼の辺りまで深く被る登山帽がよく売れたらしい。女の人が黒くて庇の広いハットなどをやや傾けてかむっている様子は、映画に見る中世ヨーロッパの貴婦人が出てきたようで思わず立ち止まってしまう。
 昔は部屋に入るとき必ず帽子を脱いだものであるが、この頃では教室の中でも帽子をかむったままの学生がいる。注意をすべきではないかということになるであろうが、彼らとて今までに礼儀らしいことを教えられていないのだから、別に悪気があって突っ張っているわけでもなかろうと黙認している。 
 それにだいぶ前のことだが、ある男子学生のところへ近寄って無理やり帽子を脱がせようとしたら、事情があって被っていることが分かったので、これは酷なことをしてしまったと恥ずかしく思ったこともあって、いらい喧しく言うことを止めたのだ。
 考えてみると、たしかに帽子というものは単に実用品である以上に、むしろ装飾品として楽しむ物でもあるのだから、別に部屋に入ったから脱がなければ法に触れるというようなものでもないのである。
 じっさいヨーロッパやアメリカなどで、いくぶん古風なキリスト教会のミサにお詣りすると、教会の中で女の人がみんな帽子をかぶって祈っている。私はいまから四十年まえ、初めてペンシルヴェニアの教会に入って、それを見てカルチャーショックを受けたことを思い出す。そうしないと神様に失礼になるというわけで、行きがかりに日曜日のおミサに与かろうと教会の重いドアを押す女の人の場合、わざわざハンカチなんかを頭の上に載せている。
 もともと、帽子というものはハットにしろキャップにしろ、暑さ寒さに対して敏感な頭を保護するためのものである。お百姓さんが野良仕事に被るすげ笠や、股旅者が縞の合羽とともに被る三度笠、あるいはエスキモーの防寒頭巾などがそれである。それがしだいにあのアメリカインディアンたちが被る鳥の羽の帽子や花嫁さんの角隠し、あるいは民謡踊りの花笠というような装飾品となり、やがては王様の冠のように権力の象徴になったり、神主さんの烏帽子のように宗教的な象徴になったりしていったのであろう。
 このように、帽子という物にも人間世界ならではの捨てがたい文化の迹が染み込んでいる。

     二
 ところで、なぜ私が突然に帽子の話を始めたかというと、この頃しきりといろんな人から帽子を頂くからである。
 もう十年にもなるか、用があって天龍寺に行ったとき、平田精耕管長さんから、君これ被らへんかと言われて頂戴したのが始まりで、それはフランス製の黒いリボンで巻いたかんかん帽であった。
 初めはそれが幼稚園に通う孫娘の帽子に似ていて躊躇したが、かぶって歩いているうちになんともなくなった。ところがある日キリスト教の人たちとの例会で東京に行ったとき、フランス通の山口実さんから、それが女物で有名なフランスのブランド店のものだと分かって急に恥ずかしくなり脱いでしまった。
 いま被っているイタリア製の黒いハットは、かの名優アラン・ドロンが愛用のボルサリーノというやつで、旧友の娘が新婚旅行のみやげにくれた物。この帽子はさすがに上等で、折り畳んでポケットにしまい込んでも、取り出して拡げればまた元のように皺もないという代物である。もう一つの春秋に被って歩くやや薄手のハットは、私の教室で勉強したカップルが、これもハニームーンのみぎりフランスから買って帰ってくれたものである。
 そしてこれは特に内緒であるが、いつやら隣村の老人会に法話をしに行ったとき、いつも真ん中で聴いていてくれるなんとも可愛いい顔のお婆ちゃんが、話が済んだあと一人居残って、頬を紅く染めながら襖の陰からそっと手渡して下さった毛糸編みの手作りの正ちゃん帽。これはなぜか無性に温かく、母とともにいるような気がするので、衣姿でアメリカやヨーロッパに出掛けるときなど携えていく。
 ごく最近では、大学に通ってくるさる女の先生から、紺と緑と茶と黄がチェックになっている手編みのカラフルなハンチングキャップを貰った。さすがにこれは鏡の前に立って楽しむだけにしている。
 このほかカナダに行ったとき自分で求めたトリュードー大統領ご愛用とやらの防寒帽。これはエスキモーが氷になった湖に穴を開けてサケを釣るときに被るもので、内側を引っ張り出すと頬まで覆ってくれるので、冬の朝の通勤に重宝している。また、ミネアポリスのドレス祭りで買ったインディアンのキャップなんかは結構おしゃれな茶人帽になる。
 まあ、ざっとこんな風にして、私の手元には実に十指に余るさまざまな帽子が出番を待って並んでいるのであるが、なぜこのような仕儀になったかと言うと、理由は至って簡単、自分が坊主頭だからである。

     三
 私は小学校時代から一カ月にいっぺんの割りで、剃刀をもってきて頭をクリクリ剃られ、のれんを潜るとき頭を引っ掛けたり、悪童どもから「お初っ!」と頭を叩かれたりしたから、いつのまにか世にも稀なるヘアーコンプレックス症候群なる病に陥ったらしい。
 それでわが人生を省みると、帽子なしで過ごした日の記憶がない。私が持っている一番古い写真からして、すでに水兵帽をかぶっている。これは三歳の私を寺へ貰い受けた義母が、記念のために駅前の石尾という写真館に連れていって写したものらしい。
 高校生になると帽子は立派な装飾品となった。先輩の教えに従い、新しい学生帽にわざわざ鋏を入れて破り、それを縦横にミシンで縫いなおし、その上から卵の白身とタバコの灰をかき混ぜて塗りたくり、さらに靴墨で丁寧に磨き上げると完成。これは当時のばんカラ高校生の見栄であったから、いまの連中の茶髪を笑えない。
 高校を卒業したとき、私はこの帽子に宛てて墨と筆で恋文を書き添え、それを小箱にしまい込んだ。先般それを部屋の棚に見つけ、純粋であった少年の日の自分に感動した(「三余居窓話」十八―われら高校三年生―〈禅文化、一六八号〉を参照されたし)。
 今から五十年前の昭和二十七年の春、大学入学式の日、西ノ京円町のみのり屋という帽子屋さんに行って夢の角帽を買った。そしてそれを被ってそのまま大坂城博覧会に出かけたのであった。新しい学生服に角帽を被り、広大な博覧会場の雑踏をかきわけて歩いたあの日の押さえがたい開放感を今も忘れない。
 大学を卒業して専門道場に出立する日の朝、雲水衣に身を覆い、甲掛け脚半にわらじの紐をしっかと結び、肩に行脚の道具を振り分けて担ぎ、「では行ってまいります」と師匠に頭を下げて被った網代笠の重かったこと。まさに「笠は重し呉天の雪」を地でいく底のものであった。
 道場では、一,六,三,八の付く日,これを深々と被って京都の街の隅々まで托鉢して回った。己事究明のために世間を遮断する目的をもって考案された行脚の笠であるが、大学出たての私にとって、それは乞食する自分の顔を隠すに案配のよい道具であった。
 他方、用事を言いつかって道場から街に出るとき、片手に引っ提げるこの饅頭笠は、修行中の身であることを自負するに十分なシンボルとして、常にわが身を励ます伴侶となった。それは禅僧であることを真に誇りうる、わが生涯に於けるもっとも充実した時期であった。

     四
 話がハンチングから網代笠へと急転回したが、いずれも私にとって忘じがたい過去の記憶である。とは言え帽子と山笠とは同じく頭へ載せてもその用途が違うので、このことを少し確かめて見よう。
 『四分律』という戒律の聖典によると、帽子を被った弟子比丘がブッダの前に出てきて、バラモンたちはこれを尊い被り物としております。私たちにも是非お許し願いたいのですがと言うとブッダは、帽子は在家の被るものであるから許すことはできないと言われた。ところが頭が冷えて痛む弟子がたくさん出てきたので、ブッダは毛やバイタラ(多羅樹葉)で帽子を作って頭を(つつ)むことを許されたとある。『大比丘三千威儀経』には、五事といって師匠に対する五つの礼儀が示されているが、その一つにも師の室に入るとき脱帽せよとある。
 中国の禅僧も冬には常に帽子を被っていたらしく、『百丈清規』という禅林の生活規則を見ると、老師が説法する壇に登られたら、みんな一斉に脱帽せよと書いてある。もっとも着帽が許される時期がちゃんと決まっていて、これが日本に来ると十月五日から(南禅寺)とか、九月三十日から(相国寺)とか諸山によって違う。
 大徳寺や妙心寺になると、着帽の許される日が、九月九日、九月二十一日、十月一日、十月四日と、僧の位によって四分されていたというから、ご時世によっては問題となりそうな話ではある。
 臨済宗ではこの帽子を今でも「もうす」と呼んで儀式の道具にしているが、その定型は六稜(六つの角のある)帽子である。曹洞宗ではこれを頭巾と呼んで、その形や用い方にもおのずから違いがあるらしい。
 野外に被る笠について言えば、「古人は腰包頂笠して山門に入る」(『敕修百丈清規』)とあるように、行脚の僧はこれを旅の道具の一つとするのである。これはインドの律に定められたもので、これには「竹蓋」あるいは「葉蓋」の二種があって、傘のように持つ柄が付いていたのであるが、後になるとこの柄を取り去ってじかに頭の上に載せて歩くようになったのだという。

     五
 さて、専門道場の生活に別れを告げて、ふたたび大学という娑婆世界に戻った私が愛用したのはベレー帽であった。ところでベレー帽が身に付くまでには被り方についてかなりの訓練を要した。被りようによって形はどのようにもなるから難しいのである。ベレーというものは、どのように被るかによって本人のパーソナリティが丸出しになってしまうという油断のならぬ被り物。
 こんな危険な代物に手を出したそもそものゆえんは他でもない。きれいなお嬢さんとのお見合いの日が近づいて、それまでの薄汚れた登山帽では相手に馬鹿にされるに決まっているし、そうかといってシルクハットや中折れ帽も似つかない。いかが致したものかと三日三晩思案した結果の名案であった。
 初めて挨拶したときは帽子を脱ぎ損なった。二度と元のように被れないかも知れぬと危惧したからである。琵琶湖の畔にある料理屋を見つけて座敷に上がったが、ここでもベレーを脱ぐチャンスを逸し、遂に被ったまま飯を喰ってしまった。
 彼女が私との結婚を決断したのは、次のデートのとき私が帽子を脱いで頭に髪のあるのを見せたときだったと言う。頭に載せた帽子ひとつが人生を決定するとは、またなんとも恐るべきことではないか。
 虎関師錬和尚の『済北集』に帽子の(うた)と言うのがある。「六稜一貫一糸通ず、機事機心もと同じからず。惜しむべし眼中羅穀(ら こく)の隔たることを、又た頭上に安ず幾重々」という格調の高い詩であるが、今にし思えば、ベレーの内側を見抜けなかった荊妻も、ベレーを脱ぎ損なった私も、ともに一喝されているような気がするのである。


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