三余居窓話

 

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西村 惠信〔前花園大学学長・禅文化研究所所長〕

郷愁の地蔵菩薩

三余居窓話26(2000/4)


     一
 話の種が切れたので、机の前に坐って眼をつむっていたら、不思議と地蔵菩薩の姿が浮かんだ。なぜ、にわかに地蔵菩薩のご来臨となったか分からないが、たぶん今朝ほど本堂に掛けたお釈迦様の大涅槃図を見ていて、仏陀の入滅を悲しんで泣き崩れている仏弟子たちの丸い頭が深く脳裏に焼きついたせいであろう。
 子供の時分からずいぶんと思い出の深いお地蔵さん。いやそれどころか、やがてこの世をおさらばしたなら、冥土の旅の路すがら、なにかとお世話になるに決まっていることを思えば、今朝の不思議のご登場を無かったことにするのは、いささか心残りというもの。
 そもそも、私が生まれた生家の仏壇のご本尊が地蔵菩薩であったということから、お地蔵さんとの深いご縁に結ばれた。私は二歳のとき仏縁があってその家を出たから、仏壇の本尊さまがお釈迦様であるか、観音さまであるかは知る由もなかった。ところが青年になって我が家を訪ねることを許されてからは、年に一度ぐらいはその方へ出かけるたびに、両親の位牌の前に詣でてお経を読むのが楽しみとなった。
 もちろん母の顔は知らないし、父には生前に二度面会しただけなので、せめて位牌とでも対面したいという乳離れのしない情けない理由なのである。とりわけ地蔵さんの顔がなんやら母に似ているように思われて、それが私にとって無性に懐かしいのである。
 もう一つ。わが寺の本堂須弥壇の脇に小さな厨子があって、そのなかに地蔵菩薩の摺り絵が一枚貼ってある。その前に毎朝お茶湯を供えることが今も続いている。子供の頃ただ一度、育ててくれた今は亡き母ひさが、頑是ない私を抱っこして高い仏壇をのぞかせ、「あんたはこのお地蔵さんの申し子やで」と教えてくれたことがある。私はただ狐につままれたような気持ちであったのを覚えている。話はこうであった。
 昭和初年の当時は、まだ禅僧が子供を持つというようなことが憚かられたのであろうか、
私の記憶を辿っても、その頃どこの禅寺の和尚もまだ恥ずかしそうに妻帯を始めたばかりで子供を持たず、わざわざ在家から子供を貰っては小僧として育てていた。
 そういうなかで、なぜか子供を欲しがった私の母は、汽車に乗って一時間もかけ、野洲の「子安地蔵」に通い、子授けを祈願したという。満願の日が近くなったころ生まれて間のない私に、この寺にくる縁が結ばれたというわけであった。今になってみると、自分がそういう古い時代の民衆の、素朴な地蔵信仰と無縁でない生涯をおくることになったことに、不思議な因縁を感じるのである。

     二
 地蔵信仰といえばこの私でさえ、住職時代に約五千万円かけて二棟の地蔵堂を改築した。一つは境内にある「乳地蔵堂」、もう一つは村の外れにある「金九郎地蔵堂」である。別に無理やり寄付を集めて建てたわけではない。ともに徳川期の@rbむなふだ@$@[棟札@]の掛かる古い地蔵堂を、バブル景気にのって改築しようという檀家衆の熱い要望が一致したからである。
 本尊の地蔵さんといっても、いずれも決して立派なものではない。縦横四十センチほどの石の塊りに地蔵菩薩の像が刻んではあるが、風化してしまって今はほとんど分からなくなっている。このような石の塊を祀るために、何千万円という費用をかける理不尽が、今日なおまかり通る話に眉をひそめる読者も多いことであろう。まこと現代の怪談とも言うべき信じられない話がここにはある。
 私の少年時代、「乳地蔵」の前にいつも十個ほどの茶碗が列べてあった。みどり子を失った母は余れる母乳をこのお地蔵さんに預け、母乳の細い母は空っぽの茶碗を供えて地蔵さんにお乳のお授けを願ったのである。「金九郎地蔵」の方は、町の六地蔵としてその縁起が能登川町刊行の『ふるさと百科―能登川てんこもり』に収められている。
 金九郎地蔵堂は徳川時代から村人の信仰を集めたらしく、今でも八月二十三日の夜から二十四日にかけての地蔵盆には、百戸の家からそれぞれお盆に山盛りのお菓子が供えられ、子供たちは赤い提灯の並ぶ下で徹夜の遊びをして、少年時代の思い出をつくる習慣が続いている。私が上級生から花札合わせやトランプ占いを習ったのも、みんなこの地蔵盆の夜であった。懐かしいあのころの人たちは、今はもうみんな老人クラブの会員になっている。

     三
 大学を出て南禅寺の僧堂でお世話になっているとき、柴山全慶老師が面白いことを言われた。お前さんらなあ。地蔵さんというのはなかなかご苦労さんなことじゃ。夕方になると、野辺に立っている地蔵さんのところへ金持ちの旦那がやってきよる。「お地蔵さん、どうか今夜も泥棒が私の家の蔵を狙って、忍び込んでくるようなことがございませんようにお守りを願います」と、懇ろにお参りをする。だが地蔵さんは、よし引き受けたとも何ともおっしゃらない。ただじっと黙って立ってござるだけじゃが、それでも旦那の方はそれで満足して帰っていくじゃろう。
 しばらくして辺りが薄暗くなってくると、今度は頬かむりをした泥棒がやってきて、「今夜はあの金持ちの蔵へ入りたいので、万事よろしく頼みます」とお願いする。地蔵さんはやっぱり沈黙。人様のものに手を出してはいかんとか、見つからぬように応援してやろうとかは言わんわけだ。だけど泥棒は地蔵さんが願いを聞き届けてくれたという気持ちになって帰っていく。
 お地蔵さんのように、両方の勝手な願いを聞いてやるのはなかなか大変なことじゃないか。じゃから黙って聴いているより仕様がなかろう。それでいて旦那の方も泥棒の方も救われるというのじゃから、これは大したハタラキとせねばなるまいねえ、とまあそういう話であったように思う。
 まだ私は入門早々で頭の剃りたての新到。坐禅にも馴染めない頃の話で、ただなんとなく面白く聞いていただけであったが、この頃になって思い返してみると、これはなかなかに味のある話であったことになる。
 たとえば『維摩経』というお経は、大乗仏教の中道思想を実にドラマチックに説いたものであるが、特に「入不二法門品」という章では、仏弟子たちが維摩居士に向かって「不二の法門」、つまりいずれにも偏らない中道ということについて自分の考えを述べる。そして最後に文殊菩薩が、「みんなそれぞれが説いた説明はそれでよいが、みんなが説いたものはやっぱり二つになってしまっていると言わなければならない。なんにも説かず、無語、無言、無説、無表示、しかも説かないということも言わない、これが不二に入るということではないか」と言うのである。そう言っておいて文殊は維摩居士に、「わたしたちがそれぞれ申し上げたのですから、貴方も不二の法門について何か説いていただきたいものですが」と言うと、維摩居士は口をつぐんで一言も言わなかったと説かれている。
 これが有名な「維摩の一默、雷に似たり」と言われるもので、維摩居士はただ黙って居られたというが、その含む意味の恐ろしさは百雷が同時に鳴り響くほどであったというのである。そう言えば仏陀も、外道たちの出した十四の形而上学的質問に対して、ただ沈黙するだけで、答えを与えなかったと伝えられ、これを仏陀の「無記」とか「無記答」というわけであるが、いずれにせよ沈黙というものも、人によっては大変に恐ろしいものになるらしい。
 黙っているということは判断中止ということでもあり、それが自分の答えを出せないからということにもなれば、無責任として批判を受けるほかはないのだが、それが雷のように相手を恐れさせるようなハタラキを持つためには、よほど内容のある「一黙」でなければなるまい。果たしてお地蔵さんの沈黙がこれと同質であるかどうかは別として。

     四
 閑話休題。地蔵菩薩という方は、多くの菩薩さまのなかでただひとり、「円頂の菩薩」である。つまり観世音菩薩にしろ文殊菩薩にしろ、はたまた普賢菩薩にしろ、みんな髪を長く垂れた在家の姿をしておられるなかに、ひとり地蔵菩薩だけ頭が丸い出家菩薩である。この方は釈尊がこの世から去られてから五十六億七千万年の後、弥勒菩薩が仏となってこの世に出てこられるまでの「無仏の時代」に、衆生済度をするように附嘱された方であると教えられる。
 中国で造られた僞経に、『仏説地蔵菩薩本願経』というのがあって、人間が死んでから四十九日間かかってとぼとぼ歩く「死出の旅路」の辻々で、閻魔大王のような恐ろしい形相に扮して、この世での悪行を懲らしめ、反省させて次の世には善きところに生まれさせてやろうとされる地蔵菩薩の本願のことが説かれている。
 『仏説十王経』とも呼ばれるこのお経は、要するに死出の旅路の案内書なのだが、この頃よく書店に並んでいるエジプトやチベットで発見された『死者の書』と、どこかよく似ているのに驚かされる。恐らくはこれらはルーツが一つなのかも知れない。
 このお経はすでに平安時代から行なわれていたが、地蔵菩薩がひろく一般民衆に親しまれるようになったのは鎌倉時代の頃からであるらしい。特に賽の河原の物語は、幼くして死んでいった嬰児が、父恋し母恋しと賽の河原で石を積んで遊んでいるところへ、いずれからともなく地獄の鬼が現れて、子供たちを怖がらせる。すると子供たちはいっせいに地蔵菩薩の衣の袖の中へ逃げ込むという話である。
 子供の頃、地蔵堂に吊るされた地獄極楽の絵解きを聴いて、私たちはどれほど恐ろしい思いをしたことか。殊に、この世で嘘をついた人が地獄の鬼に舌を引き抜かれているところなどを見て、それからは嘘つきをしなくなったのは本当の話である。反対に、やさしく子供たちを守ってくれるお地蔵さんを、子供心にどれほど頼もしく感じたことか。それにしてもあの少年の日の純真な気持ちは、いつのまに亡くなってしまったのであろうか。私という個人からというよりも、この日本という国の子供たちの心から。
 白隠禅師が子供のとき、母に連れられて村の昌源寺に詣り、地獄の絵解きを聴いて地獄を恐れ、それが出家の動機となったのは有名な話である。ところがその高弟である東嶺禅師の場合は、地蔵菩薩の本願が衆生済度にあることに深く感動し、いくら悟りの境地が開けたとしても、なお地蔵菩薩のような慈悲心が身に付かぬ限りは、自分の修行もまだ半途にも至らぬものよと、悟ってからもなお血の滲むような坐禅修行をされたのである。
 「ああ、南無延命地蔵願王大菩薩。願わくは我をして深く慈悲の大願を成就せしめたまわんことを。オン、カーカーカビサンマエイ、ソワカ」。


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