三余居窓話

 

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西村 惠信〔前花園大学学長・禅文化研究所所長〕

感傷の秋

三余居窓話24(1999/10)


     一
 暑い夏が過ぎていった。夜の明ける頃ふと肌寒くなって掛け布団を引き寄せると、そのまま目が覚めてしまって、ラジオのスイッチへ手が伸びる。ちょうど深夜便「心の時代」が始まるところである。この頃こうして四時前になると目が覚めるのが習慣になってしまった。さる女流詩人の詩に、「眼には美しきを見、口には正しきことを伝え、手には善きことを為せ」というのがあるというのを聴いて、今朝もまたひとつ良いことを教えてもらったと、一人でうれしい気持ちになる。窓を開けると、薄明の秋の空に残月が西の方へ動いていく。窓外の草むらからは、夜明けを惜しむように、しきりにすだく虫の音が聞こえる。また秋がやってきたなあと思う。

     二
 夏の初め、世界の二十三カ国から集まってきたカトリック聖心修道会のシスターたちと数日を過ごした。この修道会としては初めて日本の霊性をまなぶために計画されたワークショップとのこと。愛知専門尼僧堂の青山俊董さんや、国学院大学教授で神道家の三橋健さんなど、平素から海外のキリスト教徒たちと親交をもつ日本の宗教家たちが、日本人のこころについて話されたようである。
 私はシスターたちが京都にやってきて、生まれて初めて見聞するという日本の文化や禅宗についての案内を仰せつかって、洛北薬師山禅堂の松基月仙老師にお願いして坐禅の手ほどきをしてもらったり、柳田宗葩先生と門弟の人たちによる茶事を見せてもらったり、妙心寺ではあじろの精進料理にお連れしたりして、おおいにサービスこれ努めた。
 また別の日に、彼女らを琵琶湖の東にあるキリシタン大名織田信長の安土城址に案内し、その昔ローマに少年使節団を送ったセミナリオ跡や、セリビヤの万博で西洋人たちを驚かせたという幻の天守閣、それから縄文遺物の豊富な近江風土記の丘などを見学したあと、私の寺に連れてきて、徳川時代からの位牌の立ち並ぶ貧乏寺の本堂で、ひととき凉しい風鈴の音や蝉しぐれの喧噪を楽しんでもらった。
 サービスのしついでに、近くの檀家さんに頼んで日本人の生活のありのままや、特に仏壇や神棚、そして床の間のあたりを見せてもらった。後で貰った手紙によると、どの人もこの民家訪問がよかったと口々に感謝していただいたらしい。農業を営む家の人びとは、三十人もの外国人シスターたちの突然の訪問に慌てながら、これでも食べてくださいと皿に山盛りの「鮒ずし」を持ち出してきたので、シスターたちはその匂いにびっくり仰天、鼻をつまんで慇懃に退散したのは、吹き出しそうな東西交流の風景であった。
 数日してから、私は一人で富士の裾野にある聖心会の修道院に出かけて、シスターたちと再会、まる二日をかけて懇談した。懇談と言っても実はシスターたちの前で、カルメル会の神父奥村一郎さんと二人でお互いが辿ってきた過去の遍歴を語り合ったのである。奥村神父は龍澤寺での坐禅からキリスト教に向かったいきさつを、深い霊性から話されたし、私はキェルケゴールの実存思想のおかげで、思いがけなくも禅のより深い理解へと導かれたいきさつを語った。
 この世で恐らく二度と出会うこともない者同士なのに、どうしてこのように胸襟を開いて語り合うことができるのかと、見るからに純潔で顔立ちのすぐれたシスターたちの、一人一人と眼を合わせながら、私は宗教という世界の不思議さを思った。
 そういう深い精神の交わりにも関わらず、やがて集会は終わり、私はひとり帰路についた。あの人たちもまた、今までよりもいっそう心豊かになって、またそれぞれの住み処へと帰っていったことであろう。人と人とが出会うということ、それはやがてまた一人一人の孤独へと返されてしまう。それが人生というもののすべてであろうか。

     三
 裾野から帰った翌日の午後、私はそそくさと荷物を作って、関西国際空港からニューヨークへ飛んだ。ミシガン州デトロイトまで十二時間、そこからローカルでニューヨークの北の端ホワイトプレーンまで二時間。ここもまた英語ばっかりの国。しかしこんどはこちらが訪問客で、白麻の作務着を着た異国の坊さんの白足袋に人びとの眼が集中する。
 何のためにお盆前の忙しい時間を割いて、わざわざこの広大な森の広がるハドソン河の上流までやってきたのかと言えば、もう四十年も親しくしているナンシー・ゴールドさんの一人娘ジェシカちゃんの結婚式に出るためである。
 その昔、一九六〇年に初めてこの辺りにやってきた時、十四日間の船旅と五日間の大陸横断という遠い国への旅は、大げさに言えば命がけであった。その国へ、ただの結婚式のためだけに出かけて行くという、この四十年の時代の急速な変わりようを、自分の身で確かめたかった、たったそれだけの思い付きではるばるやってきたのである。よく考えてみれば常識はずれの話ではある。しかし私にとってそれは二十万円かけても決して惜しくはない、私の「ひとり遊び」であった。
 この家のベランダで、私は貴重な五日間の殆んどを、集まってきた人たちと話したり、ラテン音楽やアメリカのモダンジャズを聴きながらゆったりと過ごした。全米から集まってきたナンシーの姉妹たちは、私が一九六一年に初めてカリフォルニアのセントモニカにあるデーナ家を訪ねたとき、みんな可愛いい中学生や高校生であった。そしていま四人姉妹のそれぞれが、主人と子供たちとともにやってきていた。彼らはTシャツにショートパンツという出で立ちで、それぞれ久しぶりのニューヨーク見物に出かけて行った。
 結婚式は自動車で三時間もあるロングアイランドのレストラン「タッチド・コテッジ」の庭で挙行された。僅か二、三十分ほどで終わるあっけない式と、それに続く延々たる立食パーティに、正直言って私はいささか辟易した。人びとは時を忘れてダンスに興じていたが、衣姿の私はその群れに投ずることもならず、手持ち無沙汰にひとりベランダで、ハドソン河の風景をスケッチすることで時間を過ごした。こうするためにアメリカまでやってきている自分が、今更に馬鹿馬鹿しくさえ思われた。むろんそんな顔を見せるわけにはいかず、ニコニコと作り笑いを見せながら見知らぬ人と握手を交わした。
 帰国の前日、思い立ってお婆ちゃんの墓参りをすることになった。こうなると私の出番である。いまは人の母親となった娘たちも、これは母を訪ねる好機だと喜んで、自動車に分乗し、途中ロウソンに立ち寄って中国の線香とパーティ用のキャンドルを求め、ハドソンの河岸を列をなして走った。
 墓地は、国連ビルや世界貿易センターの立ち並ぶ高層ビルの谷間を通り抜け、イーストリバーを渡ったブルックリン島にある。この、世界に有数の巨大な公園墓地の一角に、その昔二十六歳で単身アメリカにやってきた私を、まるで我が息子のように可愛がってくれたマルコム博士とマーサ夫人が眠っている。芝生の上に横たわる墓碑にペットボトルの水をかけ、線香とロウソクに火を灯し、娘たちは輪になって坐り、私の唱える観音経を瞑目して聴いた。ありし日を思い出し、私は途中で絶句した。ここまでやってきてよかった、と私は心からうれしかった。
 私は翌朝はやくホワイト・プレーンを去り、エリー湖の上を飛んで帰国した。この大きな大陸のあちこちに、私の心の友たちが今朝もまた新しい日を迎えたことであろうと、下界に眼をやると、地球上の裏と表に住む人間同士の出会いの不思議さに胸が熱くなった。

     四
 その頃、私は日本の中でのもうひとつの「別れ」を覚悟していた。心友鈴木格禅さんとの永訣の日が近づいていたのである。駒沢大学名誉教授鈴木格禅老師と言えば、知る人ぞ知る曹洞宗門の禅定家、大学に在職中も講義の間隙をぬって全国津々浦々に出かけ、坐禅と提唱による道元禅の宣揚に孤軍奮闘していた。
 駒沢大学の『禅学大辞典』上下二巻を開くと、洞門の作法を示す格禅さんの写真がいっぱい載っている。テレビにもたびたび登場されたので、その頭蓋から顔にかけての線が、あの宝慶寺の道元禅師の観月の像に面白いほどよく似ていたのを憶えている人は多いであろう。
 少なくとも私は今から三十年前、東京都下秋川の神冥窟で催された「禅とキリスト教懇談会」で初めて鈴木格禅という人に出会って、この人には道元の血が流れているのではないかと疑ったほどである。
 私はこの格禅さんとは、前世の因縁かと思われるほどの深い御縁をいただいたので、その長い年月をかけての親交のなかで、折にふれて格禅さんから身の上話を聞いていた。
 いやその人生たるや、聞いていて鳥肌の立つような淒絶なもので、この人は苦労をするためにこの世にやってきたのではないかと思われるほどであった。世の禅僧たちの修行における苦労話にはたいがい馴れているが、この人の話を聞いていると、この人の修行は出家以前に済んでしまっていたのではないかと思わされた。
 一九九三年、国際キリスト教大学アジア文化研究所から出版された『宗教的意識と現代世界』に、格禅さんが研究所で行なった講演「道元禅の世界」が収録されている。そこでも格禅さんは道元禅のことではなく、いかにして自分が道元禅によって救われることになったか、という道元禅入門以前の身の上話に終始せられている。
 じっさいこの人の出家はそれ以外に行くところがなくて坊さんになったので、それでやっと死から逃亡できただけのこととでも言うべきものであった。白隠の『槐安國語』に「曾て雪霜の苦に慣れて、楊華の落ちるにも ()た驚く」というのがある。冬の寒さが身に染みてしまって、温かい春がやってきたというのに花が落ちても驚いてしまう始末だ、ということであろう。私などがする取るに足りないような話にでも、俄かに涙を浮かべる格禅さんを見ていると、長い間忘れていた昔の何かが奥深いところから溢れ出るのを押さえかねるとでもいうような様子であった。
 去年十月の末であったか、格禅さんから久しぶりの電話が入った。「わしなあ惠信さん、こんどは医者に見放されて、来年二月頃この世をお暇することになりました。ハーイ。いや、もう何遍も死に損なったんじゃから、別に慌てることはありません。ハーイ。けんど、やっぱり淋しいのう、あんた」。どこの方言か、語尾を少し上げたあとで、自分を納得させるように「ハーイ」を添える人であった。
 癌があちこちに転移してもう手がつけられないので、病院から出てきたということであった。「ケツの穴にバイパスをつけてもらったが、在来線の方からも漏れますんじゃ」ということで、私はいよいよ格禅さんと別れる日がやってきたなと観念した。
 十一月七日、私は格禅さんとの最後を惜しむために、神奈川県逗子のお宅に向かった。新幹線の窓に映る今日の富士の霊峰はなぜか無性に淋しく見えた。やせ細り、歩みもたどたどしくなってしまった格禅さんが、思いもかけずパジャマの上にちゃんちゃんこを羽織って駅まで出迎えにきてくれていた。一昨年の夏には一緒にシシリー島の海で泳ぎ、去年の夏には阿蘇に登った人が、こともあろうに病のためには、こうも変身してしまうものかと、その後ろ姿が痛々しかった。
 私は思い切って言った。「先生、今夜、最後の晩餐をやりましょうか」。「へい、そないにしましょう」ということになって、徳富蘆花ゆかりの旅館「柳屋」で格禅さんと今生最後の盃を交わした。語り疲れて十一時ごろ、先生ご夫妻を宿の玄関にお送りし、お互いこれが最後であることを知って別れを惜しんだのであった。
 今年の夏まで閻魔大王から許された格禅さんの呼吸は、八月二十日をもって止まった。アメリカから帰ってすぐにお盆に突入、二十三日からはまた地蔵盆という、その間隙を狙うように格禅さんは逝かれた。津送(告別式)の前夜、私はまたあの柳屋の宿に泊まり、蒸し暑さと寝苦しさのなかで、先生も明日はいよいよ白骨になるんかと思うと、こうしてひとり宿に横たわっている自分の身体がいとしく思われるのであった。
 それにしても今年の夏は暑く、忙しかった。それがかえって秋を迎えた今は、悲しみに変わる。ラジオでトアエ・モアが「今はもう秋、誰もいない海…」を歌っている。


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