ここ五、六年、四月一日にはきまって円山公園の夜桜を見物している。
三月も中ごろになると富良野から、少しそわそわした電話が鳴る。
「今年の見頃は何日ごろだい? 行こうと思ってンだよ。お店は暇かい? 忙しい?」
閉店の頃合いを見計らってかかってくる。
この花見にはワケがある。
一九八九年、天安門事件に北京で遭遇された水上勉さんは、帰国直後に心筋梗塞で倒れられた。養生の甲斐あって、一年で回復。その「生還記念祝賀会」を梁山泊でという話が持ち上がった。
しかし、同年三月、若狭の一滴文庫には柿落しだけを済ませた車椅子劇場が主不在で、蜘蛛の巣が張った状態のままだった。そこで、梁山泊での宴会は取りやめ、この劇場で記念イベントの可能性をさぐった。
筑紫哲也さんと灰谷健次郎さんに声をかけ、水上先生を交えたトークショーを企画した。「幻夢一夜」と題し豪華な顔ぶれで祝うという趣旨を話すと、筑紫さんは永六輔さんに話を広げて下さった。加藤登紀子さんや石川さゆりさんらも、手弁当で駆けつけてくれた。あまりに好評で、次回を要望されることになった。そうなると、倉本聰さんにはぜひこのメンバーに加わってほしい。「幻夢一夜」にどうしても必要だと堅い決意で口説きにかかった。京都に来られた折、車で若狭の一滴文庫までお連れして、その後水上先生に会っていただく段取りを立てたわけだ。
その晩、先生と倉本さんのお伴で祇園のお茶屋に行くことになった。十五、六年前のこと。すでにお二人は当時で十年を超える梁山泊のおなじみさんであったが、直接の面識はなかった。お二人が出会えば面白いと、かねがね思っていた。だからこれが初めての顔合わせだった。振り返れば、連れだって祇園に出向いたのは最初で最後になった。しかも、そのお茶屋、松八重もまた、お二人には旧知のなじみであった。
祇園でなじみとは自分の家的な意味合いがある。お茶屋を転々とするとそのたびごとに、祇園内での信用は薄まっていくという。
特に、倉本さんはいまも堅気にその不文律を守っておられる。
この店の看板は白洲次郎が書いている。他にもそうそうたる文人や文士が贔屓筋だ。
水上先生は、フーっと水割りを飲むと、突如話題がかわった。
「近松門左衛門は福井藩士の次男に生まれましたんや」
「同郷でしたか」
「そうです。そしてね。父親が浪人してしまいましてね。仕方なしに、京都に付いてきて、お公家さんに仕えます。その後大坂に移って浄瑠璃作者になるンですわ。近松の作品に『松八重の段』というのがありましてね。ここはふるいお茶屋です」
「近松もここにいらしってたんですか? いらしってた、ていうのも、ヘンだな。ハハハ」
「ハハハ、いらしてたんですな。そのころの店は四条通りより上にあって、一力ほどの大きいとこやったというはなしですがね」
お二人の話で近松が生き生きと蘇り、時代は元禄にタイムスリップ。隣の座敷に近松さんが飲んでいそうな錯覚になる。
「考えてみると、お茶屋さんって、不思議な存在ですよね。一体なんなのかと思うことがあります…」「そうですなあ。ないと寂しいもンです。うむ。風情だけではないように思いますな。時代時代に名物女将がおりますね。その人柄ですね」
「そうですね。ぼくは、ここでいろいろ教えていただいた……。勉強させていただきましたよ」
「倉本さん。それはあなたがこの花街(まち)で大切な人やということですわ。普通はなんぼ足を運んでも、身に付かんものです」
その後、倉本さんが京都に来られる度に、このお茶屋に連れていってもらった。五、六年前になる。ここの女将が倒れられた。後遺症から、車いすで馴染みのお客だけにかろうじて挨拶をされていた。
さて、花見は花見小路から始まることになる。
「祇園で八十余年暮らしてきて、円山の夜桜を見ない春は寂しいだろ? それでサ、一緒に花見に行こう。連れだそうってね。思ったンだよ」
倒れられて間もない頃、花見に行くためのタクシーの乗り降りに男三人が汗だくになっていた。それが数年経つと、リフト付のワゴンタクシーがお目見えした。車いすごと楽に運び入れることができるようになった。お互いの負担感が薄れ、高い車窓からの眺めで、女将は夜桜だけでなく、市内の桜並木も楽しめるようになった。
「おかあさん。楽しみどしてね。倉本先生のお話になると、食事もすすむンどすえ」
このお茶屋で働く人のはなしでは、倉本さんは女将の生きる支えであった。それを知ってか知らずか、どのような事情があっても、花見を欠かされることはなかった。
信州上田の勘六山で静養中の水上先生を見舞いに行ったとき、この女将を話題にした。倉本さんとの楽しかった思い出話で元気になっていただきたい、そういうつもりだった。
「あの女将は襖を閉める姿が、美しい人やった…」
これだけは珍しく鮮明に聞き取れた。あとは口を閉ざしてしまわれた。
(もう祇園に行くことは無いな)
重くつらい寂寥感が漂った。
それにしてもだ。座敷へあいさつに入ってくる時は、襖は開いたままだった。座敷を出て襖を閉める。その姿は襖で隠れるはず。水上先生は見えない女将の姿を想像して「美しい」と言われたのだ。
女将は昨年「都をどり」が幕を下ろす四月末日を待つように、楽日の熱気が冷めやらぬ翌未明に旅立った。襖を閉めるような、見事な幕引きだった。享年九十。
初七日は私一人でお参りに行った。遺族の方から、一通の手紙を見せていただいた。最後の花見を終えた四月中頃に届いたものだ。原稿用紙に大きな太く黒々した文字。一字一字が鮮明で、裏からでも読める。倉本さんの、老眼が進んだ女将への配慮までが文字から伝わってくる。文面は来年も一緒に花見に行く約束を切々と訴えてあった。力づけであった。立ち入ったことになったが、なんと腰が低いのだろう。
水上先生が倉本さんに贈った「花街で大切な人」という言葉を思い出した。見えないものを見続けようとされた水上先生。見えないところにまで美しかった女将の二つの花が散り、今年は心の奥をみつめている倉本さんと二人の花見になる。倉本さん、いやがるだろうな。
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