禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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聖域巡礼 私の目から見るチベット(214号所収)

川蔵北路を歩く(五)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住


 2007年9月21日。穴ぼこだらけで勾配もきつい、ひどい国道もあるものだ。車が苦しそうに唸りながら坂を登っていく。連綿と連なる山々を越えても、回りは荒涼とした景観ばかりのせいか、時間の経つのがひどく長く感じられる。ギャムダ(江達)とチャムド(昌都)の分岐点である海抜4481メートルのゾォンライ(宗拉夷)峠を通過したとき、前方を走るトラックの運転席から、神に捧げる五色の「風馬(ルンタ)」(護符)が天空に向かってパッと散った。風に乗った風馬は瞬く間に小さくなり、大空に消えた。午後三時頃トゥオバ郷に近づいて、ようやくアスファルトの道に再会した。道の両側にドライブインが並ぶ。行政上チャムド県の所轄する純牧畜地域である。

千秋の功罪 何をか言わん

材木が切り倒された淒まじい風景に心が痛んだ  

 トゥオバを出てほどなく、あろうことか、道端の山々の斜面に林木が無残に切り倒された光景が目を覆い、心を痛めた。森林の伐採、森林面積の縮小が加速する現象は東西南北を問わず、中国の至るところに見られるが、「最後の浄土」といわれるチベットで目にするのは、大変ショックで悲しかった。二十世紀初頭から中葉にかけての、あるチベット族首長一家の盛衰物語を描いた小説『塵埃落定』で、2000年「第五期茅盾文学賞」をさらったチベット族作家アーライ(阿来)が、小説『空山』で描いた森林破壊と荒れ果てた風景がついに現実の世界になったのか。――「国は一番欲が深い。どんな物でもいったん国のものとなれば、寄ってたかって踏みにじるのだ!」。一九八〇年代から始まった中国の改革開放が経済の恩恵と物質生活の改善をもたらしたが、その恐ろしい代価として、生態が加速度的に悪化する事態をもたらした。土地の砂漠化が驚異的スピードで進行し、ビルディング・工場・住宅・道路建設などによる都市化が大量の良質の耕地を犠牲にして進められ、木材の自由取引制度の導入で、それまで伐採から逃れて生き延びた森林は目先の利益の餌食になって、生態サポートシステム資源の劣化が進む。中国は森林資源の乏しい国であり、極度の高消費によってこれ以上ないほど生態系が憂慮される事態となっている。後世のことなど念頭になく、地球環境の破壊と引き換えに、必要以上に物欲を満足させる近代文明は、文明などと言えるだろうか。
 トゥオバからチャムドまでは、これまで4450メートルのダルマラ(達瑪拉)峠を乗り越えなければならず、道が険しくて事故が絶えないうえ、少なくとも6時間かかったらしいが、いまは峡谷を縫うようにアスファルトの新道路ができて時間が倍以上短縮され、本当に助かった。熱普村に続いて拉多郷を通過。道の両側に立つ白い仏塔の周りで土木工事の人夫が仕事をしている。断崖絶壁の峡谷で、蛇のようにくねくねの山道を下ったり、曲がったりしているうちに、山が青々と茂り、景色が塗り替えられていった。ザチュ(扎曲)に沿って進み、午後4時半頃、念願のチャムドに辿りつき、胸が躍った。

チャムド (1) 山に囲まれ水に寄り添う美しい町

 チャムドとはチベット語で「水が合流するところ」という意味で、ザチュとゴムチュ(昂曲)がここで合流して瀾滄江となっている。ホンドン(横断)山脈北西部の高山峡谷におかれて、カム地区の首府として歴史が古い。漢魏時代にすでに「康」(カム)という広大な地域の中心地であり、元の時代に中国領に入れられ、清朝で「察木多(ツァムドオ)」と称せられた。カム文化の中心地として栄え、往時は「茶馬古道」の要としても名高い。地理的位置が極めて重要で、西にラサ、東に成都、南に雲南、北に青海につながるという交通の要衝である。また、「カムパ」(康巴漢子)と呼ばれるカム出身のチベット人男性は義理堅く人情が厚いと言われ、勇猛果敢さ、気の荒さがチベット地域で有名である。
 もちろん、チャムドは仏教盛隆の地としてよく知られ、特にチャムパリン・ゴンパ(強巴林寺)の存在は大きい。それゆえ休憩も取らずにチャムパリン・ゴンパに直行したが、残念なことに、時間が過ぎていて本堂の大門はすでに閉まっていた。チャムドは二泊するから、発つまでに来ればいいと思いなおして旅館に向かった。
行李を載せてぽっくりぽっくりと歩道を歩く驢馬 さすが東チベット最大の都市だけあって、「車は流水の如く、馬は遊竜の如し」で、街は賑わい、内陸部の都会とほとんど遜色ない。ただ驢馬が行李を載せてぽっくりぽっくりと歩道を歩く風景はここでしか見られないだろう。繁華街の民政賓館にチェックインした。一泊百四十元、取り合えず手ごろな値段だ。荷物を降ろしてさっそく海南さんと街に出かけた。「壱苑書屋」という小さな本屋に入り、『蔵東紅山脈(東チベットの赤い山脈)』(馬麗華著)を購入。瀾滄江広場を散策した後、一人で大橋を渡って近くの山に登った。
 高所からチャムドを見下ろしたら、「水が合流するところ」の意味がしみじみと分かった。滔々と流れる二つの大河――ザチュとゴムチュが本当にここで瀾滄江に合流していた! その轟々たる流れが雲南から越境してメコン川となり、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを貫流して広大な地域を潤し、最後に南シナ海に注ぐ。今回の旅では一路大渡河を渡り、金沙江を渡り、今日はまた瀾滄江の合流地点までやってきた。明日から、さらに怒江(サルウィン川)、インドの大河ブラマプトラ河の上流部にあたるヤルツァンポ(雅魯蔵布)を渡る。大江大河はそれぞれの歴史を語るように悠々と流れ、その壮大なパノラマは感無量であった。山に囲まれながら、水に寄り添い、「山城」とも「江城」とも賛美されるこの美しい町を眺めるうちに、なぜか、二年前にシャングリラからラサへ向かう道中、パシュ(八宿)でラサに向かって五体投地の巡礼をしていた一家三人の姿が頭に浮かんできた。あのチベット族夫婦の笑顔はほんとうに明るくて美しかった。パパの首に抱きついていた甘えん坊の女の子はもう小学校に入っただろうか。この町のどこかに暮らしていると思うと、無性に会いたかった。みんな元気でいることだろう。
 夕暮れが立ちこめて、川の彼方の高い台地に聳え立つチャムパリン・ゴンパは、いよいよ雄大に見え、チャムドは両水に浮かんだ巨艦のようにいまにも出発しようとしている。

山に囲まれ、水に寄り添う美しいチャムド

リウォチェ(類烏斉)とツクラカン(査傑瑪大殿)

 22日朝、リウォチェ(類烏斉)に向かった。日帰りなので軽装の出発だった。チャムドから105キロ離れているが、高山峡谷の奥にあるため、そこまでの山道は実にひどかった。下を見たら眩暈がするほどの断崖で、わずかなミスでも転落しそうな険しさに怖気づいた。国道だが、きちんと整備されておらず、でこぼこで道幅が狭く、カーブばかりで視界が悪い。対向車と出遭うと、指定の場所で事前に待機するか、バックするしかないが、同じ方向の車を追い越すことは、とにかく怖しかった。ドチュさんの運転はさすがに見事で何も起こらなかったが、特にトラックを追い越すたびに、冷や汗が出た。秋の紅葉が山一面を染めて美しいはずなのに、とてもそれを観賞する余裕などなかった。そのかわりに大変なスリルを味わったわけだ。リウォチェはチベット語で「大崖から転落し、大破したトラックきい山」という意味だが、それだけに、「こんな道を走ったら、この先どんなひどい道でも、もう怖くないわ」と宏光さんは感慨ひとしおだった。後の話だが、帰り道で崖から転落して大破したトラックを目の当たりにして、恐怖が全身を走り、震えが止まらなかった。
 山から下りると、広い草原に県政府所在地のサンドォ(桑多)鎮が現われた。碧水の金河が流れ、なんとも美しい。食事を済ませてさらに20キロぐらい走ると、リウォチェ鎮に辿りついた。ここにはカム地域の名刹として知られるリウォチェ・ツクラカンがある。

地域の名刹として知られるリウォチェ・ツクラカン

 リウォチェ・ツクラカンは1276年にタクルン・ゴンパの法台(管長)サンゲ・オン(桑吉温)によって建立が始まった歴史の古い大規模なタクルン・カギュ派の寺である。その象徴として2006年に全国重要文化財にもなったツクラカン(査傑瑪大殿)は、1285年に建設が始まり、1328年にやっと竣工した本堂である。高さ37メートル、造型がユニークで外観は正方形を呈して神聖感を与える。屋根の上に聳え立つ金頂が透き通る碧空を突き刺し、真っ白い光を受けていっそう眩しく輝いている。3階建ての構造で、窓一つない。外壁に一メートル幅で、縦に塗られた赤白黒三色の縞模様が荘厳さをいや増している。彫刻が精緻で美しい仏像や、元・明・清時代の数多くのタンカ、ゲサル王が往時使った刀と金メッキの馬の鞍、貴重な経典木版などを珍蔵することで世に知られている。しかし、本堂の門はしっかりと閉ざされて入れてもらえなかった。せっかくここまで来たのに、実に惜しかった。
 太陽が燃えるように空中にかかっており、セチュ(色曲)が金色に輝いて眩しく流れている。真昼のリウォチェ鎮はひっそりと静まり返っている。看板の時刻でもないのに、商店はほとんど戸を閉めている。屋根の蔭で犬がウーンと背伸びしてやる気なさそうに横になっている。
われわれの車に救出されたトラック チャムドに戻る途中、小型トラックが水に嵌っているのが見えた。前後の車輪が水に埋れているため、あの手この手を使ってさんざんやってみたがビクともしないと、4、5人の青年が困り果てた顔でいう。「助けてあげよう」と僕がいうと、ドチュさんはためらうことなく、車をUターンして、トラックにロープをつけ凄いスピードで一気にバックして引っぱった。まさに小鳥が鷹に捕えられたように、トラックはわが「陸地巡洋艦」(ランドクルーザー)によってあっという間に水から引き上げられた。「謝謝(シェーシェー)」と感謝の言葉が連発される。三年前にカンリン・ポチェの麓で土砂降りの大雨の中、川に嵌って立往生したこちらの車をチベット族の人が救出してくれた情景がまざまざと蘇った。
 チャムドに戻ったころには、すでに夜が訪れていた。ドチェさんの労をねぎらうためもあって、ちょっと贅沢な夕食を探したが、結局バイキング式鍋料理に落ち着いた。料理台に用意されたさまざまな材料から好きなものを取っての食べ放題。結局、五人で百九十元しかかからなかった。
 旅館の窓の外にネオンが光っている。

チャムド (2) チャムパリン・ゴンパ

川の彼方高い大地にそびえ立つチャムパリン・ゴンパ 23日。朝7時前にタクシーに乗って市街地の坂道を上り高い台地に建っているチャムパリン・ゴンパに着いた。太陽の光が山に遮られて、寺の色はぼんやりとしていて冴えない。
 その昔、1373年にチャムドを通ったツォンカパ(宗喀巴)は、ここはやがて仏法を発揚する地となるだろうと予言した。1437年、ツォンカパの弟子チャンセム・シェーラブ・サンポ(喜饒桑布)が8年がかりで、このカム地区最大規模のゲルク派寺院を建立した。史料の記載によると、1653年、清の順治帝が金冊金印をダライ五世に封じてのち、ダライの転生活仏は、中央政府の正式な冊封を経なければならなくなったが、チャムパリン・ゴンパの主な活仏は、清朝の康熙帝以降歴代皇帝の冊封を受けることとなった。いまでも寺内には康熙五十八年、パバラ活仏に封じた銅印が保存されているそうだ。チャムパリン・ゴンパには五大活仏系統と5つのタクツァン(扎倉)僧院があり、僧侶は最盛期には五千人に達したという。
誦経の声が絶え間なく起伏して堂内に響き渡り、壮観極まりない 門を入ると赤黒白の三色からなる長靴がお堂の入口にごちゃごちゃと重なっている。すぐ手前は創始者ツォンカパを祀る建物だが、その左側には本堂があり、中から誦経の声が聞こえてきた。階段を上がって正門から中に入ると、バターの匂いがむっと鼻をつく。ほの暗い灯りの下で、4、5百人の僧侶がお経を唱えている。声が絶え間なく起伏して堂内に響き渡り、壮観極まりない。本堂の中央部には数多くの歓喜仏が祀られ、周りの壁画には曼荼羅世界の神々が鮮やかに描かれている。本堂の奥の部屋にツォンカパの像が祀られて、中央にはたくさんの宝石で飾られた釈尊がガラスケースに収められている。現在の第一活仏であるパパラ・ゲデランシェ11世の写真も飾ってある。
 本堂から出ると、門前に夥しい数の敬虔な信者が礼拝している。太陽に照らされてチャムパリン・ゴンパが白く輝いた。若いラマ僧たちが本堂の階段から跳ぶように降りてきた。真っ赤な袈裟を纏い手に木製のバケツを引っ提げて裸足である。朝食の当番だろうが、みんな小走りで食堂に向かった。明るく楽しそうで知的な表情を見て、自分も感化されたように、胸が躍った。
 チャムパリン・ゴンパを時計回りする信者が後を絶たない。マニ車を手にして回し、のんびりと会話を交わしながら歩く姿はいつまで見ても飽きない。
 旅館に戻ってみんなと合流し、朝食を済ませてチャムドを発った。今日はパシュか、ラウォ(然烏)に泊まることになるだろうが、途中のポムダ(邦達)からは、二年前に周壮さん、元龍さんと旅したコースと重なることになるのだ。(次回へ続く)

真っ赤な袈裟を纏い、手に木製のバケツを引っ提げた裸足の若いラマ僧

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