ダンバ(丹巴)
時間がまだ早いので、「甲居蔵寨」に寄った。車は大金川沿いに走っていたがまもなく山道へと進路を変えた。道は立派だが幅が狭い。高度の上昇にしたがって峡谷は深まり険しくなる一方。山の峠を越えたら、桃源郷のような風景が一面に立ち現われた。見渡す限り、一棟一棟、三階建ての赤・白・黒三色からなる伝統的チベット風住宅「蔵寨」が山裾に沿って建ち並び、集落が完全な形で保存され、さながら童話の世界のように美しい。段々畑の緑に鏤められた家々の屋上の四角に立つ小さな砦にタルチョが翻っており、山の真下に大金川が緩やかに流れている。
ラム(拉姆)というチベット族の娘が自分からすすんでガイドを申し出たが、もちろん有料である。薄化粧にほどほどの着こなしのラムさんはガイドのほか、村の婦人委員会主任をつとめ、また県城で酒場も経営している。こちらの質問に慌てるふうもなく流暢かつ説教めいた標準語で答え、時には駄洒落まで飛び出すので驚いた。しかし、彼女が話すチベット語はドライバーのドチュ(多吉)さんにさっぱり通じない。これにはもっと驚いた。大金川下流の峡谷地帯に暮らすギャロン・チベット族(嘉絨蔵族)は、七世紀に東遷してきたチベット人に支配され、次第にチベット化したが、言葉はチベット語とは違う系統のギャロン語なので、チベット族の人も分からないのである。さらに驚いたことに、交通も便利になりすっかり文明開化したのに、いまでもこの辺りでは近親結婚の風習が踏襲され、部外者と通婚しない古来の伝統を維持している。千年単位の長い間、深山大河に阻まれて、近親による婚姻もやむを得なかったかも知れないが、百六十所帯に発展してきた今日でも、この伝統は全く変わらない。例えば、三代を経てからでないと成婚の資格がないといった規則ももちろん守らなければならない。「これはチベット族では考えられない、一番忌み避けるべきことだ」と、さすがのドチュさんも目を丸くした。そんな意味ありげな言い方を、ラムさんが察知したらしく、わざと「ワタシは頭がいい、と思ってるんじゃないの?」と語気鋭く迫った。その目つきは、どうやら、「あんたたちは自分が知力が優れているとでも思っているのかね」といわんばかりだった。
ダンバ県城章谷鎮に戻った一行は「古堡大酒店」で荷を解いた。部屋の窓から悠々と流れる大渡河が見える。秦・漢の時代に西羌の領地だったダンバは、近代になって、民国時代に西康省第一行政督察区に入り、新中国ができてから一九五五年に四川省甘孜蔵族自治州の管轄下に置かれた。ダンバ県はチベット族と漢族を主体とする人口約六万を有し、域内に水系が縦横に分布して豊かな水利資源に恵まれた地域である。大金川、小金川、革什扎河、東谷河は県城付近で合流して大渡河となり、流域面積は四千七百平方キロである。ダンバ県は美人が多いことで知られ、「美人谷」という地名まであるそうだが、なかなか見当たらない。美人たちは大都会や九寨溝のような観光地、ホテル、歌舞団へ出稼ぎに行っていて、お正月やミスコンテストのような時期でもなければお目にかかれないという。それまで待つわけには行かない。むかし、「大坂の娘さんが美しい」という歌で憧れた新疆へ行ったとき、美人はとんと見当たらずしょげた覚えがある。期待すればするほど裏切られるものである。
外に出かけた。ギャロン・チベット族が多い町で、民族衣装を着て歩く姿がよく見られた。「丑哥大排■」(ダーパイダァン・自分で材料を選び調理してもらう食堂)に入った。海南さんは、いの一番に鞄から「豊谷白酒」を取り出し、美味そうに一口飲んで、大満足そうに目を細めた。
夜が更けた。大渡河が闇の中で無言に流れている。
ダンバ―カンゼ(甘孜)
十七日早朝、ガルタル(八美)に向かった。登校中の子供たちがわが車を振り向き道端に立って礼儀正しく「少年先鋒隊」の敬礼をする姿が何度も目に入った。その光景に、かつての子供時代を思い出し、胸がジーンとなった。走る車のなかから返礼しても、子供たちには見えるはずはないのだが、それでもきちんと礼を返した。
車は清らかな東谷河を遡って上機嫌に走る。ダンバからガルタルまで道がよく舗装され、見飽きない風景が流れている。高く聳えるヤーラー(雅拉山)は太陽が注いできらきら光っている。八美は小さな町だが、国道三一八を繋ぐ交通の要所である。ここから下れば、塔公や新都橋や康定まで行ける。
幡が林立する山が見え、まさに千軍万馬が走るかのようでなかなか壮観だ。風がひゅうひゅうと音を立て、身を切るような寒さに震えた。十時半頃タウ(道孚)に着いた。チベット語では「子馬」の意味で、県城は馬の形をしているためだという。道端の畑で青裸の取り入れに没頭する姿がよく目に入った。昼にはまだ早いので、停まらずにそのままダンゴ(炉霍)に向かうことにした。ダンゴは一九七三年春の大地震で破壊され、のちに再建された町である。腹ぺこの三人衆は「大衆川菜館」の看板を見つけて飛び込み、「地鶏じゃが芋煮」と「茸と野菜の炒め物」を注文した。北京では大量飼育の食肉専用ブロイラーばかりで、地鶏にはなかなかありつけない。主人は嬉々として厨房に戻り、でっかい包丁で地鶏を巧みにさばきはじめた。三十分経つか経たないうちに、「はい、お待たせ」と大声で言いながら、洗面器みたいな盆にどっさり盛り込んだ料理を運んできたのを見てビックリした。トマト・葱・唐辛子・胡椒などもたっぷり入った煮込みで、口に入れたら、美味いのなんの。それからはひたすら黙々と口を動かした。
食後、休まずに約百キロ離れたカンゼへと発進。カンゼは雅礱江の上流にあり、国道三一七に位置してデルゲ、ニャロン(新龍)、パンユル(白玉)からくる道とリンクする交通の重鎮である。むかしカム北部の中心地にあって交易で栄えた町として知られる一方、中国の近代史においても見落とせない地である。毛沢東らの赤軍が蒋介石の国民党軍や地方軍閥の追撃を逃れ、その包囲網を潜り抜けるために長征を決行し、一九三五年に第一方面軍と第四方面軍がカンゼ鎮で合流なって、蒋介石の「赤匪撲滅」の企みを見事に打ち砕いた。いまも不思議でならないが、数万人の赤軍が、追われる身でどうやってこの厳しい環境の、荒れた僻地に潜り込んで休養をとり鋭気を養えたのか。
カンゼ鎮に入ると俄かに賑やかになった。道路の両側に商店が林立して歩く人や車や二輪車が思い思いに動くのでクラクションを鳴らしても効き目がない。「金牦牛賓舘」で荷物をおろし、休む間も惜しんでカンゼ・ゴンパへ出かけた。
城外の山にそびえるカンゼ・ゴンパ。迷路のような道をくぐりながら山に登ると、高度が上がるにつれてカンゼの町が眼下に現われた。カンゼ・ゴンパはダライ・ラマ五世の時代に創建され、三百六十年の歴史を有するゲルク派の大僧院である。カンゼはチベット語では「白く美しい」という意味だが、白石で建てた寺だから、「カンゼ」という寺名をつけたのだ。カンゼの地名もこの寺名からとった。
裏の門から入ると、一見新しい四階建てのなんとも言えないけったいな建物が目の前に立ちはだかった。お寺というより博物館かアパートのような感じで違和感があった。仏像などが祠られているようだが、鍵がかかっていて入れない。本堂に移ったら、すでに終了時間になっていたが、門番が親切に入れてくれた。一階は経堂。中は薄暗くバターの匂いが立ち込め、観光客はもういない。二階は護法神殿になって、沢山のチベットの刀具や火縄銃などが陳列されている。地元チベット族の人たちが不殺生という決意を表わすために寺に納めたものだという。三階はチャムバ仏殿、四階にはインドから将来した釈尊像が祀られている。階段からあがってきた僧侶が親切に説明してくれたのに、言葉がさっぱりわからず悔しかった。カンゼ・ゴンパも文化大革命の狂騒によって廃墟となり、一九八〇年代に建て直されたが、往時の偉容は見るべくもなく、ほぞを噛む思いである。
ペエリ・ゴンパ(白利寺)へも行きたかったが、暮れかかって断念した。高い台地からカンゼの街並みや遠くのゾーラー(卓拉)雪山が眺められ、雅礱江が帯のように漂っている景色にうっとりとなる。
臥龍―日隆(四姑娘山)―丹巴
パンダの故郷である臥龍は、標高二千メートルの岷山山脈の中にある自然保護地区で、世界遺産にも登録されている。またパンダの繁育研究基地としても有名なところである。朝、窓を開けると、小雨が降っている。こんもりとした森の山が水墨画のように目の前に迫り、ゴーゴーという水の轟音が耳を打つ。部屋から外に出ると、山荘の裏に、川が激しく流れ、彼岸の崖には滝がかかって音を立てながら落ちてくる。青々と茂る森の山の奥には、当然パンダの理想的な生息地が潜んでいるだろう。
豆乳、肉まんをお腹いっぱい食べていざ出発しようとしたら、「四姑娘山」に行く道は整備中で極めて難行するので、成都まで遠回りして国道318に切りかえたらと、親切に言ってくれる人がいたが、回り道が遠すぎて、また日程が狂ってしまうので、とにかく前へ進み、途中でどうしても駄目なら、折り返してもいいのでは、と決行した。それにしても、道はしんどい。どろどろのぬかるみが道を横切り、注意しないとはまってしまう。トヨタの「陸地巡洋艦」(ランドクルーザー)のおかげもあるが、ドチュさんの的確な判断と運転の腕は実に見事である。

マニカンコとイルン・ラツォ
十八日早朝、デルゲへ向かった。マニカンコ(瑪尼干戈)、イルン・ラツォ(漢語名は「新路海」)を経由し、五千メートル以上の雀児山を越えなければならないうえ、山賊の噂が絶えないところを通ると思うと、些か不安だった。三十分ぐらい走って「許願山」に来たので、さっそく「平安無事」を神仏に祈った。チベット族の老夫婦が五体投地の礼をしながら時計回りに回っている。来年のラサ巡礼のための「トレッキング」だという。風に晒され日焼けの跡が顔に残ってふけて見えるので、実際の年齢はちょっと見当が付かないが、そんな弱そうな体で大丈夫かとふと心配になった。しかし、五体投地の礼によって求められる彼岸は頑丈な肉体より最高の敬虔を必要とするのだから、精神が決定的だろう。チョコレートや薬を贈って別れたが、ラサに無事着くように、といまでも祈っている。
「錯阿」あたりの山に五色のタルチョが海のように一面に広がっている。ほどなく着いたマニカンコは小さな町だが、デルゲ、チャムド・ルートとセルシュ(石渠)、青海省のジェクンド(玉樹)ルートに接続する交通要衝であり、むかしゲサル(格薩爾)王が征戦した戦場でもあった。
マニカンコと雀児山の間に新路海があり、チベット語ではイルン・ラツォ(玉龍拉措)と称する。伝説によれば、湖畔に来たゲサル王の愛妃珠牡がその美景に心を奪われ、去るに忍びなかったという。珠牡王妃を記念するために、後世のつけたこの名のイルンは心酔、ラツォは聖なる湖という意味だ。湖岸に仏塔が祀られ、湖水が鏡のように平らで静かであり、雪山が真昼の陽光を受けて輝き、タルチョが微風にはためいている。
その時、一群れの人影が右手の丘から下りてきた。華麗な衣裳を纏った貴婦人が皆にとり囲まれて歩を運んでいたが、やがて一人がしゃがんで貴婦人を背負って進み出した。どういう人だろうかと不思議に眺めていたら、いつの間にか傍に来ていた若い僧が「女活仏」だと囁いた。活仏を背負い徐々に消えた一行の姿が、どういうわけか先ほど「許願山」で出会ったチベット老夫婦の礼拝しながら難渋して匍匐する場面と重なった。

雀児山を越える
デルゲまで行くには海抜五千メートルの雀児山峠を越えなければならない。これが今回の旅の一番の難所であることは、出発前に調べてわかっていた。興奮と不安に胸を締め付けられているうちに、道を寸断する格好で目前に雀児山の雄峰が現われた。その凄まじさにすっかり圧倒されて、人間なんてちっぽけなものだとつくづく感じた。見渡すかぎり、人影一つなかったのに、チベット族の子供がどこからともなく不思議に寄ってきた。男の子が二人、女の子が一人、目が光っていて僕らをもの珍しそうに見ている。ドチュさんを介して分かったが、上の子は九歳で小学校に通っている。今日はどうしてと聞いたら、ヤクの番をしているという答えだった。僕は無言のまま、一人一人の手にボールペンを握らせ、頭を撫でながら車に戻った。
道の突き当たりまで来ると、アスファルトが途切れ、道が急斜面となって険しさを増した。急勾配のうえ、舗装のない路肩にガードレールも何もない。一つ間違えば数百メートルの斜面を転がり落ちる不安や恐怖が車内の雰囲気から感じられる。特にカーブにさしかかるたびにみんなシーンとなって息を潜めた。高度が上がってくると、後部座席右側のドアのそばに陣取っていた海南さんが左に移ると言い出した。落ちたら、右も左もないのだが。こうなったらわが身をドチュさんに任せるよりほかはない。ドチュさんの腕は折り紙つきだった。これまでチベットの旅で出会った運転手の中で、彼の腕が一番信頼できた。何より臨機応変で、とっさの判断の的確さが抜群だった。お父さんもトラックの運転手で、親譲りのDNAのためか、十三歳ですでにトラックの運転を覚えていたという。彼にとって車は一身同体のような存在である。
雀児山峠にようやく辿りついた。「川蔵一の高所・川蔵一の険所、雀児山六一六八メートル、現在地五〇五〇メートル」と書かれた看板が立っている。それをバックにドチュさんに写真を撮ってもらっていたら、海南さんが急に苦しくなり、慌てて車に潜り込んで、ドチュさんの差し出した酸素ボンベにすがった。宏光さんはまだ調子がよく、ゆっくりと足を動かして歩いていたが、タルチョをバックに写真を撮り終え、次に雪山をバックに撮ろうと言ったら、「建華さん、僕はもう動かないで、このまま向きだけ変えるから、そっちが動いて撮ってくれないか」と言う。いま思い出しても吹き出しそうになる。
雀児山を越えると、景色は一変した。(次回へ続く)

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