禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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聖域巡礼 私の目から見るチベット(210号所収)

川蔵北路を歩く(一)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住


プロローグ
 今年の5月12日、夢にも思わなかった出来事が起こってぼくは愕然とした。昨年9月に巡礼した「川蔵北路」が四川大地震に見舞われたのである。そのエネルギー規模は隣国日本の阪神大震災の50倍、被害の範囲は日本の国土面積を超えるほど大きく、犠牲者は七月末現在で69200人、行方不明者は18195人に及び、被災者数は4824万人を超えた。心が痛む。北京五輪が迫った中、中国は全力を挙げて救済活動に取り組むことを強いられ、テレビと新聞による地震関連の報道に釘づけになる毎日だった。今回の四川大地震に対しての日本政府の緊急救助隊と医療救助隊派遣、日本国民からの義捐金などの暖かい支援に中国の国民は深く感謝しており、そんなメッセージがインターネットに数多く見られて、本当に心打たれるばかりである。

 今回からの『聖域巡礼――私の目から見るチベット』第3部は、昨年9月15日から10月1日まで巡礼した「川蔵公路」(北路)の記録である。1958年に開通した川蔵公路は中国の道路建設史上もっとも艱難に満ちた線路で、南北二線に分かれる。四川の成都から発し、南路は雅安、ダルツェンド(康定)、リタン(理塘)、バタン(巴塘)を経由してチベットのマルカム(芒康)に入るが、北路はカンゼ(甘孜)、デルゲ(徳格)経由でチベットのチャムド(昌都)に入り、ポムダ(邦達)で南北二線が合流してラサまで続く。今回私たちの一行が辿ったのは後者の北路である。成都から都江堰、汶川県映秀鎮、臥龍鎮という今回の大地震で甚大なダメージを受けた地域を通過し、ガルタル(八美)、タウ(道孚)、ダンゴ(炉霍)、カンゼ、デルゲ、チャムド、リウォチェ(類烏斉)、ポムダ、パシュ(八宿)、ラウォ(然烏)、ポメ(波密)、タンメ(通麦)、ニンティ(林芝)経由、金沙江(長江の上流)、瀾滄江(メコン川の上流)、怒江(サルウィン川の上流)、イオン・ツァンポ(易貢蔵布)を渡って川蔵北路最高地点、5050メートルの雀児山峠の難所を越え、計3000キロを走破したのである。

北京―成都―臥龍
 今回は同行者の顔ぶれは変わったが、同じく小学校三年生から高校まで九年間も机をならべたクラスメートの宮宏光さんと王海南さんが加勢する三人連れの旅である。
 9月15日、川蔵北路の旅が始まった。朝6時起床。朝に弱い僕は、寝ぼけ眼のままコーヒー一杯、パン一切れを流し込んで、慌しく空港へ向かった。空港で宮宏光さんと合流して搭乗手続きを済ませ、CA112便に搭乗、11時50分、時間通りに成都到着。宮さんは初めてのチベットということもあって興奮して熱っぽく喋り続けるので、付き合うのに苦労した。成都空港には、ラサから迎えに来たチベット族の運転手・ドチュ(多吉)さんが待っていた。友人が紹介してくれた30そこそこのドライバーである。前日の電話で、川蔵北路は山賊がよく出るので、助手として友人のツェタン(次丹)さんを成都まで連れて来たと告げられた。初対面だが、2人とも一見おとなしそうなチベット青年、5日ぐらい前にラサを出て、道の下見も兼ねて今回のルートに沿って成都まで迎えに来てくれた。心から感謝。1時間後、杭州から飛び立った王海南さんの飛行機が成都着、大合流なって即旅路についた。
 物産豊かな四川は、三星堆と金沙遺跡などを誇る中国文明史上、掛け替えのない存在であり、また非常に自然に恵まれた「天府」である。殷周時代に巴国(重慶を中心とする四川東部)、蜀国(成都を中心とする四川西部)ができ、紀元前3世紀の末、劉邦が蜀漢から前漢王朝をうち立て、三国時代に劉備玄徳と諸葛孔明が現在の四川、雲南、貴州、陝西省の漢中地方を含む「蜀」を興し帝を称して、蜀・魏・呉という三国鼎立の局面が出現した。北宋時代に入ってから、朝廷が「川陝路」を益州、梓州、利州、虁州という四路 に分け、略称「四川路」を設けて初めて四川と呼ぶようになった。李白、杜甫をはじめ、数多くの詩人・文人が四川を詠う詩歌美文を残している。食文化では、四川料理はまた中華料理の四大系統に入る料理として異彩を放ち、「麻婆豆腐」のように、麻・辛を特徴とする。そのぴりぴりとした辛さには敵わないが、汗を掻きかき、美味いを連発して食べる風景がよく目に入る。四川にはいままで何回も来た経験があるが、今回のようにチベット族地域の奥地に分け入るのは初めてである。
コンクリート作りの巨大な団塊「紫坪鋪ダム」 初日の目的地は「四姑娘山」である。高速に入って一時間走ったら、都江堰に入った。来るたびに震撼させられる都江堰は2250年前の戦国時代に、蜀の郡守である李氷親子が民衆を率いて当地の自然の地形を巧みに生かして急流の岷江の中に堰を修築した水利事業だった。それがいまだに成都平原をうるおし、流域の住民を滋養して止まず、「天府の国」になって現在に至る。人類を育み、輝かしい文明を孕んだ江河は、いまや人類の営為によってその生命が縮まり、李氷がまとめた「深淘灘、低作堰」(灘を深く淘い、堰を低く作る)という素晴らしい六字古訣は忘却の彼方に追いやられて、江河はいよいよ「天河」、「懸河」と化し続けている。その証拠に、都江堰からわずか十キロ離れた岷江には、「紫坪鋪ダム」というコンクリートの巨大な白い塊が醜悪な姿をさらけ出している。紫坪鋪ダムの「姉妹工程」として計画された楊柳湖ダムは、2003年に反対の声に押されてストップしたものの、いずれ巻土重来と相成るだろう。新中国ができてからいままで大小八万あまりのダムが作られたが、そのうち二万箇所が崩れ、残り6万のうち、死水容量しかないダムが40%を超えている。世界文化遺産に登録された2000年以上の中華文明を犠牲にしてまで、どうしてダムなど……、理解に苦しむ。
 高速を出て、国道317を走り続けたが、馬鞍石トンネルを過ぎた辺りで、大渋滞という悪夢の事態に突入した。トラック、バス、ジープと、あらゆる種類の車が並ぶ長蛇は首尾見えず、停車したまま全く動かない。道路の修復作業とかのためだという。待機は「待」つだけで、一向に「機」は見えない。たまに動いても、せいぜい百メートル進むか進まないうちに、再び人間の忍耐力を試すかのように、長い長い待機に入る。北京ではよく渋滞に出会うが、これほどひどくはない。ようやく「友誼隧道」に辿りついたが、最後トンネルに入ってから進退窮まって、暗い中、排気ガスが襲いかかってくるのには悲鳴をあげた。耐えられず、車から降りてトンネルを脱走する人が続出。やっとトンネルを抜けた時には、神経がすでに麻痺状態だった。午後3時30分から6時48分まで、3時間も動かなかった車はやっと普通に動き出した。

大渋滞で首尾が見えない自動車の長蛇の列 

 渋滞から抜けだした心地はなかなかいい。だが、予定の目的地「四姑娘山」は今日のうちにはとても無理だ。臨機応変に「臥龍」に決めた。出鼻をくじかれた格好だが、無事、勝利の大脱走ができたことはなによりだった。大橋を渡り、「映秀鎮」に入った時には、町はもう暗くなっていた。ここは汶川と臥龍の道路分岐点で、まっすぐ行けば、汶川だが、さらに北上すれば、日本でも名高い観光名所の「九寨溝」に続く。映秀鎮を通り抜けると闇が深まり、ヘッドライトに頼る走行になった。道路は拡張工事のためでこぼこで、密生している森の木々が車窓から黒々と後ずさりし、巨大なトンネルは悪魔の口が開いているかに見えて恐ろしい。臥龍鎮の「熊猫(パンダ)山荘」に辿りついたのは、すでに九時半を回っていた。腹がぺこぺこだが、レストランはもう閉店していたので、フロントに頼み、手配してもらった。水煮花生(煮た落花生)、泡菜(あさづけ)、回鍋肉(一度火を通した豚肉と野菜の炒めもの)を頼んだが、肝心の酒はない。ないというより、戸棚に入れられていて、キーを持っている人がここにいないという。ビールでも、ワインでも、白酒でも、アルコールならなんでもいいから、なんとかしてくれないかと王さんがいくら頼んでも駄目だった。ドチュさんが見かねて、車の出発の際に車輪にかけて平安を祈るのに使う酒を、「明朝の分だけは残してくれ」と言って出してくれた。三人は酒を口に運ぶたびに、明日の分を確かめつつ、とうとうこれ以上はだめというところまで飲んだ。

臥龍―日隆(四姑娘山)―丹巴
 パンダの故郷である臥龍は、標高二千メートルの岷山山脈の中にある自然保護地区で、世界遺産にも登録されている。またパンダの繁育研究基地としても有名なところである。朝、窓を開けると、小雨が降っている。こんもりとした森の山が水墨画のように目の前に迫り、ゴーゴーという水の轟音が耳を打つ。部屋から外に出ると、山荘の裏に、川が激しく流れ、彼岸の崖には滝がかかって音を立てながら落ちてくる。青々と茂る森の山の奥には、当然パンダの理想的な生息地が潜んでいるだろう。
 豆乳、肉まんをお腹いっぱい食べていざ出発しようとしたら、「四姑娘山」に行く道は整備中で極めて難行するので、成都まで遠回りして国道318に切りかえたらと、親切に言ってくれる人がいたが、回り道が遠すぎて、また日程が狂ってしまうので、とにかく前へ進み、途中でどうしても駄目なら、折り返してもいいのでは、と決行した。それにしても、道はしんどい。どろどろのぬかるみが道を横切り、注意しないとはまってしまう。トヨタの「陸地巡洋艦」(ランドクルーザー)のおかげもあるが、ドチュさんの的確な判断と運転の腕は実に見事である。

バーラン峠から眺める銀色の雪山    

 11時半、バーラン(巴朗)峠に上る途中、遥か遠くに銀色に輝く雪山が現われた。今回の旅で初めて見る雪山のおかげで、疲れは知らないうちに消えた。バーラン峠に着くと、4523メートルの高度標示が見えた。宮・王両氏は興奮して、「この調子なら、6000メートルなんか問題ない」とうそぶく。 40分後、昨夜ここに泊まるはずだった日隆鎮に着いた。山に囲まれたこじんまりとした町で、四姑娘山へ行くのに宿泊するベースキャンプになる町である。「姑娘」とはお嬢さんという意味で、この山の名は、美しいチベットの四姉妹がその昔当地に生息するパンダを守るために力をあわせて虎を退治して4つの峰に化けたという伝説から得たのである。長女・大姑娘山、次女・二姑娘山、三女・三姑娘山を凌ぎ、主峰として高さ6250メートルの末娘・四姑娘山(スーグーニャンシャン)は特にこの地域のチベット族にとって聖なる山として崇められている。中国のアルプスと呼ばれ、国内外で人気を博する霊峰である。
山に囲まれてこじんまりとした日隆鎮の町 お姉さんの笑顔に迎えられて「小二娃酒家」に入った。「鵝蛋菌の炒めもの」(ガチョウ卵の形の茸)、「牛肝菌(ヤマドリタケ)の炒めもの」、「青杆菌(マツタケの一種)の炒めもの」を注文した。頬っぺたがまんまるで可愛い顔をしたお姉さんは包丁を巧みに捌きながら会話をしているうちに料理ができ、それがなかなかの美味である。バーラン峠を越えた興奮がさめやらぬこともあってか、海南さんが「豊谷白酒」を注文したので、僕もよばれた。四川省綿陽出身のお姉さん一家は此処に来て2年ほどにしかならないが、食堂のほかに、旅館も経営しているらしい。われわれ一行が四姑娘山に行きたいというのを聞いていて、親切に「海子溝あたりは絶景、行くなら、家の馬を貸してあげるわ。乗って行けば入場券もタダ」というおまけ付き。「お願いします」とも言わない先に、勝手にポケットから携帯を取り出して手配・連絡にかかった。「馬を山に放したので、帰るまでは一時間かかる。待ってくれますか。今日はうちの旅館に泊まってもいいわ」と言う。どうやら旅館の客引きが目的のようだ。「四姑娘」との出会いに恵まれなかったのに、こんな口達者な「五姑娘」にはかなわない。このままではどんなことが起こるか見当もつかない。逃げるのが一番だろう。なにより肝心の四姑娘山は雲に遮られてすぐに見えるはずもないから、待機しても無意味だし、昨日の渋滞で一日の日程を棒に振ったから、予定通りに修正する方がいいと考えて出発することにした。
口達者な「五姑娘」 十三時半、日隆鎮を後にした。車に揺られながら、三十分後、「猛固橋」に着いた。橋は鎖で結ばれ、タルチョが翻り、橋下に川が轟音を立てて流れている。ここは往時毛沢東が赤軍を率いて蒋介石の包囲網から脱出した地域として中国近代史上有名で、猛固橋は毛沢東、朱徳、周恩来が赤軍第一方面軍を率いて小金県に入り、第四方面軍と合流した時の遺跡である。橋の砦に当時赤軍が書き残した宣伝スローガンが残っている。毛沢東の赤軍勢力は蒋介石の国民軍に遠く及ばなかったが、中日戦争や国内戦争を経て逞しく成長した毛沢東の勢力がついに打ち勝ち、蒋介石を台湾へ追いやった。こんなに広大な大陸から追っ払われ、死ぬまで狭い島を出られなかった蒋介石は、さぞ悔しかったろう。橋の端で地元の村民が果物を売っている。ドチュさんがリンゴを一袋買ってきた。小さくて青いリンゴだが、カリカリと歯ごたえがあってなかなか甘い。まもなく小金県城に入った。牛の群れが車を無視して悠々と歩き、クラクションを鳴らしても、一向に動じない。
 小金県城を出て、小金川伝いに峡谷に入ったが、峡谷はますます険しさを増していった。カーブを曲がると、落差で水の流れが急に激しくなり、その勢いにすっかり圧倒された。下車して河の辺りに注意深く足を運ぶ。河の幅はそれほど広くはないが、ど真ん中に立ちはだかってびくともしない巨石が流れをさらに激しくし、水が白い飛沫を上げ渦巻き、轟音を立てながら峡谷を突き抜けて彼方へと走りさる。
 十五時に新格郷を過ぎた辺りで、一面に花が咲きこぼれ、繁華美麗の模様が広がっている。四十分後、ようやく大渡河畔にある第一城・丹巴県城に辿りついた。成都まで折り返さずに決行したのが幸いだった。
(次回へつづく)

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