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聖域巡礼 私の目から見るチベット(208号所収)

東チベット〈シャングリラからラサ〉へ行く(八)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住


 九月二十九日早朝、若い都市「八一鎮」を後にし、ラサへ向かった。いい心持ちのアスファルト舗装道をひた走りながらカセットから流れる歌に身をゆだね、窓外の美景を眺めるうちに、「更張」を通り「百巴」が過ぎた。

ネャンジュ(尼洋河)
 十時頃、賽臥村辺りに古びた小さな吊り橋が見えた。その下をネャンジュ(尼洋河)が流れている。水の色に目を惹かれながら車から降り、川辺まで足を運んだ。ネャンジュが美しい。その美は水の色にある。翡翠のように透き通り、ゆったりと流れて心を落ち着かせる。白雲がネャンジュに飛び込んで身を清めるかのように、映えあうばかりの行雲流水。ネャンジュはヤルツァンポの五大支流の一つで、ミーラー(米拉山)に発祥し、ニンテイのツェモン付近でヤルツァンポと合流する、全長三〇七キロに及ぶ河である。チベット族の人は自然を崇拝し、世世代代に語り継がれる説話で山河を賛美する。なぜか伝説ではネャンジュを神女の目から流れる悲しき涙という。青空に白い雲が漂い、金色の畑に青徐R(チンコー)がうねり、清らかな川辺に飄々とした柳が揺れ、こじんまりとした村の遠方に雪山が聳え立つ。風景、這辺独好(こちらのみよ)しの感がある。ネャンジュを遡行して十一時頃コンボ・ギャムダ(工布江達)に近づくと、悠々と碧水に浸かっているヤクの群れに出会う。美しい水彩画さながらである。
 颯爽と自転車を漕いでいる一行四人の「酷驢」の姿が視界に入った。「酷驢」とは、最近中国で流行の、自らテントや炊事用具を持参して徒歩或いはサイクリングで旅行するパッカーを指す言葉で、重い荷物を載せて長旅の苦労に耐える代名詞として驢馬がイメージされている。嵩高(かさだか)な行李の様子からして、遠くから来ているなと察せられる。立ち話をしてわかったが、広州を出てすでに二カ月が経ちこれからラサを経由してチョモランマ方面に進み、ダム(樟木)から国境を越えてネパールに入るという。想像するだに気が遠くなる。昨年李叡と西チベットのアリへ行った時、途中で出会った大学院生たち(北京大学・ソウル大学・深曙V大学)が、サイクリングで新疆のウルムチからチベットのラサ到達を目指していると言っていたのを思い出す。北京に戻ってから北京大学の子と再会し懐かしく話し合ったが、なんと言っても彼らの若さが眩しい。
 十三時頃、松多村の「遂寧川味」で昼食を済ましてから再出発。見る見るうちにネャンジュが暴れ出し、迸(ほとばし)る激しい流れが目の前に迫った。先ほどまであんなに緩やかに流れていたのと同じ河かと呆気にとられた。激流のど真中に、「中流砥柱」と刻まれた巨石が毅然と立ちはだかり、流れの激しさがいや増した。伝説によれば、この石は、その昔、美しい少女が水の妖怪を降伏させるために方術を用いて移してきたという。対岸の緑に混じって鮮やかな紅葉が、碧水をバックに目に沁みるばかりに美しい。
 ミーラーに近づくと次第にネャンジュが姿を消し、車が唸りながら坂を登る。高度計は上がる一方で、指針が五千メートルを指した時に、車は峠の頂上に着いた。さすがに海抜が高いと風が冷たい。前方に雪山が高く聳えて天に摩り、四周は茫々と無限に広がる。アチンさんは早足に丘を登り、大きな輪に膨らんで寒風になびくタルチョの群れに持参のタルチョをしっかり結び終わると、「ラソソー、ラソソー」(神に勝利あれ)と声を張り上げた。

日多郷中心小学校
  

 ミーラー山はネャンジュとキチュ(ラサ河)の分水嶺で、コンボ・ギャムダ(工布江達)県とメルド・グンカル県の境であり、またラサ地区とニンテイ地区の境界でもある。ミーラー峠から下りるとメルド・グンカル県に入る。道端で遊ぶ子供の姿が見えた。後方の門に「日多郷中心小学校」とある。北京から持参した文房具類を思い出して車を止めた途端、子どもたちがワッと僕らを囲んではしゃぎまわった。先生らしい女性が白い歯を見せながら、「静かに」と怒るふりをして子どもたちを制した。「ザシデレ」(こんにちは)と挨拶し、北京から来た者だと声をかけたら、はにかんで「ニイハオ」と応じた。二十代か三十代の、笑顔のやさしいチベット族の先生で、名前はツァセワァンムという。文房具やら本やら新華字典が入ったダンボールを渡したら、感謝の面持ちで受けとってくれた。教務主任で彭斌という漢民族の先生が飛んできた。在校生は一年生から六年生まで三百二十八人で、そのほとんどはチベット族。教師は十三人のうち、十一人がチベット族であり、使っている教科書はチベット自治区が編集したものだと、要領よく学校の様子を紹介してくれた。子どもたちは自己主張のつもりか、時々口を出している。意味はわからないが、瞳を輝かせた明るい顔がなにより印象的だった。先生と子どもたちとの楽しいひとときを過ごし、記念撮影をして学校を辞した。元気な声で「カレィペェ」(また会おう)と叫ぶ子どもたちの笑顔は車窓からだんだん小さくなり、ついに消え去った。いつまた会えるか知らないが、元気に育ってほしい。
 ガァンガ村を通りかかった。メルド・グンカルは半農半牧地域で、いまは収穫期の真っ最中、秋の取り入れに走り回る風景がよく目に映る。畑のはほとんど刈り入れが終わり、トラクターで脱穀場へ運びこまれる。一方、脱穀場では農民が仕事に余念がない。収穫の季節だけに、喜びもひとしお、彼らの身振りからそれが伝わってくる。

ガンデン寺(甘丹寺)
 タクツェ(達孜)県の境内に入り、十六時頃、車は幹線道路から離れ、舗装のない、左手の細い坂道を上がって行く。ガンデン寺(甘丹寺)への山道は、車幅と同じ幅しかなく、路肩も固められていない。急な山腹のつづら折を這い上がるように登るが、でこぼこ道のため、まるで洗濯機に放りこまれたように車も僕らの体も躍った。車輪が巻き上げる埃が車内まで入り込んで閉口した。高度が上がるにつれて下界にキチュ(ラサ河)が現われ、頂上に近づくと山の斜面に壮麗そのものの伽藍が扇状に広がる全景がだんだんと見えてくる。

 

 伝説によれば、或る日、チベット仏教のゲルク(格魯)派創始者ツォンカパが弟子たちを連れてガンデン寺の立地を下見した。一羽の烏が突然ツォンカパの帽子をさらって口に銜え、空中で数回旋廻してワンポル山に落とした。ツォンカパはすぐに飛んでいき、躊躇せず仏様の意思だとガンデン寺の立地に決めたという。伝説はチベットの歴史であり、チベットの歴史は伝説だと言える。
 ガンデン寺はゲルク派の六大寺院(ほかにセラ寺、デブン寺、タシルンボ寺と青海省のタール寺、甘粛省のラブロン寺がある)の総本山である。1409年にツォンカパによって建立され、ゲルク派誕生のシンボリックな存在となった。ツォンカパ(1357年〜1419年)は青海省・アムド(安多)地方のツォンカに生をうけ、7歳にして幼年僧の戒をトンドゥプリンチェン(頓珠仁欽)から授かり、ロサンタクパ(羅桑扎巴)と命名された。十七歳の時から十年間、各派の高僧のもとを訪れ、当時のチベット仏教の主要な教派の修行を積み、経典の研鑽を重ねて仏教教義に対する造詣を深め、顕教と密教をともに修めた。同時に仏教界の腐敗を目にして戒律の復興を提唱し、仏教本来の姿を取り戻し宗風の一新を図るべくゲルク派を結束し、「宗教改革」の幕開けを告げた。その後ガンデン寺が建立されるに至るが、最盛期には三千人とも七千人とも言われる僧弟を集めて説法指導を行なった。チベット仏教史上の大学僧・大聖者として数々の偉業を成し遂げ、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマもゲルク派に属する最大の宗派となった。
 しかし残念至極なことに、ガンデン寺は文化大革命の狂騒による破壊から逃れられず、廃墟化する。1980年代に主だった建築物が再建されたが、往時の偉容には到底及ぶべくもない。聖域巡礼の道々、文化大破壊の爪あとが生々しく、廃墟のままのサキャ北寺や松賛林寺を思うと、心が痛む。「革命」に名を借りて人間の尊厳を踏みにじり、文化を扼殺するという愚かな行為。なんという痛ましい代価を払わされたことかと、痛恨の念を禁じえない。
 もうすぐ午後五時なのに、日はまだきつく照りつけている。疲労に酸素希薄も加わって、周さんと馬さんは入るのを断念して日陰で涼をとるという。拝観時間が終わりに近いので、慌てて中に飛び込んだ。広大な敷地に坂道がやたらと続き、海抜4300メートルとあって、歩くにも速足は禁物。まぶしい陽光に照らされてツォンカパ霊塔殿に入ると、一瞬真っ暗だった。バターの匂いが漂う中、目が慣れると、部屋の隅にぼーっと老僧が一人いることに気がついた。参拝客は僕以外誰一人いない。霊塔の手前にツォンカパの塑像が安置され、その両側にお気に入りの二大弟子が安置されるという構図。右はケードゥプ・ゲルク・ペルサンポ(克珠吉・格雷貝桑)であり、左はギャルツェプジェ・ダルマ・リンチェン(加察吉・達瑪仁欽)である。像の後ろにツォンカパの遺骸が納められた仏塔が、渾身繊細にして豪華な装飾を施され、さまざまな玉や金に彩られて静かに立っている。

 

 拝観時間が終わったため、ツォクチェン(集会堂)の中に入れなかった。入口あたりの壁に鮮やかな色彩の壁画が描かれている。外側を歩きまわり、ツォクチェンの広場から、眼下に、先ほど登ったつづら折の道を、車が一台、埃を巻き上げながらのろのろと上ってくるのが見えた。
  ワンポル山から下り、キチュ伝いに18時半頃タクツェ県城を通り過ぎると、まもなく遠くにポダラ宮が見えた。胸が躍る。感激のあまり、10日間の旅の疲れがどこかに消えたようだ。
 ラサに着いた夜、アチンさんへの慰労も兼ねて久しぶりにしゃぶしゃぶに舌鼓を打ち、白酒(パイチュー)やらビールやら、アルコールを全面解禁して夜遅くまで気持ちよく飲んだ。

国慶節のラサ
 周さんと馬さんが一足先に北京に帰ったため一人ぼっちになった僕は、国慶節とチベット自治区成立四十周年という「雙喜臨門」(二重の慶事)を迎えたラサと喜びを共にした。天高く雲淡し、清々しい秋空をバックにするポタラ宮の広場が鮮やかな花に埋もれ、お祭り一色で一際美しかった。さすが「至高至尊」のポタラ宮だけあって、いっそう荘厳で、天安門を凌ぐ気勢すら感じさせる。観光客は記念写真に熱中し、広場の公園のそこここに家族がくつろぐ姿が見られる。こんな情景を見て、六十年代に流行った『ラサの街をぶらぶら』という歌を思い出した。――雪山に昇る赤い太陽、ラサ城を金色に輝かす。路傍に電柱が連なり、発電所は発電に忙しい。タービンが回れば家々に明かりがつき、ラサは夜も昼も燦々と輝く――

 

 明るくて美しいメロディはいまでも懐かしい。だが、その頃に比べると、ラサは驚くほど大きな変化が生じて、経済発展や都市建設が著しく進み、とりわけ交通と通信状況が大いに改善されている。鉄道建設も着々と進み、青海・チベット鉄道のレール敷設がすでに全線完工した。ラサ空港への道路が高速道路並みに整備され、ガラ山のトンネルにヤルツァンポとキチュに跨がる「両橋一隧」が完成したおかげで距離が三十キロも短縮された。
 だが、僕はそれより、ラサの太古さながらの頗る緩慢なリズムが好きだ。ジョカンの正門前で信者たちが、香草の煙にかすむ中、五体投地を繰り返したり、マニ車を手にして回しながら歩く風景はいつまでも見飽きない。また活気に溢れ、生活臭が漂うバルコルの散策は無限の楽しさが味わえる。
 ラサ滞在中、チベット族の友人ゲーピンさん一家と久しぶりに再会でき、バター茶を飲みながら楽しい一時を過ごした。また、旧友の張万生さんに自宅まで招かれ餃子のご馳走になったのも嬉しかった。 北京に帰る機上、雲間からのぞく連綿たる雪の山々を見下ろしながら、後ろ髪を引かれる思いでチベットと別れた。この聖なる浄土への憧憬を胸いっぱいに抱くかぎり、巡礼の旅は終わらないと、内心思った。チベットよ、また会う日まで。(次回は「第三部 川蔵北路を歩く」につづく)

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