道はいよいよ険しくなり、いたるところで落石、崖崩れが起きていた。ブルドーザーが、いざというときにはいつでも出動できるように、道端で待機している。先方山道のカーブに、トラックが一台停まっているのが見える。運転手が休息を取っているのだろう、こんな危険な山道を走るのは、さぞ神経が参って、疲れがたまるだろうと思った。山の角を幾つか曲がって近づくと、ハンドルを握ったまま、運転手がこちらを見据えている。車輪がぎりぎり、断崖の路肩に乗りかかった格好で、ぼくらの通過を待っているのだ!
トラックの傍をゆっくり通って曲がると、その後ろにさらに数台の車が静かに続いている。内陸部の都会では、チベットでよく目にするこんな譲り合いの風景が見られない。車同士が譲らないばかりか、歩行者と車もそれぞれが先を争っている。「三分間待たされても、一秒は争わず」のスローガンが看板倒れとなり、交通ルール違反が常態化している。内陸の運転手は反省しなきゃ、と呟いたとたん、斜めから黒い車が一台突っ込んできてこちらの進路を阻んだ。車のナンバープレートをよく見ると「吉」とある。「吉林省」の略だ。こんな遠隔地に来てまで乱暴な運転をする者がいるとは、同郷者として恥ずかしい限りだ。

また会おう パロン・ツァンポ
濃く茂る森のトンネルをくぐったら、景観が急に広がり、明るくなった。目の前に、ピラミッドのような山が聳えている。後ろにあるはずの山々が厚い雲のカーテンに閉ざされ、パロン・ツァンポが滔々と流れこみ、山を大きく迂回して急いで流れ去った。車から降りてしばし眺めたが、壮麗なパノラマに胸が躍った。「排龍天険」に辿りついたのだ。
「排龍天険」とは「川蔵公路」一の険要であり、パロン・ツァンポとラーユェーチュ(拉月曲)が合流する「老虎嘴」(虎の口)はとりわけ険要な隘路である。高さ百メートルもある鋼の柱と梁が断崖に懸かって鉄橋となり、その真下にパロン・ツァンポが白い飛沫(しぶき)を上げ渦巻き、轟音を立てながら峡谷を突き抜けて彼方へと走る。川を挟む両岸の高い山々が雲や霧の中に霞んで、こんもりとした原生林が幾層にも重なり合う。川沿いの小道がどこまでもくねくねと伸び、遠方に吊り橋がかかっているのが微かに見える。朦朧とした山水がえもいわれぬ水墨画に化し、李白の詩「山従人面起、雲傍馬頭生」(山は人面より起こり、雲は馬頭に傍うて生ずる)が脳裏に浮かんだ。
トラックがクラクションを鳴らしながらゆっくりと走ってきた。甲高い轟音が峡谷にこだましてなかなか消えない。「老虎嘴」を通るトラックの運転席から、突然、色とりどりの「風馬(ルンタ)」(護符)がばら撒かれた。風馬が「ラソソー」(神に勝利あれ)のかけ声とともに大空を舞い、神様に祈願を発する。なんと美しい風景だろう。

三脚を立ててカメラをすえ、かすかに見える遠くの吊り橋を望遠で覗き込んだ。水面から三十メートルくらいあるだろう。その橋を渡れば、ヤルツァンポ大峡谷に入ることができるはずだ。そのさらに向こうには、世に知られざる蓮華の聖地――メド(墨脱)、別名ペマ・コ(白瑪崗)があるのだ。ペマ・コはチベット語で「蓮華山」の意で、大蔵経『カンギュル』(甘珠爾)に「仏の浄土ペマ・コ、聖地の中で最も殊勝」と記された地上の天国である。蓮華は仏教では吉祥のシンボルであり、蓮華山は巡礼者にとって須弥山そのものである。ネット文学でデビューした自由作家・安渚Q宝貝(アニーベイビー)の小説『蓮華』は、ほとばしる激情や、感情的な煽(あお)りがないにもかかわらず、人の心の奥深くに咲く蓮華の美を、みごとな筆致で捉えている。本の序には、「ヤルツァンポ大峡谷に行く道程で、自分が死ぬだろうと思った。山中の暗夜、木造の山小屋に泊めてもらい、寝る前に毎日のように、明日は山崩れや土石流に埋まらずに生きて旅を続けることができるだろうか、と自分に問いかける。自分はすでにいままでの自分とは違っていることをこの体験が気づかせてくれた。読者の皆さんに言っておくが、メドに行ってはいけないのだ。そこへの道は危険極まりないのだから」と、書かれている。思いを馳せてやまない勝地だが、めったなことでは辿りつけないのだ。

パロン・ツァンポが大峡谷を突き抜けてメンヂォン(門中)とザチュ(扎曲)の間でヤルツァンポと合流し、メドを経由してインドに流れる。インドではブラマプトラ河と呼ばれるが、最後にはバングラディシュを通ってベンガル湾に入る。パロン・ツァンポはヤルツァンポの五大支流の中で水量が最も大きい支流で、全長二六六キロに及ぶ。パロン・ツァンポ峡谷は長さ五〇キロ、深さは平均して三五五五メートルで、グランド・キャニオン大峡谷を抜いて、ヤルツァンポ大峡谷(五三八二メートル)とネパールのカリガンダキ大峡谷(四四〇三メートル)に次ぐ世界第三の峡谷といわれる。
幸運に恵まれ、やっとの思いで危険地帯を脱して思わず胸を撫で下ろした。いよいよパロン・ツァンポとの別れだが、名残惜しい。思えば、来古氷河・ラウォ湖(然烏湖)の発祥地から、時には万馬奔騰の如く、時には優しく語りかけるように流れるパロン・ツァンポがずっとそばに寄り添っていてくれたおかげで、美しい大自然を堪能し、旅も楽しく過ごすことができた。感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。いつかまた会おう、パロン・ツァンポ!
飛沫を上げて激しく流れる拉月曲を遡って十一時半頃東久郷を通った。ここから先は「幸福路」となる。
魯朗石鍋鶏
十二時頃、ルナン(魯朗)という町に着いた。一本道の両側に、不思議に「石鍋」と名のつく看板がいくつも目に映る。昼食にはまだ早いのだろうか、町には人が少ない。「魯朗石鍋王」という料理店に足を止めると、主人が愛想よく迎え入れてくれた。「魯朗石鍋鶏」は名だたる名料理なんだから、この地に来て食べなきゃ、それこそ生涯の痛恨事、とか聴かされた。わけを聞くと、鶏は「蔵鶏」というチベットの地鶏で、高海抜や寒冷、酸欠に強いかわりにゆっくりと成長するため、大変美味しいという。さもありなんと思ったが、さらに目を惹かれたのは、料理に使われる石鍋だ。石の真ん中に穴を空けて彫って作り上げた鍋は、メドから背負って運び出されたものだそうだ。
蓮華の聖地メドはチベットの東南にあり、平均海抜は約千メートル。洗面器形の地形は、周辺を四千メートル以上の雪山に阻まれ、山を越えなければ出入りができない。十一月から翌年の七月までは山が封じられて、一年のうち三カ月しか出入りできないため、この間だけ人足が石鍋を背負って行商し、生活用品を買って帰るという状態で、外の世界と没交渉の生活を営んでいる。メドは自動車道路の整備がなされていない中国唯一の県である。一九九〇年代の初め、ポメ(波密)からメドまで一四〇キロの道路が建設され、開通の日にブルドーザーの先導で、トラックがでこぼこ道を走り、世から隔絶されたメドに辛うじてたどり着いた。メドの人々は、夢にも見たことのない自力で走る不思議な「怪物」を、お祭りのように迎えたが、気の毒なことに怪物はもう二度とそこから出ることはできなかった。一時、「国家測絵局」が出版した「中華人民共和国地図」にまで載ったメドへの道路は、トラックの通ったあとに崩壊し、瞬時の伝説に終わってしまったのだ。
石鍋鶏に、手掌参(チベット名ではオーラ)や、天麻(テンマ)、枸杞(クコ)、当帰(トウキ)などと、名も知らぬ調味料がたっぷり入れられた。「手掌参」は手掌のように五つぐらいに分かれ、表皮は黄白色、中身は白色の塊茎である。海抜三千メートル以上の高山草地のまばらに群生する林に生息し、補腎益気など体に大変よいという触れ込みだ。鍋には雪山から流れる渓流の水を使い、炭火でじっくりと煮込む。味はといえば、いろんなものが混じっているので、うまく言い表わせない。

ナムチャバルワ 次の機会こそ
食後、出発してまもなくルナン草原が現われた。美しく広がる高原にチベット式の住居が点在し、まるで桃源郷である。十四時に、四千七百メートルあるセチラ峠に着く。タルチョの群れが強風になびいて今にも飛び立って行きそうに見える。ここから、世界で十五番目に高い、海抜七七八二メートルの「ナムチャバルワ」(南迦巴瓦)山を眺めるのが最もよいとされている。しかし、雲に隠れていっこうに姿を現わさない。チベット語では「青い空を刺す矛」という意味だが、峰が尖って矛のようにまっすぐ空を指しているためだろう。一時間ほど待ち続けたが、とうとう雄姿を見せてくれなかった。残念至極だ。携帯で北京にいる息子の叡にその様子をショートメッセージで送ったら、「ナムチャバルワは一年に二百日以上も見えない。心誠則霊(真心あってこそ)だから、次の機会には見えるだろう」と、返事がきた。修行がまだ足りないか!
中国で一番美しいと言われる山だから、姿を見るまで頑張らなくてはいけない、とひそかに心に期した。
八一鎮 また冬蟲夏草
セチラ峠を越えニンティ(林芝)に向かう途中、萌葱色(もえぎいろ)の原生林が一面に広がる。ニンティを過ぎると、まもなく「八一鎮」に着いた。中国人民解放軍の建軍記念日である八月一日を意味して命名された町だ。一九五一年から建設が始まり、現在は人口三万五千人、ニンティ地区の首府となっている。チベット自治区の六つの地区の一つとして、ニンティ地区はチベットの東南部にあり、ヤルツァンポの中下流に当たる。南はインドとミャンマーにつながり、面積は十一・七万平方キロ、人口は約十六万。インド洋から南のヒマラヤの隙間を縫って吹き込むモンスーンの影響を受け、豊かな原生林に恵まれて気候が湿潤で、夏は涼しく、冬は暖かい。日照時間が長く、海抜の一番低いところは千メートルしかなく、土地が肥えるため、作物の成長に適している。森林に覆われる風光明媚な景観、見渡すかぎりの緑で、さすが「チベットの江南」と称えられるだけのことはある。
ホテルに着き、チェックインして行李を解いた。外はまだ明るく、散歩に出かけることにした。大通りには銀行、電信、ホテルなどの近代ビルが建っており、インターネット・カフェもよく見かける。横道に一歩入ると、商店や露店がずらりと軒を並べ、日用雑貨、骨董品、仏具などが溢れている。近代文明と民族文化とが巧みに融け合った感じの町だ。
ポメで小広東と別れたあとも「冬蟲夏草」のことが気になって、広い蔵薬店の一軒に入った。アチンさんが付いていてくれて心強い。さまざまな生薬が溢れて目が眩む。「冬蟲夏草」は昆虫寄生菌で実に不思議な生物である。名の通り、冬は虫となってよく動き、夏には草になることから生まれた名である。冬に蟲草菌がコウモリガ(蝙蝠蛾)の幼虫体内に寄生し、養分を吸収して菌糸が成長するうちに虫がミイラとなり、夏にはその頭部から蟲草茸の子実体(しじったい)が発生して草木のように地面に出てくる。寒さに強いコウモリガはマイナス三度まで下がらないと死なないから、チベット、青海省、四川省、雲南など海抜が三千メートル級の高山の草原地帯にしかできない。十五世紀のチベットの薬物書『甘露宝庫』に、冬蟲夏草は「分泌・消化機能をととのえ、強精効果も最高である」と記されていて、昔から漢方では陰陽思想により不老長寿、滋養強壮の秘薬として用いられており、特に則天武后に愛用されたことで有名である。その「神秘な効果」はともかく、値段の高さに吃驚する。聞くところによれば、ここ数年、値段はうなぎ上りで、いまや一キロ、五十万元にまで跳ね上がり、十五年前と比べると、驚くなかれ、百倍以上の値上がりだという。「これはなかなか上物だと思うが、どうだい」と、アチンさんが言う。
黄色で節のあるミノムシの姿をした蟲草は確かに立派だった。そのかわり値段もこれまた立派だ。財布を出し、思い切って一束買った。店員はニコニコしながら丁寧に蟲草を六角形の小箱に入れた。希少であるほど価値があり、価値があるから掘り出しに夢中になる。その結果、蟲草はますます少なくなり、最後には、金がいくらあっても手に入らなくなるだろう。もはやなにをか言わんやだ。
外は暗くなって街灯がともり始めた。ニンティの首府だけあって、町は遅くまで賑わい、車がひっきりなしに走っている。明日、ラサに向かう。途中でガンデン寺(甘丹寺)を参拝するのが楽しみだ。(次回へ続く)
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