十五時二十分、ポメをあとにして、奔流するパロン・ツァンポ伝いにタンメに向かった。ポメからタンメまでおよそ百キロ。そのうち古郷までの四十キロほどの道は、いわばグリーンのトンネルで、滑らかなアスファルトロードに車輪がうきうきしているのか、車が嬉しそうに疾走する。路傍の並木がどんどん後方に過ぎ去り、天空に届かんばかりにジェンズゥーゾォマの歌声が車中を満たしている。めまぐるしく動く窓外の景色を眺めながら、美しいメロディーに酔いしれた。
十六時に、風光明媚な「古郷」に辿りついた。道は悪くなったが、風景はいよいよ壮大で、心ときめくものとなる。山々が雲や霧の中を見え隠れ、氷河が銀蛇のように踊っている。雲の隙間から青い空が顔を覗かせたかと思うと、こんもりとした森が幾層にも重なり合って現われた。パロン・ツァンポが耳を聾せんばかりに轟きながら奔流している。
三十分後、道端に「要致富、先修路」(豊かな暮らしは道路造りから)というスローガンが現われ、行く手には砂石があちらこちらに山と積み上げられている。真っ黒に日焼けした労働者たちが、埃にまみれて土を固めたり、砂土をふるいにかけたり、レンガや石を積み重ねて道路整備に励んでいる。地面を固める掛け声がリズミカルに峡谷にこだまする。瀾滄江畔ドゥカの橋端にある道路修築の記念碑が脳裏に浮かび、この風景と二重写しになった。山を切り開いて道を造り、河に橋を架ける。風雨に曝されながらの彼らの労働が「天塹を通途に変ず」る実となる。どん底に生きている彼らだが、ぼくには皆なヒーローに見えた。
タンメ(通麦)その一
車は山水が横ぎる泥濘の道にかかった。揺られているうちに、タンメ(通麦)に近づく。「来たぞ」と、アチンさんがストップして、しばらく前方を睨んだ。辺りは山が険しく、山頂に煙が立ち込めて、山崩れがあったばかりのようだ。コンクリートの道路の擁壁が半分石に埋もれ、裸の山肌が山頂から道端まで伸びて、いまにも崩れ落ちそうだ。アチンさんは口を一文字に結んだまま車を発進し、右上を横目で伺いながらアクセルを踏んだ。
要衝を過ぎたところで降りる。この辺りはいわゆるタンメの胸突き八丁と呼ばれており、一〇二道路修理班の管轄区間らしい。長さはそれほどでもないが、山崩れが頻発して車もろとも呑みこまれる事故が後を絶たない。川蔵公路(四川―チベット道路)の経験豊かな運転手でさえ油断できない恐ろしい鬼門関の一つである。道路開通当初、一〇二道路修理班の管轄区間はパロン・ツァンポの水面より三、四メートルくらいの高さだったが、山が崩れるたびに路面が上がるので、いまや優に数十メートルを越えている。山は終始活発に動く状態なので、鉄筋を山肌に深く打ち込んで、コンクリートを流し込み、石積みやブロック積みの擁壁工法を取る。層巾は二、三メートルあり、すでに二十層ほど積み上がっているのに、山崩れはいっこうに止まない。周囲は見渡す限り緑に覆われているが、ここだけは山肌が露で釣り合わない。いまにも崩れそうな山、足元に轟々と流れるパロン・ツァンポ。急に恐ろしくなってすぐにその場を後にした。
「通麦賓館」に入る。森がよく茂って静かで気持ちのよい広庭がある。四階建ての大きな建物と、一戸建ての別荘が幾つかある。お湯のシャワーが出ると聞いて元気が出た。道中埃まみれだったので、一風呂浴びることをどれほど夢見ていたことだろう。チェックインして行李を降ろした。一部屋百八十元。手洗とシャワーは共用で、お湯が出るのは夜十一時まで。部屋は広い。四十平米くらいはあるだろう。オフィスビルを改築したそうで、天井が高く気分がいい。日の暮れが遅いのをこれ幸いと、明るいうちに、パロン・ツァンポとイオン・ツァンポの合流地点に向かった。
タンメ鎮の町は一本道の両側が店舗というワン・パターン。店舗そのものが看板になっているものが多く、あまり人気がない。タンメ鎮を通過した途端、パロン・ツァンポの轟音が耳をつんざく。万馬奔騰の如く流れる河が視野に入ると、心底震撼させられた。
パロン・ツァンポとイオン・ツァンポ
ここはパロン・ツァンポとイオン・ツァンポ(易貢蔵布)が合流する地点だ。パロン・ツァンポが東から滔滔と流れきて、イオン・ツァンポは北から峡谷を突き抜けなだれ込む。二水はまさに大暴れする二匹の巨龍よろしく、千軍万馬を率いてタンメ大橋あたりで勇猛にぶつかり合っている。飛沫を上げて波が跳ね上がり、取っ組み合いをしながら、南のジャラバイライ(加拉白塁峰・七二九四メートル)へとひた走る。

イオン・ツァンポには大小二つの橋が架かっている。同じ吊橋だが、小さい方は何時造られたのかわからない。幅が狭く人間しか通れないが、対岸の橋端がすでに封鎖されているので、現在は使われていない。大きい方の橋は二〇〇〇年十二月に新しく造られた鉄橋だ。それまでの橋はその年の六月に、イオン・ツォ(易貢湖)で発生した土石流に押し潰された。タンメ大橋だけでなく、タンメからイオンまでの道路やぺマ・コ(墨脱)への吊橋も全滅だったそうだ。タンメ大橋は国道三一八号の要衝に架かっているので、ポメからニンティ(林芝)までの道路は半年も麻痺する有様だった。
恐る恐る小さい方の吊橋に上がってみた。古びた橋の板に載せた足は安定感がなく、橋の下の激流にめまいが起きそう。橋から降りて、ほとりの大きな石に腰をかけ、二水合流の場面にいつまでも見とれていた。狂龍さながらに奔放に流れ、迸る水勢は凄まじい。遠方には、ジャラバイライが棚引く雲や霧に煙っている。まさに仙境である。
起伏する山々の輪郭が夕闇に消え去ろうとするころ、私たちは宿に戻り、正門すぐ傍の「光輝飯荘」に入った。数日の旅の疲れもあり、高度にも順応してきたので、チベット入り以来、控えていた酒を初めて解禁にした。ビールを飲んだが、なんだか物足りないので、チンコーで醸造した白酒を一本注文した。四十度ぐらいでさすがにキツイと感じた。よく飲みよく食べて、九十元で済んだ。安い酒はやはり辛い。店にはほかに軍人さんが三、四人いて、にぎやかにビールを勧め合ったりしている。食卓の下にはすでに空ビンが並んでいる。戦友同士の再会のようだった。
今日は、ラウォ(然烏)から二百三十キロ走った。これまでで一番美しい区間だった。明日は「通麦・排龍天険」という、これまた悪名高い天険を通過してニンティに向かう。この辺りは海抜が低いせいか、全体が湿っぽい。真っ暗な屋外からパロン・ツァンポの轟音が伝わって、かえって静寂が深まる。
五体投地の礼をして聖地に向かう一家
二十八日朝、朝靄が遠山近嶺にただよっている。「光輝飯荘」へ朝食を取りに行く時、門前に一家七人の巡礼者の姿が見えた。ラサへ五体投地の巡礼をするために、青海のジェクンド(玉樹)から来ているという。ジェクンドは、チベット仏教の信心が特に篤い地域として知られており、五体投地の巡礼者が多い。一家の父親と母親は顔にしわが寄って老けて見えるが、五十歳にはなっていないだろう。五人の子供は全部男の子だ。まだ二十歳前と思しき長男から、十歳にも満たない末っ子まで、全員埃まみれである。大八車には、一面油垢でテカテカした行李が積んである。巡礼を始めてどのくらい経つのかアチンさんが聞いたら、もう二年だという。彼らは淡々と答えたが、胸が詰まった。汚れに汚れた顔から察するに、途方もない二年だったに違いない。

ぼくは、これまで三回ほどチベット入りして、長い巡礼の道のりを五体投地の礼をしながら聖地へ向かう巡礼者にずいぶん出会った。彼らの姿を見るたびに心が激しく揺さぶられる。チベット地域の特殊な歴史と地理と環境が人々を苦行へと自覚させ、その菩提心が自らに厳しい環境に立ち向かう勇気を与える。彼らの自虐的とも思える行為への理解に苦しみ、憐れみで心が一杯になるが、「五体投地」という生の限界を超えた極端な表現で意義の追求と憧憬を表わす彼らには、今世の苦しみはすでに重要ではない。苦界を泳ぐ行為は幸せな来世、彼岸に渡るためであり、世俗の今世は一時的なもの、天国の来世こそ永遠である。この仏世界への憧憬こそが彼らを果てしない苦労の日々が繰り返される巡礼の長旅に駆り立てているのだ。閉鎖的環境がチベット仏教に生存と発展の土壌と空間を与え、神霊の加護が巡礼者に最大の心理的均衡と精神的満足を与えている。今世の無尽の煩悩が来世への追求を強めさせ、その渇望は仏に対する五体投地の礼に転化し、「我」が葬られる。拝金主義が横溢する時代に、彼らの行為は愚と一蹴され、時間の無駄と見なされ、生命を粗末にするものだと言われる。しかし、かの地で実際に彼らと対面すれば、到底そんな言葉を口にする気にはなれないだろう。なによりも信仰の力の偉大さに心底、震撼とさせられるからだ。
朝食後、私たち一行は出発した。通麦からイオン(易貢)へ行くつもりだったが、五年前の泥石流災害にやられて、いまだイオンまでの道路は開通していないとアチンさんに言われて諦めた。イオンには「珠峰聖茶」(チョモランマ聖茶)がある。唐貞観十五年(六四一年)、唐の文成公主がソンツェンガムポ王妃として吐蕃へ入った時に持参した茶の種を、ヒマラヤ山脈の東部にあるイオン・ツォ(易貢湖)畔に植えたものという。イオン・ツォ畔の峡谷は北緯三十度で、これは銘茶にとって神秘的な緯度とされており、杭州の「龍井」、洞庭の「碧螺春」、盧山の「雲霧」、屯渓の「毛峰」など、みなご多分に漏れず「北緯三十度」と決まっている。この峡谷は海抜二千二百メートル以上の高寒地にありながら、インド洋からの暖湿気流がヤルツァンポ峡谷を遡って流入するので、一年中雲霧に包まれている。こんな特殊な環境に恵まれてこその「珠峰聖茶」なのだ。人跡まれな奥山だけに生産量が少なく、帝への貢ぎ物としたお茶なので、知る者ぞ知る、貴重この上ない代物のようだ。百グラムで千元(一万七千円)とも仄聞する。やはり行くのをやめて良かったのかもしれない。
タンメ(通麦)その二
吊橋は車一台やっと通れる幅なので、一方通行しかできない。時速五キロの制限もあって、のろのろと橋を渡り、パロン・ツァンポ沿いの山道をゆっくりと登っていく。右は山、左は河に臨む断崖、道は紆余曲折している。パロン・ツァンポとイオン・ツァンポが合流したら、もうこれ以上恐いものはないぞとばかり暴れている。河の中の巨石を呑むほどの勢いで白い波を蹴立てている。道が凸凹で、下手をすると車体がひっかかって空回りしてしまう。
昨日、通麦一〇二道路修理班区間の胸突き八丁を通り抜けたが、これから通るタンメからパイロン(排龍)までの十七キロの山道は川蔵公路で別名「通麦墓地」と恐れられた最も厳しい区間であり、特に排龍辺りは、いわゆる「談虎色変」(噂をしただけで顔色が変わるほど)の名所。過去の記録によれば、文革時の一九六七年八月二十九日、パロン・ツァンポ峡谷で世にも恐ろしい山崩れが発生し、山全体が総崩れして対岸の山にまでぶつかったため、二千万立方メートル規模の山崩れを招いたという。見当もつかない数字だが、地形が一変し、河の流れが塞がったというから、スケールの大きさがわかるだろう。当時、ちょうど軍のトラックの車列が通りかかったため、解放軍戦士が多数犠牲になり、現地で山崩れについて調査中だった科学探検チームも九人巻き込まれた。

くねくねする山道に、「前方落石注意」「崖崩れ注意」「事故要注意」と、ドライバーや通行者にやたらと注意を促すイエロー警告板が立っている。アチンさんは前方を凝視して注意深く運転していたが、急にカーブの一つ手前で車を止めた。不思議に思ったが、でっかいトラックがカーブからぬっと頭を出して吃驚した。
なるほど、対向車を待っていたのか。道幅が狭い上に断崖の路肩の地質が柔らかくて、いつ崩れてもおかしくないので、車のすれ違いが大変難しい。前方に気をつけながら余裕をもって広いところで待つわけだが、カーブの多い山道で視界が効かないのに、よく対向車が来ることがわかるなと感心した。まばらな雨粒が窓ガラスに落ちている。前方に若い娘が二人現われた。リュックサックを肩にかけて歩いているが、車の気配に気づいたらしく、体を山擁壁にくっつける格好で待ってくれた。遠い道を、どこから来て、どこへ行くのだろうか。親に黙ってこの遠隔地に来たのだろうか。(次回へ続く)
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