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聖域巡礼 私の目から見るチベット(204号所収)

東チベット〈シャングリラからラサ〉へ行く(四)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住


 ようやく危険地帯を脱して、思わず胸を撫で下ろした。ドゥニ(同尼)村を過ぎ、路傍で一息入れていたら、ふいに携帯が鳴った。こんなところで信号が入るなんて、誰だろうと首をかしげながら、耳をあてた。
「建華さんですか、単です」。
 長春からの電話だ。「単」さんとは、ぼくが一九六三年長春外国語学校に入った時に国語を教えてくれた担任の先生だ。チベットで電話をもらったのにはさすがにびっくりした。
「贈ってくれた『雁棲塞北』(『ぼくらの村にアンズが実った』〔日本経済新聞社〕の中国語版)を読み終わったわ。ありがとう。黄土高原に十三年も植林をつづけたこの高見さんという日本人は本当に偉いわね」。
 相変わらずの早口で、鈴のように澄んだ声だ。今、雲南からチベットのラサへ向かう途中だと言ったら、あまり唐突だったからか、先生はすぐにはぴんとこなかったようだ。北京にいると思われたのだろう。こんな高山峡谷に飛び込んだ電話がタイムマシンとなって、ぼくの記憶を四十数年前に連れ戻した。
 先生は厳しかった。とくに、その目は見るだけでうろたえてしまうのだが、ぼくはそんな目に畏敬の念を覚える。先生の目を堂々と見た記憶はまずない。今から十年ほど前、長春へ里帰りして先生をふらりと訪ねた時に、往時の思い出を懐かしく喋った。ある日の国語の授業中に、「大廟」 (新しい校舎ができる前の一九六三年、「満州国」時代に建てられた「東本願寺」が一年半ほど校舎として使われたが、それをぼくらは「大廟」と呼んでいた)でウットリと窓外のライラックの白い花に見とれていた。どれぐらい経っただろう、教室が妙にしんと静まりかえっているのを怪訝に思って振り返ったとたん、度肝を抜かれた。先生の目が針のようにぼくを鋭く刺していたのだ。ぼくは慌てふためいてどうしていいかわからなかった。そんなぼくの思い出話を先生は無言で聞いていたが、目には涙が溜って今にも溢れそうだった。「なんて馬鹿なことをしたんでしょう。どうして無邪気な子供を困らせるようなことをしてしまったんでしょう」。先生の言葉はぼくに言っているようにも、独り言を言っているようにも聞こえた。ぼくの話に先生は感傷的になったようだが、先生の心はこのチベットの青空のように透き通り一点のかげりもなく美しいと今でもぼくは思っている。単先生の担任は短かかったが、ぼくにとってもっとも忘れがたく幸せな時期だった。

 ガマゴー村を過ぎると、険峻なガマゴー峡谷に入る。山道の険しさは相も変わらずだ。高度が低下するにつれて、怒江が見え隠れしてきた。紆余曲折を経て、十六時三十分頃にとうとう峡谷の底を走る怒江のほとりに出た。怒江は名の通り怒号している。下車して写真を撮りたかったが、坂道で狭いうえに今にも崩れそうな岩が頭上に懸かり、反対側は逆巻く怒涛ときているから断念した。怒江大橋に近づくと、アチンさんの顔にさっと緊張が走った。「写真は絶対ダメ! カメラも隠せ!」とくどいほど念を押す。以前によほどひどい目にあったのだろう。自動小銃を手にする二人の兵士が凛々しく直立して、その目はぼくらの車をしっかり捕らえている。アチンさんはスピードを落とし、ハンドルを左に切って橋に上り、何事もなく無事に通過した。橋の下は轟々とうねり(たぎ)る濁流。対岸のトンネルを抜けると、怒江が黄龍のように吼えながら、怪石林立の深い峡谷を突き抜けている。


怒江と冷曲河が合流する怒江峡谷 

 雲南からチベットに入って以来、ぼくらは金沙江、瀾滄江を渡り、今日また怒江を渡った。怒江とヤルツァンポは、中国では二つしかない、原始生態を留めた川である。怒江に水力発電所を建設する問題をめぐって今も侃々諤々の議論が戦わされているが、かつて三峡ダムの建設をめぐって論争したのと同じように、怒江ダムを造ることになるのは時間の問題であろう。古人は「日月経天」や「江河行地」といって「永遠」を寓意し、江河は人類を育むとともに、輝かしい文明を孕んだ。が、今や人類の活動によって江河の生命は縮まり、ダムは「江河行地」の永遠を失わせる。ぼくは水利には素人だが、ほぼ二千年前に作られ今日まで引き継がれた四川・都江堰が素晴らしい祖先の叡智をわれわれに知らしめているのはよくわかる。都江堰へは何度も行ったが、そのたびに震撼させられるのは、今だに成都平原をうるおし、流域の住民を養い育てて止まないことだ。「深淘灘、低作堰」(灘を深く(やしな)い、堰を低く作る)という李氷の治水経験をまとめた六字訣を古人が会得できるのに、この燦然たる古文明がどうして今は切り捨てられ、大河を「天河」、「懸河」にするのか、理解に苦しむ。ぼくらの視覚の世界からすれば美しさそのものの怒江峡谷が、開発業者の目には水利開発の無尽蔵の富が潜むものとしか映らないのだろうか。「二十一世紀は水の時代」と言われるように、水ほど生態環境と社会環境に影響を与え、政治に密接にかかわるものはないから、慎重にも慎重を重ねて進めてほしいものだ。
 怒江峡谷が曲がっている箇所に車を止める。怒江と冷曲河が合流するところで、目の前に「諸f渭分明」の奇観が現われた。三江併流の中で、怒江と瀾滄江が一番近く隣接しており、特に横断(ホンドン)山脈に入ると、両江がぐっと近づき、分水嶺もどんどん狭くなり、雲南の保山辺りまで絡み合ってなかなか別れない。冷曲河は怒江と瀾滄江の分水嶺であるターニェンターウシャン(他念他翁山)から発祥する川だが、水が清らかで流れが激しい。怒江に合流すると、姿が消える。怒江は歴史の知者のように、「滄海変じて桑田となる」世の中の変遷を見守り、ほかの大河と同じように人類が依拠する物質的ホームタウンであり、また精神の寄り所である。残念ながら、人類はその生命情感を理解できず、その心の旅路を読み取れていない。
 峠を越えたあとは下りで、ラーゲェン(拉根)郷に滑り込んだ。アチンさんがガソリンスタンドで給油する。十八時半頃、「勇士山麓の村」というパシュ(八宿)に辿りつく。パシュ県の町は内陸とは比べものにならないが、これまで通ってきた中では、まあにぎやかな町と言えなくもない。「交通賓館」に泊まるが、一文字に並んだただの平屋だ。夕食後、部屋に戻って風呂に入ろうとしたら、服務員から本日は「停水」と知らされてすっかり閉口した。埃まみれの一日の疲れをとりたかったのに、 メーファーズ(しようがない)、そのまま横になった。

子連れで五体投地をくり返すチベット族夫婦 翌朝、空がかすかに白みかけてはいるが、パシュの町はまだ眠っている。朝食後、八時前に出発した。
 朝日が後方の静かな連山を金色に染め、アスファルトの道を、わが車だけが疾走する。そよ風が気持ちよく実に気分爽快だ。二十分ほど走ったところで、突然、前方にチベットの男女が「五体投地」する光景が目に映った。幼い女の子がよちよちしながら、大人の間を縫うようにはしゃいでいた。彼らを追い越し、一定の距離をおいたところで停車した。
 彼らは太陽の光から匍匐(ほふく)して(はって)きた、蜃気楼の中から匍匐してきた、また遠い昔から匍匐してきた……。カメラのレンズを絞った途端、彼らの身体の動きが止まった。こちらを警戒しているようだ。アチンさんが合図して手を振りながら、彼らの間でしか意思疎通できない言葉で声をかけ、その疑念を払拭した。ふたたび匍匐しはじめる。女が先立ち、ピンクの服が躍る一団の炎のよう、男が後ろについて、黒ずんだ藍色地の服に白い斑点が躍る音符のようだ。手を怪我しないように下駄のようなものをはめ、胸の前で蓮華合掌したまま頭頂に持ってゆく。そして眉間に、咽元に、さらに胸の前に降ろした後、両膝をついて両手を開き、全身を前方の地面に投げ出して両膝と両手を地面につけ、額も地面に付けてうつ伏せの状態のまま、もう一度頭の上で合掌した後、立上がって進んでいく。延々と繰り返すその動作が一様にそろっている。そういった行動や念仏を通じて「身」、「語」、「意」において敬虔であることを表わす。その一心不乱に祈る美しい礼拝に込められた信仰の力にただただ感服し、強く胸打たれ、粛然とせずにはいられなかった。

チベット族夫婦の笑顔は明るく美しかった 

 アチンさんが訊ねたところによると、一家は三カ月前にチャムドを出発してここまで辿りついたが、礼拝の聖地・ラサまでまた五カ月はかかるだろうという。チャムドはカムパ(康巴)地区の西部にあり、自然環境がこの地域に独特の文化と人間の性格を形作った。カムパ地区は横断山脈に包容されているのか、それとも横断山脈を包容しているのか、山や水の気勢はもとより、地形・気候・植物など変化の振幅が大きく、その過激なバラツキが神秘かつバラエテイに富むカムパ文化を創った。埃にまみれて真っ黒に日焼けした男は、世に知られるあの凛としてがっしりした「康巴漢子」(カムパハンツィ)ほどではないが、その顔には強い意志が刻まれ、闊達な性格が光っている。妻の顔にカムパの女性特有の「高原紅」(チベット人の頬が日焼けして真っ赤なこと)が見え、輝く目元が美しい。女の子は三、四歳くらいで、パパに甘えて首に抱きついている。来る日も来る日も際限なく黙々と究極の巡礼を繰りかえしながら進んでいくのに、その笑顔には悲惨さといったものが微塵も感じられない。目の前にいる一家三人を眺めて感動のあまり思わず涙ぐんだ。

四季おりおりの美を織り成すラウォ

 パシュからラウォ(然烏)まで百キロに満たない。連綿と続く山々が日に輝いている。八時五十分、ジーダァー(吉達)郷を通過。九時三十分に、ボォスゥラー山脈(伯舒拉嶺)の四六〇〇メートルのアンジュラー(安九拉)峠を越えて、ラウォ峡谷に入った。アスファルトで舗装された平らな道は大変心地よいが、両側は今にも落ちそうな険しい岩石続きである。落石が頻発したためか、特に危険な区間はコンクリートの白い長廊が造ってある。峡谷の景色が廊下の柱間にストップモーションとなって、車だと映画の宇宙空間を走る気になる。
連綿と続く雪の山々 ラウォに近づくにつれてその景観に胸が躍る。陽光を浴びて湖が輝き、銀色を頂く山々が、種々の植物に彩られる。長らく都会で飢え切った視覚が最高に満足する。三脚を立ててカメラをのせ、焦点を絞ったところに、二台のジープが近づいてきて急ブレーキをかけた。外国人男女が降りてきて、金髪碧眼の若い女性が、臆することなくぼくらのカメラのファインダーを覗いて「very good」と言う。せっかく美女が現われたのに、緊張して言葉も出なかった。残念無念。

 一路こんなふうに写真を撮りながら走り続け、昼頃やっとラウォに入る。
 「チベットのアルプス」と呼ばれるラウォは海抜三千八百メートルで、山に囲まれ、湖を抱える小さな鎮(町)である。景色は申し分ないが、観光施設はまだ整備されていない。土木工事がいたるところで行なわれているせいか、建設現場さながらにごちゃごちゃしている。「青年旅館」を訪ねた。バックパッカーを対象とする木造二階建ての簡易旅館だ。二階は既に満室、一階でも二室しか残っていない。盲腸の手術をしたばかりという三十代のマダムは、無理に笑顔をつくりながら、時おり右手でお腹を押さえてつらそうだ。荷物が多いため、六人部屋(ベッド一つにつき二十五元)を二室借り切った。部屋には洗面施設など一切なく、生理的要求は全部屋外便所へどうぞ、という按配だ。

美しいラウォ湖

 昼食を済まして矢も盾もたまらずラウォ湖や来古氷河にまっしぐら。ザユル(察隅)に向かうでこぼこ道は、車が通ると埃が舞い上がった。車に揺られながら、小高い丘を曲がると、目の前にぱっと美しい湖が現われた。ラウォ湖だ! 氷や雪解け水、降雨により形成された高原山間の(えん)(そく)()(山崩れなどによって水が堰きとめられてできる湖)である。細長い河谷に嵌めこまれた湖は、陽光に照らされてきらきら輝いている。銀色の嶺はさまざまの植物に彩られ、四季おりおりの美を織り成す。「知者楽水、仁者楽山」というが、ここでは、知者と仁者を問わず、精神の愉悦にひたり、心理的に大満足するものだ。「問君何能爾、心遠 地自 偏」(君ニ問ウ何ゾ能クしかルヤト、心遠ケレバ地モ自ズカラ偏ナリ)−こんなに静かに暮すことができるとは。心が遠く世俗を離れているから住む地もへんぴな場所になる −と詠った陶淵明が、この「天人合一」の誘惑に心奪われたら、どんな傑作を残したことだろうか。(次回へ続く)

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