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聖域巡礼 私の目から見るチベット(202号所収)

東チベット〈シャングリラからラサ〉へ行く(二)

李 建華(り けんか)
 

禅文化研究所客員研究員・北京在住


「チベット区にようこそ」
 九月二十三日の昼近くに、瀾滄江にかかる吊り橋の斜面にある溜筒江村に辿りついた。溜筒はその名の示す通り、人や荷物を渡すためのロープのことだが、いまは吊り橋に取って代わられた。昔は「茶馬古道」の中継地として、大量の山の産物や薬植物やなどがここを通って内陸へ運ばれ、また内陸のお茶や日用品や砂糖などがチベット、さらにインドへと運ばれる要衝として栄えた。「茶馬古道」とは、お茶と馬の交易をしたことによる呼称だが、単純にお茶を馬で運ぶことからも茶馬古道と呼ぶ。チャバコドウと聞いても、ぴんとこない人は多いかも知れないが、実際、名高いシルクロード同様、中国古代文化発展史で重要な役割を果たした「ロード」だった。今回、僕らが雲南からラサまで辿るこのルートはまぎ れもなくそのメインルートの一つである。

瀾滄江にまたがる溜筒江村の吊り橋 

 道路の向こうは田園風景そのものの村であり、チベット式住宅が軒を並べている。村を横切った向こうに見え隠れする茶馬古道を眺めていると、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督が撮影した映画『ドゥラム』(チベット語で「平安の女神」を意味するが、邦名『天空への道――茶馬古道の人々』)に映し出される険しい茶馬古道沿いの人々の苛酷な生活に耐えぬく姿や、そのバックにある雄大な大自然の映像とオーバーラップした。そんな生活も近代文明の発展に伴って徐々に忘れ去られようとしている……。
 十三時に雲南省最西端の町・仏山郷入りし昼食となる。西葫蘆(カボチャの一種)、トマトに卵、ジャガイモの炒め物三品にマツタケのスープを注文、トータルで三十五元(五百円)。食後、引き続き国道二一四に沿って進み、一時間ほどで雲南省とチベット自治区の境界に差し掛かった。瀾滄江の畔に「チベット区にようこそ」と漢字で大書し、横にチベット文字で書かれた看板が立っているのに感激したが、人っ子ひとりなく、検問所さえない。なんと寂れたところかと訝った。
 一七七五キロの道路標示のあるところで下車する。奔流渦巻くたる瀾滄江の流れにすっかり震撼させられた。全長四八八〇キロに及ぶメコン川の上流部にあたる瀾滄江は、チベット高原に源を発し、雲南から越境してミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを貫流し南シナ海に注ぐアジア最大、世界でも十二番目に長い国際河川である。
瀾滄江の畔で慎重に移動しながら写真を撮る元龍さん カメラのファインダーを覗くと、瀾滄江の畔で写真を撮る元龍さんの足がガクガク震えている。慎重に歩を進めるその「雄姿」をパチリ。「瀾滄江は玉皇大帝の次女で、温厚な長女の金沙江に比べ、性質がずっと強暴で、とくに怖がられています」とアチンさんは言う。ところが、一九八〇年、民族国立博物館の佐々木高明さんをはじめとする学者五人の案内役でシーサンパンナを視察したときに見たのはおとなしく静かに流れる瀾滄江、また三年前に「虎跳峡」で見たのは大暴れした金沙江だったが、今回は、そんなぼくの印象とはまったく違った。

ツァカロ(塩井)
 瀾滄江に沿って走っているうちに標高がだんだん高くなった。十六時頃、チベットの最初の宿泊地であるツァカロ(塩井)に着く。ツァカロは一九六〇年代までは県だったが、その後マルカム(芒康)に合併された。チベット族とナーシー族が混じって住む地域だが、不思議なことにここのチベット族はカトリック教を信仰し、ナーシー族はチベット仏教を信仰する。ツァカロは瀾滄江の中流に位置し、このあたりは塩水が豊富に取れることから、「塩井」という地名のそもそもの成り立ちとなったのだろう。 道路がないため、塩田の風景を見るには、瀾滄江の畔まで徒歩で下りなければならないと聞かされていただけに、道が開通したと聞いて胸を躍らせた。車が発進してまもなく、思いもかけないことに、道路が鉱石を運ぶ何台ものトラックに塞がれた。仕方なく三人は下車して歩き始めた。高所から見る瀾滄江は両岸の高山にはさまれ、ゆっくりと流れているように見える。三、四キロぐらい下ったところで、クラクションを鳴らしながら、アチンさんが追いついた。しかしひどいデコボコ道で、揺られに揺られてようやく瀾滄江の畔まで下ってきた。川岸の急斜面に支えてある支柱の上に板が張られて塩田が造られているが、周りはしんとして人気がない。水の流れる音だけが聞こえる。

支柱の上に塩田が造られている(撮影:周壮) 

 こちら側には白塩田、対岸には赤塩田、活気のあった往時をわずかに偲ばせている。栄光はすでに消えさったか。「今年の七月に川水が溢れ、両岸の塩井が水に沈んで無収だった」と、アチンさんが枯れた塩井を茫然と見つめながらポツリと呟いた。ぼくらは返す言葉もなく、ただ流れ去る川をじーっと眺めるだけだった。

マルカム(芒康)
 昨晩は瀾滄江の波濤の伴奏で眠り、今朝はまたその音で起こされた。
 朝食を済ませて道を急いだ。鉄索の吊り橋の前に着くと、乗客は乗車したままでの通行は禁止という看板が立っていたので、ぼくら三人は下車した。アチンさんが車を運転して橋に乗り上げた弾みに、恐ろしい音とともに車が傾いた。横板に渡してある二列の縦板に車輪が偏ってうまく載らなかったためだが、「危ない」の声が喉に張り付いて、冷や汗がどっと噴き出した。
 橋を渡ると、高度は一気に高まった。三十分ほど走ったら、鉄の門に道が阻まれた。前方が架橋工事のため、いまは通過禁止となっている。いつ開けてくれるか分からない。アチンさんが車から降りて門番の小屋に向かった。「今日は無理か」というこちらの心配をよそに、アチンさんは喜悦満面でタバコを銜えたまま小屋から出てきて、そのすぐ後ろに門番が鍵を持ってついてくる。門番も嬉しそうにタバコを銜えているが、間違いなくアチンからの「朝貢」だ。門番に「徳欽県政府の大事なお客さんだ」と吹聴し、公安の警官証を見せたら、何一つ疑わず、即時にOKしてくれたという。ラッキー!

えもいわれぬ田園風景 

 曲道を行けば、深い峡谷に跨る壮大な架け橋が目に入る。「鬼門関」と呼ばれる急なカーブでしょっちゅう山崩れが発生して、いままで数多くの車を呑み込んだため、架け橋を建設せざるを得なくなった。埃にまみれ、真っ黒に日焼けした労働者たちの工事に励む姿を目に焼付けながら、おかげで私たちはこの「鬼門関」を体験せずにすいすいと橋を渡った。橋の上からU字形のカーブを眺めただけでも、いまさらながら戦慄が走る。曲がり角は道幅が狭く、山から流れる水で路面が軟弱になっている。わけても徐行を強いられる大型トラックが通過すると、余計に圧力がかかるので、墜落を招くのも不思議はない。
 深い峡谷の底を流れる瀾滄江が延々と続いている。
「ほら、斑鳩(キジバト)だ!」不意にアチンさんが叫んだ。山道にキジバトのカップルが数組なにかを啄んでいる。体はハトと似ていて、首には青と黒の斑があり、ぶどう色がかった灰褐色の体にうろこ模様の羽の縁は赤褐色、胸はピンク色で足は赤というなかなかおしゃれな鳥だ。冬には暖い地方に移動するが、こんな高いところにいるとは意外だった。道から逃げず、車の前をまるで道案内をするように歩いたり、走ったりするキジバトについてしばらく走ると、急になんとも言えず壮麗なパノラマが目の前に広がった。秋も深まる山の木々がすっかり色づいて、青徐R(チンコー・高地大麦)が揺らめき、チベット式住宅が点々と入り混じった、えもいわれぬ田園風景だった。この美しい大自然は吾輩を天地万物に開眼させ、浮世の悩みをすべて忘れさせてくれた。
 しばらく経つと、車はマルカムの紅拉山(ホンラーザン)に着いた。横断(ホンドン)山脈に連なり、海抜四千二百メートル。寒気に慌ててガウンを被り、濃厚な秋色に眺め入った。雲と霧に覆われ、青々として生い茂る原始林が赤・オレンジ色に染め上げられ、金絲猴の棲息地にふさわしいパラダイスである。六十年代から七十年代にかけて二千匹棲息した金絲猴は、八十年代に入ると乱獲・撲殺により七百匹までに激減し、いまや絶滅危惧種の保護対象となっている。この殺戮が続くと、万物消えて、人間という種の自滅につながるのではないだろうか?

黄金色の海のように波うつチンコー畑 

 ロバが一頭、道のど真ん中に立ちはだかってわが車の存在をまったく無視、クラクションをいくら鳴らしても聞く耳を持たぬといわんばかり。その剥いた目から、なんだよ、あんたよりでっかいトラックも見たことがあるぞ、と読めそうだ。ムニン(姆寧)村、第四道路修理班、バーラ(巴拉)をすぎると、秋の取り入れを目前に控えた 青徐Rが一面に広がってまるで黄金色の海のように波うち、作柄は文句なしだ。赤い屋根、白い壁のチベット仏教寺院が目の前に現われ、作りは小ぶりだが、荘厳そのものだ。
 正午、マルカム(芒康)県政府所在地・ガトゥ鎮に着いた。マルカムは交通の要衝で、雲南・チベットと四川・チベットを結ぶ道路はここで合流することになり、私たちの進路も国道二一四から三一八に切り換わる。国道三一八は上海からスタートし、終点のチョモランマ麓のチャンム(ネパールとの国境入り口)まで、東西を全長五七〇〇キロで貫通する、中国一の交通大動脈である。
 「紅杏」という開けっぴろげなレストランに腰を下ろしたら、囲いから「紅杏」のような四川出の若いマダムが現われ、愛想よく挨拶しながら迎え入れてくれた。僕らは「清助m瀾滄江魚」(瀾滄江魚の煮込み)、「勝譫」牦牛肉」(ヤク肉ピーマン納豆入り炒めもの)、四川人コック得意の「回鍋肉(ホイクォロウ)」(ゆで豚肉のみそ炒め)を注文した。銀色が輝く瀾滄江魚の味は上等で、料理法もなかなかうまい。

ドゥカ(竹所ケ)

 

 国道三一八に切り換えてまもなく四三三八メートルのラーウー(拉烏)峠を上った。晴天万里、見渡す限り、陽光を浴びて輝く雪山がくっきりと優雅な姿を見せるばかりだ。天から降りてきたかのように、向こうの丘からチベット族の人が白い馬に乗ってだんだん近づき、後ろに一頭の赤い馬が行李を載せて走りながらついている。白馬は青空に漂う白い雲さながらに、赤馬は燃える火のごとく、いつの間にかどこへやら消えていった。
 夜が更けた。瀾滄江は身の上話をするかのようにとことこと流れている。漢民族文化の視野のなかで、内陸を貫く長江、黄河が先天的優越性を以て中華文明の悠久な歴史を潤したものとして、「君見ずや 黄河の水 天上より来たるを、奔流 海に到りて復た回らず……」(李白「将進酒」)、「無辺の落木蕭蕭として下り、不尽の長江滾滾として来る……」(杜甫「登高」)など、数え切れない名詩絶句が謳歌されている。そのような思考の枠で捉えれば、ホンドン山脈の南北を貫いて流れる瀾滄江、怒江はまるであるべき歴史・文化の光沢を失したかのよう。道中の難儀など近づきがたい要素もあって、さすがの旅行家・徐霞客でさえここまでは足を伸ばせなかった。
 断崖の真上に作られた展望台から、瀾滄江を流れる波の音に聞き入りながら、夜空を仰ぎ見た。すると、高原をいたわり、われらの心を慰めるかのように、満天の星が集まって銀河となった。           (次回に続く)

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