「西チベット・アリへ行く」は『聖域巡礼――私の目から見るチベット』の第一部として連載を終え、続きに「東チベット(シャングリラからラサ)へ行く」を第二部として連載する。今回は小学校三年生から高校まで九年間も机をならべたクラスメートの周壮さんと馬元龍さんが加勢する三人連れの旅。二〇〇五年九月二十日に空路北京から昆明で乗り換えてシャングリラ(香格里拉)へ飛び、十月三日まで陸路で梅里雪山(メイリー・シュエシャン)を経てチベット入りし、ツァカロ(塩井)、マルカム(芒康)、ポムダ(邦達)、ゾゴン(左貢)、パシュ(八宿)、ラウォ(然烏)、ポメ(波密)、タンメ(通麦)、ニンティ(林芝)、コンボ・ギャムダ(工布江達)を経由し、途中金沙江(長江の上流)、瀾滄江(メコン川の上流)、怒江(サルウィン川の上流)、イオン・ツァンポ(易貢蔵布)を渡り、川蔵公路(四川省成都―ラサ)の最高地点五〇〇八メートルのドゥンダ・ラ(東達山)や「怒江山七十二のヘアピンカーブ」の難所、さらに「タンメ天険」を越え、ラサまで千八百キロを走り抜けた。
シャングリラ
東チベットへの旅の序幕はとうとう開けた。九月二十日、北京空港から搭乗手続終了ぎりぎりに滑り込みセーフ。慌ただしい出発だったが、昆明での乗り換えは運良く順調に済み、夕方七時無事にシャングリラ入りを果たした。
シャングリラは、標高三千三百メートルの高地にある雲南迪慶(ディチェン)チベット自治州の政府所在地で、旧名中甸を三年前に改名された。「シャングリラ」はチベット語で「吉祥如意の地」の意で、映画化されたイギリス作家ジェームズ・ヒルトン著『失われた地平線』によって「理想郷」「桃源郷」などの代名詞として世界的に広く知られた言葉である。観光開発や近代の経済利益に聡いのか、自分たちの地域こそ小説にあるシャングリラに酷似しているとして、雲南省の中甸、麗江、四川省の稲城などが名乗りを上げて、この名前の獲得に熾烈な競争を展開した。激戦の結果、「中甸」が勝ち抜き、その行政地域名として県名を「香格里拉(シャングリラ)県」に変更したのである。人口三十五万人、うちチベット族が最も多く三三パーセントを占めるほか、ナシ、リス、イ、ペーなどの民族が住んでいる。
しかし、「シャングリラ」というのは具体的一地域というよりも、もっと広い世界のはずだ。実際の場所をめぐって学者の間でいまだに論争が絶えないようだが、あまり意味がないと僕は思う。理想郷としての要素、つまり、憧れるに値する神秘さ、容易に辿りつけない高山・峡谷・森林・大河・草原・動物など、野性的自然に恵まれ、まばらな村落や素朴な民家、純朴温厚な人々、独特の風俗が具わっていて、さらに自然に親和する宗教的人文精神が潜んでいれば、そこはシャングリラである。こういう意味では、僕らが今回旅した横断(ホンドン)山脈地域をはじめとする東チベットのコースは、紛れもなくシャングリラそのものであった。横断山脈はチベット自治区・四川省・雲南省にまたがり、金沙江、瀾滄江、怒江、ヤルツァンポなどがほぼ平行して東と南へ流れ出てアジアの広大な地域を潤している。
チベット族の運転手アチン(阿青)さんがパジェロを運転して迎えてくれた。二年前、梅里雪山や「三江併流」(わずか六十キロから百キロの間隔で並行して流れ、大峡谷地帯を形成している)地域のニール(尼汝)を旅した時にお世話になった人で、漢語は流暢ではないが、温厚で信頼できるうえ、運転が上手なので、今回もお願いすることにした。僕らを迎えるために、わざわざ梅里雪山の麓にある故郷から松茸を取り寄せて、地元の臘肉(ベーコン)を入れて拵えてくれたスープは美味かった。その辺の森は、日本に出荷する松茸の産地となっている。シャングリラは海抜が高いため、夜の気温は三、四度まで下がる。「花」「美しい」という意味の「ゲーサンラ」(格桑拉)旅館に旅装を解く。
松賛林寺
二十一日、朝食を済ませてまっすぐ松賛林寺(ガンデン・スンツェリン)に向かった。仏屏山伝いに建てられていて、紅白二色からなる「小ポタラ宮」をはじめ、壮観な伽藍群が太陽のもとで燦然と輝いている。別称を「帰化寺」という雲南きってのチベット仏教の名刹で、一六八一年ダライ・ラマ五世により建立されたゲルク派の寺院である。ダライ・ラマ五世はチベットの歴史には欠かせない存在であり、ラサのポタラ宮には遺骸をおさめた「この世界の唯一の飾り」という意味の巨大な仏塔が祀られている。
寺門を入ってすぐ四十度も勾配のある参道が立ち現われた。階段は三百ぐらいはあるだろう。壮麗なチベット式建築のタクツァン(扎倉)を時計回りにゆっくりと拝観した。タクツァンは僧侶たちが経典や教義を修行する僧院で、五世、七世ダライラマの銅像や金箔をかぶせた釈迦仏像が安置され、大殿では一度に千六百名もの読経の僧を収容できるという。
しかし残念ながら、松賛林寺は文化大革命の悪運から逃れられなかった。寺院の建築や多くの文化財が壊され、僧侶たちが追い出された。いま見られるのは一九八〇年代以降に七年もかかって再建された松賛林寺である。寺院を中心に僧侶の住居が集まり、いま七百余の僧侶がいる。文化破壊を繰り返す中国の歴史は、ここまで来てついに文化の「命」を革ってしまった。
大殿前にいる十数人の若いラマ僧が弁経の最中である。相手に負けじと熱弁を振るう者もいれば、笑顔を浮かべながら落ち着いて問答する者もいる。喋っている中身は想像もつかないが、大層面白そう。文革などにぶつからなくて、何より幸運だ。
すぐ傍で北方訛りの尼僧が賑やかに話している声が聞こえた。どこから来たのか聞いたら、五台山という答えが返ってきた。内蒙古、ハルピン、吉林の前郭などそれぞれの出身地から五台山に集まって修行中の身だという。さらに話をよく聞くと、実は数日前から、シャングリラへ旅行に来たのに、松賛林寺があることを知らないまま、四川の峨眉山へ行ってしまった。峨眉山のお寺の住職に松賛林寺へ行ったかと聞かれてさんざん恥を掻き、慌てて舞い戻ったというのだ。「そのため二百元も余計にかかったわよ」と、尼僧の一人がグチっている。なんてバカなことをしたのだろうと、笑っちゃいけないけれど、内心、可笑しくてたまらなかった。
松賛林寺拝観後、碧塔海と納1V海へも行った。湖のことをチベット域内では「措」と呼ぶのに対し、雲南では「海」と称する。ここでは高原植物と原始林が湖と映えあう風景に心を慰められた。帰途、見渡す限りの畑に一列一列、木組みで立てられた巨大な矢倉が目に入った。倉庫に取り込む前の青
徐R(チンコー・高地大麦)が乗っかって晒してある。この不思議な仕組みは、かつて冷戦時代に衛星画像に捉えられ、首を傾げたアメリカ人が、てっきりロケットの発射台だと思い込んだ、という実しやかな話があるそうな。
夜、「山薬火腿鶏」というレストランで鍋をつっついた。地鶏・松茸・ベーコン入りの鍋で、その美味なことといったらない。
ベンシラン(奔子欄)に向かう
二十二日、心残りながらシャングリラをあとにした。水天がつながる風光明媚な納庶ァ海を通り、国道二一四号線に沿って目的地・梅里雪山に向け出発した。
青い空に白雲が漂う快晴に恵まれて、車は横断山脈の高山峡谷を走る。巍然として聳える山々に粛然と襟を正され、眩暈するほど険しい峡谷にひやひやさせられ通し。尼西河谷に出ると、山裾に民家がまばらに建っている。アチンさんの話によれば、ここは昔三世帯しかない村だったので、三家村という。昼頃、金沙江とトンヤン河の合流地点に差し掛かった。トンヤン河の発祥地がどこかはともかく、その清らかな流れが、混沌とした金沙江と合流するさまは、まさに「諸f渭分明」の言葉通りである。彼方に屹立する断崖の山道に、三、四十頭の馬が荷を載せて連ねて歩く馬庶ォ(馬のキャラバン)が現われた。リズミカルな歩き方は、「勝似閒庭信歩(悠々自適)」そのものである。この風景を仰ぎ見ながら、遠い昔の「茶馬古道」に思いを馳せた。
金沙江は雲南と四川を東西に二分し、東は四川、西は雲南となる。しばらくしてベンシラン(奔子欄)に着いた。通りに面する小さな料理屋で食事を取る。「金沙江魚」はここでしか食べられないと聞いたので、早速三尾注文した。三斤七両(一・八五キログラム)ある。一斤は八十五元(約千三百円)、なかなか値が張る。金沙江は泥水のように濁っているのに、魚は透き通るほどきれいで見るからに美味しそうである。魚には申し訳ないが、できあがった魚スープは最高だった。
金沙江が大きくカーブする「月亮湾」にさしかかる。ここは峠が高くて風が強く危ない。対岸は四川省で木の生えていない岩だらけの山肌を曝し、車が走る道路は、迂回して流れる金沙江にそって伸びている。
二十分ぐらい走ったところで、東竹林寺が目に入った。康煕年間の一六六七年に創建されたが、これも文革の厄難から逃れられず、完全に破壊された。いまの寺は一九八五年に再建されたもの。ちょうど二年前に訪れたことがあるが、何より大殿入り口の左右に蹲っている狛犬が印象的だった。山道は険しく、日没前までに梅里雪山に着かないと危ないということで、東竹林寺は割愛した。
十六時に白馬雪山に着いた。四二七二メートルの峠に立って眺めたが、峰が雲に隠れて何も見えない。寒風が吹きぬけガウンを着込んでも震えた。
ドゥチン(徳欽)の街が眼下に現われた。宋代にできたドゥチンの街は山麓にあり、茶馬古道の中継地として栄えてきた。アチンさんの家はこの町にある。
梅里雪山
十八時、梅里雪山にやっと着いた。旅館に入る前に、何はさておいても梅里雪山の偉容を拝観したかったのだが、雲と霧に隠れてまったく見えない。仕方なしに旅館にチェックイン、イの一番に元龍さんと四階のベランダに陣取って、カワカブが姿を見せるまで粘るつもりで待機した。料理ができあがり旅館の主人に何回も声をかけられたが、動かない。その誠意が神の山に通じたのか、濃厚な雲から一縷の金色の光が漏れ、円光の真ん中に峰の冠が現われた。カメラとビデオを構えて忙しくその瞬間をキャッチ。その間、たったの二十秒だった!言い表わせないほどの感激を覚えた。大満足して食堂に降りたら、今日はタイミングよく、この「南所ケ酒店」という旅館がオープンする目出度い日ということで、最初の客であったわれわれを店主が喜んで迎えてくれて、夕食は一文も取らずにおごってくれた。酒も出たが、さすがに高山病が恐くて遠慮した。
雪山や湖に対するチベット人の崇拝の心、その敬虔さは漢民族の私たちの理解を遥かに超えるものだ。梅里雪山は横断山脈の怒山山系に属し、別称太子十三峰。その最高峰はチベット語で「カワカブ」といい、「神の雪山」を意味する山で、標高六七四〇メートルあり、チベット人の心の中ではカン・リンポチェ(岡仁波斉・カイラス)と並んで絶対に侮辱してはならない聖山である。カワカブは、水の未年・未月・未日に、湖の中から生まれたということから、未年の山とされ、羊年には山群一周の巡礼を行なう。山廻りをすれば、来世は幸せになるということなので、大勢のチベット族の人たちがチベット、甘粛、青海、四川などからはるばるやって来てお経の入ったマニ車を回しながら山を廻る。巡礼者の多くは貧困地帯のチベット族の人で、一周するのに、数年の蓄財のほとんどが注ぎ込まれる。それでも巡礼が後を絶たないのは、今世は無理でも来世がよくなることを夢見ているということだろうか。叡と梅里雪山を訪れた二〇〇三年はちょうど未年にあたったので、巡礼者は十数万人に達したという。幸いその年、梅里雪山は夕日が沈もうとする時にそのピラミッドの雄姿を見せてくれた。たったの五分間、至福の五分間だった……。

現在まで、梅里雪山に六座ある六千メートルの峰はすべて未踏のままである。梅里雪山は急峻な未踏峰として登山家の憧れであり、十四年前に京都大学学士山岳会が参加する中日合同登山隊が、雪崩にあい、十七人が遭難するという大惨事のあった山でもある。日本語(「大地あり 美しき峰ありて 気高き人がいて」)と、中国語(「秀峰大地静相照 高潔精神在其間」)が刻まれた石碑が静かに立っている。石碑に井上治郎ら日本人十一人、宋志義ら中国人六人の名前が刻まれている。
今回はとうとう「カワカブ」をはじめ梅里雪山の山々は姿を見せなかった。神山と粛々とした白塔、五色のタルチョンに別れを告げ、ツァカロ(塩井)へと出発した。
雲南省とチベット自治区を隔てる梅里雪山の頂上から瀾滄江の川面まで、その標高差は五千メートルもある。眩暈がする険しい山道の運転はミスが許されない。走っているうちに、アチンさんは道端の桑耶(香草)炉に近づいて車を止め、すぐ傍の仏塔に敬虔にカタをささげた。断崖の向こう側、深い峡谷を流れる瀾滄江のほとりの小村を指差して、アチンさんが言う、「わたしの生まれた村なんです。十六歳で解放軍に入隊し、退役後公安に入ったのを、村の誰もが羨ましがった」。たどたどしい漢語を聞きながら、巨大な山脈から伸びてくる氷河と深い渓谷が織り成す景観をボーッと眺め、自然に対して畏敬の念を抱きながら暮す純朴な人々に尊敬の念が湧いてきた。瀾滄江の谷に沿って国道二一四号線を走っているうちに、平坦な舗装道路は何時の間にか切れて、ひどい凸凹道になった。アチンさんの表現で言えば「幸福路」が「不幸路」になった。 (次回に続く)
|