禅文化研究所発行の季刊『禅文化』の連載記事。
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聖域巡礼 私の目から見るチベット(200号所収)

西チベット・アリへ行く(5)

李 建華(り けんか)

禅文化研究所客員研究員・北京在住

写真・李 叡(り えい)


 八月十八日早朝、まだ眠っているセンゲ・ツァンポに後ろ髪をひかれる思いで帰路ラサへ出発した。往路とほぼ同じルートでラズーまで国道二一九、ついで国道三一八に切りかえてラサまで五日間走り続ける。雨が降ったり止んだり、チベットの天気は変化が激しいため、車外の風景もよく変わる。黒雲が山頂の雪に負けて曼陀羅のように聳え立つ壮大な須弥山「カン・リンポチェ」、太陽の光を受けてブルーの帯のように動かぬ聖なる湖「マパユム・ツォ」に別れを告げ、ナムナニ峰の麓で悠々とくつろぐチベットロバを眺めながら、わが「老爺車」はツォンバー経由でサガに向かう。「また駄目か」とニーマさんが毎日口癖のようにいうセリフも聞き慣れ、外観ばかりが立派で、中はぼろぼろの車がよくもここまで来たなあと、幾分不思議に思え感心もした。

達吉嶺の星空
そびえ立つ須弥山「カン・リンポチェ」 十九日。タムチョ・ツァンポに沿ってラツァン(拉蔵)を過ぎたところで、道路作業着姿の解放軍兵士が道端で手を振ってストップの合図をしている。車を止めると、「こいつは熱が出て、サガの病院へ行かなければならない。乗せて貰えないか、お願いだ!」と、みんなが口々に息せき切って言うのが聞き取れた。海抜が高い地域では、熱は大敵、一刻の猶予もない。「じゃ、乗りなさい」と即答すると、みんなに感謝された。
 病人は李新遠という。二十四、五歳くらいのいかにもまじめそうな青年だった。三年ぐらい前に新疆のシーホォーズ(石河子)からここに来て道路修築を始めたという。最初は高い海抜になかなか慣れず、苦労したらしいが、いまはまったく平気。ちょっと会話を交わして三十分ぐらい走ったところで、思いもかけぬ「事件」が起こる。平坦な道なのに、ニーマさんはなぜか調子に乗ってハンドルを急に切ってしまい、そのはずみに、車輪が水のたまった道端の溝にはまってしまった。さらにいらだって力み続けた反動で、いよいよ進退窮まった。通行車もない。気温も下がり、夜は深まるばかりだ。おまけに病人を預かっている。しょんぼりしているニーマさんには、なにも文句が言えない。
するとはるか向こうからライトの光が見え、まもなくドドドッとトラクターらしい音が聞こえてきた。ああ、これで助かると思った。近づいてきたハンドトラクターには、十数人が鈴なりに乗っている。これにはまったく吃驚した。ニーマさんがチベット語で事情を説明したが、ロープがない。しかしみんな少しも臆することなく、次々に冷たい水の中に入って歌うように掛け声をかけながら車を引っ張ってくれた。チベットの厳しい環境がかえってここの人たちを優しくさせ、互いに助け合う気持ちが働くようだ。
李新遠さんと叡 しかし何度繰り返しても功を奏せず、次の救援を待つより仕方がなかった。次に来たトラックにはロープがなかったので、期待が外れた。その次に来たトラックはロープはないが、短くて細い鋼線がある。これも結局二回挑戦しただけでおわった。病人のことが気になって焦っている僕をみて、李新遠さんがとうとう真相を打ち明けてくれた。「実は熱なんかないんです。休暇でサガに行きたかったのですが、嘘を言わなければ乗せてもらえなかったから。本当にごめんなさい」と詫びた。それを聞いてほっとしたが、真夜中の十二時になっても、車はまだ動かない。外気の寒さに全身が震えはじめ、このままでは病気になるのではないかと不安に駆られていると、李新遠さんが、「ここは達吉嶺に近いです。そこにうちの道路修理班があるから、行きませんか?」という。距離はどれぐらいあるのか尋ねたら、「遠くはないです。十二、三キロしかないから」という答えが返ってきた。本当に気が遠くなりそうだったが、行かないわけにはゆかない。ニーマさんは車の番をするので残ったが、僕ら三人は必要品や飲料水などを背負い、懐中電灯だけを頼りに達吉嶺を目指してとぼとぼ歩き始めた。
 夜がすっかり更け、まさに暗夜行路である。犬の遠吠えがかえって夜の静寂を深め、水の流れる音が心を落ち着かせてくれる。懐中電灯の明かりに焦点を絞ってでこぼこ道を確認しながら二時間も歩き続けた。そのせいもあって、首筋が凝ってしまった。しかし頭をあげたとたん、空いっぱいの星が無限に広がる銀河となって視界に飛び込んだ! 感動がこみあげ、疲労を忘れた。道路修理班に着いたときには、すでに朝の二時半だった。新遠さんの仲間たちはまだ元気よくトランプに励んでいる。新遠さんはどこかへ行ったが、疲れきった僕と叡はまもなく、夢の世界に入った。

ワァングォー(望果祭)

望果祭を喜ぶチベットの人々


 二十日。早朝、助かったわが車に新遠さんも乗ってサガに向かい、サガで朝食を済まして別れた。出発直前に今度は上海から来た趙女史に乗せてくれないかと頼まれた。この趙女史には、二日前にムルツェンで食事をとった時に会った覚えがあるが、そのときには四人のグループだった。車中で延々とわけを話してくれたが、つまりはトラブルが生じて別々になったようだ。旅は友を作るが、敵もつくるのだ。
 午後、ドゥシュンツァンポ(多雄蔵布)を伝ってサンサンへ向かう途中、多くの人が道を急いで歩く姿が目に入った。不思議に思ってニーマさんに聞いたら、「ワァングォー」だと教えてくれた。「ワァングォー」はチベット語だが、漢語の音訳では「望果」となる。「ワァン」(望)は「畑」、「グォー」(果)は「回る」の意味で、つまり「豊作の畑を回りながら歌って踊る」祭である。後で分かったことだが、「ワァングォー」の起源は二千年前まで遡ることができるらしい。ボン教の教義に、秋の取り入れが始まる前に、農耕民が畑をまわって神様に農作物を守るよう祈ることが定められており、その慣習が今日まで続いているという。「ワァングォー」は農耕地域に流行し、その時期は地域によって違うが、だいたい八月上旬から中旬に行なわれるようである。「ワァングォー」が訪れると、農牧民は新しい衣装を身に着け、チンコーや麦の穂で作った「豊作の塔」を担いで歌いながら畑を回るほか、競馬や弓道やチベット芝居や舞踊などを楽しむ。
新しい衣装で望果祭りに赴くチベットの若い娘たち 村に近づき下車した。雪山の麓に川が流れ、そのほとりに数多くのテントがかけられている。人々が集まって楽しそうに話し合い、子供ははしゃいで走り回っている。チベットの新しい衣裳を着た若い娘がピンク色のスカーフで顔を隠すようにしているが、カメラを向けられると、その隙間から覗いた瞳にも照れているのが感じとられる。チベット地域は海抜が高く、天候も変化が激しく、特に夏から秋にかけて雹に降られたら、それこそおしまいなので、取り入れする前に、神様に喜ばれるように祈りを捧げる。神様を怒らせてはいけない、だましてはいけない、この純朴で素直な気持ちは近代文明に見事に壊されてしまった感がある。

「第二の敦煌」サキャ寺
サキャ寺 二十一日。ラズーのチベット風旅館で昼食をとったが、そこで日本人グループに出会った。十数人で男女半々ぐらいからなるこの一行は大阪からやって来ており、これからチョモランマへ行くという。チベットの自然と宗教にすっかり魅了され、感激を連発する。食後、一行と別れてから、往時には寄らなかったサキャ寺(薩迦寺)に向かった。ラズーを離れてまもなく国道二一九を出て西南方向へ三十キロ走ると、サキャ県城に入った。サキャは「白色の土地」という意味で、両側からヒマラヤ山脈とガンディゼ山脈に挟まれる谷あいにチュンジュ(仲曲)河が流れており、緑・黄・ピンク三色で織り込まれたお伽噺の世界のような畑が広がっている。その畑に囲まれてサキャ寺が見える。これも三色からなる世界だ。赤・白・黒だが、赤は文殊菩薩、白は観音菩薩、黒は金剛手菩薩を象徴するという。一〇七三年にサキャ派の始祖クンチョク・ギェルポ(貢覚傑布)によって創建されたサキャ寺はチベット四大仏教の一つであるサキャ派の発祥地で総本山であり、また七百年前にチベットの政治・経済・文化と宗教の中心的な存在だった。
 サキャ寺を語る場合、二人の人物を欠くことはできない。一人は、サキャ派の論理学者として名高い四代目世祖のサキャ・パンディタ(薩迦班智達、一一八二―一二五一)である。サキャ・パンディタは十三世紀チベットの希代の学識を持つ大学者で、数多くの著書のなかで特に『サキャ・パンディタ格言』が優れており、ダライ・ラマ六世の詩とともにチベット文学の最高峰をなすと言っても過言ではない。「功徳ある人のところには集めなくても人は集まってくる。香しい花は遠くにあっても、蜂が雲のように集まってくる」といったすばらしい格言が、今もチベットで人々に愛誦されている。一二四七年に甥のパスパ(八思巴)を連れて涼州(現甘粛武威)へ赴き、元朝への帰属の条件について協議し、有名な「チベットの僧俗に致すの書」をしたためた。一二五一年、七十歳で涼州で病死した。
 もう一人はサキャ・パンディタの甥で、五代目世祖にあたるパスパである。サキャ・パンディタのポストを継承し、一二六〇年に即位した世祖フビライに「国師」に封じられたパスパは、一二六四年、元朝が中央政府のなかに設けた総制院の責任者となり、チベットの地方行政のほか、全中国の仏教に関する事務を所管するようになった。一二六五年、命を受けてチベットに帰り、サキャ北寺を増築し、そこを「ペンキェン」(本欽・地方行政の拠点)とした。これを機に、チベットは正式に元朝の中央政府に統括されることになり、サキャ王朝ができた。一二六九年、フビライの命によってモンゴルの新しい文字を創始した功により「大宝法王」に封じられた。
マニ車をバックに楽しそうに話し合うチベット女性たち 青々とした碧空に白い雲が浮かび、気持ちがいい天気である。入場券を買い寺院に入ると、何人かのチベット女性がマニ車をバックに楽しそうに話し合う風景が目に入った。四周の高い壁がサキャ王朝時代を象徴するように厳しくそそり立っている。寺の建坪が約五千八百平方メートルあるという。まぶしい陽光に照らされて本殿に入ると、一瞬真っ暗で何も見えない。チベット寺院の独特のバターの匂いが漂う内部は、目が慣れたら、びっくりするほど広いが、参拝者はほとんど見えない。真ん中に三世仏と四代目世祖サキャ・パンディタと五代目のパスパの塑像が安置され、高さ十メートルもある天井は数十本のふとい柱で支えられている。そのうち真ん中の四本柱は特に太く、それぞれ「フビライからの贈り物」「トラから運ばれた贈り物」「海神からの贈り物」「ヤクが角で運んできた贈り物」と名づけられている。
 寺内のいたるところに壁画修復のための足場がかかっており、数人の作業員が明かりの中で絵の具を手にして修復作業に取りかかっている。壁画にパスパの画像もあるし、サキャ・パンディタが涼州に赴き元朝への帰属の条件について協議したチベット史上における重要事件を描いた場面もある。寺に所蔵される大量の経典は二万四千帙を超え、貴重な貝葉経なども含まれるほか、精美きわまる壁画やタンカ、歴代の皇帝から贈られた法衣や法器など、枚挙にいとまがない。まさに「芸術の宝庫」そのものであり、「第二の敦煌」と言っても過言ではない。
 寺院から出ると、石を割る音と一緒に掛け声の歌が伝わってくる。その旋律はハッとするほど美しい。文化大革命の破壊によって廃墟となったサキャ北寺を再建するための作業だそうだ。歴史は流れるままにしておいてもいいのではないか。破壊された廃墟を元に戻すことにどれほど意味があるのだろう。

「天湖」ナム・ツォ

輝く雄姿を間近に見せたチョム・カン
 

 二十二日。シガツェからラサに向かう途中、ジョグラ峠を越えたら、来た時には曇って見えなかったチョム・カンが太陽の光を受けて燦然と姿を現わした。大きな感銘を受けた。夕刻ラサに辿り着き、ネパール人が経営するキチュホテル(吉曲飯店)に泊まった。
 翌日、体調を整えてバルコルを散策し、チベット入りして始めて「ラサ・ビール」を飲んでくつろいでいるところへ、ゲーサン・ピンツォさんから恐ろしい話を聞かされ大きなショックを受けた。出発のとき、香港の人に横取りされたあの車がジョグラ峠から転落し、香港人は即死、運転手は重傷、車は大破したという……
  二十四日。ゲーサン・ピンツォさんと一緒に日帰りでチベット三大聖湖の一つナム・ツォ(納木錯)に行った。ラサから北へ二百四十キロ、チャンタン高原の東端にあるこの湖は、アムドの青海湖に次ぐ二番目に大きい塩湖だが、標高は四七〇〇メートル以上、世界一高い「天湖」である。チベット神話伝説の中ではよく神の山や聖なる湖が人格化されて登場するが、カン・リンポチェは馬に模されているのに対し、ナム・ツォは羊に模されているので、羊年になるとチベット全土や周辺地域から参拝にくる信者たちが後を絶たない。湖を一週して巡礼すれば、以後の十二年間、聖なる加護にあずかることができるという。

 ナム・ツォは広い。五色からなるタルチョは湖畔で勢いよく風になびき、乱積雲が重たそうに湖面に垂れ込めている。太陽の光や雲の作用によるのか、濃淡異なるグリーンが神秘な変化を繰り返す。合掌する形の奇岩は、あふれるほどのカタ(祝福のスカーフ)で覆われている。ゲーサン・ピンツォさんは石を拾い集めてマニドプン(マニ塚)を積み上げはじめた。巡礼の時に石を積んで祈りを表わすのがチベット人の風俗習慣であるという。ニェンチエンタンラ(七一六二メートル)が雲に隠れて見えなかったのは残念だったが、連なる雪山の麓に広がる草原に、ヤクや羊、馬が悠々とくつろぐ桃源郷さながらの風景には、なんとも言えず心が和んだ。

ラサ→北京
 西チベットの聖域巡礼を終えた。二十五日、空路、ラサから北京に帰ったら、ロシア南部の北オセチア共和国で約四百人の死者を出した学校テロ事件やら、泥沼化したイラク戦争やら、イスラエルとパレスチナの衝突の激化やら、悲しい情報がどっと押し寄せてきて、愕然とした。しかしその中に、今年の国慶節に、インド軍が中国建国五十五周年を祝うため、わざわざカシミールの国境線を越えて挨拶にきたというニュースもあった。もしかして、彼らも中国の国防軍と一緒に、バンゴンツォの裂腹魚を食べたかもしれないな、と思ったらとても愉快だった。
(次回「聖域巡礼〔六〕 シャングリラからラサへ行く」につづく)

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